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状況20〜21は、現代企画室編集長・太田昌国の発言のページです。「20〜21」とは、世紀の変わり目を表わしています。
世界と日本の、社会・政治・文化・思想・文学の状況についてのそのときどきの発言を収録しています。

太田昌国の夢は夜ひらく[6] 国家論なき政治家の行方――死刑執行に踏み切った法相の問題


『反天皇制運動モンスター』7号(2010年8月3日発行)掲載

去る五月一九日午後、私は死刑囚の処遇改善を「直訴」する各種団体のメンバーのひとりとして、法務省内大臣室にいた。

一〇人ほどで千葉景子法相に面談するために、である。多忙を極めているという理由で、一五分間という制限時間があらかじめ設けられていた。

一〇人はそれぞれ、一分間で、死刑囚が置かれている劣悪な医療事情、開示されない医療情報、外部との厳しい交通制限……などの問題に関して、法相に検討するよう訴えた。

就任して以来その日まで、死刑執行命令書に署名していない法相のあり方に関して、肯定的に評価する気持ちを伝える発言もあった。

二〇分間で、面談は終わった。法相は一言も言葉を発することなく、熱心そうに耳を傾けているだけだった。

私たちの背後では、三人の法務官僚が、私たちの発言内容をしきりにメモに取っていた。

千葉法相就任以来、彼女が死刑執行を強く要請する法務官僚たちの、厳しい包囲網に囲まれているらしいという噂は、私たちのもとにも届いていた。

メモを取る背広姿の三人の男たちは、日々法相にかけられているらしい「圧力」を、無言のうちに象徴するものに違いなかった。

それから二ヵ月有余を経た七月二八日、他ならぬ千葉法相の指令に基づいて、ふたりの人に対する死刑が執行された。

怒りと哀しみは、深い。先の参院選挙で落選してなお、菅首相の要請に応えて法相の座に座り続けている法相への批判は、野党から出ていた。

メディア上でもその種の論調は多く見られ、とりわけ読売紙は、結果的に執行当日となった二八日付けの朝刊で、殺人事件被害者遺族の怨念に満ちた言葉の陰に隠れて、死刑確定者の執行(人殺し、と読め)を扇動する意図的な紙面造りを行なった。

法相を窮地に追い込む網がさらに狭まっていたであろうことは、想像に難くない。

ここでは、究極においては死刑制度廃絶をなお望んでいるらしい法相が、信条に反するはずの死刑執行に踏み切った事情の背後にあるものを推察することにしたい。

大韓航空機爆破事件の実行者・金賢姫の来日招請は、拉致問題担当相でもある中井国家公安委員長の主導で行なわれたものと思われるが、「テロリスト」の入国に問題なしとの結論を下したのは、千葉法相である。

罪と罰をめぐっての私の考えからすれば、偽造した日本旅券を行使し、百十五人を死に至らしめる航空機爆破を行なった人物といえども、自らの行為を内省し、悔やみ、贖罪の気持ちをいだき、新たな価値観に基づいた人生を送ることは保障されるべきである。

決定を下した当時の韓国政府の意図がどこにあろうと、いったんは死刑を宣告された彼女が「特赦」の対象となったことには、十分な意義があった。

韓国政府の決定が、単に、北朝鮮の出方を睨んだ政策的・戦術的な水準で、「転向者」を歓迎し利用するために選択されたものだとしても、それを越える本質的な問題領域を、刑罰論や国家論の形で設定し直すことはできる。

それは、日本においても同じことだ。だが、千葉法相は、本来ならば入国拒否対象者である金賢姫を特別招請する根拠を「拉致問題の解決を韓国政府と一体となって進め、国民にも改めて拉致問題の重要性を理解してもらう」という水準の、政策的なものに押し留めてしまった。

北朝鮮を出国して二三年にもなる彼女からは、拉致問題をめぐる新たな情報が得られるはずがないにもかかわらず、拉致被害者家族会と世論に迎合する安易な言い方に堕したのである。

