2013年4月15日
『反天皇制運動 カーニバル』第1号(通巻345号、2013年4月16日発行)掲載
(反原発運動について)――「戦後ここまで日本人が統一したことはない」。
(会場の日の丸について)――「日の丸を見たら身構える世代ですが、今日はそれを掲げる人もいることをうれしく思う」
――3月11日、原発事故から2周年目の東京集会に、私は別件があって参加できなかった。その集会において、前者は大江健三郎によって、後者は澤地久枝によって、それぞれ語られた言葉であることを私が知ったのは、したがって、事後的なことである。二人のこの発言内容は、ネット上の複数の人たちのサイトを照合して、記した。そのうえでの引用だから、この部分に限ってはほぼ正確なものとして解釈することが許されると思う。だが、全体的な文脈を十分にはたどることができないので、壊滅的な批判は控えて、さしあたっての小さな疑義だけを呈しておくに留めたい。
私はふだんから、「私(たち)=日本人」を前提にして主語に据える文章を、滅多なことでは書かない。私が否応なく持たされている「日本人」であるという属性が、私のアイデンティティ(自己同一性)」を規定しているものとして積極的に援用すべき機会は、私にはないからである。止むを得ず、そのことを認めた地点から発言しなければならないことが、まま、あるとしても。ましてや、排外主義的な風潮がここまで社会全体を浸しているとき、「日本人が統一」していることを肯定的に語る原理を私はもたない。「統一された日本人」が「日の丸」によって象徴されていると呼号する人間が実在する社会に住んでいるからには、そんな場所からは明確に区別されたところにわが身をおいて、この社会の行く末を考え、発言する人間でありたいと思うからである。
私自身も、首相官邸付近をはじめとする各所での反原発行動には何度も参加してきているが、そこにいることの「苦痛」を感じた経験も、数回には留まらない。例を挙げてみる。ある夜、現場に遅く着いた私は、首相官邸に最も近い地点にはいるが、それ以上は行かせまいと阻止線を張る警官隊に封じ込まれている数十人の集団のところへ行こうとしていた。次第に近づくと、先頭でメガホンを口に当てた男が「野田内閣を打倒せよー」と、奇妙な抑揚をつけて唱和の音頭をとっていた。その発声は、明らかに、天皇記念日や閣僚の靖国参拝を批判するデモを行なう私たちに、黒塗りの街宣車から、高性能マイクを使って罵倒を浴びせる職業右翼のものにちがいなかった。奴らは、集会の発題者を察知している時には、その固有名を挙げて「打倒せよー」と叫び、「打倒したぞー」と唱和させ、「叩き出せー」「北朝鮮へ帰れー」と叫びたてるのだから、一度その標的にされた者には忘れようもない口調と発声なのだ。ファシズムの匂いがする声と抑揚とでも言おうか。そこに「日の丸」は翻ってはいなかったが、たとえ「反原発」であろうともこの発声には唱和すまいという私の感性は信じるに値するとだけ考えて、私はその集団に背を向けた。
「左右を超えた脱原発、そして君が代」(坂本龍一と鈴木邦男の対談企画に『週刊金曜日』誌2月8日号が付した名称)などという言い草が、論議も論争もないままに、「日本人」内部の了解事項となるとき、その外部にはじき出される者が、必ず存在する。「右」はその本質からして、「左」はその無自覚さにおいて、排除すべき「非日本人」を、このスローガンを通してつくり出すのである。このように「統一された」日本人こそ、恐ろしい。そこに翻る「日の丸」に恐怖を感じる「非日本人」が存在することを感受できない感性は、「日本人の内部」からこそ、疑うに値する。
「反原発」運動の内部には、「城内平和」は求めるが原発輸出には何の関心も示さない傾向が厳に存在する。「反戦・平和」運動の内部には戦後一貫して、「憲法9条」と「日米安保体制」を「共存」させる心性が消えることはなかった。沖縄の現状は、その延長上で担保されている。
「統一と団結」の呼号ではなく「論争ある分岐を!」――私たちが、いつでも、どこでも、依拠すべきはこの原則である。蛇足ながら、ここでいう「分岐」は「分裂」と同義ではない。
(4月13日記)
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2013年2月4日
『反天皇制運動モンスター』第37号(2013年2月5日発行)掲載
ここ数年、「革命の通信」ともいうべき、北アフリカはマグレブの急使が途絶えることがない。広場に集まった群衆の中から、らくだに乗って突撃してきた部隊に蹴散らされた人びとの中から、逃亡した権力者の宮殿を占拠した人びとの中から――急ぎの使者がやってきては、何ごとかを伝えてゆく。
だが、私たちは、それを聞き取る術を持っているのか? 私たちはすでに、ここ十数年来のアフガニスタンとイラクについての報道を経験し、何事をも「イスラム」と括ることで、何か危険なもの、過激なもの、異質なもの――などと仄めかそうとする報道操作に全面包囲されてきた。それから、わが身を分け隔てる知恵を私たちは持っているか? あまりに歪められた「イスラム報道」に接するたびに、わが身は思わず身構える。
