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状況20〜21は、現代企画室編集長・太田昌国の発言のページです。「20〜21」とは、世紀の変わり目を表わしています。
世界と日本の、社会・政治・文化・思想・文学の状況についてのそのときどきの発言を収録しています。

太田昌国の夢は夜ひらく[18]すべての根源には「米国問題」がある――9・11から10年を経て


反天皇制運動連絡会機関誌『モンスター』第20号(2011年9月6日発行)掲載

9・11から10年目を迎えるいま、私の頭に去来する思いは、世界中で人類が抱える最大の問題の根源を一口で言えば、それは、畢竟、「米国問題」に他ならないという単純な事実だ。黒人問題・アイヌ問題・在日朝鮮人問題など、そこで名指しされている人びとが、あたかも「問題」の原因であり所在であるかのような物言いは、今までも絶えることはなかった。それらは、それぞれ、白人問題・日本人問題と呼ばれるべき性格のものであることは、少数ではあっても一部の人びとの間では周知のことであった。これと同じ意味で、9・11はその原因において「米国問題」であることを、私は事件直後の「図書新聞」のインタビューで語った(同紙2001年10月6日号「批判精神なき頽廃状況を撃つ」)。結果においてもそれは「米国問題」でしかないことが紛れもなく明らかになるという形で、私たちは事件から10年目の秋(とき)を迎えている。

米国以外の国・地域に住む者であれば、9・11のような人為的な悲劇は、世界のあちらこちらで起きてきたことを身に染みて知っている。しかも、それを為してきたのが、ほかならぬ米国であることも。海兵隊の派遣・上陸と軍事作戦の展開、海上からのミサイル発射、今であれば無人機爆撃、その前段階としての政治的・経済的な浸透と、米国の必要に応じての社会的な攪乱工作――米国が世界帝国であり得ているのは、このような身勝手極まりない所業を躊躇うことなく続けてきており、超絶した大国が為すことゆえに、その多くが「成功」してきたことの結果である。戦争によって数千、数万、時に数十万の死者を生み出し、化学兵器を使う現代の戦争になってからは幾世代にも影響を及ぼす深刻な後遺症で人びとを苦しめ、インフラを含めた経済秩序を破壊し、社会的にも混乱の極みに捨て置いて、一連の作戦が完了する――それは、幾度となく私たちが目撃してきた、米国が主体となってつくられてきた世界各地の近現代史の姿である。

したがって、9・11の悲劇を米国は独占してはならず、むしろ、そこに自らが為してきたことの影を見て、内省の契機とすること。心ある帝国内少数派が主張したように、9・11で米国が問われたのは、このことに尽きた。しかし、この10年間の米国の動きは真逆であった。そこに、アフガニスタンの、イラクの、世界全体の、そして米国自身の悲劇が生まれた。それを否定できる者は名乗り出よ! と言いたいほどに、自明のことだ。

9・11から10年目を迎えているいま、もっと長い射程で歴史を振り返るよう私たちを誘ういくつかの報道があった。中米グアテマラで、米国公衆衛生当局の医師らは1946年から48年にかけて、性病の人体実験を行ない、1000人以上を故意に感染させたうえで、うち83人が「実験中に」死亡した。ある研究者がこの事実に気づいたのは昨年で、直ちに大統領直属の調査団がつくられ、その調査に基づいて報告書がいうのである。19世紀後半以降、米国企業が広大なバナナ農園を保持し、現地の人びとを見下して「緑の法王」としてふるまった国・グアテマラでは、いかにもありそうな出来事である。「最低限の人権尊重すら怠った」と報告書は指摘しているが、しかし、1946年という年号に注目するなら、それは米国が広島と長崎に原爆を投下した翌年である。間もなく現地に入った米国の医療チームが「治療」には関心を示さず、もっぱら「核」が人体に及ぼした影響如何を調査するばかりであったこともよく知られている。米国側が人種差別意識を隠しようもなく持っている異民族に対する態度としては、いずれも例外的なことがらではない、と言うべきだ。

また、1953年日米両政府は、在日米兵の公務外犯罪に関して、重要事件以外は日本が裁判権を放棄するとの密約を交わしていたという。日本側の弱腰もあるが、当時の二国間関係からいえば、米国は明らかに「尊大な」要求を強制したと推察できよう。傲慢なふるまいを背景に、世界じゅうに抜き差しならない国家間・民族間矛盾を生み出す――米国に、このような政策の変更を強いる力を、米国以外の世界全体が持つまでは、私たちは深刻な「米国問題」を抱え続けるほかはないのだ。

(「9・11から10年」というテーマに関しては、『インパクション』181号、『反改憲運動通信』第7期第6号にも書いた。違う角度から書くよう工夫したので、併読いただけるとありがたい。)

(9月3日記)

「戦争が帰ってくる」――9・11から10年後の課題


『反改憲運動通信』第7期第6号(2011年9月10日発行)掲載

「戦争が帰ってくる」とは、戦争ばかりしている故国=米国について、ダグラス・ラミスが語った言葉だ。国外で戦争に次ぐ戦争に明け暮れていると、それを肯定する価値観と雰囲気が、自分の国の内にまで跳ね返ってきて、戦場と同じく銃を使った犯罪や暴力沙汰が日常的に起こる社会になってしまう。避けがたいその因果の関係を指した表現で、重大犯罪が多発する米国の状況を的確に捉えていて、私は以前から共感していた。

9・11以降10年間にわたって続けられてきている「反テロ戦争」がもたらしたものをふりかえると、この言葉が蘇ってくる。9・11の事態を受けて、米国大統領が「反テロ戦争」を呼号していた2001年9月20日、テキサス州ダラスに住むマーク・ストロマンは、「中東風」の外見の移民への報復を決意して、南アジア出身の男性二人を射殺し、バングラディッシュ出身のイスラム教徒に重傷を負わせた。自分こそ「真の米国人」であると信じ込んだ犯人は、見かけた相手に「どこの出身だ!」と叫びながら銃弾を浴びせた。各地の警察と入管当局も「アラブ風」の人間に対する手酷い仕打ちを制度化した。メディアも一般社会もこの雰囲気を煽り、かつ煽られた。無数の「ストロマン」たちは、「怪しげな者」に銃を向け、嫌がらせの言葉を吐き出し、権力を笠に着た差別と排外の行為を行なったのだ。

それから10年後の2011年7月22日、北欧ノルウェーのアンネシュ・ブレイビクは、重量6トンの車両爆弾をオスロの政府機関の建物近くで爆破させた。その後、「移民に寛容な」労働党政府を嫌悪する彼は、同党青年部のキャンプ地で銃を乱射した。二つの事件で総計77人が殺害された。ブレイビクは、欧州を多文化主義から解放するためには「残忍な行為が必要な状況は存在する」と確信する、イスラム教徒への強烈な偏見に満ちた人物であった。ところが、初期報道では、これがイスラム過激派による犯行であることを匂わせるものもあった。そうではなく、犯行が白人によってなされたことを速報で報じた日本の某TV番組では、それを聞いたキャスターが「では、テロではなかったんですね」と言ったという。爆弾と銃を使って多数の人びとを殺傷したブレイビクも、「イスラム教徒が行なうなら、テロ。そうでなければ、テロ以外のもの」と思い込んでいるメディアの人間も、この世で起こる不吉な出来事はすべてイスラム過激派の仕業であるという確信を、何らの具体的な根拠もなく、いつしか身につけてしまったのである。

そうでもあろう、米欧日のメディアは、一部少数の例外を除けば、この10年間、アフガニスタンとイラクにおける米軍+NATO軍を主力とした戦争行為が、テロリストに対する戦いであるがゆえに無条件に正義に叶ったものであるという宣伝を臆面もなく繰り広げてきた。10年前に、米国大統領は「我々の味方になるのか、それともテロリストの側につくのか」と世界中を脅した。10年後、英国首相は「多文化主義政策は過ちだった」と語った。いずれも、ストロマンとブレイビクを煽るには十分に効果的な発言だった。

それでも、ストロマンの場合には、救いのある後日談が待っていた。事件の被害者や遺族が「ストロマンの無知ゆえの犯行」に哀れみを感じ、世界に満ち溢れる憎悪を断ち切るために、死刑を宣告されていた彼の減刑を嘆願したのだ。ストロマンも、最後には自らの行為を顧みた。犯罪のよって来る原因にたどり着き、自分の犯罪の被害者たちが「人生最大の希望を与えてくれた」と語って、自らの行為を悔いた。ストロマンは、2011年7月、薬物で処刑された。

