現代企画室

現代企画室

お問い合わせ
  • twitter
  • facebook

状況20〜21は、現代企画室編集長・太田昌国の発言のページです。「20〜21」とは、世紀の変わり目を表わしています。
世界と日本の、社会・政治・文化・思想・文学の状況についてのそのときどきの発言を収録しています。

「環」(Trans-)という概念から考えるTPP問題 ――「環日本海」と「環太平洋」


『環』45号(2011年Spring、藤原書店)掲載

「環日本海」

「環」(Trans-)は、本来なら、豊かな可能性に満ちた地理的概念になり得ると思われる。私がもっとも好ましいと考えている「環」概念は、富山県が作成した「環日本海諸国図」と称する350万分の1の地図に見られる(複数の民族・国家に囲まれている公共財としての海に、特定の国家名称である「日本」を冠していることが、他者との共存を阻害する排他性を示していることに、日本社会は徹底して無自覚である。これは重大な問題だが、テーマを異にするので、ここではこれ以上は触れない)。私たちは、日ごろから、「北」を常に上位におく方位イデオロギーに貫かれた平面地図を見慣れたものとしているが、この環日本海諸国図を見ると、今まで当然と思っていた平衡感覚が揺らぐ。日本列島は、太平洋を上にして、北から南へと(南から北へ、という表現も可能である)横たわっている。海を挟んで下方には、サハリン、ロシア東端部、中国東北部、朝鮮民主主義人民共和国、韓国と続き、さらには遼東半島を経て北京・上海・香港へと至る中国大陸が広がっている。日本海は、明らかに、これらの諸国・諸地域によって囲まれた〈内海〉であることが、自然に感じとられる地図である。

この〈内海〉を、それぞれの歴史的段階において民族間・国家間の争いと侵略と戦争の場にしたのは誰か、という問いが私たちの裡に必然的に生まれるとともに、東西冷戦構造が消滅して20年近くを経た今なお、地球上で唯一なぜこの地域には冷戦構造が維持されているのかという内省へも、私たちは行きつかざるを得ない。地方自治体や非政府組織が軸になって、環境問題などをめぐって国境を超えて「環日本海」の協働関係をつくろうとする努力は続けられてきているが、国家のレベルでは、残念ながら、そうではない。「環」を形成する諸国が、対等・平等な関係性の中で、対立/抗争の〈内海〉を、いかに、平和のそれに転化できるかが、今こそ問われている。

「環太平洋」の歴史的文脈――「黒船」の意味

さてここでの問題は、Trans-Pacific という概念である。「環太平洋」なる概念はとてつもなく広い。南米の最南端チリから、中米・北米諸国をたどり、ロシアのシベリア地域を通って東アジア諸地域、東南アジア多島海地域、オーストラリア、ニュージーランへと至り、またそれらに囲まれた南太平洋の島嶼国も含まれる。30ヵ国以上にも上るかと思われる該当国の中にあって、ひときわ異彩を放つのは米国である。なぜなら、この国は、東海岸を通してTrans-Atlantic(環大西洋)に繋がり、アメリカ大陸に位置することによってラテンアメリカ・カリブ海域と一体化した汎米州(パン・アメリカン)共同体的なふるまいを行ない、西海岸を通してTrans-Pacific(環太平洋)諸国の一員であるという顔つきもできるという、世界でも唯一の地理的「特権性」を享受しているからである。さらに、この国は、政治・経済・軍事の分野ではもとより、文化的影響力の大きさにおいても、かつてほどではないにしても現在なお、他の諸国に比して群を抜いており、加えて国際的な関係を他国と結ぶうえで、この国が対等・平等であることを心がけたことなどは一度もないからである。

米国が、環太平洋への出口を獲得したのは19世紀半ばであった。

3世紀に及ぶスペインによる植民地支配からメキシコが独立したのは1821年だったが、当時はメキシコ領であった現テキサス地域が1836年に分離したのは、「西部開拓時代」の只中にあって「西へ、西へ」と向かう米国の干渉によるものだった。これに奏功した米国は1846年にはメキシコに戦争を仕かけ、これに勝利した戦利品として、コロラド、ニューメキシコ、ユタ、アリゾナ、ネバダ、カリフォルニアという、現メキシコの2倍以上もの資源豊かな領土を奪い取った。1823年のモンロー宣言によって、アメリカ大陸からヨーロッパ列強の影響力を排除することを企図した米国は、今度は太平洋への出口を獲得したのである。米国の、環太平洋への進出の動きは素早かった。対メキシコ戦争に参戦したペリー総督は、艦隊を率いてインド洋に展開していたが、彼がその黒船を率いて、当時鎖国中であった日本の浦賀沖に現われて、砲艦外交によって開国を迫ったのは1853年のことである。19世紀前半の、この30年間有余に凝縮している米国の「拡張史」からは、「帝国」形成期における海外侵略のエネルギーの強靭さが見て取れる。

米国はさらにインディアン殲滅戦争を続行するが、これにほぼ奏功して国内統治を完璧なものにした19世紀末、その意識では「裏庭」と捉えているカリブ海域、および太平洋を横断し(trans-)、遠く東アジア地域への進出を果たした。そしてキューバとフィリピンの民衆の反植民地闘争がスペインからの独立を目前にしていた段階で、米国は陰謀的な手段で介入し、局面を米国・スペイン戦争に変えてしまったのである(1898年)。勝利した米国は、フィリピン、グアム、プエルトリコをスペインから奪い、キューバをも実質的な支配下に置いた。

TPPの歴史的文脈――中南米での教訓

米国は、19世紀の前半から後半にかけて確立したこのような地理的優位性を基盤に、20世紀における世界支配を実現してきた。1917年から91年までは、ソ連型社会主義との熾烈な競争・闘争もあったが、そのソ連が無惨な崩壊を遂げたときには、資本主義が絶対的な価値をおく「市場原理」の勝利を謳歌した。それ以降の20年間、新自由主義(ネオリベラリズム)とグローバリゼーションの掛け声の下に、地球(globe)全体を丸ごと支配する方策を模索してきているが、自由貿易はそのもっとも重要な軸であった。1994年、米国はまずカナダ、メキシコとの間で「北米自由貿易協定」(NAFTA)を実現した。関税障壁を15年間かけて撤廃したこの協定は、3億6千万人を包括する自由貿易協定として全面的に実施されている。世界最強の大国と第三世界の国が同じ自由貿易圏に入ると、いかなる結果がもたらされるか。農産物を例にとれば、メキシコの米国に対する輸入依存率は、協定前の5~10%から40~45%に高まった。農民の4割に相当する250万人が離農し、多くは職を求めて米国へ渡った(註1)。農地の一部は多国籍企業の手に渡り、先進国の食肉需要を満たすための牧草地とされた。

米国は、この余勢を駆って、クリントン、ブッシュ(子)の二代の大統領の任期を通じて、キューバを除外した米州自由貿易圏(FTAA)の実現に全力を挙げた。ガットなきあとの世界貿易機関(WTO)が思うようには機能できず、「内外無差別な投資の自由」を推進しようとした「多国間投資協定」(MAI)も、欧米のNGOを中心とした強力な反対運動によって頓挫を余儀なくされたために、世界全体に自由貿易を強要する企図を早期に実現する見通しを失った。そこで、二国間、あるいは地域限定の自由貿易体制をつくることで、突破口を切り開こうとしたのである。

2005年11月、アルゼンチンで第四回米州サミットが開かれた。ブッシュ大統領は、人口8億5千万人、GDP約13兆ドルの世界最大の市場を包括する米州自由貿易圏構想をここで一挙に実現しようとしていた。だが、1970年代半ば以降、世界に先駆けて新自由主義経済政策の荒々しい洗礼を受けていて、それによって荒廃した社会状況の辛酸をなめていたこの地域には、政府レベルでも、民衆運動レベルでも、新しい力が育っていた。新自由主義とグローバリゼーションに異議を唱え、それとは正反対の価値観、すなわち、連帯・共同・相互扶助の精神によって、地域共同体をつくろうとする大きな動きである。ブッシュ構想は、そのような各国政府から激しい批判を受けた。構想に抗議する五万人の民衆が会場を包囲した。ブッシュ構想は、あえなく潰えた。

