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状況20〜21は、現代企画室編集長・太田昌国の発言のページです。「20〜21」とは、世紀の変わり目を表わしています。
世界と日本の、社会・政治・文化・思想・文学の状況についてのそのときどきの発言を収録しています。

第3回死刑映画週間「国家は人を殺す」開催に当たって


「死刑廃止国際条約の批准を求めるフォーラム90」主催「第3回死刑映画週間」のためのパンフレット(2014年2月15日発行)掲載

いまからもう17年も前のことになるか、「この国は危ない/何度でも同じあやまちを繰り返すのだろう/平和を望むと言いながらも/日本と名のついていないものにならば/いくらだって冷たくなれるのだろう」とうたった歌手がいた。1997年4月23日、在ペルー日本大使公邸占拠・人質事件が、当時のフジモリ大統領の武力発動によって「決着」をみたのだが、その軍事作戦で人質1名、攻撃した兵士2名、ゲリラ14名が死んだ後のことである。救出された人質が乗ったバスの出入り口に立ったフジモリ大統領が、満面の笑みを浮かべながらペルー国旗をうちふる姿を覚えている方もおられよう。それを、日本のメディアは「日本人(人質)が助けられた」と嬉しそうに絶叫するばかりで、他国の死者(この歌では、「救出作戦に当たった兵士2名の死」のことを言っている)には何の関心も示さない形で報道した。歌は、そのことへの危機感の表明であった。この軍事作戦が実施された日付に因んで「4.2.3」と題されているこの曲の作り手も歌い手も、中島みゆきである(曲は『私の子供になりなさい』、ポニーキャニオンPCCA-01191、に入っている)。

言葉を変えるなら、人間の生死に関わることがらを、「日本国民」という内部と「非日本人」という外部に〈ごく自然に〉分け隔てて喜怒哀楽を表現してしまうという、この社会に根深く沁みついている心性の在り方に、歌手は深い危惧を抱いたのである。

私は最近、この歌を幾度となく思い起こす。それは、おそらく、次の二つの理由からきている。ひとつには、現首相や政権与党指導部によって煽動され、草の根の一定の「民意」にまで根を下ろしている偏狭なナショナリズムが、上に触れた17年前のあり方とぴたりと重なり合う傾向を示しているからである。否、ぴたりと重なり合うという表現に留めるのは、正確ではない。「外部」にあるものをひたすら憎み侮蔑し、国の「内部」に凝り固まるこの現象は、いわゆる「ヘイト・スピーチ」に見られるように、醜悪なまでに増長しているのが現実なのである。

ふたつ目は、この国家のあり方と切っても切れない関係にある「死刑」問題の現況からくる。与党幹事長は、上の趨勢を推し進める過程で、「(国防軍)が成立した暁には、戦場への出動命令を拒否すれば軍法会議で死刑もしくは懲役300年」と語った。また、現法相は昨年4回にわたって死刑執行を命じて、計8人の人びとの命を奪った。凶悪犯罪を犯して「死刑囚」になった者と犯罪とは無縁な「一般人」の間に高い垣根をつくって、これを暗黙の裡に認める「民意」がこれを後押ししている。

「国」の内部に固まって、恐るべき言葉を「外部」に投げつける人びと。「死刑囚」や「犯罪者」を遠巻きにして、悪罵の石を投げつける人びと――自らは決して傷つくことのない安全地帯をおいて行なわれているこの行為は、国家が安んじて「人を殺す」基盤を形成する。戦争を通して、そして死刑制度を通して。この社会は、ほんとうに、きわどい地点にまできた。今回上映される8本の映画を通して、この状況を客観視する縁にしたい。

マンデラと第三世界 


『現代思想』(青土社)2014年3月臨時増刊号「総特集 ネルソン・マンデラ」掲載

1、武装闘争

ネルソン・マンデラの死が報じられた日、この国では「特定秘密保護法」なる、驚くべき時代錯誤の法案が参議院で強行採決された。これを主導した首相A・Sは、マンデラ逝去への思いを記者団に問われ、「アパルトヘイト撤廃のため強い意志を持って闘い抜き、国民和解を中心に大きな成果をあげた偉大な指導者だった。心からご冥福をお祈りしたい」と述べた。この発言に限らないが、自らが発する言葉の〈白々しさ〉にこれほどまでに無自覚かつ無神経な人間も珍しい。米国大統領をはじめ欧米諸国の政治指導者からも、マンデラ賛歌の言葉が途切れることなく溢れ出た。それは、あたかも、ネルソン・マンデラを27年間ものあいだ、ロベン島の独房やケープタウン郊外のポルスモア刑務所に閉じこめたアパルトヘイト体制を支え続けていたのが、自らが属する日欧米の20世紀資本主義列強であったことなど知らぬ気の、何の痛痒も感じられない、あっけらかんとした言葉遣いでなされた。

マンデラの全体像のうち、自分に都合のよい一部分だけを切り取った過剰な賛辞が氾濫する中で、各国首脳の弔辞においてもメディア報道においても、徹底して無視されているいくつかの史実に注目すること自体が意味をもつだろう。

ひとつ目は、マンデラの初期の出発点を「非暴力主義」の殿堂に封印するのではなく、結果的には未完に終わりはしたが、同時代のフランツ・ファノン、パトリス・ルムンバ、ベン・ベラ、クワメ・エンクルマ、アミルカル・カブラル、そしてチェ・ゲバラなどが、個別にではあったが多様な形で構想していた「アフリカ革命」へと向かう、解放の思想と運動の大きなうねりの中に位置づけることである。同時に、彼が生涯もち続けた「非暴力主義」の信念にもかかわらず、次のような一時期をもったことを、その閲歴の中に刻印することである。

1961年12月16日、南アフリカはジョハネスバーグとポート・エリザベスの発電所、郵便局、官庁など10ヵ所で同時爆発事件が起こった。それと同時に、各地で武装抵抗組織「ウムコント・ウェ・シズエ(民族の槍)」の創設を宣言するビラが貼り出された。前年の1960年3月21日、ジョハネスバーグ南の工業都市フェレニギア郊外のシャープビルでは、アパルトヘイトを支えるパス法の廃止と最低賃金を要求する5000人ほどの人びとが集まっていた。そこへ、警備の警官隊が突然発砲した。発砲は複数回続き、最後は狙い撃ちで、69名が即死、186名が負傷した。平和裡に行なわれていた示威行動が、このような仕打ちを受けたことが、伝統的に非暴力主義を堅持してきたアフリカ民族会議(ANC)が武力闘争に転換した大きなきっかけとなった。武力闘争が行なわれた日の声明は述べている。「われわれは、流血と内戦なしに解放を達成しようと終始努力してきた」が「人民の忍耐には、かぎりがある。いかなる国民の生活にも、ただ二つの選択――屈服か戦いか――以外にない秋がくる」。

マンデラは、のちの法廷で陳述するように「ウムコント・ウェ・シズエの創設を手伝った一人であり、1962年8月に逮捕されるまでは、そこで指導的役割を果たしていた」。

しかも、マンデラは、ウムコントの活動開始から1ヵ月足らずの1962年1月、南アフリカを密出国し、エチオピアのアジス・アベバで開催された「中央・東・南方アフリカのパン・アフリカ解放運動(PAFMECA)」会議に地下のアフリカ民族会議を代表して出席している。1960年の西アフリカ地域での旧フランス領植民地17ヵ国の独立、アルジェリア解放闘争の進展などを具体的な背景として、確かにこの時期には、「アフリカ革命」が「後退不可能な状況」を創り出している(これは、フランツ・ファノンが『革命の社会学』で用いた表現である)という状況認識が、解放・革命のために活動する人びとの中でひろく共有されていたことが分かる。会議への出席以外にも、マンデラはいくつかの任務を果たしている。アフリカ諸国を回りゲリラ兵の訓練基地をつくること、闘争資金を獲得すること、解放後に行政任務を担う若者の留学を要請すること、などである。マンデラがこのような構想を共に担う、総体としてのアフリカ解放運動の枠内にいたこと、この事実を確認することが、1960年代初頭の時代認識として決定的に重要だと思われる。

ふたつ目は、マンデラがキューバやパレスチナに対して抱いていた思いを浮かび上がらせることである。マンデラは監獄から釈放されて間もない1991年、革命記念日の7月26日にキューバを訪れている。キューバは1975年から91年にかけて総計42万5000人に及ぶ兵士を、南アフリカ共和国の近隣国・アンゴラに派兵している。長い闘争の果てにポルトガル領植民地から独立を遂げた社会主義国・アンゴラに、まだアパルトヘイト体制下にあった南アフリカ共和国政府は兵を送り込み、体制の転覆を企てた。近隣国における革命的な高揚は、自国のアパルトヘイト体制をも揺るがす可能性を秘めていることを、彼らは敏感に察知したのである。内戦も激化し、アンゴラ政府は友好国・キューバに派兵を依頼し、これにキューバ政府が応えて支援部隊を派兵した。この派兵問題については多角的な観点から検討したい重要課題がいくつもあるが(そのための萌芽的な問題提起を、私は1998年に書いた「第三世界主義は死んだ、第三世界主義万歳!」で行なった。『チェ・ゲバラ プレイバック』所収、現代企画室、2009年)、それは別な機会に譲り、ここではマンデラの観点からのみ書くに留めたい。

マンデラは、キューバ革命が帝国主義による度重なる妨害を克服して、とりわけ医療、教育などの分野で重要な成果を上げていることを強調した後で、キューバが一貫して国際主義的な任務を果たしていることに注目している。とりわけチェ・ゲバラの革命的な遺訓に触れて、「他ならぬ我が大陸における活動も含めて、あまりにも力強いものだったので、検閲に勤しむ獄吏といえどもすべてをわれわれから覆い隠すことはできなかった」。