ブレイビクは、逮捕後、日本は移民に閉鎖的な政策を維持しており、多文化主義を拒む模範的な国だと称賛した。ブレイビクは、日本について大いなる誤解をしていたのだろうか? 否、そうではあるまい。移民政策や多文化主義をめぐって「あれか、これか」の単純極まりない二分法で世界を見ていた彼は、EU各国とは異なって自民族中心主義の道を先んじて歩む日本の現実を冷静に把握していたと言えるだろう。

その日本では、他方、「国際貢献」という掛け声だけがこの間より大きな声となった。それが、憲法9条の精神と対決するかのように、主として軍事面で言われるようになったことに注目すべきだろう。きっかけは、1990年前後の社会主義体制の自壊と湾岸戦争であった。ソ連に代わる独裁体制=イラクのフセインに対して、一丸となって軍事的に制裁を加えることが民主主義国に共通の価値だとの宣伝がなされた。この地域から膨大な量の石油を輸入しているのに軍事的制裁に参加できなかった日本は、世界から「汗も血も流さずに利益だけを得ている」と見られており、それは肩身の狭いことだとする捉え方が浸透し始めた。戦後史の大転換を画する民衆意識の変化であった。それから10年後に9・11を迎えた時、日本の首相はいち早く米国の「反テロ戦争」の呼号に賛意を表明した。インド洋に海上自衛隊の給油船が派遣され、アフガニスタンを攻撃する米軍への給油や兵士輸送作戦に従事した。米軍がイラクを攻撃し始めると、自衛隊の軍事的参画は一段と深まった。

国軍兵士を見送り、そして無事の帰国を歓迎して家族たちがうちふる日の丸の小旗は見慣れたものとなった。2011年、震災・津波・原発事故現場で救援活動に従事する自衛隊員は、その「献身性」によって人びとの心を深く掴んだようだ。こうして、自衛隊がありふれた国軍となる過程は、「反テロ戦争」のこの10年間で格段に進行した。「憲法9条が成立しうる根拠は沖縄に米軍基地があるからだ」(新川明)とする沖縄からの批判的な視線に目を逸らすことなく、「戦争が帰ってくる」ような政治・社会状況を出来(しゅったい)させないための、厳しくて重要な段階を私たちは迎えている。

【付記】この原稿に先んじて、「9・11から10年目の世界」と題する文章を書いた(『インパクション』181号)。この文章とは違う角度から、同じテーマを論じた。併読いただけると、ありがたい。

(9月2日記)

9・11から10年目の世界


『インパクション』181号(2011年8月31日発行)掲載

東欧・ソ連型社会主義体制の無惨な崩壊(1989年〜1991年)を見届けた現代資本主義の信奉者たちは「グローバリゼーション」の掛け声の下で、勝利=歓喜の歌の合唱を始めた。20世紀が終わるまでに残る歳月は、すでに10年を切っていた。前世紀には不吉印の象徴ともいえた「世紀末」なる呪縛的な概念は彼らの頭からすっかり消え失せて、歴史的な世紀の変わり目には赫々たる未来が待ち受けるばかりだ、と信じて疑わない人びとであった。昨日まではこれとは対極的な立場にいた者のなかからさえも、指針を失い、確信も失って、こっそりと、あるいはあからさまな形で、立場を移し替える者が輩出した。マルクス主義文献は書店の棚から消え、やがて多くの古典すら絶版にされた。隆盛を誇っていた大学のマルクス主義経済学の講座も、いつのまにか、その多くが姿を消した。

それでも、諦めない者もいた。1994年1月、メキシコ南東部ではサパティスタを名乗る先住民族組織が、まさにグローバリゼーションの一象徴でしかない自由貿易体制の強要に抗議する蜂起を開始した。蜂起の主体が先住民族であるがゆえに、それは必然的に、植民地支配によって可能になった/したがって「先住民族」という存在を生み出した資本主義的近代に対する歴史的・現在的な批判を孕むものであった。この蜂起は、第三世界にも、高度消費社会にも深い共鳴者を見出し、その後の世界的な反グローバリゼーション運動の原動力の役割を果たし始めた。サパティスタは政治的に成熟した戦術を取って、ただちに政府を交渉の場に引き出したので、武装蜂起という初期形態は強く印象づけられることはなく、社会が武装蜂起という形態からすぐ連想しがちな「テロ」という問題は、重大なものとして浮かび上がることはなかった。それは、また、武装することも、兵士であることも、ましてや戦争することなどは、できることなら無くしたいと根底において望んでいると語るサパティスタの理念とも不可分の、受容のされ方であった。

1996年~97年にかけては、ペルーの日本大使公邸を占拠し、大勢の人質を取って、日系人のフジモリ大統領が採用してきた、これまたグローバリゼーションの基盤をなす新自由主義経済政策に対する抗議の意思表明を行なったゲリラ運動があった。人質の中に外交団がいたこともあって、事態は国際的な関心の的となり、「暴力=テロ」に対して国家はいかに対処すべきかという問題が、大国政府とメディアの主要なテーマとなった。日本が深く関わっている事態であったために、この社会でも事情は同じだった。国家が行使する手段の中に「テロ」があり得るという問題意識はかけらもなく、非国家集団が行使する暴力のみを「テロ」と名づけて、その非難・撲滅を図ること――この意図のみが、そこにはあった。

大勢に逆らおうとするこれらの運動は、しかし、散発的にしか起こらなかった。むしろ、社会主義圏の崩壊とほぼ同時代的に進行したペルシャ湾岸戦争がこの時代を象徴していた。一地域的な小覇権国家=イラクのクェート侵攻という対外政策が正しいわけではなかったが、それは、超覇権国家である米国とソ連が世界各地でたびたび行なってきたふるまい方を真似したにすぎなかった。米国は、ソ連という「主敵」が消滅しつつある過程のなかで、それに代えてイラクのフセインを悪魔のごとき敵に見立てて、これを徹底的に叩いた。とはいっても、米国が発動した戦争という名の「国家テロ」の犠牲になったのは、ミサイルの攻撃にさらされたイラクの一般民衆であった。

超大国の横暴な振る舞いは、軍事の面でのみなされたのではなかった。グローバリゼーションは、何よりも経済的な側面でこそ、その本質を露わにした。経済的な格差が激しい途上国経済を社会的公平さに向けて是正を図るのとは逆に、ますますその歪みを拡大するしかない新自由主義経済政策を、超大国を筆頭とした先進諸国と国際金融機関は途上国に押しつけるばかりであった。大国に本拠を持つ多国籍企業は、自らの自由放埓な企業活動を何よりも(各国の憲法その他の国内法規にも!)優先させることのできる国際的な経済秩序構造を作り出すために、全力を挙げた。かつての植民地時代には、西洋の国家が主体となって他者の領土を征服した。いまや、一握りの企業グループや金融資本が地球上のすべてのモノとヒトを商品化することで、世界の全的征服をめざす時代がきていた。傍に追いやられた者から見れば、現代資本主義の勝利を謳歌する者たちの傍若無人なふるまいは極限に達していた。具体的にはわからずとも、これに叛逆する何かが起こるに違いない、何かが起こらないでは済まない、と感じるものは少なからずいた。私もそのひとりだった。

そして、2001年9月11日はやってきた。米国経済の繁栄を象徴する建物=ニューヨークのWTC(世界貿易センタービル)にハイジャック機が2機突っ込んだ。世界各地における圧倒的な軍事力の行使を指揮するワシントン郊外の米国防総省(いわゆるペンタゴン)ビルにも、ハイジャック機が突入した。合わせて、3千人以上の人びとが死んだ。米国が誇る経済と軍事の要衝を攻撃したという意味では、攻撃者たちの意図は明確だった。だが、WTCをあのように攻撃した場合には、不特定多数の一般人を数多く巻き込む結果にしかならないことを行為者たちがどう考えていたのかは不明のままである。

米国社会は、この衝撃的な事件を、せめても、自らが世界の各地で過去において積み重ねてきた/現在も積み重ねている行為をふりかえる機会にすればよかった。ある軍事行動によって数千人の死者を生み出すこと(それどころではない、長期化した戦争の場合には数十万単位の死者を相手側に強いたり、化学兵器を用いることによって後世の人びとを今なお苦しめたりしている例も加える必要がある)を、米国は20世紀現代史の中で幾度も繰り返してきた。日本軍国主義を免罪する意図は持たずに、この犠牲の地に広島と長崎の例を付け加えてもよいだろう。

