現代企画室

現代企画室

お問い合わせ
  • twitter
  • facebook

状況20〜21は、現代企画室編集長・太田昌国の発言のページです。「20〜21」とは、世紀の変わり目を表わしています。
世界と日本の、社会・政治・文化・思想・文学の状況についてのそのときどきの発言を収録しています。

太田昌国の、ふたたび夢は夜ひらく[43]韓国における、日本企業への個人請求権認定の背景


『反天皇制運動カーニバル』第8号(通巻351号、2013年11月12日発行)掲載

第二次大戦中に日本企業に徴用された韓国の人びとが、その企業を相手に行なう損害請求訴訟において、請求権を認定する韓国司法のあり方が定着し始めた。この問題をめぐっては、日本のメディアには「国家間の合意に反する」とする意見が溢れている。1965年の日韓請求権協定に基づくなら、請求権問題は解決済みだとするのである。自民党総務政務官・片山さつきは「国家間の条約や協定を無視した判決を出す国が、まともな法治国家と言えるのか。経済パートナーとしても信頼できない。敗訴した日本企業は絶対に賠償金を支払ってはいけない」と語っている(8月21日付「夕刊フジ」)。これは俗耳に入りやすい論理だけに、検証が必要だ。私たちは、複雑に絡み合った歴史を解きほぐす労を惜しむわけにはいかない。いささか長くなるが、この問題を考える前提として、日本の敗戦以降の歴史過程を胸に留め置くべきだろう。事態は、植民地支配に関わる自覚、反省、謝罪、補償を実現できないまま現在に至った、私たちの戦後史に深く繋がるものだからである。

1945年8月、日本は遅すぎた敗戦を迎えた。アジア太平洋の諸地域に全面的に展開した軍隊が「敗退」を始めた後でも、それは「転戦」だと言い繕う者たちが、政治・軍事権力の座にあった。東京をはじめとする諸都市への大空襲と沖縄地上戦を経てもなお「敗戦」を認めようとしなかった支配層は、広島・長崎の悲劇を味わって後にようやく、それまでの「敵」=連合国側が提示したポツダム宣言を受け入れた。しかもそれは、天皇の「聖断」によるものである、とされた。本土決戦は回避された。空襲で焼け野原になっていた東京にあっても、皇居と国会は炎上することはなかった。ヒトラーと同じ運命を天皇裕仁がたどることは避けられた。

天皇は「現人神」から「象徴」に変身して、生き延びた。戦争を推進した多くの官僚も、戦争を熱狂的に支持した一般の国民も、戦争責任を問われることなく、延命できた。「無責任」なあり方が社会に浸透した。植民地は「自動的に」独立した。1953年のディエンビエンフーのように、1962年のアルジェのように、1975年のサイゴンのように、被植民地民衆の抵抗闘争によって日本の植民地主義が敗北した、という実感を社会総体がもつことはなかった。こうして、戦前と断絶することのない、日本の戦後が始まった。

戦後の出発点に孕まれていた「虚偽」は、戦後も継続した。いったんは武装解除され、やがて米国のアジア戦略の変更によって再武装が認められた日本は、基本的には自ら戦火に巻き込まれることなく「平和」の裡に戦後復興に邁進することができた。翻って、近代日本の植民地支配と侵略戦争および軍政支配から解放されたアジア諸地域では、内戦あるいは大国の介入による戦火が長いあいだ途絶えることはなかった。アジア民衆は、日本が戦後復興を経て高度産業社会へと変貌する過程を目撃していながら、日本の植民地支配や侵略戦争に関わる補償を要求する「余裕」などは持たなかった。

1975年、米国が敗退してベトナム戦争は終わった。アジアにおける大きな戦火が、ようやく消えた。加えて、日本の敗戦から45年を経た1990年前後から、右に概観した世界秩序に変化が現われ始めた。他の矛盾をすべて覆い隠していた東西冷戦構造が、ソ連体制の崩壊によって消滅した。韓国では軍事独裁体制が倒れた。アジアの人びとは、ようやく、自らの口を開き、過去に遡って日本との関係を問い直す条件を得た。

旧日本軍の「慰安婦」や元「徴用」工、元「女子勤労挺身隊」の人びとが、日本国家と雇用主であった日本企業に個人として賠償請求訴訟を始めたのは、この段階において、である。サンフランシスコ講和条約や日韓条約は、そもそも、植民地支配の責任を問うこともなく締結された。過去に締結された条約や協定に基づいて自己の権限を主張するのは、どの時代・どの地域を見ても、常に強者の側である。弱者であった側は、別な原理・原則に基づいて自己主張を始めざるを得ない。奴隷制、植民地支配、侵略戦争の責任の所在を問う現代の声には、そのような世界的普遍性が貫いていると捉えるべきだろう。

(11月9日記)

太田昌国の、ふたたび夢は夜ひらく[42]ボー・グェン・ザップとシモーヌ・ヴェーユは同時代人であった


『反天皇制運動カーニバル』第7号(通巻350号、2013年10月15日発行)掲載

ベトナムのボー・グェン・ザップ将軍の死(10月4日)を聞いて、連鎖的にいくつかの思いが浮かんだ。彼の生年は、日本で幸徳秋水ら12名が大逆事件で処刑された1911年であったから、享年102歳であった。太宰や埴谷雄高などと同世代か、と咄嗟に思った(太宰は09年、埴谷は10年の生まれである)。まず、書棚から彼の著作『人民の戦争・人民の軍隊:ベトナム解放戦争の戦略戦術』(弘文堂新書、1965年)とジュール・ロア『ディエンビエンフー陥落:ベトナムの勝者と敗者』(至誠堂新書、1965年)を取り出して、ぱらぱらと頁を繰った。彼は軍人として訓練を受けた人ではなかった。『孫子』やナポレオン戦役記を読んで軍事知識を身につけたとは、有名な逸話だ。ザップ自身の本に関しては、刊行当時も、ソ連や中国の経験の絶対化やマルクス・レーニン主義理論をベトナム的な現実に当て嵌める生硬な論理展開には納得できない気持ちを私は抱えていたには違いない。同時に、1960年代半ば、眼前で展開されている抗米闘争のめざましさを思えば、不可避的にたたかわれていたあの戦争の「正しさ」を、信じるほかはなかった。準備時期を経て1944年にフランス植民地軍とたたかうために結成された人民軍の萌芽が、翌年には占領した日本軍との戦いも強いられていく過程を読めば、(読んでいた60年代半ばの時点で言えば)20年間も絶えることなく続けられてきた武装闘争の必然性が見えてくる感じがした。「ベトナムは勝つにさえ値しない戦争に勝つより米国による占領体制を進んで選択し、日本のような戦後復興を図るほうが賢明だ」とする磯田光一(磯田『左翼がサヨクになるとき』、集英社、1986年)の考えや、「自前で武器を作る能力も持たないベトナムが他国から武器の補給を受けて戦い続けていることのばかばかしさを人類の名において鞭打つべきだ」とした司馬遼太郎(司馬『人間の集団について――ベトナムから考える』、中公文庫、1974年)の意見などは、私には論外であった。

次に思い出したのは、10月9日が46回目の命日だったこともあって、チェ・ゲバラのことである(1928~1067)。彼には、サップの『人民の戦争・人民の軍隊』キューバ版に寄せた序文「ベトナムの指標」という文章がある(1964年)。それも再読した。当時のチェ・ゲバラの発言と行動が私(たち)を惹きつけるものがあったとすれば、それは、さまざまな領域にわたる彼の言動が常に、旧来のソ連型社会主義の枠組みに疑問を呈し、それを乗り越えようとする、あるいは克服しようとする新たな観点を提起していた点にあった、と思える。その彼にして、この小さな論文では、前衛としての革命党と人民解放軍に対する無限定的な信頼は揺るぎない。「党と軍隊の親密な関係」や「軍隊と人民の間の固い絆」に対する確信も、同様である。後代に生きていることで、20世紀型革命の、悲惨な行く末を見届けることになった私たちが、今さら踏みとどまっていてよい地点だとは思えない。