「にわかには信じられないような規模のキューバの国際主義者たちが、アンゴラ人民支援のために派遣されたと最初に聞いたとき、私は獄中にいた。アフリカにすむわれわれは、いつも、われらが領土を侵略したり主権を転覆しようとしたりする国々の犠牲にさらされてきた。われわれを擁護しようとする、他地域の人びとがいたなどとは、アフリカ史上初めてのことである」。アパルトヘイト体制がアンゴラに派遣した軍隊をキューバの部隊が打ち破ったキート・クアナバールの戦闘が、アンゴラの勝利とナミビアの独立にとっての決定的な要素であったことを強調した後で、同時にそれは「白人抑圧者の不敗の神話を打ち砕く」ものであり、「南アフリカの内部でたたかう人びとを鼓舞した。あそこで人種差別の軍隊が敗北したからこそ、われわれは、今日、こうしてここにいるのだ」。キューバ兵のアンゴラ派兵に関しては 先に述べたように、私には総合的に分析したい問題が残っている。しかし、マンデラからすれば、それは、南アフリカ民衆がアパルトヘイト体制から解放される道を、速度を速めて用意したのである。

パレスチナ解放闘争に寄せた支援も含めて、マンデラの思想と実践には、このように、日欧米諸国の首脳には本質的に受け入れがたい性格のものが確固として貫いている。それを明確に押し出し、彼らによる囲い込みからマンデラを救い出すこと。それが、ここでの第一義的な課題となる。

2、真実究明・赦し・和解

20世紀に現実に存在した社会主義体制(あるいは、社会主義を自称しないとしても、第三世界のいずれかの国がいわゆる民族解放なり独裁体制打倒を成し遂げた後の体制)下で生じて、私の関心を惹く問題のひとつは、それが旧体制の指導部をいかに処遇したかということである。とりわけ、民衆および反体制活動家に対する弾圧を指示・命令した大統領や首相、弾圧の先頭に立った軍隊と警察の治安部隊員に対して。

作家・埴谷雄高は、政治の本質を考察した文章で次のように述べている。

これまでの政治の意志もまた最も単純で簡明な悪しき箴言として示すことができるのであって、その内容は、これまでの数十年のあいだつねに同じであった。

やつは敵である。敵を殺せ。

いかなる指導者もそれ以上卓抜なことは言い得なかった。

「政治のなかの死」(『中央公論』1958年11月号)

私は、1969年に始まり70年代じゅう続いた、いわゆる新左翼党派間の陰惨きわまりない「内ゲバ」の実態をメディア報道で見たり、当該党派の機関紙でその「赫々たる戦果」が高揚した調子の文章(それは、革命軍の「軍報」と呼ばれていた)で書かれていたりするのを読んで、胸も潰れる思いを抱えていた。私は、それらの党派の発想や行動に共感を覚える立場にはなかったが、それにしても、「社会革命」の初心から始まったはずの活動がそんな地点へ行き着いていることへの絶望感は感じていた。

だが、同じころ、たとえば、ボリビアの小さな村の農民、オノラト・ロハスの死の報を知って、「それは当然だろう」という思いを私が抱いていたことを隠すつもりはない。1967年、オノラト・ロハスは、自分が住む村の周辺に見かける「怪しい人間たち」の存在を政府軍に通報した。それは、チェ・ゲバラ指揮下のゲリラ隊員であった。これをきっかけにボリビア政府軍はゲリラ隊への包囲網を狭め、次第に彼らを「敗北」へと追い込んでいった。のちに、残存していたゲリラ隊員たちがオノラト・ロハスに対する報復的な処刑作戦を実行した報に接して、当時の若い私は上記の感想を抱いたのである。

だが、考えてみれば、オノラト・ロハスは、ひとりの貧しい農民であった。遠く離れた国に住む私が、その生活の実態も知らずに、イデオロギー的な立場から「やられたら、やりかえせ」とばかりに断罪できるようなことがらではなかった。私がこのような陥穽から抜け出るきっかけとなった理由はいくつかあるが、わけても、1979年以降、革命のニカラグアから届いたひとつのニュースは印象的だった。政権に就いたサンディニスタが、旧独裁政権時代の弾圧や拷問の実行者たちを前に、死刑を廃止するという宣言を行なったというのだ。古参のゲリラ兵で、革命後は内相の座にあったトマス・ボルヘの言葉によって説明してみる。「戦いが終わって、私を拷問した者が捕えられたとき、私は彼らに言った。君らに対する私の最大の復讐は、君らに復讐しないこと、拷問も殺しもしないことだ。私たちは死刑を廃止した。革命的であるということは、真に人間的であるということだ。キリスト教は死刑を認めるが、革命は認めない」。ニカラグアではさらに、もっとも長い刑期は30年、受刑者によっては塀も鉄格子もない解放農園に「収容」される者もいるという行刑制度の改革が行なわれたのである。

私は、旧体制の指導者と内部の反対派の粛清の物語に満ち溢れたソ連および中国型の社会主義に対する、深い疑問と批判を抱いてきた。それだけに、1974年、ソモサ独裁体制下での訪問以来深い関心を持ち続けてきたニカラグアにおける革命が、このような新しい次元を切り拓いていることに感銘を受けた。

それから20年後、アパルトヘイト体制を廃絶して新しい社会への歩みを開始した南アフリカからも、瞠目すべきニュースが届いた。民主化後、同国では「真実和解委員会」が結成された。目的は、アパルトヘイト時代の「重大な人権侵害」に関して、これを裁判で「裁く」ことではなかった。加害者・被害者双方の証言を基に事実を解明すること、それを公に承認して記録すること、犠牲者に補償を行なうこと――これを通して、長いあいだ続いた人種差別主義の歴史に終止符を打ち、もって全社会的な和解を実現すること。これである。注目すべきことには、免責規定もあった。加害者が出頭して、自らが犯した犯罪と、組織的な背景を告白するならば、刑事責任を免れることができるというのである。

真実和解委員会の構想が初めて生まれたのは、白人政府によって長いこと非合法化されてきたアフリカ民族会議(ANC)が合法化され、白人政府との間で新たな政治体制に向けての交渉を行なう準備過程においてだった。ANCは、公の組織として登場できるようになった段階において、自らが反アパルトヘイト闘争を展開するために国外に維持してきた軍事キャンプにおいて拷問や虐待が行なわれていたという告発にさらされた。マンデラを引き継いで、のちに大統領に就任するターボ・ムベキの証言によれば、ANC内部には、もちろん、「(アパルトヘイト体制の中枢にいた)極悪非道な奴らを一刻も早く捕まえて死刑にしろ」との声が渦巻いていた。だが「もしそのようなことを行なったなら、平和で民主的な社会へと生まれ変わろうとすることなど到底出来ないことにわれわれは気がついたのだ。もしアパルトヘイト体制の責任者たちをニュールンベルグ裁判の形で裁くようなことをしていたら、我々は平和的な国家へと移り変わる経験をすることは出来なかっただろう」。

この変化には、ANCが内部調査委員会を設立して、まずは自組織内部で起きた人権侵害事件の調査を被害者からの聞き取りを通して行なったことが大きな役割を果たしたと思われる。証言者たちが望んだのは復讐ではなかった。むしろ、真実を明かし、犠牲となった愛する者の思い出が傷つけられたり忘れ去られたりすることがないこと、悲惨な出来事が二度と起こらないこと――これであった。軍事独裁政権が長く続き、その下での深刻な人権侵害事件が多発したチリ、アルゼンチン、グアテマラ、エルサルバドルなどでは、すでに真実究明の努力が始まっていた。隠されていた真実には「社会を浄化する力」があることを、南アフリカの人びとは、これらの具体的な例から学んだ。

真実和解委員会における被害者の、とりわけ女性たちの証言には、内容的には深刻だが、ひろく人間社会全体に通じる、無視しがたいものが孕まれている。「女性が自らの状況を語るというよりは、夫、父、兄弟や息子などの家族や友人に起こった出来事を語ることが多く、社会全体がジェンダー規範により女性を第二次的存在としてとらえていたことを示している」「家父長制のもとで男性が公的領域の活動、つまり政治活動をし、女性は私的領域である家庭で責任を負い、男性を支え、自らを主張しないという〈沈黙の文化〉が内在化している」「反アパルトヘイト運動を担った男性指導者からも性暴力を受けていた実態が明らかになった」(楠瀬佳子)。これらは痛切な思いを引き起こす証言だが、ここまで踏み込んだ、内在的な証言が生まれたことによって、南アフリカにおける「真実和解」の道は地に足のついたものになり得たのだと言える。

ここには、人間の社会が無縁のままでいるわけにはいかない「罪と罰」という問題をめぐって、従来のように加害者を「裁く」のではなく、被害者の傷を「修復」することに重きを置いた、真剣な取り組みが見られる。試行錯誤には違いない。だが、これが果てしのない「復讐」と「報復」の連鎖を断ち切る、一つの方法であることは否定できない。

本稿の冒頭で、私は日欧米各国の政治指導者たちが口にしたマンデラ追悼の美辞麗句の〈白々しさ〉に触れたが、この文脈においてみると、事態ははっきりする。被害者が寛大にも「裁き」を求めず「免責」の手を差し伸べている一方、アパルトヘイト時代の加害者がそれをよいことに、自らの罪を「自白」せず、「赦し」も乞わず――すなわち、「修復」のための努力をいっさいすることもなく、マンデラの「聖人化」に励むばかりであったというのが、あの言葉の本質であったのだ。これは、真実和解委員会が調査の対象を、もっぱら南アフリカ国内で行なわれた人種差別的な犯罪行為に限定したことからも、きているように思われる。「アパルトヘイトが植民地主義の極端な形態であり、その歴史的起源がはるか以前にあるにもかかわらず、委員会は、広く植民地主義のもとでの暴力や不正義を扱うことはしなかった。今日の南アフリカ国家は、イギリスの植民地支配の歴史を根本から問うことにつながる調査を避けたのである」(永原陽子)。後者の課題を追求するためには「国際法廷」的なものが当然にも必要となり、おのずと、真実和解委員会とは性格を異にした組織を必要としただろう。それがなかったために、アパルトヘイトの犯罪に南アフリカの国境の外から加担した「先進諸国」の首脳たちは、自らを問うことなく、安心して「穏健主義者」マンデラへ賛辞を浴びせたのである。