賢明で公正な経済学者が米国にいたならば、米国が余剰農産物を売りつけるために自由貿易を他国に強いれば、その国の貧農たちは乏しいたつきの道を断たれ、一家は農村を離れて山野は荒れる一方、離村した人びとが首都周辺に密集していって、典型的な第三世界のいびつな社会構造を作り上げていることに気づいてもよかった。唯我繁栄の独善的な経済活動の果てにニューヨークに林立する豪華なビル群を透視すれば、世界の悲劇的な南北格差構造が浮かび上がるという想像力をもっていてもよかった。

少数派ながら、いたであろう、米国が軍事と経済の双方で繰り広げてきたあまりに大きな負の面に気づいている人が。奢り高ぶった自国のふるまいが、その下で苦吟する人びとの怒りと憎しみを育てている、と知覚できる人が。だが、それは、哀しいほどに少数派だった。9・11の事態をうけて、この国の大統領は「反テロ戦争」によって行為者たちへの報復を呼びかける、その程度の人間だった。国家主義的な情動は、こんな水準の言動によって煽られるものなのだ。自らを顧みることのない、それとはもっとも無縁な「愛国主義的な熱狂」が米国全土を覆った。米国社会は9・11の悲劇を独占した。こんなひどい仕打ちを受けた国は、米国がはじめてだ――この思い込みのなかで、他ならぬ米国の軍事的・経済的行為によって生み出されてきた「無数の9・11」に思いを馳せる態度は生まれ得なかった。

9・11から1ヵ月も経たないうちに、米国は、9・11の「陰の」指導者たちが潜んでいると判断したアフガニスタンへの攻撃を開始した。それから1年半後には、大量破壊兵器をもっているがゆえにこの地域の不安定要因となっていると一方的に判断して、イラクに対する攻撃も始めた。9・11の悲劇を、この国が「大好きな」戦争を始める口実にしたのだった。

欧州各地でときどき起る「過激派のテロ」にもっとも敵愾心を燃やしてきたイギリスの労働党員の首相と、宗教集団が起こしたサリン事件やペルー人質事件を経験して「テロ」に対する警戒心が極点に達している社会状況を利用した、新自由主義志向の日本の首相が、率先してこの「反テロ戦争」支持の名乗りを上げた。「テロか、反テロか」――単純極まりない二分法が、まるで世界基準であるかのように機能した。それは、思考の堕落であり、政治の敗北だった。それを知る者にとっての、苦い季節が始まった。

それから10年。アフガニスタンでもイラクでも、膨大な数の死傷者が出ているであろうが、その正確な数はわからない。死者は、いずれの国でも、万単位になると推定されている。劣化ウラン弾などの化学兵器を米軍は使用している。したがって、米軍が全土に枯葉剤を散布したベトナムと同じく、両国の人びとの苦しみは後代までも続くと見られる。自軍から、無視できぬ数の死傷者が出ている米軍は、最近は無人爆撃機を使って空襲を行なっている。「反テロ戦争」は、こうして、他国における大量死を生み出している。「国家テロ」としての戦争を廃絶しようとする強固な意志が大国のふるまいには、見えない。そこから国家としての利益を得てきたことを、当事者が知っているからである。軍隊不保持・

戦争放棄を謳う憲法を持つ国は、「反テロ戦争」の10年間の過程で、「戦争好きな」米国との軍事的結びつきを強化した。二大経済大国が、軍事面でも共同作戦を展開するのは、世界の他の地域の民衆にとっては「悪夢」でしかないことを、両国の為政者も選挙民も知らない。それを「思い知らせよう」とする行動を――仮に、それが「テロ」と呼ばれようとも――試みる人や小集団が消えてなくなることは、不幸なことだが、ないかもしれない。少なくとも、後者の「テロ」を、前者の「国家テロ」との相互関係の中で捉えること――

事実認識上の、このような変化くらいは、私たちのなかで獲得したいものだ。

アフガニスタン戦争は、米国が戦ったもっとも長い戦争になった。「建国」以来、対インディアン殲滅戦争に始まり、戦争に次ぐ戦争によって領土を拡大し、両大洋への出口を持つ帝国に成長し、戦争に勝利することで経済が活性化し、超大国としての地位も確保できていると信じて疑わないこの国は、戦争を止める術を知らない。アフガニスタン戦争の戦費は、10年間で4430億ドル(およそ34兆円)となった。イラク戦争では8055億ドルを費やした。世界各地の米軍基地の安全強化対策など広義の「反テロ戦争」費用は1兆2833億ドルと推定されている(数字はいずれも、2011年8月3日付け東京新聞による)。ここ数年の日本の年間予算をはるかに超える額が、米国の10年間の「反テロ戦争」に費やされた。

当然にも、米国の軍事と財政は破綻した。「戦意高揚」していた10年前の雰囲気は、今の米国には、ない。オバマは、過重な戦費負担に耐えられないと判断して内政重視へと路線切り替えを図った。にもかかわらず、戦況の好転が見られなかったアフガニスタンへは兵員の増派を行なった。現在は順次撤退の段階にはなったが、米国から見て軍事的な展望が開けているわけではない。資本主義の勝利に浮かれてマネーゲームに興じた挙句、大手投資銀行リーマン・ブラザーズは経営破綻した。サブプライム・ローンも、理の当然として、総崩れとなって、貧しい犠牲者を多数生み出した。いまや。デフォルト(債務不履行)の瀬戸際にも立たされている。10年前の9・11によって瓦解したのは、経済と軍事の、外形としての象徴的な建造物だった。その後の10年間は、それが内部から自己崩壊していく過程であった、と言えるかもしれない。

他方、「反テロ戦争」に自衛隊まで派遣して参戦した日本は、9・11から10年目の震災・津波によって引き起こされた原発事故の結果「放射能テロ国家」として世界に糾弾されても弁明の余地がない立場に追い込まれている。ここでも、当事者にその自覚は薄い。

軍事と経済の両面で世界を征服しようとするグローバリゼーションの、この10年間の大きな流れは、ほぼこのように把握できるだろう。そこには「自滅」的な要因もないではなかったが、もちろん、この趨勢に抗議の声を発し、具体的な抵抗を試みた、いくつもの理論と実践があったからこそ、10年後のこの状況は導かれたのだと言える。何が有効だったのか、何が欠けていたのか――その検証を通して、いま・ここで、なすべきことを明らかにする課題が私たちには残る。(8月9日記)

TPPと自由貿易


朝日新聞2011年7月17日付け朝刊に「ニュースの本棚」として掲載

昨年10月、菅直人首相は「TPP(環太平洋経済連携協定)交渉への参加を検討」すると表明した。TPP構想は元来、貿易依存度が高い小国の話し合いから始まった。そこへ米国が参加を表明し、性格が一変した。政治・経済・軍事・文化的影響力で並ぶ国がない米国が登場すると、何事につけても事態は変化する。TPPは、その時点で、物品貿易の全品目の関税を即時ないしは段階的に撤廃するばかりではなく、投資、知的所有権、労働、医療、保険、環境、労働者の移動などに関わる包括的な協定となる性格を帯びた。

ひとたび発効すれば、それはヒトとモノをすべて商品化し、市場原理の中での熾烈な競争に巻き込む強制力をもつ。米軍の侵略で山野を焼き尽くされた後遺症に苦しむベトナムは、TPPの下では米国との農産物取引を共通のルールで行なわなければならない。その不条理さを指摘する宇沢弘文氏の発言(『世界』2011年4月号)は、自由貿易の本質を衝いて、重要だ。

米国政府と多国籍企業が主導するTPPに、民主党政権が前のめりになるのはなぜか。当初の東アジア共同体構想から日米同盟重視への路線転換と関係しているのか。菅首相の提起は唐突であったが、財界はこれを歓迎し、「参加しないと日本は世界の孤児になる」とまで言う。大方のメディアも、連合指導部も同じ意見だ。

TPPを推進する大きな流れに抗する動きが出てきたのは、年が明けてからだ。論議が深まろうとするころ、「3・11」が起こった。今後のTPP論議は、社会・経済の構造を根本から揺るがしているこの悲痛な出来事を前に、真価を問われる。

活発な批判を展開しているのは中野剛志氏で、『TPP亡国論』などの著書がある。推進論者の見解も紹介したうえで批判的な分析を行なっているから、読者は論議の水準を見きわめながら読み進めることができる。「環太平洋」と言うふれ込みなのに、中国と韓国がTPP参加を考えていない理由の考察もあって興味深い。逆にベトナムのような小国は、グローバリズムの太い流れに追い詰められて、自由貿易協定への参加を急ぐ。切ない現実である。

