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状況20〜21は、現代企画室編集長・太田昌国の発言のページです。「20〜21」とは、世紀の変わり目を表わしています。
世界と日本の、社会・政治・文化・思想・文学の状況についてのそのときどきの発言を収録しています。

太田昌国の夢は夜ひらく[13]天災を前にした茫然自失、人災の罪深さを問わず語りする放心の態


反天皇制運動『モンスター』15号(2011年4月5日発行)掲載

前世紀末からの20年あまり、私たちは政治・社会上の、経済上の、自然災害上の、大事件に見舞われてきた。ソ連崩壊(91年)、神戸大震災(95年)、地下鉄サリン事件(95年)、9・11事態(01年)、拉致事件の顕在化(02年)――加えて、世界のどこかしこで、従来の頻度と規模をはるかに凌駕して、ハリケーン、地震、津波による災厄が起こった。そのたびに、ひとは放心状態となった。それは、ときに、自分自身の姿でもあったから、他人事では、ない。

人が為したること、自然が為したること――ふたつが、未曽有の形で押し寄せてくる時代だ、と私は考えてきた。自然の、荒々しい胎動に関しては、新たな「創世記」の始まりなのか、という印象すらひそかに抱いていた。

そして、3月11日がきた。三陸沖で大地震が起こり、地震から瞬時をおかずして津波が、広く北日本・東日本の海岸地域に押し寄せた。この恐るべき天災について書くことばが、私には見つからない。三陸海岸地域の光景をひたすら目に焼きつけ、新聞記事を読みこむばかりだった。同時に、東京大空襲について考えようとした堀田善衛がそうしたように、鴨長明の『方丈記』を取り出して、読みふけった。

自然がもたらした災厄を前に、私自身が放心状態になっているとき、別な意味で放心状態になっている一群の人びとの存在に気づいた。それは、人災に関わることであるから、同じ放心状態と言っても、おのずからその意味は異なってくる。地震と津波の影響で福島原子力発電所に破損事故が発生した。この危機的事態の行く先は、3週間後の今も見えない。この問題については、毎日のように記者会見が行なわれている。登場するのは、原発の持ち主=東京電力の経営幹部・技術者・社員たち、「原子力施設を潜在的に危険性のあるものとしてとらえ、その危険性を顕在化させないこと」を使命としていると自ら謳う原子力安全・保安院の幹部たち、そして記者会見場に掲げられた日の丸になぜか敬礼してから登壇することを習慣化した官房長官と、ごく稀にしか出てこないが、東工大出身なので「原子力には強いんだ」という自負を持つらしい首相――これらの人びとの顔つき・表情に見られる「放心」の態のことをいうのである。

この時期に、いたずらに虚仮にするつもりは、ない。今回の事態の責任者たちは、ひとりの例外もなく、「想定外」の事態を前に、打つ手を知らず途方に暮れているのが現実だということを、しっかりと脳髄に刻み込んでおきたいと思うのだ。ネット情報ではあるが、原発の危険性をつとに指摘してきたある物理学者は、事故発生後「どうすればいいの?」と問うた人に、「打つ手はない。こういうことが起きる危険性があるから、原発に反対してきたんだ」と答えたという。原子力利用を推進する理論的根拠を提起してきた元原子力安全委員長・松浦祥次郎は、事故から三週間も経って発言し、「今回のような事故について考えを突き詰め、問題解決の方法を考えなかった」と語って「陳謝」したという。対極的な立場に立つふたりの発言から、私たちが現在直面している危機の深度を推測することができる。記者会見に現われる東電技術者たちは、見るからに確信を欠いた説明に終始しているが、専門家=松浦が告白したように、「想定外」のことに対処する術などもともと考えてもいなかったのだから、電力企業の技術者たちにも、日々起こっている想定外の新たな事態を前に、言うべき言葉が見つからないのであろう。泥縄式の対処であることを知っているから、表情は「放心」の態にしかならないのであろう。

福島原発の現場では、今日も、協力会社という名の下請け・孫請け企業の不定期労働者や東電労働者が、おそらく本人たちにも先の見えない弥縫的な労働に苦闘している。福島県からは、今日も、被爆を避けるために、日常的な暮らしの場を離れて県外へ出ていく人びとがいる。そして、外の世界には、「唯一の被爆国」と謳ってきた国が、人為によって、大気中と海水中に放出しつつある「死の灰」を恐れる人びとが大勢いる。名指しされるべき責任者たちが、いつまでも放心状態であってよいはずはない。津波災害に遠くから茫然自失していた私とて、「人が為しうること」を果たさねば、と自覚する。(4月3日記)

書評:本田哲郎『聖書を発見する』(岩波書店、2010年11月刊、2500円+税)


2011年1月上旬、「共同通信」から全国各紙に配信

著者はこの20年来、大阪の日雇い労働者の街・釜ケ崎でカトリックの神父をしている。神父であると名乗るよりは、「釜ケ崎反失業連絡会」などでの社会活動に重点を置いている。三代続くキリスト教徒の家に生まれ、生後二ヵ月で幼児洗礼を受けた著者は四代目となる。70年近い人生のほぼ全体をキリスト者として生きてきた。著者の述懐によれば、長いこと、聖書の翻訳文にしても神学者たちの聖書解釈にしても、伝統的なものを疑うことはなかった。

釜ヶ崎にあるアパートの二畳間に居を移し、日雇い労働者と日々接するようになってから、キリスト者としての著者の確信は揺らいだ。そこは、仕事も住む家も持たず、路上生活を強いられる「小さくされている人たち」がおおぜいいる街だ。憐れみや施しの感情を接点にして、食べ物や寒さしのぎの毛布を配布して、著者が満足感を覚えた時期はやがて終わる。難民というべき労働者が耐え忍んでいる受苦の本質とも、自立したいという彼らの熱望とも、自分の行為は噛み合っていない事実に気づいたからだ。

そこで、著者は労働者とともに聖書を読み直し、その神髄を「発見」する。その過程を行きつ戻りつたどったのが本書だ。信仰者ではない私でも知っているような、聖書の中の有名な表現が、原語に基づく著者の再解釈によって読み直されていく。そこにこそ、本書の読みでがある。伝統的な訳業および解釈と、著者のそれとは、価値観において真っ向から対立する。だからこそ、同じキリスト者の名において、一方では十字軍や米大陸の征服のような無慈悲な事業がなされ、現代にもブッシュのような好戦主義者もいれば、他方に解放神学者や著者のような理念と生き方も生まれる。

無神論者の私にも、その宗教的理念と生き方が大切だと思う宗教の開祖や信仰者は幾人かいる。著者は、私にとってそのような人となった。

太田昌国の夢は夜ひらく[10]冷戦終焉から20年、世界のどこかしこで、軍事が露出して……


反天皇制運動機関誌『モンスター』第11号(2010年12月7日発行)掲載

朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)が有する暴力装置=朝鮮人民軍が、11月23日、海岸砲なる武器を使って韓国支配下にある延坪島に砲撃を加えた。兵士と基地労働者4人が死亡した。これに対して韓国は、自らが持てる暴力装置=韓国軍による反撃を行なって、北朝鮮領内に砲弾を打ち込んだ。被害の規模を北朝鮮側は明らかにしていない。誰にも明らかなように、東アジア地域には、世界の他の地域と比較して稀なことに、ソ連崩壊(1991年)によって消滅したはずの東西冷戦構造が今なお頑として生き残っている。それは、日本国政府・社会の、歴史問題をめぐる無反省ぶりと、政治・軍事の現実のあり方に起因するところが少なくないことを自覚する私たちにとって、無念と恥辱の根拠であり続けている。その冷戦が、あわや「熱戦」の端緒にまで至ったのである。

