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状況20〜21は、現代企画室編集長・太田昌国の発言のページです。「20〜21」とは、世紀の変わり目を表わしています。
世界と日本の、社会・政治・文化・思想・文学の状況についてのそのときどきの発言を収録しています。

太田昌国の夢は夜ひらく[32]10年目の拉致被害「帰国」者の言葉


『反天皇制運動モンスター』第34号(2012年11月6日発行)掲載

朝鮮特務機関による拉致被害者の蓮池薫氏が『拉致と決断』と題する著書を出した(新潮社)。同社のPR小冊子「新潮」に2年間ほど連載されていたものを元にして、「帰国」10年目に合わせての単行本化である。朝鮮で送らざるを得なかった24年間の歳月が、あふれるごとくの言葉で綴られている。外部の人間が、一部を恣意的に引用したりまとめたりすることは慎みたい、と思わせる何かがある。氏の文章を実際に読まなければ伝わらないものがある、と感じさせるという意味において。

10年前、日朝首脳会談が実現し、ピョンヤン宣言が発表されたとき、日本社会を覆い尽くしたのは拉致問題への関心一色だった。それは確かに重大な国家犯罪だが、問題の本質は、近代国家・日本による近隣諸地域への侵略、戦争、植民地化の過程と、敗戦後の「戦後処理」のあり方に関わっており、それへの総合的な視野なくしては拉致問題などの個別課題を解決する目途も立たないことは、私には自明のことだった。

だが、この問題に関わる世論形成に大きな力を発揮した拉致被害者家族会の方針は違った。「拉致問題の解決なくして国交正常化なし」――他のいかなる問題にも先駆けて拉致問題を解決すること、そのことを強硬に主張した。ことは、外交問題である。二国間の関係に関わることがらであるからには、一国が一方的に優先課題を設定していては、交渉の糸口にもたどり着くことはできない。このことを知ってか知らずにか、家族会の方針に異論を立てる者が、この社会には極端に少なかった。政治家しかり、外務官僚しかり、メディアに登場する者たちしかり。家族会は、比類ない圧力団体として、社会全体を縛り上げてきたと言える。背後には常に、「北朝鮮に拉致された日本人を救出するための全国協議会」(いわゆる「救う会」)という、極右団体を控えさせながら。

去る10月、日朝首脳会談から10年目を迎えて、無為に過ぎた10年間をふり返る企画がメディア上にあふれた。「拉致問題の進展が見られない」「内閣改造のたびごとに、拉致問題担当相が変わり、政策の継続性がない。政府の誠意を疑う」「親の高齢化が進み、残された時間はほんとうに僅かだ」――家族会の人びとの、即時的な心情に寄り添う言葉はあった。それだけが、あった。拉致問題だけを切り離して、優先的に解決する――社会を10年ものあいだ金縛りにしてきたこの路線の「非現実性」を指摘する声は、いまだにかき消されたままだ。

この10年間、渦中にありながらもっとも理性的な言葉を語ってきたのは、「帰国」できた5人の拉致被害者であったように思える。「帰国」から1年半の間はまだ子どもたちが朝鮮に残っており、その後も、生存している拉致被害者の安否を思えば、自分たちの発言がどんな影響を及ぼすかを熟慮した、慎重な言い回しが目立った。だが、蓮池薫氏の場合には、家族会事務局長時代の兄・透氏の著書『奪還』(新潮社、2003年)や『奪還第二章』(同、2005年)から、漏れ響いてくる印象的な言葉がいくつもあった。「何ヵ月も安否確認さえできない政府の無能ぶり。一介のNGOにできることなのに」「政府は主導的に何をしようとしているかわからず、物足りなかった」「自分たちだけが帰ってきて忍びない」「日本だけが被害者だというような態度で北朝鮮に接しても、ぶつかり合いにしかならないんだ」。

私は当時これらの言葉を読みながら、「帰国」者たちが、奪われた24年間の経験を生かし、日朝和解のための架け橋になるような生き方をしてくれたなら――とひそかに夢想した。部外者の、勝手な思いであることは承知していた。書物を刊行するという意味では外部の私の視野にも入ってくる蓮池薫氏の仕事を見ていると、その思いが叶いつつあるような気がする。現代韓国文学を中心とした氏の翻訳書は20冊を超えている。孔枝泳の『私たちの幸せな時間』『トガニ』(いずれも新潮社)など優れた作品が目立つ。拉致そのものを扱った新著『拉致と決断』も、氏がそれによって強いられた運命を思えばなお、公平・公正な立場で日朝間の歴史的・現在的な関係を観ようとしており、そのありようが胸を打つ。

(11月3日記)

太田昌国の夢は夜ひらく[31] 「尖閣問題」を考えるとき、私たちが立つ場所


反天皇制運動『モンスター』第33号(2012年10月9日発行)掲載

先日、「レイバーネットTV」に初めて出演した。ユーストリームを利用したオンラインニュース番組である。2010年5月以来、月2回のペースで生放送されている。当夜の「特集」は、「尖閣・竹島」に象徴される領土問題であった。番組全体の時間枠は75分間、そのうち45分が「特集」に割り当てられる。キャスター2人はもちろん、特設スタジオ内の10人近い技術スタッフの中からも質問が出たり、声がかかったりしながら番組は進行するが、45分間は、けっこう長い時間幅だ。

領土問題は、植民地主義が遺した「遺産」である場合が多い――現在、日本が直面しているそれは、その典型である――から、列強による世界分割地図や、「固有の領土」論に関わっては、いにしえの地図が必要になる。「無主地先占」論なる、聞き慣れない表現には、文字パネルが用意される。放送中とその後の反響を聴きながら、それらの素材が果たした「威力」を思った。

このテーマに関わって、言葉で表現しなければならない問題は多面的だが、これを機会にどうしても強調したい点がひとつあった。日中間に起こった、今回の不幸な事態を招いたのは、現東京都知事が去る4月米国で行なった「尖閣諸島を東京都が買い取る」とした発言にある、ということである。問題のよって来るゆえんに迫る報道が、傲岸不遜この上ないこの小人物を怖れているわけでもないだろうが、マスメディアでは弱い。対照的なことには、ネット上では、都知事批判が的確になされている。曰く「選挙公約であった米軍横田基地返還交渉も行なわずに、何が尖閣か」。曰く「140万もの人びとが住む沖縄が、米軍基地負担に喘いでいる事実に何も言及しないで、無人島へのこの異常な関心は何なのか」。曰く「原発推進派として、福島の現実にこころひとつ動かさずに、何が『国家を守る』か」。曰く「この国は元来、領土問題にはたいへん太っ腹な国で、天皇制を守るためなら沖縄くらいくれてやったではないか」。曰く「いまなお、複数の県に実効支配の及ばない広大な領土があるではないか」――これらは、ごくふつうに、ネット上で複数の人びとが発している言葉である。知事番の記者たちは、都知事をたちどころに矛盾の極致に追い詰めてしまう、この種の質問のひとつをすらしないのだろうか。

