現代企画室

現代企画室

お問い合わせ
  • twitter
  • facebook

状況20〜21は、現代企画室編集長・太田昌国の発言のページです。「20〜21」とは、世紀の変わり目を表わしています。
世界と日本の、社会・政治・文化・思想・文学の状況についてのそのときどきの発言を収録しています。

領土問題を考えるための世界史的文脈


『月刊 社会民主』680号(2012年1月号)掲載

一  occupy という言葉に心が騒ぐ

「格差NO」のスローガンを掲げて、ニューヨークで「ウォール街を占拠せよ!」という運動が始まったことが報道された時、私は、この運動の基本的な精神には共感をもちつつも、手放したくはない小さなこだわりをもった。「占拠」を意味するoccupy という語に対する違和感である。米国の歴史は、「建国」後たかだか二百数十年しか経っていないが、それは異民族の土地を次々と「占領」(occupy)することで成り立ってきた。この度重なる占領→征服→支配という一連の行為によって獲得されたのが、現在でこそ漸次低減しつつあるとはいえ、世界でも抜きん出た米国の政治・経済・軍事・文化上の影響力である。これが、世界の平和や国家および民族相互間に対等・平等な関係が樹立されることを破壊していると考えている私にとって、それが誰の口から発せられようとoccupyや occupation という語は、心穏やかに聞くことのできない言葉なのである。

同時に、1%の富裕層に対して「われわれは99%だ」と叫ぶ、訴求力の強い、簡潔明瞭なスローガンに対しても、その表現力に感心しつつも、留保したい問題を感じた。99%という数字は、米国のこのような侵略史を(現代でいえば、アフガニスタンやイラクの軍事占領を)積極的に肯定しそれに加担している人びとをも加算しないと、あり得ないからである。問題を経済格差に焦点化して提起する、新自由主義が席捲している時代のわかりやすくはあるこのスローガンは、99%に含まれる人びとの内部に存在する政治・社会上の矛盾と対立を覆い隠してしまう。

これは、国家主義的な、したがって排外主義的な歴史観が多くの人びとを呪縛している社会にあって、私たちがどんな歴史的な想像力をもちうるか、この歴史観を変革するためにどんな努力をなしうるか、という問題に繋がっていく。焦眉の問題として「1% 対99%」という問題提起の有効性を認めるとしても、99%の中身を分析する視点は持ち続けるという意思表示である。そんなことを思いながら、米国のみならず世界各地の「オッキュパイ運動」を注視していたところ、米国内部からの次のような発言に出会った。

「アメリカ合衆国はすでにして占領地である。ここは先住民族の土地なのだ。しかも、その占領は、もう長いこと続いている。もうひとつ言わなければならないことは、ニューヨーク市はイロコイ民族の土地であり、他の多くの最初からの民族の土地だということだ。どこかでそのことに言及されることを、私たちは待ち望んでいる」(ジェシカ・イェー「ウォール街を占拠せよ――植民地主義のゲームと左翼」、ウェブマガジン“rabble.ca”10月1日号)。

ウォール街で起ち上がっている人びとが「国家と大資本」を批判するのはいいし賛成だが、その視点だけでは、植民地支配に関わってのみずからの「共犯性と責任」をどこかに置き忘れているのではないか――ジェシカが問うているのは、そのことだろうか。

ところで、ジェシカ・イェーが言う「もう長いこと」とは、どんな時間幅だろうか? 米国の場合は、先に触れたように、1776年の「独立」以来の二百数十年となろう。あるいは、メキシコに仕掛けた戦争に勝利した米国が、メキシコから広大な領土を奪った段階(1848年)で、ほぼ現在の版図に近い米国領土が確定したことに注目するなら、「もう長いこと」とは、およそ1世紀半の時間幅となる。

問題を世界的な規模のものと考えるなら、「占領」という概念や「先住民族」という捉え方は、植民地主義支配に必然的に随伴することがらである。現代にまで決定的な影響を及ぼすことになった植民地支配の起源を、15世紀末、1492年のコロンブス大航海とアメリカ大陸への到達に求めることは、ほぼ定着した歴史観になっていると言えよう。したがって、世界的な規模では、500年以上の射程で捉えるべきことがらであることがわかる。

二 「無主の地」を先占する

自分たちの社会の構成体として国家を形成するという道を選ばなかった(選ばない)民族は、世界史上いくつもあった(ある)。国家を形成するに至った諸民族とて、21世紀初頭の現在の国家に繋がるものとしての近代国家を成立させたのは、19世紀後半である。日本近代史研究家・千本秀樹は、イタリアの留学生から、日本の学校には日本史という科目があることの不思議さを問われて虚を突かれた思いをいだいた経験を語っている(「歴史を共有するものが未来を共有する」、『現代の理論』25号、2010年秋号、明石書店)。若い国であるイタリアには、イタリア史という科目はないのだという。悲劇的な戦争や紛争の歴史を重ねることで、時代ごとに互いの版図・国境線に著しい変化を来した過去をふり返るなら、国家史ではなく地域史の観点こそが重要であることの示唆であろう。逆に言えば、周辺国家・民族との交流と抗争の歴史を思えば、現状の国境の枠内に限定した国家史・国民史を構想することの不可能性に行き着くということだろう。この事実を知れば、国家や国境が万古不易に存在してきた(している)と何故か思い込んでいる現代日本人の「常識」は根底から覆されよう。

だから、国家は歴史の問題を考えるうえでの唯一絶対の指標ではない。だが、その時代に形成された国家が、近現代の世界史上で揮ってきた他地域およびそこに住まう住民への支配力の強さからすれば、この存在を無視して問題を考えることはできない。すなわち、ここで言う近代国家こそが、植民地支配を世界各地において推進したからである。

初期植民地主義の最初の実践者となったヨーロッパ諸国は、現在のラテンアメリカ、アフリカ、アジアなど自国から遠く離れた地域にその対象を求めた。コロンブスの大航海を実現したスペインを先駆けとして、それら諸国は異民族の土地を次々と征服し、我が物としていく過程を暴力的に遂行した。歴史地図として多くの人びとの記憶にあるだろう19世紀の「アフリカ分割図」を思い起こせば、それが実感できよう。その過程で作り出されたのが、「先占の法理」である。

「先住民族」は、植民地主義が作り出した存在であることは、別な表現ですでに触れた。土地の私的所有観念を持たない先住民族の土地へ赴くことになったヨーロッパの人間たちは、その「無主の地」は我が物であるといち早く名乗りをあげて、そこを「実効支配」した国の独占的な占有地となるという「法理」を編み出したのである。これは、もちろんのことだが、ヨーロッパの植民地主義を「合理化」する論理にほかならなかった。

「無主の地」は多くの場合、ヨーロッパが欠く天然資源・香辛料・食べ物の産地であった。現地で開発を行なおうとすれば、「安価な」労働力は豊富にあった。アメリカ大陸の場合のように、そこの先住民族を大量に殺害してしまい、その後手がけることになる植民地経営のための労働力を必要とするときは、アフリカから多数の屈強な黒人を奴隷として連行すれば、それで足りた。こうして、ヨーロッパにおける資本主義の勃興と発展にとって、「無主の地」は決定的な役割を果たした(註)。

三 「固有の領土である」

ヨーロッパ列強諸国に遅れること数世紀を経てアジアで唯一の植民地帝国となった日本は、前者とは異なり、遠方の地に植民地を獲得することはなかった。台湾、サハリン南部、朝鮮というように、海洋は隔てているが、植民地化したのはすべて近隣地域においてであった。

日本による近隣地域の植民地化は、戦争を前提として成立したことを忘れるわけにはいかない。日清戦争(1894年)と日露戦争(1904年)である。いずれも、明治維新を経た近代日本国家が、富国強兵を旨としてヨーロッパ列強に伍そうとする路線の下で生じた戦争である。アジアの大国・清国と、ヨーロッパとアジアの双方に広がる広大な帝政ロシアに勝利したことで、日本は「アジアの盟主」を自負した尊大なふるまいを行なうようになった。近代日本は、植民地獲得後にさらにアジア・太平洋各地に対する侵略を進める一方、米国とも開戦して、破滅的な戦争に陥っていった。アジア太平洋諸地域の民衆による抵抗闘争と、1941年以来真っ向から対峙した米国軍の圧倒的な軍事力を前に、1945年、日本は戦争に敗北した。この路線を決定づけた明治維新から数えて、78年の歳月が経っていた。そして、現在、私たちは敗戦から数えて、66年目に当たる時代を生きている。双方を加算すると150年近く、およそ1世紀半の歳月である。

日本が、領土問題も含めて近隣アジア諸国との間に抱えている未決の案件があるとすれば、すべては、少なくともこの時代幅でふり返らなければならない。自民党政権時代ですら、首相レベルの談話では、日本がアジア諸地域に対してかけた多大な被害について詫びる言葉はあったのである。その反省は、戦後史の過程でどこまで社会に根づいているか、それを図る目印としてのしかるべき戦後補償は、どこまで実現しているか――を、まず問わなければならないのは日本社会である。

このことを前提として、本稿では、ここまでの叙述をうけて、領土問題について若干の考察を続けたい。敗戦から66年も経ていながら、日本は周辺諸国との間でいくつもの領土問題を係争案件として持っている。主なものを挙げると、ロシアとの北方四島問題、韓国との竹島(独島)問題、中国との尖閣諸島(釣魚島)問題――である。