今回のアルジェリアの事態についても同じことだ。かつてなら、アルジェリアの急使は豊富だった。フランス植民地軍脱走兵の証言、植民地軍から拷問を受けた少女ジャミラの手記、解放戦線のスポークスパースンだったフランツ・ファノンの諸著作、そしてジロ・ポンテコルヴォの映画『アルジェの戦い』――植民地解放闘争の息吹を伝える急使が数多くあった。だが、1990年代の凄惨な内戦で15万人もの死者を出した記憶も消え去らぬ現在、抗争の当事者であった政府にせよイスラム武装勢力にせよ、適任の急使を外部世界に送ることができない。すでに19年も前にメキシコのサパティスタがインターネットを駆使して行なったような鮮烈な言葉によるメッセージを、今回の「覆面部隊」は発することができないままだ。だが、マリに侵攻したフランス軍の撤兵を要求する言葉だけは明快だった。ここから何がわかるのか? 事態はもはや北アフリカに局限され得ず、西アフリカへと拡大している、ということだ。マリと言えば、数年前に観たモーリタニア映画『バマコ』(アブデラマン・シサコ監督、2006年)は、世界銀行らの国際金融機関がマリに強制した構造調整政策の実態を巧みに告発する内容だった。20世紀末から21世紀初頭にかけて、ラテンアメリカ諸国に続いてアフリカの国々も、先進国と国際金融機関が主導する新自由主義経済政策の支配下にあったのである。この程度の知識でもあれば、天然ガス・プラント問題を通して、開発による利益を地元に還元するルールはどのようにつくられているのか、あるいはいないのかへと私たちの関心は伸びて、犠牲者の哀しい物語だけで終わらせずに、問題の本質的な膨らみへと行き着くことができるはずだ。
他方、新自由主義に翻弄された社会が、いかに構造的に壊れるものであるか。そのことを、小泉改革以降の日本社会の実情に照らして、私たちは学びつつある。経済生活を破壊された底辺層が、相互扶助の精神が相対的に高いイスラムの人びとの「影響下に入る」ことは見え易い道理である。メディアが好んでやるように「アルカイダが聖戦思想をもってアフリカを侵食している」などという側面だけで、事態を捉えるべきではないだろう。
マリの隣国ニジェールには、フランスの原発推進部門が採掘を手掛ける豊かなウラン鉱がある。現在のところ、東アフリカのジブチにしか軍の常駐基地を持たない米国は、去る1月28日、ニジェールへの米軍駐留に向けて同国政府との間に地位協定を結んだと発表した。「北アフリカで拡大するテロ組織に対応するために」米軍は偵察用無人航空機基地をニジェールにつくり、300人程度の要員を駐留させるのだという。またしても、軍事的な対応である。「反テロ戦争」の拡大図を見るために、地図を広げてみよう。アフガニスタン、イラクに始まる「戦線」が次第に西へと拡大し、ソマリアでの「海賊退治」を経て、ついに西アフリカへ至った事実に行き当たろう。それは米国主導の「反テロ戦略」の破綻を意味している。いつでもどこでも軍事に頼る大国のふるまいを「横暴」と捉える非国家組織が同じ手を使って対抗することで、現在の状況がつくられたのだ。
最近、国連事務次長は「ラテンアメリカの経済状況が比較的順調なのは、この地域で武力紛争がほとんどないこと」を理由として挙げた。私はこれを、同地域では米国の影響力が大幅に減退し、その軍事的プレゼンスもほぼ消えて、新自由主義路線を排除して、各国に自主・自立・相互扶助の動きがあるからだ、と読み替える。アルジェリアをはじめ北西アフリカの現実の打開方法を伝える急使は、意外な場所から来るのかもしれない。
(2月2日記)
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2013年1月15日
『反天皇制運動モンスター』第35号(2013年1月15日発行)掲載
昨年の暮れも押し詰まった12月14日、米国東部コネティカット州の小学校を現場にした銃の乱射事件は26人の犠牲者を生んだ。その多くは子どもであった。そのため「クリスマスを目の前にして」という情緒的な反応も含めて、日本でも大きく報道された。オバマ大統領も直ちに記者会見を行なったが、途中で声を詰まらせ涙を浮かべる様子も、事細かに報じられた。大統領は、銃規制の方針を打ち出しているが、もちろん、これに反対する銃ロビー団体=全米ライフル協会(NRA)の動きもあって、前途は予断を許さない。
それにしても、この光景を何度見てきたことだろうか。私の世代なら、60~70年代にベトナムの戦場に派遣されていた帰還兵が、次々と引き起こした乱射事件を思い起こす。生まれついての軍人ではなかったどこにでもいる若者が、兵士になってアジアの人間に対する人種差別意識に基づいた殺人訓練を受けたのちの数年間を戦場で過ごし、やがて帰国できたとしても、彼はもはや、かつて市井に生きていたころの彼ではない。彼は、自らが他国の戦場にいて揮った無制限の暴力を自国へ持ち帰るほかないのである。そのことを、ダグラス・ラミスは「戦争が帰ってくる」と、的確にも名づけた。
今回事件を引き起こした人物は元軍人ではないようだ。だが、3億丁の銃がひしめくと言われる米国社会である。「銃の所有は開拓以来の自主独立精神の象徴だ」とするNRAの主張が、むごい乱射事件が起きたときだけ「銃規制派」に中途半端に転向するオバマ的な人物を含めた広範な人びとの支持をふだんは受けているからこそ、この現実が生まれていると解釈すべきであろう。オバマは、確かに、城内秩序を乱した実行者には怒りを見せ、いたいけな犠牲者を悼んでみせた。同時にオバマは、この同じ銃を、否、殺人能力にはるかに長けたミサイルや無人爆撃機を、「反テロ戦争」の名の下にアフガニスタンやパキスタンやイエメンのような城外では使うことをきょうも指令し続けているのである(つい先日まではイラクでも)。銃を何の疑問も持たずに使用することは、あの社会の人びとの中で、価値として「内面化」しているのだ。「内」で起こった殺人事件に涙を流したその日にも、「外」に向けては殺戮指令を出す人物の偽善性は、そんな社会にあっては、経済合理性に基づいた主張を持つ銃規制反対勢力の現実性を前に、膝を屈するしかない。