国内での「和解」を優先課題に据えて始まった、新しい社会の建設過程においては、問題の本質からして、それは一国では担いきれない課題であったのだろう。この課題は、その後、国際的な場において取り上げられることになる。2001年8月~9月、他ならぬ南アフリカのダーバンで開かれた「人種主義、人種差別、排外主義、および関連する不寛容に反対する世界会議」において、である。私はここに、南アフリカの真実和解委員会の経験に学びながら、植民地支配・奴隷制度・人種差別主義などの諸問題を、避けることのできない人類普遍のそれとして設定しようとする、国境を超えた努力の成果を見る。私たちは、歴史の鼓動をここに確かに聞き取っているのである。この課題は、何よりも当事国(民族)間同士での「対話→真実追求→謝罪→赦し→和解」の過程をたどらなければならないが、それを側面から援助する国際的な普遍的原理の確立が求められるのだろう。

南アフリカに戻るなら、重要なことは、この問題の追究の過程において、ネルソン・マンデラがひとり屹立して主導しているわけではない、ということである。むしろ、ANC指導者としての彼は、デズモンド・ツツ大主教から、一般市民の死傷者が生じたANCによる南アフリカ空軍本部爆破事件の現場で公式に償いをするよう求められもしている。「真実和解」のこの過程は、多くの人びとと組織の協働によって担われた。そこに最も注目すべき性格があるように思える。

3、新自由主義への拝跪

本稿では、まず、1960年代初頭におけるネルソン・マンデラたちの闘争が、アフリカ大陸南端部に孤立したものではなく、「アフリカ革命」という、闘争の担い手たちによって当時は共有されていたリアリティに基づいて展開されていたことを見た。次に、アパルトヘイトを廃絶したのちに、多くの疑問や批判も受けながら試みられている「和解」のための努力の意義を、その「限界」も見据えながら確認した。紙数は尽きたが、残るのは、「解放」後の社会・政治・経済過程をいかに見るか、という問題である。私が今回参照できたのは、資料としてはわずかなものでしかないが、ここには当然にも、解放後・革命後の第三世界諸国のいずれにしてもが、決して免れることのできなかった問題が立ちはだかっている。南アフリカは、旧宗主国、多国籍企業、国際金融機関、「先進」諸国によって経済的に包囲されているという現実である。世界有数の投資家、ジョージ・ソロスは2001年のダボス経済フォーラムにおいて「南アフリカは国際資本の手中にある」と語った。人種アパルトヘイトは終わったが、いまや南アフリカは「経済アパルトヘイト」の下におかれていると皮肉って、一向に改善されない経済格差を指摘する声もある。もちろん、これらは、南アフリカ一国が背負うには過重な重荷である。世界の貿易秩序と国際的な経済秩序の対等性、多くは第三世界に存する天然資源の開発をめぐる公正な関係――その確立に向けた協働の努力が実ってこそ、の課題である。多国籍企業や国際金融機関や「先進」諸国の側から、従来の不平等性を「修復」する動きが起こってはじめて、この問題は解決の端緒につく。「修復」という問題は、ここでも重要なものとして浮上してくるのだ。

最後に、マンデラの、既存のありふれた政治家と変わらぬ姿も確認しておこう。1994年、首相就任間もないマンデラは、国連による対南ア武器禁輸が解除された直後に、南ア軍需産業は「もはや秘密の幕に隠れて行動する必要はなくなり、国内外の完全な合法性を得るだろう」と語った。国有兵器公社アームスコールが「平和と安全に貢献する武器輸出」を保証する自主技術を開発したことを称賛した(「赤旗」1995年1月7日付)。7万人の雇用を生み出す、同国最大の機械輸出産業である南アの軍需生産を簡単に縮小できるものでないことは、誰にでもわかる。だが、マンデラのこの「現実主義」的な側面が、日欧米諸国の首脳にとっては安心できる場所であるという「構造」は、同時に見据えておく必要があるだろう。その意味でも、マンデラを彼らの空虚な賛辞の網から解き放ち、現代世界が直面する困難な課題を共に考え、その解決を模索する場所へと招き入れる必要があるのだ。

【付記】本稿で引用しているマンデラの言葉は、野間寛二郎『差別と叛逆の原点――アパルトヘイトの国』(理論社、1969年)と、1991年キューバ訪問時の演説内容を伝える複数のインターネットサイトなどに拠っている。ニカラグアについては、現地を取材した野々山真輝帆「サンディニスタ――革命と殉教のはざまで」(『世界』1986年6月号)、「ニカラグア――二つの到達点から見た現実」(『朝日ジャーナル』1987年4月10日~同17日)に拠っている。他にも、峯陽一『南アフリカ――「虹の国」への歩み』(岩波新書、1996年)、楠瀬佳子「女たちの声をどのように記憶し、記録するか――真実和解委員会と女たちの証言」(宮本+松田編『現代アフリカの社会変動』、人文書院、2002年、所収)、アレックス・ボレイン『国家の仮面がはがされるとき――南アフリカ「真実和解委員会」の記録』(第三書館、2008年)、阿部利洋『真実委員会という選択――紛争後社会mの再生のために』(岩波書店、2008年)、永原陽子編『「植民地責任」論――脱植民地化の比較史』(青木書店、2009年)、アンキー・クロッホ『カントリー・オブ・マイ・スカル――南アフリカ真実和解委員会〈虹の国〉の苦悩』(現代企画室、2010年)などを参照し、一部を引用した。

社会全体に浸透した排外主義的風潮の中で


『支援連ニュース』(東アジア反日武装戦線への死刑・重刑攻撃とたたかう支援連絡会議、第365号、2014年1月25日発行)掲載

虚しさに耐えながら、いわゆる右翼の言論誌を熱心に読み、そこで展開されている議論に対する批判を書き続けていたのは、1990年代だったか。文藝春秋の、いまはなき『諸君!』と産経新聞社の『正論』に掲載されている文章を相手にして、である。その後、社会総体が「右傾化」を確実に深めるにつれて、この手の雑誌は増え続けた。いま、駅前の小さな書店でさえ、雑誌コーナーにはそんな雑誌が小山をなしている。

私がこの種の雑誌の立ち読みを始めたのは1980年代前半だった。私は学生時代に、竹内好や村上一郎や橋川文三などの著書を導きにして、日本の右翼思想に触れていた。そこでは、私には同意もできず共感をおぼえることもできないことが、さまざまに展開されていたが、にもかかわらず、それを思想書として冷静に読むことは可能だった。ここを潜らなければ、近代日本が抱えた暗闇を理解することはできない、などと考えながら。

戦後も40年近くを経た段階で右派雑誌に現われた言論は、それと好対照をなしていた。

ただひたすらに、罵倒と罵詈雑言だけがそこにはあった。誰に対して? 国内の左翼に対して、そして、近隣のアジア諸国に対しての――歴史意識も、論理も、倫理も持たずに、「仮想敵」に対する悪罵に満ちた議論が商業雑誌上で大手をふってまかり通っていることに、私は「異様な」なものを感じたのである。日本国内の「進歩的知識人」や左翼に対してなら、どんなに汚い言葉で批判しても、まだしも、よい。だが、「外」に向かっての、この悪意の深さはなんなのか? 底知れぬ憎悪と悪意の根拠はなんなのか? 見過ごして、いいものだろうか? 学生時代に私が読んだ右翼の思想書には、「日本文化・歴史中心主義」は確固としてあったが、他者存在に対する悪罵はなかった。自国文化中心主義は、否応なく「排他性」をもつものだから、その点を批判的に読めばよかった。

1980年代から90年代にかけて現われた事態は違っていた。私は見過ごすべきではないと考えて、立ち読みで済ませることを止めて雑誌を買い求め、彼らが何を言っているかを紹介しながら批判を始めたのが、1990年前後だったのである。だが、市民運動の小さな機関誌に私が書くものなぞ、蟷螂の斧に等しいものだったろう。それから20数年が経って、現在の状況にまで立ち至った。

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現在のこの傾向には、いますぐにも隣国との間に戦火を交えよ、と煽動するかのような見出しが新聞広告に踊る週刊誌も加わる。産経新聞と読売新聞などの新聞メディアも加勢する。そして、体制批判的な言論人をことごとく排除した地点で成り立っているような、テレビの報道番組なる茶番劇が、この一連の情報包囲網を完成させる。そこへ政治的に登場したのが現首相A・Sであり、社会的に登場したのが在特会である。前者の第一次政権が成立したのは2006年だった。後者は2007年に社会的に公然化した。社会の最高の政治権力者である首相に、自分たちの排外主義的な思いを代弁してくれるような思想を持つ人物が就任した。違いは、あからさまにそれを語るか、それともオブラートに包んで語るか、にしかない。この事実は、在特会に大きな安堵感・安心感をもたらすものであり、自分たちが「社会的に認知された」と考えたのではないか。

得意の絶頂にあったA・Sは、わずか一年で政権の座を降りた。降りざるを得なかった。だが、3年間に及んだ民主党政権の不甲斐なさと、それを受けての自民党内部の権力争いに関わる事情から、2012年末、A・Sは首相に返り咲いた。これにふたたび勇気づけられたのか、在特会はその翌年の2013年、それまでは右に触れた右翼雑誌上にだけ留まっていた(インターネット時代を迎えた20世紀末からは、ネット上にも溢れていることは、付け加えておきたい)、外部の「仮想敵」に対する憎悪表現を社会的に「解き放った」。街頭で、民族排外主義のスローガンを公然と叫ぶ、いわゆる「ヘイト・スピーチ」によって、である。首相A・Sは国会答弁でこの在特会のふるまいに眉をひそめてみせたが、近代日本の歴史過程に関わる彼の言動の「本音」を見れば、両者はそれほど違わない位置にあることは、先にも述べたように、誰にでもわかることだろう。

この「空気」は現在行なわれている都知事選挙にも表れている。自民党都連がこの選挙において、元厚生労働相M・Yの支援を決めると、「自衛隊元航空幕僚長T・Tこそが現首相A・Sの立場に近いではないか」と主張し、支援先の変更を求める抗議のメールが多数寄せられているというニュースである。(もっとも、「T・T=A・S」という等式は、国際的には知られてはまずい「特定秘密」かもしれぬ。)