日本の政府もメディアも世論も、北朝鮮はやはり「何をしでかすかわからない、不気味な国」だとの確信を深め、自国防衛力増強の道を嬉々として選択しようとしている。11月28日からは、「母港」横須賀から出撃した米原子力空母ジョージ・ワシントンも参加した米韓共同軍事演習が黄海で行なわれた。それを報じるNHKニュースは、「敵に対する」という言葉遣いで、この共同演習の動きを伝えた。イギリス軍も参戦した2001年アフガニスタン戦争の実態を報道するに際して、BBCは「テロリズム」ではなく「攻撃」を、「わが軍」ではなく「英国軍」なる用語を使うことでせめても事態を客観視し、視聴者の「愛国主義的」情動をいたづらにかき立てることを避ける原則を立てた。NHKの中枢には、この程度のジャーナリスト精神にも欠ける者たちが居座っているようだ。

少数だが例外的な意見もあって、北朝鮮軍による砲撃の前日から韓国軍は「2010護国演習」と称する大規模な軍事演習を延坪島周辺を含めて行なっていたこと、それを知った北朝鮮側は繰り返し演習の中止を要求していたこと――などを根拠に、韓国側による「挑発」行為の重大性を指摘しているものもある(12月1日付「日韓民衆連帯全国ネットワーク」声明など)。

全体像を把握したうえで事態の本質を見極めるためには、これは重要な指摘だと思うが、ここでは、もう少し先のことを考えたい。砲撃を行なった朝鮮人民軍は、金正日独裁体制を支える要である。人権抑圧に加えて飢餓に苦しむ民衆の上に君臨している特権的な存在である。持てるその武器を、北朝鮮の民衆に対しても躊躇うことなく向けるように教育されている「人民軍」である。韓国軍の挑発を指摘する論理が、この朝鮮人民軍の軍事的冒険主義を免罪する道に迷い込むような隙を見せてはならない、と私は自戒する。

事態は、思いのほか錯綜している。米韓共同軍事演習を伝えた12月3日の中国中央テレビ(それは、もちろん、中国政府の官許放送である)は、空母ジョージ・ワシントンの動きに焦点を当てた。中国近海の黄海における今回の演習への参加についてもとりたてて批判的な取り上げ方はせず、むしろ今夏に同空母が行なったべトナム、タイなどへの訪問の「友好・親善」的な性格を伝えたのだった。事実、米軍はベトナム軍との間で(!)合同軍事演習すら行なったのである。中国は、米国の砲艦外交を批判するのではなく、むしろそれを手本とする軍事大国への道を歩みだしている。それは、時同じくして、米国が単独では担いきれなくなった「世界の警察」になる新戦略を打ち出したNATO(北大西洋条約機構)の愚かな方針とも重なり合う。

自衛隊を正しくも「暴力装置」と呼んだ官房長官は、マックス・ウェーバーの定義にも無知な保守政治家に攻め立てられて、発言を撤回した。日本軍は、世界でもっとも凶暴な「暴力装置」としての米軍と共に、いま、九州と周辺海域での共同統合実働演習を行なっている。それは、若き日に「暴力装置」の解体か廃絶をこそ望んだであろう現官房長官も加担して推進している「防衛政策」の一環である。

東西冷戦の基本構造が消滅したことは悪いことではなかった。だが、その廃墟の上では、世界のどこかしこで、「思想」も「倫理」も投げ捨てた者たちが、古い時代の無惨な「冷戦音頭」に踊り惚けている。(12月4日記)

いま植民地責任をどう考えるか


ピープルズ・プラン研究所『季刊ピープルズ・プラン』第52号(2010年12月発行)掲載

世界で

1、継続する植民者意識

今世紀が明けて一年目の2001年、米国が「反テロ戦争」なる名目の下に、アフガニスタンに対する一方的な攻撃を開始して間もないころ、「国家の体をなしていない国は、いっそのこと、植民地にしてしまうほうが楽だな」という言葉が聞こえてきた。米国の政治・軍事指導部から出てきた言葉だ、と当時のメディアは伝えていた。大国の政治指導者が「無意識に」抱え込んでいる本音がむき出しになったこの言葉を聞いて、植民地主義を肯定する植民者の意識の根深さを思った。

このような意識が根拠づけられる素材は、日常性のいたるところに転がっているように思える。これはアフガニスタンをめぐって吐かれた言葉であっただけに、私はすぐ、コナン・ドイルの第1作『緋色の研究』(1887年)を思い出した。この作品の冒頭では、やがてシャーロック・ホームズに出会うことになるワトソン博士は、イギリスがすでに植民地化していたインドに派遣されたのだが、イギリスはアフガニスタンの植民地化をめざして第2次アフガニスタン戦争(1878〜80年)を開始していたためにその戦争に従軍し、そこで負傷して帰国した、という設定になっていたことが頭に浮かんだのである。久しぶりにこれを再読してみると、負傷したワトソンは、「献身的で勇敢な部下」が「私を駄馬に荷物のように乗せて、ぶじに英軍の戦線まで連れ帰ってくれたから助かったようなものの」、そうでなければ「残虐きわまりない回教徒戦士の手におちてしまっていただろう」という表現も出てくるのだった(創元推理文庫、1960年、阿部知二訳)。侵略行為の罪は不問に付して、相手側の「残虐」性を言うこの倒錯!

この作品には、カンダハルやペシャワールなどの地名も出ており、19世紀後半当時7つの海を制覇していたイギリス帝国の内部における世界認識が、植民地支配を通していかに広がりをもっていたかを、言外に語るものでもあった。このあと書き続けられることになるシャーロック・ホームズの一連の作品においても重要な脇役を演じるワトソンの履歴に、「植民地獲得戦争で負傷して帰国した」という味付けを施すことで、同時代に生きるイギリス人読者から「国民」としての一体感が得られるだろうという計算を、巧妙にも、コナン・ドイルはしたのであろうか。

他方、同じ事態を異なる視点から捉える人物も、同時代的に存在する。ドイツに生まれたカール・マルクスとフリードリッヒ・エンゲルスはコナン・ドイルとほぼ同時代人であったと言えようが(三者の生年はそれぞれ順に、1818年、1820年、1859年)、エンゲルスには、1857年8月頃に執筆したとされる「アフガニスタン」と題する論文がある(大月書店版『マルクス=エンゲルス全集』第14巻所収)。

翌年『ザ・ニュー・アメリカン・サイクロペディア』に発表されたものであるが、それは当時の米国の進歩的ブルジョアジーが企画した百科全書的な媒体であったから、またその原稿を書くことは当時のエンゲルスにとって(マルクスにとっても)重要な生計手段であったから、目的に即した客観的な地誌・民族・宗教・歴史の叙述となっている。19世紀に入って、この地を支配しようとした帝政ロシアとイギリスの角逐にも当然触れているが、すでにインド大陸を植民地支配していたイギリスがインダス河を越えてアフガニスタンに軍事的展開をする段(1839~42年の第1次アフガニスタン戦争のこと)の記述に至ってもエンゲルスは場を弁えて客観的な立場に徹してはいるが、イギリスのアフガニスタン征服の策動が(エンゲルスがこの論文を執筆した時点では)失敗に終わっていく過程を鋭く分析して、記述を終えている。

後世の目で見れば、当時のマルクスとエンゲルスには、イギリス資本主義による、たとえばインドに対する植民地支配の「非道なやり口」という批判的な分析はあっても、頑迷なインドの共同体構造をイギリスが破壊することによって、インド近代化の道が開けるという「資本の文明化作用」に期待を寄せていた点が、批判の対象となっている。私も、この批判的な捉え方に部分的には共感する者だが、それでもなお、19世紀後半のアフガニスタンにわずかなりとも触れた世界的に著名な著作として、コナン・ドイルとエンゲルスのそれを対照的に取り上げること、そこから、当時すでに相当な程度まで世界に進出していたヨーロッパ地域の人間たちが、意識的にか無意識的にか抱えていた「進出対象」の異境に対する捉え方を導き出すこと――「帝国」内の意識は継続していると考えられる以上、それは重要な、過去へのふり返りの方法だと思える。

