2017年3月6日
『反天皇制運動 Alert』第9号(通巻391号、2017年3月7日発行)掲載
「ことばが壊れた」とか、「崩れゆくことば」などという表現を私が使ったのは、 21世紀に入って間もないころだった。世界的には、「9・11」に続く「反テロ戦争」の正当化を図る米国政府の言動の支離滅裂さと、にも拘わらず各国政府や主要メディアがこれに追随する状況が念頭にあった。国内的には、いわゆる「小泉語」の問題があった。首相に就任した小泉純一郎が、従来の保守政治家とまったく異質の断定口調の〈爽快さ〉によって支持率を上げてゆく事態が進行していた。論理に基づく説明はいっさいなく、その意味では支離滅裂さの極みというべきものが「小泉語」の本質には、あった。
それから十数年が経った。今や、政治の世界では「ポスト真実」などということばが大手を振って罷り通っている。「事実に基づかない政治」「政策路線や客観的な事実より個人的な感情に根差した政治家の物言いが重視され、それによって世論が形成される」時代を指しているのだという。「小泉語」はその典型ではないか、私たちはすでにそんな時代を体験してきたのだ、と言っておきたい思いがする。世界的に見て、この状況が加速されたのではあろう。インターネット上に「贋情報」や「贋ニュース」が蔓延し、それがひとつの「世論」を形成する場合もある現代の〈病〉が浮かび上がってくる用語である。
この状況をもっとも象徴的に代表し得る為政者として、世界に先駆けて二国間会談を行なった米日両国首脳を挙げることができよう。彼方米国では、さらに、「オルタナ・ファクト(もうひとつの事実)」なることばすら使われている。誰の目から見ても明らかな嘘を言い、それを指摘されると、「嘘じゃない、オルタナ・ファクトだ」と強弁するのである。裸の「王」ひとりが言うのではなく周りの者たちも直ちに唱和していく点に、〈政治〉の世界の恐ろしさが見られる。
だが、スキャンダラスなこの種の話題にのみ集中して、米国で進行する新旧支配層の闘争を見逃すわけにはいかない。2月下旬、米国と北朝鮮は、中国の協力を得て、核問題をめぐる非公式会談を行なう準備を進めていた。北朝鮮のミサイル発射、金正男殺害事件(その真相はまだ不明だ)によっても、会談のための準備は中絶されなかった。だが、最終段階で、米国は朝鮮代表団へのビザ発給を見送った。米朝対話から和平へと進むことを快く思わない軍産複合体が米国には存在する。政権内部の抗争があったのだろう。トランプ「人気」は、既存秩序の象徴たるオバマやヒラリー・クリントン(それらを支える軍産複合体も含まれている)と対決しているかに見える点にある。水面下で進行する両者のせめぎ合いにこそ注目すべきだと思う。権力政治家は、スキャンダルの一つや二つで消え去りゆくほどやわな者ではないことは、長年心ならずも自民党政治を見てきた私たちには自明のことだ。
さて、此方にも、米朝対話の挫折を喜ぶ者たちがいる。安倍政権が現在の対米軍協力強化・軍拡・武器輸出推進などの路線を追求するためには、北朝鮮とは恒久的に対立していることが望ましい。事実、対立関係が見た目に高まれば高まるほどに、時の政権の支持率も増す。「拉致問題の解決こそ自らの使命だ」と高言してきた安倍が、被害者家族会がようやくにして苛立ちを示すほどにその努力を怠ってきたことには、彼なりの理由がある。
その安倍も、いま、森友学園をめぐるスキャンダルに見舞われている。政治家と官僚、さらには日本会議に巣食う連中の本質が透けて見えてくる「醜聞」ではある。国有地売買の背景には、民主党鳩山政権から菅政権への移行期に財務省官僚が立案した『「新成長戦略」における国有財産の有効活用』(2010年6月18日、財務省)と『新成長戦略~「元気な日本」復活のシナリオ~』(同日、閣議決定)がある。新自由主義的な価値観に貫かれたこの官僚路線は、反官僚の姿勢をむき出しにした民主党政権の「失敗」を経て、2012年に第2次安倍政権が復活した段階で、利害の合致する政治家を見出したというべきだろう。この問題からは、どこから見ても、現代日本をまるごと象徴する腐臭が漂う。徹底した追及がなされるべきだが、同時に、私は思う。秘密保護法、戦争法案、南スーダンへの自衛隊の派兵などの政治路線における攻防で「勝利」できなかった私たちの現実を忘れまい、と。誰であろうとスキャンダルによる「窮地」や「失墜」は、いわばオウンゴールだ。そこで、私たちの力が、本質的に、増すわけではない。(3月4日記)
【追記】文中で触れた「成長戦略」文書のことは、ATTAC(市民を支援するために金融取引への課税を求めるアソシエーション)のメーリングリストに投稿されたIさんの文章から教えてもらった。末尾に、リンク先を記します。
なお、ATTACのHPは以下です。
↓
http://www.jca.apc.org/attac-jp/japanese/
◎「新成長戦略」における国有財産の有効活用
平成22年6月18日 財務省
http://www.mof.go.jp/national_property/topics/arikata/
◎新成長戦略~「元気な日本」復活のシナリオ~(平成22年6月18日)
http://www.kantei.go.jp/jp/sinseichousenryaku/
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2017年2月6日
『反天皇制運動 Alert 』第8号(通巻390号、2017年2月7日発行)掲載
就任式から2週間、米国新大統領トランプが繰り出す矢継ぎ早の新たな政策路線に、世界じゅうの関心が集中している。この超大国の、経済・軍事・外交政策がどう展開されるかによって、世界の各地域は確かに大きな影響を受けざるを得ない側面を持つのだから、関心と賛否の論議が集中するのは、必然的とも言える。個人的には、私は、(とりわけ)米日首脳がまき散らす言葉に一喜一憂することなく、自らがなすべきことを日々こなしていきたいと思う者だが、それでも一定の注意は払わざるを得ない。
