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状況20〜21は、現代企画室編集長・太田昌国の発言のページです。「20〜21」とは、世紀の変わり目を表わしています。
世界と日本の、社会・政治・文化・思想・文学の状況についてのそのときどきの発言を収録しています。

太田昌国のふたたび夢は夜ひらく[54]「慰安婦」問題を語る歴史的射程(その2)


『反天皇制運動カーニバル』第19号(通巻362号、2014年10月7日発行)掲載

「本来なら躓いているはず」の首相A・Sらが、まるで論理的な傷を負っていないかのようにふるまうのは、素知らぬ顔で論議の次元をズラしているからである。そのズラしは、意図的に行なわれている。なにしろ、彼は「侵略という定義については、これは学界的にも国際的にも定まっていないと言ってもいいんだろうと思うわけでございますし、それは国と国との関係において、どちら側から見るかということにおいて違うわけでございます」(2013年4月23日参議院予算委員会)と公言するような人物である。アジア太平洋戦争が日本のアジア侵略から始まったという、隠しようもない本質をごまかし、戦争から「加害・被害」の性格を消し去ること。彼の本意はそこにこそある。うぉっーという怒りの声が、国の内外から挙がっても当然な、恥知らずな言動である。恬として恥じずにそれを繰り返す人物が生き延びているのは、「内」からの批判・抗議・抵抗の声が小さいがゆえに、である。彼はこの国内的な状況を利用して、戦時下のもろもろの問題について述べるときにも、戦争をめぐるこの大枠の捉え方を壊すことなく、展開する。

この立場を「慰安婦」問題に応用するときにはどうするか。植民地の女性を「慰安婦」として働かせるにあたっての「強制性」をめぐる論議に、意味をなさない「狭義・広義」という分断線を持ち込むことである。首相A・Sは、第一次政権時に次のように語っている。「官憲が家に押し入って人さらいのごとく連れて行くという強制性、狭義の強制性を裏付ける証言はなかった」(2007年3月5日参議院予算委員会)。問題の核心はすでに、「長期に、かつ広範な地域に設置された慰安所は、当時の軍当局の要請によって設営され、その設置、管理及び慰安婦の移送については、旧日本軍が直接あるいは間接にこれに関与」(1993年の「河野談話」から要約抜粋)したことの「強制性」にこそ置かれていた。問われれば、彼は答えるであろう、「広義の強制性があったことを否定したことは一度もありません」と。だが、それは「侵略を否定したことは一度もありません」との発言と同じく、問われなければ触れることもない、付け足しの物言いでしかない。彼は土俵を常に、自分に有利な場所に勝手に設置するのである。自分の見解が客観性を保つことに、彼は関心を持たない。彼が固執する論点を移動させなければならないからである。不利な場所に自らを置くことになるからである。

党首に返り咲いた5年後にも、次のように語っている。「そもそも、朝日新聞の誤報による、吉田清治という、まぁ詐欺師のような男が作った本がまるで事実かのように、これは日本中に伝わっていった事でこの問題がどんどん大きくなっていきました」(2012年11月30日の日本記者クラブ主催党首討論会)。2012年の段階でなお、この人物は、朝日新聞の「誤報」を頼りに、この問題についての発言をしていた、否、次のように言うべきだろう、この問題について発言するときには、唯一この観点でしか物を言っていない、と。当該の問題に関する研究・調査が、どこまで深化し進展しているかにも、彼は関心を持たないことを、この事実は示している。産経新聞と(最近では)読売新聞を日々の教科書にしている彼からすれば、旧来の図式をなぞるように発言する材料に事欠くことはないからである。

朝日新聞の紙面と、ETV特集「戦争をどう裁くか」で戦時性暴力を取り上げようとした2001年までのNHKの一部番組には、「慰安婦」問題をめぐる動きを、「内」(=加害)と「外」(=被害者側の視点、および世界的な人権意識の深化)の複眼で捉えようとする試みがあった。自国の近代史から侵略の史実を消し去るために「内」に籠ろうとする意識が、そこでは揺さぶられる。1997年に『歴史教科書への疑問』を刊行した「若手議員の会」の主軸メンバーであったA・Sは、まず2001年にNHKに圧力をかけて右の番組を改変させた。その延長上に、権力の前に全面的に屈した13年後の現在のNHKの姿がある。朝日新聞は、このNHK番組へ圧力をかけた政治家の名をA・Sの名入りで他のメディアに先駆けて報じたことでも、彼にとっては「許すべからざる」新聞である。こうして、現在の朝日バッシングの陰には、明らかに首相官邸の姿が見え隠れしている。

来年は日本の敗戦から70年目の節目を迎える。70年を経てもなお、戦時下の「記憶」をめぐるたたかいを、卑小な「敵」を相手に続けなければならないとは、情けなくも徒労感を覚える。人間がつくり上げている社会の論理と倫理、歴史意識とは、古今東西この程度のものが大勢を占めてきたという実感に基づいて、歩み続けるほかはない。(10月4日記)

死刑囚が描いた絵をみたことがありますか


『週刊金曜日』2014年9月19日号掲載

「死刑廃止のための大道寺幸子基金」が運営する死刑囚表現展の試みは、今年10年目を迎えた。現在、日本には130人ほどの死刑確定囚がいる。未決だが、審理のいずれかの段階で死刑判決を受けている人も十数人いる。外部との交通権を大幅に制限され、人間が生きていくうえで不可欠な〈社会性〉を制度的に剥奪されている死刑囚が、その心の奥底にあるものを、文章や絵画を通して表現する機会をつくりたい――それが、この試みを始めた私たちの初心である。

死刑囚が選択する表現は、大きくふたつに分かれる。絵画と、俳句・短歌・詩・フィクション・ノンフィクション・エッセイなどの文章作品である。すぐれた文章作品は本にして刊行できる場合もあるが、絵画作品を一定の期間展示する機会は簡単にはつくれない。それでも、各地の人びとが手づくりの展示会を企画して、それぞれ少なくない反響を呼んできた。日本では、死刑制度の実態も死刑囚の存在も水面下に隠されており、いわんやそれらの人びとによる「表現」に市井の人が接する機会は、簡単には得られない。展示会に訪れる人はどこでも老若男女多様で、アンケート用紙には、その表現に接して感じた驚き・哀しみ・怖れ、罪と罰をめぐる思い、冤罪を訴える作品の迫力……などに関してさまざまな思いが書かれている。死刑制度の存否をめぐってなされる中央官庁の世論調査とは異なる位相で、人びとは落ち着いて、この制度とも死刑囚の表現とも向き合っていることが感じられる。