特に2010年9月には、尖閣諸島をめぐって中国との間で大きな事件が起きた。尖閣諸島沖で中国漁船が日本の海上保安庁の巡視船に衝突し、同庁が船長を逮捕した事件である。この諸島の領有権をめぐる双方の主張を詳しく検討する紙幅はない。自らの問題である日本側の主張についてのみ検討する。事件の直後、前原国土交通相(当時)は「東シナ海に領土問題は存在しない」、「(船長の処遇に関しては)国内法に基づき粛々と対応する」と語った。首相の交代で外相に就任した前原氏は、さらに「(尖閣諸島は日本の固有の領土であることに関して)我々は一ミリたりとも譲る気持ちはありませんし、これを譲れば主権国家の体をなさない」とも語っている(10月15日外務省定例記者会見)。

日本共産党が持ち出すのは、「無主の地」論である。中国の文献には、中国の住民が尖閣諸島に歴史的に居住していたことを示す記録はなく、明代や清代に中国が国家として領有していたことを明らかにできるような記録もない、と述べたうえで、言う。「近代にいたるまで尖閣諸島はいずれの国の支配も及んでいない、国際法にいう“無主の地”であった」。そこへ探検した某人が貸与願いを日本政府に申請したので、沖縄県などを通じてたびたび現地調査を行ない、「1895年閣議決定によって尖閣諸島を日本領に編入した。歴史的にはこの措置が尖閣諸島に対する最初の領有行為である。これは“無主の地”を領有する“先占”にあたる」(『しんぶん赤旗』2010年10月5日)。これは、外務省発行の「尖閣諸島に関するQ&A」にも共通する「論理」である。

外相が「固有の領土」論を展開するとしても、その「固有性」はたかだか1895年以降のものでしかない。「固有の」という用語には、古代から本来的に、という意味合いが付着している。だが、「日本」という国号が定まったのは、研究者の間で多少の意見の違いはあるが、七世紀末から八世紀初頭である。それ以前には「日本」も、「日本国」の国制の下ある「日本人」も存在していない(網野善彦『「日本」とは何か』、講談社、2000年)。したがって、「固有の」という言葉を、このような領有権問題に用いることは妥当性を欠く。中国側も領有権を主張している以上、一方の側の閣僚が「領土問題は存在しない」と語るべきではないというのは、二国間関係を考えるうえで双方が弁えるべき必須のことだろう。

メディア上で俗に言われる「前原人気の高さ」なるものは、彼が主張する近隣アジア諸国に対する外交政策が強硬路線であることに由来している。内政上いっこうに解決しないさまざまな問題が山積しているとき、住民が抱く欲求不満の吐き出し口を外部に求めることは、歴史的に見ても、世界中の愚かな政治家や軍人が採用してきた、もっとも安易で、結果的には最悪の事態を招く政策である。この路線を推進したい者にとっては、いつも、外部の何者かが「悪」であればあるほど(「悪」として描き出すことが可能であればあるほど)、役立つのである。

共産党が依拠する「“無主の地”先占」論の妥当性も、十分に疑わしい。本稿ですでに考察したように、「無主の地」論は欧米列強がこぞって競った植民地主義支配の拡大過程で生まれた自己合理化の議論である。共産党文書は「1895年閣議決定によって尖閣諸島を日本領に編入した。歴史的にはこの措置が尖閣諸島に対する最初の領有行為である」と述べている。1895年とは、日清講和条約調印の年である。前年、日本は朝鮮半島支配をめぐって清国との間で戦争を行なった。日本は勝利し、条約によって遼東半島・台湾・澎湖列島を中国に割譲させた。台湾に近い尖閣諸島の領有宣言は、日本帝国のこの対外拡張路線=欧米列強との植民地獲得競争への参加、という枠内で行なわれている。このような経過を思えば、共産党の文書は歴史的な考察を欠いたまま、国家主権論の枠内に収まっていると言うべきだろう。

この問題について論じるべき点はまだあるが、紙数が尽きた。国家や領土の存亡を賭けて、戦争での勝ち負けを競った時代は、確かに続いてきた。だが、本稿で簡潔に述べた国家の成り立ちや国境の変遷過程を思えば、これに呪縛される考え方の限界性はあまりにも明らかであろう。年端もいかない(成立して1世紀半しか経っていない)近代国家が争う領土問題の地は、歴史的に見て、周辺に住まう多国間の住民が平和裡に共有し、協働する空間であった。解決の糸口は、戦争を好まない、国境を超えた地域住民の知恵にこそ求めるべきだろう。

(註)「無主」という概念をめぐって最近起きている事実に触れておくことは、きわめて重要なことだろう。2011年8月、福島原発事故による放射能汚染の影響を受けた福島県二本松市のゴルフ場が東京電力に汚染の除去を求める仮処分の申し立てを行なった。東電は答弁書で、大要次のように述べた。「原発から飛び散った放射性物質は東電の所有物ではない。したがって東電は除染に責任をもたない。なぜなら放射性物質は、もともと無主物であったと考えるのが実態に即している。所有権を観念し得るとしても、既にその放射性物質はゴルフ場の土地に附合しているはずである。つまり、債務者が放射性物質を所有しているわけではない」。東京地裁はゴルフ場の訴えを退けた(朝日新聞11月24~25日)。

本文で述べたように、資本主義は「無主の地」の身勝手な解釈を通して勃興した。21世紀の現代は、その資本主義が「グローバリゼーション」の名の下でひとつの頂点を迎えている時代であると言える。福島原発事故にもかかわらず中止されることのない、米国・フランス・日本の「原子力産業ルネサンス」に向けた動きをみると、現代資本主義と核開発の相互依存関係がわかる。生き延びを図る資本主義がここで編み出しているのが、「無主物」の論理である。これだけ多大な犠牲者を生み出している放射性物質の製造物責任を、飛散してしまったものである以上は負わないというのである。勃興期と絶頂期の資本主義が、それぞれ「無主」の概念をきわめて身勝手に、融通無碍に解釈している現実にこそ、問題の本質をうかがうことができる。

太田昌国の夢は夜ひらく[20]「官許」――TPP問題と原発問題で立ち塞がるこの社会の壁


反天皇制運動『モンスター』22号(2011年11月8日発行)掲載

そのむかし、私が愛読した書物のなかに、在野の哲学者・三浦つとむの著書があった。彼の書物から受けた「恩義」はいまも忘れてはいない。辞書にもある用語だが、彼がよく用いたことばに「官許」というのがあった。辞書で言えば「政府からの許可」とか「政府が民間に与えた許可」となるが、左翼である三浦の場合は「官許マルクス主義」のように使うのである。生きた時代の必然性からいって(1911~89年)、スターリン主義のような俗流マルクス主義の言語論・芸術論・組織論とたたかった三浦は、自称前衛党もアカデミズムも自らを支える背景としては持たない場所に、ひとり立ち続けた。だから、「官」なるもの、すなわち、政府・国家・前衛党など支配権力を持つ立場やその御用学者から繰り出される議論や言説に孕まれる虚偽と歪曲をいち早く嗅ぎ当て、それを徹底して批判する立場に立ったのである。

このところ、しきりに三浦のことが思い出されるのは、虚偽と歪曲に満ちた「官」の横行があまりに目立つからであろうか。日本的な構造なので、この場合は、霞が関「官僚」による情報統制の下で、自らの意思を持たない「閣僚」が完全に支配されている事態を指している。現象的には、前者の「官僚」と後者の「閣僚」が一体化して、「政府」として立ち現れているのである。それを「科学的な知見」に基づいて支える立場から、専門家や研究者たちが登場していることは、言うまでもない。

いまや、小さなかけらのような記憶になってしまったが、民主党政権が成立した当初には、官僚支配の政治を打破するという明確な意思表示が、まだしも、なされた。在沖縄米軍基地のあり方を見直すという形で、既存の日米関係をほんの少し変えようとした鳩山政権は、「日米同盟は不変」との信念を持つ外務・防衛両省の官僚たちからの黙殺と妨害にあって、あえなく潰された。福島原発事故の重大性に鑑みて、少なくとも「脱原発」の方向性に向かおうとした菅前首相は、原発推進に固執する経済産業省の官僚たちと経団連によるエネルギー危機の扇動と、政策次元よりも菅直人という政治家が嫌いなだけの与野党・マスメディアからの集中攻撃にさらされて、〈個人的に〉失脚した。二代続いた民主党政権下にあっては、官僚支配が打破されるどころか、逆に、その支配力の強さを見せつけられたのである。

ご面相を見ただけで、自民党時代に逆戻りしたのか、とつくづく思わせられる現首相の登場は、「日本を根本のところで統治しているのは自分たちだ」と考えている霞が関官僚たちを、自民党政権時代以上に安心させたに違いない。自民党にもできなかったことをやる用意のある政権だ――就任以来の首相のさまざまな発言(むしろ、肝心な箇所での「発言の無さ」と言うべきかもしれない)から、官僚たちは、野田政権の性格をそう読んだと思われる。

そのことがいま集中して現われているのは、TPP(環太平洋経済連携協定)交渉への参加問題である。昨秋、菅首相が突然のように打ち出したこれへの参加方針は、マスメディア挙げての支持を受けた。いくらか社会的に開かれた形で議論が起ころうとしていた時期に、「3・11」が起こった。社会全体が、その後の7ヵ月間は、震災からの復興問題と原発事故への対処が主要な関心事であった。その間に、官僚たちは着々と参加の基盤づくりを行なっていたようだ。野田政権の成立を待つかのように、この1ヵ月間TPPに関する情報が小出しに漏れ始めた。「11月にハワイで開かれるアジア太平洋経済協力会議(APEC)の場で参加表明することが、米国が最も評価するタイミング」との政府文書の存在が明らかになったのは10月27日のことだ。この「政府」文書は「官僚」文書と読み替えるべきだろう。米通商代表部高官が「日本の参加を認めるためには議会との協議が必要で、参加承認には半年必要」と語ったことを明らかにした「政府内部文書」も11月1日に明らかになった。すべてを時間不足に追い込んで、ドサクサまぎれの首相決断に委ねること――TPP問題についても、原発問題についても、経済産業省に巣食う高位の官僚たちの恣意のままに操作されているのが、この社会の現状なのだ。(11月5日記)