視野を広げて、自由貿易が孕む問題点を世界的な規模で指摘するのが、トッドの『自由貿易は、民主主義を滅ぼす』である。確かに、TPPのような地域限定のものも含めて自由貿易協定はすべて、人間・地域・文化の多様性を否定し、世界を単色に染め上げる点に特徴がある。反対論に色濃い民族主義的立場からの国益論を離れて、対等・平等であるべき国家間・民族間の関係を今まで以上に壊すという観点からのTPP批判を深めるうえで本書は役立とう。

TPPを食と農業の観点から見ると、多くの人にとって身近な問題となる。『食料主権のグランドデザイン』には、「食料危機・食料主権と『ビア・カンペシーナ』」と題する真嶋良孝氏の論文がある。スペイン語で「農民の道」を意味するビア・カンペシーナは、グローバリズムに抵抗する運動の中で重要な役割を果たしている、国境を超えた農民運動である。ここで言われる食料主権は、国家主権の主張とは重なり合わない部分があることの意味を、深く考えたい。

食に関しては「地産地消」という言葉と実践が大事だが、福島県の生産者と消費者は、今この言葉を口にできない。その悔しさと哀しみを思いながら、この小さな文章を書いた。

【参考文献】

中野剛志著『TPP亡国論』(集英社新書、798円)

E・トッドほか著『自由貿易は、民主主義を滅ぼす』(藤原書店、2940円)

村田武編『食料主権のグランドデザイン』(農文協、2730円)

太田昌国の夢は夜ひらく[16]人知を超えた地点で暴れる超現代科学「核」と「遺伝子組み換え」


反天皇制運動機関誌『モンスター』18号(2011年7月5日発行)掲載

3月11日夜に観ようと思っていた映画があった。地震が起こり、東京都内の交通網が遮断されたので、上映会は中止となった。その後、東北地方の農業や漁業の壊滅状態と、制御不能に陥っているとしか思えない原発事故の状況を見ながら、あの夜に観るはずであった映画のことがいっそう気になっていた。先日、その望みがようやく叶った。

いずれも、ドイツ・デンクマルフィルム製作の『Life Running out of Control(暴走する生命)』(2004年) と『パーシー・シュマイザー、モンサントとたたかう』(2009年) である。前者は、動植物や人間を遺伝子的に操作する動きがどこまで進んでいるかを(とはいっても、制作年度からいえばもはや7年前のことだ)描き出した作品だ。遺伝子操作が本格化したのは1980年代半ばからだから、この研究分野はまだ4半世紀の歴史しか刻んでいないが、遺伝子操作を加えること(GM)によって、通常の半分の生育期間で6倍の大きさに成長する鮭が出てきたり、GM菜種のタネが隣の農家の畑に飛ばされ有機農業を不可能にしたり――などの実例が生まれている。米国では、この鮭が食用としての承認手続きの最終局面にあり、開発した米社は、鮭の最大消費地=日本への進出に意欲をもっているというから、このままでは作物以外の動物・魚類では初の遺伝子組み換え品が、遠からず私たちの前にも登場することになるかもしれない。

映画に登場するノルウェイの分子生物学者の言葉が忘れられない。「遺伝子組み換え技術のことを知ったとき、これは人類に大きな恩恵をもたらすものと思い、熱狂して研究に打ち込んだ。実験をしていて気づいた、確かに科学者にはおもしろい。だが、これが現実の生態系・有機体で行なわれたら、大変なことになる」と。彼はいま、遺伝子組み換えによる「生命支配」を批判し、これに抵抗する活動を行なっている。彼の言い方は、チェルノブイリ事故以後「原発批判」の立場からの発言を積極的に続けてきた京大原子炉実験所・小出裕章の述懐に酷似している。小出もまた、学生時代に原子力の「輝かしい未来」に憧れこの専門分野を選んだが、その本質を知るにつれ「反原発」の立場に移ったことを繰り返し語っている。

核にせよ生命操作にせよ、人知の範囲で開発にまで行き着くことはできる。だがそれは、やがて、人間には制御不可能な未知の領域に入り込んでしまうのだ。それは、管理し得る人間の手を離れて市場に放り出された金融(カネ)と同じように、人間の知恵を超えた地点で、破壊的なまでに暴れまわることになる。

後者の映画は、世界最大のバイオテクノロジー企業・モンサント社を相手に果敢にたたかうカナダの農民夫婦を描いている。夫婦の菜種畑はGM種子によって汚染される。この種子を開発したモンサント社は、あろうことか特許権侵害で夫婦を訴える。裁判所も大企業に加担する。だが、夫婦は巨大企業を相手に粘り強くたたかい続けている。

モンサント社が農民と交わす(農民に強制するというべきだろう)協定の中身がすごい。「種子はモンサントからしか購入できない。農薬もモンサントからのみ。自家採種をしてはならない。モンサント社の私設警察は、農民の土地・貯蔵所・農場に入り、納税・農事記録を見ることができる」。しかも、ラウンドアップという名のその農薬は、あらゆる種類の植物を枯らす除草剤で、米環境保護局ですら「吐き気、肺浮腫、肺炎、精神錯乱、脳細胞破壊が起こる」と警告しているような代物である。

この2本の映画の監督はベルトラム・フェアハークだが、日本で自主公開された最初の作品は『核分裂過程』(1987年、クラウス・シュトリーゲルとの共同監督作品)だった。核燃料再処理工場の建設に反対するドイツ・ヴァッカースドルフの人びとの戦いを描いたドキュメンタリーである。超現代を象徴する「核」と「遺伝子組み換え」が孕む問題性に迫り続けているその先見性が、三陸・福島の事態を見るにつけ、胸に迫ってくる。

【追記:ここで触れた映画はすべて、小林大木企画 Tel&Fax042-973-5502 によって自主公開されている。http://www.bekkoame.ne.jp/ha/kook】

太田昌国の夢は夜ひらく[15]震災・原発報道に、「世界性」の視点の導入を


反天皇制運動機関誌『モンスター』17号(2011年6月7日発行)掲載

この社会のマス・メディア報道が、長い期間にわたって一つの重大事件一色で埋め尽くされることは、まま起こる。この十数年間をふりかえっても、在ペルー日本大使公邸占拠・人質事件(1996-97年)、9・11事件と米軍などのアフガニスタン攻撃(2001年)、拉致事件(2002年)、米軍のイラク攻撃(2003年)などがたちどころに思い浮かぶ。そのたびに私たちは、溢れかえる情報の中から事態の本質をいかに見抜くかという試練にさらされるのだと言える。3・11事態にまつわる災害・原発危機報道は、もちろん、報道量において、比類のないものだ。今後も長く報道が続けられることを思えば、継続期間においても、空前のものとなろう。私たちを待ち受ける試練は、厳しいものとなる。

今回の事態は、被災の悲惨さと規模において世界的な同情を呼び、また原発事故による放射性物質の拡散が世界中に恐怖を与えているという意味でも、国際的な関心の的となっている。したがって、報道のあり方を検証する基準のひとつは、国際的な視野がどれだけ働いているか、という点にあるだろう。間もなく3ヵ月に及ぼうとする今回の3・11報道を、この観点からふりかえると、新聞で言えば、(私が知る限りでは)一紙のみが取り上げた記事や、「ニュースにならず」記者が小さなコラムに書き残した記事が、強く印象に残った。5月9日毎日紙朝刊は、原発ビジネス拡大を狙う日米両国が、モンゴルに核処分場を建設する計画を立てて、昨秋から交渉に入っていると報じた。モンゴル側の思惑は、大国の核のゴミを引き受けてでも技術支援を期待しているところにあるのだが、候補地は、道路・鉄道・電気の整備がなされていることから旧ソ連軍が駐屯していた宿舎の跡地周辺だという。この2つのエピソードからは、いつの時代にも、大国の放埓なふるまいに右往左往せざるを得ない小国の悲哀が思われて、切ない。メトロポリスには置きたくないものを、札束で相手の頬をひっぱたいて押しつけるというやり口は、沖縄や青森や福島などの「国内の辺境」だけで行なわれているわけではない。原発ビジネスには、このような無恥な「国際性」が刻印されていることを忘れることはできない。