獄中で絵画を描くには、拘置所ごとに厳しい制限が課せられている。画材を自由に使えるわけではない。用紙の大きさと種類にも制約がある。表現展の試みがなされてきたこの10年間を通して見ると、応募者はこれらの限界をさまざまな工夫を施して突破してきた。コミュニケーションの手段を大きく奪われた獄中者の思いと、外部の私たちからの批評が、〈反発〉も含めて一定の相互作用を及ぼしてきたとの手応えも感じる。外部から運営・選考に当たったり、展示会に足を運んだりする人びとが、一方的な〈観察者〉なのではない。相互に変化する過程なのだ。社会の表層を流れる過剰な情報に私たちが否応なく翻弄されているいま、目に見えぬ地下で模索されている切実な表現に接する機会にしていただきたい。

(9月10日記)

付記:なお、記事では、12人の方々の絵が、残念ながらカラーではありませんが、紹介されています。

太田昌国の、ふたたび、夢は夜ひらく[53]「慰安婦」問題を語る歴史的射程(その1)


『反天皇制運動カーニバル』18号(通巻361号、2014年9月9日発行)掲載

8月5日~6日付けの朝日新聞が、いわゆる「慰安婦」問題に関する32年前の記事に過ちがあったことを認め、これを取り消したことから、右派の政治家、メディア、口舌の煽動家たちが沸き立っている。大仰な「嫌韓・反中」報道で民衆を悪煽動することが習慣化している一部週刊誌編集部が言うように、この種の記事を載せると「売れる」のだから止められない、という時勢の只中での出来事である。

一部の連中から「サヨク」とか「進歩派」と呼ばれる朝日新聞の中にも、きわめて従順な体制派の記者もデスクも編集委員もいるだろう。同じように、〈非〉あるいは〈反〉の志を個人としては持つ人間の中にも、焦りなのか未熟なのか功名心なのか、はたまた素質的に適任者ではないのか、その個人的な思いのままに突っ走り、事実の裏づけに乏しい記事を書いてしまう記者も、稀にはいるのである。それは、どの人間世界にあってもあり得るような、自然の理(ことわり)と言うべきことがらである。

「済州島で慰安婦を強制連行した」ことを自らの体験として語った元山口県労務報国会下関支部動員部長・吉田清治の「証言」を朝日新聞が取り上げたのは、1982年9月2日付け大阪本社版において、であった。この「証言」に関しては、済州新聞の現地記者が追跡調査を行なった結果、それが事実無根であることを1989年8月14日付け同紙で報道し、日本では1992年4月30日付け産経新聞が歴史家・秦郁彦の調査に基づいて、吉田証言=虚偽説を提起した。だが、秦説の説得力がメディア全体に浸透するには時間がかかり、その後もなおしばらくの間は、産経、毎日、読売の各紙とも吉田証言に一定の重要性を認めて報道していたことは、想起しておくべきだろう。朝日新聞は1997年3月31日付けで「慰安婦」問題特集を行なっているが、その段階では、吉田証言を根拠に「慰安婦強制連行」説を主張する言説は、どこにあっても、ほぼ消えている。すでに信憑性を失っていたのである。吉田清治が「慰安婦強制連行」の証言者として初めて登場してから15年の間、確かにその証言はさまざまな波紋を投げかけてきたわけだが、証言の「売り込み」を掛けられたジャーナリストの中には、当初からその信憑性を疑った者もいた。したがって、事実に迫り得るかどうか――82年に「スクープ」をした朝日新聞の記者も含めて、ジャーナリストは例外なく、確かに篩にかけられたのである。

82年の朝日新聞大阪本社版の記事取り消しは、97年のこの段階で行なわれるべきであった。91年には、元「慰安婦」金学順さんが被害者として名乗り出て、日本国家の謝罪と賠償を求めて提訴していた。国内情勢としては戦後史を長く支配した軍事独裁体制から解放されて発言の自由を獲得し、国際的には最大矛盾であった東西冷戦構造が崩壊して個々の国が抱える内部矛盾が顕わになった状況の中で、ようやくにして被害当事者が発言を始めたのだ。それが、何よりも「慰安婦」が制度として存在したことを明かしており、その証言を通して国家犯罪の実態が暴かれようとしていた。

右派メディアと極右政治家はいきり立った。左翼は――と、彼らは言った――91年にソ連が崩壊して社会主義の夢が消えたと思ったら、今度は植民地の元娼婦を持ち出してきて、反日策動を試みている、と。公娼制度が存在した時代状況の中で、彼女たちは商売としてそれに従事しただけだ、金を稼いだではないか、と。植民地下にあったのだから、日本国民である彼女たちを使っただけだ、と。

こうして、「慰安婦」問題に関わる論議は97年段階で、国家責任を「追及」する側も、「防御」にまわる側も、すでにして吉田証言にはまったく依拠することなく、沸騰していたのである。その意味では、朝日新聞の今回の措置はあまりに遅きに失した。しかも、極右政権下で問題の「見直し」が叫ばれている時期であるという意味では、あまりにもまずいタイミングであったと言わなければならない。このことは、だが、次の事実をも物語っている。「慰安婦」問題の本質は、連行の様態それ自体に「強制性」があったか否かではないこと、制度それ自体が孕む問題の根源へと批判的分析の眼を向けるべきこと。これ、である。今は元気溌剌にふるまっている首相A・Sや右派メディアが、本来なら躓いているはずなのは、ここである。【この項、続く】

(9月6日記)