世界貿易機関の「円滑な」運営や多国間投資協定および米州自由貿易圏を挫折させたのは、少数の大国が思うがままに作り上げてきた貿易秩序に「否!」を唱え、富裕国と貧困国の間に、公正で対等な経済秩序を打ち立てようとする民衆運動の力である。残念ながら、日本では実感できないその力が、世界的には、放埓な新自由主義とグローバリゼーションの跳梁を現実に阻止してきた。

2006年に、シンガポール、ニュージーランド、チリ、ブルネイの四ヵ国が発効させたTPPは、いわば「小国のFTA(自由貿易協定)」であった。米国のオバマ大統領が2009年にこれへの参加を表明し、それは「帝国のFTA」に豹変した(註2)。19世紀以降、米国が一貫して追求してきた自国利害優先の世界戦略にひとつの自己懐疑もおぼえたことのない米国は、「環」の理念を身勝手に利用して、19世紀半ばの帝国主義時代の価値観に基づいて、「太平洋地域」への介入を試みているのである。

世界史を顧みると、植民地支配や侵略戦争など「人道への犯罪」を積み重ねてきた欧米諸国と日本が、現在に至るまで政治・経済・軍事の世界秩序を主導的に形成してきている。

それは「もう、たくさんだ!」と拒否するところで、上に見た多様な抵抗の言論と活動が展開されている。このような歴史過程のなかに、TPPをめぐる攻防を据えること。それによって私たちは、「現在」だけに視野を拘束されない歴史的な奥行きと深みの中で、TPPの背後に広がる事態の本質を掴むことができる。

対米追従の歴史的文脈――「環日本海」と「環太平洋」

日本では2009年に民主党政権が発足した。鳩山首相は、最初の演説で「東アジア共同体」に触れたり、沖縄に集中している在日米軍基地に関しても、歴代の自民党系列の為政者からは聞かれなかった方針を明示したりして、戦後60年有余の澱んだ政治に何らかの新しい光景が開かれていくか、と思わせるものがないではなかった。

だが、いまとなっては、その後の顛末を振り返ることすら虚しい結末となって、鳩山時代は終わった。継承したのは、市民運動出身を標榜する菅直人首相である。菅氏は野党時代には「海兵隊は即座に米国内に戻ってもらっていい。民主党が政権を取れば、しっかりと米国に提示することを約束する」(民主党幹事長時代の、那覇市での選挙演説、2001年7月21日)とか、「沖縄から海兵隊がいなくなると抑止力が落ちるという人がいるが、海兵隊は(日本を)守る部隊ではない。地球の裏側まで飛んでいって、攻める部隊だ。沖縄に海兵隊がいるかいないかは、日本にとっての抑止力とはあまり関係がない」(民主党代表代行時代、2006年6月1日)などと語っていた。ところが、首相就任直後の2010年6月には「海兵隊を含む在日米軍の抑止力は、日本の安全保障上の観点から極めて重要だと考えている」(衆院本会議、2010年6月14日)と答弁し、また「普天間基地の辺野古移設を明記した先般の日米合意を踏まえ、しっかりと取り組んでいきたい」とオバマ大統領との電話会談で語りかけた(2010年6月6日)。菅氏がこのような開き直りの口実に使った出来事はあった。尖閣諸島をめぐる中国との角逐、竹島(独島)の占有権をめぐる韓国との争い、そして北朝鮮の軍事優先主義を示すいくつかの行動である。

菅氏は、環(trans-)日本海地域が直面している困難な事態を歴史的な責任を賭けて切り開く道を選ぶのではなく、むしろアジア近隣諸国との正常ならざる関係を奇貨として、はるか太平洋の向こうにある(trans-)米国との軍事同盟に日本の命運を託すという方針を、問わず語りに明かしたのである。「環」の論理が孕む豊かな可能性をなきものにし、逆に、身勝手な自己流の論理の中に「環」が有する地理的関係性を巻き込んでしまったのである。

戦後60年有余、パックス・アメリカーナ(米国による、米国のための平和)の傘の下に置かれた日本が、自らの意思に基づいて、政治・経済・日米同盟などについての指針を持つことがなかった事実については、批判派からの提起が何度もなされてきた。菅氏の前述の諸発言を思うと、根はもっと、歴史的に深いところにあるように思える。冒頭で触れたペリー来航からわずか5年目の1858年には、日米修好通商条約が締結された。周知のように、これは、日本が関税自主権を放棄し、片務的最恵国待遇を保証した不平等条約であった。米国が「修好」の名の下に、この種の二国間条約の締結を相手の「小国」に強要する例は、その後も枚挙にいとまがないままに、21世紀の現在にまで続いている。近代から現代にかけての日本は、もっとも愚劣な方法で米国に対抗した真珠湾攻撃(1941年)から敗戦に至るまでのわずかな期間を除いて、戦前も前後も、米国のこのような論理にまともに討論を挑み、抗議し、関係の是正のために尽力することを怠った。被害者意識だけを募らせたその果てに、明治維新後の1875年、近代日本は朝鮮に対して江華島事件を引き起こすことで、4隻の黒船から受けた砲艦外交と同じことをアジア諸地域に対して行ない始めた。1869年の蝦夷地併合(北海道と改称)を契機として、すでに植民地帝国としての近代日本の歩みは始まっていたが、その6年後には、もっとも近隣の国に対する露骨な介入を開始したのである。

菅氏は、この「第一の開国」が孕む問題性を自覚しているのだろうか、無自覚なのだろうか。2010年11月、突然のように、TPPへの参加の意思表示を行ない、もって「平成の開国」と呼び始めた(註3)。「第三の開国」とも称しているが、これは、アジア太平洋戦争における敗戦を、なぜか「第二の開国」と数えているからである。

このような菅氏の歴史認識のあり方は、大いに疑わしい。一部の人びとが抱いたであろう(私とて、一部の政策分野に関しては、そうであった)民主党政権に対する淡い期待は、急速に冷めつつある。その対米従属ぶりは自民党政権時代よりひどいというのが、多くの人びとの実感であろう。思い起こせば、しかし、「労働党」を名乗るイギリスのブレアも、「9・11」以後、ブッシュ路線への驚くべき追随路線を実践してみせた。議会制民主主義国における二大政党制なるものは、所詮、微小な差異を示すものでしかない、あるいはほぼ同根の価値観を持つものでしかないと腹をくくった地点で、事態を捉えなくてはならないのであろう。

TPPが包括するさまざまな産業分野に即して、また日本の現状に照らして、これに反対する論理を展開することは必要であるが、それはすでに多くの方々によって有効な形で行なわれている。TPPは、現在の構想で実現されるなら、物品貿易の全品目の関税を即時ないしは段階的に撤廃するばかりか、貿易保険、知的財産権、投資、労働、環境、人の移動などにも関わる包括的な協定である。

ナショナリズムによらないTPP批判を

このように人間生活のあらゆる分野を包み込むものであるから、「食」と「農」だけが特別視されるべきものではない。だが、TPP反対論を総体として眺め、「ナショナリズム」の匂いが鼻につくのは、ひとが「食」と「農」について語るときであることが多い。私は、TPP反対の論理にナショナリズム――それは、「国家主義」とも「民族主義」とも解釈されうる。あるいは、言葉遣いによっては「日本至上主義」というべき言動も、ないではない――が入り込む余地をなくすべきだと考えている。

去る2月26日、370人の参加を得て東京で開かれた「TPPでは生きられない! 座談会」(「TPPに反対する人々の運動」主催)での多様な人びとの発言に耳を傾けてみても、反TPPの多様な声のなかには、「国産品を買おう」という声も混じる。「水田耕作を守ることは日本文化の基本」と叫ぶひともいる。それは、私が受ける印象では、東日本大震災以降、「国難」論に基づいて、事態(とりわけ、原発危機)の責任者を名指しすることもなく煽られている「国を挙げての復興キャンペーン」にも似た「国民運動」の呼びかけとも重なってくる。