また、5月24日毎日紙朝刊に、ジュネーブ支局伊藤特派員のコラムが載った。同地で開かれた世界保健機関(WHO)総会で、大塚耕平副厚生労働相は、放射性物質の放出を各国に謝罪した。だが「複数の国から、日本の責任ではない」と言われた。「日本では、地震に伴う原発の安全停止はきちんと行われ、その後の津波で冷却設備がやられた。事故は自然災害によるもので、米スリーマイル島や旧ソ連チェルノブイリのような人為ミスが原因ではない、と正確に認識してもらえた」と大塚は説明したのだという。前段の事実認識そのものが間違っているが、事故から2ヵ月半を経た5月下旬に政府要人が国際的な場で行なった釈明がこの内容だったこと、しかもそれがニュースとしては報道されなかったことを知って、私は心底驚いた。この驚きは二度目のもので、去る4月4日、東京電力は集中廃棄物処理施設などにたまっていた「低レベルの」汚染水11,500トンを海へ放出し始めたが、このとき政府も東電も近隣諸国と世界全体に対して何らの説明も謝罪も行なわなかったことが、私の最初の驚きだった。しかも、放射性廃棄物の海洋投棄を禁止したロンドン条約との整合性を問われた原子力安全・保安院は、「同条約は、船や飛行機からの海洋投棄を禁じているのであって、陸上施設からの放出は該当しない」と公式に答弁した(東京紙4月5日、朝日紙4月6日など)。いかにも外務官僚が考えそうなこの説明を聞いた時点で、私はこの国を「放射能テロ国家」と呼び始めた。もちろん、当事国の主権者としての恥じの感情を込めて。

震災直後の絶望的な状況の中にあっても日本人は冷静さと団結心を失っていないことに世界中が驚嘆しているといった趣旨の報道も目立った。しかし、1972年ニカラグア・マナグア地震や1985年メキシコ地震後に、同地の民衆があてにならない政府から自立した地点で示した相互扶助と連帯の具体例を知る私からすれば、災害時に示されるこの種の精神は、日本人の特性を示すものではない。震災・原発報道に、語の真の意味での「世界性」を導入して解釈すること。その重要性が、これらの諸例からわかる。(6月4日記)

太田昌国の夢は夜ひらく[14]ビンラディン殺害作戦と「継続する植民地主義」


反天皇制運動『モンスター』16号(2011年5月10日発行)掲載

ある国家の軍隊が、別な国に秘密裡に押し入って軍事作戦を展開し、武器を持たない或る人物を殺害した――軍を派遣した国の政治指導部は、大統領府の作戦司令部室にある大型スクリーンに映し出されるこの作戦の生中継映像を見つめていた。作戦開始から40分後、「9・11テロの首謀者」と断定した人物の殺害をもって大統領は「われわれは、ついにやり遂げた」と語った。この国の同盟国であると自らを規定している世界各国の首脳は、この作戦の「成功」が「反テロ戦争の勝利」であるとして祝福した。そのなかには、この間、放射性物質を故意に大気中と海洋に撒き散らしているために、当人は知らぬ気だが、事態の本質を見抜いた人びとが「放射能テロ」あるいは「核物質テロ」、さらには「3・11テロ」という形容句をその国の国名に冠し始めている国の首相も含まれていた。その男は、この殺人行為を指してこう述べたのである。「テロ対策の顕著な前進を歓迎する」(!)。

5月2日、パキスタン北部アボタバードで、米海軍特殊部隊と中央諜報局の部隊がヘリコプター4機を駆使して(加えて、「スーパードッグ」という特殊訓練を施した犬も動員して)展開した軍事作戦によって、ビンラディンほか4人の人びとが殺害された事件と、報道されている限りでの一部諸国の支配層におけるその肯定的な反響は、あまりに異常である。内外ともにメディア報道の在り方が意外なまでに冷静で、作戦それ自体への控えめだが疑問か批判を提起し、せめて刑事裁判で裁くべきだったとする主張が少なくないことに「救い」が感じられるほどだ。超大国=米国の横暴なふるまいに対する私たちの批判と怒りの感情は、またしても、沸点に達しそうだ。私は、伝え聞いてきたビンラディンの思想と行動の指針には共感を覚えず、そこからは相対的に自立した地点に立って、以下の諸点を述べておきたい。

2001年「9・11」以降、米国がアフガニスタンとイラクにおいて行なってきた殺戮・占領の行為と、そこで捕えた虜囚を、1世紀以上もの長い間手放そうともしないでキューバに保持し続けている米軍基地に強制収容している事実から、私は、米国において「継続する植民地主義」の腐臭を嗅ぎ取ってきた。パキスタンから「主権侵害」との憤激の声が上がっている今回の行為も、まぎれもなく、その延長上にある。他国との良好な関係を大事に思うならば、決して選択できない行為で米国の近現代史は満ち溢れている。それに新たな1頁を付け加えたのが、今回の行為だ。

いわゆる大国にとって都合の良い世界秩序が作られてきた歴史過程について、私は最近いく度かこういう表現を使った。「植民地支配・奴隷制度・侵略戦争など〈人類に対する犯罪〉を積み重ねてきた諸大国こそが、現存する世界秩序を主導的に作り上げてきた」と。近年になって、これらの行為の犯罪性はようやく問い質される時代がきたが、そのたびに当該行為の主体国からは「植民地支配も奴隷制度も戦争も、それを当為と見なす価値観があった時代の出来事だ。現在の価値観で過去を裁くとすれば、世界は大混乱に陥るだろう」とする悲鳴が上がる。だが、〈人類に対する犯罪〉的な行為が行われた時点で、その行為の対象とされた地域は「大混乱に陥り」、そのとき受けた傷跡を引きずりながら現在に至っているのだ。それゆえに、相互間の対等と自由を尊ぶ民衆および小国の観点から見るなら、今ある秩序は抑圧的なものでしかなく、それは抵抗し、反抗し、覆すべき歴史観なのだ。

「3・11」事態の直前、われらが足元にも「継続する植民地主義」そのものの発言があった。米国務省日本部長ケビン・メアが行なった「沖縄はごまかしとゆすりの名人で、怠惰でゴーヤーも栽培できない」という発言である。欧米日の植民地主義者の「懐かしのメロディ」とも言うべきこの発言は、津波と原発危機以降のヤマトでは忘却の彼方に追いやられている。逆に、米軍が行なった被災者救援作戦の重要性のみが喧伝され、図に乗った米軍海兵隊司令官からは「普天間基地は重要」との発言もなされている。内外でなお続く、植民地主義を実践する言葉と行動の衝撃性と犯罪性を忘れないことが、私たちの課題だ。

(5月6日記)

今、TPPをどうのように考えるべきか


『オルタ』(アジア太平洋資料センター)2011年5~6号掲載

1

「3・11」事態とその後の福島原発の危機的状況を前にして、菅政権はTPP(環太平洋経済連携協定)参加を強行する意欲を、今の時点では失ったようだ。以前は、参加か否かの判断は6月をメドに行なうことを考えていたようだが、3月29日になって首相はその先送りを示唆した。だが、当然にも、油断はならない。TPPは、現在参加を表明している9ヵ国に、参加を検討している日本を加えて10ヵ国間の、多国間自由貿易協定であるとはいえ、各国が有する経済規模からすれば、その本質は日米間の協定に他ならない。その日米間の関係は、無念なことには日本側政府の対米従属性のために、きわめていびつである。とりわけ、現在の菅・民主党政権は、野党時代には確信をもって唱えていたかに見えた政治・軍事レベルでの対米自立性の立場を豹変させ、自民党政権時代以上の熱心さをもって日米同盟を外交の基本においている。

北日本・東日本大震災に際して、米軍は約6千人を投入して大規模な救援活動を実施しているが、在沖縄の海兵隊もヘリ部隊を緊急派遣したほか、強襲揚陸艦が三陸沖を拠点に自衛隊と協働しながら補給支援に取り組んでいる。禍々しい戦争のための軍隊と武器装備が、ここでは、「人道援助」の顔つきをして活動しているのである。この「功績」を誇るかのように、米海兵隊司令部は「普天間飛行場の死活的重要性が証明された」と強調し始めている。災害救助活動における米軍と自衛隊(「日本軍」と、私は呼ぶ)の「共闘」は、軍事はもとより政治・経済など日米関係のすべての局面において、日本政府が選択し得る政策の幅を狭めるだろう。しかも、菅政権はそれを喜んでやるだろう。米国オバマ政権が重視しているTPPへ日本も参加するという問題が、いつ、どんな形で再浮上するものかは、予測がつかない。