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これらすべてのことは、ひとしく物語っている――ひと握りの、愚かな保守政治家だけが諸悪の根源なのではない。社会全体が、何かの感情に駆り立てられるようにして、生き急いでいる。そのような時代が始まっているのである。そのとき「国民」内部の団結を求めるならば、その拠りどころが偏狭な民族主義になることは目に見えている。他者(他国)にひたすら悪罵を投げつけること、国内にありながらそれに付和雷同しない者がいるならそれを炙り出し、抑圧すること、これである。

繰り返し確認しなければならない。30年前、税金によって生活が保障されている国立大学教授も含めた極右の者たちが、目を疑うような悪煽動の排外主義的文章を『諸君!』誌などに発表し始めたとき、それは奇矯に見えないことはなかった。あくまで少数の復古主義者たちの心を捉えるに留まるであろう、あまりに愚かしい議論にしか思えなかった、という私自身の当時の印象も書いておこう。それは、いつしか、保守政権党内部に浸食し、リベラル派を根絶やしにしてしまった。そして、いまや、社会的にも浸透し、この社会の「雰囲気」を大きくつくり変えてしまった。この現象を、私は昨年来「〈外圧〉に抗することに〈快感〉をおぼえる」雰囲気と呼んでいる。「外部」からの批判があればあるほど、それを利用して、ナショナリズムが沸騰するのである。

2014年初春――私たちが直面している現実は、このようなものである。相手が盤石なわけではない。あまりに「極右」の道をゆくA・Sを警戒する動きが、都知事選挙などを通して、保守政治・経済の世界でも蠢いている感じがする。最近、天皇・皇后が憲法に関わる発言を何度か行なっているが、その中身を読み取ると、A・S路線への警戒心が透けて見える感じもする。「外圧」は近隣諸国のみならず、首相が頼みの綱とする、大洋の彼方の超大国からも押し寄せている。

そして最後に。以下は、この間の私の持論だが、現在の「敗北状況」をもたらした責任の、小さくない一端は、広い意味での「進歩派」と「左翼」の理論と実践の在り方にある。

それが何であり、いかに克服するかをここで述べるには、紙数が尽きた。すでに機会あるたびに触れており、今後もそのための試行錯誤を続けたい。(1月23日記)

太田昌国の、ふたたび夢は夜ひらく[45] 対立を煽る外交と、「インド太平洋友好協力条約」構想


『反天皇制運動カーニバル』10号(通巻353号、2014年1月14日発行)掲載

首相の靖国神社参拝に「失望した」との考えを表明した在日米国大使館に対して、「米国は何様のつもりだ」という抗議のメールが多数寄せられているというラジオ・ニュースを年明けになってから耳にした。いわゆる振り込め詐欺をテーマに『俺俺』という秀作を書いた作家の星野智幸は、2、30年ぶりに旧友たちと会うと、声、性格、たたずまいなどにおいてお互い「変わらないなあ」という過去との繋がりが見えてくるのに、話題が韓国や中国のことに及ぶと一変し、相手国へのあからさまな嫌悪と侮蔑の感情を示しては国防の重要性を説く人が少なからずいることに打ちのめされた、と書いた(2013年12月25日付朝日新聞)。昔は政治に何の関心も示さず、ナショナリスト的な傾向の片鱗すら持たなかった人に限って、と。

私は昨年の当欄で、日本の現状を指して『「外圧」に抗することの「快感」を生き始めている社会』と書いたが、上の二つのエピソードは、確かに、そんな「気分」がすっかり社会に浸透してしまったことを示しているようだ。この「気分」の頂点にいるのは、もちろん、現首相であり、政権党幹部たちである。靖国参拝を行なって内外からの厳しい批判にさらされている当人は、年明けのテレビ番組で「誰かが批判するから(参拝を)しないということ自体が間違っている」と語っている。かつてなら(第一次内閣の時には)、安倍自身が、「大東亜戦争の真実や戦没者の顕彰」を活動方針に掲げる「日本会議」(1997年設立)や、靖国神社内遊就館内に事務所を置き、天皇や三権(国会、内閣、裁判所)の長の靖国参拝を求めている「英霊にこたえる会」の主張するところにぴったりと寄り添ってふるまうことは避けていた。本音では同じ考えを持つ者同士だが、7年前の安倍には、首相としての立場を表向きだけにせよ弁えるふるまいが、ないではなかったのである。それが、極右派からすれば、安倍に対する不満の根拠であった。

政権党幹事長・石破茂の暴走も停まらない。昨年は、「自衛隊が国防軍になって出動命令に従わない隊員が出た場合には最高刑は死刑」とか「単なる絶叫戦術はテロ行為と変わらない」という本音を言ってしまった。年明けには「(集団的自衛権の行使容認に向けた)解釈改憲は絶対にやる」と公言している(私はテレビ・ニュースを見ないので、事実の抽出は、新聞各紙の記事に基づいて行なっている)。安倍と石破のこの間の言動は、この社会における「民意」の動向を踏まえたうえで行なわれていると思える。

経済的な不安定感、震災や原発事故に伴う喪失感、文明論的にも先行きの見えない不安感――国内で、私たちを取り囲む諸問題はこんなにも深刻だが、このとき「日本人」であることに安心立命の根拠を求めるナショナリズムが、こうしてひたひたと押し寄せている。

昨年12月、東京で開かれた日本・ASEAN(東南アジア諸国連合)特別首脳会議において、中国による防空識別圏の設定に的を絞って「中国包囲網」を形成しようとする日本政府の動きがあった。メディア報道もそれを主眼においてなされた。それは、社会の現状に添った偏狭なナショナリズムに制約された視点であって、重要な点は別にあった。

インドネシアのユドヨノ大統領は、国家間紛争に武力を行使ないことを約束する「インド太平洋友好協力条約」の締結を呼びかけた。どの国にせよ駆け引きと術策に長けた国家指導者の言動をそのまま信じる者ではないが、共同声明には日本が主張した「安全保障上の脅威」や「防空識別圏」の文言は入らず、日本は「孤立」したのである。海洋への中国の軍事的進出にASEAN諸国にも警戒心があるのは事実だが、それを利用して中国と後者の緊張を煽る日本政府の目論みは失敗した。領土・領海問題や地域的覇権をめぐって対立や抗争もあった(あり続けている)東南アジアから、現在の日本政府の方向性と対極的な、平和へのイニシアティブが取られつつあることに注目したい。そこには、世界で唯一冷戦構造が継続しているような東アジア世界への「苛立ち」、とりわけ加害国でありながら、その反省もないままに「ナショナリズム」に凝り固まって、排外主義的傾向を強める日本社会全体への不審感が込められていると捉えるべきであろう。(1月11日記)

太田昌国の、ふたたび夢は夜ひらく[44]特定秘密保護法案を批判する視点


『反天皇制運動カーニバル』第9号(通巻352号、2013年12月10日発行)掲載

特定秘密保護法案の国会審議が大詰めを迎えていたころ、某大学で「帝銀事件と平沢死刑囚」について語る機会があった。NHKのディレクターであった故・片島紀男に関しては、「埴谷雄高・独白『死霊』の世界」(1995年)や「吉本隆明がいま語る 炎の人・三好十郎」(2001年)などの作品を観て、私は注目していた。だが、氏は、私があまりテレビを観る習慣のなかった時期に、「昭和」史や戦後史に関わる番組も多数制作していた。「獄窓の画家 平沢貞通~帝銀事件元死刑囚の光と影」(2000年)もそのひとつである。この番組を学生と一緒に観てから、上記のテーマについて語るという企画である。

私は死刑廃止運動の場で、晩年の片島氏と知り合う機会があり、獄死した死刑囚の再審請求に賭ける氏の熱意を知っていた。講義の前夜、新聞に小さな記事が載った(12月3日)。12人が毒殺された1948年の帝銀事件で、東京高裁は、獄中死した平沢元死刑囚の養子で再審請求人の武彦さんが死亡したために、再審請求の手続きが「終了した」、というものである。裁判の場で、冤罪の死刑囚であった平沢氏の無念を晴らす道は閉ざされたことになる。

65年前の事件について20歳前後の若者に語るに際して、「国家」を司る者たちの恣意性を自覚してほしいと私は希った。占領下で起きた帝銀事件の場合、それはふたつの形で現われる。①同事件の実行犯捜査は、犯行現場での毒物の手慣れた扱いから見て、旧関東軍満州第731部隊所属の軍人に絞られた。だが彼らは、対ソ連戦に備えて同部隊員の技量を活用しようとする米軍の庇護下にあり、その戦争犯罪は免責されていた。GHQ(連合国総司令部)は警視庁と新聞に圧力をかけ、捜査方針を変更させた。②代わりに生け贄にされた平沢氏は、杜撰な取り調べと裁判で死刑が確定した。確定から32年間を獄中に暮し、95歳で獄死した。その間に就任した法相は35人、ひとりとして執行命令書に署名しなかった。高検検事長も認めたように「判決の事実認定に問題があった」ためである。①からは、占領国の横暴・傲慢さが透けて見える。②からは、死刑制度を維持する国の冷酷さが浮かび上がる。そして双方に共通するのは、国家は「機密」を好み、いったん「機密」にされた事柄は、民衆に知らせないことを通して、他ならぬ民衆を縛り上げるという事実である。占領下の「昔話」が、現下の特定秘密保護法案の本質に連なってくるというリアリティを、若者たちには感じ取ってほしかった。

この日の講義では触れる時間がなかったが、私が同法案を批判する際に強調してきたのは、国際的な視点である。近代国民国家の枠組みを尊重しつつも、人権にかかわる問題に関しては国際的なネットワークを作り上げて、各国の意識・自覚の向上を図る努力が目立ち始めたのは1960年代以降である。「国際人権規約」「経済的、社会的及び文化的権利に関する国際規約(A規約)」「市民的及び政治的権利に関する規約(B規約)」(1966年)に代表されるように。その後も、女性の地位、先住民族の権利、子どもの権利、監獄制度や死刑制度などの問題をめぐって、国際的な基準を設定する試みがなされてきた。

今回の法案に関しては、「ツワネ原則」を想起せよ、との声が批判派から上がり、私もその声を聴いて初めて知った。「国家安全保障と情報への権利に関する国際原則」が正式名称である。安全保障上の理由から国家が多様な情報の秘密指定を恣意的に行ない、市民の知る権利とのバランスが崩れている現状を危惧した国連などの国際機関職員と専門家五百人以上が、南アフリカのツワネで2年間議論を続け、今年6月に公表されたものである。【因みに、アパルトヘイト(人種隔離政策)を廃絶した南アフリカが、2001年にダーバンで開かれた人種差別に関する国際会議に続いて、人権問題を討議する場になっていることは象徴的で、意義深い】。このツワネ原則を読めば、各国政府が、知る権利や人権を侵すような暴走を防ぐ手立てが一定は規定されており、特定秘密保護法はその対極にあることが明らかになる。法案は成立したが、私たちは、たたかい続ける手立てのすべてを失ったわけではない。過度の悲観論に陥ることなく、なすべき日常的な課題にじっくりと取り組み続けたい。

(国会前の抗議行動から帰った翌朝の、12月7日記)

「もうひとつの9・11」――チリの経験はどこへ?