ひとは、「国産品だから」安心して、買い求め、食するのだろうか。私たちが、どんなにささやかであろうとそれぞれ可能な形で、有機農産物の産地=消費地提携活動や地域内循環(地産地消)に関わっているのは、それはいきなり「国産品」とか「日本製品」を尊重する意識に飛んでいるのではなく、限定的な地域(ローカル)で貌が見える関係性のなかで培われた双方の信頼感を基にしているからである。あの米国においてでさえ、大都市近郊には「地域支援型農業」(CSA=Community Supported Agriculture)が広がり、連帯経済の新しい形態として注目を集めているという(註4)。「国産か否か」が問題なのではなく、「有機か否か」を問うことがここでの問題だろう。直接交流しているわけでもない世界のどこにあっても、同じ志の仲間がいると思うとき、「国産品なら良い」とする意識も言葉も、自然に消えていくだろう。

水田も、日本だけの稲作形態ではない。中国にも、インドにも、パキスタンにも、それは多く見られる。ラテンアメリカ、北米、アフリカ、南ヨーロッパにもそれは見られる。私の世代なら、シルヴァーナ・マンガーノの美しさが忘れられない戦後のイタリア映画『苦い米』を脳裏に浮かべて、あの時代のイタリアにも水田耕作が行なわれていた地域があったのだと思うこともできる。自らが営む水田の光景の美しさや産米の美味しさを言いたいなら、その地元の名や、新潟や宮城の地域名で(ローカルに)表現すればよい。国家名である日本がそこに登場する必然性は、まったく、ない。「日本の水田」の美しさや文化性が、ことさらに強調される謂れは、ない。世界じゅうのそれぞれの地域での生産様式と調理方法・食べ方を等価で表現できる境地へ、私たちの意識が流れていけばよい。

この社会では、「日本文化特殊論」が、ある誇りをもって強調されてきた。それが、排他的な自民族中心主義に容易に収斂していった苦い歴史も、私たちは経験してきた。「日本海」という呼称と同じく、きわめて排他的で、「井の中の蛙」的な論理に落ち込む隙を、私は排除したいと思う。

(註1)メキシコ全国農業生産取引業連合のビクトル・スアレス執行理事の談話(「しんぶん赤旗」2010年12月6日付け、メキシコ駐在・菅原啓記者)

(註2)田代洋一「TPP批判の政治経済学」(農文協編『TPP反対の大義』所収、農文協、2010年)

(註3)この問題性に関しては、宇沢弘文もさまざまな機会に指摘している(「TPPは社会的共通資本を破壊する」内橋克人との対談、『世界』2011年4月号、岩波書店)

(註4)北野収「脱成長と食料・農村」(『人民新聞』2011年1月5日付け)。他に、「地域支援型農業 CSA」で検索すると、インターネット上でいくつもの有意義なサイトを参照することができる。

(2011年4月1日記)

太田昌国の夢は夜ひらく[12]環太平洋経済連携協定(TPP)をめぐる一視点


反天皇制運動機関誌『モンスター』第13号(2011年2月8日発行)掲載

世界で唯一冷戦構造が残る東アジアの状況をいかに打開するかの指針ひとつ示すこともない菅民主党政権が、環太平洋経済連携協定(TPP)については、参加に向けて前のめりになり始めたのは昨年末だった。11月9日、TPPについて「関係国との協議を開始」する基本方針を閣議決定したのだ。翌日10日の日経紙は、それが「事実上の日米FTA(自由貿易協定)になる」と報じた。年が明けて、TPP参加を念頭においた首相の口からは、「平成の開国」「第三の開国」などという大仰な言葉が飛び出すようになった。

元来これは、2006年、ブルネイ、チリ、ニュージーランド、シンガポールの4ヵ国が開始したFTAである。例によってこれに米国が参入の意思を表明した。[「環太平洋」という地域概念に関わることなので、長くなるが、以下の点には触れておきたい。私は思うのだが、1846~48年のメキシコ・米国戦争と、勝利した米国がテキサス、カリフォルニアなどの広大な地域をメキシコから奪って太平洋岸へ達したことは、その後の世界にとって痛恨の出来事であった。大西洋に面しただけだった国は、「西部開拓史」の頂点をなすこの史実によって、世界最大の2つの海洋に出口をもつ大国となった。象徴都市ニューヨークを基軸に大西洋を通してヨーロッパへも、環太平洋圏にも含まれていると言い張って遠くアジアへも、そして米州圏に位置することでカリブ海域とラテンアメリカ全域へも、政治・経済・軍事・文化のあらゆる面で「浸透」を遂げてゆく世界に稀な「帝国」の礎は、まさにこの19世紀半ばの戦争と領土割譲によって築かれたのである。この出来事から5年後の1853年に、対メキシコ戦争への参戦を経て早くもインド洋に展開していた米国・ペリー総督下の艦隊は「黒船」として浦賀沖に現われ、日本に開国を迫って砲艦外交を繰り広げた。東アジア世界には精神的に閉じたままで(冷戦解消の努力もせずに「精神的な鎖国」をしたままで)「開国」を語る首相の目線は、どこを向いているのか。右に述べたような歴史的展望を背景に、首相の真意を厳しく問い質す声が、もっとあっていいだろう。]

歴史哲学を欠いた首相には、同じ水準の閣僚が随伴している。海江田経済産業相は「TPP参加は歴史の必然」と語る。前原外相は「TPPは日米同盟強化の一環」と発言する。後者の発言は、確かに、日米両国の政府関係者によって構成されている政策シンクタンクが昨秋提言した内容に合致している。軍事面での強い同盟関係には健全な財政基盤が不可欠だとする立場から、米国がすでに参加を表明しているTPPに日本も加わり、アジア太平洋自由貿易圏(FTAAP)構想の実現へ向けて積極的な役割を果たすべきだとするのが、その提言の核心だからである。

現状では、TPP交渉への参加を表明しているのは9ヵ国だが、仮に日本がこれに参加するなら、日米合わせたGDP(国内総生産)は全体の9割を超える(2009年実績)。しかも日本は、9ヵ国のうち6ヵ国との間ですでに二国間経済連携協定(EPA)を締結している。「日米間の経済協定」でしかないTPPの本質は、ここに表われている。

米国は、1994年に発効した北米自由貿易協定(NAFTA)までは、思うがままに自らの意思を押し通すことができた。余剰農産物をメキシコへ輸出し、メキシコ農業を破壊し、ただでさえ貧しいメキシコ農民をさらに貧窮に追い込んだが、知ったことか。だが、この自由貿易圏を(キューバを除く)カリブ・ラテンアメリカ全域に拡大しようとしたブッシュの試みは、自由貿易の本質を見抜いた同地の新生諸政府と民衆運動の抵抗によって、2005年に挫折した。GATT(関税及び貿易に関する一般協定)なき後のWTO(世界貿易機関)を通しての多角的交渉も失敗を重ねている。この機関が多国籍企業が企図する世界制覇の代理人であると察知した世界各地の民衆運動の粘り強い抵抗があるからである。また、農業政策をめぐって、富裕国と貧困国との間には、埋めがたい溝があるからである。

通商問題が、超大国の言いなりには進行しない現実は、こうして世界各地に作り出されている。自由貿易を、二国間あるいは「環」で括られる地域限定で実施しようとするものたちの意図を正確に射抜いた批判的言論を、「食と農のナショナリズム」から遠く離れた地点で、さらに展開しなければならぬ。(2月4日記)

憲法9条と日米安保・沖縄の基地を共存させている「民意」


『支援連ニュース』第332号(2011年1月26日発行)掲載

政治家が吐く言葉が虚しいというのは、世界のどこにあっても、多くの人びとの共通の思いだ。代議制の政治において、「選ばれたい」と好んで選挙に群がってくるのは、権力や金力や世襲制などにとても近しい感情を持つ連中が大多数である以上、そしてそれが選挙権を持つ大衆によって許容されている以上、これと同調できない者が持つ虚しさの感情は、世界のどこかしこで、際限なく続いてきた。私は思うのだが、選挙とは、有権者のなかでもっとも奢り昂ぶっている人物を、つまり金の力と、権力と、親の威光とを最悪の形でかざす人物を、わざわざ選びだす儀式と化しているのではないだろうか。