2、植民者と被植民者

2001年の「反テロ戦争」を「植民地主義の継続」(註1)という問題意識で思い起こすとき、触れるべきもうひとつの課題がある。それは過去に遡及するものではなく、まさに同じ年の2001年8月31日から9月8日まで、南アフリカのダーバンで開かれていた国連主催の国際会議について、である。「人種主義、人種差別、排外主義、および関連する不寛容に反対する世界会議」(以下、ダーバン会議と略称)がその会議の呼称なのだが、「人道に対する罪」というべき奴隷制、奴隷貿易、植民地主義に対する歴史的な評価を下す場であった。

この会議については、日ごろは国際的に重要な課題に対するアンテナの精度が高くはないと私が考えている日本の新聞各紙でも、一定のスペースを割いた報道が連日なされていた。この会議が開催されることを事前には知らなかった私は、事態はここまで進んだのか、と感慨深いものがあった。

思えば、この種の課題に関して、世界的にみて潮目が変わったのは、1992年だというのが私の考えである。それは、1492年の「コロンブス航海」から500年目の年であった。500年前のこの出来事を決定的な契機として、ヨーロッパによる異世界征服の「事業」が開始された。先駆けて進出したのは、ヨーロッパの「辺境」に位置し、大西洋に面するイベリア半島のスペイン・ポルトガルの両国で、差し当たっての具体的な征服対象はアメリカ大陸諸地域であったが、やがて、ヨーロッパ全域がアメリカ、アフリカ、アジアに対する植民地支配を拡大していくことに繋がっていく。常に勝者によって書き綴られてきた世界史は、この出来事を「大航海時代」とか「新大陸の発見」と名づけてきた。いわば、それが偉大なる「事業」だとするヨーロッパ的な視点で解釈されてきたのである。

だが、「コロンブス航海」から500年目を迎えた1992年――世界じゅうで、人びとの歴史意識は現実から大きな挑戦を受けていた。前年末、74年間続けられてきたソ連型社会主義体制は崩壊した。20世紀を生きた人びとの価値意識を大きく規定してきた「資本主義 vs 社会主義」の対立構造は、この段階でいったん終わりを告げた。資本主義の担い手たちは、当然にも、資本主義システムの勝利を謳歌した。あらゆるものを商品化し、それらを単一市場での自由競争の試練に曝し、すべての欲望を解き放つことへの、手放しの賛歌! 合唱隊に加わる者も多かったが、その価値観を懐疑し、批判し、疑問を提起する者が絶えたわけでもなかった。解消できない南北格差、全地球的な環境問題の深刻化――その根源を追求しようとする「南」の世界の人びとが声を挙げ始めた。ソ連の崩壊によって「東西冷戦」構造が消滅したことで、いままで隠蔽されてきた矛盾が誰の目にも明らかになった、とも言える。

他方、欲望のおもむくままに人びとを消費に駆り立ててきた高度産業社会の中心部に広がる空虚な疲弊感――「北」の世界でも、産業社会そのものに対する懐疑が広範に生まれていた。それは、資本主義的発展が可能になった根拠までをも問い直す懐疑であった。

「南」と「北」は、20世紀末に人類が直面している諸問題の根源にまで行き着く共通の問いかけを持った。資本主義が世界を制覇するきっかけとなった「コロンブス航海」の時代にまで遡って歴史過程を総括すること、これである。アメリカ大陸の民衆は、この期間を「インディオ・黒人・民衆の抵抗の500年」と捉えて、ヨーロッパによって剥奪されてきた権利を奪い返す運動を開始した。欧米諸国や日本などの産業社会では、私たちが東京で開催した「500年後のコロンブス裁判」のように、植民地支配・奴隷の強制連行と奴隷制などを通して実現された資本主義近代を問い直す催し物が開催された。それは、世界に共時的な動きであった。「潮目が変わった」と私が表現したのは、このことを指している。

この延長上で注目されるべき2001年ダーバン会議の成果は、閉幕3日後に起きた「9・11」事件とそれに引き続く「反テロ戦争」の衝撃によって、世界じゅうに十分には浸透しないままに終わった。植民地支配や奴隷貿易などの「人道に対する罪」が、初めて世界的な規模の会議で討議されてから間もないころに、いまなお植民地主義的ふるまいを続けている超大国の為政者内部では、自国が無慈悲な一方的爆撃を実施しているアフガニスタンを指して、「いっそのこと、植民地にしてしまうほうが楽だな」という言葉が吐かれていたのである。

こうして、植民地主義を歴史的根源に遡って批判することを通してその理論と実践を廃絶しようとする動きと、なおそれを延命させ継続させようとする動きとは、21世紀初頭の世界的現実の中で対峙している。しかし、時代状況は、もはや揺り戻しの効かない地点にまで来たのではないだろうか。今年10月には、名古屋で国連生物多様性条約第10回締約国会議が開かれたが、そこでの討議においても、「大航海時代」以降と植民地時代に行なわれてきた動植物資源収奪に対する賠償・補償の必要性をアフリカ諸国の代表は主張した。先進諸国は、そんな過去にまで遡って賠償だ、補償だ、と言い出したら、世界は大混乱に陥る、と悲鳴を挙げている。だが、列強が異境を植民地化し、奴隷を強制連行した時点で、それらの現地は大混乱に陥ったことを忘れるわけにはいかない。

解決の方法は、私たちの/そして今後来るべき人びとの知恵に委ねるほかはないが、植民地支配がもたらしたものをめぐる問題設定は、揺るぎなくなされるに至った、と言える。それは、「人類」という意味での私たちが獲得している、決して小さくはない歴史的成果のひとつである。

東アジアで

1、秀吉の朝鮮侵攻を引き継ぐ意識

「韓国併合」から100年目の年を迎えた今年、過去をふりかえるためのさまざまな文献を参照した。その時どきの、さまざまな社会層の象徴的な発言をいくつもメモしたが、紙幅の制約上から傾向を2,3に絞って挙げると、16世紀末の1592年と1597年に行なわれた豊臣秀吉による朝鮮侵攻と結びつけて、自らがなした行為の意義を浮かび上がらせる表現が、近代日本の軍人あるいは軍人兼政治家の中に目立った。

有名な逸話だが、併合した際の「祝宴」の場で、朝鮮総督・寺内正毅は詠んだ。

小早川加藤小西が世にあらば今宵の月をいかに見るらむ

小早川、加藤、小西はいずれも秀吉が朝鮮侵攻のために動員した巨万の軍勢を率いた大名たちの名前である。寺内は、その後1916年には首相に就任し、成立したばかりのロシア革命に干渉するシベリア出兵を1918年に強行した。それを引き継いだ宇垣一成は、職業軍人としてやがて国家総動員体制の確立に努めることになる人物だが、シベリア撤兵の日(1922年10月25日)の日記に書き記した。

「大正十一年十月二十五日午後二時十五分は之れ浦潮(ウラジオストック)派遣軍が愈々西伯利(シベリア)撤兵最後の幕切れでありた。神后以来朝鮮に占拠せし任那の日本府の撤退、太閤第二次征韓軍の朝鮮南岸の放棄を聯想して実に感慨無量、殊に渾身の努力を以って西伯利出兵に尽したる余に於ては一層痛切なり。(……)捲土重来の種子は此間に蒔かれてある。必ずや更に新装して大発展を策するの機到来すべきを信じて疑わぬ。又斯くすべきことが吾人の一大責務である!!