DVD BOOK ナオミ・クライン=原作 マイケル・ウィンターボトム/マット・ハワイトクロス=監督作品

『ショック・ドクトリン』解説(旬報社、2013年12月)

2001年9月11日米国で、ハイジャック機による自爆攻撃が同時多発的に起こった。この事件を論じることがここでの目的ではない。少なからずの人びと(とりわけラテンアメリカの)が、この事件によって喚起された「もうひとつの9・11」について語りたい。それは、2001年から数えるなら28年前の1973年9月11日、南米チリで起こった軍事クーデタである。その3年前に選挙によって成立した世界史上初めての社会主義政権(サルバドール・アジェンデ大統領)が、米国による執拗な内政干渉を受けた挙句、米国が支援した軍部によって打倒された事件である。

2001年9月11日以降、米国大統領も、米国市民も、なぜ米国はこんな仕打ちを受けるのかと叫んで、「反テロ戦争」という名の報復軍事作戦を開始した。「もうひとつの9・11」は、実は、1973年のチリだけで起きたのではない。世界の近現代史を繙けば、日付は異なるにしても、米国が自国の利害を賭けて主導し、引き起こした事件で、数千人はおろか数万人、十数万人の死者を生んだ事態も、決して少なくはない。そのことを身をもって知る人びとは、2001年の「9・11」で世界に唯一の〈悲劇の主人公〉のようにふるまう米国に、底知れぬ偽善と傲慢さを感じていたのである。

同時に、ラテンアメリカの民衆は、1973年の「9・11」以降、世界に先駆けて、チリを皮切りにこの地域全体を席捲した新自由主義経済政策のことも思い出していた。アジェンデ政権時代には、従来の社会的・経済的な不平等にあふれた社会で〈公正さ〉を確立するための諸政策が模索されていた。外国資本の手にあった鉱山や電信電話事業の公共化が図られたのも、その一環だった。軍事クーデタは、これを逆転させた。すなわち、新自由主義政策が採用されたからだが、日本の私たちも、遠くは1980年代初頭の中曽根政権時代に始まり、近くは2000年代の小泉政権時代に推進されたこの政策に、遅ればせながら晒されていることで、その本質がどこにあるかを日々体験しているのだから、政策内容の説明はさして必要ないだろう。

1980年代初頭に制作されたボリビアのドキュメンタリー映画に、印象的なシーンがある。軍事政権時代に莫大に流入していた外国資本からの借款が、どこへいったのかと人びとが話し合う。高台にいる人びとは、下に見える瀟洒な中心街を指さし、「あそこだ!」と叫ぶ。そこには、シェラトン、証券会社、銀行などが入った高層ビルが立ち並んでいる。周辺道路もきれいに整備され、さながら最貧国には似つかわしくない光景が、そこだけには現われている。「あそこで使われた金が、いま、われわれの背に債務として圧し掛かっているのだ」と人びとは語り合うのである。これは、新自由主義経済政策下において導入された外資が、その「恩恵」には何ら浴すことのない後代の人びとに債務として引き継がれる構造を、端的に表現している。

だが、世界に先駆けて新自由主義経済政策の荒々しい洗礼を受けただけに、ラテンアメリカの人びとは、その本質を見抜き、それを克服するための社会的・政治的な動きをいち早く始めた、と言えるだろう。国によって時間差はあるが、20世紀も終わりに近づいた1980年代以降、次第に軍事政権を脱して民主化の道をたどり始めた彼の地の人びとは、新自由主義によってズタズタにされた生活の再建に取り組み始めた。旧来の左翼政党や大労働組合は、この経済政策の下で、また世界的な左翼退潮の風潮の中で解体あるいは崩壊し、この活動の中軸にはなり得なかった。民衆運動は、地域の、生活に根差した多様な課題に取り組む中で、地力をつけていた。新自由主義政策が踏み固めた路線に沿って、さらに介入を続ける外国資本を相手にしてさえ人びとは果敢に抵抗し、ボリビア・コチャバンバの住民のように、水道事業民営化を阻止するたたかいを展開した。

政治家にあっても、社会改良的な立場から自国の政治・経済・社会の状況に立ち向かおうとすると、既成秩序の改革が必要だと考える者が輩出し始めた。彼(女)らの関心は、差し当たっては、新自由主義が根底から破壊した社会的基盤を作り直すことであった。20世紀末以降、ラテンアメリカ地域には、世界の他の地域には見られない、「反グローバリズム」「反新自由主義」の顕著な動きが、政府レベルでも民衆運動レベルでも存在しているのは、このような背景があるからである。

「もうひとつの9・11」――チリの悲劇的な経験は、それを引き継ぎ、克服しようとする人びとの手に渡っているというべきだろう。

9年目を迎え、社会に徐々に浸透し始めている死刑囚の表現――第9回「大道寺幸子基金・死刑囚表現展」を終えて


『出版ニュース』2013年11月下旬号(2013年11月21日発行)掲載

「死刑廃止のための大道寺幸子基金」が主催する「死刑囚表現展」は、10年の時限を設けて2005年に発足した。今年は、残すところあと1年となる、9回目を迎えた。文章部門には12人、絵画部門には13人からの応募があった。両部門に応募したのは3人であったから、22人が参加したことになる。死刑確定者と、審理のいずれかの段階で死刑の求刑か判決を受けて係争中の人を合わせると、この間は150人ほどである。応募できる人びとのうち15パーセント程度の人が参加していることになる。新顔の応募があったのはうれしいし、逆に、今年は作品が届かなかったなあと思う名前も、幾人か思い浮かぶ。ユニークな発想で、物語性のある絵柄に加えて、描き方をさまざまに工夫した作品を毎年送ってくれた松田康敏氏の絵が、今年はなかった。2-12年3月29日に小川敏夫法相の命で処刑されたのだ。このように9年目ともなると、作品を通して見知った名前の人たちが、その間に幾人も刑死するか獄中死している。彼らが遺した、脳裏に印象深く刻まれていた文章や、目に鮮やかだった絵が、あらためて蘇ってくる。「死刑囚表現展」とは、そんな緊張感に満ちた場で続けられてきている、ひとつの試みである。

では、今年度の作品から、注目した諸点に、まずは文章部門、次に絵画部門の順で触れてみよう。

昨年、現代的な感覚に満ちた言葉を駆使した短歌と俳句作品を応募してきたのは、音音(ねおん、筆名)氏であった。

キャーママとゲリラ豪雨にはしゃぐ声すぐそこ遥か結界の外

裁判へ出廷する度育ってた空木(スカイツリー)が今日開花

AKB聞いてるここは東拘B

昨年の選考委員会は、この人の言語感覚に沸いた。選考会(毎年9月、非公開で開催)の討議内容も、10月の死刑廃止集会で行なう公開の講評も、すべて文字に起こして応募者に差し入れしているから、音音氏にもその雰囲気が十分に伝わったのだろう。今年、氏は、傍目には思いがけない表現方法を見い出した。「(表現展)運営会のみなさんへ」と題した作品で、昨年の選考会における各選考委員の発言を引用しながら、そこへ自らが介入するのである。選考委員の言葉のひとつひとつに、「そうなんです」とか「こうなんです」と言って実作者が介入すると、まるでそこに対話が成立しているような感じが醸し出される。選考する側からすれば、自分の読み方の「浅さ」があぶり出されるような思いも、ないではない。不思議な雰囲気を湛えた作品で、好評を得た。見方を変えると、獄中の死刑囚が、いかに他者との対話を欲しているかをも示していて、切ない思いがする。

響野湾子(こと庄子幸一)氏は、「紫の息(一)」「紫の息(二)」と題して短歌を555首、「赤き器」と題して俳句を200句、応募してきた。例年通りの、旺盛な創作力である。今年も、自らが犯した行為をめぐる贖罪の歌が多い。贖罪に贖罪を重ねても、それが他者からは認められぬもどかしさ。その思いは反転し、仲間の刑死や、来るべき将来に自らが「吊るされる」情景を描写する歌が続き、読む側は息苦しい。そこへ稀に、いささかユーモラスな趣きを湛えた、自己批評的な歌が立ち現れる。

希望なき死刑囚の身に配らるる 食事アンケート真剣に悩めり

処刑死を思ひつつ食ふ夕食の 生きんが為の苦瓜の汁

次のような歌にも注目した。

刑場で殺されるなら放射能 浴びて廃炉の石になりたし

終息を聞かぬ原子炉我が手にて 一命賭けたし殺されるなら

歌の巧拙を問題とするなら、採るべき歌ではないかもしれない。だが、ここにもまた、社会との接点を激しく求める死刑囚の真情があふれ出ていると感受しないわけにはいかないのだ。