ペルシャ湾岸への掃海艇派遣(1991年)から集団的自衛権容認(2014年)への道


『インパクション』誌196号(2014年8月29日発行)掲載

いわゆる集団的自衛権の行使なるものを閣議決定で容認するという動きが山場を迎えた6月30日夜、私は首相官邸前に立ち尽くしていた。仕事を終えて現場に着いたのは18時過ぎだったが、それから23時近くまでのほぼ5時間、立っていた。暑いさなか迂闊にも飲み水も持たず、空腹と疲れをまぎらす甘味も持っていなかった。だが、渇きも飢えも疲れも感じることもなく、立ち尽くした。私がいた官邸前から、六本木坂へ下る坂の両側の舗道には人があふれ、一時は、双方の人びとが警官隊の壁を越えて合流する寸前にまでいった。それは、原発事故後の2012年6月某日の同じ現場で、膨れ上がった人の勢いが警備の警官隊も警備車両も押し出して、両側の歩道と車道全体を抗議する人びとが占拠したあの事態を再現できるか、という寸前までいった。2年前の夜にしても、その後なにか劇的な事態の展開があったわけではない。さらに首相官邸に近づこうとする動きも一部にはあったが、20時を過ぎるとともに「予定の時間がきたので、今夜は解散しましょう」という「主催者」の言葉がマイクを通して響きわたったのだった。主催者がそう言っています、という警備の警察側からの慇懃無礼な呼び掛けの言葉が、それに続いた。解散に不満を持つ者も、身動きもままならない人びとの渦の中で、その大きな流れに身をゆだねるしかなかった。それでも、人びとには、ある目的をもって「広場」を占拠したときにおぼえる「感動」が心身にしっかりと刻み込まれたであろうと、私の個人的な体験に基づいて推定しても、それほど突飛なことではないだろう。その心身の記憶が、いつか「時を捉えた」機会にこそ、役立つのだ。世界史上で見ても、「広場」に集まった万余の群衆が、我/彼の間に通常は広がる実力の差を乗り越えて、歴史の大いなる転換点を画する行動を生み出した例は少なくない。

2年後のその夜、集団的自衛権行使容認策動に反対して集まっていた人の数は、2年前の反原発行動の夜と比較すると、決定的に少なかった。歩道の左右両翼から人びとが合流する寸前に、警官隊が規制に入ると、それを押し返すだけの力はなかった。生活があり、仕事もあるから、人びとは誰もがいつでも、国会前や首相官邸前に詰めかけるわけにもいかない。私とて同じだ。それにしても、迫りくる事態の決定的な節目の日であることを思えば、集まった人の「少なさ」の理由には正面から向き合いたいと思った。現場で幾人もの友人、知人に会った。そのひとりが言った。いま国会前で、ぼくの友人に会ったら、20年ほど前のPKO反対闘争のとき、宣伝カーの上から太田さんがやった演説を思い出すね、と言っていましたよ、と。

私もちょうど、この夜の首相官邸前の人の数の「少なさ」を、1992年の国連平和維持作戦(PKO)法案反対闘争のときの「少なさ」と比較したらどんなものだろうか、と考えていた。22年前の5月から6月にかけて法案審議の最終段階を迎えて、私たちは連日のように、議員面会所に通っては、共産党や(その時はまだ存在していた)社会党の議員から審議の状況報告を聞いていた。議会内抵抗勢力の数も脆弱になってはいたが、反戦・平和を求める外の大衆運動に人びとが大勢集まる時代ではなくなっていた。内では学生運動は壊滅状態になって久しく、戦後の一時期政治闘争にも取り組んだ総評は解体されていた。外では、東欧・ソ連の社会主義圏が次々と体制崩壊に至り、多少なりとも反体制運動の軸となっていた社会主義の理念は、少なくとも客観的には、地に堕ちていた。そこに起こったフセインのイラクによるクェート侵攻から湾岸戦争へと至る過程の中では、世界各国が挙げて「独裁国」への戦争を行っているとき、これに参加すべきであるという「国際貢献論」がこの社会では台頭していた。その結果、前年の1991年に、ペルシャ湾岸の機雷除去を名目として海上自衛隊の掃海艇が派遣されていた。さまざまな理由が重なり合って、民衆運動の活力は目に見えて衰えていた。

6月4日、いつものように国会に向かおうとする、さして大勢でもない私たちは、立ち塞がる機動隊に押しまくられて日比谷公園までの後退を余儀なくされた。三々五々、社会党本部のある社会文化会館に再結集した私たちは、そこで抗議集会を開いた。某氏の発案で、発言を要請された私は、ハッタリに満ちた国会議員の挨拶や、「PKO反対闘争は60年安保闘争を越えた」という労組幹部の発言や、デモの隊列のそこここでいまだに叫ばれている「護憲」や「平和憲法を守れ」というシュプレヒコールへの違和感も顕わに、要旨次のように述べた。――掃海艇の派遣に続けて、さらに自衛隊の海外派兵を公然化するPKO法案によって憲法9条が決壊しようとしているこの時に、護憲派の人びとにせよ、「平和憲法を守れ」などとは口が裂けても言えない私たちにせよ、合わせてもこれほどのまでの少数派になって、ここにいる。ここに至る過程と、今回顕わになっている事態が何を意味するかを考え抜いて、今後の共同闘争の可能性と不可能性を考えたい。

労組や党派の人びとが集っている塊のあたりから、激しいブーイングが起こった、と記憶している。思い返せば、この時点こそが、戦後史が大転換を迎えたときであった。「国際貢献論」なるものは、次のような「論理」を展開した――侵略者フセインの暴挙を前に、国連安保理決議に基づいて多国籍軍が編成され、各国の軍隊が汗を流し血も流して、「悪の権化」たる独裁者と戦っている時に、憲法9条の存在を理由に日本は自衛隊を現地に派遣できなかった。その代わりに、せめて米国の戦費負担を行なって、130億ドルを供出はした。だが、これではまるで、現金自動支払機の役割を果たしたに過ぎず、国際政治の現場からすれば、卑怯者と見做されるような屈辱的な事態である。ソ連なき時代の「国際貢献」の在り方に関して、大胆な発想の展観が必要である。