偉人英傑の偉大なる力にて捲起さるる風雲は、人間生活を沈滞より活気の中に導き、弛緩より緊張の世界に躍進させ得る。」(『宇垣一成日記』1、みすず書房、1968年。原文ママ。括弧内のみ引用者)。

宇垣の場合には、神功皇后→任那日本府→太閤秀吉→シベリアの諸経験を時空を超えて結びつけ、すべてに共通する「撤退」への無念の思いを吐露している。

これと対照的な表現をなした同時代の人物を挙げるなら、芥川龍之介だろう。「金将軍」(1924年)はわずか数頁の小品だが、小西行長が「征韓の役」の陣中に命を落したという朝鮮での虚偽の言い伝えに示唆を得て、緊張感にあふれた伝説の世界を作り出している。言わずもがな、のことだろうが、そこからは寺内や宇垣とは対極にある歴史意識を感じとることができる。芥川はまた、日露戦争の「英雄」にして日本軍国主義の「軍神」=乃木希典を「将軍」(1922年)で取り上げ、残酷な行為の果てに勲章に埋まる人間に対する懐疑を表明した。芥川が、寺内や宇垣などの政治・軍事指導者が表明する価値観に強く同調しながら形成されてゆく当時の「世論」と一線を画し得た事実から、私たちが学ぶべきことは多いだろう。文学者で言えば、夏目漱石の朝鮮観については、すでにいくつもの重要な分析を行なった書が出ているが(註2)、漱石は一時期、1895年日本軍兵士と壮士が韓国王妃を殺害したことを「小生近頃の出来事の内尤もありがたきは王妃の殺害」(1895年11月13日付正岡子規宛て書簡)とまで述べて、やがて韓国を植民地していく日本社会の風潮にしっかりと同調していた。隣国の王宮に押し入った日本の兵士が王妃を虐殺するという驚くべき事件を、漱石がこのように受けとめたという帝国内部の「意識の日常性」は、現在にも引き続くものとして問い直すべきだろう。同時に、その漱石の価値観は、日露戦争を経て揺らぎ始め、晩年には戦争や侵略をめぐって別な世界に歩み出ようとしていたと思われる表現もあって、その「可能性としての」変貌の過程は、漱石が近代文学史上でもつ重要性に鑑みて、再検討されるに値すると思われる(註3)。

2、領土抗争をめぐって急浮上する植民地主義の継続

寺内正毅が秀吉軍の大将たちが抱いた朝鮮征服の夢を思い浮かべた歌を詠んでから百年後の今年、日本社会は改めて、自らの植民地主義を継続するのか否か、の問いに向かい合っている。だが、問われているのがそのような問題であるという自覚は、私たちの間に広く浸透しているとは言えない。それは、かつて植民地を保持した「帝国」が、それをはるか以前に失ってからも、例外なく抱え続けている問題である。

この年、日本ではまず、日米安保条約と憲法九条の関係性如何という問いが、沖縄の米軍基地問題をめぐって提起された。この課題に関わっての民主党政権の迷走と、それに随伴した「民意」を分析してみると、平たい言葉で表現するなら「戦争は厭だが、中国や北朝鮮の脅威があるから日米安保で守られているほうがよい」となるほかはない。

憲法9条が成立し得る根拠は沖縄に米軍基地があるからだ。それがあって日本国が守れるという担保の構造を日本国も良しとしてきた――という趣旨のことを語ったのは、2005年の新川明だった(「世界」20045年6月号、岩波書店)。新川はさらに言う、沖縄は戦後60年間ずっと「国内植民地」だったのだ、と。私は「植民地」の前に「国内」を付することだけは留保して、新川の分析方法に基本的に納得するが、そうだとすれば、問題はここでも「植民地主義の継続」なのだ(註4)。

さらに今年九月に入って、中国との間で尖閣諸島(釣魚島)領有権問題まで発生することで、「植民地主義」という問題性を帯びた問いはいっそう切実感を増している。なぜなら、民主党政権は「尖閣は明白に日本に帰属」と主張しているが、日本国が尖閣の領有権を主張したのは日清戦争後の1895年で、それは下関条約に基づいて台湾を植民地化した時期に重なっていることが明らかになるからだ。さらに、沖縄の人びとの生活圏の一部として尖閣を位置づける場合には、今度は、1879年に明治国家が行なった「琉球処分」という名の沖縄植民地化の過程を問い質す課題が必然的に生まれてくるからだ。

こうして、すでに60年前に終焉の時を迎えたはずの植民地主義支配の遺制は、「帝国」を、抜け出ることのできない蜘蛛の巣に絡め取っている。その遺制が、旧植民地主義支配国と被支配国との間の、現在における力関係(政治・経済・文化的影響・開発と低開発などの面で)の落差を規定している以上、支配された側はその遺制の撤廃と解決を求めるのが当然だからである。最近の国際会議の場における「南」の諸国の主張は、その線に添ってなされていると解釈できる。問いかけが発せられたからには、植民地主義が生み出した諸問題を解決するためのボールは、いまは、支配した側の手中に握られている。

(註1) この表現をそのまま表題としている著書に、次のものがある。岩崎稔ほか編著『継続する植民地主義――ジェンダー/民族/人種/階級』(青弓社、2005年)。また同じ問題意識に貫かれた著書に、永原陽子編『「植民地責任」論――脱植民地化の比較史』(青き書店、2009年)がある。

(註2) 最近でも、小森陽一『ポストコロニアル』(岩波書店、2001年)、同『漱石――21世紀を生き抜くために』(同、2010年)、金正勲『漱石と朝鮮』(中央大学出版部、2010年)などがある。

(註3) 松尾尊兊「漱石の朝鮮観 手紙から探る」(朝日新聞2010年9月17日付け)に示唆を受けて、未読だった漱石書簡集に目を通した。

(註4) この問題を多面的に深く分析したのが、中野敏男編『沖縄の占領と日本の復興――植民地主義はいかに継続したか』(青弓社、2006年)である。

いわゆる「尖閣諸島」問題について


『人民新聞』2010年10月15日号掲載

国家を背景にして発言したくはない、と思い続けてきた。国家人あるいは国民という自己規定に基づいて発言することはしたくない、とも。
それは、先人たちが火傷を負い、他民族にまで害悪を及ぼした日本民族主義・日本国家主義の克服をめざす立場から、である。加えて、国家なるものは、私自身のアイデンティティを最後まで根拠づけてくれるような存在ではないからである。

人類史をふり返ってきて、たかだか数世紀の歴史しかもたない近代国家の枠組にわが身を預けてしまうことの、自他に対する「危うさ」を知ったからである。

そのような立場から、いわゆる北方諸島問題について発言したことがある。

ソ連体制末期の一九九一年、当時のゴルバチョフ大統領の来日が予定されていたころ、日本での「北方領土返還運動」はメディア上での世論扇動も、右翼の情宣活動もピークに達していた。

日本もソ連も、近代国家の枠組の論理で相互の対立的な主張を繰り返していたのだが、私の考えでは、領土問題はそのような国権の主張では解決できない種類のものであった。

近代国家の形成以前から、「無主地」であるそこを生活の現場としていた先住民族の共同管理地域として、領土紛争なき自由地とするしかない。日本からはアイヌが、ソ連からはサハリン、シベリアの北方諸民族が集って、土地と周辺海域の利用方法を考えればよい、と私は主張した。

国民国家の論理を否定するこの解決方法を「夢想」と嗤う者もいたが、国境や排他的経済水域の論理で国家同士が角突き合いしていれば解決できるという見通しを、その批判者とて持っているわけでもない。

ならば、一見したところ永遠の彼岸にあるかのごとくに見えるかもしれない、脱国家主権の論理に基づいて「地域住民」による共同管理の方途を探ることを提案し、その具体化を図るという道をたどる者がいてもよい。

その場合「地域住民」のなかには、近代国家形成の過程でそこへ「植民」してきて今も住みついている人びとを、排他的な既得権を主張しない限り排除しない、という程度の倫理を忍び込ませておけばよい。