トランプは、米国の外に工場が流出したことで「取り残された米国人労働者」や「貧困の中に閉じ込められた母子たち」とは対照的に、ひとり栄えるものの象徴として「首都=ワシントン」を挙げた。そこに巣食う小さなエリート集団のみが政府からの恩恵にあずかっているとし、それを「既得権層」と呼んだ。就任演説を貫くトーンから判断するなら、現代資本主義の権化たる「不動産王」=トランプは、まるで、労働者階級のために身を粉にして働くと言っているかのようである。叩き上げの「新興成金」が、伝統的な支配構造に一矢を報いているかに見えるからこそ、この状況が生まれているという側面を念頭におかなければならないと思える。
具体的な政策をみてみよう。米国労働者第一主義(ファースト)の立場からすると、労働力コストなどが廉価であることからメキシコに製造業の生産拠点を奪われ、国内雇用を激減させる要因となった北米自由貿易協定(NAFTA、スペイン語略称TLC)も、トランプにとっては攻撃の的となる。協定相手国であるメキシコとカナダとの間での、離脱のための再交渉の日程も上がっている。思い起こしてもみよう。メキシコ南東部の先住民族解放組織=サパティスタ民族解放軍は、この協定は3国間の関税障壁をなくすことで、大規模集約農業で生産される米国産の農作物にメキシコ市場が席捲され、耕すべき土地も外資の意のままに切り売りされると主張して、その発効に抵抗・抗議する武装蜂起を、1994年1月1日に行なった。発効後15年目の2008年には3国間の関税が全面的に撤廃され、予想通りにメキシコ市場には米国産農産物が押し寄せ、メキシコ農業は荒廃し、農で生きる手立てを失った農民は、仕事があり得る首都メキシコ市へ、そこでもだめならリオ・グランデ河を超えて、米国へと「流れゆく」ほかはなくなった。
グローバリズムを批判し、これに反対するという意味では、トランプとサパティスタは、奇妙にも、一致点を持つかに見える。だが、子細に見るなら、他国の民衆をねじ伏せる経済力を持つ米国の利益第一主義を掲げるトランプと、一般的にいって多国籍企業の利益に基づいてこそ自由貿易協定の推進が企図され、それは経済的な弱小国に大きな不利益をもたらすという、事態の本質に注目したサパティスタとは、立脚点が根本的に異なっていると言わなければならない。
トランプの反グローバリズムの主張を色濃く彩る排外主義的本質は、メキシコとの国境線をすべて壁で塞ぐという方針にも如実に表れている。総距離3150キロ、うち1050キロにはすでにフェンスがつくられている。1000万人を超えるというメキシコからの「不法」移民に「米国人労働者の職が奪われて」おり、彼らは「犯罪者」や「麻薬密売人」だから国境を閉鎖して「不法」侵入を防ぐというトランプの方針は、米国白人が持つ排外主義的な感情を巧みにくすぐっている。今はご都合主義的にも反グローバリズムの立場に立つとはいえ、資本制社会の申し子というべきトランプは、米社会に麻薬の最大需要があるからこそ供給がなされているという「市場原理」を忘却して、メキシコにすべての罪をなすりつけようとしている。
歴史的経緯や論理を無視して「アメリカ・ファースト」という感情に基づく発想でよしとするトランプは、今後も「100日行動計画」を次々と打ち出してくるだろう。「予測が不能な」その路線如何では、世界は〈自滅〉の崖っぷちを歩むことになるのかもしれぬ。私は、米国の外交路線は「トランプ以前」とて決してよいものではなかったという立場から、新旧支配層の対立・矛盾が深まるであろう米国の「階級闘争」の行方を注視したい。
(2月5日記)
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2017年1月10日
『反天皇制運動 Alert』第7号(通巻389号、2017年1月10日発行)掲載
2012年に再登場して以降の安倍政権の官邸周辺には、よほどの知恵者がブレーンとしているように思える。世論なるものの気まぐれな動きを、蓄積された経験智に基づいて的確に察知でき、これに対処する方法に長け、同時にマスメディア対策もゆめゆめ怠ることなく、効果的に行ない得る複数の人物が……。このように言う場合、もちろん、働きかけられる「世論」と「メディア」の側にも、「自発的に隷従して」(エティエンヌ・ド・ラ・ボエシ)それを受け入れるという意味での、哀しい〈相互作用〉が生まれているのだという事実を大急ぎで付け加えておかなければならない。
2016年12月、ロシア大統領をわざわざ首相の地元の温泉に招いて会談するという宣伝がなされていた時期には、「北方諸島」の帰属問題で日本に有利な結果が生まれそうだとの観測がしきりになされた。例えば「二島返還」という具体的な形で。その「成果」の余勢を駆って、首相は年末あるいは年始の衆議院解散に踏み切るのでは、との予測すらなされていた。その前段において、この展望は甘かったという感触が得られてすぐ、日露首脳会談の展望をめぐる首相の口は、重くかつ慎重になった。間もなく、首相はロシア大統領との会談を終えた半月後の年末ギリギリにハワイの真珠湾を米国大統領ともども訪れるというニュースが大々的に報道された。官邸ブレーンは、「見事な」までの、首相スケジュール調整機能を発揮した。
