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状況20〜21は、現代企画室編集長・太田昌国の発言のページです。「20〜21」とは、世紀の変わり目を表わしています。
世界と日本の、社会・政治・文化・思想・文学の状況についてのそのときどきの発言を収録しています。

太田昌国の、ふたたび夢は夜ひらく[52]政府・財界が一体化して進める軍需産業振興の道


『反天皇制運動カーニバル』17号(通巻360号、2014年8月5日発行)掲載

ふだんはまったく関心をもつこともない『週刊ダイヤモンド』の表紙の大見出しに目を奪われた。6月21日号の「自衛隊と軍事ビジネスの秘密」である。読んでみると、経済合理性の観点から問題を捉える記事が多く、時勢に対する批判的な分析がなされているわけではない。それだけに、現状分析としては手堅いのかもしれぬ。この数年をふり返って見ても、『週刊エコノミスト』や『週刊東洋経済』が時折見せる、力のこもった特集記事は、マスメディアがほとんど触れなくなった、この社会の深部で密かに進行する事態を調査報道していて、大いに参考になる。こころして注目したいと思う。

『ダイヤモンド』誌に触発されて、この間の顕著な動きを整理しておきたい。現政権は4月1日、武器の輸出を原則禁止してきた「武器輸出三原則」を廃止し、それを原則解禁する「防衛整備移転三原則」なるものを決定した。6月10日、産業競争力会議に出席した財務相・麻生太郎は、某ベンチャー企業の技術が軍事技術に繋がることを理由に東大が協力しなかったために、同企業がグーグルに買収された事例に触れて、「このような問題が今回改革されるとのことで、期待している」と語ると、6月19日には防衛省が「防衛生産・技術基盤戦略」(新戦略)を決定し、国内軍需産業の強化・支援方針を打ち出した。これまでの武器の「国産化方針」に代えて国際共同開発と輸出を基本指針とすることで、「乗り遅れ」「米国などに大きく劣後する状況」にあった日本の軍需産業の「維持・強化」が可能になると寿いだのである。

時制は前後するが、5月下旬アジア太平洋地域の各国国防相がシンガポールに集まったシャングリラ会議では、解禁される日本製の高性能武器に対する関心が高まったという。加えて6月中旬にパリで開かれた陸上兵器の国際展示会「ユーロサトリ」には、三菱重工業、川崎重工業、日立製作所、東芝などの日本企業13社が出展した。

首相A・Sは世界各国に次々と外遊しているが、その際には常に、経団連会長を含めた大規模な経済ミッションを引き連れていることにも注目しておきたい。7月のオーストラリア訪問に際して合意に至った「防衛整備品及び技術の移転に関する協定」に見られるように、どの国とも「防衛協力の強化」が謳われている。同行している経済ミッションの主流をなしているのは、いままで自衛隊の装備品の生産を担うことで防衛調達上位20社に入ったことのある軍需メーカーである。その幾社は、政府が進める原発輸出を歓迎している原発メーカーとも重なり合っている。

武器輸出解禁は、政府開発援助(ODA)の領域にまで及ぼうとしている。経団連はODA見直し論を主導しているが、その論理は「民生目的、災害救助等の非軍事目的の支援であれば、軍が関係しているがゆえに一律に排除すべきではない」というものである。そこでは「テロ対策、シーレーン防衛、サイバーセキューリティ」などを「国際公共財」と呼んで、それへの参画を提唱している。それは、まぎれもなく、ODAその他の公的資金の軍用活用をめざすものであろう。『ダイヤモンド』誌が、自衛隊将官の天下り先トップの10社が防衛大手と完全に一致していることを暴露している事実にも注目したい。

「金のなる木」=軍需産業の「魅力」は、兼ね備えた論理と倫理において日本の現首相とは雲泥の差のある、非凡なる政治家のこころも捉えて離さない。1994年、アパルトヘイト廃絶後の南アフリカの大統領に就任して間もないネルソン・マンデラは、国連による対南ア武器禁輸が解除された事実に触れて、南ア軍需産業は「もはや秘密の幕に隠れて行動する必要はなくなり、国内外の完全な合法性を得るだろう」と語った。7万人の雇用を生み出している国有兵器公社アームスコールが、「平和と安全に貢献する武器輸出」を保証する自主技術を開発したことを称賛したのである。マンデラですらが、国を率いる政治家としてはこの陥穽に陥ったことを思えば、人類がたどるべき「武器よさらば」の道が、いかに長く厳しいそれであるか、ということがわかる。それだけに、それぞれの時代を生きる人間に、その時代の諸条件に制約されながらも、「軍需と軍隊」の論理から抜け出る努力が要請されるのである。

(8月2日記)

太田昌国の、ふたたび夢は夜ひらく[51]「自発的服従」の雰囲気の中で


『反天皇制運動カーニバル』第16号(通巻359号、2014年7月8日発行)掲載

新聞を読むのが怖くて、見たくないものを見るように、そうっと開く。「集団的自衛権の行使容認を閣議決定する」動きに抗議するために人びとが詰めかけた首相官邸前で、久しぶりに会った友が、そう言った。この一年間くらいか、私も同じ気持ちで日々を送ってきたし、親しい友人・知人の口から同じ台詞を聞いていたこともあって、一も二もなく共感した。新聞を丹念に読む習慣と熱意が薄れた。論理なき/倫理なき政治家の言動に、目も潰れる思いがするからだ。社会の基層に、これに対する抵抗力・批判力があるなら、まだしも、よい。それもまた儚いものであることが、メディアの在り方からも、社会の雰囲気からも察知できる。私たちは、そんな奇妙で、不気味な時代を生きている。

1990年代、私は『正論』や『諸君!』の誌面を占領していた右派言論を読んでは、これを批判する課題を自分に課した。右派言論は、ソ連型社会主義の敗北に乗じて、舞い上がっていた。彼らは、人類史がたどってきた歴史過程それ自体の内省的なふり返りを拒絶し、「勝利した」と彼らが豪語する資本主義が生み出している諸矛盾に対しても、目を瞑った。とはいうものの、私は同時に、広い意味で「社会主義的未来に加担してきた者」が、その敗北と向き合い、その克服のために努力しなければ、この困難な状況を突破することはできないことも、確信していた。誌面には、ほら、あいつは棄教して総括もしないまま逃げ去った、こっちの奴は失語症に陥っている、との揶揄が溢れた。元左翼が沈黙する間隙をぬって、自らの国が行なった近隣諸国に対する植民地支配と侵略戦争の史実を微塵も反省しない、かえって、そこに居直り正当化する議論ばかりが展開されていた。

当時その声は確かに大きくなりつつはあったが、まだ社会の片隅だけで語られていた。いまや、多様な変形が凝らされているとはいえ、その声は首相A・Sの声に重なり、各閣僚たちの声にも、政権党員はもとより多数の野党党員の声にも重なる。鶴橋や新大久保の街を震わす声も、その一亜種である。少なくないメディアも、その種の声に占領されている。その点が20年前との決定的な差である。

小泉政権時代に何度も書いたが、論理も倫理も媒介していない議論が横行すると、ひとは疲れる。小泉純一郎はその先駆をなした。それでいて、大衆的な「人気」はあった。多くの人びとがその道を選んだのである。現首相A・Sの場合もそうである。官邸前で会った友や私が罹っている「(新聞やテレビを)見聞きしたくない」病は、その疲れのせいだと思われる。理性は、別な道を歩めと囁くが、そんなものやってられるかという感情が勝る。街にあふれ出て「マルスの歌」を高唱する者たちには、当然にも、目を覆い耳を塞ぎたくなるのだ。

こころに鞭打って、「集団的自衛権の行使を容認する閣議決定」全文と首相の会見要旨を読む。紙面の一頁を覆い尽くしている。突っ込みどころは、あちらこちらにある。すでに多くの人びとがそれぞれに的確な批判をしている。だが、〈対話〉や〈討論〉の意味も知らず、論理も倫理も持たない人間だからこそ、A・Sはあの空虚な言葉を羅列することができた。恬として恥じることもなく。だから、どんな批判も通じることはない。