最近の日本でいえば、小泉という男が首相であった時代――それは、2001年から2006年までの時期のことだったから、現代的な時間の流れの速度でいえば、「もはや昔」の話に属する――に、つくづくそのことを痛感した。大した苦労もなく育ったことによって屈託もない笑顔を常に浮かべていることができた時期の加山雄三のような男とでもいおうか、歴史や思想を背景に深く考えるという訓練を積んでこなかった小泉は、(時に苦しまぎれにでも)即興で口にした短い言葉が、けっこう「世間」的には通用する、否、むしろ「受ける」ことを知って、5年ものあいだ徹底してその場所に居座った。居直った、と言ってもよい。思い出したくもない、無惨な言葉の数々をこの男は遺した。

この時期の私の思いは、単純に政治家個人の言葉に対する虚しさというのではなく、その虚しい言葉を連発する男に「世論」の共感が集まっているという意味で、もっと複雑で、にがいものだった。ある社会が、他地域の植民地化・侵略戦争へと向かって、雪崩を打って巻き込まれていった過去の歴史的な時代を回顧したときに否応なく生まれる思い――人間っていうものは、どうしようもないものだなあ、という感慨を持たざるを得なかった。この時期、政治全般で、とりわけ経済と軍事の領域で、日本社会のあり方を大転換させる政策が次々と採用されていった。弱肉強食の新自由主義経済秩序の浸透によって社会がずたずたに切り裂かれ、同時に、世界第一・第二の経済大国である米日二国が軍事的協力体制を強化しているという、経済と軍事の「現在」は、あの小泉時代の政治の直接的な延長上にある。

そのころ、小泉は、おそらく、政治の虚しさを実感させる頂点のような言動を弄する人物だろうと私は思っていた。ところが――これと同等の、いや見方によっては、はるかに上手、がいたのだ。

(1) 「海兵隊は即座に米国内に戻ってもらっていい。民主党が政権を取れば、しっかりと米国に提示する事を約束する」(2001年7月21日)。

(2) 自民党政権下では「政権が変わるたびに新しい首相は真っ先に首相官邸のホットラインで米国大統領に電話し、日米首脳会談の予定を入れるという『現代の参勤交代』とも言うべき慣行が続いている」(2002年9月)。

(3) 「沖縄から海兵隊がいなくなると抑止力が落ちるという人がいるが、海兵隊は(日本を)守る部隊ではない。地球の裏側まで飛んでいって、攻める部隊だ。沖縄に海兵隊がいるかいないかは、日本にとっての抑止力とはあまり関係がない」(2006年6月1日)。

野党の政治家なら、この程度は言って当然というべきこれらは、いずれも、菅直人という名の政治家がかつて行なった発言である。(1)と(2)は、民主党幹事長時代のもの、とくに(1)は参議院選挙のさなかに那覇市で行なった演説の一節である。(3)は、民主党代表代行時代の発言だ。

その菅は、前任者・鳩山が自滅して後任の首相に就いた2010年6月6日、米国大統領に真っ先に電話し、「普天間基地の辺野古移設を明記した先般の日米合意を踏まえ、しっかりと取り組んでいきたい」と語りかけた。さらに、6月14日の衆院本会議で「海兵隊を含む在日米軍の抑止力は、日本の安全保障上の観点から極めて重要だと考えている」とも語った。そして、新しい年が明けて開かれた通常国会では、1月24日の施政方針演説で「日米同盟はわが国の外交・安全保障の基軸であり、今年前半に予定されている訪米時に21世紀の日米同盟のビジョンを示したい」と断言した。

大きな信頼感を抱いているわけでもなかった政治家だが、これらの発言の間に横たわる「落差」と「矛盾」には、頭がくらくらする。小泉の場合には、以前と後の言動が大きく食い違っているという問題ではない。非歴史的かつ非論理的な発言をしておいて、恬として恥じないという(これはこれで困った特質だが)ところから派生する問題である。菅の場合は、右に掲げた野党時代の意見と、首相になって以降のこの間の言動を比較対象されたなら、人間としてナイーブな存在を想定するなら、身もだえして我が身の置き所がなくなるような矛盾である。結果的にはとても脆いものではあったが、鳩山由紀夫が最初に持っていた程度の「逡巡」や「迷い」すらも、首相に就任した菅は当初から示すことはなかった。ひとは誰でも、時に矛盾に満ちた言動をしがちである、という一般論に流し去ることはできない。政治的・社会的責任を伴う立場の人間の、底知れぬ暗闇をもった「転向」なのだから。

だが同時に、菅のこの転向が、他ならぬ「世論」によって支えられているという点を見逃すわけにはいかない。菅政権は、世論調査によれば、支持率は低い。昨今の世論調査では、設問の設定にも依るのであろうが、いかようにも浮遊する気まぐれな世論の傾向が浮かび上がるだけだから、どこまで信をおくに値するか、という疑問があるにしても。しかし、こと外交政策の問題としては、アジア諸海域への中国の軍事的台頭や北朝鮮の軍事冒険主義に大きな脅威を感じて、日米同盟の強化と自衛隊の装備増強を容認しているのが、世論なるものの大方の流れであることは、無念ながら、認めざるを得ないようだ。それがはっきりと表われたのは、昨年5月、民主党政権が鳩山から菅へと移行した際の、社会の動向だった。マスメディアの報道傾向も大きく影響したと思われるが、普天間基地の「移設先」(移設先という発想が、そもそも、おかしいのだが)を最低でも県外と公約していた鳩山が為すすべもなく対米追随へと落ち込んでいったとき、世論の大勢は、確かに、公約違反の鳩山を批判し、沖縄の民意に「同情的」だった。その鳩山が行き詰って退陣し、菅が首相に就任し、先に触れたように「日米合意厳守」の方針を明らかにしたときに、世論は急速に菅支持の傾向を示した。すなわち、社会の大勢は、公約違反の限りにおいて鳩山を批判したが、沖縄に米軍基地の過重負担を強いている現行の日米安保体制そのものには無関心であること――したがって、現状を肯定していることを自己暴露したのだった。

私たちは現在、このような社会状況のなかに位置している。沖縄のジャーナリスト、新川明は5年前に次のように語った。「憲法9条が成立しうる根拠は沖縄に米軍基地があるからだ。それがあって日本国が守れるという担保の構造を日本国も良しとしてきた」(『世界』2005年6月号)。これを換言すると、「戦争は嫌だが、中国や北朝鮮の脅威に向けて日米安保と沖縄の基地は必要だ」というのが、日本社会に住む者の多数派の意見だということになる。ここをいかに突き崩すか。今後の課題は、ここにある。

太田昌国の夢は夜ひらく[11]遠くアンデスの塩湖に眠るリチウム資源をめぐって


反天皇制運動機関誌『モンスター』第12 号(2011年1月11日発行)掲載

昨年12月、ボリビアのエボ・モラレス大統領が日本政府の招待で来日した。朝日と日経の二紙が経済面の大きな紙面を割いて、この訪問を報じた。同国には、東京都の6倍の面積を持つウユニ塩湖があり、その地底には世界の埋蔵量の半分を占めるリチウムが眠っている。携帯電話、パソコン、デジカメ、電気自動車、ハイブリッド車など現代文明の象徴というべき製品を動かす電池に、リチウムは欠かせない。その共同開発について協議するための来日である。

2006年に大統領に就任して以来、モラレスは国内にあっては「互恵と連帯を基盤にした共同体社会主義」を掲げて、諸施策を実行してきた。対外的には、帝国主義と植民主義を排して石油と天然ガスを国有化し、そこで得られた収益を子どもと老人に優先的に還元する福祉政策も実施した。リチウム開発に関しても、外国の技術を必要とはしているが、それがかつての銀や錫のように国内への経済的還元もないままに外国に持ち出されるだけだという不平等交易にならぬよう、細心の方針を立てることができるだろうか。中国、韓国、イラン、フランス、日本など、リチウムを求めてボリビアと密接な関係を結ぶ熱意を示している各国の側にも、対等・平等な交易関係樹立に向けての姿勢が問われるところである。因みに、昨夏訪韓したモラレス大統領は、「韓国とボリビアはともに植民地支配される痛みを経験していることで、信頼し合える」という趣旨の発言をしている。資本主義の獰猛な本質に、敢えて目を瞑ったリップサービスだったのだろうか?