その米国と国境を接して南に位置するメキシコからの、二つのニュースに注目したい。ここ数年は麻薬をめぐる暴力事件が絶えることはない。麻薬の最大の消費国=米国があってこそ、それに付け入ったマフィアが、コロンビア、ペルー、ボリビア、パナマなどを原産国および経由国として利用してきたのだが、昨今はその最前線がメキシコに移動したようだ。けだし、米国の暴力性は軍事面にのみ現れるのではない。経済的な消費=供給構造を規定する力にも如実に現われる。だが、ここではメキシコ南東部に目を移して、そこからのメッセージに注目したい。マヤ歴に基づいて「世界終末の日」と騒がれた12月21日、高度消費社会の人間たちが好奇心に駆られて、「過去」としてのいくつものマヤ遺跡の周辺に群がった。同じ日、チアパス州で「現在」を生きるマヤの末裔たちは、4万人から5万人とも言われる老若男女の塊となって、主要五都市の中心広場を沈黙の裡に占拠した。全員が黒の目出し帽を被っていた。19年前に、グローバリゼーションの趨勢に異議申し立てを行ない、武装蜂起したサパティスタ民族解放軍(EZLN)の自主管理区に住まう人びとの群れであった。沈黙の広場占拠と行進によって、19年間に及ぶ持久的なたたかいの現状を表現する象徴的な行為であった。武器は捨てて、政治=生活=文化の全領域でこそたたかいを継続したいというその路線を端的に表現したものであった。マルコス副指令の短いメッセージは言う。「関連するひとびとへ 聞こえただろうか? これは君たちの世界が崩壊する音だ。我らの世界が復興する音だ。その日はかつて日中でも夜であった。そして、夜という日は、いつか日が明けるのだ。民主主義! 自由! 正義!」。いかにもサパティスタらしい修辞ではある。
銃の意味を徹底して考えることを放棄している米国社会。武装蜂起はしたが、当初から武器と戦争のない未来社会の夢想を公言していたサパティスタ――去る12月中旬の二つの対照的なニュースは、いずれも深く示唆的であった。(1月12日記)
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2012年12月3日
反天皇制運動『モンスター』第35号(2012年12月4日発行)掲載
「アメリカへ軍事基地に苦しむ沖縄の声を届ける会」は、2012年1月下旬に訪米団を派遣した。ささやかな旅費カンパを行なった私のもとに、10月30日付けで発行された「訪米団報告集」が届いた(インターネットをお使いの方は、会の名前を入力すると、いくつかの情報源に行き着くことができる)。
冒頭にある団長・山内徳信の文章はのっけから次のように始まる。「日本政府に訴えても聞いてもらえないならば、基地の運用者であるアメリカ政府や連邦議会、アメリカ市民へ訴えよう」と。ここで言う「日本政府」の背後には、これを支えてきた日本社会の「民意」か「世論」が存在しているわけだから、私たちも無傷では読むことのできない文言である。まず、二つの論点をここから引き出しておきたい。沖縄の民衆が持つ日本政府に対する絶望感が、歴代のそれに対して積み重ねられてきたものであることは、戦後史を顧みるなら当然理解できることだ。だが、時期に注目して直接的な要因を探れば、普天間基地に関して「最低でも県外」移設を掲げて挫折した鳩山元首相の一件に由来することは、見えやすい道理である。彼には確かに「政治力の不足」が見られたが、それと同時に見ておくべきは、彼の企図が「辺野古移設を既定路線とする米国側と日本の外務、防衛両省上層部からの反撃」に見舞われたことである(『文藝春秋オピニオン 二〇一三年の論点百』所収の鳩山論文)。この点は私も何度か指摘してきたが、メディアと多数派世論は鳩山の「公約違反」を論うばかりで、外務・防衛官僚上層部によって鳩山案に対する妨害工作が行なわれたことに触れる議論は極端に少ない。ここにこそ、あの事態の本質を見るべきであろう。
ふたつ目は、この事実を自覚したうえでなお、米国から見れば、日本の「国内問題」でしかないものをわざわざ米国まで出かけてきて訴えるのはお門違いではないか、という反応に見舞われるに違いないということである。事実、代表団メンバーの報告を読むと、応対した米国の議員からは、そうした趣旨の指摘が幾度も返ってきている。日本社会の中でそのケリがつけられていないという意味において、この指摘はヤマトの私たちにも痛覚をもたらす。代表団には、その時の居心地の悪さを予感するものがあったと思われるが、それでもなお訪米した意図は何か。参加した糸数慶子によれば「米国内で財政赤字削減計画の一環として国防費の大幅削減が計画され、そのため海外の米軍基地の大幅見直しの動きがあり、米国連邦議会の有力議員や有識者、シンクタンクの中からも沖縄の米軍基地の整理・縮小や在日米軍の再編を求める声が高まり、このタイミングでの訪米は千載一遇のチャンスであった」ということになる。事実、基地支配者である米国政府(国務省、国防省)や連邦議会の上下両院議員、補佐官、シンクタンク、駐米日本大使など62ヵ所にも及ぶ訴えは、かつてない「民衆による直訴行動」であったようだ。
