2013年9月9日
『反天皇制運動カーニバル』第6号(通巻349号、2013年9月10日発行)掲載
仲代達矢の言葉に励まされた。「みんな同じものばかりになったらどうなる? 人と違うものをつくる異端者が、次の世代のためにしっかりしないといけないんです」(八月一六日付け「朝日新聞」夕刊)。出演した最新作『日本の悲劇』に触れての言葉である。映画制作の現場から生まれたものだが、時代状況から見て、普遍性を持つと私には思える。口にするのが、仲代のような「有名人」でなくても、誰であっても、いい。私たちは、いま、このような言葉を欲し、それを自らの内部で確認することが必要な日々を生きているような感じがする。
例えば――本欄では、元東京都知事I・S、現大阪市長H・T、現首相A・Sなどの、人権意識のかけら(ここは「欠片」と漢字で書く方が、言葉の本質が見えやすいようだ)もなく、歴史に無知な連中の言動をたびたび批判の対象としてきた。彼らがその種の発言をしたときには、もちろん、社会のさまざまな場所から、批判の声が上がった(上がり続けている)。人権を尊重する国際的な水準からすれば、そして、地域と世界に生きる異民族同士の相互の関連の中で歴史をふり返り、捉えるべきだという普遍的な立場からすれば、「失格」「退場」でしかない言葉を彼らは吐いたからである。
だが、彼らはいまだに政治の前線にいる。一度は消えたのに、再登場した者すらいる。選挙ともなると、大量得票を得る。すなわち、現在の日本社会の現状では、この傾向を批判する私たちが「少数派」で「異端者」であるかのように、現象している。私にとっては、ずっと以前から「わかりきった」ことではあった。「覚悟」していたことでもあった。いまや、その少数派や異端者をも寛容に包み込む「海」(往年の「前衛主義者」でもあるまいし「人民の海」などという古典的な表現は使うまい)がここまで干上がってきたのである。自分たちの姿を、有明の干潟でのたうつムツゴロウの姿に模してみる。だがムツゴロウには、あの場所で生きる生態的な必然性があろうが、私たちはどうだろうか? その私たちを包囲しているのは、「排外的愛国主義」である。社会的雰囲気としてのこの潮流と、前記の政治家たちの言動とは見合っているから、彼らは「安泰」なのである。
7月29日には、例の麻生発言もあった。桜井よし子が理事長を務める「国家基本問題研究所」のシンポジウムの場に、桜井、田久保忠衛、西村真悟などと共に登壇した時に、である。あまりにも低劣ゆえ、麻生発言の紹介はしまい。後日、麻生は「あしき例としてナチスをあげた」などと弁解したが、元の発言に立ち戻れば、それがまったくの嘘であることは文脈上明らかだ、というに留めよう。問題は、だが、こんな閣僚をすら私たちは即罷免(リコール)することができない状況下にあるということである。
これに先立って4月には、自民党幹事長・石破茂が「改憲成って国防軍が創設された暁には、戦場への出動命令を拒否すれば軍法会議で死刑もしくは懲役300年」と発言した。石破の表現を再現するなら「すべては軍の規律を維持するために」である。石破は、また、災害発生時の非常事態宣言、すなわち戒厳令発令の意図をたびたび語っている。企図されている防衛省「改革」では、これを実現するために、自衛隊の運用業務を制服組の統合幕僚監部(統幕)に一元化する方向が目指されよう。
主要閣僚や与党幹部がこのような「超」歴史的/「超」憲法的発言を次々と繰り出すことによって、この種の「言論」がいまや日常と化した。日常化するとは、それが「ふつうのこと」となること、「当たり前のこと」となることを意味する。それでも、自民党改憲案に基づく改憲へと一気に行き着くことは、「世論」動向を配慮すれば出来ないと知った彼らは、憲法を機能停止させる動きを急速化している。画策されている秘密保全法案は、そのもっとも顕著な表われのひとつである。ここでは、「行政機関の長」と都道府県の警察本部長に、「特定秘密」を扱う者の「適正評価」を行なう大幅な権限が与えられようとしている。
こうして、行政・警察・軍隊という、その本質において「抑圧的」な機構を一体化させて社会の根本的な再編を行なうこと――彼らのでたらめな発言に呆然とし、それを時に嘲笑している私たちの背後に迫るのは、この現実である。(9月7日記)
(追記:本連載のタイトルに因み、藤圭子さんの死を悼みます。)
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2013年8月8日
『反天皇制運動カーニバル』第5号(通巻348号、2013年8月6日発行)掲載
広島県福山市にあるアール・ブリュット専門の鞆の津ミュージアムで、去る4月から7月にかけての3ヵ月間にわたって、死刑囚が描いた絵画の展示会「極限芸術」が開催された。当初は2ヵ月間の予定だったが、好評であったために途中で会期が1ヵ月間延長された。総入場者数は5221人になった。ミュージアムのある鞆の浦は、北前船や朝鮮通信使の寄港地であったことでも名高く、歴史の逸話にあふれた町だが、福山駅からバスに乗って30分ほどかかる場所にある。今回の入場者には、町の外部から来た人が多かったようだが、その意味では、アクセスが容易だとは言えない。そのうえでの数字だから、いささかならず驚く。
展示された300点有余の作品を提供したのは、私も関わっている「死刑廃止のための大道寺幸子基金」死刑囚表現展運営会である。2005年に発足して以降、毎年「表現展」を実施してきたので、昨年までの8年間でそのくらいの絵画作品が応募されたのである(別途、詩・俳句・短歌・フィクション・ノンフィクションなどの文章作品の分野もある)。絵画作品全点の展示会は初めての試みだったが、これは当該ミュージアムのイニシアティブによるものである。会期中に、都築響一、北川フラム、茂木健一郎、田口ランディ各氏の講演会も開かれた。特に都築氏は精力的なネットユーザーで、発信力が高い。その伝播力は大きかったと推測される。