世論とメディアは、首脳会談なるものにも弱い、あるいは、甘い。会談の無内容さは、世界の二大超大国、ロシアと米国の大統領と次々と渉り合っている「われらが宰相」――というパフォーマンス効果によって打ち消される。16年5月の米国大統領の広島訪問を思い起せばよい。主眼は、大統領が広島訪問の直前に行なった岩国の米軍海兵隊基地での兵士激励であり、その付け足しのように行なわれた、一時間にも満たない広島行きではなかった。せめても、岩国米軍基地と広島への訪問が「セット」で行なわれた事実の意味を問う報道や発言がもっと多くなされるべきだったが、それは極端に少なかった。にもかかわらず、大統領の広島訪問とあの空疎なメッセージは、大きな効果を発揮した。日本国首相にとっても。大統領が苦心して折った折り鶴を持参して原爆資料館に贈呈したなどという無意味な行為が、感傷的に報道されたりもした。8年間の任期中にこの大統領が、核廃絶のために行なった具体的な政策の質と総量が同時に検証報道されたなら、広島行きのパフォーマンスの偽善性が明らかになっただろう。この点に関しては、在日の米国詩人アーサー・ビナードも、峠三吉『原爆詩集』(岩波文庫、2016年)に付された解説で的確に論じている。
16年末、真珠湾を訪れた日本の首相も、「不戦の誓い」と「日米の和解の力」を強調する演説を行なった。これを大々的に報道した主要メディアの中には、訪問を一定評価しつつも、「アジアへの視点」の欠如を指摘するものもあった。だが、「不戦の誓い」は、この政権が続けている諸政策と沖縄への態度に照らせば、化けの皮がすぐに剝れる性質のものであり、「日米和解」に至っては、戦後日本の米国への「自発的隷従」が続けられたことで夙に実現しているというのが、冷めた一般的な見方であろう。したがって、後者の「アジアへの視点」の欠如こそが強調されなければならなかった。例えば、12月8日(日本時間)真珠湾攻撃の一時間前には、日本陸軍がマレー半島への上陸作戦を開始していた、という史実への言及がなされるだけで、「日米戦争」という狭い枠組みは崩れ、短く見ても1931年の日本軍の中国侵略に始まるアジア・太平洋戦争の全体像に迫る視点が生まれるだろう。中国侵略戦争が行き詰まることで、日本はフランス、英国、オランダなどの植民地が居並ぶ東南アジアへの侵攻を国策の中心に据えていたのだから、真珠湾攻撃に先立って行なわれたマレー侵攻の意図は、明らかなのだ。アジアと向き合うことを、歴史的にも現在的にも無視する常習犯=現日本国首相は、にもかかわらず「地球儀を俯瞰する外交」などとしたり顔で語っている。首相の真珠湾訪問と同じ日、韓国は釜山の日本総領事館前に「慰安婦」を象徴する少女像が設置されたことは(これには論ずべき多様な問題が孕まれているとはいえ)、日本がもっとも肝要な「アジアとの和解」を実現できていないことを示している。この事実を改めて心に刻んで、一年を送りたい。(1月7日記)
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2016年12月5日
『反天皇制運動 Alert』第6号(通巻388号 2016年12月6日発行)掲載
1972年、ポーランド生まれのジャーナリスト、K.S.カロルの大著『カストロの道:ゲリラから権力へ』が、原著の刊行から2年遅れて翻訳・刊行された(読売新聞社)。71年著者の来日時には加筆もなされたから、訳書には当時の最新情報が盛り込まれた。カロルは、ヒトラーとスターリンによるポーランド分割を経てソ連市民とされ、シベリアの収容所へ送られた。そこを出てからは赤軍と共に対独戦を戦った。〈解放後〉は祖国ポーランドに戻った。もちろん、クレムリンによる全面的な支配下にあった。
1950年、新聞特派員として滞在していたパリに定住し始めた。スターリン主義を徹底して批判しつつも、社会主義への信念は揺るがなかった。だからと言うべきか、「もう一つの社会主義の道」を歩むキューバや毛沢東の中国への深い関心をもった。今ならそのキューバ論と中国論に「時代的限界」を指摘することはできようが、あの時代の〈胎動〉の中にあって読むと、同時代の社会主義と第三世界主義が抱える諸課題を抉り出して深く、刺激的だった。カロルの結語は、今なお忘れがたい。「キューバは世界を引き裂いている危機や矛盾を、集中的に体現」したがゆえに「この島は一種の共鳴箱となり、現代世界において発生するいかに小さな動揺に対しても、またどれほど小さな悲劇に対してであろうとも、鋭敏に反応するようになった」。
本書の重要性は、カストロやゲバラなど当時の指導部の多くとの著者の対話が盛り込まれている点にある。カストロらはカロルを信頼し、本書でしか見られない発言を数多くしているのである。だが、原著の刊行後、カストロは「正気の沙汰とも思えぬほどの激しい怒り」をカロルに対して示した。カストロは「誉められることが好きな」人間なのだが、カロルは、カストロが「前衛の役割について貴族的な考え方」を持ち、「キューバに制度上の問題が存在することや、下部における民主主義が必要であることを、頑として認めない」などと断言したからだろうか。それもあるかもしれない。同時に、本書が、刺激に満ちた初期キューバ革命の「終わりの始まり」を象徴することになるかもしれない二つの出来事を鋭く指摘したせいもあるかもしれない。
ひとつは、1968年8月、「人間の顔をした社会主義」を求める新しい指導部がチェコスロヴァキアに登場して間もなく、ソ連軍およびワルシャワ条約軍がチェコに侵攻し、この新しい芽を摘んだ時に、カストロがこの侵攻を支持した事実である。侵攻は不幸で悲劇的な事態だが、この犯罪はヨリ大きな犯罪――すなわち、チェコが資本主義への道を歩んでいたこと――を阻むために必要なことだったとの「論理」をカストロは展開した。それは、1959年の革命以来の9年間、「超大国・米国の圧力の下にありながら、膝元でこれに徹底的に抵抗するキューバ」というイメージを壊した。
ふたつ目は、1971年、詩人エベルト・パディリャに対してなされた表現弾圧である。