このとき、北朝鮮との関係をいかに打開するかという、国家(=社会)のあり方をめぐる本質論は後景に退くしかなかった。

社会変革運動に携わる者が、世論なるものと対決してでも自らの理念と行動を選択しなければならない時があるように、政治家もまた、本来的にはそのような存在だといえる。

死刑廃止の理念を持つ者が法相の任に就いた時、制度を維持しようとする法務官僚や制度を容認するという85%もの世論に抗しうる力の拠り所はどこにあるのだろう。

それは、自分が行使し得る、国家を背後に持つ権限をめぐっての本質論から逃げないことだろう。

在野にあった時には、いくぶんか情緒的であったかもしれない気分から抜け出し、国家の名の下で人の命を奪うことが許されるとする死刑存置論を、国家論のレベルで論破できる根拠を自力で探ることだろう。

国家論なき政治家は、二国間軍事同盟問題でも、その根源的な解決の道にたどりつくことはなかった。死刑問題でも、問われるのは国家の本質論だ。

太田昌国の夢は夜ひらく[5]植民地・男性原理・王家の跡継ぎ問題を浮かび上がらせた舞台


『反天皇制運動モンスター』6号(2010年7月6日発行)掲載

静岡市には、県立の静岡芸術劇場がある。東静岡駅前に劇場があり、そこからバスで一五分ほどかけて山のなかへ入ると、野外劇場や屋内ホール、稽古場棟などがある。

以前は鈴木忠志が芸術総監督を務めていた。いまは宮城聰である。

四、五年前だったか、グローバリゼーションをめぐる諸問題についての講演を依頼されて訪れて以来、毎年行なわれる芸術祭公演の案内が送られてくるので、ときどき観劇に出かける。

県立劇場を持つのは、全国で二県だけだという。中学・高校生は招待されたり、優待されたりしている。

だから、劇場にはいつも、若い人びとの姿が目立つ。この年齢までは、高校演劇くらいしか観ることができなかった私のような人間からすると、新鮮な驚きであり、いいなあと思う。

海外の演出家と劇団の招請にも積極的だ。いまの時代、当たり前とはいえ、欧米中心ではなく、第三世界出身の人も多い。

演劇界では、国境を超えた演出家と俳優の交流がごくふつうに行なわれているから、どこそこの出身と固定して言うだけでは意味をなさない場合も増えてきた。

去る六月にも出かけた。宮城聰の台本と演出による、一九九九年に行なわれたク・ナウカの初演以来、伝説的な舞台となっている『王女メディア』の公演を観るために、である。

原作は、もちろん、生年が前四八〇年前後と推定されているギリシアのエウリピデスである。メディアは、黒海海岸のくに(現在のグルジア)の王女である。金の羊毛を奪いにきたギリシアの王子イアソンと恋に落ち、親族を裏切ってまで一緒に逃亡した。男の子も生まれた。

ところが、逗留先の地で、跡継ぎのいない王家の娘との結婚を唆されたイアソンは、それに同意した。王たちはメディアをくにざかいの外へと追放し、ふたりの結婚を成就させようとする。

静かな怒りを秘めたメディアは、その王家の王と娘を毒殺し、挙句の果てに、「裏切った夫への復讐のために」自らの息子をも殺してしまう……と展開するのがもともとの物語である。

王と心変わりしたイアソンの口からは、文明の地=ギリシアと、メディアが生まれた東方の「蛮族の地」を対比する言葉があふれ出る。

宮城は、驚くような仕掛けをこの戯曲に試みた。舞台は明治期の「文明」日本、法曹家の服装をした日本人の男たちが茶屋遊びにやってくる。

娼妓たちは「未開の」朝鮮から連れてこられたようだ。宴席に座した男たちは、余興に文楽の太夫に扮して「王女メディア」の台詞を大声で物語る。

言葉は男が操り、女はメディアを含めて、男が発する言葉のままに、衣装と所作と表情で演じるだけだ。

この演出は、観る者に、当初は相当な違和感を強いる。男(=言葉)と女(=身体)の分裂が、あまりにも明らかだからだ。

その違和感も、舞台が進行するにつれて次第に消え去り、月明かりも照らす野外劇場での公演に引き込まれていくうちに、最後に、メディアをはじめとする女たちの、無言の裡の大逆襲が始る……。