この映画の完成は僥倖である――ワン・ビン監督『無言歌』評


『映画芸術』437号(2011年秋号)掲載

疲れ切った足取りの男たちが、風吹きすさび、砂塵が舞い上がる荒野を行く。緑の木々も緑野も拒絶しているかのような、荒涼たる風景だ。広大な中国の、西部に位置する甘粛省高台県明水分場。男たちがテントの前までたどり着くと、ひとりの男が命令口調で、誰それはどこそこへ行けと指示する。行き先は、近在に点在する壕だ。壕と言えば、まだしも聞こえはよいが、それはほとんど岩穴にひとしい。背をこごめて中へ入ると、もちろん電気とてなく、暗い。土床の上の、狭い通路以外の空間には木板が張りめぐらされている。男たちはひとりづつ、わずか2畳ほどの指定された空間で荷解きする。衣類などの乏しい身の回り品を置けば、そこが、貧弱きわまりない食事を摂り、重労働に疲れた身を休め、泥のように眠るだけの日々をおくる場所だ。

それでも、立派な名前がつけられている。「労働教育農場」。社会主義革命後の中国で、指導部から右派と名指しされた人びとが、その「農場」で日々過酷な「労働」に従事し、それが、己の反革命思想を改造する「教育」だというのだ。土壌改良を施さなければ役にも立たない痩せこけた「農場」。そこをただ掘り起こすだけの「労働」。本来の意味の「教育」とも無関係な、強制収容所といったほうが、現実を言い表していると言えそうだ。

映画は、そこに暮らすことを強制された男たちの日常を淡々と描く。穴倉の中の場面が多いから、カメラは、隙間から射す一条の光をたよりに、男たちの動きとことばを描き出す。あてがわれる食事はいつも、水のように薄い粥だけだ。飢えた男たちは、それぞれに、空腹を少しでもしのぐための努力をする。食べ物と交換できる衣類の乏しさを嘆く男がいる。荒れ果てた土地に生えるわずかな雑草から、タネの一粒でもないかと探す男がいる。ネズミを捕まえて、煮て食べる男もいる。何を食べて食あたりしたのか吐く者もいれば、その男が吐き出したものの中から固形物か何かを見つけ出しては自分の口に運ぶ男すらいる。飢えの極限的な形が、日々この農場では展開されている。過酷な労働、冬の寒さ、そして絶えることのない飢え――そのあとに来るのは「死」だけだ。遺体は、その男が使っていた布団でぐるぐる巻きされて、砂漠に埋められる。野晒しにされていた遺体からは、衣服がはぎとられ、尻やふくらはぎの肉が抉り取られていく。理由は説明するまでもないだろう。

これはフィクションではない。1957年から60年にかけて、中国で実際に起きたことに基づいて作られた映画だ。依拠した原作本もある。事の次第はこうである。

1956年、革命中国の友邦・ソ連では、スターリン批判が行なわれた。1917年ロシア革命の勝利後まもなく、最高指導者レーニンの死後に政敵トロツキーを国外に追放して全権を握ったスターリンは、1953年の死に至るまで、鉄の恐怖支配をソ連全土に布いた。批判者はことごとく抹殺されたから、彼に対する批判は死後ようやく可能になったのだ。社会主義とその中軸に位置する共産党および指導者の絶対的正しさが、ソ連でも中国でも強調されてきたが、その権威が激しく揺らいだ。毛沢東は「百花斉放・百家争鳴」路線を直ちに採用して、共産党に対する批判を一定限度許容した。知識人を中心に官僚主義批判や党の路線に対する批判が沸き起こった。すると、毛沢東は翌年には路線を一転させ、「反右派闘争」なるものを発動した。13ヵ月間続いた自由な日々に、厳しい指導部批判を行なった者たちを次々と捕え、「労働教育」のために強制収容所に送り込んだ。特定の場所に収容された人びとの証言に基づいて、原作本が書かれ、映画も作られたのである。

この事態から50年が過ぎている以上、この政策の責任者だった者たちは、ほぼ鬼籍に入っているであろう。だが、「無謬の党」神話の延命工作が続けられているからには、過去の誤謬といえども、それがあまりに無惨で、あからさまである限りは、自由な批判の対象とはなり得ない。制作までは許されることがあっても、公開はできない。それが中国の偽らざる実情である。

故国の人びとに今すぐには観てもらえない映画を作るということ。ワン・ビン(王兵)監督の悩みと苦しみは、ここにあると思われる。しかし、古今東西、自由を奪われた表現者は、もっとも伝えたい人たちからの反応を直ちには期待できない状況にあっても――つまり、圧政下の故国を離れ亡命の身であっても、あるいは故国に踏みとどまって時に奴隷の言葉を使わなければならなくなっても――自らが逃れられないと考える必然的なテーマに立ち向かってきた。身構えて、政治やイデオロギーをテーマとすると力んでは、それは容易く失敗する。或る過酷な時代を生き抜いた一人ひとりの人間の在り方をヒューマン・ドキュメントとして記録し、癒しがたい記憶の形で後世に伝えるのである。ひとりの個人の悲劇的な物語を作り上げて観客をその閉鎖的な空間に閉じ込めてしまったり、観る者が主人公に距離感なく一体化してしまったりするような作劇法ではなく、複数の人物あるいは集団的な主人公を軸に、作品を観た者がそこに自ら介入線を引くことができるような、自由な余地を残しておくのである。そのとき、文化表現・芸術表現は、国境内に自足することなく、世界に普遍的な意味を持つものとして、国境を超えて出ていく。国際的な評価の高さは、国内での弾圧を避け得る十分条件ではないが、作品がいつか国内に「帰ってくる」下準備にはなるだろう。『無言歌』は、その要素を十分に備えた作品として成立している。

ところで、映画が背景としている「反右派闘争」で弾圧された人びとは、文化大革命終結後の1978年、一部の人びとを除いて「名誉回復」措置が取られた。だが、50周年を迎えた2007年には、中国当局は、反右派闘争に関する報道を禁じる通達を全国のメディアに出している。私の友人であるホルヘ・サンヒネス監督(ボリビア)の場合、一本の映画は、完成したネガの露出時間が旧西ドイツの現像所で故意に延ばされたらしく陽の目をみなかった。もう一本は、アルゼンチンの現像所に送る際にボリビアの税関で「紛失」させられた。完成した二作品が「事故」を装って無きものにされた彼のケースを思うと、この時代の中国の状況下で、中国政府の許可も得ずにゴビ砂漠で長期ロケを敢行したり、161本ものラッシュテープをフランスへ送ったりなど、よくぞ妨害を受けずに完成にまでもっていけたものだと、制作過程にも感心し、またその僥倖を喜ぶ。

中国の民衆に先んじて、私たちはこの作品に接することができた。何につけても「反中国」の宣伝をしたい人たちは、身勝手な利用価値をこの映画に見出すだろう。日本軍の中国侵略の歴史を反省し、1949年中国革命の勝利に何らかの「希望」を見出した人を待ち受けるのは、もちろん、別な課題である。資本主義が生み出す格差・不平等・疎外を廃絶したいという民衆の夢・希望・理想が託された社会革命は、20世紀にあってはほぼ例外なく、いつしか強制収容所に行き着いた。社会革命が必然的にここに行き着くものなら「そんなものは要らない」と誰もが答えるだろう。

だが、いま・あるがままの現代社会が生み出している数々の国内的・国際的な矛盾に我慢がならない人は、やはり、よりよい社会へ向けての希望を抱かずにはいられない。そのような人に向かって、『無言歌』は何を語りかけるのか。私はさしあたって、党=指導部の絶対化、イデオロギーへの過剰な信仰、これまた過剰な社会的な使命感情などを克服すること――が出発点だと考えるが、観客の誰もが、それぞれの課題を取り出すことだろう。

文学では、旧ソ連のソルジェニツィンの『収容所群島』があるとすれば、映画では、ワン・ビンの『無言歌』があると言えるほどに、20世紀の悲劇を考えるうえで必見の作品である。

(10月3日記)

太田昌国の夢は夜ひらく[19]「占拠せよ」(occupy)という語に、なぜ、私はたじろぐか


反天皇制運動『モンスター』21号(2011年10月11日発行)掲載

「ウォール街を占拠せよ!」のスローガンの下、ニューヨークで「格差NO」の動きが始まったのは9月17日のことだった。それは10年目の「9・11」から間もないころだったので、私の関心はどうしても、次の点に集中した。すなわち、経済格差や高い失業率に異議を唱えてウォール街に集まっている人びとは、米国のこの現状と、自国が10年間にわたって続けてきているアフガニスタンとイラクに対する戦争とを、いかに結びつけているのだろうか。

10月6日になって、ワシントンのホワイトハウスの近くで開かれた反戦集会には、「反ウォール街」を掲げる人びとも参加して、「アフガニスタンではなくウォール街を占拠せよ!」とのスローガンを叫んだという。当然のことながら、「強欲なウォール街」の論理に基づく戦争に対して「反戦」の課題を立てる一群の人びとが存在しているのであろう。

では「占拠せよ!」はどうだろう? それは、もうひとつのスローガン「われわれは99%だ」と共に、わかりやすく、人目を惹きつける語句である。しかし、私のように生活する言語としてではなく、文学や歴史を解釈する言語として一定の範囲内で英語に触れてきた立場からすると、occupy やoccupationには、どこか心騒ぐものがある。繰り返し言うが、生活言語として英語を使っているわけではない私にとっては、この単語は、米国が近現代史のなかで、世界中で行なってきた「軍隊による占領」をしか意味しないからである。侵略戦争を仕掛けて勝利した後の数々の「占領」。日本との帝国主義間戦争に勝利した後の「占領」。21世紀の現在なおアフガニスタンとイラクで行なってきている「占領」。この単語にも孕まれているのであろう豊富な語感を感じとることができない私は、そのゆえにであろうか、小さなこだわりを感じてきた。