詩人の逮捕・勾留・尋問・公開の場での全面的な自己批判(そこには、「パリに亡命したポーランド人で、人生に失望した」カロルに、彼が望むような発言を自分がしてしまったことも含まれていた)の過程には、初期キューバ革命に見られた「表現」の多様性に対する〈おおらかさ〉がすっかり失せていた。どこを見ても、スターリン主義がひたひたと押し寄せていた。
フィデル・カストロは疑いもなく20世紀の「偉人」の一人だが、教条主義的に彼を信奉する意見もあれば、「残忍な独裁者」としてすべてを否定し去る者もいる。キューバに生きる(生きた)人が後者のように言うのであれば、私はそれを否定する場にはいない(いることができない)。その意見を尊重しつつ、同時に客観的な場にわが身を置けば、キューバ革命論やカストロ論を、第2次大戦後の世界史の具体的な展開過程からかけ離れた観念的な遊戯のようには展開できない。それを潰そうとした米国、それを利用し尽そうとしたソ連、その他もろもろの要素――の全体像の中で、その意義と限界を測定したい。(12月3日記)
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2016年11月8日
『反天皇制運動Alert』第5号(通巻87号、2016年11月8日発行)掲載
国際報道で気になることがあると、BSの「世界のニュース」を見たり、インターネットで検索したりする。今年9月から10月にかけての、南米コロンビア報道はなかなかに興味深かった。50年もの間続いた内戦に終止符を打ち、政府と武装ゲリラ組織との間に和平合意が成る直前の情勢が報道されていたからである。ゲリラ・キャンプが公開されて、各国の報道陣が入った。ゲリラ兵士の家族の訪問も許された。名もなきゲリラ兵士が「これからは銃を持たずに社会を変えたい」と語っていた。幅広い年齢層の女性の姿が、けっこう目立った。FARC(コロンビア革命軍)には女性メンバーが多いという報道が裏付けられた。「戦争が終わるのを前に、FARCがウッドストックを開催」というニュースでは、ゲリラ兵士が次々と野外ステージに立っては歌をうたい、さながらコンサート会場と化した。平和の到来を心から喜ぶ姿が、あちこちにあった。
キューバ革命の勝利に刺激を受けて1964年に結成されたFARCは、闘争が長引くにつれて初心を忘れ、麻薬の生産や密売で資金を稼いだりもしていた。彼らによる殺害、誘拐、強制移住の犠牲者は民間人にまで広がり、数も多かった。それでもなお、若いメンバーの加入が途絶えることがなかったのは、絶対的な貧困が社会を覆い、働く者の手に土地がなかったからである。9月26日に行われた和平合意文書への署名式で、ゲリラ指導者は「我々がもたらしたすべての痛みについてお詫びする」と語った。対するサントス大統領にしても、前政権の国防相として行った苛烈なゲリラ壊滅作戦では事態が解決できなかったからこそ、大統領就任後の2012年以降、キューバ政府の仲介を得ての和平交渉に臨んできたのだろう。
私が注目したのは、和平合意の内容である。FARCは政党として政治参加が認められ、2018年から8年間、上・下院で各5議席が配分される。犯罪行為を認めた革命軍兵士の罪は軽減される(8年の勤労奉仕)。FARCの側でも、土地、牧場、麻薬密輸や誘拐・恐喝で得た資金の洗浄に利用した建設会社などすべての資産を、内戦の犠牲者への賠償基金として提供する。合意成立後180日以内にすべての武器を国連監視団に引き渡す――などである。
中立的な立場からして、政府は大きくゲリラ側に譲歩したかに見える。ここに私は、政治家としてのサントス大統領の資質を見る。同国を長年苦しめてきた悲劇的な内戦を終結させるためには、この程度の「譲歩と妥協」が必要だと考えたのだろう。歴代政府とて、そしてそれを支える暴力装置としての国軍や警察とて、無実ではない――そう思えばこその妥協点がそこにあったのだろう。サントスはブルジョア政治家には違いないが、こういう態度こそが、あるべき「政治」の姿だと思える。
サントスは、政治家としての責任感から、人びとより「先」を見ていた。果たして、合意から1週間後に行われた国民投票で、和平合意は否決された。投票率は低く、僅差でもあったから、この結果が「民意」を正確に反映しているかどうかは微妙なところだ。だが、「ゲリラへの譲歩」に納得できないと考える被害者感情が国民投票では勝ったのだ。
教訓的である。アパルトヘイトを廃絶した南アフリカの1990年代半ば、従来のように報復によってではなく、真実の究明→加害者の謝罪→犠牲者の赦し→そして和解へと至るという、画期的な政治・社会過程をたどる試みがなされた。南アフリカにおいても、加害者にあまりに「寛大な」方法だとの批判は絶えずあった。それでも、その後、かつて独裁・暴力支配などの辛い体験をしたさまざまな国・地域で、同じような取り組みがなされて、現在に至っている。コロンビアの人びとが、この重大な局面での試練に堪えて、和平のためのヨリよき道を見出すことを、心から願う。
日本社会も応用問題を抱えている。南北朝鮮との「和平合意」をいかに実現するかという形で。「慰安婦問題」や拉致問題の解決がいまだにできないのは、過去の捉え返しと、それに基づく対話がないからである。責任は相互的だが、「加害国」日本のそれがヨリ大きいことは自明のことだ。コロンビアの和平合意の過程と、その一時的挫折は、世界の他の抗争/紛争地域に深い示唆を与えてくれている。(11月5日記)
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2016年10月5日
『反天皇制運動 Alert』第4号(通巻386号、2016年10月4日発行)掲載