緊張感に満ちた、見事な舞台であった。自明のこととして設けられていた前提が、ことごとく覆されていく瞬時の展開に、息をのんだ。

初演のときには、朝鮮と日本という設定はなされておらず、公演を繰り返すなかでいつしかこうなった、と聞いた。

もちろん、日本による「韓国併合」から百年目の年に、この公演が実現した意義をいうことはできる。

演出した宮城の意図は、彼自身の言葉によれば、「男から男へと家督が相続されていく」男性原理に基づいたシステムそのものへの復讐劇として描くところにあったように思える。

子殺しが夫への復讐となるとメディアが考えたのは、子が男子だったからだ、男性原理による統治に慣れた人類は、「地球という母」の息の根を止めかねない地点にまできたが、これを食い止めるには、母殺し寸前の息子、すなわち男性原理を滅ぼす必要があったのだ、というように。

そしてまた、跡継ぎなき王家において、当事者たちが苦悶の果てに引き起こした血まみれの抗争に、奇妙なまでのリアリティを感じるところもあって……。

二五〇〇年前につくられた戯曲の翻案公演は、こうして、現在の東アジアのくにぐにの「奇怪な」現実をいくつもの視点から浮かび上がらせるものとなった。

太田昌国の夢は夜ひらく[4]「理想主義がゆえの失政」に失望し、それを嗤う人びとの群


『反天皇制運動モンスター』5号(2010年6月8日発行)掲載

「宇宙人ではないか」とあまねく噂されていた人の謎が解けた。

ご本人の解釈によれば「今から5年、10年、15年先の姿を国民に申し上げている姿が、そう映っているのではないか」ということだった。なるほど、そうだったのか。

他方、生涯を通じて理想の「リ」の字も考えたこともないらしい愚かな記者が、普天間問題に関わって彼に問いかけた。

「理想主義への反省はあるか」と。宇宙人は答えた、「理想は追い求めるべきだ。やり方の稚拙さがあったことは認めたい。

ただ、普天間(問題)は次代において選択として間違ってなかったと言われるときが来ると思う」。

ふたつの問題が残る。首相の座から去り行く人に対して、今さら皮肉を言う気持ちにはなれない。

政治的責任を負う立場の人でなければ、人間として悪い人ではないのだろう。しかし、次代のことを考えていると自認している割には、肝心なところで対米交渉のための努力の痕跡が見えない。

外務・防衛官僚の壁は厚く、高かったであろう。

しかし、5年先や15年先を見通しているなら、「いま」が重要なのだ。とどのつまりは、自爆的な辞任をするのであれば、ペンタゴンに牛耳られているオバマとの「死闘」を行なえばよかったのに。沖縄には「もう、たくさんだ!」という民意がある。

他の地域には「基地を誘致してまで沖縄と痛みを分かち合うつもりはない」という本音がある。

去った人は「米国に依存を続けて良いとは思いません」という気持ちを、今ここで持っていたというではないか。

それらを背景に、対米交渉を開始すれば、問題は「日米安保」でしかないことが、いっそう浮かび上がったに違いない。

安保解消は仮に5年先の目標かもしれないが、普天間基地即時閉鎖・地位協定改定に加えて、この政権の目玉をなしている仕分け作業の対象外にされてきた「思いやり予算」を全額廃止するなどの具体的な課題を、もっと手元に手繰り寄せることになる交渉が始められたり、決断に至ったりしたに違いない。

ふたつ目の問題は、宇宙人の「理想主義」を嗤った記者や、メディアの意見として、そこで踊るコメンテーターなる者たちの言論として、また世論として、メディア上に溢れかえっている、去り行く人に対する失望感や嗤い声に関わっている。