結果は、もちろん、楽観的なものではあり得ない。しかし、真剣な議論もないままに、駐留米軍の「抑止力論」に終始する日本政府・官僚(何度でも書かねばならないが、その背後にあるヤマトの「民意」!)の「無感覚な対応」(山内徳信の言葉)に翻弄されてきた代表団にしてみれば、米国側のそれは「率直で、新鮮であった」という感想を一様に述べている点が注目される。問題提起がなされれば、最後の一線を譲る気持ちはさらさらないとしても、「議論を通してその提起を受け止める」という態度が見られたのであろう。それを「率直で、新鮮」と言わざるをえない心中を察したいと思う。
他方、「琉球弧の先住民族会」のメンバーである親川志奈子は、ジュネーブの国連人権理事会先住民族部会で「先住民族という視座」から、琉球の軍事化や基地被害についての訴えを行なった経験を報告している(『世界』12月号)。『世界』掲載の文章には珍しく、生活と文化に根差した豊かな視点から、「脱植民地化を実践し生きていく」展望を語っている。彼女の文章は「そして問い続ける、沖縄を目の前にして日本人はどう生きるのかと」という言葉で結ばれている。
沖縄での注目すべき動きが、期せずしてか、ヤマトの政府と「民意」の鈍感さに見切りをつけ、世界からの包囲網の形成に向かっている現実に目を向けたい。 (12月1日記)
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2012年11月8日
『反天皇制運動モンスター』第34号(2012年11月6日発行)掲載
朝鮮特務機関による拉致被害者の蓮池薫氏が『拉致と決断』と題する著書を出した(新潮社)。同社のPR小冊子「新潮」に2年間ほど連載されていたものを元にして、「帰国」10年目に合わせての単行本化である。朝鮮で送らざるを得なかった24年間の歳月が、あふれるごとくの言葉で綴られている。外部の人間が、一部を恣意的に引用したりまとめたりすることは慎みたい、と思わせる何かがある。氏の文章を実際に読まなければ伝わらないものがある、と感じさせるという意味において。
10年前、日朝首脳会談が実現し、ピョンヤン宣言が発表されたとき、日本社会を覆い尽くしたのは拉致問題への関心一色だった。それは確かに重大な国家犯罪だが、問題の本質は、近代国家・日本による近隣諸地域への侵略、戦争、植民地化の過程と、敗戦後の「戦後処理」のあり方に関わっており、それへの総合的な視野なくしては拉致問題などの個別課題を解決する目途も立たないことは、私には自明のことだった。
だが、この問題に関わる世論形成に大きな力を発揮した拉致被害者家族会の方針は違った。「拉致問題の解決なくして国交正常化なし」――他のいかなる問題にも先駆けて拉致問題を解決すること、そのことを強硬に主張した。ことは、外交問題である。二国間の関係に関わることがらであるからには、一国が一方的に優先課題を設定していては、交渉の糸口にもたどり着くことはできない。このことを知ってか知らずにか、家族会の方針に異論を立てる者が、この社会には極端に少なかった。政治家しかり、外務官僚しかり、メディアに登場する者たちしかり。家族会は、比類ない圧力団体として、社会全体を縛り上げてきたと言える。背後には常に、「北朝鮮に拉致された日本人を救出するための全国協議会」(いわゆる「救う会」)という、極右団体を控えさせながら。
去る10月、日朝首脳会談から10年目を迎えて、無為に過ぎた10年間をふり返る企画がメディア上にあふれた。「拉致問題の進展が見られない」「内閣改造のたびごとに、拉致問題担当相が変わり、政策の継続性がない。政府の誠意を疑う」「親の高齢化が進み、残された時間はほんとうに僅かだ」――家族会の人びとの、即時的な心情に寄り添う言葉はあった。それだけが、あった。拉致問題だけを切り離して、優先的に解決する――社会を10年ものあいだ金縛りにしてきたこの路線の「非現実性」を指摘する声は、いまだにかき消されたままだ。
この10年間、渦中にありながらもっとも理性的な言葉を語ってきたのは、「帰国」できた5人の拉致被害者であったように思える。「帰国」から1年半の間はまだ子どもたちが朝鮮に残っており、その後も、生存している拉致被害者の安否を思えば、自分たちの発言がどんな影響を及ぼすかを熟慮した、慎重な言い回しが目立った。だが、蓮池薫氏の場合には、家族会事務局長時代の兄・透氏の著書『奪還』(新潮社、2003年)や『奪還第二章』(同、2005年)から、漏れ響いてくる印象的な言葉がいくつもあった。「何ヵ月も安否確認さえできない政府の無能ぶり。一介のNGOにできることなのに」「政府は主導的に何をしようとしているかわからず、物足りなかった」「自分たちだけが帰ってきて忍びない」「日本だけが被害者だというような態度で北朝鮮に接しても、ぶつかり合いにしかならないんだ」。
私は当時これらの言葉を読みながら、「帰国」者たちが、奪われた24年間の経験を生かし、日朝和解のための架け橋になるような生き方をしてくれたなら――とひそかに夢想した。部外者の、勝手な思いであることは承知していた。書物を刊行するという意味では外部の私の視野にも入ってくる蓮池薫氏の仕事を見ていると、その思いが叶いつつあるような気がする。現代韓国文学を中心とした氏の翻訳書は20冊を超えている。孔枝泳の『私たちの幸せな時間』『トガニ』(いずれも新潮社)など優れた作品が目立つ。拉致そのものを扱った新著『拉致と決断』も、氏がそれによって強いられた運命を思えばなお、公平・公正な立場で日朝間の歴史的・現在的な関係を観ようとしており、そのありようが胸を打つ。
(11月3日記)