都知事を米国に招いたのは、同国ネオコンのシンクタンク「ヘリテージ財団」であった。米国右派からすれば、東アジアに安定的な平和秩序が確立されることは、忌むべきことだ。国家間に常に一触即発の緊張関係が走っているならば、米国の軍事力が、広くアジア太平洋地域に、従来のそれを上回る形で伸長し続ける理由として活用できる。誰もが言うように、領土問題は、ナショナリズムをいたく刺激する。国内に抱える諸矛盾を覆い隠すために「反中国」の悪煽動を行なえば、国内での政治的な支持を得るのは容易なことだ。それは、そのまま、日米両国の右派の利害に繋がる。都知事は、いわば彼の本質に重なる地のままで、そのための役割を演じたのだと言える。

「1895年に沖縄県に編入された」という「日本固有の領土」=尖閣諸島は、「1879年=琉球処分」という名の「ヤマトによる琉球植民地化」以降の、重層的な歴史を想起させずにはおかない存在である。同時に、敗戦後の米国による占領統治から「返還」の過程では、諸島のなかの2つの島が米軍の射撃場とされたこと(豊下楢彦『「尖閣購入」問題の陥穽』、「世界」2012年8月号)で、米国による軍事植民地化という問題をも浮かび上がらせる存在でもある。こうして、「東アジア騒乱」を望む日米右派が反中国の「切り札」として悪用している尖閣問題は、そこに平和をつくりだそうとする私たちの側からすれば、のちに米国も加担して実践されてきた、百数十年に及ぼうとする植民地主義をふり返るべき場所である。おりしも、在沖縄米軍のオスプレイ配備をめぐって、「日米の植民地」としての琉球という問題意識の大衆的な深まりが、沖縄現地からは伝えられている(たとえば、松島泰勝氏インタビュー、9月24日付毎日新聞)。ここが、私たちが踏みとどまって、問題の本質を探り続けるべき場所である。

注記――レイバーネットTVへのアクセスは、http://www.labornetjp.org/tv

(10月6日記)

太田昌国の夢は夜ひらく[30]九月の出来事に、何を思うか


反天皇制運動『モンスター』第32号(2012年9月11日発行)掲載

生きてきた時代の中で、忘れられぬ出来事が詰まった月がある。個人的なことで言えば誰にせよあれこれあるだろうが、現代史の中で起きた社会性を帯びた出来事という観点から言えば、私の場合は、9月が随一だろうか。

まずは、40年近く遡る。1973年9月11日、南米チリで、社会主義政権を打倒した軍事クーデタが起こった。その3年前の1970年、チリの一般選挙で、社会主義者サルバドル・アジェンデが当選した。武力によってではなく、選挙を通じて成立した、世界史上初の社会主義政権であった。その3年前、隣国=ボリビアではチェ・ゲバラが殺されたが、その前後には、1959年以降「キューバに続け」とばかりにラテンアメリカ全土で闘われていた反政府武装ゲリラ闘争が相次いで敗北していた状況に照らすなら、それは、社会変革を実現するうえで新しい道を切り拓く経験であった。ひとによっては、それを「銃なき革命=チリの道」と呼んだ。

チリ革命は、政治・経済過程の変革はもとより、帝国主義文化の浸透に関わる批判的な分析で見るべき成果を挙げたが、それが3年間の試行錯誤の果てに軍事クーデタによって挫折したのだった。鉱山企業や通信事業の国有化によって、従来享受してきた特権的な利益を剥奪された米国の画策がこのクーデタの背後にあったことは、言うまでもない。平和革命の道が、相も変わらぬ、超大国が画策した軍事力によって潰えていくこと――その際立った対照性を、胸に深く刻み込んだ多くの人びとがいた。

それから28年を経た2001年9月11日、私たちの記憶になお生々しい事件がニューヨークとワシントン郊外などで起こった。高層の世界貿易センタービルや、五大陸の軍事的制覇の野望を表現しているのではないかと私が疑っている、五角形の奇怪な形をしたペンタゴン・ビルに、ハイジャック機が激突したのである。「9・11(September Eleventh)」の略称によって、世界中に知れ渡っている出来事である。私は、事件の死者たちを悼みつつも、同じ日付を持つチリ・クーデタの記憶が消えていない者の立場から、この「悲劇」を米国が独り占めすることなく、自らが世界各地で軍事力の行使によってつくり出してきた「数多くの9・11」を思い起こし、世界近現代史上におけるそのふるまいを内省する方向へ向かうこと――そのことをこそ望んだ。

その後の事実が明かしているように、実際には、そうはならなかった。むしろ、逆であった。米国の為政者は、世界史上かつってなかったような悲劇の主人公として自らを演じた。犠牲にさらされた者は、どんなことをしても許される――端的に言って、こんなことをしか語っていない大統領が行なった「報復戦争」の呼号が、米国社会を丸ごと捉えた。悲劇を口実に、新しい戦争が始められた。まずはアフガニスタンで、次いでイラクで。それからの11年間に、どれほどの悲劇が積み重ねられてきているのか。世界はまだ、正確な形では、そのことを知らない。

その翌年の9月の出来事は、東アジアの規模で起こった。2002年9月17日、日朝首脳会談がピョンヤンで行なわれた。戦後57年を経ていながら、いまだに国交回復すらできていない、したがって、植民地支配の清算もついていない朝鮮と日本、二国間の関係を正常化することが最大の眼目であった。その席上、朝鮮側首脳は、推測されてきた「朝鮮特務機関による日本人拉致」が事実であったと認めて謝罪した。植民地支配や侵略戦争を行なった過去を指して、その「加害者性」を指弾されてきた日本社会は、或る拉致被害者の家族が語ったように、「これでようやく被害者になれた」と誤解して、「負い目」を払拭した。政府も、メディアも、社会も、丸ごとそのような感情に支配されて10年――したがって、事態は膠着し、二国間の関係の正常化どころか、拉致問題の進展も見られない。こうして、戦後67年が経ってしまった。

それぞれの社会が、震撼させられる重大な事態に見舞われることで、自らをふり返り/改めるせっかくの機会を得ながら、逆にそれを自己正当化の口実にしてしまう。人間社会の愚かさを明かしているようで、9月の出来事は哀しく見える。(9月8日記)

フライデー・ナイト・フィーバーの只中で/あるいは傍らで


『インパクション』誌第186号(2012年8月25日発行)掲載

M 3月末に3000人から始まった、首相官邸前での毎週金曜日夜の反原発行動は、現政権が原発再稼働方針を明言したころから、参加者が一気に増え始めている。主催者の発表では、その増え方は、300人→1000人→2700人→4000人→12000人→45000人→20万人……となっている。君もよく顔を出しているというが。

O 今までなら、金曜日の夜というのは、けっこう予定が入っていて、2回に1回程度しか参加できていなかった。事態が変わったので、これからは金曜日の夜はできる限り空けておき、現場に行くようにしようと思っている。