近代化が困難な環境問題を伴うことは、今や自明のことだ。マルクスも注目した16世紀に始まるポトシ鉱山からの富の収奪構造に長いこと縛られてきたボリビアは、現政権の下で「母なる大地の権利法」を定めたばかりだ。国際社会に環境債務の存在を認めることを求め、母なる大地の権利と共存しうるかつ有効な形での環境技術の提供や資金供与を求めること/2カ国間・域内諸国間・また多国籍機関において、母なる大地の権利の承認と擁護を進めること/母なる大地を対象物としてではなく、公益の集団的主体としての性格を認めること――などを定めている。これが、開発に参与するであろう外資の、資本主義的衝動の放埓さをよく制御し得るか、が問題である。

前世紀末以降のここ十数年来は、反グローバリズムの最前線に立つラテンアメリカ地域だが、新自由主義が猛威をふるっていた頃この地域に浸透したモンサント社などの多国籍企業が行なってきた事業の結果は、今でこそ、恐るべきものとして現出している。遺伝子組み換え大豆の栽培と枯葉剤の散布によって、アルゼンチン、ブラジル、パラグアイなどで不妊・流産・癌・出生異常などのケースが急増していることがアルゼンチンの科学者によって明らかになった(11年1月6日「日刊ベリタ」www.nikkanberita.com)。ウユニ塩湖で、今後なされるリチウム開発の行方が、国際的に監視されるべき理由である。

日本資本主義の意向を反映せざるを得ない大メディアが、ボリビアのような「小国」のニュ-スを取り上げるのは自国経済の浮沈に関わる限りでしかないことは、ありふれた風景だ。だから、この情報封鎖の壁を破って、ボリビアが右の「権利法」の精神を国際社会に根づかせるための努力を行なっていることを、私たちは知っておくことが必要だ。

紙幅の都合でひとつだけ挙げよう。国連気候変動枠組み条約締結国会議は、09年にはコペンハーゲンで(COP15)、10年にはメキシコ・カンクンで(COP16)開催された。コペンハーゲン合意の水準に危機感を抱いたボリビア政府は、同国NGOとも組んで、10年4月、同国の都市コチャバンバで「気候変動および母なる大地の権利に関する世界民衆会議」を開いた。世界中から数万人が集まった会議では、国家指導者が集まる国際会議とは異なり、貧者の意思を体現した「合意文書」が発表された(現在、編集・翻訳中)。

危惧もある。モラレス政権は、イランの協力を得て原子力発電所建設を検討している。ボリビアとイランに共通する「抗米」の意思表示としての意味はともかく、電力不足解消の名目があるにしても「母なる大地」は原発に耐えられるかという問い直しが、近代主義的マルクス主義の超克をめざしていると思われるモラレスだけに、ほしい。(1月7日記)

太田昌国の夢は夜ひらく[9]メディア挙げての「チリ・地底からの生還劇」が描かなかったこと


反天皇制運動機関誌『モンスター』第10号(2010年11月9日発行)掲載

チリ・コピアポの鉱山で生き埋めになった鉱山労働者33人の救出作業は、テレビ的に言えば「絵になる」こともあって、世界じゅうで大きく報道された。

地底で極限状況におかれた人びとがそれにいかに耐えたか、外部の人間たちが彼らの救出のためにどんなに必死の努力をしたか。それは、どこから見ても、人びとの関心を呼び覚まさずにはおかない一大事件ではあった。

メディアの特性からいって、報道されることの少なかった(すべてを見聞できたわけではないから「皆無だった」と断言する条件はないが、気分としては、そう言いたい)問題に触れておきたい。

メディアが感動的な救出劇としてこの事件を演出すればするほど、北海道に生まれ育った私は、子どもの頃から地元の炭鉱でたびたび起きた坑内事故と多数の死者の報道に接していたことを思っていた。

九州・筑豊の人びとも同じだっただろう。事故が起こるたびに、危険を伴なう坑内労働の安全性について会社側がどれほどの注意をはらい、対策を講じてきたのか、が問われた。

鉱山労働者の証言を聞くと、身震いするほど恐ろしい条件の下での労働であることがわかったりもした。

一九六〇年――「60年安保」の年は、石炭から石油へのエネルギー転換の年でもあった。九州でも北海道でも閉山が続いたが、「優良鉱」だけはいくつか残された。

当時の世界の最先端をゆくと言われていた「ハイテク炭鉱」北炭夕張新炭鉱で、今も記憶に鮮明な事故が起こったのは一九八一年十月であった。

坑内火災を鎮火するための注水作業が行なわれたのは、59人の安否不明者を残したままの段階であった。

「お命を頂戴したい」――北炭の社長は、生き埋めになっているかもしれない労働者の家族の家々を回り、こういう言葉で注水への同意を得ようとした。「オマエも一緒に入れ!」と叫んだ人がいた。

結局亡くなったのは93人だった。翌年、夕張新鉱は閉山した。他の炭鉱も次々と閉山して、炭鉱を失った夕張市が財政破綻したのは四年前のことである。私の目に触れた限りでは、10月14日付東京新聞コラム「筆洗」がこれに言及した。

遠いチリの「美談」の陰から、 近代日本がその「発展」の過程で経験したいくつもの鉱山での人災を引きずり出せたなら、すなわち、一人の絵描き・山本作兵衛か、一人の物書き・上野英信の感性を持つ者が現代メディアにいたならば、問題を抉る視点はもっと確かなものになっただろう。

チリ現地からの報道では、救出される労働者をカメラ映りの良い場所で迎える大統領セバスティアン・ピニェラについての分析が甘く、「演出が鼻につく」程度の表現に終始した。

現代チリについて想起すべきは、まず一九七〇年に世界史上初めて選挙による社会主義政権が成立したこと、新政権下での銅山企業国有化などによってそれまで貪ってきた利益を剥奪された米国政府・資本がこれを転覆するために全力を挙げたこと、その「甲斐あって」一九七三年に軍事クーデタを成功させ社会主義政権を打倒したこと、の三点である。

さらに、21世紀的現代との関連では、軍政下のチリがいち早く、いま世界じゅうを席捲している新自由主義経済政策の「実験場」とされたことを思い起こそう。

貧富の格差が際立つチリ社会にあって、社会主義政権下と違って、社会的公正さを優先した経済政策が採用されたのではない。

外資が投入されて見せかけの繁栄が演出された。経済秩序は、雇用形態・労働条件・企業経営形態などすべての面において、チリに暮らす民衆の必要に応じてではなく、米国や国際金融機関が描く第3世界戦略に沿って組み立てられたのである。

現大統領ピニェラの兄、ホセ・ピニェラは、軍政下で労働相を務め、鉱業の私企業化と労働組合の解体に力を揮った。

新自由主義経済政策は国外からの投資家に加えて、国内の極少の経済層を富ませるが、ピニェラ一族はまさに、世界に先駆けてチリで実践された新自由主義的政策によって富を蓄積し、鉱業・エネルギー事業・小売業・メディア事業などに進出できたのだった。

もちろん、そこでは、労働者の安定雇用・労働現場の安全性を含めた労働条件の整備などが軽視されていることは、日本の現状に照らして、確認できよう。

救出された労働者を笑みを浮かべて迎えた大統領の裏面を知れば、チリの今回の事態も違った見え方がしてこよう。

(11月5日記)

