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状況20〜21は、現代企画室編集長・太田昌国の発言のページです。「20〜21」とは、世紀の変わり目を表わしています。
世界と日本の、社会・政治・文化・思想・文学の状況についてのそのときどきの発言を収録しています。

太田昌国の夢は夜ひらく[3]わずか二百人のアメリカ人にとっての普天間問題


『反天皇制運動 モンスター』第3号(2010年4月13日発行)掲載

「普天間という基地名を知っている米国人はせいぜい二百人程度で、それはすべて国防総省(ペンタゴン)のスタッフです。

米国は世界の百ヵ国以上に軍事基地を持っているから、人びとはいちいちその地名など知りません。

日本では、沖縄の基地問題が進展せず、アメリカは苛立っているとか、日米関係が危いなどとばかり言っていますが、そこでいう〈アメリカ〉とはその程度のもの、つまりペンタゴンなのです」。

詩人アーサー・ビナードは、私が住む地元で最近開かれた講演会でこう語った。日本に住んで二〇年が経つ、米国はミシガン州出身の人だ。

新聞に寄稿している詩やエッセイ、それが単行本にまとめられたものは、ある程度読んできた。ことばに対する感覚にすぐれた人だ。

納豆が好きで、自分の名を漢字で「朝美納豆」と書く、おかしな人だ。

自国の政治的・軍事的振る舞いを悲しみ、それに対する批判が、厳しい。

テーマは憲法9条問題だった。いきおい、民主党政権になっても一向に変わらない日米の政治・軍事関係への言及が多かった。

確かに、メディアでは、「アメリカ」を主語に据えて、米軍再編に関わっての鳩山政権の優柔不断を憂えたり、日米関係の危機を言い募る言論が溢れている。

それを見聞きするた びに、主語「アメリカ」の本質を問うてきた私の胸に、詩人のことばはすとんと落ちた。

朝青龍の角界追放問題が起こると、日本のメディアはウランバートルの街頭でモンゴル人の反応を聞く。

中国で毒餃子事件の容疑者が逮捕されると、北京市の住民の声が報道される。

トヨタの事故車が米国で問題化すると、街のユーザーの声が大々的に報道される。

しかし、(すべての報道を見聞きしているわけではないが)ニューヨークの街頭を行き交う米国人に「普天間問題」についての意見を聞くという、日本メディアが好みそうな試みはないようだ。

誰に聞いても、地名も知らない、関心もない、米国では問題そのものが「存在しない」ことが「ばれて」しまい、いうところの〈アメリカ〉なるものの本質が透けて見えてしまうから、困るのだろう。

詩人は、東奥日報記者・斉藤光政の『在日米軍最前線』(新人物往来社、二〇〇八年)が加筆修正を加えて文庫化されたこと(新人物文庫)も教えてくれた。ラジオの仕事で定期的に青森を訪れている詩人には、「核攻撃基地=ミサワ」の情報が入ってくるようだ。

沖縄基地再編問題が歪んだ形で「大問題化」している裏で、青森県ミサワ基地を中心にしたミサイル防衛回廊化がいかに進行しているかを伝える貴重な本で、それはあった。

総じて、詩人は、米国ではペンタゴンの極少数の担当者しか関心を持たない普天間問題が、あたかも日米関係の最重要事だと誤解するな、もっと根本的に同盟関係自体を問い直して主体的な問題提起を行なうべきだ、と聴衆に訴えたのだと思う。

この話は、アジア情勢に詳しいオランダのジャーナリスト、カレル・ヴァン・ウォルフレンの主張と合い通じるものがある(「ペンタゴンに振り回されるアメリカと、どう向き合えばいいのか」『SIGHT』二〇一〇年春号掲載、ロッキング・オン)。

米国の軍産複合体の中枢にいる人間たちにしてみれば、冷戦の終焉は耐え難いことであり、ソ連なき後は「ならず者国家」とか「テロリスト」なる敵を作り出すことに励んできた――とは、私もこの間行なってきた分析だ。

同じ考えを持つウォルフレンはさらに、ペンタゴンも軍産複合体の一部であって、この複合体はそれだけで存在していて、政治的な判断とまったく関わり合いがない、オバマもペンタゴンを制御できておらず、日米関係の問題をペンタゴン関係者の多い対日部門に丸投げしているが、その連中が日本に向けてふるまう態度たるや「保護領」に対するものにひとしい、とまで断言している。