M 集会やデモなら、公安条例に即して言えば、届け出を出して「許可」を得ることになるが、あれは自然発生的にひとつの場所に集まって、並んで抗議するわけだから、憲法の原則「移動の自由と表現の自由」から言って、警察も本来は規制できない。防衛庁(現防衛省)や外務省や法務省などの前でなら、以前からさまざまな団体が行なってきたことだが、今回は参加者の規模があまりに大きくなったので、従来とはまったく異なる性格と意義を帯びるようになったのだと思える。率直に言って、君はどんな感じを持っているの、あの集まり方に。

O この行動を呼びかけているのは「首都圏反原発連合有志」だが、先行する例のない、まったく新しい運動形態を作り上げていると思う。もともと中心を持たない運動である。明確な指導部が存在する場合には、指導部の方針に従って運動が〈一なるもの〉としてまとまることを求めがちだが、それもない。私としては、組織論的にいって、異議はない。むしろ、賛成だ。この形態は、呼びかけ団体が作り出したというよりも、各回の参加者の総意が作り上げている、と解釈するのがいいのだろうけれど。

M 「現場では混雑するから、事故を起こさないようにボランティアスタッフや警察官の誘導に従いましょう」とか、帰るときには「警察官の人たちにも、できれば『お疲れさま』の一言を」とか呼びかける姿勢が物議をかもしていると聞いた。また、行動終了時刻の夜8時になると、時には警察車両の高性能マイクを使って、主催者が「解散」を呼びかけることもあったという。なお立ち止まって抗議を続けようとする人びとからは、それに対する罵声がとんだとも聞いたし、またツイッター上の別な情報によれば、そのとき警察車両の上に乗ってマイクを握っていた人は、デモ隊に解散要請を行なったばかりではなく「再稼働反対!」のコールも呼びかけていたのだから、なかなかのしたたか者だったという弁護論も見かけた。

O 正直なところ、広場でもない場所に10万人以上も集まると、全体像を把握できる人はいないと思う。噂話は私の耳にもいろいろと入ってくるし、ユーチューブで確かめたりもするが。いま君が言ったことのなかで、前半部はその通りだ。警察官の誘導に従ってとか、警察官にも「お疲れさま」の一言を、という呼びかけは、チラシそのものに書かれている場合もある。警察が鉄柵や警察車両を使って、官邸近くの特定の地帯から人びとの排除を始めたときには、私もそれには抗議して、この先へ行かせよ、と求めた。私はまだ周囲の人間から咎められてはいないが、警官隊の措置に抗議する人に対して、これを非難し「やめなさい」と止める声が、デモ隊のなかからよく上がるのだという。私なら、「皆さんの安全を願っての措置です」と警察官がいう阻止線の設置はかえって危険なものだと思うし、デモ隊を分断して全体像を見えなくさせるのは弾圧の一方法なので、抗議そのものを止めるつもりはない。デモ隊の中には、警官隊や、随所でデモ隊を待ち受けていては日の丸を振りながら罵声を浴びせる在特会や「草の根右翼」に対して、同じ水準の口汚い罵声を投げ返す人もいて、それがデモ隊の仲間の間から発せられることが耐え難いことは身に沁みているから、態度や言葉遣いには気をつけているが。

同時に、以下のことは付け加えておきたい。警官隊との余計な軋轢・摩擦・対立を避けたいと思って、私から見れば必要以上に抑制的になっている人の心には、こと反原発問題についてなら、ひとりひとりの警察官をこちら側に呼び寄せることができるのではないか、という希望があるのではないか。「敵」の巣窟とも言える軍隊や警察の内部から、寝返ってこちら側に越境してくる人を生み出すこと――生易しいことではないが、古典的とも言える、価値あるその試みをしているのだ、と。若い日、埴谷雄高の政治論『幻視のなかの政治』を通して、「敵を味方に転化する」ための、気が遠くなるような長い時間をかけた努力の過程を学んだ者としては、その思いは掬い取りたい気持ちがしている。

M いまの話を聞いていると、思い出すことがある。15年ほど前のことだ。私は、先住民族問題や国外の解放運動とそれに連帯する運動をめぐってけっこう頻繁に討論集会を呼びかける側にいた。そこには、もはや息も絶え絶えになっていた政治党派の人びとがよく来ていた。某党派の人物たちは、討論の時間になると必ず挙手して、その日のテーマとは直接には関係しないことがらを取り出しては、「労働者国家擁護」という無内容な立場からの論議を延々と行なうのが常だった。そのスタイルがわかった私は、彼/女らが発言していつもの逸脱を始めると、司会をしていても発題者として質問を受ける立場にいても、厳しく批判して、その発言を止めさせた。すると、集会アンケートなどを通して、次のように言われたりした。「あの種の発言に対して苛立つMさんの気持ちはわかるが、今の人びとはあのような激しい言い合いに慣れていないから、退いてしまうかもしれない。やり方を考えたほうがいいです」。直接の知り合いからは、こう言われた。「ああいう場面になるとドキドキします。面白そうという気持ちもあるけど、これから一体どうなるのだろう、と緊張します」。それは、いわば、その場の雰囲気としては「浮いていたかもしれない」私のことを心配しての、友情ある説得であるように思われた。言葉を換えれば、それは、私たちの世代の運動が次世代に遺してしまっている過激なるもの、「暴力の記憶」なのだろうか。内ゲバ、連合赤軍の同志殺し、デモ隊と機動隊との衝突、爆弾による死者、激しい言葉遣い――個々人がどこまでそれに関わっていたかとは関係なく、今となっては、「あの時代の遺産」はこんなものとしてしか記憶されていないのだろうか?

O デモや大きな集会やストライキの記憶といえば、60年安保か70年安保の時代にまで遡らなければならない。60年安保は、確かに敗戦後15年目の段階での大きな大衆的闘争だったが、ひとつには所得倍増計画によって、いまひとつにはヤマトから削減された米軍基地を沖縄に押しつけることによって、収束させられた。68年の全共闘と70年安保は、確かに君も言うように、その時代を直接には知らない世代によって「無惨な暴力」の時代として刻印されているのだと思う。しかも、60年代の経済成長を引き継いで、その後は高度消費社会が実現していく過程に入り、豊かな社会に人びとは生きるようになった。加えて、「正義」を求める過激な運動がどこへ行き着いたかを人びとは見聞きしていたこともあって、政治・社会・経済上の、多少の矛盾や不正義には目を瞑る、脱政治の時代が長く続いた。その後に行なわれた新自由主義的な改革や冷戦構造の崩壊の過程で、戦後革新の象徴ともいえる総評と社会党は解体に追い込まれた。正規雇用を前提として成立していた企業内組合の旗がはためくデモや集会は、すでにほぼ消えて、なくなっていた。