いわゆる「尖閣諸島」問題について


『人民新聞』2010年10月15日号掲載

国家を背景にして発言したくはない、と思い続けてきた。国家人あるいは国民という自己規定に基づいて発言することはしたくない、とも。
それは、先人たちが火傷を負い、他民族にまで害悪を及ぼした日本民族主義・日本国家主義の克服をめざす立場から、である。加えて、国家なるものは、私自身のアイデンティティを最後まで根拠づけてくれるような存在ではないからである。

人類史をふり返ってきて、たかだか数世紀の歴史しかもたない近代国家の枠組にわが身を預けてしまうことの、自他に対する「危うさ」を知ったからである。

そのような立場から、いわゆる北方諸島問題について発言したことがある。

ソ連体制末期の一九九一年、当時のゴルバチョフ大統領の来日が予定されていたころ、日本での「北方領土返還運動」はメディア上での世論扇動も、右翼の情宣活動もピークに達していた。

日本もソ連も、近代国家の枠組の論理で相互の対立的な主張を繰り返していたのだが、私の考えでは、領土問題はそのような国権の主張では解決できない種類のものであった。

近代国家の形成以前から、「無主地」であるそこを生活の現場としていた先住民族の共同管理地域として、領土紛争なき自由地とするしかない。日本からはアイヌが、ソ連からはサハリン、シベリアの北方諸民族が集って、土地と周辺海域の利用方法を考えればよい、と私は主張した。

国民国家の論理を否定するこの解決方法を「夢想」と嗤う者もいたが、国境や排他的経済水域の論理で国家同士が角突き合いしていれば解決できるという見通しを、その批判者とて持っているわけでもない。

ならば、一見したところ永遠の彼岸にあるかのごとくに見えるかもしれない、脱国家主権の論理に基づいて「地域住民」による共同管理の方途を探ることを提案し、その具体化を図るという道をたどる者がいてもよい。

その場合「地域住民」のなかには、近代国家形成の過程でそこへ「植民」してきて今も住みついている人びとを、排他的な既得権を主張しない限り排除しない、という程度の倫理を忍び込ませておけばよい。

ひとが、現存する秩序を前提としてしか発想ができないものであるならば、遠く未来を見通した理想を語ることも、来るべき未来を夢想することも、それを手近に引き寄せるために日常的な努力する者も立ち現われることはない。

いわゆる尖閣諸島(中国の言う魚釣島)をめぐって噴出している日中間の軋轢についても、私なら、同じ視点で分析する。菅民主党政権、マスメディア、北朝鮮や中国との間に緊張が走ると途端に活気づく安部晋三らの愚昧な政治家、反中ナショナリズムで沸騰する「世論」――この社会の多くの人びとは、この諸島が「日本の領土」であることと確信している。

日本政府が一八九五年の閣議決定によってここを日本領に編入し、これが歴史的に最初の「領有行為」であったから、国際法上でも、最初に占有した「先占」に基づく取得および実効支配が認められている、とするのである。

この、歴史的には後世につくられた国際法上の概念こそが、すでに既成の事実として積み重ねられてきていた、帝国主義による植民地支配を「合法化」し正当化する論理を構成してきた。

尖閣諸島の場合も、「一八九五年」という年号と「台湾」の近々である該当地域に注目するなら、やがて悲劇的に展開することになる日本帝国主義による植民地支配の一歴史的過程であることは、一目瞭然ではないか。

二一世紀も一〇年が過ぎて、国家間対立・国境紛争・経済格差・環境悪化・温暖化など人類社会が突き当たっている諸問題と真剣に向き合うならば、たとえば「領有権」問題に関して言うなら、「先占」の概念そのものを再審に付さなければならないことは、自明のことと思える。

そこへ踏み出すことなど考えたこともなく、未来永劫「国家」にしがみついていれば安心立命していられると思い込んでいる人びとが、中国を含めてどの国でも「国民」の多数派であることは、否定し難い現実だ。

一見不動に見える現実を前にしてもなお、その時代状況の中では「空想」か「夢」のような問題提起を行なう者がおり、それを実現するための、不断の運動・活動があったからこそ、惨めでもあるが進歩してきた側面もないではない「現在」があるのだ。
(10月13日記)

太田昌国の夢は夜ひらく[7]イラクが被った損害を一顧だにしない「戦闘任務終了演説」


『反天皇制運動モンスター』8号(2010年9月7日発行)掲載

「9・11」が、まためぐってくる。

丸九年が経つことになる。日本の場合は、それに翌2002年の「9・17」(日朝首脳会談とピョンヤン宣言)が付け加えられるから、世界は、そして日本は、新世紀初頭の九月に起きた大きな出来事に引っ掻き回されて、冷静さを取り戻す間もないままに、新世紀10年目の現在を迎えていることになる。

それでも、事態は動いたのか。良い方向へと少しでも変わったのか。

「9・11」の延長上で米国が行なったイラクへの一方的な攻撃からは、7年有余が経った。2003年3月、米国は二つの理由を挙げて、イラク攻撃を開始した。

①イラクは大量破壊兵器を保有していること。

②イラク政権が国際「テロ組織」アルカイダと協力関係にあること――いずれも嘘だとわかったのは、イラク人に多数の犠牲者が出た後だった。

それでも、大量破壊兵器の最大の保有国で、「テロ国家」というべき米国は、戦争を続けた。対イラク戦争には批判的だった現米国大統領は、8月31日をもって米軍のイラク戦闘任務は終了したと演説した。

彼は「米国は海外から借金までして一兆ドルを戦争に費やし、自国の繁栄に必要なことをしてこなかった」とは語ったが、他ならぬ米軍が生み出した「戦果」、すなわち、少なめに考えても十万人を下るまいというイラク人犠牲者、いまなおベッドで苦しむ多数の戦火の負傷者たち、破壊した家屋とインフラ、傷つけた大地、化学兵器で汚染させた畑地――などのことには、いっさい触れることはなかった。

大統領は、イラクが理由なく受けた人的・物的・自然上の損害は一顧だにせず、今後は「自国の繁栄のために」米国の国家予算を使う、と言外に語ったことになる。

この国は、いつだって、そうなのだ。軍事的力量の差が大きいことをいいことに、自国の利害を賭けて、完膚なきまでに相手を叩きのめす。

イラク国軍が米国本土を爆撃することはあり得ないから、当然にも米国に恨みと憎しみを抱いた個人か集団が、せめて一矢を米国に報いたいと考えて、絶望的な行動に出るのだ。

あえてその用語を使えば「テロリスト」を生み出しているのは、他ならぬ米国ではないか。

こうして、米国が世界各地で絶えず能動的に作り出している戦闘行為・戦争こそが、世界の安寧・平和を破壊してきたという近現代史の本質に無自覚かつ無知なこの大統領は、しかも、今後はアフガニスタンに「資源と戦力をふりむける」と語って、恥じない。

世界から何の関心も寄せられていないアフガニスタンの空から降り落ちてくるのがミサイルではなく、書物だったら、飢えた民のためのパンだったら、乾いた大地を湿らす雨だったら……とイランの映画監督マフマルバフが語ったのは、タリバーンによるバーミヤンの仏像爆破の直後だった。つまり「9・11」の半年前だった。

米国は、或る国家が引き起こしたわけでもない「9・11」攻撃を、新たな戦争の好機と捉え、マフマルバフの黙示録的な啓示に満ちた言葉を無視するかのように、アフガニスタンに向けてミサイルを発射し、爆弾を落とし始めた。

それから九年が経ち、対イラク戦争には反対だったらしい現大統領も、アフガニスタン戦争はさらに強化するというのである。

そのアフガニスタンと延々と国境を接しているパキスタンは、いま、大洪水に見舞われ、二千万人にも及ぶ被災者が生まれている。

アフガニスタンでの戦争のためにパキスタンをいいように利用してきた米国は、「テロリストと戦っているパキスタンの、まさにその地域を洪水が襲った」「支援に失敗すれば、パキスタン政府がテロとの闘いで獲得し得たものを失うかもしれない」と語る 。