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2012年10月9日
反天皇制運動『モンスター』第33号(2012年10月9日発行)掲載
先日、「レイバーネットTV」に初めて出演した。ユーストリームを利用したオンラインニュース番組である。2010年5月以来、月2回のペースで生放送されている。当夜の「特集」は、「尖閣・竹島」に象徴される領土問題であった。番組全体の時間枠は75分間、そのうち45分が「特集」に割り当てられる。キャスター2人はもちろん、特設スタジオ内の10人近い技術スタッフの中からも質問が出たり、声がかかったりしながら番組は進行するが、45分間は、けっこう長い時間幅だ。
領土問題は、植民地主義が遺した「遺産」である場合が多い――現在、日本が直面しているそれは、その典型である――から、列強による世界分割地図や、「固有の領土」論に関わっては、いにしえの地図が必要になる。「無主地先占」論なる、聞き慣れない表現には、文字パネルが用意される。放送中とその後の反響を聴きながら、それらの素材が果たした「威力」を思った。
このテーマに関わって、言葉で表現しなければならない問題は多面的だが、これを機会にどうしても強調したい点がひとつあった。日中間に起こった、今回の不幸な事態を招いたのは、現東京都知事が去る4月米国で行なった「尖閣諸島を東京都が買い取る」とした発言にある、ということである。問題のよって来るゆえんに迫る報道が、傲岸不遜この上ないこの小人物を怖れているわけでもないだろうが、マスメディアでは弱い。対照的なことには、ネット上では、都知事批判が的確になされている。曰く「選挙公約であった米軍横田基地返還交渉も行なわずに、何が尖閣か」。曰く「140万もの人びとが住む沖縄が、米軍基地負担に喘いでいる事実に何も言及しないで、無人島へのこの異常な関心は何なのか」。曰く「原発推進派として、福島の現実にこころひとつ動かさずに、何が『国家を守る』か」。曰く「この国は元来、領土問題にはたいへん太っ腹な国で、天皇制を守るためなら沖縄くらいくれてやったではないか」。曰く「いまなお、複数の県に実効支配の及ばない広大な領土があるではないか」――これらは、ごくふつうに、ネット上で複数の人びとが発している言葉である。知事番の記者たちは、都知事をたちどころに矛盾の極致に追い詰めてしまう、この種の質問のひとつをすらしないのだろうか。
都知事を米国に招いたのは、同国ネオコンのシンクタンク「ヘリテージ財団」であった。米国右派からすれば、東アジアに安定的な平和秩序が確立されることは、忌むべきことだ。国家間に常に一触即発の緊張関係が走っているならば、米国の軍事力が、広くアジア太平洋地域に、従来のそれを上回る形で伸長し続ける理由として活用できる。誰もが言うように、領土問題は、ナショナリズムをいたく刺激する。国内に抱える諸矛盾を覆い隠すために「反中国」の悪煽動を行なえば、国内での政治的な支持を得るのは容易なことだ。それは、そのまま、日米両国の右派の利害に繋がる。都知事は、いわば彼の本質に重なる地のままで、そのための役割を演じたのだと言える。
「1895年に沖縄県に編入された」という「日本固有の領土」=尖閣諸島は、「1879年=琉球処分」という名の「ヤマトによる琉球植民地化」以降の、重層的な歴史を想起させずにはおかない存在である。同時に、敗戦後の米国による占領統治から「返還」の過程では、諸島のなかの2つの島が米軍の射撃場とされたこと(豊下楢彦『「尖閣購入」問題の陥穽』、「世界」2012年8月号)で、米国による軍事植民地化という問題をも浮かび上がらせる存在でもある。こうして、「東アジア騒乱」を望む日米右派が反中国の「切り札」として悪用している尖閣問題は、そこに平和をつくりだそうとする私たちの側からすれば、のちに米国も加担して実践されてきた、百数十年に及ぼうとする植民地主義をふり返るべき場所である。おりしも、在沖縄米軍のオスプレイ配備をめぐって、「日米の植民地」としての琉球という問題意識の大衆的な深まりが、沖縄現地からは伝えられている(たとえば、松島泰勝氏インタビュー、9月24日付毎日新聞)。ここが、私たちが踏みとどまって、問題の本質を探り続けるべき場所である。
注記――レイバーネットTVへのアクセスは、http://www.labornetjp.org/tv
(10月6日記)
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2012年9月10日
反天皇制運動『モンスター』第32号(2012年9月11日発行)掲載
生きてきた時代の中で、忘れられぬ出来事が詰まった月がある。個人的なことで言えば誰にせよあれこれあるだろうが、現代史の中で起きた社会性を帯びた出来事という観点から言えば、私の場合は、9月が随一だろうか。
まずは、40年近く遡る。1973年9月11日、南米チリで、社会主義政権を打倒した軍事クーデタが起こった。その3年前の1970年、チリの一般選挙で、社会主義者サルバドル・アジェンデが当選した。武力によってではなく、選挙を通じて成立した、世界史上初の社会主義政権であった。その3年前、隣国=ボリビアではチェ・ゲバラが殺されたが、その前後には、1959年以降「キューバに続け」とばかりにラテンアメリカ全土で闘われていた反政府武装ゲリラ闘争が相次いで敗北していた状況に照らすなら、それは、社会変革を実現するうえで新しい道を切り拓く経験であった。ひとによっては、それを「銃なき革命=チリの道」と呼んだ。