最後に、ふと思いついたことは、自分でも意外だった。シモーヌ・ヴェーユの生年と没年を確かめたくなったのだ。1909~1943年であった。ボー・グェン・ザップより二歳だけ年上である。ヴェーユは極端な短命だったが、第一次世界大戦からロシア革命へ、世界恐慌からファシズムの台頭へと向かう20世紀初頭の30年有余を、ザップとヴェーユのふたりは、直接的な交流はなかったとしても、まぎれもない同時代人として生きたのであった。

1933年末、スターリン体制へと進みゆくロシア革命の過程をすでに同時代的に目撃していたヴェーユは書いている。「ロシアにおける干渉戦争は、真の防衛戦であり、我々はその戦士をたたえるべきだが、それでもロシア革命の進展にとっては越え難い障害となった。恒久的な軍隊、警察、官僚政治の廃止が革命のプログラムであったのに、革命がこの戦争のお蔭で背負わされたものは、帝政派将校を幹部とする赤軍や、反革命派よりもっときびしく共産主義者を殴打するようになる警察や、世界の他の国に類を見ない官僚政治組織なのである。これらの組織はすべて一時的な必要にこたえるはずのものであったが、それがこの必要ののちまで生きのびることは避けられなかった。一般に戦争はつねに人民の犠牲において中央権力を強化する。」(「革命戦争についての断片」、伊藤晃訳、『シモーヌ・ヴェーユ著作集1:戦争と革命への省察』、春秋社、1968年)。

ヴェーユが、例外として挙げる史実は、パリ・コミューンだけである。同時代人ではあったが、異なる条件下の社会に生きて、社会変革の道を探り続けた三人の言動から何を学び取るかは、現在を生きる私たちに委ねられている。(10月12日記)

太田昌国のふたたび夢は夜ひらく[41] 排外的愛国主義が充満する社会の中の異端者


『反天皇制運動カーニバル』第6号(通巻349号、2013年9月10日発行)掲載

仲代達矢の言葉に励まされた。「みんな同じものばかりになったらどうなる? 人と違うものをつくる異端者が、次の世代のためにしっかりしないといけないんです」(八月一六日付け「朝日新聞」夕刊)。出演した最新作『日本の悲劇』に触れての言葉である。映画制作の現場から生まれたものだが、時代状況から見て、普遍性を持つと私には思える。口にするのが、仲代のような「有名人」でなくても、誰であっても、いい。私たちは、いま、このような言葉を欲し、それを自らの内部で確認することが必要な日々を生きているような感じがする。

例えば――本欄では、元東京都知事I・S、現大阪市長H・T、現首相A・Sなどの、人権意識のかけら(ここは「欠片」と漢字で書く方が、言葉の本質が見えやすいようだ)もなく、歴史に無知な連中の言動をたびたび批判の対象としてきた。彼らがその種の発言をしたときには、もちろん、社会のさまざまな場所から、批判の声が上がった(上がり続けている)。人権を尊重する国際的な水準からすれば、そして、地域と世界に生きる異民族同士の相互の関連の中で歴史をふり返り、捉えるべきだという普遍的な立場からすれば、「失格」「退場」でしかない言葉を彼らは吐いたからである。

だが、彼らはいまだに政治の前線にいる。一度は消えたのに、再登場した者すらいる。選挙ともなると、大量得票を得る。すなわち、現在の日本社会の現状では、この傾向を批判する私たちが「少数派」で「異端者」であるかのように、現象している。私にとっては、ずっと以前から「わかりきった」ことではあった。「覚悟」していたことでもあった。いまや、その少数派や異端者をも寛容に包み込む「海」(往年の「前衛主義者」でもあるまいし「人民の海」などという古典的な表現は使うまい)がここまで干上がってきたのである。自分たちの姿を、有明の干潟でのたうつムツゴロウの姿に模してみる。だがムツゴロウには、あの場所で生きる生態的な必然性があろうが、私たちはどうだろうか? その私たちを包囲しているのは、「排外的愛国主義」である。社会的雰囲気としてのこの潮流と、前記の政治家たちの言動とは見合っているから、彼らは「安泰」なのである。

7月29日には、例の麻生発言もあった。桜井よし子が理事長を務める「国家基本問題研究所」のシンポジウムの場に、桜井、田久保忠衛、西村真悟などと共に登壇した時に、である。あまりにも低劣ゆえ、麻生発言の紹介はしまい。後日、麻生は「あしき例としてナチスをあげた」などと弁解したが、元の発言に立ち戻れば、それがまったくの嘘であることは文脈上明らかだ、というに留めよう。問題は、だが、こんな閣僚をすら私たちは即罷免(リコール)することができない状況下にあるということである。

これに先立って4月には、自民党幹事長・石破茂が「改憲成って国防軍が創設された暁には、戦場への出動命令を拒否すれば軍法会議で死刑もしくは懲役300年」と発言した。石破の表現を再現するなら「すべては軍の規律を維持するために」である。石破は、また、災害発生時の非常事態宣言、すなわち戒厳令発令の意図をたびたび語っている。企図されている防衛省「改革」では、これを実現するために、自衛隊の運用業務を制服組の統合幕僚監部(統幕)に一元化する方向が目指されよう。

主要閣僚や与党幹部がこのような「超」歴史的/「超」憲法的発言を次々と繰り出すことによって、この種の「言論」がいまや日常と化した。日常化するとは、それが「ふつうのこと」となること、「当たり前のこと」となることを意味する。それでも、自民党改憲案に基づく改憲へと一気に行き着くことは、「世論」動向を配慮すれば出来ないと知った彼らは、憲法を機能停止させる動きを急速化している。画策されている秘密保全法案は、そのもっとも顕著な表われのひとつである。ここでは、「行政機関の長」と都道府県の警察本部長に、「特定秘密」を扱う者の「適正評価」を行なう大幅な権限が与えられようとしている。

こうして、行政・警察・軍隊という、その本質において「抑圧的」な機構を一体化させて社会の根本的な再編を行なうこと――彼らのでたらめな発言に呆然とし、それを時に嘲笑している私たちの背後に迫るのは、この現実である。(9月7日記)

(追記:本連載のタイトルに因み、藤圭子さんの死を悼みます。)

太田昌国の夢は夜ひらく[39]諜報・スパイ騒動においても、裏面で作用する植民地主義的論理


『反天皇制運動カーニバル』第4号(通巻347号、2013年7月9日発行)掲載

7月2日早朝、いつものようにパソコンでteleSURを観ていた。ベネズエラのカラカスを本拠に発信されているテレビ放送のウェブ版である。ラテンアメリカの数ヵ国の共同出資で運営されている。情報大国の通信社・テレビ局・新聞社に占有されてきた国際問題に関わるニュースを地元から発信しようとする試みで、私にとってはそれだけでも貴重な情報源である。キューバの「反体制ブロガー」として有名なヨアニ・サンチェスが言うような、それゆえに起こり得るかもしれない情報の一面性や歪み(すなわち、政府広報的な性格)は、その受け手が別な局面で対処すべき問題だろう。