その違和感を共有している文章に出会った。カナダで “rabble.ca” と題したウェブマガジンが出ている(http://rabble.ca)。「無秩序な群衆、やじうま連、暴徒」と「撹拌棒」の二つの意味がある単語だが、前者の意味で使われているのだろうか。2001年4月、ケベック市で開かれる米州サミットに抗議して、「進歩的なジャーナリスト、作家、芸術家、アクティビスト」が集まって「他では容易に入手できない」情報の伝達のために創刊したという。読み応えがあって、ときどき目を通している。その10月1日号に、ジェシカ・イェーという人物が「ウォール街を占拠せよ――植民地主義のゲームと左翼」と題する文章を寄せている。彼女が冒頭で端的に言うのは以下のことである。「合州国はすでにして占領地である。ここは先住民族の土地なのだ。しかも、その占領はもう長いこと続いている。もうひとつ言わなければならないことは、ニューヨーク市はHaudenosaunee 民族の土地であり、他の多くの最初からの民族の土地だということだ。どこかでそのことが言及されることを、私たちは待ち望んでいるのだ。」

北米先住民族の末裔であるらしいジェシカと、蝦夷地に対するコロン(植民者)の末裔である私とでは、歴史的に位置している立場が異なる。だが、私はジェシカの問題意識を共有する。彼女は「アメリカを民衆のもとに取り戻せ」とデモ参加者が叫ぶとき、その「民衆」とは誰なのか、先住民族はあらかじめ排除されているのではないか、愛国的な帝国主義言語に絡め捕られて先住民族の存在を忘却しているのではないか、と問うている。歴代の進歩主義者や左翼が、先住民族の「同意」を得ることもないままに「解放の戦略」を提示し続けてきたことに対する、抜きがたい不信を抱いている。彼女も資本主義とグローバリゼーションに終止符を打つことには賛成だが、ウォール街で立ち上がっている人びとが「国家と大資本」を批判するばかりで、植民地主義に関する自らの「共犯性と責任」に無自覚であることに(しかも、それがあまりにも長いあいだ続いていることに)苛立っている。

これは、ウォール街での新たな胎動に冷水を浴びせる言動ではない。歴史的な過去の累積の上に現在がある以上、そこで不可避的に生まれた異なる民族同士の、支配・被支配の関係性に目を瞑るな、という呼びかけである。「継続する植民地主義」という問題意識がそこから生まれるのである。(10月8日記)

「コロンブス500年」史観への道 


ルネサンス研究所基幹研究会(2011年9月28日、東京・文京区)で行なった報告

Ⅰ 1960年前後の政治・社会・思想状況――極私的に

社会主義、その最初の「祖国」としてのソ連に対する牧歌的な憧れ。19世紀ロシア文学の圧倒的な存在感と20世紀社会革命の先駆性――この二つが実現している社会。

それに引き続く中国革命に対する、同じくロマンチックな思い入れ。

1953 スターリンの死の報道から、何となく感じ取ったソ連社会の「暗さ」

釧路に住んでいたので、根室沖でときどき起こる、ソ連監視船による日本の零細漁民の船舶の拿捕・抑留・銃撃事件の「重さ」

社会主義に感じる「暗さ」や疑問をかき消してくれた要素

1)在日アメリカ帝国軍の横暴なふるまい――沖縄。基地拡張。薬莢を拾う農婦を米兵が面白半分に射殺する事件など

2)言論――清水幾太郎、野々村一雄、岡倉古志郎、江口朴郎、井上清、蝋山芳郎、甲斐静馬、大内兵衛、上原専禄、坂本徳松、五味川純平、安部公房、野間宏、開高健、大江健三郎、エドガー・スノー、アンナ・ルイーズ・ストロング、アンリ・リケット、そのほか大勢の左翼あるいは進歩的文化人・知識人。

もっとも悲劇的かつ戯画的な形で現われた北朝鮮に関する礼賛的な報道ルポルタージュ→それが、ソ連・東欧論や中国論(後者の場合は、文革期の特異な受容のされ方も考慮しなければならないが)とも異なって特徴的なことは、無批判的な礼賛傾向が寺尾五郎(1959~61)の時代に限られるのではなく、安江良介(留保付き)+美濃部亮吉(1971)、松本昌次(1975)、小田実(1977~78)、よど号(70~現在)の時代まで続いていることである。

私は、すべてが見えてしまった後世に生きる者の特権的な立場から、これらの人びとの言動を一方的に批判する立場を取るつもりはないが、同時代的にどの程度の「情報」に接することができたかどうかの問題は残るにせよ、

ソ連でいえば、1956年の「スターリン批判」と「ハンガリー革命」「ポーランド反乱」、中国でいえば、1956年の「百花斉放・百家争鳴」から、翌年に一転して発動される「反右派闘争」

北朝鮮でいえば、在日朝鮮人・関貴星の訪朝記『楽園の夢破れて』(1961)で綴られている内容およびその後漏れ伝えられてきてはいた金日成独裁体制の確立の過程、在日朝鮮総聯の動向にまつわるさまざまな情報――――――――――――――――

などの事実を、自らの論理と倫理の中に組み入れることなく牧歌的な社会主義賛美論を展開していた論者の場合には、状況論的には、その言論責任が問われると考える。同時代にも、劇作家・三好十郎のように、I・F・ストーンの『秘史朝鮮戦争』(新評論社、1952)の帯に寄せた清水幾太郎の推薦文「朝鮮戦争の勃発について、最初に仕掛けたのが北朝鮮だと言われていることについて何かが隠されていると考えてきたが、この本で目が覚めた。やはり思った通りだった。仕掛けたのは、米国側、南朝鮮側である」(との趣旨)に対して疑問を発した人物は存在していた。三好は、戦争が起こった時に、調査・検討・論議する以前に悪いのは資本主義国だとする予断からは自由な人であった。ストーンは、この戦争は米国側が仕掛けたことを恣意的な資料操作によって論じているが、事実は逆かもしれない、少なくともこの本は米国有罪の立証として十分ではないと三好は考えたのである。井上清が1966年になっても、「アメリカが日本を基地として朝鮮戦争を開始した」(『日本の歴史』下、岩波新書)と書いていたのとは好対照である。因みに、三好はこの時、「日本を占領したのがソ連軍だったならば、ソ連が設ける軍事基地にも、要請する再軍備にも、発動する戦争にも、清水は反対しなかったのではないか」と問うていること、この問いに対して清水は沈黙を守ったが、小田切秀雄、大西巨人、武井昭夫、中野重治が代行して三好批判を展開したこと、北朝鮮による武力侵攻であったことを前提としてこれをマルクス主義の原義に基づいて批判したのは荒畑寒村であったこと、には触れておきたい。特に第1項については、スターリンの北海道占領計画では私の生地:釧路はソ連軍占領地域に入っており、実際にそうであったならば、という想定がきわめてリアルであったことにも【私が三好の論に接したのは同時代的にではなかった。80~90年代になってからであるが】。

そのほか、フルシチョフによるスターリン批判を深めた埴谷雄高、(左翼)文学者の戦争責任論を展開した吉本隆明、60年安保闘争の総括をめぐる吉本・谷川雁・黒田寛一・藤田省三などの言論に触れる過程で、ソ連社会及びこの社会について無批判的な礼賛を続けてきていた内外の人びとが指し示している先に「未来」を見る思考は、ほぼ消えていたと思える。それでも、60年代前半から紹介され始めたトロツキー文献、菊池昌典のスターリン時代研究、ダニエルズの『ロシア共産党党内闘争史』、レーニン文献などを読み漁る気力はあったが、それは、いわば私にとっては「ロシア革命敗北の過程」を追認するような作業であったような気がする。したがって、「反帝反スタ」は指針にはなり得ず、レーニンとトロツキーの援用によってスターリンを批判する方法にも、諸悪の根源は「党」の絶対化にあったのだから、違うのではないかという違和感を持ち続けた。党派性に縛られていないロシア革命論として、松田道雄『ロシアの革命』(河出書房、1970)に親しんだ。

Ⅱ ソ連が唯一絶対の道だとは思えなくなった同時代に、世界では何が起こっていたか

現実の政治過程が喚起したものとして

1959 キューバ革命

1960 フランス領を中心にアフリカ諸国17ヵ国の独立。韓国4月革命。トルコ激動

1961 コンゴでルムンバ虐殺→背後にいたベルギー国家権力。キューバに反革命軍侵攻

1962 キューバ・ミサイル危機。アルジェリア独立革命

1964 米州機構、キューバ制裁決議。トンキン湾事件。ブラジルで軍事クーデタ→「第2のキューバ」を許さないとする米帝国の意志の現われ

1965 米軍、北ベトナム爆撃(北爆)開始。マルコムX暗殺。南ベトナム民族解放戦線が全世界に「軍事援助・物質的援助・義勇軍派遣」を要請。インドネシア9・30。アルジェリア・クーデタでベン・ベラ失脚

1966 中国文化大革命始まる

思想・文学からの提起として

1960 ヒューバーマン+スウィージー『キューバ:一つの革命の解剖』(岩波新書)

1964 堀田善衛+鈴木道彦「アジア。アフリカにおける文化の問題」(岩波講座『現代』10所収)→フランツ・ファノン『飢えたる者』を初紹介

1964 サルトル「黒いオルフェ」(原テキスト1948、人文書院『シチュアシオンⅢ』所収)→レオポルド・サンゴール編『ニグロ・マダガスカル新詞華集』序文。マルチニックのエメ・セゼールにも触れて、ネグリチュード(黒人性)の問題に言及