2

私は、植民地支配・奴隷貿易・侵略戦争などの、「人道に対する犯罪」というべき所業を行なった大国が、それによって獲得できた巨大な物質力を基盤にして、結局は世界全体を支配してきた――という近代以降の世界史の過程に深い関心を持ち続けてきた。もちろん、歴史のこの太い流れをどう批判的に総括するかという理論的関心と、これを逆転する契機をいかに掴むかという実践的な関心から、それは来ている。この歴史過程の発端をなしたのが、15世紀末の「コロンブスの大航海」と「地理上の発見」、およびそれに続いたアメリカ大陸の「征服」→「植民地化」であったと捉える歴史観は、ようやくにして、ほぼ確立してきたと思われる。

これを契機に、「奴隷貿易」をも含めた世界的な規模での貿易が始まったのだが、それは当事者間の対等性・平等性をまったく欠いたまま、ひとり大国の利益のために市場が拡大していくという一方通行的な性格を避けがたく持つものであった。私が育ったのは第二次世界大戦後の現代であったから、そのころ「貿易」は世界的なルールも確立していて、いかにも「対等な交換」の見せかけを持ってはいた。だが、ものごとの発端に関わる事実を知り、過去における不当な貿易で得た利益を、現在南北間に横たわる格差の是正のために差し出そうともしない日本を含めた北の大国の態度には、深い疑問と怒りを感じてきた。ガットからWTO(世界貿易機関)に至る戦後の貿易ルールや、現代世界を席巻する新自由主義とグローバリゼーションに対する私の批判は、その延長上に生まれる問題意識である。グローバリゼーションの趨勢の中から出てきた米国主導の自由貿易論は、世界に存在するすべてのひととものを例外なく「商品化」することで多国籍企業に奉仕し、貧富拡大に拍車をかける弱肉強食の論理に他ならない。TPPも、その枠内にある協定である。

3

自由貿易論を批判する論理を「食農」の領域で見るとき、「食料主権」という考え方がある。この考えを最初に提起したのは、1996年、世界的な農民組織「ビア・カンペシーナ」であった。中南米における豊かな民衆運動から出発し今や全大陸に波及しているこの運動は、「南北・ジェンダー・宗教・政治・人種・身分・言語などの多様性のなかで連帯と団結を追求」(註1)してきた稀有な性格をもっている。食料主権の概念は、多国籍企業や大国・国際金融機関の横暴を規制するという意味では「国家主権」のそれと重なり合う。だが、ビア・カンペシーナは国境を超えた民衆運動の連合体であるという性格を明確に有しているから、全体としてのその主張が国権論の陥穽に落ち込んだり、国家主権(国境)の論理の内部に排外主義的に狭く自閉したりすることがないのだと思われる。このことは、日本における反自由貿易論に色濃く存在する「食農ナショナリズム」の傾向――それは、「国産品を使いましょう」という呼びかけや、水田稲作を「日本の民族的な伝統文化」の中にことさら位置づけようとする議論などに現われる――をふりかえるとき、参照に値する実例だと思う。

私がマクドナルドから流れ出てくる揚げ油の匂いが嫌で堪らず、ハンバーガーも食べないというのは、個人的な好みの問題であろう。だが、「マクドナルド的なもの」は、驚異的なスピードでの森林破壊、食肉生産のための膨大な食料資源の浪費、食の安全性の低下、効率最優先による人間性喪失、食の画一化(註2)などを世界全体に強要するという点において、個人の好みを超えた普遍的な問題となる。私たちが自由貿易批判を展開するときには、個(個別国家)を超えた普遍性のある場所へと進み出るべきだろう。

(註1)真嶋良孝「食料危機・食料主権とビア・カンペシーナ」(村田武編『食料主権のグランドデザイン』所収、農文協、2011年)

(註2)イグナシオ・ラモネ『グローバリゼーション・新自由主義批判事典』、作品社、2006年)

(2011年4月4日記)

時評自評 「日本の壊れ方」の本質


『労働情報』814・5合併号(2011年5月1・15日号)掲載

2月頃から高まり始めたTPP(環太平洋経済連携協定)反対論のなかに、「TPPが日本を壊す」という議論があった。私は、自由貿易協定の本質は、人間の生活にまつわるすべてのモノを例外なく商品化し、市場原理が独占的に規定する単色に世界を染め上げることにあると考えている。それは、人間・地域・文化の多様性を否定し、この潮流の推進者である多国籍企業が全世界を征服することに繋がるから、これに反対している。それは「日本を壊す」のではなく「対等・平等であるべき世界の、国家間・民族間の諸関係を、今まで以上に壊す」のである。世界規模の問題であるにもかかわらず、狭く日本に私たちの問題意識を封じ込める「日本を壊す」という言動に対しては、「食農ナショナリズム」に対してと同様に、厳しい批判が必要だと考えてきた。

だが、TPPの締結を待つまでもなく、「3・11」事態が日本を壊した。地震・津波という天災と、それに伴う原発事故という人災が、日本を壊したのである。否、1ヵ月半後の今も壊れ続けている、と言うべきだろう。どこまで壊れるものか、いま予測できる者はひとりもいない。どんなに悲劇的なものであろうと天災からの立ち直りは、ひとはそれなりにイメージを描くことができる。日本でも世界各地でも、人類は天災と付き合う経験を積み重ねてきた。だが、原発事故の場合は違う。事故発生後、当事者である東電の周章狼狽ぶりを思えば、彼らがこの事態を前に為すすべもなく立ち尽くしているだけだ、という現実が見えてくる。ベトナムなどへの原発輸出に、日本経済復興の明るい未来を描いてきた民主党政権とて、国内の民衆へ語りかけることばの一つも、発しない。放射性物質が大気と海洋を汚染していることを怖れる世界各地の民衆に伝えるべき釈明と謝罪のことばも、語ろうとしない。

いまだに進行中で、その先行きが誰にも見えない福島原発事故が具体的に生み出しつつある物理的な被害は、もちろん、重大だ。同時に、事態を率直に説明することば、対処方法を明示できることば、未来に向けてのことば――東電にも、政府にも、原子力技術者にも、それが決定的に欠けていることに、私は「日本の壊れ方」の本質を見る。

数日前の夜、羽田空港から高速バスに乗った。一時間ほどかけて首都高速を走り抜け、北のとある郊外駅で降りた。都心の高層ビルの照明もネオンも、以前に比べるとはるかに暗かった。私ですら、以前のあのきらびやかな明るさに慣れていたのだろうか、薄暗さは気味悪かった。この暗さに慣れていく果てしない時間が、今後は続くことになる。それは、人間の社会が持つべき明るさのために、避けることのできない過程だろう。(4月22日記)

「環」(Trans-)という概念から考えるTPP問題 ――「環日本海」と「環太平洋」


『環』45号(2011年Spring、藤原書店)掲載

「環日本海」

「環」(Trans-)は、本来なら、豊かな可能性に満ちた地理的概念になり得ると思われる。私がもっとも好ましいと考えている「環」概念は、富山県が作成した「環日本海諸国図」と称する350万分の1の地図に見られる(複数の民族・国家に囲まれている公共財としての海に、特定の国家名称である「日本」を冠していることが、他者との共存を阻害する排他性を示していることに、日本社会は徹底して無自覚である。これは重大な問題だが、テーマを異にするので、ここではこれ以上は触れない)。私たちは、日ごろから、「北」を常に上位におく方位イデオロギーに貫かれた平面地図を見慣れたものとしているが、この環日本海諸国図を見ると、今まで当然と思っていた平衡感覚が揺らぐ。日本列島は、太平洋を上にして、北から南へと(南から北へ、という表現も可能である)横たわっている。海を挟んで下方には、サハリン、ロシア東端部、中国東北部、朝鮮民主主義人民共和国、韓国と続き、さらには遼東半島を経て北京・上海・香港へと至る中国大陸が広がっている。日本海は、明らかに、これらの諸国・諸地域によって囲まれた〈内海〉であることが、自然に感じとられる地図である。

この〈内海〉を、それぞれの歴史的段階において民族間・国家間の争いと侵略と戦争の場にしたのは誰か、という問いが私たちの裡に必然的に生まれるとともに、東西冷戦構造が消滅して20年近くを経た今なお、地球上で唯一なぜこの地域には冷戦構造が維持されているのかという内省へも、私たちは行きつかざるを得ない。地方自治体や非政府組織が軸になって、環境問題などをめぐって国境を超えて「環日本海」の協働関係をつくろうとする努力は続けられてきているが、国家のレベルでは、残念ながら、そうではない。「環」を形成する諸国が、対等・平等な関係性の中で、対立/抗争の〈内海〉を、いかに、平和のそれに転化できるかが、今こそ問われている。