この地域では、いま、かつて圧倒的な影響力を及ぼしていた米国の存在感が薄れ、まさにそれゆえにこそ、「紛争」案件が目に見えて減っている。基本的には平和な状態下で、新自由主義経済政策を批判的に克服し、貧困問題の解決を軸とした社会・福祉政策に重点を置く諸政府が成立している。各国間の相互扶助・協働・友好関係の進展もめざましい。個別に見ていけば、コンフェデレイションズ・カップ開催を批判したブラジルの大規模デモに見られるように、それぞれ重大で深刻な問題と矛盾を抱えていることも事実だが、大局を見るなら、なかなかに刺激的な地域だ。つまり、それは、米国による政治・経済・軍事の干渉さえなければ、ある地域一帯の平和と安定がいかに保障されるか、ということを実証しているにひとしいからである。その意味で、20世紀末以降のラテンアメリカ地域は、世界秩序がどうあるべきかという問題意識に照らした場合に、ありうべきひとつの範例である。

さて、7月2日早朝のtele SURに戻る。天然ガス産出国会議が開かれていたモスクワを発ったボリビアのエボ・モラレス大統領の搭乗機がポルトガルとフランスでの給油のための着陸はおろか上空通過も許可されず、オーストリアのウィーン空港に強制着陸させられたとの急報が報じられていた。そのためにきわめて危険な飛行を強いられた、とも強調されていた。理由は、モスクワ空港の乗継地域に留め置かれていた米中央諜報局(CIA)元職員のエドワード・スノーデン氏が、ボリビアへ向かう大統領専用機に搭乗しているとの噂が流れたせいという。

オーストリア当局は13時間ものあいだ離陸を認めず、そのかん機内捜索を要求し続けているとの続報もあった。ボリビア側はこれを重大な主権侵害だとして抗議したが、最終的にはオーストリアの入国管理当局職員が、同機内にはスノーデン氏が不在であることを現認し、エボ大統領はようやく帰国できた。

2004年に発足したUNASUR(南米諸国連合)はボリビア第二の都市コチャバンバで緊急首脳会議を開き、帰国直後のエボ大統領も参加して、今回の事態について検討した。会議の最後に採択された共同声明は、フランス、ポルトガルに加えて同様な態度を示したスペイン、イタリアなど四ヵ国は「21世紀の今日にありながら、新植民地主義的なふるまいをラテンアメリカの一国に対して行なった」ことに関して、公式に謝罪すべきであると要求したが、スペインは直ちにこれを拒否した。スノーデン氏の搭乗に関して信頼に足る情報があったからというだけで、情報源は明らかにしていない。それが、米国政府筋であることを疑う者はいないだろう。7月5日、南米諸国連合の加盟国であるベネズエラのマドゥロ大統領は、人道主義的な立場からスノーデン氏の亡命を受け入れると表明した。同じ日、中米ニカラグアのオルテガ大統領も、「状況が許せば」同氏を受け入れると語った。

今回の諸事態からは、現代の世界地勢地図がうかがわれて、語弊があるかもしれないが「おもしろい」。諜報・スパイ問題は、もっぱら欧米的な文脈の中で語られている。オバマが居直ったように、どこの国だってお互いに同じ諜報作戦を展開しているのだから「おあいこ」だとする「論理」である(その言い分は、戦時下の「慰安婦」問題をめぐる大阪市長Hの言い分に似通ってくるところが、両者ともに、耐え難い)。その論理を貫徹していくにあたって、欧米では(意識的にか無意識的にか)「植民地主義」がはたらき、その身勝手な世界秩序から排除すべき「第三者」をつくり出していることを見抜くこと。ボリビア、ベネズエラ、ニカラグア――今回の事態の裏側を陰画のごとく浮かび上がらせる国名を観ながら、私の頭には、〈奴らの〉それとは異なる世界地図が描かれていく。(7月7日記)

太田昌国の、ふたたび夢は夜ひらく[38]歴史を「最低の鞍部で越えよう」とする論議に抗して


『反天皇制運動カーニバル』第3号=通巻346号(2013年6月11日発行)掲載

学生時代に愛読した文学者、本多秋五の『物語戦後文学史』(1958年から『週刊読書人』に連載。単行本は新潮社、1966年。現在は岩波現代文庫、全3巻)の末尾に、忘れがたい言葉があった。「批評家よ、戦後文学をその最低の鞍部で越えるな、それは誰の得にもならないだろう」というものである。ことは、戦後文学にのみ関わることではない。いかなる対象物であろうとも、論争の相手であろうとも、そのもっとも低い峰においてではなく、最高の(最良の)地点で越えることを呼びかける声として、私は聞き取った。理想主義にもっともよく憧れる若い時代のことだから、自分はこれを原則としたいものだ、と強く思った。その後、私と同世代の人の文章を読んでいて、本多秋五のこの表現に触れた件を何度か見かけた記憶がある。ひとつの時代を画するほどの、深いメッセージ性を帯びた言葉としてはたらいたのだろう。

従軍「慰安婦」問題をめぐって吐かれ続ける有象無象の政治家や評論家たちの言葉を見聞きしながら、不似合にも、本多のこの言葉をいく度も思い出していた。精神の、倫理的かつ論理的な高みを目指すことのない、「下品な」言葉にそれらは溢れていて、本多が呼びかけた志とは対極にあるものとして、印象が深かったからである。ここでは、それらの耐え難い言葉を再現するのは最小限に留めたいが、この現象には「時代の記憶」として再度触れないわけにはいかない。

大阪市長・橋下徹が十年前に出版した本には、次のような件があるという(5月26日付け東京新聞コラム「筆洗」から重引する)――自分の発言のおかしさや矛盾に気づいたときは「無益で感情的な論争」をわざと吹っかける。その場を荒らして決めぜりふ。「こんな無益な議論はもうやめましょうよ。こんなことやってても先に進みませんから」。

橋下は、まさしく一貫して、この「論法」に拠って生きていることがわかる。詭弁やすり替えを批判して、もしかして有効になるのは、相手がそれを恥じて改める精神を持つ場合だけである。橋下のように、それを自分の特技として誇示するような人間に対しては、有効ではない(橋下ほどのあけすけな語り口は持たないが、元首相K・Jや現首相A・Sも思想的に同根であることは、その発言歴を辿ればわかる)。問題は、今回の問題についての橋下の弁明に納得するという人びとが41%も占めるという「世論」のあり方にある(共同通信6月1~2日調査)。関西のテレビ局がわざわざ「大阪のおばちゃん」を登場させて「あの人、正しいこと言うたはんのに、周りが騒ぎ過ぎちがう?」と言わせるところにある。前号で述べたように、「外圧」に「抗する」快感を生きる「国民」が確実に増えているのである。皮相きわまりない歴史観を披歴し、同時に恐るべき排外主義的な言辞をふりまく橋下などの一握りの政治家が、決して「孤立」しているわけではないという点に、現状の深刻さが現われている。

「最低の鞍部を越える」議論の典型は、「戦場の性の問題として女性を利用していたのは日本軍だけではない」という物言いにある。アメリカ軍も韓国軍も同じではないか、といって「おあいこ」にしてしまいたい心根が透けて見える。これは、第二次大戦において国軍が組織的にこの制度(=性奴隷制)をもったのは、日本とナチス・ドイツだけであったという歴史的事実を捻じ曲げる、根拠なき言い草である。「軍に売春はつきもの」という石原発言はいかにも俗情に阿る物言いだが、「慰安婦は売春婦と同じだ」という水準に問題の本質をすり替えて「性奴隷制」の免罪を意図している。他方、石原たちには「売買春は必要だ」という男社会の「常識」が張り付いている。彼らはこの「常識」を「平時」にも「戦時」にも適用する。後者の時代であれば、食糧や物資が集中する軍隊の周辺に群がって生きるしかない一定の女性たちの「強制された生」には、思いのかけらも及ばない地点で、彼らは発言している。

半世紀前の本多秋五の言葉が持った意味をあらためて捉え返し、議論をまっとうな水準に据えなおして、私たちの歴史観・世界観を鍛えたいと思う6月である。(6月8日記)