ひとが、現存する秩序を前提としてしか発想ができないものであるならば、遠く未来を見通した理想を語ることも、来るべき未来を夢想することも、それを手近に引き寄せるために日常的な努力する者も立ち現われることはない。

いわゆる尖閣諸島(中国の言う魚釣島)をめぐって噴出している日中間の軋轢についても、私なら、同じ視点で分析する。菅民主党政権、マスメディア、北朝鮮や中国との間に緊張が走ると途端に活気づく安部晋三らの愚昧な政治家、反中ナショナリズムで沸騰する「世論」――この社会の多くの人びとは、この諸島が「日本の領土」であることと確信している。

日本政府が一八九五年の閣議決定によってここを日本領に編入し、これが歴史的に最初の「領有行為」であったから、国際法上でも、最初に占有した「先占」に基づく取得および実効支配が認められている、とするのである。

この、歴史的には後世につくられた国際法上の概念こそが、すでに既成の事実として積み重ねられてきていた、帝国主義による植民地支配を「合法化」し正当化する論理を構成してきた。

尖閣諸島の場合も、「一八九五年」という年号と「台湾」の近々である該当地域に注目するなら、やがて悲劇的に展開することになる日本帝国主義による植民地支配の一歴史的過程であることは、一目瞭然ではないか。

二一世紀も一〇年が過ぎて、国家間対立・国境紛争・経済格差・環境悪化・温暖化など人類社会が突き当たっている諸問題と真剣に向き合うならば、たとえば「領有権」問題に関して言うなら、「先占」の概念そのものを再審に付さなければならないことは、自明のことと思える。

そこへ踏み出すことなど考えたこともなく、未来永劫「国家」にしがみついていれば安心立命していられると思い込んでいる人びとが、中国を含めてどの国でも「国民」の多数派であることは、否定し難い現実だ。

一見不動に見える現実を前にしてもなお、その時代状況の中では「空想」か「夢」のような問題提起を行なう者がおり、それを実現するための、不断の運動・活動があったからこそ、惨めでもあるが進歩してきた側面もないではない「現在」があるのだ。
(10月13日記)

太田昌国の夢は夜ひらく[8]検察特捜部の「巨悪」の陰に見え隠れする、日常不断の検察の「悪行」


『反天皇制運動モンスター』9号(2010年10月5日発行)掲載

この六年間、死刑囚が獄中で行なう「表現」に触れている。

「死刑囚表現展」の運営と選考に私自身が携わっているからである。

書、絵画、俳句、短歌、詩、エッセイ、フィクションおよびノンフィクションの中長編――何かにつけて制限の多い獄中にあって、さまざまに工夫を凝らした表現が届けられる。ここでは、ノンフィクションの作品に孕まれている問題に限って、いう。

自らが関わった事件をふり返り、犯罪の様態を含めて詳しく書き込んだ作品が送られてくることがある。

なぜ、あのような残虐な行為に、自分が手を染めたのか。悔恨は深い――そのような作品もある。

書かれてあることの「真実性」如何は、肝心な箇所での表現方法や全体的な筆致から判断するしかないが、それにしても、犯行の構成要素のひとつでも欠けていたなら!、と思わせられることがある。

犯罪の多くは、「必然性」によってではなく「偶然性」によって引き起こされると思われるほどに、あれか/これかの要件をひとつでも欠いていたなら、この人があの、目を背けずにはいられないような犯罪に走ることはなかったろうに、と思われるのである。

さらに印象的なことは、多くの死刑囚が「部分冤罪」を訴えていることである。

被害者は当然にも身を避けたり抵抗したりするわけだから行為それ自体の順序、絞殺などの手による行為の場合の被害者との位置関係、凶器の用い方、共犯者がいる場合にはそれぞれの「役割分担」、主導性と随伴性――いくつもの問題をめぐって、死刑囚は、警察・検察の取調べ段階で取られた調書では、自分の行為・役割・意図などが捻じ曲げられて表現されているという不満をもっている。

結果的に被害者を死に至らしめたとしても、それがいかなる経緯でなされたかということは「情状」問題に大きく関わってくることであり、また誰にせよ、自分がなした行為が曲げて解釈されることには耐えがたいものを感じるだろう。

加害者が自らの罪を軽減するために自分に都合のよい形で自己主張している、という捉え方は当然にもあり得る。

その点は、けっこう、用いられている言葉や文体によって推し量ることができるものだという感想はあるが、いずれにせよ、決定的な根拠にはなり得ない。

このことを前提にしたうえで、警察・検察段階での取調べの様態と調書の作られ方には、あまりにも深刻な問題が孕まれているということは強調しておきたい。

自分が関わった事件を記述する死刑囚の多くは、取調べ段階で、警察・検察が描いた通りのシナリオに嫌々ながら引きずり込まれていく心理を語っている。

そのシナリオをどんなに否定しても、怒鳴られ、こずかれ、蹴られ、殴打され、彼らのシナリオを認めなければ長時間の取調べが続いて、自暴自棄になるのだ。

あるいは、これを認めれば罪が軽くなるという甘言を信じたり、裁判で真実を話せば分かってくれるだろうと絶望感の底で思ったりしてしまうのだ。

このことは、警察・検察が犯し、それに無批判的に追随した裁判所によって引き起こされたいくつもの冤罪事件によって、夙に明らかになっていたことだ。

最近の例でいえば、足利事件の菅谷さんに過酷な半生を強いた責任は、警察・検察・裁判所の「共犯」にあったという、隠しようもない事実を思い起こせば十分だろう。

加えて、警察・検察は持てる権限と人員を最大限に活用していくつもの証拠物件を得ていくが、仮にそのうちのひとつが、自らが描いたシナリオを覆す場合には隠蔽してしまい、被告も弁護人もその存在を知らないままに裁判が進行して判決にまで至ってしまうというのが、日本の刑事司法の現実なのだ。

大阪地検特捜部の主任検事による押収物改竄事件は大きく報道され、当然にも、世間の関心を集めている。それ自体は、もちろん、許しがたいことだが、「正義の味方」=検察内部に、突然のように、異形の者が立ち現われたわけではない。

国家権力を背景にしてその権限を行使することに――巷の「愚民」からは隔絶した特権的なその地位に――「蜜の味」を感じてきた検察が、「国策捜査」ではない一般事犯においても日常普段に行なってきたことが、誰の目にも明白な形で明るみに出た、に過ぎない。

「大阪地検のエース」「割り屋」の前田某には、吉田修一の『悪人』が小説でも映画でも評判になっていることに因んで、このさい洗いざらい検察内部の悪行のすべてを暴露してせめてもの罪償いをしてもらいたいものだが、他方「愚民」である私たちには、検察「トップ」の巨悪だけに目くらましされることなく、警察・検察・裁判所が抱える構造的な問題にこそ目を向けるべきだという課題が課せられているのだと言える。(10月2日記)

太田昌国の夢は夜ひらく[7]イラクが被った損害を一顧だにしない「戦闘任務終了演説」


『反天皇制運動モンスター』8号(2010年9月7日発行)掲載

「9・11」が、まためぐってくる。

丸九年が経つことになる。日本の場合は、それに翌2002年の「9・17」(日朝首脳会談とピョンヤン宣言)が付け加えられるから、世界は、そして日本は、新世紀初頭の九月に起きた大きな出来事に引っ掻き回されて、冷静さを取り戻す間もないままに、新世紀10年目の現在を迎えていることになる。

それでも、事態は動いたのか。良い方向へと少しでも変わったのか。

「9・11」の延長上で米国が行なったイラクへの一方的な攻撃からは、7年有余が経った。2003年3月、米国は二つの理由を挙げて、イラク攻撃を開始した。

①イラクは大量破壊兵器を保有していること。

②イラク政権が国際「テロ組織」アルカイダと協力関係にあること――いずれも嘘だとわかったのは、イラク人に多数の犠牲者が出た後だった。

それでも、大量破壊兵器の最大の保有国で、「テロ国家」というべき米国は、戦争を続けた。対イラク戦争には批判的だった現米国大統領は、8月31日をもって米軍のイラク戦闘任務は終了したと演説した。