チリ革命は、政治・経済過程の変革はもとより、帝国主義文化の浸透に関わる批判的な分析で見るべき成果を挙げたが、それが3年間の試行錯誤の果てに軍事クーデタによって挫折したのだった。鉱山企業や通信事業の国有化によって、従来享受してきた特権的な利益を剥奪された米国の画策がこのクーデタの背後にあったことは、言うまでもない。平和革命の道が、相も変わらぬ、超大国が画策した軍事力によって潰えていくこと――その際立った対照性を、胸に深く刻み込んだ多くの人びとがいた。
それから28年を経た2001年9月11日、私たちの記憶になお生々しい事件がニューヨークとワシントン郊外などで起こった。高層の世界貿易センタービルや、五大陸の軍事的制覇の野望を表現しているのではないかと私が疑っている、五角形の奇怪な形をしたペンタゴン・ビルに、ハイジャック機が激突したのである。「9・11(September Eleventh)」の略称によって、世界中に知れ渡っている出来事である。私は、事件の死者たちを悼みつつも、同じ日付を持つチリ・クーデタの記憶が消えていない者の立場から、この「悲劇」を米国が独り占めすることなく、自らが世界各地で軍事力の行使によってつくり出してきた「数多くの9・11」を思い起こし、世界近現代史上におけるそのふるまいを内省する方向へ向かうこと――そのことをこそ望んだ。
その後の事実が明かしているように、実際には、そうはならなかった。むしろ、逆であった。米国の為政者は、世界史上かつってなかったような悲劇の主人公として自らを演じた。犠牲にさらされた者は、どんなことをしても許される――端的に言って、こんなことをしか語っていない大統領が行なった「報復戦争」の呼号が、米国社会を丸ごと捉えた。悲劇を口実に、新しい戦争が始められた。まずはアフガニスタンで、次いでイラクで。それからの11年間に、どれほどの悲劇が積み重ねられてきているのか。世界はまだ、正確な形では、そのことを知らない。
その翌年の9月の出来事は、東アジアの規模で起こった。2002年9月17日、日朝首脳会談がピョンヤンで行なわれた。戦後57年を経ていながら、いまだに国交回復すらできていない、したがって、植民地支配の清算もついていない朝鮮と日本、二国間の関係を正常化することが最大の眼目であった。その席上、朝鮮側首脳は、推測されてきた「朝鮮特務機関による日本人拉致」が事実であったと認めて謝罪した。植民地支配や侵略戦争を行なった過去を指して、その「加害者性」を指弾されてきた日本社会は、或る拉致被害者の家族が語ったように、「これでようやく被害者になれた」と誤解して、「負い目」を払拭した。政府も、メディアも、社会も、丸ごとそのような感情に支配されて10年――したがって、事態は膠着し、二国間の関係の正常化どころか、拉致問題の進展も見られない。こうして、戦後67年が経ってしまった。
それぞれの社会が、震撼させられる重大な事態に見舞われることで、自らをふり返り/改めるせっかくの機会を得ながら、逆にそれを自己正当化の口実にしてしまう。人間社会の愚かさを明かしているようで、9月の出来事は哀しく見える。(9月8日記)
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2012年8月6日
反天皇制運動『モンスター』31号(2012年8月7日発行)掲載
テレビはあまり見なくなったが、7月末のある日、どこかのチャンネルが、雨宮処凛と毛利嘉孝をスタジオに招いて、首相官邸前の原発再稼働反対デモをめぐる討論番組を放映することを知って、何気なく点けたままにしておいた。当世の番組だから、観ている誰でも、ツイッターで意見を寄せることができる視聴者参加型番組である。官邸前デモについては、いずれ触れる機会もあるだろう。きょうの話題は別だ。主要なテーマが終わって、「今週ツイッターでもっとも注目度が高かったテーマ一覧」というパネルが出て、一位から十位までのテーマが並んだ。他のテーマはひとつも頭に残っていないが、八位の「ムヒカ大統領演説」という文字だけが、私の目に跳びこんできた。その後の番組の流れの中では、1位か2位のテーマについての説明がなされたが、テーマも中身も覚えていない。
私は1年前からツイッターにはまっているが、その数日前に、私の「フォロワー」が紹介していたムヒカ演説を読んで、それを日本語で読むことができるウェブサイトを紹介し、ムヒカなる人物についての簡潔な情報を伝えたばかりであった。日本のマスメディアではまったく報道されていないムヒカ演説が、ツイッターの世界では次々と転送されて、テレビ番組が放映する「週間ベストテン」に入っていること–―そのことへの、新鮮な驚きが私にはあった。メディア状況は、それほどまでに、劇的な変化を遂げつつあることをあらためて実感したのである。
ムヒカとは、ホセ・アルベルト・ムヒカ・ゴルダノ(1935~)、南米ウルグアイの大統領である。2009年の選挙で当選し、2年有余前の2010年3月、大統領に就任した。話題となっている演説は、6月末にブラジルのリオデジャネイロで開催された「国連持続可能な開発会議(Rio+20)」で行なわれた。翻訳は、ラテンアメリカに住む日系青年たちが運営するNikkei Youth Network のサイトにアップされたのだが、この原稿を書いている時点では接続不能なので、それをフォローした以下を挙げておく(ユーチューブで、生演説も視聴可能)→http://blog.livedoor.jp/kirinoyura/archives/1706023.html