メディアの敏感な反応が目立った。「死刑囚の絵画」という、いわば「閉ざされた空間」への関心からか、テレビ・ラジオ・週刊誌などで芸能人や評論家が観に行ったと語り、やがて複数の美術批評家も「作品の衝撃性」を一般紙に書いた。私は2回訪れたが、今回の展示会を通して考えたことは、次のことである。
一、言わずもがなのことではあるが、「表現」の重要性を再確認した。死刑囚は、いわば、表現を奪われた存在である。社会的に、そして制度的に。その「表現」が社会化される(=社会との接点を持つ)と、これほどまでの反響が起こる。国家によって秘密のベールに覆われている死刑制度が孕む諸問題が、どんな契機によってでも明らかにされること。それが大事である。1997年に処刑された「連続射殺犯」永山則夫氏は、自らの再生のために「表現」に拘った人だが、氏の遺言を生かすためのコンサートは、今年10回目を迎えた。死刑制度廃止を掲げているEUは東京事務所で氏の遺品の展示会を開いて、日本の死刑制度の実態を周知させようとしている。俳句を詠み始めて17年ほどになる確定死刑囚・大道寺将司氏は昨年出版した句集『棺一基』(太田出版)で、今年の「日本一行詩大賞」を受賞することが、去る7月31日に決まった。どの例をみても、死刑囚自らが、自分の行為をふり返った、あるいは己が行為から離れた想像力の世界を「表現」したからこそ持ち得た社会との繋がりである。それによって死刑囚も変わるが、社会も変わるのである。
二、死刑囚の絵画を「作品」として尊重するミュージアム学芸員の仕事であったからこそ、今回の展示会は「成功」した。額装、展示方法、ライティング、築150年の伝統ある蔵を改造したミュージアムそのもののたたずまい――すべてが、それを示していた。
三、「地方」と言われる場合の多い「地域」社会のあり方について。死刑囚の絵画とは、一般社会からすれば、「異形」の存在である。鞆の浦の船着き場、歴史記念館などの公共施設にも、スーパー、喫茶店などの民間店舗にも、この展示会のポスターやチラシが貼られたり、置かれたりしていた。それは、この町の人びとの「懐の深さ」を思わせるに十分であった。特異な地勢の町だが、行きずりの旅行者の観察でしかないとはいえ、寂れているという感じはなかった。私は今年、山陽と道東の市町村をいくつか歩いたが、新自由主義的改革によって地域社会の疲弊が極限にまで行き着いている現実を見るにつけても、その中にあってなお活気を保っている町の例があるとすれば、その違いはどこからくるのだろうという課題として考えたいと思った。
(8月3日記)
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2013年7月9日
『反天皇制運動カーニバル』第4号(通巻347号、2013年7月9日発行)掲載
7月2日早朝、いつものようにパソコンでteleSURを観ていた。ベネズエラのカラカスを本拠に発信されているテレビ放送のウェブ版である。ラテンアメリカの数ヵ国の共同出資で運営されている。情報大国の通信社・テレビ局・新聞社に占有されてきた国際問題に関わるニュースを地元から発信しようとする試みで、私にとってはそれだけでも貴重な情報源である。キューバの「反体制ブロガー」として有名なヨアニ・サンチェスが言うような、それゆえに起こり得るかもしれない情報の一面性や歪み(すなわち、政府広報的な性格)は、その受け手が別な局面で対処すべき問題だろう。
この地域では、いま、かつて圧倒的な影響力を及ぼしていた米国の存在感が薄れ、まさにそれゆえにこそ、「紛争」案件が目に見えて減っている。基本的には平和な状態下で、新自由主義経済政策を批判的に克服し、貧困問題の解決を軸とした社会・福祉政策に重点を置く諸政府が成立している。各国間の相互扶助・協働・友好関係の進展もめざましい。個別に見ていけば、コンフェデレイションズ・カップ開催を批判したブラジルの大規模デモに見られるように、それぞれ重大で深刻な問題と矛盾を抱えていることも事実だが、大局を見るなら、なかなかに刺激的な地域だ。つまり、それは、米国による政治・経済・軍事の干渉さえなければ、ある地域一帯の平和と安定がいかに保障されるか、ということを実証しているにひとしいからである。その意味で、20世紀末以降のラテンアメリカ地域は、世界秩序がどうあるべきかという問題意識に照らした場合に、ありうべきひとつの範例である。
さて、7月2日早朝のtele SURに戻る。天然ガス産出国会議が開かれていたモスクワを発ったボリビアのエボ・モラレス大統領の搭乗機がポルトガルとフランスでの給油のための着陸はおろか上空通過も許可されず、オーストリアのウィーン空港に強制着陸させられたとの急報が報じられていた。そのためにきわめて危険な飛行を強いられた、とも強調されていた。理由は、モスクワ空港の乗継地域に留め置かれていた米中央諜報局(CIA)元職員のエドワード・スノーデン氏が、ボリビアへ向かう大統領専用機に搭乗しているとの噂が流れたせいという。
オーストリア当局は13時間ものあいだ離陸を認めず、そのかん機内捜索を要求し続けているとの続報もあった。ボリビア側はこれを重大な主権侵害だとして抗議したが、最終的にはオーストリアの入国管理当局職員が、同機内にはスノーデン氏が不在であることを現認し、エボ大統領はようやく帰国できた。