米国政府の意向を受けた日本政府は、自衛隊ヘリ部隊を派兵した。またしても、災害救助活動を「軍事化」するのか。

歯止めの利かない菅民主党政権の米国追随路線を見て図に乗った産経紙は、「丸腰派遣でよいのか」と言い募っている。

確かに緊急に必要とされているパキスタンへの国際的な援助を、米国は「反テロ戦争」の意義と結びつけて、世界を主導しようとしている。

これに対して、パキスタンのCADTM(第三世界債務帳消し委員会)などは、パキスタンが歳入の三〇%以上の額を対外債務返済に充てている現状に鑑み、債務の支払いを拒否し、それを救援と復興のために使うことを訴えている。

米国でも日本でもパキスタンでも、政府が物事の因果関係を説明すると、「結果」を「原因」を言いくるめる。戦争・自然災害・援助・債務などに関して、因果関係を的確に捉えた分析と方針の提示が、何よりも重要だ。

(9月3日記)

太田昌国の夢は夜ひらく[6] 国家論なき政治家の行方――死刑執行に踏み切った法相の問題


『反天皇制運動モンスター』7号(2010年8月3日発行)掲載

去る五月一九日午後、私は死刑囚の処遇改善を「直訴」する各種団体のメンバーのひとりとして、法務省内大臣室にいた。

一〇人ほどで千葉景子法相に面談するために、である。多忙を極めているという理由で、一五分間という制限時間があらかじめ設けられていた。

一〇人はそれぞれ、一分間で、死刑囚が置かれている劣悪な医療事情、開示されない医療情報、外部との厳しい交通制限……などの問題に関して、法相に検討するよう訴えた。

就任して以来その日まで、死刑執行命令書に署名していない法相のあり方に関して、肯定的に評価する気持ちを伝える発言もあった。

二〇分間で、面談は終わった。法相は一言も言葉を発することなく、熱心そうに耳を傾けているだけだった。

私たちの背後では、三人の法務官僚が、私たちの発言内容をしきりにメモに取っていた。

千葉法相就任以来、彼女が死刑執行を強く要請する法務官僚たちの、厳しい包囲網に囲まれているらしいという噂は、私たちのもとにも届いていた。

メモを取る背広姿の三人の男たちは、日々法相にかけられているらしい「圧力」を、無言のうちに象徴するものに違いなかった。

それから二ヵ月有余を経た七月二八日、他ならぬ千葉法相の指令に基づいて、ふたりの人に対する死刑が執行された。

怒りと哀しみは、深い。先の参院選挙で落選してなお、菅首相の要請に応えて法相の座に座り続けている法相への批判は、野党から出ていた。

メディア上でもその種の論調は多く見られ、とりわけ読売紙は、結果的に執行当日となった二八日付けの朝刊で、殺人事件被害者遺族の怨念に満ちた言葉の陰に隠れて、死刑確定者の執行(人殺し、と読め)を扇動する意図的な紙面造りを行なった。

法相を窮地に追い込む網がさらに狭まっていたであろうことは、想像に難くない。

ここでは、究極においては死刑制度廃絶をなお望んでいるらしい法相が、信条に反するはずの死刑執行に踏み切った事情の背後にあるものを推察することにしたい。

大韓航空機爆破事件の実行者・金賢姫の来日招請は、拉致問題担当相でもある中井国家公安委員長の主導で行なわれたものと思われるが、「テロリスト」の入国に問題なしとの結論を下したのは、千葉法相である。

罪と罰をめぐっての私の考えからすれば、偽造した日本旅券を行使し、百十五人を死に至らしめる航空機爆破を行なった人物といえども、自らの行為を内省し、悔やみ、贖罪の気持ちをいだき、新たな価値観に基づいた人生を送ることは保障されるべきである。

決定を下した当時の韓国政府の意図がどこにあろうと、いったんは死刑を宣告された彼女が「特赦」の対象となったことには、十分な意義があった。

韓国政府の決定が、単に、北朝鮮の出方を睨んだ政策的・戦術的な水準で、「転向者」を歓迎し利用するために選択されたものだとしても、それを越える本質的な問題領域を、刑罰論や国家論の形で設定し直すことはできる。

それは、日本においても同じことだ。だが、千葉法相は、本来ならば入国拒否対象者である金賢姫を特別招請する根拠を「拉致問題の解決を韓国政府と一体となって進め、国民にも改めて拉致問題の重要性を理解してもらう」という水準の、政策的なものに押し留めてしまった。

北朝鮮を出国して二三年にもなる彼女からは、拉致問題をめぐる新たな情報が得られるはずがないにもかかわらず、拉致被害者家族会と世論に迎合する安易な言い方に堕したのである。

このとき、北朝鮮との関係をいかに打開するかという、国家(=社会)のあり方をめぐる本質論は後景に退くしかなかった。

社会変革運動に携わる者が、世論なるものと対決してでも自らの理念と行動を選択しなければならない時があるように、政治家もまた、本来的にはそのような存在だといえる。

死刑廃止の理念を持つ者が法相の任に就いた時、制度を維持しようとする法務官僚や制度を容認するという85%もの世論に抗しうる力の拠り所はどこにあるのだろう。

それは、自分が行使し得る、国家を背後に持つ権限をめぐっての本質論から逃げないことだろう。

在野にあった時には、いくぶんか情緒的であったかもしれない気分から抜け出し、国家の名の下で人の命を奪うことが許されるとする死刑存置論を、国家論のレベルで論破できる根拠を自力で探ることだろう。

国家論なき政治家は、二国間軍事同盟問題でも、その根源的な解決の道にたどりつくことはなかった。死刑問題でも、問われるのは国家の本質論だ。

太田昌国の夢は夜ひらく[4]「理想主義がゆえの失政」に失望し、それを嗤う人びとの群


『反天皇制運動モンスター』5号(2010年6月8日発行)掲載

「宇宙人ではないか」とあまねく噂されていた人の謎が解けた。

ご本人の解釈によれば「今から5年、10年、15年先の姿を国民に申し上げている姿が、そう映っているのではないか」ということだった。なるほど、そうだったのか。

他方、生涯を通じて理想の「リ」の字も考えたこともないらしい愚かな記者が、普天間問題に関わって彼に問いかけた。

「理想主義への反省はあるか」と。宇宙人は答えた、「理想は追い求めるべきだ。やり方の稚拙さがあったことは認めたい。

ただ、普天間(問題)は次代において選択として間違ってなかったと言われるときが来ると思う」。

ふたつの問題が残る。首相の座から去り行く人に対して、今さら皮肉を言う気持ちにはなれない。

政治的責任を負う立場の人でなければ、人間として悪い人ではないのだろう。しかし、次代のことを考えていると自認している割には、肝心なところで対米交渉のための努力の痕跡が見えない。

外務・防衛官僚の壁は厚く、高かったであろう。

しかし、5年先や15年先を見通しているなら、「いま」が重要なのだ。とどのつまりは、自爆的な辞任をするのであれば、ペンタゴンに牛耳られているオバマとの「死闘」を行なえばよかったのに。沖縄には「もう、たくさんだ!」という民意がある。

他の地域には「基地を誘致してまで沖縄と痛みを分かち合うつもりはない」という本音がある。

去った人は「米国に依存を続けて良いとは思いません」という気持ちを、今ここで持っていたというではないか。

それらを背景に、対米交渉を開始すれば、問題は「日米安保」でしかないことが、いっそう浮かび上がったに違いない。

安保解消は仮に5年先の目標かもしれないが、普天間基地即時閉鎖・地位協定改定に加えて、この政権の目玉をなしている仕分け作業の対象外にされてきた「思いやり予算」を全額廃止するなどの具体的な課題を、もっと手元に手繰り寄せることになる交渉が始められたり、決断に至ったりしたに違いない。

ふたつ目の問題は、宇宙人の「理想主義」を嗤った記者や、メディアの意見として、そこで踊るコメンテーターなる者たちの言論として、また世論として、メディア上に溢れかえっている、去り行く人に対する失望感や嗤い声に関わっている。