他者不在の、内向きの「日本論」の行方


『季刊ピープルズプラン』61号(2013年5月30日発行)掲載

安倍晋三という政治家は、首相として初登場したときは「美しい国へ」という言葉で、挫折から5年半後に再登場したときには「新しい国へ」いう言葉で、日本の現状と行く先を語った。そこでイメージされている「日本」とはどういうものかを検討することが、ここで私に課されている問題である。この書のレベルを思って、そんな意味があるのか、とは問うまい。安部の登場と再登場の意味を考えるということは、ここ数十年における保守思想の流れのなかに、なぜ極右派が台頭したのかを考えることである。そのために、時代を少し遡った時点から始めたいと思う。(『美しい国へ』は2006年7月、文春新書。『新しい国へ:美しい国へ 完全版』は2013年1月、文春新書)。

(1)

一時期、私は「右派言論を読む」という作業を続けていた。集中した時期を大まかにいえば、1990年代初頭から21世紀にかけてであったと思う。自分なりに切迫した問題意識に駆り立てられていた。時代背景には、ソ連・東欧社会主義圏の無惨きわまりない体制崩壊があった。それと同時期に起こった東西冷戦構造の崩壊、イラクのクェート侵攻を契機にしたペルシャ湾岸戦争もあった。社会主義の実質的な敗北状況を見て、左派言論はみるみるうちに活力を失った。ソ連型社会主義を、「真の社会主義」の立場から夙に批判してきた者にも、ソ連崩壊はボディブローとして効いてきた。対照的に右派言論は沸き立った。「戦後の論壇は、長いこと、左翼に乗っ取られていた」と、なぜか、誤解している彼らは、ついに「われらの時代」がきたと思っているようだった。以前から、産経新聞社刊の『正論』や文藝春秋刊の(いまはなき)『諸君!』などの月刊誌は、右派言論の場として刊行されていたが、その誌面が格段に活気づいた。だが、傾聴に値する、落ち着いた論調の文章は次第に消え、ともかく進歩派と左翼に悪罵を投げつけて溜飲を下げるといった調子の、極右派の文章が増えた。その意味で、右派言論の質の低下は、隠しようもなく顕わになっていた。

それでも、その種の言論が従来とは比べものにならないほどに社会的な基盤を持ち始めている、という判断を私はもった。とりわけ、漫画家・小林よしのりによる近現代史をテーマにした一連の漫画作品が若者の心を熱狂的に捉えていることを知って、小林が描く世界に関心をもった。そして、いかなる暴論でも、それを受容する社会的な雰囲気があるときはそれを無視して済ませるわけにはいかないという考えを日ごろからもつ私は、「右派言論を批判的に読む」という課題を自分に課したのだった。

切実な課題は、逆の方向からもやってきた。良質な右派言論には、また左翼を罵倒するだけの下品きわまりない文章であっても、進歩派や左翼が持つ論理や歴史観の「弱点」を射抜く論点が、ときに見られた。それはとりわけ、ナショナリズムを問題とするときに否応なく立ち現われた。「左翼ナショナリズム」は、体制側のナショナリズムや、私が批判の対象としていた司馬遼太郎の近代日本の捉え方とも重なり合う貌をもってしまうからである。自分の外部にいる「敵」は撃ちやすい。だが、それが自分の内部にも巣食っているのかもしれないと自覚するとき――そのような「敵」に対しては、避け得ぬ課題として向き合わざるを得ないのである。

このような動機から、前世紀末のほぼ10年間、私はひたすら右派言論を読み、それを批判する作業を行なった。質が著しく低下した文章が載った単行本や雑誌を購入するために身銭を切るという意味では悔しく、それをたくさん読まなければならないという意味では虚しく、だがそれは同時に自分(たち)をもふりかえる作業であるという意味では貴重な試みではあった――と、(個人的にではあるが)今にしてふり返ることができる。

やがて21世紀が明けた。自民党内では傍流であった小泉純一郎という政治家が前面に登場したことによって、「政治」を語る言語状況が大きく変化した。論理も倫理も政治哲学も徹底して欠く小泉用語が、大衆的な支持を獲得するという時代が到来した。非論理的な言葉による「煽動政治」である。それは、前世紀末にメディア上に台頭した右派言論に向き合うこととは別な意味で、虚しさが募る時代であった。言論は劣化し、政治も劣化度を増すばかりであった。野党勢力も、政府に政策論争を挑むよりは、閣僚のスキャンダル探しに明け暮れるようになった。「政治の話題」は、その意味ではテレビといわゆるお茶の間を賑わせたが、それが「政治」の本質とは無関係であることは自明だった。

5年間に及んだ小泉時代が終わって後継者に指名されたのは、これまた時代が時代であれば保守本流にはなり得ないはずの、安倍晋三という極右政治家だった。「美しい国へ」というのが、この男が持ち出した〈政治的〉メッセージであった。その後首相となる麻生太郎も「とてつもない日本」という惹句をもって登場した。いずれも、歴史と現実に向き合う姿勢を放棄したまま、夜郎自大的に「日本」を誇示するという、成熟した大人なら口にするのも気恥ずかしさを伴うような類の表現であった。それを臆面もなく言い立てるところに、この時代の極右保守政治家の幼児性が現われていた。冒頭で触れた右派思想の劣化は、ここまできたのか、と嘆息するほかはない状況ではあった。

だが、改憲の意図を明確にもち、近代日本が歩んだ歴史過程(それを象徴するのは、他国の植民地化と侵略戦争である)を肯定的に解釈しようとする安倍が前面に登場したからには、しかもそれが一定の支持率を獲得しているからには、私は仲間と共にその政治観の空しさに堪えながら、彼の言動への注目を怠ることはできなかった。ところが、安部は病気を理由に1年後には政権を放り出した。多くの予想に反して、短命に終わったのだ。私は、それから数年後の2009年、事後的に安倍政権の性格についてあらためて分析する機会をもった。拉致被害者家族会の元事務局長・蓮池透との間で「拉致問題」をめぐって対話を行なったときのことである。その結果は、『拉致対論』と題して出版されている(太田出版、2009年)。

そのころ、蓮池はすでに初期の立場を離れて、北朝鮮の政府に対して「拉致問題の優先的解決」を譲らない、強硬一本槍の政策を主張する家族会とそれに追従するばかりの政府の路線に対する深い違和感を表明していた。異論を持つ者同士の間にも対話の時期がきたと考えて、私は蓮池に対談を申し入れた。4回に及ぶ非公開の対談においては、「拉致問題の解決のために最も熱心に努力してきた政治家である」との自負をもつ安倍について、語るべき多くのことがあった。蓮池は、安倍に対して「一定の世話にはなった」との思いがあるであろうと考えて、その批判的な分析は私が引き受けた。

安倍は、「政界」の内情を詳しく追跡している上杉隆によれば、内輪の集まりの場では「北朝鮮なんて、ぺんぺん草一本生えないようにしてやるぜえ」とか「北なんてどうってことねぇよ。日本の力を見せつけてやるぜ」といった言葉で強がりをいう人間であった(上杉隆『官邸崩壊』、新潮社、2007年)。首相になってからは、いつでもどこでも本音を口にするという態度を戦術的に止めてはいたようだが、周知のように、1年間の首相在任中に、拉致問題は解決に向けて一歩たりとも進展しなかった。逆に安部にしてみれば、「拉致問題への熱心な取り組み」は、意外な地点で裏目に出た。「拉致には熱心な安倍は、旧日本軍の性奴隷、従軍慰安婦問題の誠意ある解決には、なぜ、熱心でないのか。ひとしく人権侵害問題であるのに」という批判が、米国政府高官や主要メディアから沸き起こったのだ。そのころ、安部の表情は憔悴をきわめているように見えた。前任者が、いつも颯爽たる振る舞いの小泉であったから、それは見事なまでに対照的だった。案の定、数日して安倍は記者会見を開き、病気のため辞任すると語った。