2004年に発足したUNASUR(南米諸国連合)はボリビア第二の都市コチャバンバで緊急首脳会議を開き、帰国直後のエボ大統領も参加して、今回の事態について検討した。会議の最後に採択された共同声明は、フランス、ポルトガルに加えて同様な態度を示したスペイン、イタリアなど四ヵ国は「21世紀の今日にありながら、新植民地主義的なふるまいをラテンアメリカの一国に対して行なった」ことに関して、公式に謝罪すべきであると要求したが、スペインは直ちにこれを拒否した。スノーデン氏の搭乗に関して信頼に足る情報があったからというだけで、情報源は明らかにしていない。それが、米国政府筋であることを疑う者はいないだろう。7月5日、南米諸国連合の加盟国であるベネズエラのマドゥロ大統領は、人道主義的な立場からスノーデン氏の亡命を受け入れると表明した。同じ日、中米ニカラグアのオルテガ大統領も、「状況が許せば」同氏を受け入れると語った。
今回の諸事態からは、現代の世界地勢地図がうかがわれて、語弊があるかもしれないが「おもしろい」。諜報・スパイ問題は、もっぱら欧米的な文脈の中で語られている。オバマが居直ったように、どこの国だってお互いに同じ諜報作戦を展開しているのだから「おあいこ」だとする「論理」である(その言い分は、戦時下の「慰安婦」問題をめぐる大阪市長Hの言い分に似通ってくるところが、両者ともに、耐え難い)。その論理を貫徹していくにあたって、欧米では(意識的にか無意識的にか)「植民地主義」がはたらき、その身勝手な世界秩序から排除すべき「第三者」をつくり出していることを見抜くこと。ボリビア、ベネズエラ、ニカラグア――今回の事態の裏側を陰画のごとく浮かび上がらせる国名を観ながら、私の頭には、〈奴らの〉それとは異なる世界地図が描かれていく。(7月7日記)
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2013年6月10日
『反天皇制運動カーニバル』第3号=通巻346号(2013年6月11日発行)掲載
学生時代に愛読した文学者、本多秋五の『物語戦後文学史』(1958年から『週刊読書人』に連載。単行本は新潮社、1966年。現在は岩波現代文庫、全3巻)の末尾に、忘れがたい言葉があった。「批評家よ、戦後文学をその最低の鞍部で越えるな、それは誰の得にもならないだろう」というものである。ことは、戦後文学にのみ関わることではない。いかなる対象物であろうとも、論争の相手であろうとも、そのもっとも低い峰においてではなく、最高の(最良の)地点で越えることを呼びかける声として、私は聞き取った。理想主義にもっともよく憧れる若い時代のことだから、自分はこれを原則としたいものだ、と強く思った。その後、私と同世代の人の文章を読んでいて、本多秋五のこの表現に触れた件を何度か見かけた記憶がある。ひとつの時代を画するほどの、深いメッセージ性を帯びた言葉としてはたらいたのだろう。
従軍「慰安婦」問題をめぐって吐かれ続ける有象無象の政治家や評論家たちの言葉を見聞きしながら、不似合にも、本多のこの言葉をいく度も思い出していた。精神の、倫理的かつ論理的な高みを目指すことのない、「下品な」言葉にそれらは溢れていて、本多が呼びかけた志とは対極にあるものとして、印象が深かったからである。ここでは、それらの耐え難い言葉を再現するのは最小限に留めたいが、この現象には「時代の記憶」として再度触れないわけにはいかない。
大阪市長・橋下徹が十年前に出版した本には、次のような件があるという(5月26日付け東京新聞コラム「筆洗」から重引する)――自分の発言のおかしさや矛盾に気づいたときは「無益で感情的な論争」をわざと吹っかける。その場を荒らして決めぜりふ。「こんな無益な議論はもうやめましょうよ。こんなことやってても先に進みませんから」。
橋下は、まさしく一貫して、この「論法」に拠って生きていることがわかる。詭弁やすり替えを批判して、もしかして有効になるのは、相手がそれを恥じて改める精神を持つ場合だけである。橋下のように、それを自分の特技として誇示するような人間に対しては、有効ではない(橋下ほどのあけすけな語り口は持たないが、元首相K・Jや現首相A・Sも思想的に同根であることは、その発言歴を辿ればわかる)。問題は、今回の問題についての橋下の弁明に納得するという人びとが41%も占めるという「世論」のあり方にある(共同通信6月1~2日調査)。関西のテレビ局がわざわざ「大阪のおばちゃん」を登場させて「あの人、正しいこと言うたはんのに、周りが騒ぎ過ぎちがう?」と言わせるところにある。前号で述べたように、「外圧」に「抗する」快感を生きる「国民」が確実に増えているのである。皮相きわまりない歴史観を披歴し、同時に恐るべき排外主義的な言辞をふりまく橋下などの一握りの政治家が、決して「孤立」しているわけではないという点に、現状の深刻さが現われている。
「最低の鞍部を越える」議論の典型は、「戦場の性の問題として女性を利用していたのは日本軍だけではない」という物言いにある。アメリカ軍も韓国軍も同じではないか、といって「おあいこ」にしてしまいたい心根が透けて見える。これは、第二次大戦において国軍が組織的にこの制度(=性奴隷制)をもったのは、日本とナチス・ドイツだけであったという歴史的事実を捻じ曲げる、根拠なき言い草である。「軍に売春はつきもの」という石原発言はいかにも俗情に阿る物言いだが、「慰安婦は売春婦と同じだ」という水準に問題の本質をすり替えて「性奴隷制」の免罪を意図している。他方、石原たちには「売買春は必要だ」という男社会の「常識」が張り付いている。彼らはこの「常識」を「平時」にも「戦時」にも適用する。後者の時代であれば、食糧や物資が集中する軍隊の周辺に群がって生きるしかない一定の女性たちの「強制された生」には、思いのかけらも及ばない地点で、彼らは発言している。