『将軍様、あなたのために映画を撮ります』という映画を観た。原題は ”The Lovers and the Despot” (恋人たちと独裁者)。監督は、イギリス人のロス・アダムとロバート・カンナンで、2016年制作。出演は崔銀姫、申相玉、金正日その他。この映画のことを知らぬ人は、出演者の名に驚かれよう。金正日は、まぎれもなく、2011年に死去した朝鮮労働党総書記・国防委員長、その人である。記録映像による動画や「主人公」三人の3ショット写真も挿入されているが、彼の場合は、監督によって録音されていた音声「出演」を通して語られる内容こそが面白い。
ことの顛末を簡潔に記す。崔銀姫と申相玉はそれぞれ、1970年代韓国の著名な映画女優であり、監督であった。かつては夫婦であったが、わけあってすでに離婚していた。朴正煕の軍事政権下、映画造りにはさまざまな制約が課せられ、自由も仕事もない。1978年、まず崔銀姫が、仕事を求めて出かけた香港で行方不明になる。事態を知った申相玉も事実の究明のためにそこを訪れるが、彼もまたさらわれる。種を明かせば、二人は、映画好きで、『映画芸術論』と題した著書もある金正日の指令で、低水準の北朝鮮映画界のテコ入れのために映画造りに専念させるべく、拉致されたのである。金正日自身が、録音されていた申相玉との対話の中で語っているのだから、その通りなのだろう。因みに、拉致されてピョンヤンの外港に着いた崔銀姫は或る男の出迎えを受けた。男は言った。「ようこそ、よくいらっしゃいました。崔先生、わたしが金正日です」( 同映画および崔銀姫/申相玉『闇からの谺』上下、文春文庫、1989年)。
二人が北朝鮮で映画制作に携わったのは三年だったが、「厚遇」を受けて17本もの作品を生み出した。女優は悲しみに暮れながらも「協力」させられ、モスクワ映画祭で主演女優賞を得た作品もあった。他方、監督は、金正日から与えられた豊富な資金と「自由な」撮影環境を存分に「享受」して、映画制作に熱中した。最後には二人して脱出に成功するのだが、映画も本も、そのすべての過程を明かしていて興味深い。
独裁者・金正日は孤独である。自分が「泣き真似すると、そこにいる人たち全員が泣く。それを見て哀しくなって、わざと泣いてみたりした」と監督に語ったりする。その近現代史において幾多の独裁者を生んだラテンアメリカ各国では、優れた文学者がそれらをモデルとして描いた「独裁者小説」ともいうべきジャンルが生み出された。現実の独裁制下で生きざるを得ない人びとにはたまったものではないが、文学の力は、凶暴な権力者にだけ留まることのない「人間」としての独裁者を造型して、問題の在り処を深めた。すなわち、例えば、人びとがもつ権力への恐怖と畏怖ばかりか、独裁者の思いを忖度して競って泣くような、「馴致」された人びとの精神状況をも描き出してしまったのである。それを哀しむ金正日の言葉が挿入されていることで、この映画を単に「反金正日」キャンペーンのために利用しようとする者は裏切られよう。もっと深く、ヨリ深く、問題の根源へと向かうのだ――という呼び掛けとして、私はこの映画を理解した。
この映画が公開されているいま、世の中には(日本でも、世界中でも)、対北朝鮮「制裁」強化の声が溢れかえっている。北朝鮮が第五回目の核実験を実施したばかりだからである。
独裁者は、映画の世界に浸って生きることができれば幸せだったかもしれない男の三男に代わっている。現在の独裁者は、その視野がヨリ狭いような印象を受ける。軍事的誇示によってではなく、「ここで跳ぶのだ、世界に向かって」と虚しい声掛けをしたくなる。
他方、「制裁」を呼号する者たち(国連、各国首脳)の呼ばわりも虚しい。君たちの怠慢が、東アジアに平和な状況を創り出す強固な意志の欠如が、この事態を引き出したのだ。とりわけ、日本政府の責任は重い。安倍晋三が2002年小泉首相訪朝に同行して対北朝鮮外交の先頭に立って以来、(病気や下野の期間も挟むが)14年の歳月が過ぎた。これだけの年数を費やしながら、拉致問題解決のメドも立たず、北朝鮮の軍事的冒険を阻止することもできなかった。北朝鮮の核実験は、すなわち、安倍外交が失敗したことを意味する、との批判的な分析こそが必要なのだ。 (10月1日記)
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2016年9月5日
『反天皇制運動Alert』第3号(通巻385号、2016年9月6日発行)掲載
まもなく「9・11」がくる。多くの人が思い起こすのは、15年前、すなわち2001年のそれだろう。ハイジャック機が、唯一の超大国=米国の経済と軍事を象徴する建造物に自爆攻撃を仕掛けたあの事件を、である。もちろん、これは現代史の大きな出来事である。だが、ここでは、43年前、すなわち1973年の「9・11」を思い起こしたい。私の考えでは、これもまた、世界現代史を画する大事件のひとつである。
南米チリで軍事クーデタが起こり、その3年前に選挙を通して成立した、サルバドール・アジェンデを大統領とする社会主義政権が倒されたのだ。このクーデタは、内外からの画策が相まって実現した。チリに多大な経済的な利権を持つ米国支配層は、新政権の社会主義化政策によって、それまで恣に貪ってきた利益が奪われることに危機感をもった。CIAを軸に、アジェンデ政権を転覆させるための政治的・経済的・民心攪乱的な策動を直ちに始めた。チリ国内にも、それに呼応する勢力は根強く存在した。カトリック教会、軍部、地主、分厚い上流・中産階層などである。3年間、およそ千日にわたる彼らの合作が功を奏して、軍事クーデタは成った。