(これも接続不能な場合は、「ムヒカ演説」で検索できよう)。
演説内容は、しごく簡明――リオ会議は「持続可能な発展と世界の貧困をなくす」ことを目的とした会議だが、無限の消費と発展を求めてきたのが私たちであることを顧みるなら、残酷な競争によって成り立つ消費資本主義社会が孕む問題を放置したまま、共存共栄の論理を語ることは不可能。問題の本質は、環境危機ではなく、問題の本質に向き合わない政治危機なのだ、と要約できよう。
この演説がネット上で熱い共感を呼んでいるのは、昨今の首相や大統領には珍しい「論理」と「倫理」を兼ね備えた内容が、ここにあるからだろう。私がツイッター上で付け加えたのは、ムヒカの「前歴」である。1960年代から70年代初頭にかけて、ウルグアイでは反体制都市ゲリラ「トゥパマロス」が活発に行動していた。トゥパマロスは、その政治的倫理の高さと作戦活動のめざましさで、一時代を画した。ムヒカはそのメンバーで、何度も逮捕された。しかし、彼は二度も脱獄した。獄外の仲間が、刑務所に近い家屋の床下から牢獄へ向けてトンネルを開通させ、それを伝って脱走したのである。1972年の軍事クーデタ後に徹底した弾圧を受けた。辛うじて生き延びたメンバーの一部が、民主化の過程以降、政党を結成し、政治の世界に進出した。そのような人物を、およそ40年を経て一般選挙で大統領に当選させるウルグアイ民衆の政治的・社会的「成熟ぶり」が眩しい。ある時代に、信念に基づいて法を犯した者が、刑期を終えてのち、社会的に復権することを保証している人びとの「寛大さ」に打たれるのである。その人物が77歳のいま、40年の時間を超えて持続していたゲリラ時代の初志を大統領として国際会議で披歴し、その演説を貫く理想主義に、およそ政治家なるものへは不信感しか持たない他地域の人びとが感銘を受けている。
ツイッターを含めたネット世界での「精神的交通」、侮るべからず。そう、思った。
(8月4日記)
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2012年7月9日
反天皇制運動連絡会『モンスター』30号(2012年7月10日発行)掲載
米海兵隊御用達の航空機・オスプレイospreyは、「ミサゴ」の意である。「わしたか科の大形の鳥で、海岸の岩や入り江などに住み、するどい爪で魚をとらえて食べる」と簡便な辞書にはある。古代・中世の歴史を欠き、移民国家として高々二百数十年の歴史しか持たない米国は、開発する武器や展開する軍事作戦の名称に、征服した先住民族(インディアン)の母語に由来する名詞や、猛々しい鳥類の名称や、「不朽の自由作戦」や「トモダチ作戦」などという、米国以外の地域に住む人間なら顔も赤らむ名称を、臆面もなく付す伝統がある。オスプレイは、猛禽類から来る名称である。
「敵」ながら、言い得て妙な、名づけである。侵略部隊としての米海兵隊がオスプレイを重用するということは、従来なら上陸用舟艇に頼っていた上陸作戦(それは、当然にも、陸地に構える「敵」から丸見えである)の様態を一新する手段を得たことを意味している。水平線の彼方から突如として現われるオスプレイは、最大速力・時速520キロメートルで飛行できるのだが、その輸送能力は、兵員数24名と武器などの物資(15トン)である。持てるその獰猛な暴力によって「敵」を鷲掴みにするというのであろう。
オスプレイの日本配備(厳密にいうなら、沖縄配備)の道を掃き清めるために、日本国防衛省が「MV-22オスプレイ——米海兵隊の最新鋭の航空機」と題するA4で22頁の小冊子を関係各所に配布したのは、去る6月13日であった。同日夕刻(米国時間)、フロリダ州ナヴァレ北部のエグリン射撃場でCV-22オスプレイが墜落し、搭乗員5名が負傷した。4月11日にはMV機がモロッコでの軍事演習中に墜落したばかりだから、事故確率が高いという印象が否めない。冊子には翌14日に配布された分もあったが、それには事故発生だけを伝える素っ気ないビラが一枚挟み込まれた。
この冊子によれば、オスプレイは「ヘリコプターのような垂直離着陸機能と、固定翼機の長所である速さや長い航続距離という両者の利点を持ち合わせた航空機」とされている。「回転翼を上へ向けた状態ではホバリングが可能となり、前方へ向けた状態では高速で飛行することができ」、「MV-22は、現在配備されているCH-46と比較して、最大速度は約2倍、搭載量は約3倍、行動半径は約4倍になる」という。ヘリコプター機能を持つことで滑走路を必要としない点が、一層の効果的な運用を可能にするのだろう。冊子には、飛行高度と騒音の関係表もあるが、下限は500フィート(150メートル)だから、超低空飛行も行なうのである。その他「運用・任務」「安全性」「騒音」「沖縄での運用」などの項目ごとに、ごく簡単な説明がなされている。