半世紀前の本多秋五の言葉が持った意味をあらためて捉え返し、議論をまっとうな水準に据えなおして、私たちの歴史観・世界観を鍛えたいと思う6月である。(6月8日記)
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2013年5月13日
『反天皇制運動カーニバル』第2号(通巻345号)(2013年5月14日発行)掲載
5月4日付けの北海道新聞は、「3日に政府関係者が明らかにした」というニュース源で、以下の記事を一面トップに掲げた。現首相は2015年に「戦後70年」の新談話を発表することを目指している。その際、「戦後50年」を迎えて1995年に発表された「村山談話」に盛り込まれた「植民地支配と侵略」を認める文言を使わない意向である。アジア諸国に「損害と苦痛を与えた」「反省とお詫びを表明する」という意味では、村山談話と2005年小泉談話の精神は基本的に引き継ぐものの、「植民地支配と侵略」の言葉は避けて、今後のアジア諸国との友好関係を主眼とする「未来志向」の内容に書き換えたいと考えているというのが、この記事が伝えたことである。
伏線はあった。4月22日の参院予算委での質疑である。首相は、民主党の白真勲議員への答弁で「安倍内閣として、(村山談話を)そのまま継承しているわけではない」「戦後70年を迎えた段階で、安倍政権として未来志向のアジアに向けた談話を出したいと考えている」と語っている。この答弁の裏に隠された真意を探っていたジャーナリストの、いわゆるスクープが、冒頭で触れた道新の記事だったのだろう。
あの男は2年後も政権の座に就いているつもりなのか!――私たちにとっては、悪い冗談としか思えないことも、メディアが行なう世論調査なるものによって高い支持率を得ているからには長期政権が可能だと確信しているらしい本人とその取り巻きには、内心ほんとうに期するものがあるのだろう。前例はある。2001年から06年まで首相であったK・Jも、その新自由主義政策の無責任さにもかかわらず、高い支持率を誇っていた。国会で野党議員が同首相の政策を厳しい言葉で追及すると、当該議員の部屋には「いじめるな」という電話やファクスが、文字通り殺到したと言われた。新聞・テレビも同様であり、それらは、首相に批判的な発言を行なうと抗議の電話とファクスが来るだけならまだしも、購読者数や視聴率の急低下となって如実に反映すると言われたものだった。メディアが権力に対する批判精神を、今までとは格段の差で、急速に失い始めたのは、この時を境にしてであった。
当該の政治家は、もちろん、その言動のすべてにおいて、愚かにも程があるというべき人物だった。メディアの竦み方・怯み方もひどすぎた。だが、なんのことはない、「民意」なるもの、「世論」なるものが、そんな水準で表現される時代が来たのである。そんな時代を作り出してしまったのである。私たちの社会は、派手な言動をする笛吹き童子が現われると、その笛につられて(それが、集団自殺への道だとも知らぬ気に)奈落の底へでも、海の中へでも、喜んでついてゆくようになった。現首相をめぐって立ち現れている昨今の政治的・社会的風景に既視感をおぼえるのは、これが、K・J時代の再現に他ならない一側面をもつからである。
現首相A・Sは、前回首相であったときには、拉致問題と「慰安婦」=性奴隷問題に二重基準を設け、前者の追及には熱心だが後者の国家責任はできる限り低く見せようと腐心することの矛盾を米国政府首脳や同メディアに突かれ、自滅した。日米安保体制に絶対的な信頼感をもち対米追随政策を展開しながら、歴史的には、米国との全面戦争にまで至った戦時過程や他ならぬ米国の主導性にも与かって形成された「戦後レジーム」に関しては米国指導部の意にも反する再解釈を行なおうとすることの、絶対的な矛盾に自縄自縛されたからである。再登場して以降は、当初こそ、官房長官を盾にしたりしながら、本音を公言することはなかった。だが、地金は隠しようもなく、出てきた。「侵略の定義は、学会的にも国際的にも定まっていない。国と国のどちら側から見るかで違う」(4月23日)とまで、A・S自身が語り始めた。これに対して、近隣アジア諸国からはもちろん、欧州メディアや米国議会・政府の元高官・メディアなどからも「懸念」の声が上がり始めている。
問題は、ナショナリズムに席捲されているこの社会は、いま、自浄能力を欠いた状況にあるということである。「外圧」があればあるほど、これに「抗する」ことへの快感を生きるという一定の雰囲気が醸成されており、それがA・Sを支える社会的基盤である。自らの非力を託つようだが、私たちが抱える問題はそこへ立ち戻ると思う。
(5月10日記)
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2013年4月15日
『反天皇制運動 カーニバル』第1号(通巻345号、2013年4月16日発行)掲載
(反原発運動について)――「戦後ここまで日本人が統一したことはない」。
(会場の日の丸について)――「日の丸を見たら身構える世代ですが、今日はそれを掲げる人もいることをうれしく思う」
――3月11日、原発事故から2周年目の東京集会に、私は別件があって参加できなかった。その集会において、前者は大江健三郎によって、後者は澤地久枝によって、それぞれ語られた言葉であることを私が知ったのは、したがって、事後的なことである。二人のこの発言内容は、ネット上の複数の人たちのサイトを照合して、記した。そのうえでの引用だから、この部分に限ってはほぼ正確なものとして解釈することが許されると思う。だが、全体的な文脈を十分にはたどることができないので、壊滅的な批判は控えて、さしあたっての小さな疑義だけを呈しておくに留めたい。