せめて〈討論〉に持ち込めるなら、A・Sの論理的な破綻はすぐに露呈する。議会がしかるべき野党を欠くことで〈討論〉の機能を失っていることは重大な欠陥だが、今後国会に提出される自衛隊法や周辺事態法などの「改正」案の討議の過程で、あるいは質問時間が極端に制限された記者会見の場で、A・Sの発する言葉がどんな事態を招き得るか――その可能性をあらかじめ放棄することもない。彼は自分のこの「欠如」を自覚しているからこそ、〈討論〉を避けるのだから。

正直な気持ちを言えば、小泉政権の時代もそうだったが、こんな水準の首相を相手に物言うことは虚しい。なぜか、こちらが恥ずかしくなってしまいさえする。だが、いまこの社会を支配するのは、このような大嘘を弄ぶ人間に対して「自発的に服従」(ラ・ボエシ)するかのような社会的な雰囲気である。私たちは、安倍一族批判を行なうことで、社会的に実在するこの雰囲気との〈討論〉を行なっているのである。ならば、それは、もちろん、むだなことではあり得ない。

(7月5日記)

太田昌国の、ふたたび夢は夜ひらく[50]日朝合意をめぐって、相変わらず、語られないこと


『反天皇制運動カーニバル』15号(通巻358号、2014年6月10府発行)掲載

5月末、スウェーデンのストックホルムで開かれていた日朝両政府の外務省局長級協議が終わると、メディアは一斉に「焦点だった拉致問題の再調査については合意に至らず」との報道を行なった。加えて、日本側担当者は「相手方は拉致問題についての議論を拒否する姿勢ではなかった」と語り、朝鮮側は「朝鮮総連中央本部問題は必ず解決しなければならない」と強調したことも報道された。目に見える成果が得られなかったらしいことから、拉致被害者家族会メンバーの「落胆ぶり」も伝えられた(以上はいずれも、5月29日付各紙朝刊。テレビ・ニュースは見るに耐え難いので、第二次現政権が成立して以降、ほとんど見ない)。二国間協議である以上は「焦点が拉致問題」であるはずはなく、「国境正常化問題」だと捉えるべきであろうが、そのような姿勢を、政府・外務省、メディア、「世論」なるものに期待することは、今さら、できるものではない。

このような新聞報道がなされた同じ日の夜、帰国した外務省担当者から報告を受けた首相は、急遽、記者団に会い、「拉致再調査で日朝が合意し、その調査開始後に日本側が課してきた制裁を解除する」ことで一致をみた、と語った。首相のイメージ・アップにつなげようとするメディア戦略はありありと窺われるが、「合意」それ自体は好ましいことには違いない。そのうえで、どんな問題が残るかについて考えておきたい。

日朝協議合意事項全文や朝鮮中央通信による報道全文を読むと、今回の合意が、2002年の日朝平壌宣言を前提にしていることは明らかである。その指摘が、新聞報道の中にも、ないではない。たとえば、5月30日付朝日新聞で平岩俊司関西学院大教授が寄せているコメントのように。だが、日本での報道は、ほぼ「拉致一色」状態が、変わることなく続いている。この日、サンプル的に見たテレビ・ニュースのいくつかにも、その傾向が色濃く出ていた。それは、「報道側」が抱える問題点に終わるわけではない。29日の首相発言そのものに孕まれている問題である。「拉致問題の全面解決は最重要課題の一つだ」とする首相は、「全ての拉致被害者の家族が自身の手でお子さんを抱きしめる日がやってくるまで、私たちの使命は終わらない」という、得意の〈情緒的な〉言葉をちりばめながら「拉致」のことを語るのみである。官房長官会見の内容は「要旨」でしか読めなかったが、国交正常化にまで至る日本政府の「覚悟」を語る言葉も、それを質す問いかけも見られない。要するに、この社会には、政策・態度を改めるべきは相手側のみである、という牢固たる考えが貫いているのである。

これは、2002年9月17日、日朝首脳会談が行なわれ、平壌宣言が発せられて以降12年間にわたって日本社会を支配してきた「空気」である。歴史過程を顧みての論理にも倫理にも依拠することなく、いったん、この不気味な「空気」に支配され始めると、社会はテコでも動かなくなる。私は、2003年に刊行した『「拉致」異論』において、拉致問題に関わっての朝鮮国指導部の政治責任にも言及しながら、「相手側に要求することは、自らにも突きつけるべきだ」と主張した。拉致問題の真相究明と謝罪を相手側に求めるのはよいが、その前提には、植民地支配問題に関わる真相究明と謝罪・補償を日本側が積極的に行なわなければならないという課題が、厳として存在しているのだ。その構えが日本側にあれば、この12年間がこれほどまでに「無為」に過ぎることはなかっただろうというのは、私の確信である。ところが、家族会は「拉致問題解決優先」という、非歴史的な、いたずらな強硬路線を主張した。政府もメディアも「世論」も、家族会の方針に〈情緒的に〉反応するという「安易な」態度に終始した。したがって、相手側の「不誠意」や「不実」や「不履行」を言い立てるばかりで、自らを省みることのないままに、歳月は過ぎたのだ。この「空気」に助けられて、辛うじて成立している現政権が、今回の日朝合意から実りある成果を得るためには、自らが何を発言し、何を果たさなければならないかという「覚悟」が要ることは自明のことである。だが、それを指摘する者はごく少数派で、この社会は変わることなく「自己中心音頭」を歌い痴れ、踊り痴れるばかりである。

(6月7日記)

太田昌国の、ふたたび夢は夜ひらく[47]「真実究明・赦し・和解」の範例を遠くに見ながら


『反天皇制運動カーニバル』12号(通巻355号、2014年3月11日発行)掲載

状況分析のために必要性を感じて、昨年12月上旬の特定秘密保護法案成立以後、14年3月上旬の現在にまで至る3ヵ月間の「東アジア日録」を整理してみた。東アジア諸国の多国間関係に深い影響を及ぼす事項に限定した。日付を入れて1行40字でまとめていくと、たちまちのうちに70行を超えた。もっと丁寧に拾うと、100行なぞ優に超えてしまいそうな勢いを感じた。上に述べた限定的な観点で事項を絞り込んでも、ほぼ連日のように、どこかで何事かが起きていることを、それは意味している。別に生業をもつ、市井の個人が整理するには、その能力を超えた情報量である。その意味では、そんな個人でもある程度まではまとめることができるという点で、パソコンの威力を想った。

日本で目立つのは、戦後最大の岐路というべき時期を自らが思うがままに突き進む現首相A・Sの言動、加えてその取り巻きの補佐官や議員と閣僚、さらにはNHK新会長+経営委員らのふるまいである。靖国神社参拝、解釈改憲によって集団的自衛権の行使を可能にするための策動、旧日本軍「慰安婦」や南京虐殺をめぐって歴史を捏造する発言、学習指導要領解説書での「領土教育」の強化指針、巷にあふれ出るヘイトスピーチ――どれを取ってみても、すべてが周辺諸国民衆と為政者の神経を逆なでせずにはおかない方向性をもっている。それに反応するかのようにして、韓国・朝鮮・中国での動きが伝わってくる。私の考えからすれば、後者の言動のなかにも政府レベルであれ民衆レベルであれ、日本で噴出する醜悪なナショナリズムに対してその水準で対抗しようとするものも散見されないことはない。特に政府レベルでは、日本の場合と同じように、自らが生み出している国内矛盾から民衆の目を背けさせるために「外なる敵=日本」の存在を大いに利用している権力者の貌が見え隠れしている場合がある。それは、私の心を打たない。だが、まず変革されるべきは、日本の現為政者にみなぎる植民地支配と侵略を肯定する歴史観であり、同時にそれを陰に陽に肯定する社会全般の雰囲気であるという私の捉え方からすれば、他国のナショナリズムが「第一の敵」として登場することはあり得ない。言葉を換えるなら、国家間の歴史問題に関して、加害国側がその自覚を持たないふるまいを続ける、否むしろ現在の日本のように居直り、過去を肯定する態度を続ける限りにおいて、被害国側にそれを超える論理と倫理を求めることはできないというのが、「国家」に拘りそれを単位として行なわれている国際政治の変わることのない現実だ。ふたたび、別な観点から言うなら、だからこそ、A・Sを首班とする日本の「極右政権」はその政策路線を追求するうえで、緊張に満ちた現在の東アジア情勢(=国家間関係)から十分すぎる恩恵を受けているのである。どの国の民衆であれ、自国と隣国の国家指導者たちが興じる、この「ゲーム」の本質を見抜く賢さを獲得しなければならない。