ここには、普天間問題での彼の「迷走」をしたり顔で批判する自民党や公明党の面々も入れなければならない。

残念なことには、おそらく、少なからぬ「護憲派」の姿もまた、ここに含めなくてはならないだろう。

それくらいに、幅広い人びとがここには〈無意識のうちに〉集っているのだ。

これらの人びとの立場を大まかにくくることのできる共通項は「日米安保体制」容認――これである。

沖縄の人びとに同情するような顔つきをして、前政権の失政を指摘した人びとの多くは、実はその本心に「安保体制容認」の気持ちを隠し持っていることを何度でも指摘しなければならない。

なぜなら、いつ「暴発」するかもしれない北朝鮮や、日本周辺海域へ海軍を広く進出させている中国の「不穏な」動きを思えば、沖縄に一万九〇〇七人から成る米海兵隊員が駐留している(〇九年一二月末現在、米国防総省の統計による)ことに、これらの人びとは安心感をおぼえているからである。積極的な平和のための努力も行なわずに。

これが、現在にまで続く戦後日本の「平和」の根拠である。 米本土以外で、米海兵隊基地があるのは日本だけだ。駐留数でいっても、第2位はフィリピンの四二九名だ。

二万人ちかい海兵隊員が沖縄にいるから「抑止力」があって「安心だ」と考えているのは、二〇〇ヵ国ちかくある世界のなかで日本だけだ、という事実が広く知られるならば、世界における日本の異常性がいかほどばかりかがくっきりと浮かび上がるだろう。

黒船来航→帝国主義間競争→開戦→原爆投下→敗戦→占領下→独立後も依存……と続いてきた一五〇年以上におよぶ近代・現代の過程で、日米関係がいかにいびつなものになったか、を明るみにださなければならない。

来る八月に、ある町の市民運動団体から講演依頼があった。この間の状況をみながら、タイトルを「戦後史の中の憲法9条と安保体制」とすることにした。(6月4日記す)

太田昌国の夢は夜ひらく[3]わずか二百人のアメリカ人にとっての普天間問題


『反天皇制運動 モンスター』第3号(2010年4月13日発行)掲載

「普天間という基地名を知っている米国人はせいぜい二百人程度で、それはすべて国防総省(ペンタゴン)のスタッフです。

米国は世界の百ヵ国以上に軍事基地を持っているから、人びとはいちいちその地名など知りません。

日本では、沖縄の基地問題が進展せず、アメリカは苛立っているとか、日米関係が危いなどとばかり言っていますが、そこでいう〈アメリカ〉とはその程度のもの、つまりペンタゴンなのです」。

詩人アーサー・ビナードは、私が住む地元で最近開かれた講演会でこう語った。日本に住んで二〇年が経つ、米国はミシガン州出身の人だ。

新聞に寄稿している詩やエッセイ、それが単行本にまとめられたものは、ある程度読んできた。ことばに対する感覚にすぐれた人だ。

納豆が好きで、自分の名を漢字で「朝美納豆」と書く、おかしな人だ。

自国の政治的・軍事的振る舞いを悲しみ、それに対する批判が、厳しい。

テーマは憲法9条問題だった。いきおい、民主党政権になっても一向に変わらない日米の政治・軍事関係への言及が多かった。

確かに、メディアでは、「アメリカ」を主語に据えて、米軍再編に関わっての鳩山政権の優柔不断を憂えたり、日米関係の危機を言い募る言論が溢れている。

それを見聞きするた びに、主語「アメリカ」の本質を問うてきた私の胸に、詩人のことばはすとんと落ちた。

朝青龍の角界追放問題が起こると、日本のメディアはウランバートルの街頭でモンゴル人の反応を聞く。

中国で毒餃子事件の容疑者が逮捕されると、北京市の住民の声が報道される。

トヨタの事故車が米国で問題化すると、街のユーザーの声が大々的に報道される。

しかし、(すべての報道を見聞きしているわけではないが)ニューヨークの街頭を行き交う米国人に「普天間問題」についての意見を聞くという、日本メディアが好みそうな試みはないようだ。