彼は「米国は海外から借金までして一兆ドルを戦争に費やし、自国の繁栄に必要なことをしてこなかった」とは語ったが、他ならぬ米軍が生み出した「戦果」、すなわち、少なめに考えても十万人を下るまいというイラク人犠牲者、いまなおベッドで苦しむ多数の戦火の負傷者たち、破壊した家屋とインフラ、傷つけた大地、化学兵器で汚染させた畑地――などのことには、いっさい触れることはなかった。

大統領は、イラクが理由なく受けた人的・物的・自然上の損害は一顧だにせず、今後は「自国の繁栄のために」米国の国家予算を使う、と言外に語ったことになる。

この国は、いつだって、そうなのだ。軍事的力量の差が大きいことをいいことに、自国の利害を賭けて、完膚なきまでに相手を叩きのめす。

イラク国軍が米国本土を爆撃することはあり得ないから、当然にも米国に恨みと憎しみを抱いた個人か集団が、せめて一矢を米国に報いたいと考えて、絶望的な行動に出るのだ。

あえてその用語を使えば「テロリスト」を生み出しているのは、他ならぬ米国ではないか。

こうして、米国が世界各地で絶えず能動的に作り出している戦闘行為・戦争こそが、世界の安寧・平和を破壊してきたという近現代史の本質に無自覚かつ無知なこの大統領は、しかも、今後はアフガニスタンに「資源と戦力をふりむける」と語って、恥じない。

世界から何の関心も寄せられていないアフガニスタンの空から降り落ちてくるのがミサイルではなく、書物だったら、飢えた民のためのパンだったら、乾いた大地を湿らす雨だったら……とイランの映画監督マフマルバフが語ったのは、タリバーンによるバーミヤンの仏像爆破の直後だった。つまり「9・11」の半年前だった。

米国は、或る国家が引き起こしたわけでもない「9・11」攻撃を、新たな戦争の好機と捉え、マフマルバフの黙示録的な啓示に満ちた言葉を無視するかのように、アフガニスタンに向けてミサイルを発射し、爆弾を落とし始めた。

それから九年が経ち、対イラク戦争には反対だったらしい現大統領も、アフガニスタン戦争はさらに強化するというのである。

そのアフガニスタンと延々と国境を接しているパキスタンは、いま、大洪水に見舞われ、二千万人にも及ぶ被災者が生まれている。

アフガニスタンでの戦争のためにパキスタンをいいように利用してきた米国は、「テロリストと戦っているパキスタンの、まさにその地域を洪水が襲った」「支援に失敗すれば、パキスタン政府がテロとの闘いで獲得し得たものを失うかもしれない」と語る 。

米国政府の意向を受けた日本政府は、自衛隊ヘリ部隊を派兵した。またしても、災害救助活動を「軍事化」するのか。

歯止めの利かない菅民主党政権の米国追随路線を見て図に乗った産経紙は、「丸腰派遣でよいのか」と言い募っている。

確かに緊急に必要とされているパキスタンへの国際的な援助を、米国は「反テロ戦争」の意義と結びつけて、世界を主導しようとしている。

これに対して、パキスタンのCADTM(第三世界債務帳消し委員会)などは、パキスタンが歳入の三〇%以上の額を対外債務返済に充てている現状に鑑み、債務の支払いを拒否し、それを救援と復興のために使うことを訴えている。

米国でも日本でもパキスタンでも、政府が物事の因果関係を説明すると、「結果」を「原因」を言いくるめる。戦争・自然災害・援助・債務などに関して、因果関係を的確に捉えた分析と方針の提示が、何よりも重要だ。

(9月3日記)

韓国哨戒艦沈没事件を読む


『反改憲運動通信』第6期No.2掲載

(以下の文章においては、朝鮮民主主義人民共和国を「北朝鮮」と表記している。)  3月26日、韓国の西側にあって、南北朝鮮の領海を隔てている黄海上の周辺海域で、韓国海軍の哨戒鑑「天安」が沈没し、乗員104名のうち46名が死亡・行方不明となった。

韓国における当初の報道を思い起こすと、北朝鮮による攻撃の可能性を示唆するものは少なく、内部的なミスに起因するという見方が有力だった。

軍は、爆発時間の説明を二転三転させ、沈没前後の交信記録の情報公開にも消極的だった。

世論形成に影響力を持つ韓国メディアが、4月に入って「北朝鮮関与説」を報道し始めた。

李明博政権は、国際軍民合同調査団なるものを設置し、韓国一国の利害を離れた地点での「国際的で、客観的な調査」に判断を委ねる態度を取った。

事故からおよそ2ヵ月近く経った5月20日、調査団は「北朝鮮の小型艦・艇から発射された魚雷による水中爆発」によって事件は起こったと断定した。

北朝鮮の国防委員会報道官は、同日、調査団報告は「でっち上げだ」とする声明を発表し、韓国が制裁措置を講じるなら「全面戦争を含む強行措置」を取ると主張した。

この段階での、日本社会での受けとめ方を考えてみる。普天間問題で苦慮していた前首相はこの事件を奇貨として、北東アジア情勢の不安定性を強調し、在沖縄米海兵隊が持つという「抑止力」なるものへの信仰を突然のように語り始めた。

それは、6月2日、首相辞任を表明した民主党議員総会での発言に至るまで続いた。

大方のメディアも、ほぼ同じ論調に依拠している。韓国哨戒艦沈没事件という悲劇は、日本の前首相や日米安保信奉者に向かっての「追い風」となったのである。

まこと、軍事の論理は輪廻する。その車輪の中で生きようとする者すべてを、他者の死を前提とした、終わりのない/極まりのない戦時の世界へと導くのである。

問題は、民衆レベルでの受け止め方であろうが、「あの国なら、やりかねない」という捉え方があっても、反駁する方法はなかなかに難しい。そのことが悩ましい。

私個人の問題として書いてみる。国際社会への復帰を試みている北朝鮮が、いまさらこんな軍事冒険主義に走るはずはないとするのが、解釈する側にあり得べき理性的な判断である。

この理性的な判断の下では、あえて過去は問わない。大韓航空機爆破も、拉致も、不審船も、工作船も、“もはや”過去のことだ、と考えよう。

その程度の信頼感をもって、相手との付き合い方を考えよう――と、そこでは思うのである。

同時にまた、こうも考える。軍事路線を優先し、軍事の力によって大国の譲歩を引き出し、貧しい社会の中で軍人層を手厚く処遇する先軍政治を、この国の指導部は放棄してはいない。

責任逃れの論理を使って金日成・金正日父子がよく言った(言う)ことばを使えば、今回の魚雷発射事件が「私のあずかり知らないところで、英雄主義に駆られた一部機関の者が仕出かしてしまった」可能性を、全面的に排除することもできない。

しかも、伝えられる経済危機は深刻だ。「やりかねない」。ここが、私が佇むジレンマの地点である。

だが、後者の可能性を考えるとき、私は問題を普遍化して、特殊に北朝鮮だけを名指しして言うのではないと考えて、辛うじて「理性」を保つ。

日本、韓国、中国、ソ連、ロシア、米国、イスラエル……およそ、人類史上に存在してきた〈国家〉なるものが、ある所与の時代に、所与の条件の下でなら「やりかねない」非行として、この種の出来事を捉えるのである。

〈国家〉の「非理性」を、〈国家〉を担うと自惚れている政治家や、軍人や、官僚たちの、そして付け加えるなら、時にそこへ哀しくも巻き込まれてしまう大衆の「非理性」を、その程度には「確信して」いる。