私はふだんから、「私(たち)=日本人」を前提にして主語に据える文章を、滅多なことでは書かない。私が否応なく持たされている「日本人」であるという属性が、私のアイデンティティ(自己同一性)」を規定しているものとして積極的に援用すべき機会は、私にはないからである。止むを得ず、そのことを認めた地点から発言しなければならないことが、まま、あるとしても。ましてや、排外主義的な風潮がここまで社会全体を浸しているとき、「日本人が統一」していることを肯定的に語る原理を私はもたない。「統一された日本人」が「日の丸」によって象徴されていると呼号する人間が実在する社会に住んでいるからには、そんな場所からは明確に区別されたところにわが身をおいて、この社会の行く末を考え、発言する人間でありたいと思うからである。
私自身も、首相官邸付近をはじめとする各所での反原発行動には何度も参加してきているが、そこにいることの「苦痛」を感じた経験も、数回には留まらない。例を挙げてみる。ある夜、現場に遅く着いた私は、首相官邸に最も近い地点にはいるが、それ以上は行かせまいと阻止線を張る警官隊に封じ込まれている数十人の集団のところへ行こうとしていた。次第に近づくと、先頭でメガホンを口に当てた男が「野田内閣を打倒せよー」と、奇妙な抑揚をつけて唱和の音頭をとっていた。その発声は、明らかに、天皇記念日や閣僚の靖国参拝を批判するデモを行なう私たちに、黒塗りの街宣車から、高性能マイクを使って罵倒を浴びせる職業右翼のものにちがいなかった。奴らは、集会の発題者を察知している時には、その固有名を挙げて「打倒せよー」と叫び、「打倒したぞー」と唱和させ、「叩き出せー」「北朝鮮へ帰れー」と叫びたてるのだから、一度その標的にされた者には忘れようもない口調と発声なのだ。ファシズムの匂いがする声と抑揚とでも言おうか。そこに「日の丸」は翻ってはいなかったが、たとえ「反原発」であろうともこの発声には唱和すまいという私の感性は信じるに値するとだけ考えて、私はその集団に背を向けた。
「左右を超えた脱原発、そして君が代」(坂本龍一と鈴木邦男の対談企画に『週刊金曜日』誌2月8日号が付した名称)などという言い草が、論議も論争もないままに、「日本人」内部の了解事項となるとき、その外部にはじき出される者が、必ず存在する。「右」はその本質からして、「左」はその無自覚さにおいて、排除すべき「非日本人」を、このスローガンを通してつくり出すのである。このように「統一された」日本人こそ、恐ろしい。そこに翻る「日の丸」に恐怖を感じる「非日本人」が存在することを感受できない感性は、「日本人の内部」からこそ、疑うに値する。
「反原発」運動の内部には、「城内平和」は求めるが原発輸出には何の関心も示さない傾向が厳に存在する。「反戦・平和」運動の内部には戦後一貫して、「憲法9条」と「日米安保体制」を「共存」させる心性が消えることはなかった。沖縄の現状は、その延長上で担保されている。
「統一と団結」の呼号ではなく「論争ある分岐を!」――私たちが、いつでも、どこでも、依拠すべきはこの原則である。蛇足ながら、ここでいう「分岐」は「分裂」と同義ではない。
(4月13日記)
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2013年2月4日
『反天皇制運動モンスター』第37号(2013年2月5日発行)掲載
ここ数年、「革命の通信」ともいうべき、北アフリカはマグレブの急使が途絶えることがない。広場に集まった群衆の中から、らくだに乗って突撃してきた部隊に蹴散らされた人びとの中から、逃亡した権力者の宮殿を占拠した人びとの中から――急ぎの使者がやってきては、何ごとかを伝えてゆく。
だが、私たちは、それを聞き取る術を持っているのか? 私たちはすでに、ここ十数年来のアフガニスタンとイラクについての報道を経験し、何事をも「イスラム」と括ることで、何か危険なもの、過激なもの、異質なもの――などと仄めかそうとする報道操作に全面包囲されてきた。それから、わが身を分け隔てる知恵を私たちは持っているか? あまりに歪められた「イスラム報道」に接するたびに、わが身は思わず身構える。
今回のアルジェリアの事態についても同じことだ。かつてなら、アルジェリアの急使は豊富だった。フランス植民地軍脱走兵の証言、植民地軍から拷問を受けた少女ジャミラの手記、解放戦線のスポークスパースンだったフランツ・ファノンの諸著作、そしてジロ・ポンテコルヴォの映画『アルジェの戦い』――植民地解放闘争の息吹を伝える急使が数多くあった。だが、1990年代の凄惨な内戦で15万人もの死者を出した記憶も消え去らぬ現在、抗争の当事者であった政府にせよイスラム武装勢力にせよ、適任の急使を外部世界に送ることができない。すでに19年も前にメキシコのサパティスタがインターネットを駆使して行なったような鮮烈な言葉によるメッセージを、今回の「覆面部隊」は発することができないままだ。だが、マリに侵攻したフランス軍の撤兵を要求する言葉だけは明快だった。ここから何がわかるのか? 事態はもはや北アフリカに局限され得ず、西アフリカへと拡大している、ということだ。マリと言えば、数年前に観たモーリタニア映画『バマコ』(アブデラマン・シサコ監督、2006年)は、世界銀行らの国際金融機関がマリに強制した構造調整政策の実態を巧みに告発する内容だった。20世紀末から21世紀初頭にかけて、ラテンアメリカ諸国に続いてアフリカの国々も、先進国と国際金融機関が主導する新自由主義経済政策の支配下にあったのである。この程度の知識でもあれば、天然ガス・プラント問題を通して、開発による利益を地元に還元するルールはどのようにつくられているのか、あるいはいないのかへと私たちの関心は伸びて、犠牲者の哀しい物語だけで終わらせずに、問題の本質的な膨らみへと行き着くことができるはずだ。