1965 サルトル「飢えたる者」序文(人文書院『シチュアシオンⅤ』所収)→ファノン

論、「パトリス・ルムンバの政治思想」も収録

1966 堀田善衛『キューバ紀行』(岩波新書)

1967 チェ・ゲバラ4・16メッセージ「二つ、三つ、数多くのベトナムをつくれ、それが合言葉だ」

1967 エンツェンスベルガー「ラス・カサス、あるいは未来への回顧」(原書1967、晶文社『何よりだめなドイツ』所収)→ベトナムの現実に、5世紀弱前のスペインによるアメリカ大陸征服を弾劾したカトリック僧ラス・カサスの言動を重ねる

1968 堀田善衛「第三世界の栄光と悲惨について」(平凡社・現代人の思想17『民族の独立』解説)→ラス・カサス論

1968 エリック・ウィリアムズ『資本主義と奴隷制』刊行(原書1944、理論社)

1969~70 フランツ・ファノン『黒い皮膚、白い仮面』(原書1952)『地に呪われたる者』(原書1961)『アフリカ革命に向かって』(原書1964、いずれも、みすず書房)

1971 クワメ・エンクルマ『新植民地主義』(原書1964、理論社)

1976 ラス・カサス『インディアスの破壊についての簡潔な報告』刊行(原書1552、岩波文庫)

1978 エリック・ウィリアムズ『コロンブスからカストロまで――カリブ海域史1492~1969』ⅠⅡ刊行(原書1970、岩波書店)

1986 エドゥアルド・ガレアーノ『収奪された大地――ラテンアメリカ五百年』(原書1971、新評論、現在藤原書店)

そこから浮かび上がってきたこと

1)世界近現代史においてカリブ海域が強いられた歴史的特殊性

15世紀末、キューバ島の100万人をはじめ一定数の先住者が暮らしていたが、コロンブス以降に行なわれたヨーロッパ人による「征服事業」(=虐殺・強姦・強制労働・奴隷化・暴行・土地の簒奪など)のために、そこは一世紀後には「死の島」と化した。すなわち、先住民は、ほぼ死に絶えた←ラス・カサスの内部告発。それに対する4世紀半後のエンツェンスベルガーや堀田善衛の応答。

そこへ、アフリカ西海岸地域からの、黒人青年の強制連行が始まった←ラス・カサスの加担。奴隷貿易(「黒い積荷」)によるメトロポリスの繁栄←エリック・ウィリアムズ『資本主義と奴隷制』が被植民地(トリニダ・トバゴ)の留学生によって書かれ、それを英国史学会が長年無視した根拠。

三角貿易の成立→「奴隷貿易は本源的蓄積のリヴァプール的方法をなすものである。」「一般に、ヨーロッパでの賃金労働者の隠された奴隷制は、新世界での見え見えの奴隷制を脚台として必要とした。」(マルクス)

2)外部に強いられてきた歴史的役割を、自らのものに奪還していく過程としてのキューバ革命

19世紀前半、スペインとポルトガルから独立を遂げた後の米州地域。それは、米州に位置する特殊性をモンロー宣言で身勝手に活用し、もともと大西洋に面し、19世紀半ばの米・メキシコ戦争によってカリフォルニアを奪って太平洋への出口を獲得することで、地理的優位性を備えた、稀に見る世界帝国として成り上がっていく米国の支配権拡大に直面することになる。

19世紀前半に独立した他の米州地域に比較して、キューバの独立は遅れた。19世紀末に遅れてやってきた独立戦争はフィリピンと同時期に高揚したが、機に乗じた米国の参入により、キューバとフィリピン民衆の独立の戦いは米西戦争へと性格を変えた。1898→1902年の経緯。グアンタナモ米軍基地の存在。

それからおよそ半世紀後に起きたキューバ革命。

「党なき」革命=キューバの道

収奪された大地=「第三世界」復権の象徴

ソ連型ではない、新しい社会主義の模索(1961.4 社会主義宣言)→ソ連型の強制・導入を画する勢力と、それに抵抗するチェ・ゲバラらの論争。

結果的に、1960年代のキューバは、それが持つ本来の力量以上の課題を自ら担い、また、外部世界もそれを期待した。

3)ラテンアメリカとアフリカの歴史的・現代的交錯

ネグリチュードを介しての、文学的な交錯。

ファノンやエンクルマがもった「アフリカ革命」の展望。

チェ・ゲバラが企図したアフリカ解放闘争への加担。

4)民族・植民地問題に関する同時代的感覚

M・N・ロイ→コミンテルン第2回(1920)、第3回(21)、第4回(22)大会での演説

ホー・チミン→コミンテルン第5回(24)大会演説

(いいだもも編訳『民族・植民地問題と共産主義』(社会評論社、1980)

スルタン・ガリエフ→ヨーロッパへの革命の波及に期待をかけたボリシェヴィキ指導部に対し、東方での革命に希望をもち、植民地インターナショナルの結成を呼びかけた。

(山内昌之編訳『史料 スルタンガリエフの夢と現実』(東京大学出版会、1998)

ホセ・カルロス・マリアテギ→先住民の隷属状態に注目して、先駆的な中枢・周辺理論を展開。

(『ペルーの現実解釈のための七試論』、柘植書房、1988。『インディアスと西洋の狭間で』、現代企画室、1999)

Ⅲ 1992年=コロンブス500年を迎えて

1989~1991 ソ連・東欧圏社会主義体制の崩壊→「グローバリゼーションの時代へ」

と資本主義礼賛者たちは呼号。市場原理に基づいた地球の「一体化」「全球化」の時代→「アメリカの発見、アフリカの回航は、頭をもたげてきたブルジョア階級に新しい領域を作りだした。東インドとシナの市場、アメリカへの植民、諸植民地との貿易、交換手段やまた総じて商品の増大は、商業、航海、工業にこれまで知られなかったような飛躍をもたらし、」「大工業は、すでにアメリカの発見によって準備されていた世界市場を作りあげた。」(『共産主義者宣言』第一章)

1992 「コロンブスの五百年めが1962年だったなら、その記念は、コロンブスのアメリカ大陸「解放」を祝うものにみであったろう。1992年には、「解放」を祝う反応一色というわけにはいかなかった。」(ノーム・チョムスキー『アメリカが本当に望んでいること』、1994、現代企画室)

スペインによる祝賀ムードを警戒し、これに対抗するために、米州の民衆運動は「先住民、黒人の民衆的抵抗の五百年」運動を展開した。この動きは、期せずして、全世界に波及し、さまざまな地域で、コロンブスの大航海とアメリカ大陸到達の時代に始まった近代(それは、植民地主義の始まり、を意味した)を問い直す契機となった。(東京では2日間にわたって「500年後のコロンブス裁判」開催)

1994 メキシコ先住民族「サパティスタ民族解放軍」の蜂起→北米自由貿易協定の発効に抗議した蜂起であったことから、その後の反グローバリズム運動の世界的な高揚に多大な影響を与え続けている。また、都市から最貧地域への工作(山村工作隊)に赴いた都市インテリゲンツィアのマルクス主義と、農村部先住民族がもつ独自の歴史哲学・人間観・自然観が融合した地点に生まれた独特の言葉遣い、情宣のためのインターネットの駆使、武装蜂起であったにもかかわらず軍事至上主義に陥らず政府との交渉でみせた成熟した政治思想など、従来の政治・社会運動の内省を促す示唆に満ちている。(サパティスタ民族解放軍『もう、たくさんだ!』、現代企画室、1995。マルコス副指令『ここは世界の片隅なのか』、現代企画室、2002 など多数)

2001 「人種主義、人種差別、排外主義、および関連する不寛容に反対する世界会議」開催(南アフリカ・ダーバン、8月31日~9月8日)(永原陽子編『「植民地責任」論――脱植民地化の比較史』、青木書店、2009)

2001.9.11 絶頂のグローバリゼーションへの絶望的な抵抗

2001.10  米軍、アフガニスタンへ一方的な攻撃開始

米国政府・軍部で囁かれた「アフガニスタンのような、国家の体をなしていない国は、いっそのこと、植民地にしてしまった方がやりやすい」。

同時期の日本の政治・社会状況を見ても

「継続する植民地主義」という問題意識の重要性

9・11から10年目の世界


『インパクション』181号(2011年8月31日発行)掲載

東欧・ソ連型社会主義体制の無惨な崩壊(1989年〜1991年)を見届けた現代資本主義の信奉者たちは「グローバリゼーション」の掛け声の下で、勝利=歓喜の歌の合唱を始めた。20世紀が終わるまでに残る歳月は、すでに10年を切っていた。前世紀には不吉印の象徴ともいえた「世紀末」なる呪縛的な概念は彼らの頭からすっかり消え失せて、歴史的な世紀の変わり目には赫々たる未来が待ち受けるばかりだ、と信じて疑わない人びとであった。昨日まではこれとは対極的な立場にいた者のなかからさえも、指針を失い、確信も失って、こっそりと、あるいはあからさまな形で、立場を移し替える者が輩出した。マルクス主義文献は書店の棚から消え、やがて多くの古典すら絶版にされた。隆盛を誇っていた大学のマルクス主義経済学の講座も、いつのまにか、その多くが姿を消した。