(2)

「美しい国」日本などという、およそ政治とも思想とも無縁なイメージを掲げて登場した安倍は、実際のところ、何に躓いて挫折したのだろうか? 他者不在の、自己中心性がゆえに、である。

短く、安倍の経歴をたどってみる。安倍の述懐によれば、ある家族から、イギリスに留学していた娘が北朝鮮にいるらしいから助け出してほしいとの要請があったのは、彼が自民党所属の国会議員であった父親の秘書をしていた1988年のことである。それ以降、死んだ父親の後を継いで1993年に衆議院議員に初当選する転機の時期を挟んで、拉致被害者家族会と拉致議連が結成される1997年までのおよそ10年間、安倍は確かに、自らが属する自民党の中にあっても「奇異」に見られるほど拉致問題の解明に取り組んでいたようだ。「孤立無援に耐えながら自分だけはいち早く拉致問題に取り組んだ」という自負も顕わな安倍自身の著書を離れて、客観視するために他人の書物も参照してみよう。元共同通信記者で、安倍の父親が現役であった時代から自民党を担当していた野上忠興の著書『ドキュメント安倍晋三――隠れた素顔を追う』(講談社、2006年)を読むと、秘書時代の1988年に拉致事件のことを初めて耳にした安倍が、2002年の日朝首脳会談に至るまでの10数年間に、ただひとつ、この拉致問題を通して、自民党およびその主導下にある政府の中枢に上り詰めていった過程が、よく理解できる。当時としてはめずらしく、自民党の党内秩序である年功序列を壊して、相対的には若かった安倍が森政権(2000年7月)と小泉政権(2001年4月)の二期連続で官房副長官に任命された。それには「運」にも恵まれたと野上は書いているが、この地位に就いていたことが、2002年9月の小泉訪朝の際に、安倍が随行する機会に繋がるのである。

安倍の観点からすれば、小泉訪朝計画は、当時の官房長官・福田康夫と、外務省アジア・大洋州局長・田中均という、いうところの「対北朝鮮融和派」によって推進されていた。拉致問題については何かと口出しする「うるさい」安倍は、徹底して蚊帳の外におかれていた。それは、首脳会談から1ヵ月後に実現した拉致被害者5人の「帰国」後の処遇をめぐる論議の時点まで続いている。今後の交渉を進展させるためには「10日間程度の一時帰国だとする北朝鮮との約束を守る」べきだとする田中=福田ラインに抵抗して、安倍は田中に「あんたは北朝鮮外務省の人間か!」とまでなじって、5人の残留を主張した。安部の主張は、北朝鮮に残る子どもたちを思う苦悩の果てに残留を決意した蓮池薫ら被害者自身の選択と、結果的に合致した。この時点で、安倍は、拉致問題での政策路線をめぐる政府内および党内の闘争に勝利したのだと言える。その背景には、北朝鮮との実効性のある交渉よりも強硬な態度を優先的に求める、戦後最大の圧力団体=拉致被害者家族会の存在がある。その意向を慮って、疑問も批判もいっさい封じ込めて、家族会の考え方に追随するばかりのマスメディアと世論の動向もある。安部がこの時期について、直接的に言及している言葉は少ないが、周辺の関係者は当時の安倍の「余裕ある」態度を語り伝えている。「世論」を味方にしていると確信した安倍が、この上ない自信をもってふるまっていることがわかる。

深刻な問題は、これ以降に起こる。2002年9月の日朝首脳会談以降現在までの11年もの間、対北朝鮮政策は、その時点で融和派に「勝利」した安倍らが敷いた路線上で展開されてきた。民主党政権の時代とて、それに変化があったわけではない。その間に何が起こったのか、と問うことも虚しいほどに事態は何ら動いていない。むしろ、両国間関係は悪化している。自らが政府に強要した路線の必然的な結果とはいえ、拉致被害者の年老いてゆく家族の焦燥はつのるばかりである。

理由は明白だ。「拉致問題の解決なくして国交正常化なし」という、安倍らが主張する牢固たる態度が、問題を解決するためのすべての出口を塞いでいるからだ。安倍は、先述の著書のなかで、「ほんらい別個に考えるべき、かつての日本の朝鮮半島支配の歴史をもちだして、[北朝鮮に対する]正面からの批判を避けようとする」勢力がいることを批判している。安倍は、ついうっかりと、この箇所を書いてしまったようだ。北朝鮮側は、ほんらい別個に考える「べき」植民地支配の清算問題を、当然にも持ち出す。為政者としての安倍は、ほんらい別個に考える「べき」問題については、いっさい言葉を発せず、方針も示さないままでいる。安倍はこの問題を「別個に」考えたことが一度でもあったのだろうか? 拉致と植民地支配という2つの問題は、「別個に」ではあっても「同時に」考える「べき」問題だということは、外交関係の相互性からいって、当然のことである。安倍は、「美しい国」の抽象的なイメージを守るために、歴史に直面することをあくまでも避け続けるのである。

安倍の流儀で「歴史」を語るとすれば、次のようになる。「拉致問題は現在進行中の人権問題であるが、植民地問題や従軍慰安婦問題はそれが今も続いているわけではないでしょう」。「別個に考える」という発言の本音は、ここにある。「現在」と「過去」の間に高い壁を設けて、後者は「考えない」ことにするのである。しかし、歴史に関わる問題は、安倍の皮相な思いを超えて展開する。清算されていない「過去」は「現在」の問題として、人びとの意識と現実の中に存在し続けるのだ。ましてや、安倍は、「清算されるべき過去」を、実は、歴史修正主義の立場から「認めたくない」、できれば「肯定的に捉えたい」「美化したい」という本音に基づいて、非歴史的な思考回路をもつ「美しい国」論者である。そうである限り、「過去」を記憶する者は、「忘却したい」者の追跡を止めることはない。

そのような安倍を待ち構えていたのが、次の矛盾である。2000年に「女性国際戦犯法廷」が東京で開催され、「慰安婦問題」と「昭和天皇の戦争責任問題」が真正面から審理された。この法廷についてNHKが制作した番組内容に、安倍ら「日本の前途と歴史教育を考える若手議員の会」が政治圧力をかけて、当初企画されていた番組内容が改竄された。このように、安倍にとっては、慰安婦制度は「美しい国」神話を守るために国家責任から解除し、あくまでも民間業者や「慰安婦」自身の「商行為」であるという範囲に押し止めなければならない問題であった。マスメディアが総体として、真実・事実を追及する姿勢をとみに失っていく状況の下で、日本国内では、安倍のこの詐術は一定の効果を上げていたのかもしれない。反撃は、思わぬところから跳んできた。米国から、である。『ワシントン・ポスト』などの主要メディア、議会、米国政府内「知日派」からすら、「拉致問題」と「慰安婦問題」(米国では、「性奴隷問題」と呼ぶほうが一般化している)という人権問題をめぐる「安倍晋三のダブル・トーク(ごまかし、二枚舌)」が公然たる批判にさらされたのである。彼は支柱と仰ぐ米国首脳部からの批判に精神的に堪えかねて、そこへ身体的不調も加わって、2007年9月の辞任に繋がった。当時の報道を見聞しながら、私はそう捉えていた。

すなわち、安倍がいう「美しい国」日本は、他者との関係で物事を考えなければならなくなるときに、即座に崩れるしかない程度の、脆弱なものであることを自己暴露したのである。

(3)

作家の辺見庸は、2007年秋、自分が入院している病院の廊下で、みな無言で浮かない顔をした背広の一団に出会った情景を描いている。

「男たちの群れの中心に、糸の切れたマリオネットのように肩をおとし、やつれはてて、生気をうしなった人間の横顔があった。いっしゅんだけ、そのひとと視線が交叉した。と、彼はすぐによどんだ目を伏せた。たじろいだのは、そのひとが体調不良を理由に辞意を表明して間もない首相だったからではない。そのとき、かれがふだんの「凶相」をしてはいなかったことと、すっかりしおたれた男の暗愁に、なんだかこころやすさをかんじてしまって、われながらとまどったのだった」(『水の透視画法』あとがき、集英社文庫、2013年)。