他方、新自由主義に翻弄された社会が、いかに構造的に壊れるものであるか。そのことを、小泉改革以降の日本社会の実情に照らして、私たちは学びつつある。経済生活を破壊された底辺層が、相互扶助の精神が相対的に高いイスラムの人びとの「影響下に入る」ことは見え易い道理である。メディアが好んでやるように「アルカイダが聖戦思想をもってアフリカを侵食している」などという側面だけで、事態を捉えるべきではないだろう。
マリの隣国ニジェールには、フランスの原発推進部門が採掘を手掛ける豊かなウラン鉱がある。現在のところ、東アフリカのジブチにしか軍の常駐基地を持たない米国は、去る1月28日、ニジェールへの米軍駐留に向けて同国政府との間に地位協定を結んだと発表した。「北アフリカで拡大するテロ組織に対応するために」米軍は偵察用無人航空機基地をニジェールにつくり、300人程度の要員を駐留させるのだという。またしても、軍事的な対応である。「反テロ戦争」の拡大図を見るために、地図を広げてみよう。アフガニスタン、イラクに始まる「戦線」が次第に西へと拡大し、ソマリアでの「海賊退治」を経て、ついに西アフリカへ至った事実に行き当たろう。それは米国主導の「反テロ戦略」の破綻を意味している。いつでもどこでも軍事に頼る大国のふるまいを「横暴」と捉える非国家組織が同じ手を使って対抗することで、現在の状況がつくられたのだ。
最近、国連事務次長は「ラテンアメリカの経済状況が比較的順調なのは、この地域で武力紛争がほとんどないこと」を理由として挙げた。私はこれを、同地域では米国の影響力が大幅に減退し、その軍事的プレゼンスもほぼ消えて、新自由主義路線を排除して、各国に自主・自立・相互扶助の動きがあるからだ、と読み替える。アルジェリアをはじめ北西アフリカの現実の打開方法を伝える急使は、意外な場所から来るのかもしれない。
(2月2日記)
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『反改憲運動通信』第8期第15号(2013年2月発行)掲載
ラテンアメリカの現代小説の中には「独裁者小説」の系譜とでも名づけるべき優れた作品群がある。いつの時代にか実際に存在したどこかの独裁者をモデルにして、その治世下ではいかに摩訶不思議な支配が貫徹していたものか、どれほどの抑圧が、不条理にも体制そのものと化し、民衆の意識の中にも当たり前のこととして浸透していたか、を作家の想像力もまじえて描くのである。作品それ自体はフィクションとして読まれるべきものであっても、引かれるエピソードは限りなく現実に近いと思われる場合が多い。独裁者に共通するのは、「実際に起こったこと」を「なかったこと」にしてしまう力である。その力は、もちろん、絶対的権力の行使によって担保されている。たとえば、警察と軍隊を動員して数百人の人びとを虐殺しても、そんな事件はどこでも起こらなかったことにしてしまう、というように。時空を異にして読む日本の私たちは、まさかこんなことがあるなんてとか、いくらなんでもフィクションだよねとか、あゝこんな国に生まれなくてよかったとか、日本に生まれて幸せだったなどと、もしかしたら、思ったりするのである。
返り咲くべきではなかった安倍晋三の所信表明演説(2013年1月28日)を読みながら、刊行される都度読み耽ってきたその「独裁者小説」を思い出した。安倍は「独裁者」ほどの大物ではない。ラテンアメリカの軍人政治家なら長けているレトリックの冴えもないから、「美しい国」とか「世界一を目指していこう」とか「強い日本」とか、今どきの小学生も言わないような幼稚で、空疎で、かえって聞く者の顔が赤らむような言葉をしか使えない。その意味でも、あの地の独裁者とは似ても似つかぬ者である。しかし、安倍は、つい2年足らず前に起きて、今なお多くの人びとを現に苦しめ、不安な気持ちにさせている重大な出来事に一言も触れないで所信を語る、という離れ業をやってのけた。「大震災」には触れた。政策的にではなく、被害者の少女の言葉を引きながらセンチメンタルに。だが「原発」の「ゲ」の字も、その演説にはなかった。つまり、原発事故などというものは実は福島で起こってもいなければ、脱原発か原発継続かをめぐって社会を二分するような争いなどはこの社会の何処をさがしても見当たらないと、政治家=安倍は言外に語ったと同じことになる。実際に起こったことを無きに等しいもののように扱うこと――安倍は、その点においてのみ、かの小説群に描かれた独裁者に似通ってくる。
独裁者は、本来なら叩きやすい。独裁下の言論の不自由さを掻い潜って、地下潜行した風刺言論が栄えた例は、古今東西多々ある。だが、独裁制なき日本のメディアはおとなしい。「言論の自由」は、所与のものとして存在しているのではなく、日々の表現実践によって獲得されるものだとの自覚がないのかもしれぬ。「被災」した福島には触れても、それを「原発」抜きで行なうことによって、「あるようでないような」福島をしか、安倍は語らなかった。にもかかわらず、その不誠意を厳しく指弾するメディアの声は小さい。はて面妖な。時たま現われる一部のジャーナリストによる果敢な報道を除くと、マスメディアは巨大な、沈黙のブラックボックスと化したかのようである。それは、人びとをして「あった事実を、ないものと思わせる」には、実に好都合な仕掛けだと言わなければならない。件の小説群に描かれた独裁者と違って、安倍は、表現弾圧の装置なしに、それと同じ効力を持つ「メディアの沈黙」という武器を所有しているのだと言える。