誰に聞いても、地名も知らない、関心もない、米国では問題そのものが「存在しない」ことが「ばれて」しまい、いうところの〈アメリカ〉なるものの本質が透けて見えてしまうから、困るのだろう。

詩人は、東奥日報記者・斉藤光政の『在日米軍最前線』(新人物往来社、二〇〇八年)が加筆修正を加えて文庫化されたこと(新人物文庫)も教えてくれた。ラジオの仕事で定期的に青森を訪れている詩人には、「核攻撃基地=ミサワ」の情報が入ってくるようだ。

沖縄基地再編問題が歪んだ形で「大問題化」している裏で、青森県ミサワ基地を中心にしたミサイル防衛回廊化がいかに進行しているかを伝える貴重な本で、それはあった。

総じて、詩人は、米国ではペンタゴンの極少数の担当者しか関心を持たない普天間問題が、あたかも日米関係の最重要事だと誤解するな、もっと根本的に同盟関係自体を問い直して主体的な問題提起を行なうべきだ、と聴衆に訴えたのだと思う。

この話は、アジア情勢に詳しいオランダのジャーナリスト、カレル・ヴァン・ウォルフレンの主張と合い通じるものがある(「ペンタゴンに振り回されるアメリカと、どう向き合えばいいのか」『SIGHT』二〇一〇年春号掲載、ロッキング・オン)。

米国の軍産複合体の中枢にいる人間たちにしてみれば、冷戦の終焉は耐え難いことであり、ソ連なき後は「ならず者国家」とか「テロリスト」なる敵を作り出すことに励んできた――とは、私もこの間行なってきた分析だ。

同じ考えを持つウォルフレンはさらに、ペンタゴンも軍産複合体の一部であって、この複合体はそれだけで存在していて、政治的な判断とまったく関わり合いがない、オバマもペンタゴンを制御できておらず、日米関係の問題をペンタゴン関係者の多い対日部門に丸投げしているが、その連中が日本に向けてふるまう態度たるや「保護領」に対するものにひとしい、とまで断言している。

日本国の外交路線を取り仕切ってきた米国かぶれの外務官僚や一部の政治家を除けば、日米関係の現状をこのような水準で冷静に捉えることは、さほど難しくはないだろう。

問題は、中国や北朝鮮など近隣諸国との間では「冷戦状態」が継続しているという意識が社会全体から払拭されておらず、その分、米国に軍事的依存を続けることで安心立命が得られるという「気分」を社会が引きずっていることにあるだろう。

その気分は実は幻想なのだと明かす作業を、なお続けなければならない。(2010年4月9日執筆)

太田昌国の夢は夜ひらく[2]脱北者を描く映画のリアリティが暗示していること


『反天皇制運動モンスター』第4号(2010年5月11日発行)掲載

韓国映画『クロッシング』を観た(キム・テギュン監督、二〇〇八年、カラー、35ミリ、 一〇七分)。

いわゆる脱北者の物語だ。北朝鮮のとある炭鉱町に住む一一歳の男の子ジュニは、父母との三人暮らしだ。つましい生活だが、日々のどんなことにも楽しみは見出せる。

父は元サッカー選手で、よくサッカーボールで遊んでくれる。巧みにボールを捌く父の足は、ジュニの憧れだ。母が肺結核で倒れた。薬は簡単に手に入らない。父は薬を求めて、危険を冒して中国へ密入国する。

働いて少しの金は得られても、脱北者であることがわかれば強制送還だ。北の実情を話せば大金が入るという話を信じてついていくと、行く先は韓国だった。

手を尽くして、北朝鮮に残した家族の安否を知る。妻は死んでいた。父と息子は何とかして連絡をつけ、危険な中国ではなくモンゴルで再会する手はずを整えた。

だが、翌日には父と再会できるはずだったジュニは、人っ子ひとりにも会えない広大なモンゴルの砂漠で、満天の星降る夜に死んでいった……。

「クロッシング crossing 」とは「横断、交差(点)、踏切り、十字路、十字を切ること、妨害」の意味だ、と同映画のパンフレットにはある。

さまざまな含意が込められていて、観客は任意にどれかを選べばよい、ということか。

私は、山のようにある脱北者の証言をよく読んできているので(図入りの本が、けっこう多いこともあって)、北朝鮮社会について、ある程度のイメージを描くことができると思っていた。