「環太平洋」の歴史的文脈――「黒船」の意味

さてここでの問題は、Trans-Pacific という概念である。「環太平洋」なる概念はとてつもなく広い。南米の最南端チリから、中米・北米諸国をたどり、ロシアのシベリア地域を通って東アジア諸地域、東南アジア多島海地域、オーストラリア、ニュージーランへと至り、またそれらに囲まれた南太平洋の島嶼国も含まれる。30ヵ国以上にも上るかと思われる該当国の中にあって、ひときわ異彩を放つのは米国である。なぜなら、この国は、東海岸を通してTrans-Atlantic(環大西洋)に繋がり、アメリカ大陸に位置することによってラテンアメリカ・カリブ海域と一体化した汎米州(パン・アメリカン)共同体的なふるまいを行ない、西海岸を通してTrans-Pacific(環太平洋)諸国の一員であるという顔つきもできるという、世界でも唯一の地理的「特権性」を享受しているからである。さらに、この国は、政治・経済・軍事の分野ではもとより、文化的影響力の大きさにおいても、かつてほどではないにしても現在なお、他の諸国に比して群を抜いており、加えて国際的な関係を他国と結ぶうえで、この国が対等・平等であることを心がけたことなどは一度もないからである。

米国が、環太平洋への出口を獲得したのは19世紀半ばであった。

3世紀に及ぶスペインによる植民地支配からメキシコが独立したのは1821年だったが、当時はメキシコ領であった現テキサス地域が1836年に分離したのは、「西部開拓時代」の只中にあって「西へ、西へ」と向かう米国の干渉によるものだった。これに奏功した米国は1846年にはメキシコに戦争を仕かけ、これに勝利した戦利品として、コロラド、ニューメキシコ、ユタ、アリゾナ、ネバダ、カリフォルニアという、現メキシコの2倍以上もの資源豊かな領土を奪い取った。1823年のモンロー宣言によって、アメリカ大陸からヨーロッパ列強の影響力を排除することを企図した米国は、今度は太平洋への出口を獲得したのである。米国の、環太平洋への進出の動きは素早かった。対メキシコ戦争に参戦したペリー総督は、艦隊を率いてインド洋に展開していたが、彼がその黒船を率いて、当時鎖国中であった日本の浦賀沖に現われて、砲艦外交によって開国を迫ったのは1853年のことである。19世紀前半の、この30年間有余に凝縮している米国の「拡張史」からは、「帝国」形成期における海外侵略のエネルギーの強靭さが見て取れる。

米国はさらにインディアン殲滅戦争を続行するが、これにほぼ奏功して国内統治を完璧なものにした19世紀末、その意識では「裏庭」と捉えているカリブ海域、および太平洋を横断し(trans-)、遠く東アジア地域への進出を果たした。そしてキューバとフィリピンの民衆の反植民地闘争がスペインからの独立を目前にしていた段階で、米国は陰謀的な手段で介入し、局面を米国・スペイン戦争に変えてしまったのである(1898年)。勝利した米国は、フィリピン、グアム、プエルトリコをスペインから奪い、キューバをも実質的な支配下に置いた。

TPPの歴史的文脈――中南米での教訓

米国は、19世紀の前半から後半にかけて確立したこのような地理的優位性を基盤に、20世紀における世界支配を実現してきた。1917年から91年までは、ソ連型社会主義との熾烈な競争・闘争もあったが、そのソ連が無惨な崩壊を遂げたときには、資本主義が絶対的な価値をおく「市場原理」の勝利を謳歌した。それ以降の20年間、新自由主義(ネオリベラリズム)とグローバリゼーションの掛け声の下に、地球(globe)全体を丸ごと支配する方策を模索してきているが、自由貿易はそのもっとも重要な軸であった。1994年、米国はまずカナダ、メキシコとの間で「北米自由貿易協定」(NAFTA)を実現した。関税障壁を15年間かけて撤廃したこの協定は、3億6千万人を包括する自由貿易協定として全面的に実施されている。世界最強の大国と第三世界の国が同じ自由貿易圏に入ると、いかなる結果がもたらされるか。農産物を例にとれば、メキシコの米国に対する輸入依存率は、協定前の5~10%から40~45%に高まった。農民の4割に相当する250万人が離農し、多くは職を求めて米国へ渡った(註1)。農地の一部は多国籍企業の手に渡り、先進国の食肉需要を満たすための牧草地とされた。

米国は、この余勢を駆って、クリントン、ブッシュ(子)の二代の大統領の任期を通じて、キューバを除外した米州自由貿易圏(FTAA)の実現に全力を挙げた。ガットなきあとの世界貿易機関(WTO)が思うようには機能できず、「内外無差別な投資の自由」を推進しようとした「多国間投資協定」(MAI)も、欧米のNGOを中心とした強力な反対運動によって頓挫を余儀なくされたために、世界全体に自由貿易を強要する企図を早期に実現する見通しを失った。そこで、二国間、あるいは地域限定の自由貿易体制をつくることで、突破口を切り開こうとしたのである。

2005年11月、アルゼンチンで第四回米州サミットが開かれた。ブッシュ大統領は、人口8億5千万人、GDP約13兆ドルの世界最大の市場を包括する米州自由貿易圏構想をここで一挙に実現しようとしていた。だが、1970年代半ば以降、世界に先駆けて新自由主義経済政策の荒々しい洗礼を受けていて、それによって荒廃した社会状況の辛酸をなめていたこの地域には、政府レベルでも、民衆運動レベルでも、新しい力が育っていた。新自由主義とグローバリゼーションに異議を唱え、それとは正反対の価値観、すなわち、連帯・共同・相互扶助の精神によって、地域共同体をつくろうとする大きな動きである。ブッシュ構想は、そのような各国政府から激しい批判を受けた。構想に抗議する五万人の民衆が会場を包囲した。ブッシュ構想は、あえなく潰えた。

世界貿易機関の「円滑な」運営や多国間投資協定および米州自由貿易圏を挫折させたのは、少数の大国が思うがままに作り上げてきた貿易秩序に「否!」を唱え、富裕国と貧困国の間に、公正で対等な経済秩序を打ち立てようとする民衆運動の力である。残念ながら、日本では実感できないその力が、世界的には、放埓な新自由主義とグローバリゼーションの跳梁を現実に阻止してきた。

2006年に、シンガポール、ニュージーランド、チリ、ブルネイの四ヵ国が発効させたTPPは、いわば「小国のFTA(自由貿易協定)」であった。米国のオバマ大統領が2009年にこれへの参加を表明し、それは「帝国のFTA」に豹変した(註2)。19世紀以降、米国が一貫して追求してきた自国利害優先の世界戦略にひとつの自己懐疑もおぼえたことのない米国は、「環」の理念を身勝手に利用して、19世紀半ばの帝国主義時代の価値観に基づいて、「太平洋地域」への介入を試みているのである。

世界史を顧みると、植民地支配や侵略戦争など「人道への犯罪」を積み重ねてきた欧米諸国と日本が、現在に至るまで政治・経済・軍事の世界秩序を主導的に形成してきている。

それは「もう、たくさんだ!」と拒否するところで、上に見た多様な抵抗の言論と活動が展開されている。このような歴史過程のなかに、TPPをめぐる攻防を据えること。それによって私たちは、「現在」だけに視野を拘束されない歴史的な奥行きと深みの中で、TPPの背後に広がる事態の本質を掴むことができる。

対米追従の歴史的文脈――「環日本海」と「環太平洋」

日本では2009年に民主党政権が発足した。鳩山首相は、最初の演説で「東アジア共同体」に触れたり、沖縄に集中している在日米軍基地に関しても、歴代の自民党系列の為政者からは聞かれなかった方針を明示したりして、戦後60年有余の澱んだ政治に何らかの新しい光景が開かれていくか、と思わせるものがないではなかった。