それでも、諦めない者もいた。1994年1月、メキシコ南東部ではサパティスタを名乗る先住民族組織が、まさにグローバリゼーションの一象徴でしかない自由貿易体制の強要に抗議する蜂起を開始した。蜂起の主体が先住民族であるがゆえに、それは必然的に、植民地支配によって可能になった/したがって「先住民族」という存在を生み出した資本主義的近代に対する歴史的・現在的な批判を孕むものであった。この蜂起は、第三世界にも、高度消費社会にも深い共鳴者を見出し、その後の世界的な反グローバリゼーション運動の原動力の役割を果たし始めた。サパティスタは政治的に成熟した戦術を取って、ただちに政府を交渉の場に引き出したので、武装蜂起という初期形態は強く印象づけられることはなく、社会が武装蜂起という形態からすぐ連想しがちな「テロ」という問題は、重大なものとして浮かび上がることはなかった。それは、また、武装することも、兵士であることも、ましてや戦争することなどは、できることなら無くしたいと根底において望んでいると語るサパティスタの理念とも不可分の、受容のされ方であった。

1996年~97年にかけては、ペルーの日本大使公邸を占拠し、大勢の人質を取って、日系人のフジモリ大統領が採用してきた、これまたグローバリゼーションの基盤をなす新自由主義経済政策に対する抗議の意思表明を行なったゲリラ運動があった。人質の中に外交団がいたこともあって、事態は国際的な関心の的となり、「暴力=テロ」に対して国家はいかに対処すべきかという問題が、大国政府とメディアの主要なテーマとなった。日本が深く関わっている事態であったために、この社会でも事情は同じだった。国家が行使する手段の中に「テロ」があり得るという問題意識はかけらもなく、非国家集団が行使する暴力のみを「テロ」と名づけて、その非難・撲滅を図ること――この意図のみが、そこにはあった。

大勢に逆らおうとするこれらの運動は、しかし、散発的にしか起こらなかった。むしろ、社会主義圏の崩壊とほぼ同時代的に進行したペルシャ湾岸戦争がこの時代を象徴していた。一地域的な小覇権国家=イラクのクェート侵攻という対外政策が正しいわけではなかったが、それは、超覇権国家である米国とソ連が世界各地でたびたび行なってきたふるまい方を真似したにすぎなかった。米国は、ソ連という「主敵」が消滅しつつある過程のなかで、それに代えてイラクのフセインを悪魔のごとき敵に見立てて、これを徹底的に叩いた。とはいっても、米国が発動した戦争という名の「国家テロ」の犠牲になったのは、ミサイルの攻撃にさらされたイラクの一般民衆であった。

超大国の横暴な振る舞いは、軍事の面でのみなされたのではなかった。グローバリゼーションは、何よりも経済的な側面でこそ、その本質を露わにした。経済的な格差が激しい途上国経済を社会的公平さに向けて是正を図るのとは逆に、ますますその歪みを拡大するしかない新自由主義経済政策を、超大国を筆頭とした先進諸国と国際金融機関は途上国に押しつけるばかりであった。大国に本拠を持つ多国籍企業は、自らの自由放埓な企業活動を何よりも(各国の憲法その他の国内法規にも!)優先させることのできる国際的な経済秩序構造を作り出すために、全力を挙げた。かつての植民地時代には、西洋の国家が主体となって他者の領土を征服した。いまや、一握りの企業グループや金融資本が地球上のすべてのモノとヒトを商品化することで、世界の全的征服をめざす時代がきていた。傍に追いやられた者から見れば、現代資本主義の勝利を謳歌する者たちの傍若無人なふるまいは極限に達していた。具体的にはわからずとも、これに叛逆する何かが起こるに違いない、何かが起こらないでは済まない、と感じるものは少なからずいた。私もそのひとりだった。

そして、2001年9月11日はやってきた。米国経済の繁栄を象徴する建物=ニューヨークのWTC(世界貿易センタービル)にハイジャック機が2機突っ込んだ。世界各地における圧倒的な軍事力の行使を指揮するワシントン郊外の米国防総省(いわゆるペンタゴン)ビルにも、ハイジャック機が突入した。合わせて、3千人以上の人びとが死んだ。米国が誇る経済と軍事の要衝を攻撃したという意味では、攻撃者たちの意図は明確だった。だが、WTCをあのように攻撃した場合には、不特定多数の一般人を数多く巻き込む結果にしかならないことを行為者たちがどう考えていたのかは不明のままである。

米国社会は、この衝撃的な事件を、せめても、自らが世界の各地で過去において積み重ねてきた/現在も積み重ねている行為をふりかえる機会にすればよかった。ある軍事行動によって数千人の死者を生み出すこと(それどころではない、長期化した戦争の場合には数十万単位の死者を相手側に強いたり、化学兵器を用いることによって後世の人びとを今なお苦しめたりしている例も加える必要がある)を、米国は20世紀現代史の中で幾度も繰り返してきた。日本軍国主義を免罪する意図は持たずに、この犠牲の地に広島と長崎の例を付け加えてもよいだろう。

賢明で公正な経済学者が米国にいたならば、米国が余剰農産物を売りつけるために自由貿易を他国に強いれば、その国の貧農たちは乏しいたつきの道を断たれ、一家は農村を離れて山野は荒れる一方、離村した人びとが首都周辺に密集していって、典型的な第三世界のいびつな社会構造を作り上げていることに気づいてもよかった。唯我繁栄の独善的な経済活動の果てにニューヨークに林立する豪華なビル群を透視すれば、世界の悲劇的な南北格差構造が浮かび上がるという想像力をもっていてもよかった。

少数派ながら、いたであろう、米国が軍事と経済の双方で繰り広げてきたあまりに大きな負の面に気づいている人が。奢り高ぶった自国のふるまいが、その下で苦吟する人びとの怒りと憎しみを育てている、と知覚できる人が。だが、それは、哀しいほどに少数派だった。9・11の事態をうけて、この国の大統領は「反テロ戦争」によって行為者たちへの報復を呼びかける、その程度の人間だった。国家主義的な情動は、こんな水準の言動によって煽られるものなのだ。自らを顧みることのない、それとはもっとも無縁な「愛国主義的な熱狂」が米国全土を覆った。米国社会は9・11の悲劇を独占した。こんなひどい仕打ちを受けた国は、米国がはじめてだ――この思い込みのなかで、他ならぬ米国の軍事的・経済的行為によって生み出されてきた「無数の9・11」に思いを馳せる態度は生まれ得なかった。

9・11から1ヵ月も経たないうちに、米国は、9・11の「陰の」指導者たちが潜んでいると判断したアフガニスタンへの攻撃を開始した。それから1年半後には、大量破壊兵器をもっているがゆえにこの地域の不安定要因となっていると一方的に判断して、イラクに対する攻撃も始めた。9・11の悲劇を、この国が「大好きな」戦争を始める口実にしたのだった。

欧州各地でときどき起る「過激派のテロ」にもっとも敵愾心を燃やしてきたイギリスの労働党員の首相と、宗教集団が起こしたサリン事件やペルー人質事件を経験して「テロ」に対する警戒心が極点に達している社会状況を利用した、新自由主義志向の日本の首相が、率先してこの「反テロ戦争」支持の名乗りを上げた。「テロか、反テロか」――単純極まりない二分法が、まるで世界基準であるかのように機能した。それは、思考の堕落であり、政治の敗北だった。それを知る者にとっての、苦い季節が始まった。

それから10年。アフガニスタンでもイラクでも、膨大な数の死傷者が出ているであろうが、その正確な数はわからない。死者は、いずれの国でも、万単位になると推定されている。劣化ウラン弾などの化学兵器を米軍は使用している。したがって、米軍が全土に枯葉剤を散布したベトナムと同じく、両国の人びとの苦しみは後代までも続くと見られる。自軍から、無視できぬ数の死傷者が出ている米軍は、最近は無人爆撃機を使って空襲を行なっている。「反テロ戦争」は、こうして、他国における大量死を生み出している。「国家テロ」としての戦争を廃絶しようとする強固な意志が大国のふるまいには、見えない。そこから国家としての利益を得てきたことを、当事者が知っているからである。軍隊不保持・

戦争放棄を謳う憲法を持つ国は、「反テロ戦争」の10年間の過程で、「戦争好きな」米国との軍事的結びつきを強化した。二大経済大国が、軍事面でも共同作戦を展開するのは、世界の他の地域の民衆にとっては「悪夢」でしかないことを、両国の為政者も選挙民も知らない。それを「思い知らせよう」とする行動を――仮に、それが「テロ」と呼ばれようとも――試みる人や小集団が消えてなくなることは、不幸なことだが、ないかもしれない。少なくとも、後者の「テロ」を、前者の「国家テロ」との相互関係の中で捉えること――

事実認識上の、このような変化くらいは、私たちのなかで獲得したいものだ。

アフガニスタン戦争は、米国が戦ったもっとも長い戦争になった。「建国」以来、対インディアン殲滅戦争に始まり、戦争に次ぐ戦争によって領土を拡大し、両大洋への出口を持つ帝国に成長し、戦争に勝利することで経済が活性化し、超大国としての地位も確保できていると信じて疑わないこの国は、戦争を止める術を知らない。アフガニスタン戦争の戦費は、10年間で4430億ドル(およそ34兆円)となった。イラク戦争では8055億ドルを費やした。世界各地の米軍基地の安全強化対策など広義の「反テロ戦争」費用は1兆2833億ドルと推定されている(数字はいずれも、2011年8月3日付け東京新聞による)。ここ数年の日本の年間予算をはるかに超える額が、米国の10年間の「反テロ戦争」に費やされた。