当然にも、そんな程度のイメージは破砕された。北朝鮮に住んでいた人に言わせると、庶民の住まいと食事の内容、市場・闇市の様子などがとりわけよく「現実に近く」描かれているという。

国境警備隊員のふるまいも、捕まった人びとが入れられる「鍛錬隊」なる強制労働キャンプの様子も、経験者の証言に基づいてセット造りや演技指導がなされている以上、相当な「現実性」をもっているのだろう。

私は、一九六〇年代後半から七〇年代初頭にかけて、韓国文化院にときどき通っては、まだ一般映画館では上映される機会のなかった韓国映画を観ていた。

日本文化の「浸透」を禁じていた軍事政権時代のナショナリズムに依拠して、当時の韓国映画における「日帝本国人」の描き方は徹底して一面的だった。

敵対している北朝鮮の描き方も、画一的だった。止むを得ないなと思いつつも、心打たれるところは少なかった。

多くの場合は権力者による圧力で、また場合によっては表現者の自己規制や怠惰で、どんな国でも、「表現」がそうなってしまう、あるいはそうしかできない時代状況というものは、あるだろう。

韓国映画が、総体として、特に「民主化」以降の過程で、そんな制約を乗り越えてきたことは、この間公開されてきたいくつもの秀作を通して知ることができる。

脱北者家族の軌跡を描いて、『クロッシング』は単純な「反北」映画に堕すことはなかった。むしろ、つましく暮らす北朝鮮庶民の姿を、淡々と、切なく描いて、深い印象を与えるものとなった。子役を含めた演技者の功績も大きいだろう。

感情過多の、安易な演技に流れていないことが、貴重に[思えた。それだけに、腹をすかせた労働者や子どもたちのそばを、赤旗を掲げながら「首領さま」に忠誠を誓うスローガンを唱和しながら行軍していく者たちの姿の意味が、かえって、浮かび上がってきたりもする。

キム・テギュン監督は一〇年前、道端に落ちているウドンを拾って汚いどぶ水ですすいで食べる北朝鮮の子の実写映像を観て衝撃をうけ、その時の自分の「恥ずかしさ」を原動力としてこの優れた映画を完成させた。

私がこの映画を観終わって数日後、北の社会の絶対的な権力者が、さまざまな支援を求めて中国へ向かった。人と時間と金をふんだんに使っての、相変わらずの秘密行動だった。

公開性のない、このような隠密行動が、国内・国際基準の双方でいまなお許されると考えているところが、この独裁者の度し難い点だ。映画『クロッシング』は、北朝鮮国内と(たとえば韓国のような)外国とのあいだでの携帯電話での交通が現実化している様子を、実話に基づいて伝えている。

権力者が企図する情報の封鎖、それでも流れ出る情報――北朝鮮の状況の帰趨は、ここに焦点が絞られてきたように思える。 (2010年5月7日執筆)

太田昌国の夢は夜ひらく[1]横断的世界史を創造している地域と、それを阻んでいる地域


反天皇制運動「モンスター」2号(2010年3月9日発行)掲載

東欧近現代史の研究者・南塚信吾が「注目集める横断的世界史」という文章を書いている(朝日新聞2月20日付け夕刊)。

従来の国別・地域別の歴史を並列することでは、同時代を生きる国々・諸地域が相互に関連し接続している現実を見失い、全体としての世界の歴史を再構成することにはならないという反省からきているという。