全体としてみれば、事故率を低く見せかけ、騒音は「前機より軽減」され、環境への影響なども「特段なし」とみなすなど、米軍が提供した資料をそのまま翻訳しただけの代物であることが透けて見える。危険性が高いこのオスプレイ配備が発表されるや、沖縄はもとより低空飛行訓練が予定されている全国各地から、厳しい批判の動きが高まっている。無視できなくなった政府は、一応、せめて「配備延期」要請を行なう程度の対米交渉は行なったらしいことを明らかにしている。官房長官は「米国と何度も交渉したが、押し返せなかった。米国は日米安保条約上の権利だと主張した」と語った。防衛相は「日本政府に条約上のマンダート(権限)はない」と述べている。1960年の条約改定時に「安保条約六条の実施に関する交換公文」が交わされ、米政府は、在日米軍に関する①重要な配置の変更、②重要な装備の変更、③日本国内の基地から行われる戦闘作戦行動——の3項目については、事前協議することが規定されている。協議があれば、日本政府が自主的に諾否を判断するというのが政府の立場であるが、事前協議は一度として行なわれていない。自民党時代はもとより、民主党政権になっても、日米安保を容認することが、そのまま、占領時代さながらに米軍の特権を容認し続けることに直結している。米軍の140機のオスプレイは、今年3月現在、東はノースカロライナ、西はカリフォルニアとハワイの米国内に配備されている。米国本土を初めて離れて、オスプレイは日本→沖縄へ向かっている。日米軍事協力体制は、こうして、世界にも稀な「異常な」性格を有している。(7月7日記)
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2012年6月11日
『反天皇制運動モンスター』29号(2012年6月12日発行)掲載
「NHKスペシャル 未解決事件」でオウム真理教事件が取り上げられた(5月26~27日)。NHKが独自に入手したという七百本を超える教団内部の音声テープや元信者・元警察官の証言を基に実録ドラマとドキュメンタリーの手法を組み合わせて、事件の原因や教団の実態を複眼的に描こうとした、と番組の惹句にはある。
決定的ともいうべき内容的な欠陥がひとつある。坂本弁護士事件と松本サリン事件の捜査に当たった神奈川県警と長野県警の元警察官の取材を行ないながら、聖域にして踏み込まなかった問題があるからである。両県警の元警察官は、それぞれ、「オウムとサリン」の関係を疑い、あと一歩で摘発できる寸前までいっていた、と語る。今はすべての「サティアン」が撤去されている、上九一色村の茫々たる廃墟に立たせて、そう語らせるのである。思わせぶりたっぷりと。
NHKの取材グループは、映像記録や音声記録以外にも、膨大な文字記録も読み込んで、番組を構成したに違いない。そこには、麻原氏の国選弁護人であった渡辺脩氏の二著もあったに違いない。なければならない。『麻原裁判の法廷から』(和多田進氏との対談、晩聲社、1998年)と『麻原を死刑にして、それで済むのか?』(三五館、2004年)である。もちろん、もっと一般的な関連書でもいい。それらを読めば、松本サリン事件(1994年)や地下鉄サリン事件(1995年)よりはるか以前の坂本弁護士事件(1989年)にこそ、問題究明のカギがあることを知ったに違いない。なぜなら、神奈川県警はこの事件の捜査を徹底的にサボタージュしたからである。発端は1980年代半ばの事件だが、神奈川県警警察官が共産党幹部の自宅の電話盗聴を行なっていた事件が明るみに出た。
坂本氏が属していた弁護士事務所は、この一件で県警を追及する立場にあった。県警は、そこで対抗心から、坂本一家失踪事件に「事件性は薄い」との立場を貫いた。失踪現場には、オウムとの関連性を強く疑わせる証拠物件があったにもかかわらず。江川紹子の言によれば、県警は、坂本弁護士の「借金まみれの逃亡」「大金持ち逃げ」「過激派内部の内ゲバ」などの諸説を一部メディアに漏らしさえしている。
これに劣らず重大なことがある。この事件に加担した信者のひとりは、事件の数ヵ月後、教団と対立し後者を脅す目的で、坂本弁護士らの遺体を埋めた場所を明かす地図を県警に送っている。だが県警は、この「密告者」に対する取り調べも埋葬現場での引き当たりも行なわず、遺体発掘に最も不適切な積雪期に捜索したために遺体発見に至らず、というような信じがたい怠慢捜査しか行なわなかった。遺体発見は、したがって、オウム一斉摘発後の1995年9月であった。「タレこみ」から、実に5年有余の年月が流れていた。その間に、松本サリン事件と地下鉄サリン事件が起こったのである。
問題の本質は、だから、元警察官に「オウム追及まで、あと一歩のところまで来ていたのに」と詠嘆的に語らせるところには、ない。それは、むしろ、本質を故意に歪める効果をもつ。神奈川県警が坂本弁護士事件の真剣な捜査を怠ったことが、二つのサリン事件での膨大な犠牲者を生み出し、また、宗教的な救済を求めていただけの悩める若い信者たちを許しがたい犯罪に走らせる結果につながったのである。この事実が描かれれば、オウム真理教問題の見え方は一変する。NHKの番組は、舞台設定をまったく誤ったと言うべきであるが、ことが警察・検察権力のあり方に深く関わることである以上、私たちはこれを、社会の普遍的な病巣に手を届かせる契機に転化できると考えればよいだろう。
番組は、ひとつだけ重要なことを明らかにした。国軍でもない一民間宗教団体がいかにして技術的にサリン製造に至ったのか。米軍の一高官がそれを究明するために、サリン開発に関わった複数の確定死刑囚との面会を東京拘置所で重ねているというのである。国家としての米国は、やはり、ただものではない。自国の安全保障の観点からみて重要な情報はすべてホワイトハウスとペンタゴンに集中させよ。この気迫を前に、確定死刑囚との交通を厳しく制限している日本の法務当局は、あえなく拝跪したのであろう。神奈川県警といい、日本法務省といい、権力は実に変幻自在である。(6月9日記)
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