文章部門では、音音氏が「新波(ニューウェーヴ)賞」、響野湾子氏が「努力賞」と決まった。「新波賞」という命名は、音音氏の軽妙な言語感覚にせめても応答したい気持ちの表われなのだが、ご本人はどう思われるだろうか。

他の応募者の作品についても、ひとこと述べておきたい。檜あすなろ(筆名)氏の「自分史」は、肝心の「自分史」に関わる箇所は、これまでの同氏の作品がすべてそうであったように、まだ自分に正面から向き合えていないために読み手にははぐらかされた思いが残った。だが、獄中の死刑囚がおかれている状況を詳しく述べている箇所に注目した。秘匿されている現実が明らかにされない限り、死刑制度の本質を見極めることは難しいからだ。露雲宇留布(筆名)氏の「霊」は昨年同様の長編フィクションだが、書きためていた原稿なのか、昨年の選考委員の批評がまったく生かされていないことが残念だ。死んだ人間が誰かに乗り移るといったプロットだけが先行し、登場人物のひとりひとりが描けていない点がむなしい。氷室蓮司(筆名)氏の「沈黙と曙光の向こうがわ」は未完のまま提出されているので、完成時に触れたい。何力氏の「司法界の怪」は、自分の裁判の実態を通して日本の司法の在り方を問うのだが、表現方法にいま一つの工夫がほしいと思った。

最後に、短詩型で印象に残った作品をひとつづつ。

人間のいくさ始まる呱呱(ココ)の声(石川恵子)

人類がなかなか絶つことのできない「いくさ」の始まりを、「おぎゃあ」という誕生の声に求めた意外性が印象に残る。

大学を終えて娘は東京へ 女優目指して日々励みおり(西山省三)

この歌は、同じ作者による数年前の忘れがたい歌「16年ぶりに会う18の娘 何で殺したんと嗚咽する」に繋がる。作者と娘との交流は続いており、娘は自立した道をしっかりと歩み始めている様子がうかがわれて、どこか、ほっとするものを感じる。作者が死刑囚と知っていてはじめて生まれる思いなのだが、「死刑囚表現展」とは、このような感慨をもたらす場でもあるだろう。

秋風に背中おされて猛抗議(渕上幸春)

別句「鰯雲見ていただけで怒鳴られた」とともに、獄中処遇の厳しさを伝える。日本の行刑制度にあっては、教育刑か応報刑かの議論が依然として必要なのか。獄中で孤立無援の作者は、さわやかな「秋風」にも励ましを受けるのである。

わが罪を消せる手段(てだて)があるならば さがしに戻らん母のふところ(大橋健治)

悪人と呼ばれし我も人の子で 病いにかかり涙も流す(加賀山領治)

薫ちゃん母のもとえと抹殺死(林眞須美)

この方たちも、もっとたくさんの歌や句を詠み続けていただきたい。石川恵子さんの歌に「ひとたびは身辺整理なしたるに改めて買う原稿用紙」というのがあった。皆さんが、いちど手にした「表現」の場を失ってほしくない、放棄してほしくない、と切に思う。

次に、絵画部門へ移ろう。13人から合計39点の作品の応募があった。絵画は、直接的に観る者の目に飛び込んでくるだけに、それぞれの作者の個性が際立ってわかる。そのことは、風間博子さんと林眞須美さんのふたりのなかで、対照的に立ち現れてくる。あらかじめ言っておけば、私の考えでは、ふたりとも冤罪である。粗雑極まりない捜査と裁判の結果、彼女らは取り返しのつかない運命を強いられている。だから、ふたりはたたかう。どのようにして? 風間さんは、正攻法で冤罪を訴えることによって。「幽閉の森、脱出の扉」は、例年の作品と同じく、自らが閉じ込められている暗い閉鎖空間と、外部から差し込んでくる光とが描かれている。状況は厳しいが、ここから脱出できるという希望を捨ててはいないという強い意志が横溢している。いわば、直截的なメッセージ絵画と言えようか。したがって、観る者にとっても、作者の意図は伝わりやすい。

他方、林さんの作品は、私が共感した選考委員・北川フラム氏の表現を借りると、「他人に理解されたいとか、コミュニケーションの可能性をすべて断ち切っている」地点で成立している。画面の中央に描かれている黄色い月や花や赤曲線や四角形を取り囲むのは、常に、昏い黒と青の地色である。内部の明るい色を四方から包囲する地色は、地域で一風変わった生活を送っていたがゆえに事件発生後に自分を真犯人に仕立て上げていったメディア、警察、検察、裁判所、そして社会全体の象徴だろうか。内部に四つの明るい色があれば、それは来るべき将来に獄中から解放された母親の帰宅を待つ四人の子どもたちだろうか。傍目なりに勝手な想像を膨らませることはできるが、それが、作者が込めた深い暗喩にたどり着くことは難しいのかもしれない。しかし、林さんの作品は、観る者を捕えて、放さない。事実、各地の展示会場では彼女の作品をじっと凝視する人の姿が目立つ。メディアが作り上げた「真犯人」像と作品との間に横たわる、深い溝を覗き込むような思いからだろうか。だとすれば、彼女の作品は、その高度な抽象性において訴求力を持っているのだと言える。

8点を応募した宮前一明氏の作品が語りかけるところも多い。多様なテーマを多彩な方法で描き分ける作品自体が興味深いのは当然で、人目を惹いた。氏からは、9月の選考会議が終わった後で、作品と画材についての説明書が届いた。そこには、購入も差し入れもできない和紙(しかも、サイズが大きい)をいかにして入手したか、直径二・五ミリの極細筆ペンしか使えないのに、どんな描法を工夫して太い線を描いたかなどに関して、詳しく説明されていた。それを可能にした努力は尊いと思えるほどに、徹底したものであった。差し入れ物に関しては、もちろん、獄外の協力者の存在があり、両者のコミュニケーションの好ましいあり方が、作品の背後から浮かび上がってくるような感じがした。

藤井政安氏の「年越し菓子」の精緻な細工には頭を垂れる。北村孝紘氏の「トリックアート」をはじめとする6点も作品群もそれぞれ個性的で、才能の乱反射といった趣がある。金川一、高尾康司、高橋和利氏ら常連も、他の誰でもない己が道を歩んでいる。謝依悌氏の作品が例年の迫力を欠いたことはさびしかった。Ike(通称)、伊藤和史、何力氏らも、今後の展開を期待したい。檜あすなろ氏は、紙で作る小物入れの設計図を応募してきた。外部の協力者がそれを基に工作した。立体が登場したのだ。獄中者には何かと厳しく、理不尽な制限が課せられている中で、「表現」上の工夫は新たな一段階を画した。

以上を概観した結果、絵画部門の受賞者は、藤井政安氏に「優秀賞」、林眞須美さんに「独歩賞」、風間博子さんに「技能賞」、宮前一明氏の「オノマトペの詩」に「新波賞」――と決まった。

最後に、「死刑囚表現展」の9年目を迎えた今年は、画期的な動きがあったことを報告しておきたい。文章作品の過去の優秀作は、すでに3冊ほど単行本化されている。例年話題となる響野湾子氏の俳句と短歌も、最近出版されたばかりの『年報・死刑廃止2013』の「極限の表現 死刑囚が描く」(インパクト出版会、2013年)にかなりの数の作品が掲載された。他方、絵画作品に関しては、毎年一〇月東京で開かれる死刑廃止集会当日に会場ロビーに展示する以外では、いくつかの地域で小さな展示会が積み重ねられてきた。昨2012年9月、広島で開かれたのも、そのような小さな展示会の一つであった。そこへ、制度化された枠から外れた表現への関心が深い評論家・都築響一氏が訪れ、死刑囚の表現のすごさをインターネット上で発信した。氏のブログを読んでいる読者は全国各地に多数散在しており、次々と人が詰めかけた。その中に、広島県福山市鞆の浦にあるアール・ブリュット専門のミュージアム、鞆の津ミュージアムの学芸員・櫛野展正氏もいた。氏もまた、死刑囚の絵画表現に衝撃を受け、自分が働くミュージアムで絵画展を開きたいとの打診が私たちにあったのは昨秋のことである。年末には東京へ来られて8年間の全応募作品を見て、展覧会のイメージを固められたようだ。準備は着々と進み、4月20日には「極限芸術–死刑囚の絵画展」が開幕した。「表現展」8年間の応募作品およそ300点が展示された。私も開幕日を含めて二度足を運んだ。築150年の醤油蔵だった建物は、天井も高く、落ち着いた雰囲気をもっている。プロの学芸員の仕事だから、額装も照明も作品の配置も、十分に練り上げられている。壁に掛けない作品は、作者ごとにファイリングされていて、見やすい。

福山駅からバスで30分、瀬戸内海に向かって細長くのびる街を歩くと、あちこちに極限芸術展のチラシやポスターを見かける。スーパー、喫茶店、食堂、船着き場、郷土館――「異形な者」をあらかじめ排除する空気が、ない。それもあってだろうか、人びとは詰めかけた。新聞各紙、「FLASH」や「週刊実話」のような週刊誌、タレントや俳優も来て、出演しているテレビやラジオの番組で広報が行なわれた。複数の美術評論家による評も、新聞各紙や美術誌に掲載された。会期中には、都築響一、北川フラム、田口ランディ、茂木健一郎氏らによる講演会も開かれた。会期は2ヵ月の予定だったが、1ヵ月間延長され、7月20日に終わった。ほぼすべての都道府県から5122名の人びとが来場したという。終了後、鞆の津ミュージアムからは、媒体掲載記事一覧と入場者のアンケートが送られてきた。熱心に鑑賞した様子が伝わってくる。知られざる世界を知ることの重要性がひしひしと感じられる。

もうひとつ付け加えることがある。基金の名称となっている大道寺幸子さんの息子、大道寺将司氏は昨年『棺一基』と題した句集を刊行したが、それが2013年度、第6回目の「日本一行詩大賞」を受賞した。角川春樹氏の肝いりで始まった試みである。選者は、角川氏以外に、福島泰樹、辻原登、辻井喬の4氏である。過去の受賞者を見ても、俳句・短歌・詩の分野での重要な仕事が選ばれている。