これは、主として、対米交渉の矢面に立っていた外務官僚の口から発せられたと記憶している。この「湾岸戦争トラウマ」を抱えた外務官僚たちが、今回の集団的自衛権行使容認なる決定を、閣議決定のレベルで行なうという暴挙の背後にいたことは想像に難くない(例えば、7月7日付け『東京新聞』の「こちら特報部」を参照)。彼らからすれば、「戦争ができる国」が「ふつうの国」であり、すでに触れた「1991年/掃海艇をペルシャ湾岸に派遣」「1992年/成立した国際平和協力法に基づいて、陸上自衛隊施設部隊をカンボジアに派兵」を実現した後は、「ふつうの国」になるために、次の「略年表」に見られるような動きを着実に積み重ねてきたのである。(新聞各紙及び『週刊金曜日』6月13日号などを参照)

1999年/周辺事態法成立→戦争を発動した米軍を日本が「後方支援」できるよう法制化。

2001年/テロ特措法成立→インド洋に派遣された海自艦船が、米英などの艦船に洋上給油を行ない、実質的に参戦。

2004年/イラク特措法成立→〈人道復興支援〉の名目の下、イラクに9600人の陸海空自衛隊員を投入。

2005年/「日米同盟:未来のための変革と再編」発表→日米安保条約に基づいて米軍が在日の基地を利用できるのは「極東」における事態に対して、と限定してきた枠を取り払い「世界における課題に効果的に対処する上で」と改編。「極東」が「世界」に拡大したのだ。

2007年/自衛隊法改訂→「専守防衛」路線が実質的に放棄され、自衛隊の性格は根本的に変化した。

2009年/海賊対処法成立→ソマリア沖での「海賊対処のための海上警備」の口実の下で海自護衛艦を同沖に派遣。ソマリアの隣国=ジプチには、戦後初の自衛隊海外基地が建設された。

こうしてみると、集団的自衛権の行使容認に向けた策動を、現政権の特異な性格にのみ帰して理解することは、これまでの経緯と異なることがわかる。米国、イギリス、フランス、ドイツ、イタリア、カナダなど「G7」を日本と共に構成している国々は、例外なく「戦争ができる国」としてふるまってきており、それと同じレベルに並ぶことに価値を見出す者(勢力)たちは、長い時間をかけて、「現在」に向けた努力を積み重ねてきたのである。この経緯の中では、見逃すことのできない重大な変化が、民心内部に起こっている。それは、海外資産が年間予算を凌駕するようになった日々でもあり、米国に倣うように、海外の権益を守るためには軍隊の力に頼るしかないという意識が、人びとの中に浸透したということである。冷戦構造が今なお続いているかのような東アジアの緊張に満ちた政治・軍事状況も、人びとの「国防意識」に火をつけた。自らを省みることのない夜郎自大なナショナリズムに席捲された社会状況になっている以上、これに対する歯止めは利かない。

集団的自衛権行使容認が閣議決定されるという7月1日、その前夜の出来事に学んだ警備当局は、官邸前の坂道の片側の歩道を「立ち入り禁止地域」とした。抗議のために集まった人びとは、総理府を囲む四方の歩道に封じ込められ、「広場」に集まったときの一体感を持てないままに、「個」に孤立化させられた。

どこを見ても、楽観的な展望を語り得る状況ではない。私たちに求められることは、歴史的な経緯の中で事態を捉えることだ。現在の事態の依って来る由縁にたどり着くことがない限り、適切な対処法が見つかるはずもないのだから。(2014年8月3日記)

太田昌国の、ふたたび夢は夜ひらく[52]政府・財界が一体化して進める軍需産業振興の道


『反天皇制運動カーニバル』17号(通巻360号、2014年8月5日発行)掲載

ふだんはまったく関心をもつこともない『週刊ダイヤモンド』の表紙の大見出しに目を奪われた。6月21日号の「自衛隊と軍事ビジネスの秘密」である。読んでみると、経済合理性の観点から問題を捉える記事が多く、時勢に対する批判的な分析がなされているわけではない。それだけに、現状分析としては手堅いのかもしれぬ。この数年をふり返って見ても、『週刊エコノミスト』や『週刊東洋経済』が時折見せる、力のこもった特集記事は、マスメディアがほとんど触れなくなった、この社会の深部で密かに進行する事態を調査報道していて、大いに参考になる。こころして注目したいと思う。

『ダイヤモンド』誌に触発されて、この間の顕著な動きを整理しておきたい。現政権は4月1日、武器の輸出を原則禁止してきた「武器輸出三原則」を廃止し、それを原則解禁する「防衛整備移転三原則」なるものを決定した。6月10日、産業競争力会議に出席した財務相・麻生太郎は、某ベンチャー企業の技術が軍事技術に繋がることを理由に東大が協力しなかったために、同企業がグーグルに買収された事例に触れて、「このような問題が今回改革されるとのことで、期待している」と語ると、6月19日には防衛省が「防衛生産・技術基盤戦略」(新戦略)を決定し、国内軍需産業の強化・支援方針を打ち出した。これまでの武器の「国産化方針」に代えて国際共同開発と輸出を基本指針とすることで、「乗り遅れ」「米国などに大きく劣後する状況」にあった日本の軍需産業の「維持・強化」が可能になると寿いだのである。

時制は前後するが、5月下旬アジア太平洋地域の各国国防相がシンガポールに集まったシャングリラ会議では、解禁される日本製の高性能武器に対する関心が高まったという。加えて6月中旬にパリで開かれた陸上兵器の国際展示会「ユーロサトリ」には、三菱重工業、川崎重工業、日立製作所、東芝などの日本企業13社が出展した。

首相A・Sは世界各国に次々と外遊しているが、その際には常に、経団連会長を含めた大規模な経済ミッションを引き連れていることにも注目しておきたい。7月のオーストラリア訪問に際して合意に至った「防衛整備品及び技術の移転に関する協定」に見られるように、どの国とも「防衛協力の強化」が謳われている。同行している経済ミッションの主流をなしているのは、いままで自衛隊の装備品の生産を担うことで防衛調達上位20社に入ったことのある軍需メーカーである。その幾社は、政府が進める原発輸出を歓迎している原発メーカーとも重なり合っている。