その意味では、古今・東西・左右のいかなる〈国家〉も、「非理性的であること」において等価である。

イスラエル国家が、封鎖されているパレスチナ自治区ガザへ救援物資を届けようとしていた非武装の船舶を攻撃したように。

北アメリカ国家が、自らは傷つかない無人爆撃機できょうもアフガニスタンやイラクの民衆の上に爆撃を加えているように。

革命後の中国国家が、チベットや新彊ウィグル自治区などで、恐るべき強圧的なふるまいを続けてきたように。

そして、日本国家が……(読者よ、皆さんの見識に基づいて、このあとを続けてください)。 したがって、仮に北朝鮮を疑う目をもつとして、その目は他国へも及ぶ。

前述の調査団報告が出た同じ日に、40近くの韓国民主運動団体が連名で、「調査内容、調査過程と方向、調査主体など、あらゆる側面から調査の科学性と客観性、透明性と公正性を認めることはできない」との声明を発表している。

それは、「反北」の感情を煽ることに利益を見出す政権と軍の拙速な論理だと批判して、慎重な対応を求めている。6月2日の韓国統一地方選挙において、与党ハンナラ党が敗北したのは、民衆レベルで広く同じ感情があることの証左なのだろう。

北朝鮮による哨戒艦撃沈説が、そのまま、反北ナショナリズムに行き着いてはいない点は、健全だと言える。

韓国では、この事件をめぐって別な情報も報道されているから、判断のための選択肢が広いのだろう。

たとえば、事件と同時刻に、同じ海域で訓練していた米軍潜水艦が沈没したが、事件は密かに処理されたという報道があった。

仮にこの事件と哨戒艦沈没事件に関わりがあったとして、米国がこれを隠蔽することは過去の歴史からみて「やりかねない」。

また前述の調査団員として「座礁・沈没」説を主張した委員が、その後公安当局の捜査を受けているという報道もある。

これまた、現韓国政権の性格からみて「やりかねない」。

総合すると、真実はまだ「藪の中」だと言える。問題は、またしても、日本社会での受け止め方である。多様な情報に接することもないままに、調査団報告を聞いてすぐ対北制裁強化を率先して主張した人物が、新首相になるようだから。(6月4日朝記す)

太田昌国の夢は夜ひらく[3]わずか二百人のアメリカ人にとっての普天間問題


『反天皇制運動 モンスター』第3号(2010年4月13日発行)掲載

「普天間という基地名を知っている米国人はせいぜい二百人程度で、それはすべて国防総省(ペンタゴン)のスタッフです。

米国は世界の百ヵ国以上に軍事基地を持っているから、人びとはいちいちその地名など知りません。

日本では、沖縄の基地問題が進展せず、アメリカは苛立っているとか、日米関係が危いなどとばかり言っていますが、そこでいう〈アメリカ〉とはその程度のもの、つまりペンタゴンなのです」。

詩人アーサー・ビナードは、私が住む地元で最近開かれた講演会でこう語った。日本に住んで二〇年が経つ、米国はミシガン州出身の人だ。

新聞に寄稿している詩やエッセイ、それが単行本にまとめられたものは、ある程度読んできた。ことばに対する感覚にすぐれた人だ。

納豆が好きで、自分の名を漢字で「朝美納豆」と書く、おかしな人だ。

自国の政治的・軍事的振る舞いを悲しみ、それに対する批判が、厳しい。

テーマは憲法9条問題だった。いきおい、民主党政権になっても一向に変わらない日米の政治・軍事関係への言及が多かった。

確かに、メディアでは、「アメリカ」を主語に据えて、米軍再編に関わっての鳩山政権の優柔不断を憂えたり、日米関係の危機を言い募る言論が溢れている。

それを見聞きするた びに、主語「アメリカ」の本質を問うてきた私の胸に、詩人のことばはすとんと落ちた。

朝青龍の角界追放問題が起こると、日本のメディアはウランバートルの街頭でモンゴル人の反応を聞く。

中国で毒餃子事件の容疑者が逮捕されると、北京市の住民の声が報道される。

トヨタの事故車が米国で問題化すると、街のユーザーの声が大々的に報道される。

しかし、(すべての報道を見聞きしているわけではないが)ニューヨークの街頭を行き交う米国人に「普天間問題」についての意見を聞くという、日本メディアが好みそうな試みはないようだ。

誰に聞いても、地名も知らない、関心もない、米国では問題そのものが「存在しない」ことが「ばれて」しまい、いうところの〈アメリカ〉なるものの本質が透けて見えてしまうから、困るのだろう。

詩人は、東奥日報記者・斉藤光政の『在日米軍最前線』(新人物往来社、二〇〇八年)が加筆修正を加えて文庫化されたこと(新人物文庫)も教えてくれた。ラジオの仕事で定期的に青森を訪れている詩人には、「核攻撃基地=ミサワ」の情報が入ってくるようだ。

沖縄基地再編問題が歪んだ形で「大問題化」している裏で、青森県ミサワ基地を中心にしたミサイル防衛回廊化がいかに進行しているかを伝える貴重な本で、それはあった。

総じて、詩人は、米国ではペンタゴンの極少数の担当者しか関心を持たない普天間問題が、あたかも日米関係の最重要事だと誤解するな、もっと根本的に同盟関係自体を問い直して主体的な問題提起を行なうべきだ、と聴衆に訴えたのだと思う。

この話は、アジア情勢に詳しいオランダのジャーナリスト、カレル・ヴァン・ウォルフレンの主張と合い通じるものがある(「ペンタゴンに振り回されるアメリカと、どう向き合えばいいのか」『SIGHT』二〇一〇年春号掲載、ロッキング・オン)。

米国の軍産複合体の中枢にいる人間たちにしてみれば、冷戦の終焉は耐え難いことであり、ソ連なき後は「ならず者国家」とか「テロリスト」なる敵を作り出すことに励んできた――とは、私もこの間行なってきた分析だ。

同じ考えを持つウォルフレンはさらに、ペンタゴンも軍産複合体の一部であって、この複合体はそれだけで存在していて、政治的な判断とまったく関わり合いがない、オバマもペンタゴンを制御できておらず、日米関係の問題をペンタゴン関係者の多い対日部門に丸投げしているが、その連中が日本に向けてふるまう態度たるや「保護領」に対するものにひとしい、とまで断言している。

日本国の外交路線を取り仕切ってきた米国かぶれの外務官僚や一部の政治家を除けば、日米関係の現状をこのような水準で冷静に捉えることは、さほど難しくはないだろう。

問題は、中国や北朝鮮など近隣諸国との間では「冷戦状態」が継続しているという意識が社会全体から払拭されておらず、その分、米国に軍事的依存を続けることで安心立命が得られるという「気分」を社会が引きずっていることにあるだろう。

その気分は実は幻想なのだと明かす作業を、なお続けなければならない。(2010年4月9日執筆)