「死刑囚表現展」を初めて9年目――事態は、ここまで「動いた」と、あえて言ってもよいだろう。政治・社会の表層を見れば、私たちが目標としてきた「死刑制度廃止」を近い将来に展望することは難しい。個人や集団に許されない殺人の権限を、従来の国家は、戦争と死刑という手段で独占してきた。戦争を未だ廃絶し得ない国家も、人権意識の発揚によって死刑は廃止する――それが全国家の3分の2を超える140ヵ国を占めるまでになった。人類史の、たゆみない歩みの成果である。現在の日本国家は、死刑を廃止するどころか、戦後は辛くも封印してきた「戦争によって他国の死者を招く」戦争行為まで可能な体制作りに邁進している。戦争と死刑を認めることは、「他者の死」を欲する/喜ぶ精神に繋がる。それがどれほどまでに社会の荒廃を招くか。その「手本」は太平洋の向こう側の大国にある。この趨勢を、社会の基層から変えるにはどうするのか。

私たち、「基金」運営会はまもなく、最終年度10年目の展望を討議しなければならない。

当初設定していた時限が来たからといって、止められるか。「11年目以降」を視野に入れなければならないのではないか――だとすれば、そのための条件づくりも含めて、討議はきびしいものになりそうだ。

太田昌国の、ふたたび夢は夜ひらく[43]韓国における、日本企業への個人請求権認定の背景


『反天皇制運動カーニバル』第8号(通巻351号、2013年11月12日発行)掲載

第二次大戦中に日本企業に徴用された韓国の人びとが、その企業を相手に行なう損害請求訴訟において、請求権を認定する韓国司法のあり方が定着し始めた。この問題をめぐっては、日本のメディアには「国家間の合意に反する」とする意見が溢れている。1965年の日韓請求権協定に基づくなら、請求権問題は解決済みだとするのである。自民党総務政務官・片山さつきは「国家間の条約や協定を無視した判決を出す国が、まともな法治国家と言えるのか。経済パートナーとしても信頼できない。敗訴した日本企業は絶対に賠償金を支払ってはいけない」と語っている(8月21日付「夕刊フジ」)。これは俗耳に入りやすい論理だけに、検証が必要だ。私たちは、複雑に絡み合った歴史を解きほぐす労を惜しむわけにはいかない。いささか長くなるが、この問題を考える前提として、日本の敗戦以降の歴史過程を胸に留め置くべきだろう。事態は、植民地支配に関わる自覚、反省、謝罪、補償を実現できないまま現在に至った、私たちの戦後史に深く繋がるものだからである。

1945年8月、日本は遅すぎた敗戦を迎えた。アジア太平洋の諸地域に全面的に展開した軍隊が「敗退」を始めた後でも、それは「転戦」だと言い繕う者たちが、政治・軍事権力の座にあった。東京をはじめとする諸都市への大空襲と沖縄地上戦を経てもなお「敗戦」を認めようとしなかった支配層は、広島・長崎の悲劇を味わって後にようやく、それまでの「敵」=連合国側が提示したポツダム宣言を受け入れた。しかもそれは、天皇の「聖断」によるものである、とされた。本土決戦は回避された。空襲で焼け野原になっていた東京にあっても、皇居と国会は炎上することはなかった。ヒトラーと同じ運命を天皇裕仁がたどることは避けられた。

天皇は「現人神」から「象徴」に変身して、生き延びた。戦争を推進した多くの官僚も、戦争を熱狂的に支持した一般の国民も、戦争責任を問われることなく、延命できた。「無責任」なあり方が社会に浸透した。植民地は「自動的に」独立した。1953年のディエンビエンフーのように、1962年のアルジェのように、1975年のサイゴンのように、被植民地民衆の抵抗闘争によって日本の植民地主義が敗北した、という実感を社会総体がもつことはなかった。こうして、戦前と断絶することのない、日本の戦後が始まった。

戦後の出発点に孕まれていた「虚偽」は、戦後も継続した。いったんは武装解除され、やがて米国のアジア戦略の変更によって再武装が認められた日本は、基本的には自ら戦火に巻き込まれることなく「平和」の裡に戦後復興に邁進することができた。翻って、近代日本の植民地支配と侵略戦争および軍政支配から解放されたアジア諸地域では、内戦あるいは大国の介入による戦火が長いあいだ途絶えることはなかった。アジア民衆は、日本が戦後復興を経て高度産業社会へと変貌する過程を目撃していながら、日本の植民地支配や侵略戦争に関わる補償を要求する「余裕」などは持たなかった。

1975年、米国が敗退してベトナム戦争は終わった。アジアにおける大きな戦火が、ようやく消えた。加えて、日本の敗戦から45年を経た1990年前後から、右に概観した世界秩序に変化が現われ始めた。他の矛盾をすべて覆い隠していた東西冷戦構造が、ソ連体制の崩壊によって消滅した。韓国では軍事独裁体制が倒れた。アジアの人びとは、ようやく、自らの口を開き、過去に遡って日本との関係を問い直す条件を得た。

旧日本軍の「慰安婦」や元「徴用」工、元「女子勤労挺身隊」の人びとが、日本国家と雇用主であった日本企業に個人として賠償請求訴訟を始めたのは、この段階において、である。サンフランシスコ講和条約や日韓条約は、そもそも、植民地支配の責任を問うこともなく締結された。過去に締結された条約や協定に基づいて自己の権限を主張するのは、どの時代・どの地域を見ても、常に強者の側である。弱者であった側は、別な原理・原則に基づいて自己主張を始めざるを得ない。奴隷制、植民地支配、侵略戦争の責任の所在を問う現代の声には、そのような世界的普遍性が貫いていると捉えるべきだろう。

(11月9日記)

司馬遼太郎の「日本明治国家」論の呪縛――アニメ『風立ちぬ』が孕む問題


『映画芸術』第445号(2013年10月末刊行予定)掲載

子ども向けのアニメーション映画では、夢を追い、理想を語り、現存する価値観や秩序の外へ出て、新しいものをつくりあげていいんだよ、と呼びかけてきた宮崎駿監督が、大人のアニメーション映画をつくったときに、どんな作品が出来あがったか。『風立ちぬ』が問いかけるのは、この問題だと思う。

この映画の原作・脚本・監督のすべてに関わった宮崎は、戦争を糾弾したり、ゼロ戦の優秀さで日本の若者を鼓舞したり、主人公は実は戦闘機ではなく民間機を作りたかったのだと庇ったり――それらを描くことは意図しない、と語る(「企画書・飛行機は美しい夢」、映画パンフレット『風立ちぬ』所収)。続けて、言う。「自分の夢に忠実にまっすぐ進んだ人間を描きたいのである。夢は狂気をはらむ。その毒もかくしてならない。美しすぎるものへの憧れは、人生の罠でもある。美に傾く代償は少なくない」。

「自分の夢に忠実にまっすぐ進んだ人間」とは、この映画の主人公で、実在の人物であった堀越二郎である。戦闘機・ゼロ戦の設計者として知られる。1941年生まれの宮崎は、自他共に認める兵器愛好者であり、会議中でも雑談中でも、白い紙に思わず兵器や戦闘機をスケッチしているという挿話の持ち主である。設計物としてのゼロ戦の「美しさ」を思い、同時に、日本は愚かな戦争で「負けただけじゃなかった」と言える数少ない存在が優秀な機能をもったゼロ戦であると確信している(『朝日新聞』2013年7月20日「零戦設計者の夢」)。戦争を嫌い、武器を愛するのは「矛盾の塊」だが、「兵器が好きというのは、幼児性の発露」と自己分析する。

脚本では堀越二郎の人物像には、具体的な接点はまったくなかった同時代の作家・堀辰雄の像がフィクションとして重ね合されていることだけを付け加えておくなら、この作品にかけた宮崎の意図の説明としては、これで十分だろう。大急ぎで言っておくなら、「狂気や毒をすらはらむ夢」が描かれることになるなら、芸術作品の企図としては十全だ、とも。

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『風立ちぬ』において、宮崎の意図はどのように実現しているだろうか?

1910年代、北関東の片田舎に生を受けた二郎は、近代化以前の時代を生きていた美しい日本の風土の中で育ち、いつしか大空を風のように飛ぶ飛行機への憧れを抱く。手本として夢の中で出会うのは、同時代のイタリア航空機業の創業者、ジャンニ・カプローニ伯爵である。ユニークな型の航空機を次々と開発していたカプローニへの傾倒は、少年時代の二郎の夢の大きさを物語る。彼はその夢を実現し、大学では航空学科に学び、就職も三菱内燃機(現・三菱重工)に決まり、航空宇宙システムの分野で働く。視察・研修のためにドイツへも長期間にわたって赴く――二郎の前半生をこのように設定することには、もちろん、実在した堀越二郎の経歴が反映されていよう。同時に観客は、明治維新以降の50~60年の日本国家の歩みをそこに重ね合せることになる。二郎の人生は、欧米諸国をモデルに、富国強兵・殖産興業に邁進した歳月の国家的なあり方の縮図でしかないからである。

映画は、「自分の夢に忠実にまっすぐに生きた」二郎が開発した戦闘機・ゼロ戦が、どのように使われたかを明示しない。終盤に登場するカプリーニとの間で、「君の10年はどうだったかね。力を尽くしたかね」「はい、終わりはズタズタでした」「国を滅ぼしたんだからな。あれだね、君のゼロは」という会話が――それは、ゼロ戦の残骸の山を前に交わされる――すべてを暗示するだけである。

冒頭で紹介した宮崎の意図からすれば、ここまで描けば十分となるのだろう。だが、映画では夢の中で出てくる爆撃シーンの先には、現実には異邦の人びとの生死があったのだという事実を無視することは、宮崎においてどのように可能になったのだろうか? この映画が主題としているのは別なことだという説明は可能だろうか? 二郎の夢にはらまれていた「狂気や毒」は、この描き方で十分だったのだろうか?