当然にも、米国の軍事と財政は破綻した。「戦意高揚」していた10年前の雰囲気は、今の米国には、ない。オバマは、過重な戦費負担に耐えられないと判断して内政重視へと路線切り替えを図った。にもかかわらず、戦況の好転が見られなかったアフガニスタンへは兵員の増派を行なった。現在は順次撤退の段階にはなったが、米国から見て軍事的な展望が開けているわけではない。資本主義の勝利に浮かれてマネーゲームに興じた挙句、大手投資銀行リーマン・ブラザーズは経営破綻した。サブプライム・ローンも、理の当然として、総崩れとなって、貧しい犠牲者を多数生み出した。いまや。デフォルト(債務不履行)の瀬戸際にも立たされている。10年前の9・11によって瓦解したのは、経済と軍事の、外形としての象徴的な建造物だった。その後の10年間は、それが内部から自己崩壊していく過程であった、と言えるかもしれない。

他方、「反テロ戦争」に自衛隊まで派遣して参戦した日本は、9・11から10年目の震災・津波によって引き起こされた原発事故の結果「放射能テロ国家」として世界に糾弾されても弁明の余地がない立場に追い込まれている。ここでも、当事者にその自覚は薄い。

軍事と経済の両面で世界を征服しようとするグローバリゼーションの、この10年間の大きな流れは、ほぼこのように把握できるだろう。そこには「自滅」的な要因もないではなかったが、もちろん、この趨勢に抗議の声を発し、具体的な抵抗を試みた、いくつもの理論と実践があったからこそ、10年後のこの状況は導かれたのだと言える。何が有効だったのか、何が欠けていたのか――その検証を通して、いま・ここで、なすべきことを明らかにする課題が私たちには残る。(8月9日記)

太田昌国の夢は夜ひらく[17]大量の被災死/未来の「死」を準備する放射能/刑死


反天皇制運動『モンスター』19号(2011年8月9日発行)掲載

困難な諸懸案に直面しているはずの民主党の政治家たちが、驚き呆れるほどの停滞と劣化ぶりを示しているなかで(自民党・公明党については、言うも愚かで、論外)、実に久しぶりに、政治家の、考え抜いた発言を聞いた。それは、最後の死刑執行から1年目を迎えた7月28日付読売新聞のインタビューに答えた江田五月法相が発したものである。江田とて、他の諸案件に関しては、菅直人の「現在」を支える役割しか果たしていないが、このインタビューで、江田は次のように語っている。

「人間というのは理性の生き物なので、理性の発露として、(死刑で)人の命を奪うのは、ちょっと違うのではないか。(死刑の)執行が大切だということも一つの国家の正義で、そのはざまで悩んでいる」「3月11日(の東日本大震災)があり、これほど人の死で皆が涙を流している時だ。(死刑執行で)命を失うことを、あえて人の理性の活動として付け加えるような時期ではないと思う」

1年前、千葉景子法相の指令に基づいたふたりの執行直後、確定死刑囚の数は107人だった。この1年間で新たに16人の死刑が確定し、3人が病死しているから、現在の確定者は120人で、過去最多の数字である。また、この間制度化された裁判員裁判では一審段階で、少年に対するものも含めて8件の死刑判決が出ており、うち2件では被告による控訴取り下げが行なわれて、死刑が確定している。状況的には、一般市民が参加した法廷で下された判決を基にして死刑が執行されかねない事態が、すぐそこまできているのである。死刑制度が存在している社会において、検事の求刑に応えて「職能」として死刑判決を下すのは裁判官だけであった時代は終わりを告げ、複数の「市民」がひとりの「市民」を死刑に処するという判断を「合法的」に行ないうる時代が、私たちの心性の何を、どう変えることになるか。それは、軽視することのできないほどに重大なことだと思える。

このような現実を背景におくと、江田が踏み留まろうとしている地点が、よく見えてくる。欲を言えば、震災による大量死との関係で死刑への思いを語った後段の発言は、より詳しく展開してほしかった。この問題については、江田とはまったく異なるが、私なりの捉え方がある。自然災害としての地震・津波と、人災としての原発事故に対する国家(この場合は、=政府)の政策を見ていると、その無責任さと冷たさが否応なく痛感される。国家(=政府)は、人びとの安全な生活を保証してくれる拠り所だという「信仰」が、人びとのなかには、ある。そうだろうか、と疑う私は、最悪の国家テロとしての戦争を発動し外部社会の他者(=敵)の死を望み/殺人を自国兵士に扇動し命令できること、死刑によって内部社会の「犯罪者」を処刑できること――に、国家の冷酷な本質を見てきた。国家は、個人や小集団を超越した地点で、なぜ他者に死を強いるこの「権限」を独占できるのか。この秘密を解くことが、国家・社会・個人の相互関係を解明する道だと考えてきた。

しかし、人に死を強いるうえで、もっとさりげなく、〈合法的な〉方法がある。それを、私は、被災と放射能汚染に対する現政府の無策と放置に感じ取っている。これは、特殊に現代日本だけの問題ではなく、世界じゅうの国家(=政府)が抱える問題に通底するものだろう。これは、おそらく、現在のレベルで行なわれている〈政治〉の本質に関わってくるものだと思える。

1年前にふたりの死刑執行を命じた千葉景子元法相も、選挙区であった地元の神奈川新聞のインタビューに応じている(7月28日)。死刑廃止の信条に矛盾する決定をしたが、それは、刑場公開や死刑制度に関する勉強会の設置など一つでも進めるためには法相としての責務を棚上げにはできない、死刑問題を問いかけるためには決断が必要だった――との見解を示している。死刑制度の是非を問いかけるために、ふたりを処刑したというのが、詰まるところ、千葉の弁明の仕方である。この弁明が通用すると千葉が誤解しているところにこそ、国家が行使しうる権力の秘密の鍵が隠されている。

国家に強制される死に馴れないこと。生み出された大量の被災死と、未来における〈死〉を準備している放射能が飛散するなかで、そう思う。(8月6日記)

TPPと自由貿易


朝日新聞2011年7月17日付け朝刊に「ニュースの本棚」として掲載

昨年10月、菅直人首相は「TPP(環太平洋経済連携協定)交渉への参加を検討」すると表明した。TPP構想は元来、貿易依存度が高い小国の話し合いから始まった。そこへ米国が参加を表明し、性格が一変した。政治・経済・軍事・文化的影響力で並ぶ国がない米国が登場すると、何事につけても事態は変化する。TPPは、その時点で、物品貿易の全品目の関税を即時ないしは段階的に撤廃するばかりではなく、投資、知的所有権、労働、医療、保険、環境、労働者の移動などに関わる包括的な協定となる性格を帯びた。

ひとたび発効すれば、それはヒトとモノをすべて商品化し、市場原理の中での熾烈な競争に巻き込む強制力をもつ。米軍の侵略で山野を焼き尽くされた後遺症に苦しむベトナムは、TPPの下では米国との農産物取引を共通のルールで行なわなければならない。その不条理さを指摘する宇沢弘文氏の発言(『世界』2011年4月号)は、自由貿易の本質を衝いて、重要だ。

米国政府と多国籍企業が主導するTPPに、民主党政権が前のめりになるのはなぜか。当初の東アジア共同体構想から日米同盟重視への路線転換と関係しているのか。菅首相の提起は唐突であったが、財界はこれを歓迎し、「参加しないと日本は世界の孤児になる」とまで言う。大方のメディアも、連合指導部も同じ意見だ。

TPPを推進する大きな流れに抗する動きが出てきたのは、年が明けてからだ。論議が深まろうとするころ、「3・11」が起こった。今後のTPP論議は、社会・経済の構造を根本から揺るがしているこの悲痛な出来事を前に、真価を問われる。

活発な批判を展開しているのは中野剛志氏で、『TPP亡国論』などの著書がある。推進論者の見解も紹介したうえで批判的な分析を行なっているから、読者は論議の水準を見きわめながら読み進めることができる。「環太平洋」と言うふれ込みなのに、中国と韓国がTPP参加を考えていない理由の考察もあって興味深い。逆にベトナムのような小国は、グローバリズムの太い流れに追い詰められて、自由貿易協定への参加を急ぐ。切ない現実である。

視野を広げて、自由貿易が孕む問題点を世界的な規模で指摘するのが、トッドの『自由貿易は、民主主義を滅ぼす』である。確かに、TPPのような地域限定のものも含めて自由貿易協定はすべて、人間・地域・文化の多様性を否定し、世界を単色に染め上げる点に特徴がある。反対論に色濃い民族主義的立場からの国益論を離れて、対等・平等であるべき国家間・民族間の関係を今まで以上に壊すという観点からのTPP批判を深めるうえで本書は役立とう。

TPPを食と農業の観点から見ると、多くの人にとって身近な問題となる。『食料主権のグランドデザイン』には、「食料危機・食料主権と『ビア・カンペシーナ』」と題する真嶋良孝氏の論文がある。スペイン語で「農民の道」を意味するビア・カンペシーナは、グローバリズムに抵抗する運動の中で重要な役割を果たしている、国境を超えた農民運動である。ここで言われる食料主権は、国家主権の主張とは重なり合わない部分があることの意味を、深く考えたい。

食に関しては「地産地消」という言葉と実践が大事だが、福島県の生産者と消費者は、今この言葉を口にできない。その悔しさと哀しみを思いながら、この小さな文章を書いた。

【参考文献】

中野剛志著『TPP亡国論』(集英社新書、798円)

E・トッドほか著『自由貿易は、民主主義を滅ぼす』(藤原書店、2940円)

村田武編『食料主権のグランドデザイン』(農文協、2730円)