武器輸出解禁は、政府開発援助(ODA)の領域にまで及ぼうとしている。経団連はODA見直し論を主導しているが、その論理は「民生目的、災害救助等の非軍事目的の支援であれば、軍が関係しているがゆえに一律に排除すべきではない」というものである。そこでは「テロ対策、シーレーン防衛、サイバーセキューリティ」などを「国際公共財」と呼んで、それへの参画を提唱している。それは、まぎれもなく、ODAその他の公的資金の軍用活用をめざすものであろう。『ダイヤモンド』誌が、自衛隊将官の天下り先トップの10社が防衛大手と完全に一致していることを暴露している事実にも注目したい。

「金のなる木」=軍需産業の「魅力」は、兼ね備えた論理と倫理において日本の現首相とは雲泥の差のある、非凡なる政治家のこころも捉えて離さない。1994年、アパルトヘイト廃絶後の南アフリカの大統領に就任して間もないネルソン・マンデラは、国連による対南ア武器禁輸が解除された事実に触れて、南ア軍需産業は「もはや秘密の幕に隠れて行動する必要はなくなり、国内外の完全な合法性を得るだろう」と語った。7万人の雇用を生み出している国有兵器公社アームスコールが、「平和と安全に貢献する武器輸出」を保証する自主技術を開発したことを称賛したのである。マンデラですらが、国を率いる政治家としてはこの陥穽に陥ったことを思えば、人類がたどるべき「武器よさらば」の道が、いかに長く厳しいそれであるか、ということがわかる。それだけに、それぞれの時代を生きる人間に、その時代の諸条件に制約されながらも、「軍需と軍隊」の論理から抜け出る努力が要請されるのである。

(8月2日記)

太田昌国の、ふたたび夢は夜ひらく[51]「自発的服従」の雰囲気の中で


『反天皇制運動カーニバル』第16号(通巻359号、2014年7月8日発行)掲載

新聞を読むのが怖くて、見たくないものを見るように、そうっと開く。「集団的自衛権の行使容認を閣議決定する」動きに抗議するために人びとが詰めかけた首相官邸前で、久しぶりに会った友が、そう言った。この一年間くらいか、私も同じ気持ちで日々を送ってきたし、親しい友人・知人の口から同じ台詞を聞いていたこともあって、一も二もなく共感した。新聞を丹念に読む習慣と熱意が薄れた。論理なき/倫理なき政治家の言動に、目も潰れる思いがするからだ。社会の基層に、これに対する抵抗力・批判力があるなら、まだしも、よい。それもまた儚いものであることが、メディアの在り方からも、社会の雰囲気からも察知できる。私たちは、そんな奇妙で、不気味な時代を生きている。

1990年代、私は『正論』や『諸君!』の誌面を占領していた右派言論を読んでは、これを批判する課題を自分に課した。右派言論は、ソ連型社会主義の敗北に乗じて、舞い上がっていた。彼らは、人類史がたどってきた歴史過程それ自体の内省的なふり返りを拒絶し、「勝利した」と彼らが豪語する資本主義が生み出している諸矛盾に対しても、目を瞑った。とはいうものの、私は同時に、広い意味で「社会主義的未来に加担してきた者」が、その敗北と向き合い、その克服のために努力しなければ、この困難な状況を突破することはできないことも、確信していた。誌面には、ほら、あいつは棄教して総括もしないまま逃げ去った、こっちの奴は失語症に陥っている、との揶揄が溢れた。元左翼が沈黙する間隙をぬって、自らの国が行なった近隣諸国に対する植民地支配と侵略戦争の史実を微塵も反省しない、かえって、そこに居直り正当化する議論ばかりが展開されていた。

当時その声は確かに大きくなりつつはあったが、まだ社会の片隅だけで語られていた。いまや、多様な変形が凝らされているとはいえ、その声は首相A・Sの声に重なり、各閣僚たちの声にも、政権党員はもとより多数の野党党員の声にも重なる。鶴橋や新大久保の街を震わす声も、その一亜種である。少なくないメディアも、その種の声に占領されている。その点が20年前との決定的な差である。

小泉政権時代に何度も書いたが、論理も倫理も媒介していない議論が横行すると、ひとは疲れる。小泉純一郎はその先駆をなした。それでいて、大衆的な「人気」はあった。多くの人びとがその道を選んだのである。現首相A・Sの場合もそうである。官邸前で会った友や私が罹っている「(新聞やテレビを)見聞きしたくない」病は、その疲れのせいだと思われる。理性は、別な道を歩めと囁くが、そんなものやってられるかという感情が勝る。街にあふれ出て「マルスの歌」を高唱する者たちには、当然にも、目を覆い耳を塞ぎたくなるのだ。

こころに鞭打って、「集団的自衛権の行使を容認する閣議決定」全文と首相の会見要旨を読む。紙面の一頁を覆い尽くしている。突っ込みどころは、あちらこちらにある。すでに多くの人びとがそれぞれに的確な批判をしている。だが、〈対話〉や〈討論〉の意味も知らず、論理も倫理も持たない人間だからこそ、A・Sはあの空虚な言葉を羅列することができた。恬として恥じることもなく。だから、どんな批判も通じることはない。

せめて〈討論〉に持ち込めるなら、A・Sの論理的な破綻はすぐに露呈する。議会がしかるべき野党を欠くことで〈討論〉の機能を失っていることは重大な欠陥だが、今後国会に提出される自衛隊法や周辺事態法などの「改正」案の討議の過程で、あるいは質問時間が極端に制限された記者会見の場で、A・Sの発する言葉がどんな事態を招き得るか――その可能性をあらかじめ放棄することもない。彼は自分のこの「欠如」を自覚しているからこそ、〈討論〉を避けるのだから。

正直な気持ちを言えば、小泉政権の時代もそうだったが、こんな水準の首相を相手に物言うことは虚しい。なぜか、こちらが恥ずかしくなってしまいさえする。だが、いまこの社会を支配するのは、このような大嘘を弄ぶ人間に対して「自発的に服従」(ラ・ボエシ)するかのような社会的な雰囲気である。私たちは、安倍一族批判を行なうことで、社会的に実在するこの雰囲気との〈討論〉を行なっているのである。ならば、それは、もちろん、むだなことではあり得ない。

(7月5日記)