当時、私はメキシコにいた。そこでの生活を始めて、2ヵ月半が経っていた。軍事クーデタのニュースに衝撃を受け、日々新聞各紙を買い求めは熟読し、ラジオ・ニュースに耳を傾けていた。9月末頃からだったか、左翼・右翼を問わず亡命者を「寛容に」受け入れる歴史を積み重ねてきているメキシコには、軍政から逃れたチリ人亡命者が大勢詰めかけてきた。いずれ、その中の少なからぬ人びとと知り合いになるが、初期のころ新聞に載った一女性の言葉が印象的だった。「記憶」で書いてみる。愛する男(夫か恋人)が軍部によって虐殺されたか、強制収容所に入れられたりしたかのひとだったろう。「相手を奪われて、セックスもできない日々が続くなんて、耐え難い」。軍事クーデタへの怒りが、このように語られることに「新鮮さ」を感じた。
2010年、チリ軍事クーデタから37年を経た時期に、大阪大学で或る展覧会とシンポジウムが開かれた。軍政下のチリで、女性たち創っていた「抵抗の布(キルト)」(現地では、アルピジェラ arpillera と呼ばれている)の意味を問う催しだった。私もそこへ参加した。アジェンデ社会主義政権に荷担していた男たち(左翼政党員、労働組合員、地域活動家など)が根こそぎ弾圧されて、ひとり残された女たちが拠り所にしたのが、抵抗の表現としてのキルト創りだった。一般的に言えば素朴で拙い表現とも言えるが、下地には「いなくなった」人のズボンやシャツ、パジャマの生地が使われている。語るべき「言葉」を持っていた男たちが消されたとき、言葉を奪われてきた女たちは別な形で「表現」を獲得した。それが、軍政下の抵抗運動の、「核」とさえなった――岡目八目ながらも、私はそのことの意義を強調した。そして付け加えた。チリ革命の只中で実践された文化革命的な要素がそこには生きているのではないか。すなわち、表層的な政治・社会革命に終わるのではなく、人びとが置かれている文化環境(従来なら、北米のハリウッド映画、ディズニー漫画、コミック、女性誌など、一定の価値観を「それとなく」植えつける媒体が圧倒的な力を揮っていた)に対する地道な批判活動が展開されていたからこそ、軍政下で「抵抗の布」の活動が存在し得たのではないか、と。
アジェンデ社会主義政権下の試行錯誤の実態と、軍事クーデタ必至の緊迫した状況を伝える パトリシオ・グスマン監督のドキュメンタリー『チリの闘い』(1975~78年制作)がようやく公開される。社会主義政権の勝利を願う「党派性」をもつ人びとがカメラを担いでいる。だが、現実は仮借ない。激烈な言葉が宙に舞い、現実はまどろっこしくもひとつも動かない状況を写し撮ってしまう。デモや集会に目立つのは若い男たち。女たちは、日常品不足のなか生活用品獲得に精一杯だ。撮影スタッフは5人程度だったというから、まぎれもなく進行していた〈階級闘争〉の攻防は主として都市部で撮影され、先住民族の土地占拠闘争が進行していたチリ南部農村地帯の状況はスクリーンに登場しない。〈欠落〉を言えばキリがない。だが、進行中の〈階級闘争〉の現実をここまで描き出した記録映画は稀だ。この状況下で、どうする? ああすればよい、こうすればよい――戸惑いつつも、何ごとかを決断して、前へ進まなければならぬ。
40年前のこの映画には、今を生きる私たちの姿が、描き出されている。(9月4日記)
映画『チリの闘い』に関する情報は以下へ→
https://www.facebook.com/Chile.tatakai/
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2016年8月9日
『反天皇制運動 Alert』2号(通巻384号、2016年8月9日発行)掲載
現代世界において、とりわけ、21世紀に入って以降、世界各地で頻発する「テロリズム」の行動について、私は、それが「反テロ戦争」と因果の関係にあると一貫して主張してきた。2001年「9・11」の事件が、いかに悲劇なものであったとしても、攻撃されたのが超大国の経済と軍事を象徴する建造物であったことを思えば、それが強欲な資本主義に対する底知れぬ憎悪を示す行動であったことは、誰の目にも明らかであった。ならば、超大国には、この憎悪が映し出した現代世界の「病」の依って来る由縁をこそ見つけ出し、それを除去する方策を模索することこそが求められていた。それは、自らが抱える「病根」を抉り出す手術になるはずだった。だが、周知のように、ブッシュ政権下の米国は、その内省の道を選ぶことなく、「反テロ戦争」という報復の道を選んだ。
『カンダハール』などの作品を創ったイランの優れた映画監督、モフセン・マフマルバフの優れたメタファーを借りるなら、貧しさに喘ぐ人びとが住まう土地に超大国が落としたのは、住民が切実に求めているパンや本ではなく、忌み嫌われている爆弾だったのである。それから 15年、アフガニスタンの乾き切った大地の一部は、戦乱の中にあっても止めなかったペシャワール会などが行なう灌漑用水路を備えた農業事業で緑の大地と化している。他方、反テロ戦争の標的となった土地では数知れぬ人びとが殺され、爆弾その他の近代兵器によって大地は荒廃し、住まう条件を奪われた多数の人びとが難民となって異邦の地を流浪することを余儀なくされている。
「反テロ戦争」はアフガニスタンに留まることなく、〈世界性〉を帯びた。「反テロ戦争」が作り出した諸状況に憤激し、これへの絶望的な反抗を、憎悪に満ちた暴力で発動する「テロリズム」もまた同様に〈世界性〉を帯びて、今日に至っている。両者の因果の関係を見据えなければ、その双方を止揚する道は見つからないのだ。