M 君の話を受けて言うと、大学生のなかには、デモやストライキって非合法ではないのですか、と尋ねる者がいると大学教師が嘆いていたのは、もう10年近く前のことだったろうか。日本社会はそれほどオメデタイ状況になっていたのだ。21世紀に入って小泉政権の下で新自由主義改革は完成した。デモ非合法論を唱えていたのかもしれない元学生を待ち受けていたのは、非正規雇用と失業の時代だった。だから、フリーターや派遣労働者が主体となって、音楽を流しながら街頭を歩くサウンドデモが大都会で行なわれるようになった。歩道でデモを見ていた若者がデモ隊に合流するなどの、絶えて久しく見られなかった光景が現れたりもした。だが、そのような合流を怖れた機動隊の隊列が、デモ隊を取り囲むようにして厳しく規制した。サウンドデモは、新しい果敢な試みだったが、デモ隊は、歩道の群衆からは「切り離されて」いた。

O その意味では、首相官邸前に詰めかける人の数が増えることで、デモ隊が封じ込められていた歩道から車道にあふれ出て、そこを占拠するという現象がときどき起こっているのは興味深いことだ。しかも、暴力を伴っているわけではない。警察がどれほど阻止線をつくろうと、「抗議エリア」なる地帯を飛び地のように設けてデモ隊を分断しようと、それを無効にしてしまうほどまでに人びとが集まってくれば、阻止線を張っていた警察の警備車両もおのずと姿を消していく。それが実現したときの人びとの笑顔は印象的だ。自分の顔だって、明るくなる。私は、ふだん乗っている電車内の光景と官邸前の光景を、よく対比的に思うことがある。混み合った電車内では、譲り合いもないわけではないが、見知らぬ他人と身体を接触させている緊張感と不機嫌さが溢れている。隣の男が何を考えている人間かは、まったくわからない。油断も隙もない。だから、交わされる言葉もない。押されると、すぐ押し返す。官邸前では、見知らぬ人であっても同じ思いでここにいるという信頼感をもつことができる。立つ場所も譲り合う。自然に、言葉が交わされる。大勢だ、ということも安心できる要素だ。知人にもよく会う。政府の方針に抗議するという政治的な行動が、これだけの「楽しさ」を伴っている。日常生活では味わうことのない「解放感」もどこかで感じる。週1回という頻度で行なわれている官邸前行動への参加者が増え続けているのは、ここにあるような気がする。それを実現しつつあるのだから、この行動の発案者たちは、すごい仕掛けをしたと思う。

M よいことばかりだろうか。先日、ある友人が言った。「いまの運動に問題点があるとすれば、またしても被害者意識に依拠した運動だということではないだろうか。原水爆禁止運動もそうだったが、自分が被害者になる、あるいはその恐れがある、という場所にいてはじめて、日本社会では運動が盛り上がる」。

琉球の友人が言ったことだから、私の受け止め方では、この言葉には、米軍基地の被害(重圧)の過半を沖縄に押しつけることで、自らは被害者意識を持たないヤマトへの批判が込められている。被害者意識のないヤマトでは、したがって、米軍基地撤去の課題にも、それに結びつく日米安保条約破棄の課題にも、関心は著しく低い。憲法9条は守りたいという気持ちと、近隣諸国の脅威があるから日米安保で米国に守られていると安心という意識がヤマトでは共存している。自分が被害者にならなければ、ある深刻な問題についての関心も沸かない状況はどういうことなんだ、という問いかけがある。

O 確かに大事な問題が孕まれているが、それは、運動・活動の過程の問題として考えればよいのではないか。政府・官僚・財界・東電・原子力の専門家たち――これらの連中が、起きている悲劇的な現実を無視して再稼働に向かって動き始めてしまった以上、再度の原発事故を「恐れて」反原発・脱原発の運動が高揚することには十分な根拠がある。実際に現場に来て、集まっている人びとの多様性――年齢、性差、社会層―-を見るだけで、いまこの社会がどんな状態になっているかが分かる。この対話でも垣間見てきた時代の変化も、現実に即して理解できる。これだけ多くの人びとが、官邸前に定期的に集まって抗議活動を続けることで、そこに参加している人びとの間で、時代の変化と現状に関する認識が深まっていくというのは大変なことだ。楽しさや解放感がある時の、人間の学び方は、広い。深い。早い。「被害者意識に依拠できるときしか、この国では運動が盛り上がらない」という批判もよし。誰もが、百家争鳴のようにものを言い合い、互いにそれを尊重しつつ〈共同の空間〉をつくりあげればよい。事実、先ごろからは、主催者の指揮から離れた別な場所で、独自の抗議活動を行なう集団も生まれている。これは、相手を罵倒することも否定することもなく、たたかうための〈共同の空間〉をつくりあげる努力だ。

私が、もうひとつ持っている希望の根拠は、次のことからきている。私が住んでいるのは、東京西部にある私鉄沿線の市だ。5つの駅を利用できる、比較的広がりのある都市で、人口は19万人だ。そこでも、昨年の「3・11」以来、2ヵ月に一度程度の頻度で、集会とデモが行なわれている。私はそこへもほとんどすべてに参加してきた。都心のデモと違って、道行く人がはるかに身近になる。それぞれの駅付近を起点にすると、5通りの行進ルートがある。それぞれの駅でのビラまきに先だって参加したら、次回のビラまきの日程が書きこまれていて、「○○駅前を首相官邸前に!」などという文言があった。余談になるが、思わず、1968年の懐かしいスローガンを想起させるものだった。米原子力空母エンタープライズの佐世保入港阻止闘争の時にまかれた「エンタープライズを戦艦ポチョムキンへ!」という文言のアジビラだ。それはともかく、都会の「空虚の中心」というべき首相官邸前における行動では、戻っていく居住地における行動の裏づけも持つ人が多いことが重要だ。居住地での生活と切り離された地点で、都心の国会や官邸や諸官庁への行動だけが行なわれているわけではない。集会へ行くと、地域ごとのデモの呼びかけが多い。私自身も、従来は、労働と活動の時間割の制限上、できなかったことだ。休日に行なわれる大規模な集会・デモの時には、明らかに同じ目的をもって同じ私鉄駅から乗る人も目立つようになってきた。従来の日常とは異なる兆しは、社会・政治のレベルで、至るところに見られる。首相官邸前での定期的な行動の重要性を思いつつも、そこだけで終わっていないことが大事なことだと思う。

M 君は「フライデー・ナイト・フィーバー」の只中にもいるし、同時に、少し逸れた傍らの視点も持っているということかね。

(8月2日記)

太田昌国の夢は夜ひらく[29] 都市ゲリラであった大統領のリオ演説の波紋


反天皇制運動『モンスター』31号(2012年8月7日発行)掲載

テレビはあまり見なくなったが、7月末のある日、どこかのチャンネルが、雨宮処凛と毛利嘉孝をスタジオに招いて、首相官邸前の原発再稼働反対デモをめぐる討論番組を放映することを知って、何気なく点けたままにしておいた。当世の番組だから、観ている誰でも、ツイッターで意見を寄せることができる視聴者参加型番組である。官邸前デモについては、いずれ触れる機会もあるだろう。きょうの話題は別だ。主要なテーマが終わって、「今週ツイッターでもっとも注目度が高かったテーマ一覧」というパネルが出て、一位から十位までのテーマが並んだ。他のテーマはひとつも頭に残っていないが、八位の「ムヒカ大統領演説」という文字だけが、私の目に跳びこんできた。その後の番組の流れの中では、1位か2位のテーマについての説明がなされたが、テーマも中身も覚えていない。