ベトナムをめぐって、過去と現在を往還する旅


映画『石川文洋を旅する』公式パンフレット(大宮映像製作所+東風、2014年6月21日発行)掲載

1965年に米国が北ベトナム爆撃を開始してから、来年2015年で50年目になる。半世紀が経つということである。その65年から、解放勢力が占領米軍をサイゴン(現ホーチミン)をはじめ全ベトナム領土からの撤兵にまで追い込んだ75年までの10年間、私はほぼ20歳代の人生を送っていた。当時の私から見て、世界はベトナムを軸に動いているかのようだった。超大国=米国の巨大な軍事力を相手に、貧しい小国=ベトナムのたたかいぶりは際立っていた。南米ボリビアの山岳部で、反帝国主義のゲリラ戦の展開を図っていたチェ・ゲバラは「二つ、三つ、数多くのベトナムをつくれ、それが合言葉だ」とのメッセージを発した。米国の侵略とたたかうベトナムは、これを支援すべき中国とソ連の対立で悲劇的に孤立しているが、世界各地の民衆が「ベトナムのように」たたかうならば、敵=帝国主義の力は分散され、われわれの勝利の時が近づくのだ、というのがこのメッセージの趣旨だった。世界各地では、ベトナム反戦闘争が激しくたたかわれていた。米ソの対立によって規定された東西代理戦争の枠組でベトナム戦争を意味づける考え方もあったが、それは、第三世界解放闘争の主体性を無視した暴論だと、私には思えた。私は、不可避的なたたかいのさ中にあるベトナムの民衆が軍事的に勝利することを心から願い、祈っていた。75年4月30日、ベトナムは勝利した。蟻が巨象を前に立ちはだかった事実に、世界じゅうが沸き立った。

それから40年が経とうとしている。残酷な時間の流れの中で、65~75年当時には想像もつかなかったことが、ベトナムをめぐって起こった。また、当時のベトナムのたたかい方をめぐって新たな解釈が現われた。いくつかを任意に挙げてみる。米国に対して「盟友国」としてたたかった隣国カンボジアに、ベトナムは軍事侵攻した。同じく「同盟国」中国と、ベトナムは戦火を交わした。それは、2014年のいまなお、西沙および南沙諸島をめぐる領有権争いとして続いている。65~75年当時のベトナムと米国の政治・軍事指導者たちは、1995年からベトナム戦争をめぐる総括会議を開き、互いの政策路線や軍事戦略を検討し合った。これに参加した、当時の米国国防長官、マクナマラは「ベトナム戦争は誤りだった」と『マクラマナ回顧録――ベトナムの悲劇と教訓』(1997、共同通信社)に記した。単一支配政党であるベトナム労働党大会では、党幹部や政府幹部の汚職や職権乱用をいかに食い止めるかが、もっとも重要な議題となって久しい。

磯田光一という文芸批評家は、ベトナムの解放勢力が米国と妥協点を見出し、米国の「占領政策を通じてベトナムの復興を意図したほうが、勝つにさえ値しない戦争に勝つよりも、はるかに賢明だったのでは」と論じた。300万人に及んだ「あの膨大な死者たち」を背景に置きながら。ベトナム戦争の真っ只中で、日本の「国民的な」作家・司馬遼太郎はここまで書いた――戦争は補給如何がその趨勢を決するが、自前で武器を製造できないベトナムは、他国から際限もなく無料で送られている兵器で戦っている。大国は確かによくないが、この「環境に自分を追いこんでしまったベトナム人自身」こそ「それ以上によくない」として、世界中の人類が「鞭を打たなければどう仕様もない」。北ベトナム軍の兵士としてたたかった経験をもつバオ・ニンは、その後作家となり、『戦争の悲しみ』(1997、めるくまーる。現在は河出書房新社)と題する作品を書いた。そこでは、北ベトナム軍と南ベトナム解放民族戦線の兵士が、戦闘時にとったふるまいのなかには、戦争に疲れ慣れきってしまったがゆえに、他者のことを気遣ったり同情したりする余裕もないままに自暴自棄の行動に走る場合もあったことが、実録風に明かされている。

昨年10月、元ベトナム人民軍ボー・グェン・ザップ将軍の死の報に接した。ディエンビエンフーのたたかいの指揮ぶりや『人民の戦争・人民の軍隊――ベトナム解放戦争の戦略・戦術』(1965年、弘文堂新社、現在は中公文庫)という著作で、忘れがたい印象を残す人物だった。1911~2013年の生涯で、102歳という長命だった。この年号を見てふと思いつき、フランスの哲学者シモーヌ・ヴェーユの生没年を調べた。1909~1943年であった。ザップとヴェーユは、少なくとも前半生は同時代人だった。早逝したヴェーユは、最後まで社会革命に心を寄せ、その実現を願いながら、恒久的な軍隊・警察・官僚組織が革命の名の下に永続することへの批判と警戒を怠らない人であった。このふたりの生涯と思想を、同一の視野の中に収め、今後の課題を考えることが重要だと思える。

すぐれた「戦場カメラマン」である「石川文洋」を「旅する」とは、ベトナム戦争がたたかわれていた65年から75年にかけての、この狭い時間軸の中に彼を閉じこめてしまっては、できることではない。映画が描いているように、石川はいまもなお、ベトナムへの旅を続けている。「ベトナムから遠く離れている」私たちも、過去と現在を往還するそれぞれの旅を、万感の思いを込めてなお続けなければならない。

太田昌国の、ふたたび夢は夜ひらく[48]3月31日は、消費税引き上げ前夜だけではなかった


『反天皇制運動カーニバル』13号(通巻356号、2014年4月8日発行)掲載

この日のTVニュースは見ておこうと思った。3月31日――翌日からの消費税引き上げを前に、メディアには「売らんかな」の姿勢も顕わな売り手側と買いだめに走る消費者側の姿を、ここまでやるかと思えるほどに詳しく伝えた。ほんとうの怒りと苦しみはよそにしかないだろうと思うしかない、弛んだインタビューが続いた。私も身の丈に合った買い物はしたが、何かにつけて煽る売り手とそれに乗るメディアの術策に関しては、いつものように、冷ややかに見る視線を失いたくないものだと思った。NHKの場合には、今回の税率引き上げによって予想されている増収5兆円が、あたかもすべて社会保障費の充実に充てられるかのような、意図的な説明がなされた。首相の生の発言を挟み込みながら。政府発表に基づいてすら、その「充実」なるものに充てられるのは1割でしかないという事実が明らかになっているというのに。得がたい味方を、政府はNHKのニュース編成局に配置している。