だが、いまとなっては、その後の顛末を振り返ることすら虚しい結末となって、鳩山時代は終わった。継承したのは、市民運動出身を標榜する菅直人首相である。菅氏は野党時代には「海兵隊は即座に米国内に戻ってもらっていい。民主党が政権を取れば、しっかりと米国に提示することを約束する」(民主党幹事長時代の、那覇市での選挙演説、2001年7月21日)とか、「沖縄から海兵隊がいなくなると抑止力が落ちるという人がいるが、海兵隊は(日本を)守る部隊ではない。地球の裏側まで飛んでいって、攻める部隊だ。沖縄に海兵隊がいるかいないかは、日本にとっての抑止力とはあまり関係がない」(民主党代表代行時代、2006年6月1日)などと語っていた。ところが、首相就任直後の2010年6月には「海兵隊を含む在日米軍の抑止力は、日本の安全保障上の観点から極めて重要だと考えている」(衆院本会議、2010年6月14日)と答弁し、また「普天間基地の辺野古移設を明記した先般の日米合意を踏まえ、しっかりと取り組んでいきたい」とオバマ大統領との電話会談で語りかけた(2010年6月6日)。菅氏がこのような開き直りの口実に使った出来事はあった。尖閣諸島をめぐる中国との角逐、竹島(独島)の占有権をめぐる韓国との争い、そして北朝鮮の軍事優先主義を示すいくつかの行動である。

菅氏は、環(trans-)日本海地域が直面している困難な事態を歴史的な責任を賭けて切り開く道を選ぶのではなく、むしろアジア近隣諸国との正常ならざる関係を奇貨として、はるか太平洋の向こうにある(trans-)米国との軍事同盟に日本の命運を託すという方針を、問わず語りに明かしたのである。「環」の論理が孕む豊かな可能性をなきものにし、逆に、身勝手な自己流の論理の中に「環」が有する地理的関係性を巻き込んでしまったのである。

戦後60年有余、パックス・アメリカーナ(米国による、米国のための平和)の傘の下に置かれた日本が、自らの意思に基づいて、政治・経済・日米同盟などについての指針を持つことがなかった事実については、批判派からの提起が何度もなされてきた。菅氏の前述の諸発言を思うと、根はもっと、歴史的に深いところにあるように思える。冒頭で触れたペリー来航からわずか5年目の1858年には、日米修好通商条約が締結された。周知のように、これは、日本が関税自主権を放棄し、片務的最恵国待遇を保証した不平等条約であった。米国が「修好」の名の下に、この種の二国間条約の締結を相手の「小国」に強要する例は、その後も枚挙にいとまがないままに、21世紀の現在にまで続いている。近代から現代にかけての日本は、もっとも愚劣な方法で米国に対抗した真珠湾攻撃(1941年)から敗戦に至るまでのわずかな期間を除いて、戦前も前後も、米国のこのような論理にまともに討論を挑み、抗議し、関係の是正のために尽力することを怠った。被害者意識だけを募らせたその果てに、明治維新後の1875年、近代日本は朝鮮に対して江華島事件を引き起こすことで、4隻の黒船から受けた砲艦外交と同じことをアジア諸地域に対して行ない始めた。1869年の蝦夷地併合(北海道と改称)を契機として、すでに植民地帝国としての近代日本の歩みは始まっていたが、その6年後には、もっとも近隣の国に対する露骨な介入を開始したのである。

菅氏は、この「第一の開国」が孕む問題性を自覚しているのだろうか、無自覚なのだろうか。2010年11月、突然のように、TPPへの参加の意思表示を行ない、もって「平成の開国」と呼び始めた(註3)。「第三の開国」とも称しているが、これは、アジア太平洋戦争における敗戦を、なぜか「第二の開国」と数えているからである。

このような菅氏の歴史認識のあり方は、大いに疑わしい。一部の人びとが抱いたであろう(私とて、一部の政策分野に関しては、そうであった)民主党政権に対する淡い期待は、急速に冷めつつある。その対米従属ぶりは自民党政権時代よりひどいというのが、多くの人びとの実感であろう。思い起こせば、しかし、「労働党」を名乗るイギリスのブレアも、「9・11」以後、ブッシュ路線への驚くべき追随路線を実践してみせた。議会制民主主義国における二大政党制なるものは、所詮、微小な差異を示すものでしかない、あるいはほぼ同根の価値観を持つものでしかないと腹をくくった地点で、事態を捉えなくてはならないのであろう。

TPPが包括するさまざまな産業分野に即して、また日本の現状に照らして、これに反対する論理を展開することは必要であるが、それはすでに多くの方々によって有効な形で行なわれている。TPPは、現在の構想で実現されるなら、物品貿易の全品目の関税を即時ないしは段階的に撤廃するばかりか、貿易保険、知的財産権、投資、労働、環境、人の移動などにも関わる包括的な協定である。

ナショナリズムによらないTPP批判を

このように人間生活のあらゆる分野を包み込むものであるから、「食」と「農」だけが特別視されるべきものではない。だが、TPP反対論を総体として眺め、「ナショナリズム」の匂いが鼻につくのは、ひとが「食」と「農」について語るときであることが多い。私は、TPP反対の論理にナショナリズム――それは、「国家主義」とも「民族主義」とも解釈されうる。あるいは、言葉遣いによっては「日本至上主義」というべき言動も、ないではない――が入り込む余地をなくすべきだと考えている。

去る2月26日、370人の参加を得て東京で開かれた「TPPでは生きられない! 座談会」(「TPPに反対する人々の運動」主催)での多様な人びとの発言に耳を傾けてみても、反TPPの多様な声のなかには、「国産品を買おう」という声も混じる。「水田耕作を守ることは日本文化の基本」と叫ぶひともいる。それは、私が受ける印象では、東日本大震災以降、「国難」論に基づいて、事態(とりわけ、原発危機)の責任者を名指しすることもなく煽られている「国を挙げての復興キャンペーン」にも似た「国民運動」の呼びかけとも重なってくる。

ひとは、「国産品だから」安心して、買い求め、食するのだろうか。私たちが、どんなにささやかであろうとそれぞれ可能な形で、有機農産物の産地=消費地提携活動や地域内循環(地産地消)に関わっているのは、それはいきなり「国産品」とか「日本製品」を尊重する意識に飛んでいるのではなく、限定的な地域(ローカル)で貌が見える関係性のなかで培われた双方の信頼感を基にしているからである。あの米国においてでさえ、大都市近郊には「地域支援型農業」(CSA=Community Supported Agriculture)が広がり、連帯経済の新しい形態として注目を集めているという(註4)。「国産か否か」が問題なのではなく、「有機か否か」を問うことがここでの問題だろう。直接交流しているわけでもない世界のどこにあっても、同じ志の仲間がいると思うとき、「国産品なら良い」とする意識も言葉も、自然に消えていくだろう。

水田も、日本だけの稲作形態ではない。中国にも、インドにも、パキスタンにも、それは多く見られる。ラテンアメリカ、北米、アフリカ、南ヨーロッパにもそれは見られる。私の世代なら、シルヴァーナ・マンガーノの美しさが忘れられない戦後のイタリア映画『苦い米』を脳裏に浮かべて、あの時代のイタリアにも水田耕作が行なわれていた地域があったのだと思うこともできる。自らが営む水田の光景の美しさや産米の美味しさを言いたいなら、その地元の名や、新潟や宮城の地域名で(ローカルに)表現すればよい。国家名である日本がそこに登場する必然性は、まったく、ない。「日本の水田」の美しさや文化性が、ことさらに強調される謂れは、ない。世界じゅうのそれぞれの地域での生産様式と調理方法・食べ方を等価で表現できる境地へ、私たちの意識が流れていけばよい。

この社会では、「日本文化特殊論」が、ある誇りをもって強調されてきた。それが、排他的な自民族中心主義に容易に収斂していった苦い歴史も、私たちは経験してきた。「日本海」という呼称と同じく、きわめて排他的で、「井の中の蛙」的な論理に落ち込む隙を、私は排除したいと思う。

(註1)メキシコ全国農業生産取引業連合のビクトル・スアレス執行理事の談話(「しんぶん赤旗」2010年12月6日付け、メキシコ駐在・菅原啓記者)

(註2)田代洋一「TPP批判の政治経済学」(農文協編『TPP反対の大義』所収、農文協、2010年)

(註3)この問題性に関しては、宇沢弘文もさまざまな機会に指摘している(「TPPは社会的共通資本を破壊する」内橋克人との対談、『世界』2011年4月号、岩波書店)

(註4)北野収「脱成長と食料・農村」(『人民新聞』2011年1月5日付け)。他に、「地域支援型農業 CSA」で検索すると、インターネット上でいくつもの有意義なサイトを参照することができる。

(2011年4月1日記)