私は1年前からツイッターにはまっているが、その数日前に、私の「フォロワー」が紹介していたムヒカ演説を読んで、それを日本語で読むことができるウェブサイトを紹介し、ムヒカなる人物についての簡潔な情報を伝えたばかりであった。日本のマスメディアではまったく報道されていないムヒカ演説が、ツイッターの世界では次々と転送されて、テレビ番組が放映する「週間ベストテン」に入っていること–―そのことへの、新鮮な驚きが私にはあった。メディア状況は、それほどまでに、劇的な変化を遂げつつあることをあらためて実感したのである。

ムヒカとは、ホセ・アルベルト・ムヒカ・ゴルダノ(1935~)、南米ウルグアイの大統領である。2009年の選挙で当選し、2年有余前の2010年3月、大統領に就任した。話題となっている演説は、6月末にブラジルのリオデジャネイロで開催された「国連持続可能な開発会議(Rio+20)」で行なわれた。翻訳は、ラテンアメリカに住む日系青年たちが運営するNikkei Youth Network のサイトにアップされたのだが、この原稿を書いている時点では接続不能なので、それをフォローした以下を挙げておく(ユーチューブで、生演説も視聴可能)→http://blog.livedoor.jp/kirinoyura/archives/1706023.html

(これも接続不能な場合は、「ムヒカ演説」で検索できよう)。

演説内容は、しごく簡明――リオ会議は「持続可能な発展と世界の貧困をなくす」ことを目的とした会議だが、無限の消費と発展を求めてきたのが私たちであることを顧みるなら、残酷な競争によって成り立つ消費資本主義社会が孕む問題を放置したまま、共存共栄の論理を語ることは不可能。問題の本質は、環境危機ではなく、問題の本質に向き合わない政治危機なのだ、と要約できよう。

この演説がネット上で熱い共感を呼んでいるのは、昨今の首相や大統領には珍しい「論理」と「倫理」を兼ね備えた内容が、ここにあるからだろう。私がツイッター上で付け加えたのは、ムヒカの「前歴」である。1960年代から70年代初頭にかけて、ウルグアイでは反体制都市ゲリラ「トゥパマロス」が活発に行動していた。トゥパマロスは、その政治的倫理の高さと作戦活動のめざましさで、一時代を画した。ムヒカはそのメンバーで、何度も逮捕された。しかし、彼は二度も脱獄した。獄外の仲間が、刑務所に近い家屋の床下から牢獄へ向けてトンネルを開通させ、それを伝って脱走したのである。1972年の軍事クーデタ後に徹底した弾圧を受けた。辛うじて生き延びたメンバーの一部が、民主化の過程以降、政党を結成し、政治の世界に進出した。そのような人物を、およそ40年を経て一般選挙で大統領に当選させるウルグアイ民衆の政治的・社会的「成熟ぶり」が眩しい。ある時代に、信念に基づいて法を犯した者が、刑期を終えてのち、社会的に復権することを保証している人びとの「寛大さ」に打たれるのである。その人物が77歳のいま、40年の時間を超えて持続していたゲリラ時代の初志を大統領として国際会議で披歴し、その演説を貫く理想主義に、およそ政治家なるものへは不信感しか持たない他地域の人びとが感銘を受けている。

ツイッターを含めたネット世界での「精神的交通」、侮るべからず。そう、思った。

(8月4日記)

沈黙の表情が語りかけるもの――ヤン・ヨンヒの3部作を見る


『映画芸術』第440号(2012年夏号)掲載

独裁体制下にある他国を描く方法は、簡単だ。独裁支配とは、歴史上のどの時代、どの国を取り上げても、実に奇奇怪怪な実態をもつものだから、にわかには信じがたいまでのその奇怪さ、恐怖、独裁者の放埓な独善ぶりなどを、まずは繰り返し描き出せばよい。続けて、その社会で言論と行動の自由を許されていない民衆が、いかに画一的な生を強いられているか、誰もが同じ表情、同じ口調で、ただひとつのことしか言わない不思議な光景を付け加えるのだ。これで完了だ、隣の或る国を、理解不能な、したがって対話も不可能な存在として、こちら側の人間たちに納得させるためには。

2002年9月17日以降の日本社会は、まさしく、この通りになった。日朝首脳会談において相手国の首脳が日本人拉致の事実を認め謝罪して以降のことである。朝鮮を独裁支配している指導者を嘲笑し、支配下の民衆を笑うことすらない感情を欠いた存在として画一的に描くこと。これ、である。この民族主義的な情念の噴出を前にしては、歴史的な過程の中で二国間関係を捉えて冷静な議論を呼びかける少数者の声は、ほとんど掻き消された。

在日朝鮮人の映像作家、梁英姫はその真っ只中に登場した。まずは2005年『ディア・ピョンヤン』である。作家の父親は、朝鮮の指導者を一途に信奉する在日朝鮮総連の関西地区幹部であるが、家庭ではステテコ姿で酒を飲みながら、時にはポロリと本音を漏らしたりもする気さくな一面もある(母親の役割も重要だが、ここでは焦点が当てられている対象を考えて、「父親」と表現する)。娘である作家は、朝鮮大学校を卒業するまでは辛うじて父親の方針の下で育ったが、女優、ラジオパーソナリティ、映像作家と職遍歴を重ねながら世界各地を歩いて、自由な気風を内面に育てる。朝鮮指導部への忠誠を誓う父親には違和感と批判を持つが、同時に一個の人間としては愛さずにはいられない存在でもある。カメラは、この二つの間を往き来する。政治的な教条主義と日常生活での意外な素顔の対比がきわめて印象的で、つい笑いと涙を誘われたり、この人物に対する親しみを感じさせたりもする描き方になっている。過去を封印してきた父親は、カメラを持った娘の執拗な問いに次第に心を開くようになる。ついには、帰国事業で朝鮮に「帰国」させた三人の息子について、その後の現実を知るだけに、「行かせなくてもよかったかもしれん」とまで呟いてしまう。ドキュメンタリストとしての作家の資質を余すところなく証明している一シーンである。

次の作品、2009年の『愛しきソナ』は、帰国した兄の娘、ソナを軸に描いたドキュメンタリーである。作家自らが朝鮮を訪問して、兄たちの家族の生活の中にカメラを持ち込む。この撮影方法は、朝鮮では、めったに許されることのなかった稀有な例外だけに、決まりきった構図でしか朝鮮の姿を知らなかった私たちには、映像それ自体がまず新たな情報の宝庫である。率直には言葉を発することのできない登場人物(兄たち、その妻たち、そして訪朝した両親)の、その時々の表情、沈黙、立ち居振る舞いもまた、重要な情報を私たちに伝える。この作家は、沈黙の表情に物を言わせるのがうまい。だが、作家の姪、幼いソナは、カメラを前にしてもあくまでも天真爛漫だ。あの国は、電力不足による停電が日常茶飯事だが、ある夜、電気が消えるとソナは叫んでしまう。「停電中のこの家はとてもカッコいいです。おお、停電だ。栄えある停電であります!」。もちろん、あの国で許されている唯一の言語体系である「偉大な指導者」に捧げる慣用句風に、あの有名な女性テレビアナウンサーの口調を真似ながら、言うのである。