主題は変わるが『現代思想』(青土社)三月臨時増刊号が総特集「ネルソン・マンデラ」を編んでいる。私も寄稿しているのだが、それを書き、そして出来上がったもので他者の論考を読んで、いちばん心に響くのは、アパルトヘイト(人種隔離体制)の廃絶後のマンデラ政権下で追求されている「真実究明・赦し・和解」への道を模索する姿勢である。「人道への犯罪」と呼ばれたアパルトヘイト体制の推進者――政治家、経営者、警察官、軍人、言論人、市井の人のどれであっても――の罪を告発し追及するのではなく、加害者が「真実」を告白し、被害者に「赦し」を乞い、それが受け入れられ、もって「和解」へと至るという、困難な道を彼の地の人びとは選んだのである。アパルトヘイト体制が内包していた、悪意に満ちた人種差別の本質を思うだに、それは渦中の人びとに(とりわけ被害者に)とって矛盾も葛藤もはなはだしい過程だったに違いない。だが、社会が「復讐」と「報復」の血の海に沈むことがないように、南アフリカの人びとはその道を選んだ。この範例の横に、加害者側からの「真実究明」がなされていない、否、それどころではない、「真実」を捻じ曲げ、隠蔽する動きが公然化している東アジアの実例をおいてみる。身が竦む。

(3月8日記)

マンデラと第三世界 


『現代思想』(青土社)2014年3月臨時増刊号「総特集 ネルソン・マンデラ」掲載

1、武装闘争

ネルソン・マンデラの死が報じられた日、この国では「特定秘密保護法」なる、驚くべき時代錯誤の法案が参議院で強行採決された。これを主導した首相A・Sは、マンデラ逝去への思いを記者団に問われ、「アパルトヘイト撤廃のため強い意志を持って闘い抜き、国民和解を中心に大きな成果をあげた偉大な指導者だった。心からご冥福をお祈りしたい」と述べた。この発言に限らないが、自らが発する言葉の〈白々しさ〉にこれほどまでに無自覚かつ無神経な人間も珍しい。米国大統領をはじめ欧米諸国の政治指導者からも、マンデラ賛歌の言葉が途切れることなく溢れ出た。それは、あたかも、ネルソン・マンデラを27年間ものあいだ、ロベン島の独房やケープタウン郊外のポルスモア刑務所に閉じこめたアパルトヘイト体制を支え続けていたのが、自らが属する日欧米の20世紀資本主義列強であったことなど知らぬ気の、何の痛痒も感じられない、あっけらかんとした言葉遣いでなされた。

マンデラの全体像のうち、自分に都合のよい一部分だけを切り取った過剰な賛辞が氾濫する中で、各国首脳の弔辞においてもメディア報道においても、徹底して無視されているいくつかの史実に注目すること自体が意味をもつだろう。

ひとつ目は、マンデラの初期の出発点を「非暴力主義」の殿堂に封印するのではなく、結果的には未完に終わりはしたが、同時代のフランツ・ファノン、パトリス・ルムンバ、ベン・ベラ、クワメ・エンクルマ、アミルカル・カブラル、そしてチェ・ゲバラなどが、個別にではあったが多様な形で構想していた「アフリカ革命」へと向かう、解放の思想と運動の大きなうねりの中に位置づけることである。同時に、彼が生涯もち続けた「非暴力主義」の信念にもかかわらず、次のような一時期をもったことを、その閲歴の中に刻印することである。

1961年12月16日、南アフリカはジョハネスバーグとポート・エリザベスの発電所、郵便局、官庁など10ヵ所で同時爆発事件が起こった。それと同時に、各地で武装抵抗組織「ウムコント・ウェ・シズエ(民族の槍)」の創設を宣言するビラが貼り出された。前年の1960年3月21日、ジョハネスバーグ南の工業都市フェレニギア郊外のシャープビルでは、アパルトヘイトを支えるパス法の廃止と最低賃金を要求する5000人ほどの人びとが集まっていた。そこへ、警備の警官隊が突然発砲した。発砲は複数回続き、最後は狙い撃ちで、69名が即死、186名が負傷した。平和裡に行なわれていた示威行動が、このような仕打ちを受けたことが、伝統的に非暴力主義を堅持してきたアフリカ民族会議(ANC)が武力闘争に転換した大きなきっかけとなった。武力闘争が行なわれた日の声明は述べている。「われわれは、流血と内戦なしに解放を達成しようと終始努力してきた」が「人民の忍耐には、かぎりがある。いかなる国民の生活にも、ただ二つの選択――屈服か戦いか――以外にない秋がくる」。

マンデラは、のちの法廷で陳述するように「ウムコント・ウェ・シズエの創設を手伝った一人であり、1962年8月に逮捕されるまでは、そこで指導的役割を果たしていた」。

しかも、マンデラは、ウムコントの活動開始から1ヵ月足らずの1962年1月、南アフリカを密出国し、エチオピアのアジス・アベバで開催された「中央・東・南方アフリカのパン・アフリカ解放運動(PAFMECA)」会議に地下のアフリカ民族会議を代表して出席している。1960年の西アフリカ地域での旧フランス領植民地17ヵ国の独立、アルジェリア解放闘争の進展などを具体的な背景として、確かにこの時期には、「アフリカ革命」が「後退不可能な状況」を創り出している(これは、フランツ・ファノンが『革命の社会学』で用いた表現である)という状況認識が、解放・革命のために活動する人びとの中でひろく共有されていたことが分かる。会議への出席以外にも、マンデラはいくつかの任務を果たしている。アフリカ諸国を回りゲリラ兵の訓練基地をつくること、闘争資金を獲得すること、解放後に行政任務を担う若者の留学を要請すること、などである。マンデラがこのような構想を共に担う、総体としてのアフリカ解放運動の枠内にいたこと、この事実を確認することが、1960年代初頭の時代認識として決定的に重要だと思われる。

ふたつ目は、マンデラがキューバやパレスチナに対して抱いていた思いを浮かび上がらせることである。マンデラは監獄から釈放されて間もない1991年、革命記念日の7月26日にキューバを訪れている。キューバは1975年から91年にかけて総計42万5000人に及ぶ兵士を、南アフリカ共和国の近隣国・アンゴラに派兵している。長い闘争の果てにポルトガル領植民地から独立を遂げた社会主義国・アンゴラに、まだアパルトヘイト体制下にあった南アフリカ共和国政府は兵を送り込み、体制の転覆を企てた。近隣国における革命的な高揚は、自国のアパルトヘイト体制をも揺るがす可能性を秘めていることを、彼らは敏感に察知したのである。内戦も激化し、アンゴラ政府は友好国・キューバに派兵を依頼し、これにキューバ政府が応えて支援部隊を派兵した。この派兵問題については多角的な観点から検討したい重要課題がいくつもあるが(そのための萌芽的な問題提起を、私は1998年に書いた「第三世界主義は死んだ、第三世界主義万歳!」で行なった。『チェ・ゲバラ プレイバック』所収、現代企画室、2009年)、それは別な機会に譲り、ここではマンデラの観点からのみ書くに留めたい。

マンデラは、キューバ革命が帝国主義による度重なる妨害を克服して、とりわけ医療、教育などの分野で重要な成果を上げていることを強調した後で、キューバが一貫して国際主義的な任務を果たしていることに注目している。とりわけチェ・ゲバラの革命的な遺訓に触れて、「他ならぬ我が大陸における活動も含めて、あまりにも力強いものだったので、検閲に勤しむ獄吏といえどもすべてをわれわれから覆い隠すことはできなかった」。