日本国の外交路線を取り仕切ってきた米国かぶれの外務官僚や一部の政治家を除けば、日米関係の現状をこのような水準で冷静に捉えることは、さほど難しくはないだろう。

問題は、中国や北朝鮮など近隣諸国との間では「冷戦状態」が継続しているという意識が社会全体から払拭されておらず、その分、米国に軍事的依存を続けることで安心立命が得られるという「気分」を社会が引きずっていることにあるだろう。

その気分は実は幻想なのだと明かす作業を、なお続けなければならない。(2010年4月9日執筆)

軽視すべきでない新政権下の流動


「地域アソシエーション」誌72号(2010年2月28日発行)掲載

元外務省主任分析官であった佐藤優の文章には、彼の立場に賛成するか否かは別として、そこに盛り込まれている情報の量と質の両面で、傾聴に値するものが、ときどき、ある。

『情況』誌3月号には、「青年将校化する特捜検察」と題する文章が掲載されているが、そこでは、検察が小沢一郎の秘書であった石川知裕議員を政治資金規正法違反で取り調べ・逮捕・起訴した問題をめぐって、これは、民主党政権によって官僚の地位が脅かされることを嫌った検察内部の青年将校による強制捜査だとする観点から、官僚心理をめぐる独自の分析を行なっている。

丸暗記主義の国家公務員試験や司法試験を通っただけなのに、官僚は無知蒙昧な「国民」を見下し、自分たちこそが国家運営に携わっているのだ、と確信しているというのである。

国家運営の実権を、選挙の洗礼も受けていない官僚の手から奪い返し、選挙によって選ばれた政治家のもとに取り戻そうとするのが民主党政権の意図だから、そこで新政権と官僚の間での角逐がさまざまな場所で見られる。

問題は、肝心の民主党指導部の多くは元来は自民党に属していたのであり、その金権体質も権力行使の恣意性も、そのまま引きずっているから、政治家の手に実権がいくといっても、民衆のこころに高揚感が沸くことはないという点にある。案の定、首相と党幹事長の政治資金疑惑問題で、新政権は、機能不全のまま半年を経ようとしている。

私たちの多くは、自民党の退場を歓迎しつつも、新政権に全面的な信頼をおくわけには、もちろんいかず、かといって全面的に否定することも非現実的だと考えて、個別課題の現場で試行錯誤しているというのが、大方の現状だろうと思える。

私の場所から見えるいくつかの問題について書き留めておきたい。その場合、沖縄の米軍基地問題に象徴される日米同盟体制をどうするかは最大の問題のひとつだが、新政権には同盟体制を解消する意志はさらさらなく、その範囲内で基地移設の問題をめぐって各閣僚が迷走発言を続けているにすぎない。ここで言うべきことは、あまりにも明らかなので、あえて触れない。

拉致問題は、正直に言えば、新政権によって積極的な打開が図られる可能性のある案件のひとつだと私は考えていた。

拉致問題に関してつくられてきた社会的雰囲気は、歴史認識を歪め、排外主義的な日本ナショナリズムの悪扇動に道を開いてきただけに、共和国との国交正常化を実現する過程で、この雰囲気に終止符を打たなければならない。

そう考えてきた私は、「制裁ではなく交渉を」と主張し始めた拉致被害者家族会の元事務局長・蓮池透氏と対談し、『拉致対論』(太田出版)を刊行した。

刊行時期は偶然にも新政権の発足時と重なったので、私たちがそこで語り合ったことは政策提言的な意味合いも持つものとなった。結果的には(現段階では)私の希望的な観測は甘かった。

新政権でこの問題を担当しているのは、中井洽国家公安委員会委員長だが、私が見るところ、最悪の人物だと思える。

インタビューや国会審議の答弁などを読むと識見にも乏しいことがわかるが、自公連立政権時代とまったく違いのない政策方向しか持たない人物だから、である。

高校無償化法案で朝鮮学校を対象外とする政府内の動き(2月25日現在)は、中井担当相の要請によるものだが、「東アジア共同体」や「友愛外交」を掲げる首相も、この程度の水準の排外主義を諌めるだけの見識すら持たない。諦めるのではなく、政治レベルでも、当方からの多角的な働きかけがまだまだ必要な課題だと考えている。