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現実の宮崎駿は、日本がアジア諸地域に対して行なった植民地支配や侵略戦争の問題について、また従軍「慰安婦」問題について、的確な批判的発言を行なってきた。その彼が『風立ちぬ』で行なった、アジア無視という歴史把握の方法には、次の問題がはらまれているのだと思える。

宮崎には、堀田善衛および司馬遼太郎と語り合った『時代の風音』という著書がある(朝日文庫、1997年。初版はユー・ピー・ユー、1992年)。若いころからの堀田の影響は大きかった、とは宮崎の言である。司馬に関しても、『明治という国家』やテレビ番組『太郎の国の物語』に非常に感動した、と述べている。『歴史の風音』の座談会自体は、堀田と司馬のふたりを軸に行なわれていくので、宮崎の発言は目立たない。私自身も、堀田独自の、歴史の重層的な把握方法には多くを学んできた。他方、司馬の『明治という国家』や『坂の上の雲』などに見られる「明るい明治」と「暗い昭和」を対比させ、両者の間に断絶をもうけて前者を称揚する方法には、あまりにご都合主義的で、歴史の見方としては成立し得ないとの批判をいだいてきた。

任意に、いくつかの司馬の発言を引いてみる。「日露戦争というのは、世界史的な帝国主義時代の一現象であることはまちがいはない。が、その現象のなかで、日本側の立場は、追い詰められた者が生きる力のぎりぎりのものをふりしぼろうとした防衛戦であったことはまぎれもない」(『坂の上の雲』)。

「私は軍国主義者でも何でもありません。(中略)日本海海戦をよくやったといって褒めたからといって軍国主義者だということは非常に小児病的なことです。私は彼らはほんとうによくやったと思うのです。彼らがそのようにやらなかったら私の名前はナントカスキーになっているでしょう」(『「明治」という国家』)

『この国のかたち』と題された、司馬の文明批評的な評論集の随所に見られるのは、「昭和はだめだが、明治の国家はよかった。そこまではよかった」という独特の史観である。明治国家はすでに述べたように、欧米に追随し富国強兵の道を歩み、そのことで近隣のアジア諸地域を植民地支配と侵略戦争で踏みつけにした。その延長上に、堀越二郎が生きた「大正」「昭和」の時代はくるのだから、それは連続性によって捉えるべき歴史事象であり、個人の恣意で断絶をもうけることはできない。また、歴史事象には「オモテ」と「ウラ」があり、この場合は「オモテ」だけを主題としているから、「ウラ」からの批判を免れることができるということもない。司馬の不透明な文章と物言いは、その点を曖昧模糊とさせて、ひとを幻惑する。司馬の近代日本国家論に親しむという宮崎は、『風立ちぬ』において、その轍を踏んでしまったように思える。

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最後に、次のことに触れておきたい。20年ほど前、歴史教科書において、植民地支配・侵略戦争・「慰安婦」問題などをめぐる従来の記述方法に異議を唱える「新しい歴史教科書をつくる会」の活動が活発化した時期があった。漫画家・小林よしのりもその流れに参与し、独自にたくさんの漫画作品を描き始めた。それが、若者を中心としたおおぜいの読者を獲得していることを知った私は、どんな漫画なのかと思い、いくつかを眺めてみた。絵柄は好みではなく、物語の展開にも呆れる個所が多かったが、目を逸らすようにして、吹き出しの文句だけを読み急いだ。時代はすでに、左翼をはじめとする反体制の思想と運動の退潮期に入っていた。小林は、戦後進歩派や左翼が従来展開してきた戦争論や「慰安婦」問題に関わる論議のうちから、「弱点」を衝きやすい論点を誇大かつ一面的に描いては、それに反駁するという方法を駆使する場合が多かった。当時は、今なら実現しているようなネット社会ではなかった。だが、小林漫画の扇情的で独断に満ちた情報の切り出し方といい、受け手の多くがそれを唯一の解釈として受け入れ、他の情報との照合を行なって真偽を確かめるという作業を行なわない流儀といい、現在のネット空間の貧相なあり方を先取りしたような世界であった。私は、小林漫画が展開している非歴史的な「論理」(「非論理」と言うべきか)は批判したが、どこか痒いところに手が届いていない欠落感を抱えていた。

ちょうどその頃、美術史家の故・若桑みどりが行なった小林漫画についての講演を聴く機会に恵まれた。彼女もまた、あの漫画は嫌だけれども読まなければならぬといい、図像学的な分析から言えば、彼の漫画はうまく、読み手がどこに反応するかのツボを心得て描いている、と語った。物語の要所に登場しては問題を提起し、叫び、怒り、悲しむ人物には漫画家自身が投影されているが、クライマックスにおけるこの人物とその周辺の描き方は際立っており、読み手が主人公に一体化する仕掛けが施されている、というように。

アニメーション映画としての『風立ちぬ』論においても、また、このような図像的な視点からの分析・批判が必要なのだろう。現在の私にその任は担いきれないが、しかるべき方がその作業を担ってほしいと希望して、この稿を終えたい。小林と宮崎の同一性を主張したいのではない。ジブリ・グループの画の魅力を十分に弁えたうえで、物語の展開への批判を深めたいのだ。

太田昌国の、ふたたび夢は夜ひらく[42]ボー・グェン・ザップとシモーヌ・ヴェーユは同時代人であった


『反天皇制運動カーニバル』第7号(通巻350号、2013年10月15日発行)掲載

ベトナムのボー・グェン・ザップ将軍の死(10月4日)を聞いて、連鎖的にいくつかの思いが浮かんだ。彼の生年は、日本で幸徳秋水ら12名が大逆事件で処刑された1911年であったから、享年102歳であった。太宰や埴谷雄高などと同世代か、と咄嗟に思った(太宰は09年、埴谷は10年の生まれである)。まず、書棚から彼の著作『人民の戦争・人民の軍隊:ベトナム解放戦争の戦略戦術』(弘文堂新書、1965年)とジュール・ロア『ディエンビエンフー陥落:ベトナムの勝者と敗者』(至誠堂新書、1965年)を取り出して、ぱらぱらと頁を繰った。彼は軍人として訓練を受けた人ではなかった。『孫子』やナポレオン戦役記を読んで軍事知識を身につけたとは、有名な逸話だ。ザップ自身の本に関しては、刊行当時も、ソ連や中国の経験の絶対化やマルクス・レーニン主義理論をベトナム的な現実に当て嵌める生硬な論理展開には納得できない気持ちを私は抱えていたには違いない。同時に、1960年代半ば、眼前で展開されている抗米闘争のめざましさを思えば、不可避的にたたかわれていたあの戦争の「正しさ」を、信じるほかはなかった。準備時期を経て1944年にフランス植民地軍とたたかうために結成された人民軍の萌芽が、翌年には占領した日本軍との戦いも強いられていく過程を読めば、(読んでいた60年代半ばの時点で言えば)20年間も絶えることなく続けられてきた武装闘争の必然性が見えてくる感じがした。「ベトナムは勝つにさえ値しない戦争に勝つより米国による占領体制を進んで選択し、日本のような戦後復興を図るほうが賢明だ」とする磯田光一(磯田『左翼がサヨクになるとき』、集英社、1986年)の考えや、「自前で武器を作る能力も持たないベトナムが他国から武器の補給を受けて戦い続けていることのばかばかしさを人類の名において鞭打つべきだ」とした司馬遼太郎(司馬『人間の集団について――ベトナムから考える』、中公文庫、1974年)の意見などは、私には論外であった。

次に思い出したのは、10月9日が46回目の命日だったこともあって、チェ・ゲバラのことである(1928~1067)。彼には、サップの『人民の戦争・人民の軍隊』キューバ版に寄せた序文「ベトナムの指標」という文章がある(1964年)。それも再読した。当時のチェ・ゲバラの発言と行動が私(たち)を惹きつけるものがあったとすれば、それは、さまざまな領域にわたる彼の言動が常に、旧来のソ連型社会主義の枠組みに疑問を呈し、それを乗り越えようとする、あるいは克服しようとする新たな観点を提起していた点にあった、と思える。その彼にして、この小さな論文では、前衛としての革命党と人民解放軍に対する無限定的な信頼は揺るぎない。「党と軍隊の親密な関係」や「軍隊と人民の間の固い絆」に対する確信も、同様である。後代に生きていることで、20世紀型革命の、悲惨な行く末を見届けることになった私たちが、今さら踏みとどまっていてよい地点だとは思えない。

最後に、ふと思いついたことは、自分でも意外だった。シモーヌ・ヴェーユの生年と没年を確かめたくなったのだ。1909~1943年であった。ボー・グェン・ザップより二歳だけ年上である。ヴェーユは極端な短命だったが、第一次世界大戦からロシア革命へ、世界恐慌からファシズムの台頭へと向かう20世紀初頭の30年有余を、ザップとヴェーユのふたりは、直接的な交流はなかったとしても、まぎれもない同時代人として生きたのであった。

1933年末、スターリン体制へと進みゆくロシア革命の過程をすでに同時代的に目撃していたヴェーユは書いている。「ロシアにおける干渉戦争は、真の防衛戦であり、我々はその戦士をたたえるべきだが、それでもロシア革命の進展にとっては越え難い障害となった。恒久的な軍隊、警察、官僚政治の廃止が革命のプログラムであったのに、革命がこの戦争のお蔭で背負わされたものは、帝政派将校を幹部とする赤軍や、反革命派よりもっときびしく共産主義者を殴打するようになる警察や、世界の他の国に類を見ない官僚政治組織なのである。これらの組織はすべて一時的な必要にこたえるはずのものであったが、それがこの必要ののちまで生きのびることは避けられなかった。一般に戦争はつねに人民の犠牲において中央権力を強化する。」(「革命戦争についての断片」、伊藤晃訳、『シモーヌ・ヴェーユ著作集1:戦争と革命への省察』、春秋社、1968年)。

ヴェーユが、例外として挙げる史実は、パリ・コミューンだけである。同時代人ではあったが、異なる条件下の社会に生きて、社会変革の道を探り続けた三人の言動から何を学び取るかは、現在を生きる私たちに委ねられている。(10月12日記)