太田昌国の夢は夜ひらく[14]ビンラディン殺害作戦と「継続する植民地主義」


反天皇制運動『モンスター』16号(2011年5月10日発行)掲載

ある国家の軍隊が、別な国に秘密裡に押し入って軍事作戦を展開し、武器を持たない或る人物を殺害した――軍を派遣した国の政治指導部は、大統領府の作戦司令部室にある大型スクリーンに映し出されるこの作戦の生中継映像を見つめていた。作戦開始から40分後、「9・11テロの首謀者」と断定した人物の殺害をもって大統領は「われわれは、ついにやり遂げた」と語った。この国の同盟国であると自らを規定している世界各国の首脳は、この作戦の「成功」が「反テロ戦争の勝利」であるとして祝福した。そのなかには、この間、放射性物質を故意に大気中と海洋に撒き散らしているために、当人は知らぬ気だが、事態の本質を見抜いた人びとが「放射能テロ」あるいは「核物質テロ」、さらには「3・11テロ」という形容句をその国の国名に冠し始めている国の首相も含まれていた。その男は、この殺人行為を指してこう述べたのである。「テロ対策の顕著な前進を歓迎する」(!)。

5月2日、パキスタン北部アボタバードで、米海軍特殊部隊と中央諜報局の部隊がヘリコプター4機を駆使して(加えて、「スーパードッグ」という特殊訓練を施した犬も動員して)展開した軍事作戦によって、ビンラディンほか4人の人びとが殺害された事件と、報道されている限りでの一部諸国の支配層におけるその肯定的な反響は、あまりに異常である。内外ともにメディア報道の在り方が意外なまでに冷静で、作戦それ自体への控えめだが疑問か批判を提起し、せめて刑事裁判で裁くべきだったとする主張が少なくないことに「救い」が感じられるほどだ。超大国=米国の横暴なふるまいに対する私たちの批判と怒りの感情は、またしても、沸点に達しそうだ。私は、伝え聞いてきたビンラディンの思想と行動の指針には共感を覚えず、そこからは相対的に自立した地点に立って、以下の諸点を述べておきたい。

2001年「9・11」以降、米国がアフガニスタンとイラクにおいて行なってきた殺戮・占領の行為と、そこで捕えた虜囚を、1世紀以上もの長い間手放そうともしないでキューバに保持し続けている米軍基地に強制収容している事実から、私は、米国において「継続する植民地主義」の腐臭を嗅ぎ取ってきた。パキスタンから「主権侵害」との憤激の声が上がっている今回の行為も、まぎれもなく、その延長上にある。他国との良好な関係を大事に思うならば、決して選択できない行為で米国の近現代史は満ち溢れている。それに新たな1頁を付け加えたのが、今回の行為だ。

いわゆる大国にとって都合の良い世界秩序が作られてきた歴史過程について、私は最近いく度かこういう表現を使った。「植民地支配・奴隷制度・侵略戦争など〈人類に対する犯罪〉を積み重ねてきた諸大国こそが、現存する世界秩序を主導的に作り上げてきた」と。近年になって、これらの行為の犯罪性はようやく問い質される時代がきたが、そのたびに当該行為の主体国からは「植民地支配も奴隷制度も戦争も、それを当為と見なす価値観があった時代の出来事だ。現在の価値観で過去を裁くとすれば、世界は大混乱に陥るだろう」とする悲鳴が上がる。だが、〈人類に対する犯罪〉的な行為が行われた時点で、その行為の対象とされた地域は「大混乱に陥り」、そのとき受けた傷跡を引きずりながら現在に至っているのだ。それゆえに、相互間の対等と自由を尊ぶ民衆および小国の観点から見るなら、今ある秩序は抑圧的なものでしかなく、それは抵抗し、反抗し、覆すべき歴史観なのだ。

「3・11」事態の直前、われらが足元にも「継続する植民地主義」そのものの発言があった。米国務省日本部長ケビン・メアが行なった「沖縄はごまかしとゆすりの名人で、怠惰でゴーヤーも栽培できない」という発言である。欧米日の植民地主義者の「懐かしのメロディ」とも言うべきこの発言は、津波と原発危機以降のヤマトでは忘却の彼方に追いやられている。逆に、米軍が行なった被災者救援作戦の重要性のみが喧伝され、図に乗った米軍海兵隊司令官からは「普天間基地は重要」との発言もなされている。内外でなお続く、植民地主義を実践する言葉と行動の衝撃性と犯罪性を忘れないことが、私たちの課題だ。

(5月6日記)

今、TPPをどうのように考えるべきか


『オルタ』(アジア太平洋資料センター)2011年5~6号掲載

1

「3・11」事態とその後の福島原発の危機的状況を前にして、菅政権はTPP(環太平洋経済連携協定)参加を強行する意欲を、今の時点では失ったようだ。以前は、参加か否かの判断は6月をメドに行なうことを考えていたようだが、3月29日になって首相はその先送りを示唆した。だが、当然にも、油断はならない。TPPは、現在参加を表明している9ヵ国に、参加を検討している日本を加えて10ヵ国間の、多国間自由貿易協定であるとはいえ、各国が有する経済規模からすれば、その本質は日米間の協定に他ならない。その日米間の関係は、無念なことには日本側政府の対米従属性のために、きわめていびつである。とりわけ、現在の菅・民主党政権は、野党時代には確信をもって唱えていたかに見えた政治・軍事レベルでの対米自立性の立場を豹変させ、自民党政権時代以上の熱心さをもって日米同盟を外交の基本においている。

北日本・東日本大震災に際して、米軍は約6千人を投入して大規模な救援活動を実施しているが、在沖縄の海兵隊もヘリ部隊を緊急派遣したほか、強襲揚陸艦が三陸沖を拠点に自衛隊と協働しながら補給支援に取り組んでいる。禍々しい戦争のための軍隊と武器装備が、ここでは、「人道援助」の顔つきをして活動しているのである。この「功績」を誇るかのように、米海兵隊司令部は「普天間飛行場の死活的重要性が証明された」と強調し始めている。災害救助活動における米軍と自衛隊(「日本軍」と、私は呼ぶ)の「共闘」は、軍事はもとより政治・経済など日米関係のすべての局面において、日本政府が選択し得る政策の幅を狭めるだろう。しかも、菅政権はそれを喜んでやるだろう。米国オバマ政権が重視しているTPPへ日本も参加するという問題が、いつ、どんな形で再浮上するものかは、予測がつかない。

2

私は、植民地支配・奴隷貿易・侵略戦争などの、「人道に対する犯罪」というべき所業を行なった大国が、それによって獲得できた巨大な物質力を基盤にして、結局は世界全体を支配してきた――という近代以降の世界史の過程に深い関心を持ち続けてきた。もちろん、歴史のこの太い流れをどう批判的に総括するかという理論的関心と、これを逆転する契機をいかに掴むかという実践的な関心から、それは来ている。この歴史過程の発端をなしたのが、15世紀末の「コロンブスの大航海」と「地理上の発見」、およびそれに続いたアメリカ大陸の「征服」→「植民地化」であったと捉える歴史観は、ようやくにして、ほぼ確立してきたと思われる。

これを契機に、「奴隷貿易」をも含めた世界的な規模での貿易が始まったのだが、それは当事者間の対等性・平等性をまったく欠いたまま、ひとり大国の利益のために市場が拡大していくという一方通行的な性格を避けがたく持つものであった。私が育ったのは第二次世界大戦後の現代であったから、そのころ「貿易」は世界的なルールも確立していて、いかにも「対等な交換」の見せかけを持ってはいた。だが、ものごとの発端に関わる事実を知り、過去における不当な貿易で得た利益を、現在南北間に横たわる格差の是正のために差し出そうともしない日本を含めた北の大国の態度には、深い疑問と怒りを感じてきた。ガットからWTO(世界貿易機関)に至る戦後の貿易ルールや、現代世界を席巻する新自由主義とグローバリゼーションに対する私の批判は、その延長上に生まれる問題意識である。グローバリゼーションの趨勢の中から出てきた米国主導の自由貿易論は、世界に存在するすべてのひととものを例外なく「商品化」することで多国籍企業に奉仕し、貧富拡大に拍車をかける弱肉強食の論理に他ならない。TPPも、その枠内にある協定である。

3

自由貿易論を批判する論理を「食農」の領域で見るとき、「食料主権」という考え方がある。この考えを最初に提起したのは、1996年、世界的な農民組織「ビア・カンペシーナ」であった。中南米における豊かな民衆運動から出発し今や全大陸に波及しているこの運動は、「南北・ジェンダー・宗教・政治・人種・身分・言語などの多様性のなかで連帯と団結を追求」(註1)してきた稀有な性格をもっている。食料主権の概念は、多国籍企業や大国・国際金融機関の横暴を規制するという意味では「国家主権」のそれと重なり合う。だが、ビア・カンペシーナは国境を超えた民衆運動の連合体であるという性格を明確に有しているから、全体としてのその主張が国権論の陥穽に落ち込んだり、国家主権(国境)の論理の内部に排外主義的に狭く自閉したりすることがないのだと思われる。このことは、日本における反自由貿易論に色濃く存在する「食農ナショナリズム」の傾向――それは、「国産品を使いましょう」という呼びかけや、水田稲作を「日本の民族的な伝統文化」の中にことさら位置づけようとする議論などに現われる――をふりかえるとき、参照に値する実例だと思う。

私がマクドナルドから流れ出てくる揚げ油の匂いが嫌で堪らず、ハンバーガーも食べないというのは、個人的な好みの問題であろう。だが、「マクドナルド的なもの」は、驚異的なスピードでの森林破壊、食肉生産のための膨大な食料資源の浪費、食の安全性の低下、効率最優先による人間性喪失、食の画一化(註2)などを世界全体に強要するという点において、個人の好みを超えた普遍的な問題となる。私たちが自由貿易批判を展開するときには、個(個別国家)を超えた普遍性のある場所へと進み出るべきだろう。

(註1)真嶋良孝「食料危機・食料主権とビア・カンペシーナ」(村田武編『食料主権のグランドデザイン』所収、農文協、2011年)

(註2)イグナシオ・ラモネ『グローバリゼーション・新自由主義批判事典』、作品社、2006年)

(2011年4月4日記)