選挙とその結果をめぐる思い――選挙と議会政治に「信」をおかない立場から


反天皇制運動『モンスター』1号(2010年2月2日発行)掲載

学生時代には「反議会主義戦線」なる運動があることを知って心ときめかせ、その後も議会制民主主義なるものにさして信頼を持っておらず、ましてや現代日本における選挙は、選挙民の中でもっとも質の悪い人物をわざわざ選び出す儀式と化している、などという悪口を日ごろから吐いていながら、開票速報には、どこか目を離せないものを感じてきているのが私である。
いつも夜更かしをして、そのまま、選挙結果を速報している朝刊を読むことになってしまう。我が事ながら、謎である。
そんな私に輪をかけるように、選挙権も持たないのに、開票速報を見るのが好きだ、と語っていた在日朝鮮人の友人もいる。
その場合は、権利を奪われていることへの怒りや悔しさと隣り合わせの関心であろうが、それにしても、選挙の何が彼女の心を掻き立てるのであろうか?
他人事ながら、謎である。
二〇〇九年夏の総選挙のときには、大きな地殻変動が起こって、それは政権交代にまで行き着いた。
選挙の結果として成立した新政権が、どんな政策を展開しているかについては後段で検討するが、まずは日本とは比較にならない、文字通りドラスティックな変化を生み出す選挙結果をもたらしている国もあることを見ておきたい。
もはや二〇年も前のことになるが、南アフリカで、悪名高いアパルトヘイト(人種隔離体制)廃絶の日程が具体化する過程で、反アパルトヘイト運動の象徴的人物であったネルソン・マンデラがおよそ三〇年ぶりに釈放された。
彼は一九六二年、武装解放組織=民族の槍(ウムコント・シズウエ)を主導的に結成したことをもって長いあいだ「国家反逆罪」を犯した「テロリスト」として監獄に幽閉されていたのだが、アパルトヘイト廃絶後の選挙で生まれた議会で大統領に選出された。
「テロリスト」が大統領になった、と書くのは正確ではない。マンデラを「テロリスト」と規定した時代の価値観と、大統領に選出した時代の価値観に、大きな変化が生まれたのである。
最近では、やはり、南米のいくつかの国の動きが注目されよう。
とくに、ウルグアイの大統領選挙では、もと都市ゲリラ活動を行なっていた人物が選ばれた。
一九三五年生まれのホセ・ムヒカという人物だ。ウルグアイでは、一九六〇年代から七〇年代初頭にかけて、トゥパマロスという都市ゲリラが活動していた。
コスタ・ガブラスが、イヴ・モンタン主演の映画『戒厳令』で、国際援助機関の職員を装って南米の某国に入国し、実は軍と警察に対して反体制活動弾圧の方針を教授する使命を帯びたひとりの米国人がゲリラに誘拐された実話を描いているが、このモデルとなる作戦を実行したのはトゥパマロスであった。
トゥパマロスは、これ以外にも、獄中同志奪還作戦(刑務所の房までのトンネルを付近の民家の床下から掘り進め、そのトンネルを伝って幾人ものメンバーを脱走させるという、信憑性が俄かには信じがたいほどの鮮やかな作戦である。
ホセ・ムヒカも一九七一年の作戦で獄中から解放されて脱走している)を数回成功させているし、大型スーパーから食料品を奪い、貧民区でそれを配布するという「義賊」のようなふるまいも繰り返した。
私は当時、トゥパマロスに関するさまざまな記録を読んでいたが、モラルの高いゲリラだったので、民衆の人気もきわめて高かった記憶がある。
トゥパマロスは、一九七三年に起きた軍事クーデタのあと徹底的に弾圧された。ムヒカも逮捕され、軍事体制が崩壊した一九八五年までの一三年間獄中にあった。
トゥパマロスは、その行動の「極左性」にもかかわらず、一貫した政権党であった親米右派のコロラド党に対抗するために左派勢力と民族主義者が「拡大戦線」なる統一戦線を形成して以来、後者を支持してきた(支持方針をめぐって、分裂は起こったが)。獄中から解放されたムヒカは、下院議員に立候補し当選した。
一五年間下院と上院で議員を務め、二〇〇五年に初めて成立した拡大戦線内閣では農牧・水産相となった。
そして今回、大統領に当選したのである。
「都市ゲリラから大統領へ」――これを認めるウルグアイ社会には、柔軟性がある。先に触れたように、トゥパマロスはそのモラルの高さゆえに民衆の支持が高かったとはいえ、それは所詮、選挙での投票行動の局面とは異なるものだろう。