だが、それから5年後の思いを、辺見は続けてこう書いている。「最近、首相にかえり咲いた男をテレビで見たら、以前よりももっとこわい凶相をしていたのでぎょっとした。(中略)この世は、予感のとおり、まっしぐらに黒い地平につきすすんでいる」。

その昔、『政治家の文章』という好著を書いたのは作家の武田泰淳だった。それを読んで以来、私は、政治家の「文章」と、ついでに「面相」も、その人物の真贋のほどを見極める一助として観察するに値すると思うようになった。いまテレビを点け、新聞を開けば、政治指導部には辺見がいう「凶相」が勢ぞろいしている。それらの者たちはこぞって、敵対諸国を前に世界に稀な国として「日本」を誇る言動を繰り返し、閉鎖的な国家意識の中に人びと(国民、と彼らはいう)を閉じこめようとしている。彼らが、ひとり孤立している存在ならばたいしたことではない。辺見がいうように、この世が「まっしぐらに黒い地平につきすすんでいる」のは、この政治勢力が、民衆の無視できない規模の支持を得ているとしか思えないからである。

安倍を含めて卑小な国家指導者は、18世紀末以降ヨーロッパに構成され始めた近代的国民国家の枠組が永続的に続くものであるかのように、ふるまう。だが、1991年12月のソ連邦の崩壊は、現状では多くの人びとがこれなくしては生きてはいけないと考えているのかもしれない「国家」というものが、いかに脆く、儚いものであるかを証明した。「9・11」以後や「3・11」以後の国家社会のあり方をふりかえるとき、とりわけ論理も倫理も欠いた国家指導部を見ていると、これほどまでに理念的に貧しい連中に牛耳られている「国家」など、早晩崩れ去るほかないのではないか、人類は「国家」とは別な社会組織をつくらなければならないのではないか、という思いがこみあげてくる。

もちろん、国家を即時廃止することはできない。だから、「国家」の枠組みを尊重しながらも、各国の社会的在り方に規制を掛ける国際条約の試みが1960年代から着実に続けられてきた。私の関心の範囲で、ごくかいつまんでいくつかを挙げると、以下のようなものがある。「国際人権規約」「経済的、社会的及び文化的権利に関する国際規約(A規約)」と「市民的及び政治的権利に関する規約(B規約)」(1966)、「死刑廃止国際条約」(1989)、「組織的強姦、性奴隷、奴隷用慣行に関して被害者個人及び国家の権利及び義務を平和条約、協定などの手段によって国際法上消滅させることはできないことに留意する決議」(1999)、「先住民族権利宣言」(2007)などである。このリストは、長く続く。そして、これらの国際規約の精神をそれぞれの国で実効あるものにするためには、まだ長く歩まなければならない道程もある。だが、これは、国民国家の内向きの強制力が弱まってきたことを背景にもつ、主要には「人権」をキーワードに、国家を超えた共通の価値観をつくり出そうとする努力の表われである。

世界の、この大きな流れを見るとき、特定の「国家」の歴史、伝統、文化などに意味なく拘泥し、他者との関わり/関係性のなかで己を見つめる契機をもたない世界観を待ち受ける運命は明らかだろう。安部晋三の「日本論」を、そんな時代の仇花として、支配層ではなく民衆レベルの「国際化」の流れの中で、泡と消し去ること――それが、東アジアと世界に安定的な平和をもたらすために、私たちが担うべき「国際連帯」の課題である。

【付記】この文章の一部に、最初の安倍政権が成立した直後に書いた、私の以下の文章から流用した部分があることをお断りします。『「拉致問題」専売政権の弱み』(派兵チェック編集委員会編『安倍政権の「戦う国づくり」を問う』、2007年4月)

(4月17日記)

太田昌国のふたたび夢は夜ひらく[37]「外圧」に「抗する」ことの快感を生き始めている社会


『反天皇制運動カーニバル』第2号(通巻345号)(2013年5月14日発行)掲載

5月4日付けの北海道新聞は、「3日に政府関係者が明らかにした」というニュース源で、以下の記事を一面トップに掲げた。現首相は2015年に「戦後70年」の新談話を発表することを目指している。その際、「戦後50年」を迎えて1995年に発表された「村山談話」に盛り込まれた「植民地支配と侵略」を認める文言を使わない意向である。アジア諸国に「損害と苦痛を与えた」「反省とお詫びを表明する」という意味では、村山談話と2005年小泉談話の精神は基本的に引き継ぐものの、「植民地支配と侵略」の言葉は避けて、今後のアジア諸国との友好関係を主眼とする「未来志向」の内容に書き換えたいと考えているというのが、この記事が伝えたことである。

伏線はあった。4月22日の参院予算委での質疑である。首相は、民主党の白真勲議員への答弁で「安倍内閣として、(村山談話を)そのまま継承しているわけではない」「戦後70年を迎えた段階で、安倍政権として未来志向のアジアに向けた談話を出したいと考えている」と語っている。この答弁の裏に隠された真意を探っていたジャーナリストの、いわゆるスクープが、冒頭で触れた道新の記事だったのだろう。

あの男は2年後も政権の座に就いているつもりなのか!――私たちにとっては、悪い冗談としか思えないことも、メディアが行なう世論調査なるものによって高い支持率を得ているからには長期政権が可能だと確信しているらしい本人とその取り巻きには、内心ほんとうに期するものがあるのだろう。前例はある。2001年から06年まで首相であったK・Jも、その新自由主義政策の無責任さにもかかわらず、高い支持率を誇っていた。国会で野党議員が同首相の政策を厳しい言葉で追及すると、当該議員の部屋には「いじめるな」という電話やファクスが、文字通り殺到したと言われた。新聞・テレビも同様であり、それらは、首相に批判的な発言を行なうと抗議の電話とファクスが来るだけならまだしも、購読者数や視聴率の急低下となって如実に反映すると言われたものだった。メディアが権力に対する批判精神を、今までとは格段の差で、急速に失い始めたのは、この時を境にしてであった。

当該の政治家は、もちろん、その言動のすべてにおいて、愚かにも程があるというべき人物だった。メディアの竦み方・怯み方もひどすぎた。だが、なんのことはない、「民意」なるもの、「世論」なるものが、そんな水準で表現される時代が来たのである。そんな時代を作り出してしまったのである。私たちの社会は、派手な言動をする笛吹き童子が現われると、その笛につられて(それが、集団自殺への道だとも知らぬ気に)奈落の底へでも、海の中へでも、喜んでついてゆくようになった。現首相をめぐって立ち現れている昨今の政治的・社会的風景に既視感をおぼえるのは、これが、K・J時代の再現に他ならない一側面をもつからである。

現首相A・Sは、前回首相であったときには、拉致問題と「慰安婦」=性奴隷問題に二重基準を設け、前者の追及には熱心だが後者の国家責任はできる限り低く見せようと腐心することの矛盾を米国政府首脳や同メディアに突かれ、自滅した。日米安保体制に絶対的な信頼感をもち対米追随政策を展開しながら、歴史的には、米国との全面戦争にまで至った戦時過程や他ならぬ米国の主導性にも与かって形成された「戦後レジーム」に関しては米国指導部の意にも反する再解釈を行なおうとすることの、絶対的な矛盾に自縄自縛されたからである。再登場して以降は、当初こそ、官房長官を盾にしたりしながら、本音を公言することはなかった。だが、地金は隠しようもなく、出てきた。「侵略の定義は、学会的にも国際的にも定まっていない。国と国のどちら側から見るかで違う」(4月23日)とまで、A・S自身が語り始めた。これに対して、近隣アジア諸国からはもちろん、欧州メディアや米国議会・政府の元高官・メディアなどからも「懸念」の声が上がり始めている。