因果の関係といえば、ここで、去る7月26日早暁、相模原で起こった障害者施設襲撃・19人刺殺事件を取り上げたい。すべての報道に接しているわけではないが(特に、テレビニュースは、その低劣さに辟易しているので、ほとんど見ない)、この事件をこの間の日本の社会・思想状況と重ね合わせて論じる視点が少ないように思える。容疑者が事件に先立つ五ヵ月前に衆院議長(大森理森)に宛てた「障害者を殺害する」とする書簡では、「障害者総勢470人を抹殺する」計画が述べられているが、中段の「革命を行い、全人類のために必要不可欠であるつらい決断」に対する衆院議長の理解を求める文面の次には「ぜひ、安倍晋三様のお耳に伝えていただければと思います」とある。末尾は、「安倍晋三様にご相談いただけることを切に願っております」という文章で締め括られている(「要旨」しか掲載しなかった新聞では、安倍に言及した箇所は省かれている。省くべき箇所ではないだろう。「異常」にも思える容疑者の心情は、この箇所において、政治の最高責任者という公人への訴えを通して社会性を獲得していると読むべきなのだから。ここでの引用は、7月27日付東京新聞朝刊による)。
しかも、犯行後現場を離れた容疑者は、5分後にはツイッターに「世界が平和になりますように。beautiful Japan!!!!!」と書き込んでいると報道されている。安倍晋三には『美しい国へ』と題した本がある(2006年、文春新書)ことは周知の通りである。容疑者が、安倍に対して大いなる親近感か共感をもっているらしいことをここから推察することは、不当なことではない。首相になって以降の安倍には、政治状況を配慮しながら言葉を「慎む」場合もあるとはいえ、その歴史修正主義者の本質には、いささかの疑念もない。自国が犯した歴史上の過ちと正面から向き合ってそれを克服するのではなく、姑息な方法でごまかしては、自国を「美しい」と言い募るのである。「美しい日本」という言葉の背後には、ナチスの優生学的な民族主義的なスローガンにも似た響きがある。
容疑者の背後にちらつく社会的な影は、ひとり安倍晋三だけではない。石原、猪瀬、舛添、小池を選び続けている都民も、橋下を選んでいた府民・市民も、信じ難いことに実在していることを考えれば、歴史修正主義の考え方および雰囲気が、ここまで社会を覆い尽してしまったことを認めざるを得ない。恐るべき相模原事件の依って来る由縁を、容疑者の個人史と資質に還元せずに、この社会を覆う政治思想、すなわち、経済的・身体的・歴史的な強者のためのスローガンが大手を振って罷り通る現実との因果関係で捉えなければならない。
(8月3日記)
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『反天皇制運動 Alert』1号(通巻383号、2016年7月12日発行)掲載
1991年12月、ソ連体制が崩壊した時、理念としての社会主義とその現実形態の一つとしてのソ連に対する思いとは別に、たいへんな激動の時代を生きているものだ、と思った。そして、この政治・社会の激動と併行して進行していた技術革新の重大な意味に突き動かされて、この分野には決して明るくはない私でさえもが身を投じたのが、それから数年後に急速に普及したインターネットの世界だった。メキシコ南東部の叛乱者たち=サパティスタが、自分たちがいるチアパスの山深い密林ではインターネットが使えないのに、媒介者さえいるなら、彼ら/彼女らが発したメッセージがその日のうちにでも世界中で受信されてしまうという事実に、心底、驚いた。この驚きが、大げさのようだが、私を変えた。1997年以降の私の発言の多くは(おそらく90パーセント近くは)、いつでもインターネット空間で読むことが可能だ。同時に、この言論がそこに、いつまで「浮遊」し続けるのか? と思うと、実のところ、こころ穏やかではない。
この新しい時代を意味づけている決定的な要素は、新自由主義的グローバリゼーションである。それが始まった契機に関しては、ソ連崩壊に2年先立つ、1989年11月のベルリンの壁の崩壊も付け加えたほうがよいだろう。私は、人類史の中で「地理上の発見」や「植民地化」の史実に、異なる地域に住まう人間同士の関係性を歪める画期的な意味を読みこんできたが、いま私たちを取り巻いている「グローバリゼーション」という状況も、それに匹敵する意味を持たざるを得ないだろうと考えてきた。いずれの現象もが、もっとも重要な要素としてもっているのは、異世界の「征服」という動機である。かつてなら、それを主導したのは国家であった。領土の拡大という、明快な目標もあった。今回のそれを主導するのは国家ではなく、米国・ヨーロッパ・日本の三極に根拠をもつ多国籍企業、複合企業、金融グループである(もちろん、そのなかでも米国が圧倒的なシェアを誇っている)。征服する側が国家ではないと同じく、征服される側も国家単位ではない。いわば、地球そのものである。技術革新が、生命操作のための遺伝子工学の分野でも驚くべき展開を遂げていることを見ても、「征服」の対象は、生命体としての人間そのものであり、それを取り巻く自然環境にまで及んでいることがわかる。
日本国の現首相は、「企業がもっとも活動しやすい国にする」と世界に向けて常々アピールしている。彼の本音には常に、内向きの偏狭な国家主義があるが、その一方、国民国家・主権・国境・独立・民主主義など、「国家」が成り立つにあたって根源をなしているはずの諸「価値」を、大企業や大金融資本の利益の前になら惜し気もなく差し出すことを公言し、それを実行しているのである。グローバリゼーションの時代とは、こんな風に引き裂かれた人間を悲喜劇的にも生み出してしまうのだが、「引き裂かれた」とはいっても、国家主義的なポーズは国内基盤を固めるのに役立ち、後者の開国主義は、グローバリゼーションを推進する勢力によって歓迎されているのだから、本人は自己矛盾も感じることなく、心は安らいでいるのかもしれぬ。