「にわかには信じられないような規模のキューバの国際主義者たちが、アンゴラ人民支援のために派遣されたと最初に聞いたとき、私は獄中にいた。アフリカにすむわれわれは、いつも、われらが領土を侵略したり主権を転覆しようとしたりする国々の犠牲にさらされてきた。われわれを擁護しようとする、他地域の人びとがいたなどとは、アフリカ史上初めてのことである」。アパルトヘイト体制がアンゴラに派遣した軍隊をキューバの部隊が打ち破ったキート・クアナバールの戦闘が、アンゴラの勝利とナミビアの独立にとっての決定的な要素であったことを強調した後で、同時にそれは「白人抑圧者の不敗の神話を打ち砕く」ものであり、「南アフリカの内部でたたかう人びとを鼓舞した。あそこで人種差別の軍隊が敗北したからこそ、われわれは、今日、こうしてここにいるのだ」。キューバ兵のアンゴラ派兵に関しては 先に述べたように、私には総合的に分析したい問題が残っている。しかし、マンデラからすれば、それは、南アフリカ民衆がアパルトヘイト体制から解放される道を、速度を速めて用意したのである。

パレスチナ解放闘争に寄せた支援も含めて、マンデラの思想と実践には、このように、日欧米諸国の首脳には本質的に受け入れがたい性格のものが確固として貫いている。それを明確に押し出し、彼らによる囲い込みからマンデラを救い出すこと。それが、ここでの第一義的な課題となる。

2、真実究明・赦し・和解

20世紀に現実に存在した社会主義体制(あるいは、社会主義を自称しないとしても、第三世界のいずれかの国がいわゆる民族解放なり独裁体制打倒を成し遂げた後の体制)下で生じて、私の関心を惹く問題のひとつは、それが旧体制の指導部をいかに処遇したかということである。とりわけ、民衆および反体制活動家に対する弾圧を指示・命令した大統領や首相、弾圧の先頭に立った軍隊と警察の治安部隊員に対して。

作家・埴谷雄高は、政治の本質を考察した文章で次のように述べている。

これまでの政治の意志もまた最も単純で簡明な悪しき箴言として示すことができるのであって、その内容は、これまでの数十年のあいだつねに同じであった。

やつは敵である。敵を殺せ。

いかなる指導者もそれ以上卓抜なことは言い得なかった。

「政治のなかの死」(『中央公論』1958年11月号)

私は、1969年に始まり70年代じゅう続いた、いわゆる新左翼党派間の陰惨きわまりない「内ゲバ」の実態をメディア報道で見たり、当該党派の機関紙でその「赫々たる戦果」が高揚した調子の文章(それは、革命軍の「軍報」と呼ばれていた)で書かれていたりするのを読んで、胸も潰れる思いを抱えていた。私は、それらの党派の発想や行動に共感を覚える立場にはなかったが、それにしても、「社会革命」の初心から始まったはずの活動がそんな地点へ行き着いていることへの絶望感は感じていた。

だが、同じころ、たとえば、ボリビアの小さな村の農民、オノラト・ロハスの死の報を知って、「それは当然だろう」という思いを私が抱いていたことを隠すつもりはない。1967年、オノラト・ロハスは、自分が住む村の周辺に見かける「怪しい人間たち」の存在を政府軍に通報した。それは、チェ・ゲバラ指揮下のゲリラ隊員であった。これをきっかけにボリビア政府軍はゲリラ隊への包囲網を狭め、次第に彼らを「敗北」へと追い込んでいった。のちに、残存していたゲリラ隊員たちがオノラト・ロハスに対する報復的な処刑作戦を実行した報に接して、当時の若い私は上記の感想を抱いたのである。

だが、考えてみれば、オノラト・ロハスは、ひとりの貧しい農民であった。遠く離れた国に住む私が、その生活の実態も知らずに、イデオロギー的な立場から「やられたら、やりかえせ」とばかりに断罪できるようなことがらではなかった。私がこのような陥穽から抜け出るきっかけとなった理由はいくつかあるが、わけても、1979年以降、革命のニカラグアから届いたひとつのニュースは印象的だった。政権に就いたサンディニスタが、旧独裁政権時代の弾圧や拷問の実行者たちを前に、死刑を廃止するという宣言を行なったというのだ。古参のゲリラ兵で、革命後は内相の座にあったトマス・ボルヘの言葉によって説明してみる。「戦いが終わって、私を拷問した者が捕えられたとき、私は彼らに言った。君らに対する私の最大の復讐は、君らに復讐しないこと、拷問も殺しもしないことだ。私たちは死刑を廃止した。革命的であるということは、真に人間的であるということだ。キリスト教は死刑を認めるが、革命は認めない」。ニカラグアではさらに、もっとも長い刑期は30年、受刑者によっては塀も鉄格子もない解放農園に「収容」される者もいるという行刑制度の改革が行なわれたのである。

私は、旧体制の指導者と内部の反対派の粛清の物語に満ち溢れたソ連および中国型の社会主義に対する、深い疑問と批判を抱いてきた。それだけに、1974年、ソモサ独裁体制下での訪問以来深い関心を持ち続けてきたニカラグアにおける革命が、このような新しい次元を切り拓いていることに感銘を受けた。

それから20年後、アパルトヘイト体制を廃絶して新しい社会への歩みを開始した南アフリカからも、瞠目すべきニュースが届いた。民主化後、同国では「真実和解委員会」が結成された。目的は、アパルトヘイト時代の「重大な人権侵害」に関して、これを裁判で「裁く」ことではなかった。加害者・被害者双方の証言を基に事実を解明すること、それを公に承認して記録すること、犠牲者に補償を行なうこと――これを通して、長いあいだ続いた人種差別主義の歴史に終止符を打ち、もって全社会的な和解を実現すること。これである。注目すべきことには、免責規定もあった。加害者が出頭して、自らが犯した犯罪と、組織的な背景を告白するならば、刑事責任を免れることができるというのである。

真実和解委員会の構想が初めて生まれたのは、白人政府によって長いこと非合法化されてきたアフリカ民族会議(ANC)が合法化され、白人政府との間で新たな政治体制に向けての交渉を行なう準備過程においてだった。ANCは、公の組織として登場できるようになった段階において、自らが反アパルトヘイト闘争を展開するために国外に維持してきた軍事キャンプにおいて拷問や虐待が行なわれていたという告発にさらされた。マンデラを引き継いで、のちに大統領に就任するターボ・ムベキの証言によれば、ANC内部には、もちろん、「(アパルトヘイト体制の中枢にいた)極悪非道な奴らを一刻も早く捕まえて死刑にしろ」との声が渦巻いていた。だが「もしそのようなことを行なったなら、平和で民主的な社会へと生まれ変わろうとすることなど到底出来ないことにわれわれは気がついたのだ。もしアパルトヘイト体制の責任者たちをニュールンベルグ裁判の形で裁くようなことをしていたら、我々は平和的な国家へと移り変わる経験をすることは出来なかっただろう」。

この変化には、ANCが内部調査委員会を設立して、まずは自組織内部で起きた人権侵害事件の調査を被害者からの聞き取りを通して行なったことが大きな役割を果たしたと思われる。証言者たちが望んだのは復讐ではなかった。むしろ、真実を明かし、犠牲となった愛する者の思い出が傷つけられたり忘れ去られたりすることがないこと、悲惨な出来事が二度と起こらないこと――これであった。軍事独裁政権が長く続き、その下での深刻な人権侵害事件が多発したチリ、アルゼンチン、グアテマラ、エルサルバドルなどでは、すでに真実究明の努力が始まっていた。隠されていた真実には「社会を浄化する力」があることを、南アフリカの人びとは、これらの具体的な例から学んだ。

真実和解委員会における被害者の、とりわけ女性たちの証言には、内容的には深刻だが、ひろく人間社会全体に通じる、無視しがたいものが孕まれている。「女性が自らの状況を語るというよりは、夫、父、兄弟や息子などの家族や友人に起こった出来事を語ることが多く、社会全体がジェンダー規範により女性を第二次的存在としてとらえていたことを示している」「家父長制のもとで男性が公的領域の活動、つまり政治活動をし、女性は私的領域である家庭で責任を負い、男性を支え、自らを主張しないという〈沈黙の文化〉が内在化している」「反アパルトヘイト運動を担った男性指導者からも性暴力を受けていた実態が明らかになった」(楠瀬佳子)。これらは痛切な思いを引き起こす証言だが、ここまで踏み込んだ、内在的な証言が生まれたことによって、南アフリカにおける「真実和解」の道は地に足のついたものになり得たのだと言える。