問題は、ナショナリズムに席捲されているこの社会は、いま、自浄能力を欠いた状況にあるということである。「外圧」があればあるほど、これに「抗する」ことへの快感を生きるという一定の雰囲気が醸成されており、それがA・Sを支える社会的基盤である。自らの非力を託つようだが、私たちが抱える問題はそこへ立ち戻ると思う。

(5月10日記)

アルジェリア事件の先に、何を視るのか


『スペース21』第74号(2013年3月発行)掲載

今から半世紀前の1960年代、アルジェリアから届くニュースは、「時代」の希望の証しのひとつだった。植民地解放闘争を弾圧するために現地に送り込まれたフランス軍の内部からは「祖国に反逆する」脱走兵が次々と生まれていた。解放戦線側は、戦闘で捕虜にしたフランス兵が負傷していると手厚く看護したうえで本国に送り返すという人道主義的な姿勢を明確にしていた。フランツ・ファノンの目の覚めるような帝国―植民地論も、アフリカ革命論も、他ならぬアルジェリアの闘争を源泉として発信されていた。ほぼ同じ時期に解放を成し遂げたアルジェリアとキューバの間では、あの時代の中では突出した国際主義的団結が実現しているように思えた。

いたずらに、過去を美化するのでも懐かしむのでもないが、半世紀後のアルジェリアから届くニュースは、寒々しい。今回の天然ガスプラントでの襲撃・人質事件を引き起こしたイスラーム聖戦主義集団にしても、これを暴力的に鎮圧した政府にしても、国の内外の人びとの心に響くようなメッセージのひとつでも発しているわけではない。1990年代、複数政党制に移行したとたんに15万人もの犠牲者を生み出すことになる、血を血で洗う凄惨な「暴力の時代」をこの国は経験した。今回は、プラントで働く多国籍の人びとが関わり合いを強制されたぶん、事態が国際化して見えているだけだ。もちろん、ここに、グローバリゼーション時代の、国境を超えた労働力移動という問題を見出すことはできる。武装集団が、フランス軍のマリ撤兵という要求を掲げていたことも、無言に近かった彼らのメッセージとしては唯一注目すべきことだ。

だが、BPという英国資本と日揮という日本資本が関わってきた天然ガス開発が孕むかもしれない問題点が、武装集団から、ましてやアルジェリア政府から指摘されているわけでもない。行為の主体が問題提起を怠れば、事態の本質は浮かび上がらない。言葉を伴わなければ、何らかの行動が本来的に孕むべきメッセージ性は、他者に伝わらないのだ――「9・11」がそうであったように。今回のアルジェリアの場合でいえば、開発された資源は、地元と多国籍企業の間で「対等に」分配されているかという問題が見えてはこない。帝国の内部にあっては、第三世界に対する自国企業の進出は「無償の贈与」のような思い込みがあるだけに、事態の奥行に手が届かないままに、事件の悲劇性はいっそう増すばかりである。

日本のメディアではあまり浮かび上がってこない問題に触れておこう。2010年暮チュニジアに始まる「アラブの春」以降の激動の中で、独裁体制が崩壊したのちに旧政府軍の武器庫から大量の武器が武装集団に渡ったことの指摘は多々ある。私は、アフガニスタンとイラクという、「9・11」以降「反テロ戦争」の標的とされてきた国々が、アフリカ北部と地形的に一続きであることに注目したい。これに「海賊退治」の標的=ソマリアや、この地域最大の暴力装置を有するイスラエルなどの国名を加えるならば、ここ十数年もの間、この地は大国主導の下で激しい戦地であり続けてきたことがわかる。暴力の「旨味」は感染する。超大国を中心として諸国家が実践してきた戦争による地域支配の現実を見て、これを真似する武装集団が次々と生まれたのだ。国家暴力を「テロ」の範疇から取り除き、非国家集団の行為だけを「テロ」と呼ぶご都合主義の破綻を、今回の事態は示している。

したがって、今回の事態から引き出すべき教訓は、「テロ」や紛争に武力で対抗することの危うさである。現政府は、自衛隊法を改訂し現状では認められていない「邦人保護のための陸上輸送」を可能にする方針を固めた(2月21日現在)。この先に展望しているのは武器使用基準の緩和だろう。非国家集団を相手に「対テロ戦争」なる非対称的な戦いを続けることの過ちを知ろうともしない者たちは、こうしていつも、火事場泥棒的なふるまいに終始する。先に待ち受けるのは、困難な問題を解決する手段として「軍事」に当たり前のように頼る、米国やフランスのようなありふれた国家の姿である。(2月22日記)

イラク戦争10年、福島原発事故2年、安倍政権成立の現在とは


『反改憲運動通信』第8期第15号(2013年2月発行)掲載

ラテンアメリカの現代小説の中には「独裁者小説」の系譜とでも名づけるべき優れた作品群がある。いつの時代にか実際に存在したどこかの独裁者をモデルにして、その治世下ではいかに摩訶不思議な支配が貫徹していたものか、どれほどの抑圧が、不条理にも体制そのものと化し、民衆の意識の中にも当たり前のこととして浸透していたか、を作家の想像力もまじえて描くのである。作品それ自体はフィクションとして読まれるべきものであっても、引かれるエピソードは限りなく現実に近いと思われる場合が多い。独裁者に共通するのは、「実際に起こったこと」を「なかったこと」にしてしまう力である。その力は、もちろん、絶対的権力の行使によって担保されている。たとえば、警察と軍隊を動員して数百人の人びとを虐殺しても、そんな事件はどこでも起こらなかったことにしてしまう、というように。時空を異にして読む日本の私たちは、まさかこんなことがあるなんてとか、いくらなんでもフィクションだよねとか、あゝこんな国に生まれなくてよかったとか、日本に生まれて幸せだったなどと、もしかしたら、思ったりするのである。

返り咲くべきではなかった安倍晋三の所信表明演説(2013年1月28日)を読みながら、刊行される都度読み耽ってきたその「独裁者小説」を思い出した。安倍は「独裁者」ほどの大物ではない。ラテンアメリカの軍人政治家なら長けているレトリックの冴えもないから、「美しい国」とか「世界一を目指していこう」とか「強い日本」とか、今どきの小学生も言わないような幼稚で、空疎で、かえって聞く者の顔が赤らむような言葉をしか使えない。その意味でも、あの地の独裁者とは似ても似つかぬ者である。しかし、安倍は、つい2年足らず前に起きて、今なお多くの人びとを現に苦しめ、不安な気持ちにさせている重大な出来事に一言も触れないで所信を語る、という離れ業をやってのけた。「大震災」には触れた。政策的にではなく、被害者の少女の言葉を引きながらセンチメンタルに。だが「原発」の「ゲ」の字も、その演説にはなかった。つまり、原発事故などというものは実は福島で起こってもいなければ、脱原発か原発継続かをめぐって社会を二分するような争いなどはこの社会の何処をさがしても見当たらないと、政治家=安倍は言外に語ったと同じことになる。実際に起こったことを無きに等しいもののように扱うこと――安倍は、その点においてのみ、かの小説群に描かれた独裁者に似通ってくる。