同時に、私は、この同じ3月31日に期せずしてなされた3つの司法上の出来事に注目した。それは、まるで、年度末のドサクサを利用したかのように、「駆け込み」でなされた。

まず、あるかなきかのような報道しかなされなかったのは、強制送還死訴訟で国が控訴したという一件である。2010年、日本での在留期限が切れたガーナ人男性が、成田空港から強制送還される際に急死したのは、入国管理局職員の過剰な「制圧行為」が原因だとする遺族の訴えに関して、東京地裁が「違法な制圧行為による窒息死」であったことを認め、国に500万円の支払いを命じる判決が3月19日にあった。これを不服として、3月31日、国は東京高裁に控訴したのである。

私は新聞でしか見ていないが、判決のニュースはしかるべき質量でなされた(特に、朝日新聞3月19日夕刊及び20日朝刊)。在留期限を超えた人の入管施設での長期収容や、子どもや配偶者と切り離しての強制送還措置など、入管当局が日ごろから実施している行政措置の非人道性と人権意識の欠如が国際的にも問題視されている事実も伝え、今回の事態もその一環をなすことが読者には伝わった。ガーナ人男性は「暴れたために」機内で手足を手錠で拘束され口はタイルで猿ぐつわのようにして塞がれたうえで、前かがみに深く押さえつけられて、動かなくなった。「動きは完全に制圧され、格闘技の技が決まったときのようだった」とは、警備員の柔道経験に言及しながら、判決文が述べた文言である。地検は警備員をすでに不起訴処分にしていたが、遺族側の弁護士は「捜査対象が、検察と同じ法務省傘下の入管職員でなければ、すぐに起訴された事例」と述べたことは頷ける。だが問題は、現場職員の違法行為に留まることはない。ガーナ人男性は日本人女性と結婚しており、地裁は「夫婦関係が成立している」として強制退去命令を取り消したにもかかわらず、高裁が「子がおらず、妻も独立して仕事をしている。必ずしも夫を必要としない」という理由で退去命令を下したのである。その結果としての、成田空港での出来事であった。高裁の決定の言葉には、身が凍りつく。否、その人間観の貧しさに絶句する。司法上層部の言葉と下部現場職員のふるまいは、狭隘な同族意識の中で外国人を犯罪者扱いしている点で、両者が一体化した価値意識の持ち主であることを明かしている。

3月31日に行なわれた、残るふたつの出来事は、福岡地裁が飯塚事件の再審請求を棄却したこと、そして静岡地裁による袴田事件再審決定の取り消しを求めて静岡地検が即時抗告を行なったこと、である。いずれも、死刑問題に関わる重大な案件であるが、この事件の経緯と司法判断の在り方を少しでも調べたり、死刑囚の身を強いられたふたりの手紙や手記を読んだりすれば、誰もが、事態の「真実」に近い、合理的な判断に至るだろうと私には思える。それほどまでに、この2つの案件に関して「死刑を確定させた」司法の最終的な判断は、危うい。

私たちは、劣化するばかりの政治=政治家の在り方に、言葉も失うような日々を送っている。3月31日の3つの出来事は、司法もまた、救いがたい状況にあることを改めて示した。これが、ありのままの現実であること――そこが私たちの、避けることのできない「再」出発点である。

(4月5日記)

第3回死刑映画週間を終えて


死刑廃止国際条約の批准を求めるFORUM90ニュース「地球が決めた死刑廃止」134号

(2014年3月27日発行)掲載

第3回目を迎えた今年の「死刑映画週間」は2月15日(土)から21日(金)までの一週間、例年のとおり、渋谷のユーロスペースで開かれた。2年連続してこの催しものを開催してきた「成果」が今年の取り組み方には現われた。映画会に来場したことをきっかけにフォーラム90の定例会議その他の活動に参加している人が、数人いる。上映作品の選定やトークゲストの人選などで、その人たちからの意見も出て、最終的なプログラムにはそれが生かされている。アンケートで具体的な作品を推薦して下さった人の意見も取り入れられている。このことが、活動の〈広がり〉となっていることが実感されるのだ。

今回上映したのは8作品で、もちろん、それぞれの見所があるのだが、アンケートでもスタッフが耳にした直接的な感想でも、『軍旗はためく下に』と『さらばわが友 実録大物死刑囚たち』の評価がきわだってよかった。深作欽二と中島貞夫の作品はほとんど観ているはずなのに、なぜ、これは見過ごしていたのだろうと語る人は、ひとりやふたりではなかった。前者は1972年の作品だが、日本帝国軍が展開したニューギニア戦線で敵前逃亡の咎で処刑された軍人をめぐるこの物語では、毎年8月15日に執り行われる全国戦没者慰霊式典の虚しさや昭和天皇の戦争責任への言及がなされていることで、今回の惹句であった「国家は人を殺す」という事態の本質が浮かび上がってくる思いがした。あの時代には、こんなにも緊迫感のある作品を創る映画人たちがいたのだ、翻って、今の時代はどうだろう?――そんな思いを再確認された方が多かったのではないだろうか。

『さらばわが友~』は敗戦直後の時代に起こった事件で、その後死刑囚となった「有名な」人たちが登場する。フィクション仕立てではあるが、考証に基づいて再現されている、当時の獄中の情況などを見ると、厳格な制限と絞めつけばかりが目立つ最近の獄中処遇の異様さが際立ってくる。敗戦後の混乱期をすでに抜け出た1961年の事件である名張毒ぶどう酒事件を描く『約束』は、何代にも及ぶ取材陣が撮りためていた映像や実写映像も織り交ぜることで、警察・検察・裁判所の捜査・立件・判断に孕まれる嘘を明示的に突き出す。この社会で死刑制度を廃絶するために、人びとは、実に遠い道を歩んできていることを思わせる。諦めで、いうのではない。冤罪の犠牲者の立場から見れば、その道はあまりに遠すぎるのだ。2年連続の上映となった『ヘヴンズストーリ』の人気は高い。多面的な見方が可能な映画がもつ、独特の魅力なのだろう。