ここには、人間の社会が無縁のままでいるわけにはいかない「罪と罰」という問題をめぐって、従来のように加害者を「裁く」のではなく、被害者の傷を「修復」することに重きを置いた、真剣な取り組みが見られる。試行錯誤には違いない。だが、これが果てしのない「復讐」と「報復」の連鎖を断ち切る、一つの方法であることは否定できない。

本稿の冒頭で、私は日欧米各国の政治指導者たちが口にしたマンデラ追悼の美辞麗句の〈白々しさ〉に触れたが、この文脈においてみると、事態ははっきりする。被害者が寛大にも「裁き」を求めず「免責」の手を差し伸べている一方、アパルトヘイト時代の加害者がそれをよいことに、自らの罪を「自白」せず、「赦し」も乞わず――すなわち、「修復」のための努力をいっさいすることもなく、マンデラの「聖人化」に励むばかりであったというのが、あの言葉の本質であったのだ。これは、真実和解委員会が調査の対象を、もっぱら南アフリカ国内で行なわれた人種差別的な犯罪行為に限定したことからも、きているように思われる。「アパルトヘイトが植民地主義の極端な形態であり、その歴史的起源がはるか以前にあるにもかかわらず、委員会は、広く植民地主義のもとでの暴力や不正義を扱うことはしなかった。今日の南アフリカ国家は、イギリスの植民地支配の歴史を根本から問うことにつながる調査を避けたのである」(永原陽子)。後者の課題を追求するためには「国際法廷」的なものが当然にも必要となり、おのずと、真実和解委員会とは性格を異にした組織を必要としただろう。それがなかったために、アパルトヘイトの犯罪に南アフリカの国境の外から加担した「先進諸国」の首脳たちは、自らを問うことなく、安心して「穏健主義者」マンデラへ賛辞を浴びせたのである。

国内での「和解」を優先課題に据えて始まった、新しい社会の建設過程においては、問題の本質からして、それは一国では担いきれない課題であったのだろう。この課題は、その後、国際的な場において取り上げられることになる。2001年8月~9月、他ならぬ南アフリカのダーバンで開かれた「人種主義、人種差別、排外主義、および関連する不寛容に反対する世界会議」において、である。私はここに、南アフリカの真実和解委員会の経験に学びながら、植民地支配・奴隷制度・人種差別主義などの諸問題を、避けることのできない人類普遍のそれとして設定しようとする、国境を超えた努力の成果を見る。私たちは、歴史の鼓動をここに確かに聞き取っているのである。この課題は、何よりも当事国(民族)間同士での「対話→真実追求→謝罪→赦し→和解」の過程をたどらなければならないが、それを側面から援助する国際的な普遍的原理の確立が求められるのだろう。

南アフリカに戻るなら、重要なことは、この問題の追究の過程において、ネルソン・マンデラがひとり屹立して主導しているわけではない、ということである。むしろ、ANC指導者としての彼は、デズモンド・ツツ大主教から、一般市民の死傷者が生じたANCによる南アフリカ空軍本部爆破事件の現場で公式に償いをするよう求められもしている。「真実和解」のこの過程は、多くの人びとと組織の協働によって担われた。そこに最も注目すべき性格があるように思える。

3、新自由主義への拝跪

本稿では、まず、1960年代初頭におけるネルソン・マンデラたちの闘争が、アフリカ大陸南端部に孤立したものではなく、「アフリカ革命」という、闘争の担い手たちによって当時は共有されていたリアリティに基づいて展開されていたことを見た。次に、アパルトヘイトを廃絶したのちに、多くの疑問や批判も受けながら試みられている「和解」のための努力の意義を、その「限界」も見据えながら確認した。紙数は尽きたが、残るのは、「解放」後の社会・政治・経済過程をいかに見るか、という問題である。私が今回参照できたのは、資料としてはわずかなものでしかないが、ここには当然にも、解放後・革命後の第三世界諸国のいずれにしてもが、決して免れることのできなかった問題が立ちはだかっている。南アフリカは、旧宗主国、多国籍企業、国際金融機関、「先進」諸国によって経済的に包囲されているという現実である。世界有数の投資家、ジョージ・ソロスは2001年のダボス経済フォーラムにおいて「南アフリカは国際資本の手中にある」と語った。人種アパルトヘイトは終わったが、いまや南アフリカは「経済アパルトヘイト」の下におかれていると皮肉って、一向に改善されない経済格差を指摘する声もある。もちろん、これらは、南アフリカ一国が背負うには過重な重荷である。世界の貿易秩序と国際的な経済秩序の対等性、多くは第三世界に存する天然資源の開発をめぐる公正な関係――その確立に向けた協働の努力が実ってこそ、の課題である。多国籍企業や国際金融機関や「先進」諸国の側から、従来の不平等性を「修復」する動きが起こってはじめて、この問題は解決の端緒につく。「修復」という問題は、ここでも重要なものとして浮上してくるのだ。

最後に、マンデラの、既存のありふれた政治家と変わらぬ姿も確認しておこう。1994年、首相就任間もないマンデラは、国連による対南ア武器禁輸が解除された直後に、南ア軍需産業は「もはや秘密の幕に隠れて行動する必要はなくなり、国内外の完全な合法性を得るだろう」と語った。国有兵器公社アームスコールが「平和と安全に貢献する武器輸出」を保証する自主技術を開発したことを称賛した(「赤旗」1995年1月7日付)。7万人の雇用を生み出す、同国最大の機械輸出産業である南アの軍需生産を簡単に縮小できるものでないことは、誰にでもわかる。だが、マンデラのこの「現実主義」的な側面が、日欧米諸国の首脳にとっては安心できる場所であるという「構造」は、同時に見据えておく必要があるだろう。その意味でも、マンデラを彼らの空虚な賛辞の網から解き放ち、現代世界が直面する困難な課題を共に考え、その解決を模索する場所へと招き入れる必要があるのだ。

【付記】本稿で引用しているマンデラの言葉は、野間寛二郎『差別と叛逆の原点――アパルトヘイトの国』(理論社、1969年)と、1991年キューバ訪問時の演説内容を伝える複数のインターネットサイトなどに拠っている。ニカラグアについては、現地を取材した野々山真輝帆「サンディニスタ――革命と殉教のはざまで」(『世界』1986年6月号)、「ニカラグア――二つの到達点から見た現実」(『朝日ジャーナル』1987年4月10日~同17日)に拠っている。他にも、峯陽一『南アフリカ――「虹の国」への歩み』(岩波新書、1996年)、楠瀬佳子「女たちの声をどのように記憶し、記録するか――真実和解委員会と女たちの証言」(宮本+松田編『現代アフリカの社会変動』、人文書院、2002年、所収)、アレックス・ボレイン『国家の仮面がはがされるとき――南アフリカ「真実和解委員会」の記録』(第三書館、2008年)、阿部利洋『真実委員会という選択――紛争後社会mの再生のために』(岩波書店、2008年)、永原陽子編『「植民地責任」論――脱植民地化の比較史』(青木書店、2009年)、アンキー・クロッホ『カントリー・オブ・マイ・スカル――南アフリカ真実和解委員会〈虹の国〉の苦悩』(現代企画室、2010年)などを参照し、一部を引用した。

太田昌国の、ふたたび夢は夜ひらく[46]アメリカ大陸の一角から発せられた「平和地帯宣言」


『反天皇制運動カーニバル』第11号(通巻354号、2014年2月4日発行)掲載

1月29日、アメリカ大陸の一角から「平和地帯宣言」が発せられた。武力の不行使と紛争の平和的解決の原則を明記した諸国間文書が採択されたのである。

この発表は、キューバの首都ハバナで開催されていた「ラテンアメリカ・カリブ海諸国共同体(CELAC)」の第二回首脳会議においてなされた。CELACは、同地域のすべての独立国33ヵ国で構成される地域機構である。2010年2月に創設されたばかりで、域内総人口はおよそ六億人になる。この地域には、伝統的に、1951年に創設された米州機構(OAS)が存在している。米ソ冷戦下に成立しただけに、事実上は、米国の圧倒的な影響力が及ぶ「反共同盟」的な性格を有し、したがって1962年には、革命後3年目を迎えたキューバを除名した。キューバを域内で徹底的に孤立させ、経済的に締め上げる機構として、米国はこれを十二分に利用してきた。