独裁者は、本来なら叩きやすい。独裁下の言論の不自由さを掻い潜って、地下潜行した風刺言論が栄えた例は、古今東西多々ある。だが、独裁制なき日本のメディアはおとなしい。「言論の自由」は、所与のものとして存在しているのではなく、日々の表現実践によって獲得されるものだとの自覚がないのかもしれぬ。「被災」した福島には触れても、それを「原発」抜きで行なうことによって、「あるようでないような」福島をしか、安倍は語らなかった。にもかかわらず、その不誠意を厳しく指弾するメディアの声は小さい。はて面妖な。時たま現われる一部のジャーナリストによる果敢な報道を除くと、マスメディアは巨大な、沈黙のブラックボックスと化したかのようである。それは、人びとをして「あった事実を、ないものと思わせる」には、実に好都合な仕掛けだと言わなければならない。件の小説群に描かれた独裁者と違って、安倍は、表現弾圧の装置なしに、それと同じ効力を持つ「メディアの沈黙」という武器を所有しているのだと言える。

また、安倍晋三は、選挙とは関係のない時期や内向きの会合などでは言いたい放題にしている言動を、選挙演説や国会内では情勢を読みながら封印したりもする。政治家とはそんなものだとは言えるが、安倍の場合はその振幅があまりに激しいので、六年前の前回はそれが命取りになったのである(詳しくは、蓮池透+太田昌国『拉致対論』、太田出版、2009年、を参照。私はこの本で安倍にレッドカードを出したつもりでいたから、その復帰は「衝撃」だった)。今回も、選挙前には公言していた旧日本軍「慰安婦」問題に関わっての河野談話見直し方針は、直ちに米国の主要メディア・政府筋・議会からの批判にさらされていることから、前回の轍を踏むことを避けるためにそれを貫くことに逡巡のさまが見えないではない(1月31日現在)。もちろん、本音は維持しつつ、擬態によって批判をやり過ごすためにだけ。

だが、安倍は、現状のメディアと右派的「民意」の中でかつてほど孤立してはいない。それは、12年末総選挙の結果が示した現状維持派の著しい台頭によって証明されている。この場合の現状維持とは、政治的に言えば、日米安保体制を肯定し、中国・韓国・北朝鮮の「脅威」に対抗するために自衛隊のより一層の浮上を待望し、沖縄・福島は中枢部の犠牲にさらされているという「植民地主義」論に基づく捉え方を歯牙にもかけない考え方の謂いである。それはまた、ペルシャ湾岸戦争以来20数年をかけて、またアフガニスタン、次いでイラクに対する一方的な攻撃の開始以来10数年をかけて世界的に制度化された「反テロ戦争」の「大義」を背景に持つ意識である。

一定の時間をかけて人びとの裡に内面化した意識を変えることは容易なことではない。幼い子どもに向けて乱射された銃の規制を求める声は、自国が他所で日々実践している無人爆撃機による攻撃をはじめとするすべての殺戮を中止する声には繋がらない。自らの生活と実存を脅かす原発を怖れこれに反対する気持ちが、自国の行なおうとしている原発輸出に反対し抗議する声となって広がっていくことは稀だ。

こうして、イラク戦争10年、原発事故2年を経て安倍政権成立にまで至ったわが社会は、独裁制が存在しないのに、メディアと民衆が自ら進んで批判精神を失い既成秩序の護持に堕している点で、傍からは摩訶不思議にしか見えないだろう。私たちが生きているのは、そんな危機の時代である。

(2月2日記)

太田昌国の夢は夜ひらく[34]銃を「内面化」した社会と、銃の放棄を展望する運動


『反天皇制運動モンスター』第35号(2013年1月15日発行)掲載

昨年の暮れも押し詰まった12月14日、米国東部コネティカット州の小学校を現場にした銃の乱射事件は26人の犠牲者を生んだ。その多くは子どもであった。そのため「クリスマスを目の前にして」という情緒的な反応も含めて、日本でも大きく報道された。オバマ大統領も直ちに記者会見を行なったが、途中で声を詰まらせ涙を浮かべる様子も、事細かに報じられた。大統領は、銃規制の方針を打ち出しているが、もちろん、これに反対する銃ロビー団体=全米ライフル協会(NRA)の動きもあって、前途は予断を許さない。

それにしても、この光景を何度見てきたことだろうか。私の世代なら、60~70年代にベトナムの戦場に派遣されていた帰還兵が、次々と引き起こした乱射事件を思い起こす。生まれついての軍人ではなかったどこにでもいる若者が、兵士になってアジアの人間に対する人種差別意識に基づいた殺人訓練を受けたのちの数年間を戦場で過ごし、やがて帰国できたとしても、彼はもはや、かつて市井に生きていたころの彼ではない。彼は、自らが他国の戦場にいて揮った無制限の暴力を自国へ持ち帰るほかないのである。そのことを、ダグラス・ラミスは「戦争が帰ってくる」と、的確にも名づけた。

今回事件を引き起こした人物は元軍人ではないようだ。だが、3億丁の銃がひしめくと言われる米国社会である。「銃の所有は開拓以来の自主独立精神の象徴だ」とするNRAの主張が、むごい乱射事件が起きたときだけ「銃規制派」に中途半端に転向するオバマ的な人物を含めた広範な人びとの支持をふだんは受けているからこそ、この現実が生まれていると解釈すべきであろう。オバマは、確かに、城内秩序を乱した実行者には怒りを見せ、いたいけな犠牲者を悼んでみせた。同時にオバマは、この同じ銃を、否、殺人能力にはるかに長けたミサイルや無人爆撃機を、「反テロ戦争」の名の下にアフガニスタンやパキスタンやイエメンのような城外では使うことをきょうも指令し続けているのである(つい先日まではイラクでも)。銃を何の疑問も持たずに使用することは、あの社会の人びとの中で、価値として「内面化」しているのだ。「内」で起こった殺人事件に涙を流したその日にも、「外」に向けては殺戮指令を出す人物の偽善性は、そんな社会にあっては、経済合理性に基づいた主張を持つ銃規制反対勢力の現実性を前に、膝を屈するしかない。

その米国と国境を接して南に位置するメキシコからの、二つのニュースに注目したい。ここ数年は麻薬をめぐる暴力事件が絶えることはない。麻薬の最大の消費国=米国があってこそ、それに付け入ったマフィアが、コロンビア、ペルー、ボリビア、パナマなどを原産国および経由国として利用してきたのだが、昨今はその最前線がメキシコに移動したようだ。けだし、米国の暴力性は軍事面にのみ現れるのではない。経済的な消費=供給構造を規定する力にも如実に現われる。だが、ここではメキシコ南東部に目を移して、そこからのメッセージに注目したい。マヤ歴に基づいて「世界終末の日」と騒がれた12月21日、高度消費社会の人間たちが好奇心に駆られて、「過去」としてのいくつものマヤ遺跡の周辺に群がった。同じ日、チアパス州で「現在」を生きるマヤの末裔たちは、4万人から5万人とも言われる老若男女の塊となって、主要五都市の中心広場を沈黙の裡に占拠した。全員が黒の目出し帽を被っていた。19年前に、グローバリゼーションの趨勢に異議申し立てを行ない、武装蜂起したサパティスタ民族解放軍(EZLN)の自主管理区に住まう人びとの群れであった。沈黙の広場占拠と行進によって、19年間に及ぶ持久的なたたかいの現状を表現する象徴的な行為であった。武器は捨てて、政治=生活=文化の全領域でこそたたかいを継続したいというその路線を端的に表現したものであった。マルコス副指令の短いメッセージは言う。「関連するひとびとへ 聞こえただろうか? これは君たちの世界が崩壊する音だ。我らの世界が復興する音だ。その日はかつて日中でも夜であった。そして、夜という日は、いつか日が明けるのだ。民主主義! 自由! 正義!」。いかにもサパティスタらしい修辞ではある。

銃の意味を徹底して考えることを放棄している米国社会。武装蜂起はしたが、当初から武器と戦争のない未来社会の夢想を公言していたサパティスタ――去る12月中旬の二つの対照的なニュースは、いずれも深く示唆的であった。(1月12日記)