また、安倍晋三は、選挙とは関係のない時期や内向きの会合などでは言いたい放題にしている言動を、選挙演説や国会内では情勢を読みながら封印したりもする。政治家とはそんなものだとは言えるが、安倍の場合はその振幅があまりに激しいので、六年前の前回はそれが命取りになったのである(詳しくは、蓮池透+太田昌国『拉致対論』、太田出版、2009年、を参照。私はこの本で安倍にレッドカードを出したつもりでいたから、その復帰は「衝撃」だった)。今回も、選挙前には公言していた旧日本軍「慰安婦」問題に関わっての河野談話見直し方針は、直ちに米国の主要メディア・政府筋・議会からの批判にさらされていることから、前回の轍を踏むことを避けるためにそれを貫くことに逡巡のさまが見えないではない(1月31日現在)。もちろん、本音は維持しつつ、擬態によって批判をやり過ごすためにだけ。
だが、安倍は、現状のメディアと右派的「民意」の中でかつてほど孤立してはいない。それは、12年末総選挙の結果が示した現状維持派の著しい台頭によって証明されている。この場合の現状維持とは、政治的に言えば、日米安保体制を肯定し、中国・韓国・北朝鮮の「脅威」に対抗するために自衛隊のより一層の浮上を待望し、沖縄・福島は中枢部の犠牲にさらされているという「植民地主義」論に基づく捉え方を歯牙にもかけない考え方の謂いである。それはまた、ペルシャ湾岸戦争以来20数年をかけて、またアフガニスタン、次いでイラクに対する一方的な攻撃の開始以来10数年をかけて世界的に制度化された「反テロ戦争」の「大義」を背景に持つ意識である。
一定の時間をかけて人びとの裡に内面化した意識を変えることは容易なことではない。幼い子どもに向けて乱射された銃の規制を求める声は、自国が他所で日々実践している無人爆撃機による攻撃をはじめとするすべての殺戮を中止する声には繋がらない。自らの生活と実存を脅かす原発を怖れこれに反対する気持ちが、自国の行なおうとしている原発輸出に反対し抗議する声となって広がっていくことは稀だ。
こうして、イラク戦争10年、原発事故2年を経て安倍政権成立にまで至ったわが社会は、独裁制が存在しないのに、メディアと民衆が自ら進んで批判精神を失い既成秩序の護持に堕している点で、傍からは摩訶不思議にしか見えないだろう。私たちが生きているのは、そんな危機の時代である。
(2月2日記)
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2013年1月15日
『反天皇制運動モンスター』第35号(2013年1月15日発行)掲載
昨年の暮れも押し詰まった12月14日、米国東部コネティカット州の小学校を現場にした銃の乱射事件は26人の犠牲者を生んだ。その多くは子どもであった。そのため「クリスマスを目の前にして」という情緒的な反応も含めて、日本でも大きく報道された。オバマ大統領も直ちに記者会見を行なったが、途中で声を詰まらせ涙を浮かべる様子も、事細かに報じられた。大統領は、銃規制の方針を打ち出しているが、もちろん、これに反対する銃ロビー団体=全米ライフル協会(NRA)の動きもあって、前途は予断を許さない。
それにしても、この光景を何度見てきたことだろうか。私の世代なら、60~70年代にベトナムの戦場に派遣されていた帰還兵が、次々と引き起こした乱射事件を思い起こす。生まれついての軍人ではなかったどこにでもいる若者が、兵士になってアジアの人間に対する人種差別意識に基づいた殺人訓練を受けたのちの数年間を戦場で過ごし、やがて帰国できたとしても、彼はもはや、かつて市井に生きていたころの彼ではない。彼は、自らが他国の戦場にいて揮った無制限の暴力を自国へ持ち帰るほかないのである。そのことを、ダグラス・ラミスは「戦争が帰ってくる」と、的確にも名づけた。
今回事件を引き起こした人物は元軍人ではないようだ。だが、3億丁の銃がひしめくと言われる米国社会である。「銃の所有は開拓以来の自主独立精神の象徴だ」とするNRAの主張が、むごい乱射事件が起きたときだけ「銃規制派」に中途半端に転向するオバマ的な人物を含めた広範な人びとの支持をふだんは受けているからこそ、この現実が生まれていると解釈すべきであろう。オバマは、確かに、城内秩序を乱した実行者には怒りを見せ、いたいけな犠牲者を悼んでみせた。同時にオバマは、この同じ銃を、否、殺人能力にはるかに長けたミサイルや無人爆撃機を、「反テロ戦争」の名の下にアフガニスタンやパキスタンやイエメンのような城外では使うことをきょうも指令し続けているのである(つい先日まではイラクでも)。銃を何の疑問も持たずに使用することは、あの社会の人びとの中で、価値として「内面化」しているのだ。「内」で起こった殺人事件に涙を流したその日にも、「外」に向けては殺戮指令を出す人物の偽善性は、そんな社会にあっては、経済合理性に基づいた主張を持つ銃規制反対勢力の現実性を前に、膝を屈するしかない。