ここには、普天間問題での彼の「迷走」をしたり顔で批判する自民党や公明党の面々も入れなければならない。

残念なことには、おそらく、少なからぬ「護憲派」の姿もまた、ここに含めなくてはならないだろう。

それくらいに、幅広い人びとがここには〈無意識のうちに〉集っているのだ。

これらの人びとの立場を大まかにくくることのできる共通項は「日米安保体制」容認――これである。

沖縄の人びとに同情するような顔つきをして、前政権の失政を指摘した人びとの多くは、実はその本心に「安保体制容認」の気持ちを隠し持っていることを何度でも指摘しなければならない。

なぜなら、いつ「暴発」するかもしれない北朝鮮や、日本周辺海域へ海軍を広く進出させている中国の「不穏な」動きを思えば、沖縄に一万九〇〇七人から成る米海兵隊員が駐留している(〇九年一二月末現在、米国防総省の統計による)ことに、これらの人びとは安心感をおぼえているからである。積極的な平和のための努力も行なわずに。

これが、現在にまで続く戦後日本の「平和」の根拠である。 米本土以外で、米海兵隊基地があるのは日本だけだ。駐留数でいっても、第2位はフィリピンの四二九名だ。

二万人ちかい海兵隊員が沖縄にいるから「抑止力」があって「安心だ」と考えているのは、二〇〇ヵ国ちかくある世界のなかで日本だけだ、という事実が広く知られるならば、世界における日本の異常性がいかほどばかりかがくっきりと浮かび上がるだろう。

黒船来航→帝国主義間競争→開戦→原爆投下→敗戦→占領下→独立後も依存……と続いてきた一五〇年以上におよぶ近代・現代の過程で、日米関係がいかにいびつなものになったか、を明るみにださなければならない。

来る八月に、ある町の市民運動団体から講演依頼があった。この間の状況をみながら、タイトルを「戦後史の中の憲法9条と安保体制」とすることにした。(6月4日記す)

韓国哨戒艦沈没事件を読む


『反改憲運動通信』第6期No.2掲載

(以下の文章においては、朝鮮民主主義人民共和国を「北朝鮮」と表記している。)  3月26日、韓国の西側にあって、南北朝鮮の領海を隔てている黄海上の周辺海域で、韓国海軍の哨戒鑑「天安」が沈没し、乗員104名のうち46名が死亡・行方不明となった。

韓国における当初の報道を思い起こすと、北朝鮮による攻撃の可能性を示唆するものは少なく、内部的なミスに起因するという見方が有力だった。

軍は、爆発時間の説明を二転三転させ、沈没前後の交信記録の情報公開にも消極的だった。

世論形成に影響力を持つ韓国メディアが、4月に入って「北朝鮮関与説」を報道し始めた。

李明博政権は、国際軍民合同調査団なるものを設置し、韓国一国の利害を離れた地点での「国際的で、客観的な調査」に判断を委ねる態度を取った。

事故からおよそ2ヵ月近く経った5月20日、調査団は「北朝鮮の小型艦・艇から発射された魚雷による水中爆発」によって事件は起こったと断定した。

北朝鮮の国防委員会報道官は、同日、調査団報告は「でっち上げだ」とする声明を発表し、韓国が制裁措置を講じるなら「全面戦争を含む強行措置」を取ると主張した。

この段階での、日本社会での受けとめ方を考えてみる。普天間問題で苦慮していた前首相はこの事件を奇貨として、北東アジア情勢の不安定性を強調し、在沖縄米海兵隊が持つという「抑止力」なるものへの信仰を突然のように語り始めた。

それは、6月2日、首相辞任を表明した民主党議員総会での発言に至るまで続いた。

大方のメディアも、ほぼ同じ論調に依拠している。韓国哨戒艦沈没事件という悲劇は、日本の前首相や日米安保信奉者に向かっての「追い風」となったのである。

まこと、軍事の論理は輪廻する。その車輪の中で生きようとする者すべてを、他者の死を前提とした、終わりのない/極まりのない戦時の世界へと導くのである。

問題は、民衆レベルでの受け止め方であろうが、「あの国なら、やりかねない」という捉え方があっても、反駁する方法はなかなかに難しい。そのことが悩ましい。

私個人の問題として書いてみる。国際社会への復帰を試みている北朝鮮が、いまさらこんな軍事冒険主義に走るはずはないとするのが、解釈する側にあり得べき理性的な判断である。

この理性的な判断の下では、あえて過去は問わない。大韓航空機爆破も、拉致も、不審船も、工作船も、“もはや”過去のことだ、と考えよう。

その程度の信頼感をもって、相手との付き合い方を考えよう――と、そこでは思うのである。

同時にまた、こうも考える。軍事路線を優先し、軍事の力によって大国の譲歩を引き出し、貧しい社会の中で軍人層を手厚く処遇する先軍政治を、この国の指導部は放棄してはいない。

責任逃れの論理を使って金日成・金正日父子がよく言った(言う)ことばを使えば、今回の魚雷発射事件が「私のあずかり知らないところで、英雄主義に駆られた一部機関の者が仕出かしてしまった」可能性を、全面的に排除することもできない。

しかも、伝えられる経済危機は深刻だ。「やりかねない」。ここが、私が佇むジレンマの地点である。

だが、後者の可能性を考えるとき、私は問題を普遍化して、特殊に北朝鮮だけを名指しして言うのではないと考えて、辛うじて「理性」を保つ。

日本、韓国、中国、ソ連、ロシア、米国、イスラエル……およそ、人類史上に存在してきた〈国家〉なるものが、ある所与の時代に、所与の条件の下でなら「やりかねない」非行として、この種の出来事を捉えるのである。

〈国家〉の「非理性」を、〈国家〉を担うと自惚れている政治家や、軍人や、官僚たちの、そして付け加えるなら、時にそこへ哀しくも巻き込まれてしまう大衆の「非理性」を、その程度には「確信して」いる。

その意味では、古今・東西・左右のいかなる〈国家〉も、「非理性的であること」において等価である。

イスラエル国家が、封鎖されているパレスチナ自治区ガザへ救援物資を届けようとしていた非武装の船舶を攻撃したように。

北アメリカ国家が、自らは傷つかない無人爆撃機できょうもアフガニスタンやイラクの民衆の上に爆撃を加えているように。

革命後の中国国家が、チベットや新彊ウィグル自治区などで、恐るべき強圧的なふるまいを続けてきたように。

そして、日本国家が……(読者よ、皆さんの見識に基づいて、このあとを続けてください)。 したがって、仮に北朝鮮を疑う目をもつとして、その目は他国へも及ぶ。

前述の調査団報告が出た同じ日に、40近くの韓国民主運動団体が連名で、「調査内容、調査過程と方向、調査主体など、あらゆる側面から調査の科学性と客観性、透明性と公正性を認めることはできない」との声明を発表している。

それは、「反北」の感情を煽ることに利益を見出す政権と軍の拙速な論理だと批判して、慎重な対応を求めている。6月2日の韓国統一地方選挙において、与党ハンナラ党が敗北したのは、民衆レベルで広く同じ感情があることの証左なのだろう。

北朝鮮による哨戒艦撃沈説が、そのまま、反北ナショナリズムに行き着いてはいない点は、健全だと言える。

韓国では、この事件をめぐって別な情報も報道されているから、判断のための選択肢が広いのだろう。

たとえば、事件と同時刻に、同じ海域で訓練していた米軍潜水艦が沈没したが、事件は密かに処理されたという報道があった。

仮にこの事件と哨戒艦沈没事件に関わりがあったとして、米国がこれを隠蔽することは過去の歴史からみて「やりかねない」。

また前述の調査団員として「座礁・沈没」説を主張した委員が、その後公安当局の捜査を受けているという報道もある。

これまた、現韓国政権の性格からみて「やりかねない」。

総合すると、真実はまだ「藪の中」だと言える。問題は、またしても、日本社会での受け止め方である。多様な情報に接することもないままに、調査団報告を聞いてすぐ対北制裁強化を率先して主張した人物が、新首相になるようだから。(6月4日朝記す)