きわどい表現を含んだ『ディア・ピョンヤン』の公開によって、作家はあの国への出入りを禁じられた。愛する父親は亡くなった。兄の一人も病死した。次の作品を映像で企画するとしても、もはやドキュメンタリーの道は閉ざされていた。選ばれた道は、当然にも。フィクションへの転位である。こうして、2012年の『かぞくのくに』は生まれた。作家自らがシナリオの筆を執った。

あの国へ渡った兄が帰ってきた(物語は、それを待望していた妹の視点を軸に展開する。それは作家自身の視点でもあろう)。治療の難しい病気に罹り、3ヵ月間限定での帰国が特別に許可されたのだ。25年ぶりの懐かしい再会。しかし、日が経つにつれて、「兄が奥さんと息子と住むあの国」と「私が両親と住んでいるこの国」との間には、思いがけないほどの距離があることがわかってくる。しかも、兄には監視役の付添いがいる、あの国から。どこへ行くにも、彼が付き纏うのである。そして……。

物語の紹介はここで留めよう。シナリオは綿密に練られている。作家の実体験に基づく挿話が随所に生かされていよう。そのきめ細やかな設定が、物語に膨らみと深みを与えている。宮崎美子演じる母親の表情と姿が、どのシーンでも切ない。特に、あの国に帰る監視員にも背広を新調してやり、三人の子どもへの土産も持たせるという「配慮」を示す場面は、監視員を演じるヤン・イクチュンの表情ともども忘れ難い。監視員はまた、主人公の妹(安藤サクラ)に「あなたも、あの国も大嫌い」と言われて、「あなたが嫌いなあの国で、私も、あなたのお兄さんも生きているんです。死ぬまで生きるんです」とだけ答える。作家はここで、独裁下に生きる一人ひとりの人間の心の襞を感じとるよう、観客に呼びかけているように思える。25年前の「帰国」時と同じように今もあの国の体制に対して煮え切らぬ態度を取り続けて、息子の怒りを買う父親(津嘉山正種)も、その表情にはいつも苦悩の(そう言ってよければ、悔悟の)色が漂っているようだ。作家は、それぞれの登場人物がありきたりの言動に終始することを巧みに避け、言葉と表情を通して、多面的な存在として描き出している。「典型」に甘んじさせないのだ。他者を〈単一の〉存在として捉えるのではなく。一人ひとりが、揺らぎや葛藤や嘘や自己矛盾すら抱えた人間として描くことで、自己をさらけ出したその地点から、人間同士の新たな関係性が開けていくことに希望を託しているようだ。

帰国する主人公を演じるARATA改め井浦新は、台詞と表情と所作全体で、今回も特異な雰囲気を醸し出している。今後も注目したい俳優だ。監督およびスタッフの力量に加えて、キャスティングの的確さが、この作品の成功を導いたと思える。

10年前の「9・17」以降の、日本の特殊な社会・言論状況のさなかに差し出された梁英姫の3部作の大切さを、どこよりも、この社会に生きる私たちが感受したい。この小さな文章の冒頭に書いた問題意識に照らして、そう思う。

(7月2日記)

太田昌国の夢は夜ひらく[28]オスプレイ配備は、事前協議によって拒否できる


反天皇制運動連絡会『モンスター』30号(2012年7月10日発行)掲載

米海兵隊御用達の航空機・オスプレイospreyは、「ミサゴ」の意である。「わしたか科の大形の鳥で、海岸の岩や入り江などに住み、するどい爪で魚をとらえて食べる」と簡便な辞書にはある。古代・中世の歴史を欠き、移民国家として高々二百数十年の歴史しか持たない米国は、開発する武器や展開する軍事作戦の名称に、征服した先住民族(インディアン)の母語に由来する名詞や、猛々しい鳥類の名称や、「不朽の自由作戦」や「トモダチ作戦」などという、米国以外の地域に住む人間なら顔も赤らむ名称を、臆面もなく付す伝統がある。オスプレイは、猛禽類から来る名称である。

「敵」ながら、言い得て妙な、名づけである。侵略部隊としての米海兵隊がオスプレイを重用するということは、従来なら上陸用舟艇に頼っていた上陸作戦(それは、当然にも、陸地に構える「敵」から丸見えである)の様態を一新する手段を得たことを意味している。水平線の彼方から突如として現われるオスプレイは、最大速力・時速520キロメートルで飛行できるのだが、その輸送能力は、兵員数24名と武器などの物資(15トン)である。持てるその獰猛な暴力によって「敵」を鷲掴みにするというのであろう。

オスプレイの日本配備(厳密にいうなら、沖縄配備)の道を掃き清めるために、日本国防衛省が「MV-22オスプレイ——米海兵隊の最新鋭の航空機」と題するA4で22頁の小冊子を関係各所に配布したのは、去る6月13日であった。同日夕刻(米国時間)、フロリダ州ナヴァレ北部のエグリン射撃場でCV-22オスプレイが墜落し、搭乗員5名が負傷した。4月11日にはMV機がモロッコでの軍事演習中に墜落したばかりだから、事故確率が高いという印象が否めない。冊子には翌14日に配布された分もあったが、それには事故発生だけを伝える素っ気ないビラが一枚挟み込まれた。

この冊子によれば、オスプレイは「ヘリコプターのような垂直離着陸機能と、固定翼機の長所である速さや長い航続距離という両者の利点を持ち合わせた航空機」とされている。「回転翼を上へ向けた状態ではホバリングが可能となり、前方へ向けた状態では高速で飛行することができ」、「MV-22は、現在配備されているCH-46と比較して、最大速度は約2倍、搭載量は約3倍、行動半径は約4倍になる」という。ヘリコプター機能を持つことで滑走路を必要としない点が、一層の効果的な運用を可能にするのだろう。冊子には、飛行高度と騒音の関係表もあるが、下限は500フィート(150メートル)だから、超低空飛行も行なうのである。その他「運用・任務」「安全性」「騒音」「沖縄での運用」などの項目ごとに、ごく簡単な説明がなされている。