トリニダード・トバゴの首相も務めたエリック・ウィリアズムの『コロンブスからカストロまで』のように、カリブ海域史を世界史との繋がりの中で書き切った優れた先例は、夙に一九七〇年に生まれているが、確かに、日本の歴史書を観ても、20世紀末以降、そのような問題意識に基づく書物が増えている。また、国境を超えた協働作業で地域史を綴る試みも目立ってきた。

この歴史意識の変化は、一九七〇年代後半以降急速に進んだグローバリゼーション(全球化)によってもたらされている一面もあるだろうが、世界的な趨勢として確立されている以上、今後は現実に先駆け、いわば「未来からの目」として機能することもあるだろう。この観点から、二つの地域の昨今の動きをふり返ってみよう。

一つ目は、ラテンアメリカ地域である。去る2月、中南米・カリブ海統一首脳会議が開かれ、「ラテンアメリカ・カリブ諸国共同体」(仮称)を来年7月に発足させることを決めた。

51年に発足した米州機構には米国とカナダも加盟しており、59年のキューバ革命以後はキューバを孤立化させる役割を担ってきたが、今回の共同体は、逆に米国とカナダを除外し、クーデタによって生まれた政権の支配下にあるホンジュラス以外の32ヵ国が参加した。

一昨年、コロンビア軍がエクアドルに越境攻撃を行なったが、この事態を収拾するために動いたのがこの地域の諸国だった。

それが今回の、米国抜きの新機構設立に繋がった。参加国政府の対米姿勢には違いがある。

設立条約作成・分担金確定なども今後の課題であり、前途にはさまざまな困難があるだろう。

しかし、地域紛争を解決するための具体的な努力の過程を経てここに至ったこと、自己利害を賭けて常に紛争を拡大する火種である米国を排除していること、それが従来は米国の圧倒的な影響下におかれてきた地域で起きていること――その意義は深く、大きい。

世界銀行やIMF(国際通貨基金)は、世界に先駆けてこの地域に新自由主義経済政策を押し付けてきた張本人だが、最近、世銀の担当者は、「経済の多様化と富の再分配を通して貧困層を支援する」政策を採用している南米諸国のあり方を高く評価したという。

3月1日にウルグアイの大統領に就任した元都市ゲリラ=ホセ・ムヒカが年俸の(月給ではない)87%相当の一万二千ドル(約一二三万円)を住宅供給のための住宅基金に寄付したというニュースも、政治的・社会的状況の変革のなかで、政治家が身につけたモラルの高さを示している。

彼の地の人びとは、横断的地域史・世界史の創造が、日々の理論的・実践的な課題である時代を生きている。

二つ目は東アジアである。この国では、「平時」を「戦時」にするための努力が、新政権の閣僚と首相によってなされている。

鳩山政権が実施しようとする「高校無償化」をめぐって朝鮮学校をここから外そうとする動きがあるからである。

最初に言ったのは中井拉致担当相だが、彼が識見も政治哲学も欠く人物であることは、就任会見時からわかっていた。

今回の発言に怒りと哀しみと恥ずかしさはあるが、驚きはない。

その発言に、首相が乗った。「国交のない国だから、教科内容の調べようもないから」と。

日朝首脳会談以降の日本の社会・思想状況が、自らを顧みることなくして排外主義に走っている点でこれほどの惨状を呈しているのは、横断的な地域史・世界史の視点を社会全体が欠いているからである。

未だに「国史」の枠内に身を置いて恥じない地点から、中井や鳩山のような発言が飛び出してくる。

「未来からの目」どころの話ではない。首相の言う「東アジア共同体」が、彼のなかで現実感を伴っていないことも、よくわかる。したがって、と言うべきか、私たちには、この現状を変えるという課題が目前にある。まだ国会審議は続いている。

(3月6日記)

追記:生活と仕事の時間からくる制約上、原稿は深夜に書く。夜更けて、25時26時27時と、机に向かう。だいたいは、とりとめもない妄想が、そして時には、夢が、ひらいてくる。故に、ご覧のような連載タイトルとなった。乞う、ご寛容、および同志的な批判。