英国のEU(欧州連合)離脱をめぐる国民投票の結果を見つめながら、グローバリゼーションの暴力的な力に翻弄されて〈ゆらぐ〉人びとの心に触れた思いがした。ここでいう「人びと」とは、もちろん、ロンドン金融街の「シティ」で活躍している人びとを指してはいない。労働党が明確に「残留」方針を示したにもかかわらず、その支持層の相当部分が離脱に投票したという報道に接して、たとえばケン・ローチが好んで描く普通の、あるいは下層の労働者が現実にはどんな選択をしたのか、と気にかかったのである。2015年度の英国の移民純増数は33万人、その半数以上が、英国で労働ビザを取得することなく就業できるEU加盟国出身者だ。とりわけ、ポーランド、ルーマニア、ブルガリアなどからの新規移民に対して、英国人の雇用を奪うとか公共サービスを圧迫するなどという警戒心が広がっている現在、この生活保守主義的な傾向が、あの階級社会に生きるふつうの労働者や家族の間でどう機能したのか。一定の「理」がないではない生活保守への傾斜を、極右・排外主義と結合させない担保をどこに求めるのか。問題は、鋭角的に提起されている。
ドーバー海峡のむこうの「島国」でのみ燃え盛っている対岸の火事ではない。フランスでも、ドイツでも、米国でも、そしてこの日本でも――グローバリゼーションの時代を生きる地球上のすべての者が逃れることのできない問いに対して、英国人が最初の回答を出したのだ、と捉える視点が必要だ。(7月9日記)
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2016年5月6日
『反天皇制運動カーニバル』38号(通巻381号、2016年5月10日発行)掲載
去る2月に急逝した作家・津島佑子の作品には、初期のころから親しんでいた。ある時、某紙に載った彼女のエッセイを読むと、しばらくのフランス滞在中に、アイヌの神話・ユーカラのフランス語訳出版に協力していたという。彼女の作品には、北方、ひいてはそこに住まう先住民族と、山への関心が深まっていく様子を見て取ることができるようになった。父親が青森県、母親が山梨県の出身だから、「北」と「山」の文化への興味がわいた、とどこかで語ったことがあったようだ。20数年前、先住民族=アイヌの権利獲得の一環として、アイヌの人びとが働き、集うことができる料理店「レラ・チセ(風の家)」建設のための活動をしていた私たちは、この未知の作家に手紙を書き、レラ・チセ建設活動の呼びかけ人となってくれることを依頼した。快い承諾を得て、彼女はさらに身近な存在になった。
『アイヌの神話 トーキナ・ト ふくろうのかみの いもうとのおはなし』という絵本がある(福音館書店、2008年)。翻案された文は津島、挿画に使用されているアイヌ刺繍は宇梶静江の手になる。アイヌ文化活動家の宇梶も、レラ・チセ初期の担い手のひとりであり、現在にまで至るその活動は目覚ましい(存在感のある俳優、宇梶剛士は。彼女の長男である)。レラ・チセは十数年間に及ぶ営業ののち事情あって閉店したが、当時の若い担い手が数年前から、東京・新大久保で「北海道・アイヌ料理店/ハルコロ」(アイヌ語で、おなかいっぱい、の意)を運営している。朝鮮、中国、ベトナム、タイなどの料理店や食材店が林立し、東南アジアの人びとで賑わう「イスラーム横丁」もある新大久保に、ハルコロがあるのは似つかわしい。数年前、恥ずべき「ヘイトスピーチ(差別煽動表現)」のデモ行進現場ともされた新大久保界隈は、外部から悪煽動のためにやって来る者たちがいない限りは、日常的にはほんとうは、多民族共生・多文化表現の場所である。
津島佑子急逝の衝撃から書き始めたので、思わず、回顧的な書き方となったが、もう少しそれを続ける。その後、彼女の知遇を得た私は、アンデスの先住民族の世界を描いたボリビア映画上映時の対談相手をお願いしたり、彼女が高く評価するアジア女性作家の小説を翻訳・紹介する出版企画で協働したりしてきた。「3・11」後には、経産省包囲行動の現場で偶然出くわしたこともあった。その作品には、時代への危機意識が顕わになっていた。
津島の死後、早くも、遺作と最後のエッセイ集が刊行された。前者は『ジャッカ・ドフニ―海の記憶の物語』(集英社)、後者は『夢の歌から』(インスクリプト)である。時空を超えて展開する壮大な物語『ジャッカ・ドフニ』は、もちろん、興味深いが、ここでは、後者に「母の声が聞こえる人々とともに」と題した後書きを寄せている津島香以の文章で描かれている作家の晩年の姿に触れたい。2015年4月、通院治療の段階に入っていた津島は、中学校の一歴史教科書に文科省が行なった検定結果を報道した小さな新聞記事を、怒ったようにして、娘に示す。そこには「政府は、1899年に北海道旧土人保護法を制定し、狩猟採集中心のアイヌの人々の土地を取り上げて、農業を営むようにすすめました」となっていた記述が、「誤解を生む」との文科省の指摘で、「アイヌの人々に土地をあたえて」と変更されたと記されていた。土地を「取り上げた」を「与えた」と変えさせるような詐術を、文科省に巣食う歴史修正主義官僚は事もなげに行なうのである。保護法には、確かに、アイヌ家族一戸当たり一定の土地を「無償下付」するとの規定があったが、それが農地に適さないものであったという事実や、それ以前の段階での土地収奪などをも無視した教科書の記述は、「歴史を偽造する」ものでしかない、と作家は怒りをもったのだろう。
先住民族は、歴史上のどこかの時点で植民地主義支配を実践した欧米日諸国によって必然的に生み出された存在である。歴史的にも、国際法上も「不法な」ところ一点の曇りもない洗練された国家であることを誇りたい欧米日諸国にとっては、国家成立の根源を問い質す存在である。国際的には、先住民族と規定された人びとに対して各国政府が特別な権利を保障しなければならないとする動きが加速している。当該の政府は、それを拒絶したい。そのせめぎ合いが、いま世界的に進行している。日本では、アイヌと琉球の地で。
「近代」が孕む問題と真正面から向き合って、文学的な格闘を続けた作家の、早すぎる死を悼む。(5月4日記)
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