全体としてみれば、事故率を低く見せかけ、騒音は「前機より軽減」され、環境への影響なども「特段なし」とみなすなど、米軍が提供した資料をそのまま翻訳しただけの代物であることが透けて見える。危険性が高いこのオスプレイ配備が発表されるや、沖縄はもとより低空飛行訓練が予定されている全国各地から、厳しい批判の動きが高まっている。無視できなくなった政府は、一応、せめて「配備延期」要請を行なう程度の対米交渉は行なったらしいことを明らかにしている。官房長官は「米国と何度も交渉したが、押し返せなかった。米国は日米安保条約上の権利だと主張した」と語った。防衛相は「日本政府に条約上のマンダート(権限)はない」と述べている。1960年の条約改定時に「安保条約六条の実施に関する交換公文」が交わされ、米政府は、在日米軍に関する①重要な配置の変更、②重要な装備の変更、③日本国内の基地から行われる戦闘作戦行動——の3項目については、事前協議することが規定されている。協議があれば、日本政府が自主的に諾否を判断するというのが政府の立場であるが、事前協議は一度として行なわれていない。自民党時代はもとより、民主党政権になっても、日米安保を容認することが、そのまま、占領時代さながらに米軍の特権を容認し続けることに直結している。米軍の140機のオスプレイは、今年3月現在、東はノースカロライナ、西はカリフォルニアとハワイの米国内に配備されている。米国本土を初めて離れて、オスプレイは日本→沖縄へ向かっている。日米軍事協力体制は、こうして、世界にも稀な「異常な」性格を有している。(7月7日記)

太田昌国の夢は夜ひらく[27]オウム真理教事件報道と権力の変幻自在さ


『反天皇制運動モンスター』29号(2012年6月12日発行)掲載

「NHKスペシャル 未解決事件」でオウム真理教事件が取り上げられた(5月26~27日)。NHKが独自に入手したという七百本を超える教団内部の音声テープや元信者・元警察官の証言を基に実録ドラマとドキュメンタリーの手法を組み合わせて、事件の原因や教団の実態を複眼的に描こうとした、と番組の惹句にはある。

決定的ともいうべき内容的な欠陥がひとつある。坂本弁護士事件と松本サリン事件の捜査に当たった神奈川県警と長野県警の元警察官の取材を行ないながら、聖域にして踏み込まなかった問題があるからである。両県警の元警察官は、それぞれ、「オウムとサリン」の関係を疑い、あと一歩で摘発できる寸前までいっていた、と語る。今はすべての「サティアン」が撤去されている、上九一色村の茫々たる廃墟に立たせて、そう語らせるのである。思わせぶりたっぷりと。

NHKの取材グループは、映像記録や音声記録以外にも、膨大な文字記録も読み込んで、番組を構成したに違いない。そこには、麻原氏の国選弁護人であった渡辺脩氏の二著もあったに違いない。なければならない。『麻原裁判の法廷から』(和多田進氏との対談、晩聲社、1998年)と『麻原を死刑にして、それで済むのか?』(三五館、2004年)である。もちろん、もっと一般的な関連書でもいい。それらを読めば、松本サリン事件(1994年)や地下鉄サリン事件(1995年)よりはるか以前の坂本弁護士事件(1989年)にこそ、問題究明のカギがあることを知ったに違いない。なぜなら、神奈川県警はこの事件の捜査を徹底的にサボタージュしたからである。発端は1980年代半ばの事件だが、神奈川県警警察官が共産党幹部の自宅の電話盗聴を行なっていた事件が明るみに出た。

坂本氏が属していた弁護士事務所は、この一件で県警を追及する立場にあった。県警は、そこで対抗心から、坂本一家失踪事件に「事件性は薄い」との立場を貫いた。失踪現場には、オウムとの関連性を強く疑わせる証拠物件があったにもかかわらず。江川紹子の言によれば、県警は、坂本弁護士の「借金まみれの逃亡」「大金持ち逃げ」「過激派内部の内ゲバ」などの諸説を一部メディアに漏らしさえしている。

これに劣らず重大なことがある。この事件に加担した信者のひとりは、事件の数ヵ月後、教団と対立し後者を脅す目的で、坂本弁護士らの遺体を埋めた場所を明かす地図を県警に送っている。だが県警は、この「密告者」に対する取り調べも埋葬現場での引き当たりも行なわず、遺体発掘に最も不適切な積雪期に捜索したために遺体発見に至らず、というような信じがたい怠慢捜査しか行なわなかった。遺体発見は、したがって、オウム一斉摘発後の1995年9月であった。「タレこみ」から、実に5年有余の年月が流れていた。その間に、松本サリン事件と地下鉄サリン事件が起こったのである。

問題の本質は、だから、元警察官に「オウム追及まで、あと一歩のところまで来ていたのに」と詠嘆的に語らせるところには、ない。それは、むしろ、本質を故意に歪める効果をもつ。神奈川県警が坂本弁護士事件の真剣な捜査を怠ったことが、二つのサリン事件での膨大な犠牲者を生み出し、また、宗教的な救済を求めていただけの悩める若い信者たちを許しがたい犯罪に走らせる結果につながったのである。この事実が描かれれば、オウム真理教問題の見え方は一変する。NHKの番組は、舞台設定をまったく誤ったと言うべきであるが、ことが警察・検察権力のあり方に深く関わることである以上、私たちはこれを、社会の普遍的な病巣に手を届かせる契機に転化できると考えればよいだろう。

番組は、ひとつだけ重要なことを明らかにした。国軍でもない一民間宗教団体がいかにして技術的にサリン製造に至ったのか。米軍の一高官がそれを究明するために、サリン開発に関わった複数の確定死刑囚との面会を東京拘置所で重ねているというのである。国家としての米国は、やはり、ただものではない。自国の安全保障の観点からみて重要な情報はすべてホワイトハウスとペンタゴンに集中させよ。この気迫を前に、確定死刑囚との交通を厳しく制限している日本の法務当局は、あえなく拝跪したのであろう。神奈川県警といい、日本法務省といい、権力は実に変幻自在である。(6月9日記)

太田昌国の夢は夜ひらく[26]米日「主従」関係を自己暴露する、耐え難い言葉について


『反天皇制運動モンスター』第28号(2012年5月15日発行)掲載

一、「TPP(環太平洋経済連携協定)をビートルズに喩えれば、日本はポール・マッカートニーのようなもの。ポールなしのビートルズは考えられない。ジョン・レノンはもちろんアメリカです。この二人がきっちりハーモニーしなければならない」

二、「自分はバスケットボールのポイントガード。チームワークを重んじる。目立つ選手ではないが、結果を残していく」

前者は、3月24日、日本の現首相がTPP加盟を推進する意向を強調して行なった、東京における講演の一節である。私は、この日、いつものながらでテレビのニュースをつけていて、喩えの出鱈目さに驚倒して耳をそばだてた。全体を聞き取った自信はなかったが、事後的に調べると発言の内容は確かにこうであった。

後者は、4月30日、ワシントンを訪れた日本首相が、米国大統領との会談時に行なった発言だ。これも、いくつかのルートで確認した。バスケットボールに詳しくはないが、ポイントガードとは、知る人が言うところでは、ドリブルして主役にいい球をパスする役割だという。スポーツ競技での役割分担として見るなら麗しいことだが、政治の場で使うべき喩えとは言えない。バスケット好きのオバマの気を惹くために、外務官僚が思いついて首相に焚きつけた文句なのだろう。「主役」は、もちろん、米国大統領であり、共同会見時には首相はその人物を「相手守備に切り込んで得点を稼ぐパワーフォワードだ」とまで持ち上げたという。これに対して大統領は「首相は柔道の専門家、黒帯だ。記者団から不適切な質問が出たら、守ってくれるだろう」と応じたという挿話さえ付け足されている。