ムヒカ自身は否定するが、ゲリラ時代に警官を殺害したとの嫌疑をかける声もある。
したがって、そのような人物が大統領に選出されたと知って、度量が広いというか、成熟度が高いというか、寛容性のある社会という印象を強く受ける。
日本を比較の対象とすれば、そのことがはっきり分かる。この社会では、政治犯にはことさらの重刑が科せられ、「仮釈放」とも「釈放」とも、ほぼ無縁である。
モラルを含めて、実践された「政治」の水準とも関わる問題もあるには違いない。それにしても、社会の中で人が生きる場所を得るとはどういうことか。かつて「罪」を犯した者が、どう「再生」/「新生」できるのか。
そもそも、犯した「罪」とは何か。そのことを深く考えて、次の方針を出す余裕を、私たちの社会は本質的に欠いている。
足元に還って、選挙の結果成立した鳩山政権の問題に移る。五ヵ月ほど前の発足当時から、新政権はさまざまな話題を提供してきた。
戦後史をほぼ一貫して支配してきた自民党政治が終焉したのだから、新政権への評価とは別に、ある種の解放感を多くの人びとが感じたに違いない。
私もそのひとりである。具体的な個別課題に取り組んでいればいるほど、この新しい政治状況を有利に生かしたい、とする立場が生まれることには何の不思議もない。その政権も、自業自得の理由から、もはやボロボロとも言える。
ここでは、多くの人びとがすでに発言している日米同盟と普天間問題をめぐる鳩山政権の「迷走」と、肝炎対策基本法の成立など肯定的に評価されるいくつかの施策への言及は避けて、法務省関連の諸課題について、いくつかの問題に触れておきたい。
官僚支配の政治を打破するとの公約を掲げた新政権は、そう簡単には引き下がらない官僚との熾烈なたたかいの渦中にある。
性同一性障碍との診断をうけ、女性から男性に戸籍上の性別を変更した夫が、第三者の精子を使って妻との間に人工授精でもうけた子を、法務省は「嫡出子とは認めない」との見解を、新年早々示した。
多様な形で形成されつつある家族の形を認めず、生物学的な血統主義に拘る(しかも戸籍制度を利用して)、いかにも法務官僚らしい見解だった。
数日後、千葉景子法相は、その認定が「法の下の平等に反する」との立場から、「運用や解釈で可能なのか、民法改正などの法的措置が必要なのか」を検討し、法務省見解を見直す方針を打ち出した。自民党政治時代にはあり得ないことだ。
つい最近、法務省は「殺人事件の時効廃止」を、前内閣から引き継いでいる法制審議会に提示した。
千葉法相は、審議会には前政権時代の内容にとらわれない検討を要望していたが、肝心の法務省は、事件被害者の報復感情を最大限に利用する姿勢を変えていない。
現閣僚の中でも最悪の人物と思われる中井国家公安委員長が、法務省の方針をいち早く支持したという報道があったが、むべなるかな、と思える。
これに対する千葉法相の見解はまだ伝えられていないようだが、「罪と罰」のあり方に深く関係してくるこの問題は、広く社会的に議論されるべき重要性を備えている。
千葉法相は就任会見で「個人通報権の保障」を重点課題として挙げた。
国際的な人権規約に付属する個人通報権条約を締結した場合には、国内の最高裁判所で敗訴した被害者が人権規約違反を理由に国際機関に個人通報できるという、国際的な制度的保障である。
法務官僚が、伝統的に、もっとも嫌う種類のものだ。
就任後五ヵ月、私たちに、法相が明言した方向への具体的な動きは見えず、知らされていない。たたかいが続いているのであろう。
「外国人選挙権法案 提出へ」と一時は報道されながら、連立政権の一角を形成する亀井静香の国民新党が強硬に反対していることから、この法案も迷走している。
報道によると、民主党案は、在日朝鮮人のうち「朝鮮」表記の人びとを除外する内容を持つ。
この表記の人は「国交のない国」=朝鮮民主主義人民共和国に帰属しているから、という論理に基づくようだ。
ここには、「朝鮮」表記の人びとの〈国籍〉に対する事実誤認と排除の論理が働いていると言える。方向性はよいが、法案自体が孕む問題は残る 。
最後に、もちろん、死刑制度の問題もある。法務省関連だけで、このように重要な課題が山積している。私の「議会政治」アパシーは根深いが、そうではあっても、「好機」を掴み、生かす努力を放棄はしまい、と思う。