しかし、多くは軍事独裁政権下にあって、大国主導の新自由主義経済政策という「悪夢」を世界に先駆けて経験せざるを得なかったこの地域の諸国は、20世紀末以降、次第に「民主化」の過程をたどり始めた。そこで成立した各国の政権は、かつてなら稀に存在した根本的な社会改革を志す政権ではない場合であっても、その社会的・政治的任務にまっとうに取り組もうとする限りは、新自由主義経済政策が残した傷口を癒し、ヨリ公正な経済的秩序を作り上げる努力をすることとなった。そのことは、もちろん、米国が変わることなく強要する新自由主義路線に反対し、それとは異なる原理に基づいた自主・自立的な政策を採用することを意味する。米国からの「離反」は次第に拡大し、ついには4年前に、米州機構とは逆に、同じ大陸に位置する米国とカナダを除外し、キューバが加盟するCELACが成立したのである。

国家間紛争の平和的な解決・対等な国際秩序の構築など、大まかに一致している共通目標はあるが、各国間で政体は異なる。端的に言えば、左派政権もあれば、右派もいる。そのような地域機構が、創設後四年目にして、政府・経済・社会体制の違いを越えて、他の諸国との間で友好と協力の関係を促進する立場を宣言したのである。「平和地帯宣言」はテーマ別文書のひとつだが、もちろん、全体的な最終文書「ハバナ宣言」も採択された。そこでは、途上国に一方的に不利な条件を課すことのない国際経済体制を作り上げること、この地域に多い天然資源を国有化したり、自国産業を保護する政策を採用したりすると、そこへの介入を企図する多国籍企業から訴訟を起こされる例が増えていることから、外国企業を一概に排斥するわけではないが、進出先の国の政策と法制を理解して責任ある態度を取ること、各国の主権を尊重して受け入れ先の国民の生活向上に資するよう心がけることなど、外部から関係してくる経済大国と企業の責任を問う条項もある。

域内協力の課題としては、持続可能な開発によって貧困と飢餓を一掃する経済政策の推進、CELAC加盟国間での「相互補完・連帯・協働」関係の強化などが謳われている。一時期、新自由主義経済政策に席捲された後遺症なのだろう、いまだ非正規雇用が目立つことから「正規雇用の恒常的な創出」の必要性が強調されていることも印象的だ。いったん発動され定着した不当な政策を矯正するのは、こんなにも時間がかかることなのだ。

仮に歴史を40年でも遡ると、この地域の33ヵ国間で、このような合意文書が採択されることはおろか、会議そのものが開かれることすら不可能だった。キューバの存在を軸に、対立と抗争に明け暮れていたからだ。事態の変化の鍵は、各国が超大国=米国への依存度を減らしたこと、代わって対等な域内協力関係を強化したこと、それによって米国の存在感が希薄になったことが挙げられよう。約めて言えば、米国の軍事的プレゼンスがなくなれば地域は平和になり、多国籍企業の活動が規制されれば(現状では、まだ不十分なのだが)経済は安定化へと向かう――という方向性を見出すことができよう。

この宣言が発表された同じ日、国連安保理では「戦争、その教訓と永続する平和の探求」と題した討論が行なわれていた。中国と韓国の代表が「戦争についての審判を覆し、戦犯を擁護する」日本政府のあり方を厳しく非難した。東アジア情勢の異様さと、その主要な責任はどの国が背負うべきかは、国際的に明らかになっていると言えよう。(2月Ⅰ日記)

社会全体に浸透した排外主義的風潮の中で


『支援連ニュース』(東アジア反日武装戦線への死刑・重刑攻撃とたたかう支援連絡会議、第365号、2014年1月25日発行)掲載

虚しさに耐えながら、いわゆる右翼の言論誌を熱心に読み、そこで展開されている議論に対する批判を書き続けていたのは、1990年代だったか。文藝春秋の、いまはなき『諸君!』と産経新聞社の『正論』に掲載されている文章を相手にして、である。その後、社会総体が「右傾化」を確実に深めるにつれて、この手の雑誌は増え続けた。いま、駅前の小さな書店でさえ、雑誌コーナーにはそんな雑誌が小山をなしている。

私がこの種の雑誌の立ち読みを始めたのは1980年代前半だった。私は学生時代に、竹内好や村上一郎や橋川文三などの著書を導きにして、日本の右翼思想に触れていた。そこでは、私には同意もできず共感をおぼえることもできないことが、さまざまに展開されていたが、にもかかわらず、それを思想書として冷静に読むことは可能だった。ここを潜らなければ、近代日本が抱えた暗闇を理解することはできない、などと考えながら。

戦後も40年近くを経た段階で右派雑誌に現われた言論は、それと好対照をなしていた。

ただひたすらに、罵倒と罵詈雑言だけがそこにはあった。誰に対して? 国内の左翼に対して、そして、近隣のアジア諸国に対しての――歴史意識も、論理も、倫理も持たずに、「仮想敵」に対する悪罵に満ちた議論が商業雑誌上で大手をふってまかり通っていることに、私は「異様な」なものを感じたのである。日本国内の「進歩的知識人」や左翼に対してなら、どんなに汚い言葉で批判しても、まだしも、よい。だが、「外」に向かっての、この悪意の深さはなんなのか? 底知れぬ憎悪と悪意の根拠はなんなのか? 見過ごして、いいものだろうか? 学生時代に私が読んだ右翼の思想書には、「日本文化・歴史中心主義」は確固としてあったが、他者存在に対する悪罵はなかった。自国文化中心主義は、否応なく「排他性」をもつものだから、その点を批判的に読めばよかった。

1980年代から90年代にかけて現われた事態は違っていた。私は見過ごすべきではないと考えて、立ち読みで済ませることを止めて雑誌を買い求め、彼らが何を言っているかを紹介しながら批判を始めたのが、1990年前後だったのである。だが、市民運動の小さな機関誌に私が書くものなぞ、蟷螂の斧に等しいものだったろう。それから20数年が経って、現在の状況にまで立ち至った。

*         *       *

現在のこの傾向には、いますぐにも隣国との間に戦火を交えよ、と煽動するかのような見出しが新聞広告に踊る週刊誌も加わる。産経新聞と読売新聞などの新聞メディアも加勢する。そして、体制批判的な言論人をことごとく排除した地点で成り立っているような、テレビの報道番組なる茶番劇が、この一連の情報包囲網を完成させる。そこへ政治的に登場したのが現首相A・Sであり、社会的に登場したのが在特会である。前者の第一次政権が成立したのは2006年だった。後者は2007年に社会的に公然化した。社会の最高の政治権力者である首相に、自分たちの排外主義的な思いを代弁してくれるような思想を持つ人物が就任した。違いは、あからさまにそれを語るか、それともオブラートに包んで語るか、にしかない。この事実は、在特会に大きな安堵感・安心感をもたらすものであり、自分たちが「社会的に認知された」と考えたのではないか。

得意の絶頂にあったA・Sは、わずか一年で政権の座を降りた。降りざるを得なかった。だが、3年間に及んだ民主党政権の不甲斐なさと、それを受けての自民党内部の権力争いに関わる事情から、2012年末、A・Sは首相に返り咲いた。これにふたたび勇気づけられたのか、在特会はその翌年の2013年、それまでは右に触れた右翼雑誌上にだけ留まっていた(インターネット時代を迎えた20世紀末からは、ネット上にも溢れていることは、付け加えておきたい)、外部の「仮想敵」に対する憎悪表現を社会的に「解き放った」。街頭で、民族排外主義のスローガンを公然と叫ぶ、いわゆる「ヘイト・スピーチ」によって、である。首相A・Sは国会答弁でこの在特会のふるまいに眉をひそめてみせたが、近代日本の歴史過程に関わる彼の言動の「本音」を見れば、両者はそれほど違わない位置にあることは、先にも述べたように、誰にでもわかることだろう。