私は、民族的義憤とも国民的憤怒とも無縁な人間なので、その種の思いはない。しかし、人間としての、譬えようもない恥じの感覚が、この一連の言葉を聞いて生まれる。自虐的な、あまりに自虐的な! ウィットからも、文学的・芸能的なセンスからも限りなく遠い、おべっかとへつらい。他人事ながら、恥じらいのあまり身悶えるほどである。他人事とはいっても、私が否応なく所属させられている国家社会にあって、政治的代表であることを表象する人物の言動が、これなのである。

その恥じらいは、翌日には憤怒と化す。5月1日付け読売新聞は言う。「大統領選挙まで半年となり、活動の多くを全米各地の遊説に費やしている大統領が野田首相がらみで約3時間の時間を割くのは、首相への期待度の高さを物語る」。同じ記事が、加えて言うには、リチャード・アーミテージ元国務副長官は、仙石由人などの超党派議員訪米団と会見し、歴代首相で誰を評価しているかと問われて(そんな頓馬な質問をする議員がいることも驚きであり、恥じでもあるが)「一に中曽根、二に小泉。その二人に野田は匹敵する。日米同盟の意義を理解しており、消費税やTPPも一生懸命やっている」と答えたという(ワシントン支局・中島健太郎記者)。

どのエピソードからも、「主人と下僕」という関係を内面化している政治家とジャーナリストが記した言葉であることが、否定しようもなく立ち上ってくる。これらは、サンフランシスコ講和条約と日米安保条約が、不可分の一セットで発効した1952年4月28日から、60年目を迎える日々に吐かれた言葉である。

『続 重光葵手記』(中央公論社、1988年)によれば、60年前の日々対米交渉に当たっていた外相の同氏は、那須で天皇裕仁から「日米協力反共の必要、駐屯軍の撤退は不可なり」との「下賜」を受けた(55年8月20日)。駐留米軍全面撤退構想すら持っていた重光は、なぜかそれを取り下げ、今日まで続く「主従」としての米日関係が固定化し始めた。それは、沖縄を切り捨て、日米一体となってそこへの植民地主義的支配を貫徹してゆくことになる節目の日々であった。

沖縄の「役割」を軸にした、自民党政権時にも不可能であった水準の米日主従関係の固定化――私たちが直面している事態は、これである。これへの反発を反米民族主義として表現しないためには、1952年(講和条約+日米安保)→1972年(「復帰」=再併合)→2012年(現在)より射程を伸ばし、1879年(琉球の武力併合)以来の植民地主義史として捉え返すことで、ようやく主体的な問題設定となると思う。(5月12日記)

太田昌国の夢は夜ひらく[25]「海上の道」をたどる軍事力の展開――70年前の史実と、現在と


反天皇制運動『モンスター』27号(2012年4月10日発行)掲載

オーストラリア連邦北部ノーザンテリトリ準州にダーウィンという町がある。ティモール海に面し、オーストラリアのなかではもっともアジアに近い町だ。真珠湾奇襲攻撃から2ヵ月後の1942年2月、日本軍はこの町を空襲した。日本軍がオランダ領東インド諸島(その後のインドネシア)を占領したことに対して、連合国側がオーストラリア北部にある基地から反撃に出ることを封じるための先制攻撃である。日本軍占領によって追われた植民者・オランダ人の一部がオーストラリアへ逃げ、日本軍は続けてティモールをも占領した史実を重ね合せると、確かにオーストラリア北部はアジア多島海の延長上に位置する地勢上の要件を備えていることがわかる。

このダーウィンに、去る4月3日、米海兵隊の第一陣二百人が本拠地ハワイから到着した。昨年11月、豪州を訪問した米国大統領は、豪首相との会談で、ダーウィン近郊の豪軍施設を利用して米海兵隊を駐留させることで合意した。五年後の2017年(ロシア革命百周年! と書いても、虚しくも意味ないか)には2千5百人規模にする計画である。70年前の日本軍の海洋展開を頭に描きながら、中国の「海洋進出」を警戒して仕組まれた米豪軍事協力体制が確立したのである。米国はさらに、豪西部パースの海軍基地の利用拡大や、インド洋の豪領ココス諸島を無人機基地として利用する可能性も検討しているという情報もある(4月5日付しんぶん赤旗)。世界規模での米軍再編は、豪州地域で先行的に展開されている。去る2月の米豪軍事共同訓練には日本の航空自衛隊が初めて参加しており、さらに経済面では日本はオーストラリアにとっての最大の貿易相手国であることを考え合わせると、私たちが日常感覚として持つ「オーストラリアの遠さ」は、為政者たちが取り仕切る政治・経済・軍事の領域での実態とはかけ離れているのであろう。

ここから、二つの問題を考えておきたい。一つ目は「米軍の世界展開」の現状である。昨年末時点での米国防総省の統計に基づいた数字がある(3月25日付朝日新聞)。米国内の基地と領海には122万人の兵士がいる。国外には30万人の兵士が駐留している。合計152万人の兵士を抱え、年間軍事支出は50兆円に上る。特徴的なことを挙げてみる。

一、ドイツに5万3526人、イタリアに1万817人、日本に3万6708人の米兵士が駐留している。欧州とアジア太平洋の枠組みでそれぞれを見ると、いずれも突出した数字である。第2次大戦の敗戦国への「仕打ち」が60年有余以後の今なお継続している。帝国主義間戦争とはいえ、日独伊がファシズム国家であったことから、連合国側は道義的な「優位性」を保持し得たが、その「成果」を米国が独り占めして現在に至っている。

二、アフガニスタンには9万1千人の兵士が駐留している。イラクからは完全撤退したが、クウェートなど周辺地域には4万人程度を残していることからわかるように、原油確保とイランに向けた戦略は十分に担保されている。

三、中南米・カナダの駐留数は1970人とされている。中南米は、かつてなら「裏庭」意識で思うがままに利用してきた地域だが、政権レベルでも民衆レベルでも対米従属を絶ち、自立的な動きが高まった結果と見るべきだろう。東アジア、日本にとって、もって他山の石となすべき教訓だと言える。

二つ目は「北朝鮮が打ち上げる『衛星』に対する破壊措置令」の意図である。部品落下の可能性に向けての措置としては、きわめて異常な警戒態勢が準備されている。沖縄本島、宮古島、石垣島へ地上発射型迎撃ミサイルPAC3を配備したことは、2010年の「防衛計画の大綱」が言及した、中国を意識しての「南西防衛」構想の具体化のための一里塚であろう。日米軍事同盟の下にある限り、この構想は「海上の道」をたどって、冒頭で見た米豪軍事協力体制とも結びつくだろう。

どの国の為政者も、隣国の軍事的脅威を言い募っては、自国の軍事力強化の口実としている。東アジアのこの悪循環を断ち切るために「他山の石」から知恵を得たい。切に、そう思う。(4月7日記)