劇場公開は初めてであった韓国映画の『執行者』は、韓国の現実を背景に、制度は存続していても10年間以上も死刑執行がなされないと、人びとの意識がいかに変わるかを浮かび上がらせていて、示唆的だった。残りの3本『最初の人間』『声をかくす人』『塀の中のジュリアス・シーザー』は、いずれも最近公開されたばかりの作品である。国と時代を異にしながら、「罪と罰」をめぐる人類の試行錯誤の様子が普遍性をもって伝わってくる。映画は偉大だ。映画を通して死刑制度に向き合うよう、人びとを誘う「死刑映画週間」を、この日本では、まだ絶やしてはならない――と言ってみたくなる。

この「週間」は、いつも土曜日に始まり、翌週の金曜日で終わる。土曜・日曜に当たる初日と2日めで、総観客数の4割近くが来場される。それが過去2年間の実績だった。今年の初日、東京はその前夜から大雪に見舞われた(雪国の方よ、あの程度で「大雪」と表現することを許されよ)。劇場のある渋谷へ繋がる一鉄道路線は、その影響で終日運転不能になった。翌日曜日も、足元がおぼつかない、滑りやすい道路があった。初日と2日めの出足が阻まれて、今年は例年に比して3割強ほど来場者数が少なかった。当然にも、赤字は増えた。だが、再起不能なほどではない。

来年も「第4回め」を実施します。「フォーラム90」の総意です。読者の皆さんからの、さまざまな提案を歓迎いたします。スローガンは決まっています。今年は雪に負けたのだから、来年は「雪辱戦」です。死刑と冤罪の世界には、そういえば、「雪冤」という言葉もあるのです。

太田昌国の、ふたたび夢は夜ひらく[47]「真実究明・赦し・和解」の範例を遠くに見ながら


『反天皇制運動カーニバル』12号(通巻355号、2014年3月11日発行)掲載

状況分析のために必要性を感じて、昨年12月上旬の特定秘密保護法案成立以後、14年3月上旬の現在にまで至る3ヵ月間の「東アジア日録」を整理してみた。東アジア諸国の多国間関係に深い影響を及ぼす事項に限定した。日付を入れて1行40字でまとめていくと、たちまちのうちに70行を超えた。もっと丁寧に拾うと、100行なぞ優に超えてしまいそうな勢いを感じた。上に述べた限定的な観点で事項を絞り込んでも、ほぼ連日のように、どこかで何事かが起きていることを、それは意味している。別に生業をもつ、市井の個人が整理するには、その能力を超えた情報量である。その意味では、そんな個人でもある程度まではまとめることができるという点で、パソコンの威力を想った。

日本で目立つのは、戦後最大の岐路というべき時期を自らが思うがままに突き進む現首相A・Sの言動、加えてその取り巻きの補佐官や議員と閣僚、さらにはNHK新会長+経営委員らのふるまいである。靖国神社参拝、解釈改憲によって集団的自衛権の行使を可能にするための策動、旧日本軍「慰安婦」や南京虐殺をめぐって歴史を捏造する発言、学習指導要領解説書での「領土教育」の強化指針、巷にあふれ出るヘイトスピーチ――どれを取ってみても、すべてが周辺諸国民衆と為政者の神経を逆なでせずにはおかない方向性をもっている。それに反応するかのようにして、韓国・朝鮮・中国での動きが伝わってくる。私の考えからすれば、後者の言動のなかにも政府レベルであれ民衆レベルであれ、日本で噴出する醜悪なナショナリズムに対してその水準で対抗しようとするものも散見されないことはない。特に政府レベルでは、日本の場合と同じように、自らが生み出している国内矛盾から民衆の目を背けさせるために「外なる敵=日本」の存在を大いに利用している権力者の貌が見え隠れしている場合がある。それは、私の心を打たない。だが、まず変革されるべきは、日本の現為政者にみなぎる植民地支配と侵略を肯定する歴史観であり、同時にそれを陰に陽に肯定する社会全般の雰囲気であるという私の捉え方からすれば、他国のナショナリズムが「第一の敵」として登場することはあり得ない。言葉を換えるなら、国家間の歴史問題に関して、加害国側がその自覚を持たないふるまいを続ける、否むしろ現在の日本のように居直り、過去を肯定する態度を続ける限りにおいて、被害国側にそれを超える論理と倫理を求めることはできないというのが、「国家」に拘りそれを単位として行なわれている国際政治の変わることのない現実だ。ふたたび、別な観点から言うなら、だからこそ、A・Sを首班とする日本の「極右政権」はその政策路線を追求するうえで、緊張に満ちた現在の東アジア情勢(=国家間関係)から十分すぎる恩恵を受けているのである。どの国の民衆であれ、自国と隣国の国家指導者たちが興じる、この「ゲーム」の本質を見抜く賢さを獲得しなければならない。

主題は変わるが『現代思想』(青土社)三月臨時増刊号が総特集「ネルソン・マンデラ」を編んでいる。私も寄稿しているのだが、それを書き、そして出来上がったもので他者の論考を読んで、いちばん心に響くのは、アパルトヘイト(人種隔離体制)の廃絶後のマンデラ政権下で追求されている「真実究明・赦し・和解」への道を模索する姿勢である。「人道への犯罪」と呼ばれたアパルトヘイト体制の推進者――政治家、経営者、警察官、軍人、言論人、市井の人のどれであっても――の罪を告発し追及するのではなく、加害者が「真実」を告白し、被害者に「赦し」を乞い、それが受け入れられ、もって「和解」へと至るという、困難な道を彼の地の人びとは選んだのである。アパルトヘイト体制が内包していた、悪意に満ちた人種差別の本質を思うだに、それは渦中の人びとに(とりわけ被害者に)とって矛盾も葛藤もはなはだしい過程だったに違いない。だが、社会が「復讐」と「報復」の血の海に沈むことがないように、南アフリカの人びとはその道を選んだ。この範例の横に、加害者側からの「真実究明」がなされていない、否、それどころではない、「真実」を捻じ曲げ、隠蔽する動きが公然化している東アジアの実例をおいてみる。身が竦む。

(3月8日記)