この「空気」は現在行なわれている都知事選挙にも表れている。自民党都連がこの選挙において、元厚生労働相M・Yの支援を決めると、「自衛隊元航空幕僚長T・Tこそが現首相A・Sの立場に近いではないか」と主張し、支援先の変更を求める抗議のメールが多数寄せられているというニュースである。(もっとも、「T・T=A・S」という等式は、国際的には知られてはまずい「特定秘密」かもしれぬ。)

*       *      *

これらすべてのことは、ひとしく物語っている――ひと握りの、愚かな保守政治家だけが諸悪の根源なのではない。社会全体が、何かの感情に駆り立てられるようにして、生き急いでいる。そのような時代が始まっているのである。そのとき「国民」内部の団結を求めるならば、その拠りどころが偏狭な民族主義になることは目に見えている。他者(他国)にひたすら悪罵を投げつけること、国内にありながらそれに付和雷同しない者がいるならそれを炙り出し、抑圧すること、これである。

繰り返し確認しなければならない。30年前、税金によって生活が保障されている国立大学教授も含めた極右の者たちが、目を疑うような悪煽動の排外主義的文章を『諸君!』誌などに発表し始めたとき、それは奇矯に見えないことはなかった。あくまで少数の復古主義者たちの心を捉えるに留まるであろう、あまりに愚かしい議論にしか思えなかった、という私自身の当時の印象も書いておこう。それは、いつしか、保守政権党内部に浸食し、リベラル派を根絶やしにしてしまった。そして、いまや、社会的にも浸透し、この社会の「雰囲気」を大きくつくり変えてしまった。この現象を、私は昨年来「〈外圧〉に抗することに〈快感〉をおぼえる」雰囲気と呼んでいる。「外部」からの批判があればあるほど、それを利用して、ナショナリズムが沸騰するのである。

2014年初春――私たちが直面している現実は、このようなものである。相手が盤石なわけではない。あまりに「極右」の道をゆくA・Sを警戒する動きが、都知事選挙などを通して、保守政治・経済の世界でも蠢いている感じがする。最近、天皇・皇后が憲法に関わる発言を何度か行なっているが、その中身を読み取ると、A・S路線への警戒心が透けて見える感じもする。「外圧」は近隣諸国のみならず、首相が頼みの綱とする、大洋の彼方の超大国からも押し寄せている。

そして最後に。以下は、この間の私の持論だが、現在の「敗北状況」をもたらした責任の、小さくない一端は、広い意味での「進歩派」と「左翼」の理論と実践の在り方にある。

それが何であり、いかに克服するかをここで述べるには、紙数が尽きた。すでに機会あるたびに触れており、今後もそのための試行錯誤を続けたい。(1月23日記)

太田昌国の、ふたたび夢は夜ひらく[45] 対立を煽る外交と、「インド太平洋友好協力条約」構想


『反天皇制運動カーニバル』10号(通巻353号、2014年1月14日発行)掲載

首相の靖国神社参拝に「失望した」との考えを表明した在日米国大使館に対して、「米国は何様のつもりだ」という抗議のメールが多数寄せられているというラジオ・ニュースを年明けになってから耳にした。いわゆる振り込め詐欺をテーマに『俺俺』という秀作を書いた作家の星野智幸は、2、30年ぶりに旧友たちと会うと、声、性格、たたずまいなどにおいてお互い「変わらないなあ」という過去との繋がりが見えてくるのに、話題が韓国や中国のことに及ぶと一変し、相手国へのあからさまな嫌悪と侮蔑の感情を示しては国防の重要性を説く人が少なからずいることに打ちのめされた、と書いた(2013年12月25日付朝日新聞)。昔は政治に何の関心も示さず、ナショナリスト的な傾向の片鱗すら持たなかった人に限って、と。

私は昨年の当欄で、日本の現状を指して『「外圧」に抗することの「快感」を生き始めている社会』と書いたが、上の二つのエピソードは、確かに、そんな「気分」がすっかり社会に浸透してしまったことを示しているようだ。この「気分」の頂点にいるのは、もちろん、現首相であり、政権党幹部たちである。靖国参拝を行なって内外からの厳しい批判にさらされている当人は、年明けのテレビ番組で「誰かが批判するから(参拝を)しないということ自体が間違っている」と語っている。かつてなら(第一次内閣の時には)、安倍自身が、「大東亜戦争の真実や戦没者の顕彰」を活動方針に掲げる「日本会議」(1997年設立)や、靖国神社内遊就館内に事務所を置き、天皇や三権(国会、内閣、裁判所)の長の靖国参拝を求めている「英霊にこたえる会」の主張するところにぴったりと寄り添ってふるまうことは避けていた。本音では同じ考えを持つ者同士だが、7年前の安倍には、首相としての立場を表向きだけにせよ弁えるふるまいが、ないではなかったのである。それが、極右派からすれば、安倍に対する不満の根拠であった。

政権党幹事長・石破茂の暴走も停まらない。昨年は、「自衛隊が国防軍になって出動命令に従わない隊員が出た場合には最高刑は死刑」とか「単なる絶叫戦術はテロ行為と変わらない」という本音を言ってしまった。年明けには「(集団的自衛権の行使容認に向けた)解釈改憲は絶対にやる」と公言している(私はテレビ・ニュースを見ないので、事実の抽出は、新聞各紙の記事に基づいて行なっている)。安倍と石破のこの間の言動は、この社会における「民意」の動向を踏まえたうえで行なわれていると思える。

経済的な不安定感、震災や原発事故に伴う喪失感、文明論的にも先行きの見えない不安感――国内で、私たちを取り囲む諸問題はこんなにも深刻だが、このとき「日本人」であることに安心立命の根拠を求めるナショナリズムが、こうしてひたひたと押し寄せている。

昨年12月、東京で開かれた日本・ASEAN(東南アジア諸国連合)特別首脳会議において、中国による防空識別圏の設定に的を絞って「中国包囲網」を形成しようとする日本政府の動きがあった。メディア報道もそれを主眼においてなされた。それは、社会の現状に添った偏狭なナショナリズムに制約された視点であって、重要な点は別にあった。

インドネシアのユドヨノ大統領は、国家間紛争に武力を行使ないことを約束する「インド太平洋友好協力条約」の締結を呼びかけた。どの国にせよ駆け引きと術策に長けた国家指導者の言動をそのまま信じる者ではないが、共同声明には日本が主張した「安全保障上の脅威」や「防空識別圏」の文言は入らず、日本は「孤立」したのである。海洋への中国の軍事的進出にASEAN諸国にも警戒心があるのは事実だが、それを利用して中国と後者の緊張を煽る日本政府の目論みは失敗した。領土・領海問題や地域的覇権をめぐって対立や抗争もあった(あり続けている)東南アジアから、現在の日本政府の方向性と対極的な、平和へのイニシアティブが取られつつあることに注目したい。そこには、世界で唯一冷戦構造が継続しているような東アジア世界への「苛立ち」、とりわけ加害国でありながら、その反省もないままに「ナショナリズム」に凝り固まって、排外主義的傾向を強める日本社会全体への不審感が込められていると捉えるべきであろう。(1月11日記)

太田昌国の、ふたたび夢は夜ひらく[44]特定秘密保護法案を批判する視点


『反天皇制運動カーニバル』第9号(通巻352号、2013年12月10日発行)掲載

特定秘密保護法案の国会審議が大詰めを迎えていたころ、某大学で「帝銀事件と平沢死刑囚」について語る機会があった。NHKのディレクターであった故・片島紀男に関しては、「埴谷雄高・独白『死霊』の世界」(1995年)や「吉本隆明がいま語る 炎の人・三好十郎」(2001年)などの作品を観て、私は注目していた。だが、氏は、私があまりテレビを観る習慣のなかった時期に、「昭和」史や戦後史に関わる番組も多数制作していた。「獄窓の画家 平沢貞通~帝銀事件元死刑囚の光と影」(2000年)もそのひとつである。この番組を学生と一緒に観てから、上記のテーマについて語るという企画である。