その米国と国境を接して南に位置するメキシコからの、二つのニュースに注目したい。ここ数年は麻薬をめぐる暴力事件が絶えることはない。麻薬の最大の消費国=米国があってこそ、それに付け入ったマフィアが、コロンビア、ペルー、ボリビア、パナマなどを原産国および経由国として利用してきたのだが、昨今はその最前線がメキシコに移動したようだ。けだし、米国の暴力性は軍事面にのみ現れるのではない。経済的な消費=供給構造を規定する力にも如実に現われる。だが、ここではメキシコ南東部に目を移して、そこからのメッセージに注目したい。マヤ歴に基づいて「世界終末の日」と騒がれた12月21日、高度消費社会の人間たちが好奇心に駆られて、「過去」としてのいくつものマヤ遺跡の周辺に群がった。同じ日、チアパス州で「現在」を生きるマヤの末裔たちは、4万人から5万人とも言われる老若男女の塊となって、主要五都市の中心広場を沈黙の裡に占拠した。全員が黒の目出し帽を被っていた。19年前に、グローバリゼーションの趨勢に異議申し立てを行ない、武装蜂起したサパティスタ民族解放軍(EZLN)の自主管理区に住まう人びとの群れであった。沈黙の広場占拠と行進によって、19年間に及ぶ持久的なたたかいの現状を表現する象徴的な行為であった。武器は捨てて、政治=生活=文化の全領域でこそたたかいを継続したいというその路線を端的に表現したものであった。マルコス副指令の短いメッセージは言う。「関連するひとびとへ 聞こえただろうか? これは君たちの世界が崩壊する音だ。我らの世界が復興する音だ。その日はかつて日中でも夜であった。そして、夜という日は、いつか日が明けるのだ。民主主義! 自由! 正義!」。いかにもサパティスタらしい修辞ではある。
銃の意味を徹底して考えることを放棄している米国社会。武装蜂起はしたが、当初から武器と戦争のない未来社会の夢想を公言していたサパティスタ――去る12月中旬の二つの対照的なニュースは、いずれも深く示唆的であった。(1月12日記)
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2012年12月3日
反天皇制運動『モンスター』第35号(2012年12月4日発行)掲載
「アメリカへ軍事基地に苦しむ沖縄の声を届ける会」は、2012年1月下旬に訪米団を派遣した。ささやかな旅費カンパを行なった私のもとに、10月30日付けで発行された「訪米団報告集」が届いた(インターネットをお使いの方は、会の名前を入力すると、いくつかの情報源に行き着くことができる)。
冒頭にある団長・山内徳信の文章はのっけから次のように始まる。「日本政府に訴えても聞いてもらえないならば、基地の運用者であるアメリカ政府や連邦議会、アメリカ市民へ訴えよう」と。ここで言う「日本政府」の背後には、これを支えてきた日本社会の「民意」か「世論」が存在しているわけだから、私たちも無傷では読むことのできない文言である。まず、二つの論点をここから引き出しておきたい。沖縄の民衆が持つ日本政府に対する絶望感が、歴代のそれに対して積み重ねられてきたものであることは、戦後史を顧みるなら当然理解できることだ。だが、時期に注目して直接的な要因を探れば、普天間基地に関して「最低でも県外」移設を掲げて挫折した鳩山元首相の一件に由来することは、見えやすい道理である。彼には確かに「政治力の不足」が見られたが、それと同時に見ておくべきは、彼の企図が「辺野古移設を既定路線とする米国側と日本の外務、防衛両省上層部からの反撃」に見舞われたことである(『文藝春秋オピニオン 二〇一三年の論点百』所収の鳩山論文)。この点は私も何度か指摘してきたが、メディアと多数派世論は鳩山の「公約違反」を論うばかりで、外務・防衛官僚上層部によって鳩山案に対する妨害工作が行なわれたことに触れる議論は極端に少ない。ここにこそ、あの事態の本質を見るべきであろう。
ふたつ目は、この事実を自覚したうえでなお、米国から見れば、日本の「国内問題」でしかないものをわざわざ米国まで出かけてきて訴えるのはお門違いではないか、という反応に見舞われるに違いないということである。事実、代表団メンバーの報告を読むと、応対した米国の議員からは、そうした趣旨の指摘が幾度も返ってきている。日本社会の中でそのケリがつけられていないという意味において、この指摘はヤマトの私たちにも痛覚をもたらす。代表団には、その時の居心地の悪さを予感するものがあったと思われるが、それでもなお訪米した意図は何か。参加した糸数慶子によれば「米国内で財政赤字削減計画の一環として国防費の大幅削減が計画され、そのため海外の米軍基地の大幅見直しの動きがあり、米国連邦議会の有力議員や有識者、シンクタンクの中からも沖縄の米軍基地の整理・縮小や在日米軍の再編を求める声が高まり、このタイミングでの訪米は千載一遇のチャンスであった」ということになる。事実、基地支配者である米国政府(国務省、国防省)や連邦議会の上下両院議員、補佐官、シンクタンク、駐米日本大使など62ヵ所にも及ぶ訴えは、かつてない「民衆による直訴行動」であったようだ。
結果は、もちろん、楽観的なものではあり得ない。しかし、真剣な議論もないままに、駐留米軍の「抑止力論」に終始する日本政府・官僚(何度でも書かねばならないが、その背後にあるヤマトの「民意」!)の「無感覚な対応」(山内徳信の言葉)に翻弄されてきた代表団にしてみれば、米国側のそれは「率直で、新鮮であった」という感想を一様に述べている点が注目される。問題提起がなされれば、最後の一線を譲る気持ちはさらさらないとしても、「議論を通してその提起を受け止める」という態度が見られたのであろう。それを「率直で、新鮮」と言わざるをえない心中を察したいと思う。
他方、「琉球弧の先住民族会」のメンバーである親川志奈子は、ジュネーブの国連人権理事会先住民族部会で「先住民族という視座」から、琉球の軍事化や基地被害についての訴えを行なった経験を報告している(『世界』12月号)。『世界』掲載の文章には珍しく、生活と文化に根差した豊かな視点から、「脱植民地化を実践し生きていく」展望を語っている。彼女の文章は「そして問い続ける、沖縄を目の前にして日本人はどう生きるのかと」という言葉で結ばれている。
沖縄での注目すべき動きが、期せずしてか、ヤマトの政府と「民意」の鈍感さに見切りをつけ、世界からの包囲網の形成に向かっている現実に目を向けたい。 (12月1日記)
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