選挙とその結果をめぐる思い――選挙と議会政治に「信」をおかない立場から


反天皇制運動『モンスター』1号(2010年2月2日発行)掲載

学生時代には「反議会主義戦線」なる運動があることを知って心ときめかせ、その後も議会制民主主義なるものにさして信頼を持っておらず、ましてや現代日本における選挙は、選挙民の中でもっとも質の悪い人物をわざわざ選び出す儀式と化している、などという悪口を日ごろから吐いていながら、開票速報には、どこか目を離せないものを感じてきているのが私である。
いつも夜更かしをして、そのまま、選挙結果を速報している朝刊を読むことになってしまう。我が事ながら、謎である。
そんな私に輪をかけるように、選挙権も持たないのに、開票速報を見るのが好きだ、と語っていた在日朝鮮人の友人もいる。
その場合は、権利を奪われていることへの怒りや悔しさと隣り合わせの関心であろうが、それにしても、選挙の何が彼女の心を掻き立てるのであろうか?
他人事ながら、謎である。
二〇〇九年夏の総選挙のときには、大きな地殻変動が起こって、それは政権交代にまで行き着いた。
選挙の結果として成立した新政権が、どんな政策を展開しているかについては後段で検討するが、まずは日本とは比較にならない、文字通りドラスティックな変化を生み出す選挙結果をもたらしている国もあることを見ておきたい。
もはや二〇年も前のことになるが、南アフリカで、悪名高いアパルトヘイト(人種隔離体制)廃絶の日程が具体化する過程で、反アパルトヘイト運動の象徴的人物であったネルソン・マンデラがおよそ三〇年ぶりに釈放された。
彼は一九六二年、武装解放組織=民族の槍(ウムコント・シズウエ)を主導的に結成したことをもって長いあいだ「国家反逆罪」を犯した「テロリスト」として監獄に幽閉されていたのだが、アパルトヘイト廃絶後の選挙で生まれた議会で大統領に選出された。
「テロリスト」が大統領になった、と書くのは正確ではない。マンデラを「テロリスト」と規定した時代の価値観と、大統領に選出した時代の価値観に、大きな変化が生まれたのである。
最近では、やはり、南米のいくつかの国の動きが注目されよう。
とくに、ウルグアイの大統領選挙では、もと都市ゲリラ活動を行なっていた人物が選ばれた。
一九三五年生まれのホセ・ムヒカという人物だ。ウルグアイでは、一九六〇年代から七〇年代初頭にかけて、トゥパマロスという都市ゲリラが活動していた。
コスタ・ガブラスが、イヴ・モンタン主演の映画『戒厳令』で、国際援助機関の職員を装って南米の某国に入国し、実は軍と警察に対して反体制活動弾圧の方針を教授する使命を帯びたひとりの米国人がゲリラに誘拐された実話を描いているが、このモデルとなる作戦を実行したのはトゥパマロスであった。
トゥパマロスは、これ以外にも、獄中同志奪還作戦(刑務所の房までのトンネルを付近の民家の床下から掘り進め、そのトンネルを伝って幾人ものメンバーを脱走させるという、信憑性が俄かには信じがたいほどの鮮やかな作戦である。
ホセ・ムヒカも一九七一年の作戦で獄中から解放されて脱走している)を数回成功させているし、大型スーパーから食料品を奪い、貧民区でそれを配布するという「義賊」のようなふるまいも繰り返した。
私は当時、トゥパマロスに関するさまざまな記録を読んでいたが、モラルの高いゲリラだったので、民衆の人気もきわめて高かった記憶がある。
トゥパマロスは、一九七三年に起きた軍事クーデタのあと徹底的に弾圧された。ムヒカも逮捕され、軍事体制が崩壊した一九八五年までの一三年間獄中にあった。
トゥパマロスは、その行動の「極左性」にもかかわらず、一貫した政権党であった親米右派のコロラド党に対抗するために左派勢力と民族主義者が「拡大戦線」なる統一戦線を形成して以来、後者を支持してきた(支持方針をめぐって、分裂は起こったが)。獄中から解放されたムヒカは、下院議員に立候補し当選した。
一五年間下院と上院で議員を務め、二〇〇五年に初めて成立した拡大戦線内閣では農牧・水産相となった。
そして今回、大統領に当選したのである。
「都市ゲリラから大統領へ」――これを認めるウルグアイ社会には、柔軟性がある。先に触れたように、トゥパマロスはそのモラルの高さゆえに民衆の支持が高かったとはいえ、それは所詮、選挙での投票行動の局面とは異なるものだろう。
ムヒカ自身は否定するが、ゲリラ時代に警官を殺害したとの嫌疑をかける声もある。
したがって、そのような人物が大統領に選出されたと知って、度量が広いというか、成熟度が高いというか、寛容性のある社会という印象を強く受ける。
日本を比較の対象とすれば、そのことがはっきり分かる。この社会では、政治犯にはことさらの重刑が科せられ、「仮釈放」とも「釈放」とも、ほぼ無縁である。
モラルを含めて、実践された「政治」の水準とも関わる問題もあるには違いない。それにしても、社会の中で人が生きる場所を得るとはどういうことか。かつて「罪」を犯した者が、どう「再生」/「新生」できるのか。
そもそも、犯した「罪」とは何か。そのことを深く考えて、次の方針を出す余裕を、私たちの社会は本質的に欠いている。
足元に還って、選挙の結果成立した鳩山政権の問題に移る。五ヵ月ほど前の発足当時から、新政権はさまざまな話題を提供してきた。
戦後史をほぼ一貫して支配してきた自民党政治が終焉したのだから、新政権への評価とは別に、ある種の解放感を多くの人びとが感じたに違いない。
私もそのひとりである。具体的な個別課題に取り組んでいればいるほど、この新しい政治状況を有利に生かしたい、とする立場が生まれることには何の不思議もない。その政権も、自業自得の理由から、もはやボロボロとも言える。
ここでは、多くの人びとがすでに発言している日米同盟と普天間問題をめぐる鳩山政権の「迷走」と、肝炎対策基本法の成立など肯定的に評価されるいくつかの施策への言及は避けて、法務省関連の諸課題について、いくつかの問題に触れておきたい。
官僚支配の政治を打破するとの公約を掲げた新政権は、そう簡単には引き下がらない官僚との熾烈なたたかいの渦中にある。
性同一性障碍との診断をうけ、女性から男性に戸籍上の性別を変更した夫が、第三者の精子を使って妻との間に人工授精でもうけた子を、法務省は「嫡出子とは認めない」との見解を、新年早々示した。
多様な形で形成されつつある家族の形を認めず、生物学的な血統主義に拘る(しかも戸籍制度を利用して)、いかにも法務官僚らしい見解だった。
数日後、千葉景子法相は、その認定が「法の下の平等に反する」との立場から、「運用や解釈で可能なのか、民法改正などの法的措置が必要なのか」を検討し、法務省見解を見直す方針を打ち出した。自民党政治時代にはあり得ないことだ。
つい最近、法務省は「殺人事件の時効廃止」を、前内閣から引き継いでいる法制審議会に提示した。
千葉法相は、審議会には前政権時代の内容にとらわれない検討を要望していたが、肝心の法務省は、事件被害者の報復感情を最大限に利用する姿勢を変えていない。
現閣僚の中でも最悪の人物と思われる中井国家公安委員長が、法務省の方針をいち早く支持したという報道があったが、むべなるかな、と思える。
これに対する千葉法相の見解はまだ伝えられていないようだが、「罪と罰」のあり方に深く関係してくるこの問題は、広く社会的に議論されるべき重要性を備えている。
千葉法相は就任会見で「個人通報権の保障」を重点課題として挙げた。
国際的な人権規約に付属する個人通報権条約を締結した場合には、国内の最高裁判所で敗訴した被害者が人権規約違反を理由に国際機関に個人通報できるという、国際的な制度的保障である。
法務官僚が、伝統的に、もっとも嫌う種類のものだ。
就任後五ヵ月、私たちに、法相が明言した方向への具体的な動きは見えず、知らされていない。たたかいが続いているのであろう。
「外国人選挙権法案 提出へ」と一時は報道されながら、連立政権の一角を形成する亀井静香の国民新党が強硬に反対していることから、この法案も迷走している。
報道によると、民主党案は、在日朝鮮人のうち「朝鮮」表記の人びとを除外する内容を持つ。
この表記の人は「国交のない国」=朝鮮民主主義人民共和国に帰属しているから、という論理に基づくようだ。
ここには、「朝鮮」表記の人びとの〈国籍〉に対する事実誤認と排除の論理が働いていると言える。方向性はよいが、法案自体が孕む問題は残る 。
最後に、もちろん、死刑制度の問題もある。法務省関連だけで、このように重要な課題が山積している。私の「議会政治」アパシーは根深いが、そうではあっても、「好機」を掴み、生かす努力を放棄はしまい、と思う。