私は死刑廃止運動の場で、晩年の片島氏と知り合う機会があり、獄死した死刑囚の再審請求に賭ける氏の熱意を知っていた。講義の前夜、新聞に小さな記事が載った(12月3日)。12人が毒殺された1948年の帝銀事件で、東京高裁は、獄中死した平沢元死刑囚の養子で再審請求人の武彦さんが死亡したために、再審請求の手続きが「終了した」、というものである。裁判の場で、冤罪の死刑囚であった平沢氏の無念を晴らす道は閉ざされたことになる。

65年前の事件について20歳前後の若者に語るに際して、「国家」を司る者たちの恣意性を自覚してほしいと私は希った。占領下で起きた帝銀事件の場合、それはふたつの形で現われる。①同事件の実行犯捜査は、犯行現場での毒物の手慣れた扱いから見て、旧関東軍満州第731部隊所属の軍人に絞られた。だが彼らは、対ソ連戦に備えて同部隊員の技量を活用しようとする米軍の庇護下にあり、その戦争犯罪は免責されていた。GHQ(連合国総司令部)は警視庁と新聞に圧力をかけ、捜査方針を変更させた。②代わりに生け贄にされた平沢氏は、杜撰な取り調べと裁判で死刑が確定した。確定から32年間を獄中に暮し、95歳で獄死した。その間に就任した法相は35人、ひとりとして執行命令書に署名しなかった。高検検事長も認めたように「判決の事実認定に問題があった」ためである。①からは、占領国の横暴・傲慢さが透けて見える。②からは、死刑制度を維持する国の冷酷さが浮かび上がる。そして双方に共通するのは、国家は「機密」を好み、いったん「機密」にされた事柄は、民衆に知らせないことを通して、他ならぬ民衆を縛り上げるという事実である。占領下の「昔話」が、現下の特定秘密保護法案の本質に連なってくるというリアリティを、若者たちには感じ取ってほしかった。

この日の講義では触れる時間がなかったが、私が同法案を批判する際に強調してきたのは、国際的な視点である。近代国民国家の枠組みを尊重しつつも、人権にかかわる問題に関しては国際的なネットワークを作り上げて、各国の意識・自覚の向上を図る努力が目立ち始めたのは1960年代以降である。「国際人権規約」「経済的、社会的及び文化的権利に関する国際規約(A規約)」「市民的及び政治的権利に関する規約(B規約)」(1966年)に代表されるように。その後も、女性の地位、先住民族の権利、子どもの権利、監獄制度や死刑制度などの問題をめぐって、国際的な基準を設定する試みがなされてきた。

今回の法案に関しては、「ツワネ原則」を想起せよ、との声が批判派から上がり、私もその声を聴いて初めて知った。「国家安全保障と情報への権利に関する国際原則」が正式名称である。安全保障上の理由から国家が多様な情報の秘密指定を恣意的に行ない、市民の知る権利とのバランスが崩れている現状を危惧した国連などの国際機関職員と専門家五百人以上が、南アフリカのツワネで2年間議論を続け、今年6月に公表されたものである。【因みに、アパルトヘイト(人種隔離政策)を廃絶した南アフリカが、2001年にダーバンで開かれた人種差別に関する国際会議に続いて、人権問題を討議する場になっていることは象徴的で、意義深い】。このツワネ原則を読めば、各国政府が、知る権利や人権を侵すような暴走を防ぐ手立てが一定は規定されており、特定秘密保護法はその対極にあることが明らかになる。法案は成立したが、私たちは、たたかい続ける手立てのすべてを失ったわけではない。過度の悲観論に陥ることなく、なすべき日常的な課題にじっくりと取り組み続けたい。

(国会前の抗議行動から帰った翌朝の、12月7日記)

「もうひとつの9・11」――チリの経験はどこへ?


DVD BOOK ナオミ・クライン=原作 マイケル・ウィンターボトム/マット・ハワイトクロス=監督作品

『ショック・ドクトリン』解説(旬報社、2013年12月)

2001年9月11日米国で、ハイジャック機による自爆攻撃が同時多発的に起こった。この事件を論じることがここでの目的ではない。少なからずの人びと(とりわけラテンアメリカの)が、この事件によって喚起された「もうひとつの9・11」について語りたい。それは、2001年から数えるなら28年前の1973年9月11日、南米チリで起こった軍事クーデタである。その3年前に選挙によって成立した世界史上初めての社会主義政権(サルバドール・アジェンデ大統領)が、米国による執拗な内政干渉を受けた挙句、米国が支援した軍部によって打倒された事件である。

2001年9月11日以降、米国大統領も、米国市民も、なぜ米国はこんな仕打ちを受けるのかと叫んで、「反テロ戦争」という名の報復軍事作戦を開始した。「もうひとつの9・11」は、実は、1973年のチリだけで起きたのではない。世界の近現代史を繙けば、日付は異なるにしても、米国が自国の利害を賭けて主導し、引き起こした事件で、数千人はおろか数万人、十数万人の死者を生んだ事態も、決して少なくはない。そのことを身をもって知る人びとは、2001年の「9・11」で世界に唯一の〈悲劇の主人公〉のようにふるまう米国に、底知れぬ偽善と傲慢さを感じていたのである。

同時に、ラテンアメリカの民衆は、1973年の「9・11」以降、世界に先駆けて、チリを皮切りにこの地域全体を席捲した新自由主義経済政策のことも思い出していた。アジェンデ政権時代には、従来の社会的・経済的な不平等にあふれた社会で〈公正さ〉を確立するための諸政策が模索されていた。外国資本の手にあった鉱山や電信電話事業の公共化が図られたのも、その一環だった。軍事クーデタは、これを逆転させた。すなわち、新自由主義政策が採用されたからだが、日本の私たちも、遠くは1980年代初頭の中曽根政権時代に始まり、近くは2000年代の小泉政権時代に推進されたこの政策に、遅ればせながら晒されていることで、その本質がどこにあるかを日々体験しているのだから、政策内容の説明はさして必要ないだろう。

1980年代初頭に制作されたボリビアのドキュメンタリー映画に、印象的なシーンがある。軍事政権時代に莫大に流入していた外国資本からの借款が、どこへいったのかと人びとが話し合う。高台にいる人びとは、下に見える瀟洒な中心街を指さし、「あそこだ!」と叫ぶ。そこには、シェラトン、証券会社、銀行などが入った高層ビルが立ち並んでいる。周辺道路もきれいに整備され、さながら最貧国には似つかわしくない光景が、そこだけには現われている。「あそこで使われた金が、いま、われわれの背に債務として圧し掛かっているのだ」と人びとは語り合うのである。これは、新自由主義経済政策下において導入された外資が、その「恩恵」には何ら浴すことのない後代の人びとに債務として引き継がれる構造を、端的に表現している。

だが、世界に先駆けて新自由主義経済政策の荒々しい洗礼を受けただけに、ラテンアメリカの人びとは、その本質を見抜き、それを克服するための社会的・政治的な動きをいち早く始めた、と言えるだろう。国によって時間差はあるが、20世紀も終わりに近づいた1980年代以降、次第に軍事政権を脱して民主化の道をたどり始めた彼の地の人びとは、新自由主義によってズタズタにされた生活の再建に取り組み始めた。旧来の左翼政党や大労働組合は、この経済政策の下で、また世界的な左翼退潮の風潮の中で解体あるいは崩壊し、この活動の中軸にはなり得なかった。民衆運動は、地域の、生活に根差した多様な課題に取り組む中で、地力をつけていた。新自由主義政策が踏み固めた路線に沿って、さらに介入を続ける外国資本を相手にしてさえ人びとは果敢に抵抗し、ボリビア・コチャバンバの住民のように、水道事業民営化を阻止するたたかいを展開した。

政治家にあっても、社会改良的な立場から自国の政治・経済・社会の状況に立ち向かおうとすると、既成秩序の改革が必要だと考える者が輩出し始めた。彼(女)らの関心は、差し当たっては、新自由主義が根底から破壊した社会的基盤を作り直すことであった。20世紀末以降、ラテンアメリカ地域には、世界の他の地域には見られない、「反グローバリズム」「反新自由主義」の顕著な動きが、政府レベルでも民衆運動レベルでも存在しているのは、このような背景があるからである。

「もうひとつの9・11」――チリの悲劇的な経験は、それを引き継ぎ、克服しようとする人びとの手に渡っているというべきだろう。