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状況20〜21は、現代企画室編集長・太田昌国の発言のページです。「20〜21」とは、世紀の変わり目を表わしています。
世界と日本の、社会・政治・文化・思想・文学の状況についてのそのときどきの発言を収録しています。

破壊しに、とわれらは言う――「民衆運動の同時代性」なるものに関わる一視点


『季刊ピープルズ・プラン』57号(ピープルズ・プラン研究所、2012年3月刊行)掲載

1960年代後半の東京には、アナキズムに心情的な共感を寄せる一定数の学生がいた。私もその中の一員だった。フランス1848年革命の前と後の時代に、ルイ・オーギュスト・ブランキが情勢をいかに捉え、いかに行動し、いかに幽閉されたかにまつわる魅力的な話を年長者から聴いた夜だったか、話は、ボリシェヴィキの革命が、その初心を貫くことができずに、常に歪められ、裏切られてゆくのはなぜか、それこそ、前衛党と、それが指導して建設されるはずの新しい国家を絶対化する彼らの思考と実践のあり方に由来するものだ、と討論は進んだ。ところで、そうならない保証はどこに? 年長者が言うには、ある革命が起こったら、前衛党主義者ではないわれわれが、その権威化・権力化を阻止するためにそれを壊すこと。要は、つくっては壊し、つくっては壊しだよ。それを繰り返すしか他に方法はないんだ。ふーん、かくめいって疲れるものなんですねえ。一時(いっとき)の高揚なら、祭りのように楽しめるものを、四六時中緊張していなけりゃならないなんて――そんな軽口をたたきながらも、まだ若く20代前半であった私(たち)は、そんな未来を考えることが、まっとうな夢であり希望であるような日々を生きていた。

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(2011年1月のエジプト)革命前夜、広場では次の大統領候補について、あちこちで議論の輪ができていた。土産物屋の店員、ムハンマド・ハムシャリーは「(次の大統領は)副大統領(当時)のスレイマーンだって、かまいやしない」と言った。しかし、スレイマーンではムバラークと同じではないかと反論すると、彼はあっさりこう言った。「奴が変わらなければ、また僕たちがデモをすればいいのさ」

既成の権力に代わる新たな権力や政策の代案を創るよりも、眼前の倫理に反する権力に対し、ひたすら叛逆し続けること。そうした生き方に価値を置くこと。青年たちの精神はアナキストのそれだった。ハムシャリーの台詞は、戦前の日本における叛逆者の一人、金子文子を想起させた。

田原牧『中東民衆革命の真実――エジプト現地レポート』(集英社新書、2011年)

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O 君は若いころから、レボルト社の『世界革命運動情報』の編集・刊行・販売に関わり、40~45年後の今となっては「夢」のような、革命の同時代性に惹きつけられていたようだった。その後長じてからも、世界各地の政治・社会の動きに一種の「同時代性」がうかがえることに留意した発言をしてきたように思える。そんな君は、現在の世界の状況をどう見ているのか。昨今のありふれた言説と言えば、こういうものだ――すなわち、米国発祥の金融危機は資本主義の、そう言ってよければ「死の苦悶」だが、それに加えてヨーロッパも債務危機に見舞われており、あたかも世界恐慌前夜の様相を呈し始めている。この危機的な状況を前に、世界各地の民衆はそれぞれ独自の形で新しい運動を展開しており、それは大きなうねりとなっている。「アラブの春」を見よ、財政緊縮政策に抗議するヨーロッパ諸国の民衆運動を見よ、1%の独占に抗議する99%の人びとのたたかいという象徴的な表現を生み出した米国のたたかいを見よ、というわけだ。そしてそこに、日本における反原発運動の高揚を付け加えることも、ありふれた流儀だ。これは本当に「同時代性」なのだろうか。仮にそうだとすれば、その「同時代性」は何を物語るものなのだろう。君の考えを聞かせてくれないか。

M 世界の動きを新聞とテレビの大メディアだけで知る時代はとうに終わった。背後にいる資本の利害を忠実に反映して、報道すべきニュースを選択し、隠蔽したい事実は報道せず、したがって表層に流れる組織的大メディアの報道は、個人や小集団が発信するインターネット情報によって乗り越えられつつある。しかし、それもまた玉石混交であり、しかも厖大だからすべてに接しそれを咀嚼することはできず、信頼しうる発信源に行き着くには、かなりの努力と時間が要る。私にはそれができていると言い切る自信は、とてもじゃないが、ない。自信がない分は、(それがあると仮定して)過去の蓄積と、勘に頼るというのが正直なところだ。最近では、大メディアが世界の民衆運動の中でもニューヨークの占拠運動を突出して取り上げたという傾向に対して、インターネット情報に基づいて、別な視点を提示したいと思った。

O 君は、オキュペイション(占拠)という語感には、米国国家が世界各地で繰り広げてきた植民地主義的「占領」を連想して〈引いてしまう〉とか、自分たちは「99%」だと言って誇る多数派とは、数値として対アフガニスタン・イラク攻撃に賛成した人間を含めないと成立しない数字だといって、警戒する見解を発表して(註1)、ネット上で若干の物議を醸したな。

M その運動を全面否定したわけでもないし、基本精神には共感するとしたうえでの、部分的な、しかし歴史的な把握の観点では重要な、問題提起のつもりだった。米国発だとなんでも肯定的に受け入れるという受容の仕方に対する批判の一環だった。事実、広場や街頭の占拠運動の出発点は、今でこそ知られているが、2011年5月15日、スペインの首都マドリードのプエルタ・デル・ソル(太陽の門)広場で行なわれた(註2)。「15-M」と書いて、スペイン語で「キンセ・デ・エメ」と発音される。日本で私たちがよく使う「5・15」という感じだ。この日、マドリードでは数万人の人びとが集まって、「今こそ真の民主主義を!」を合言葉に、示威行進を繰り広げた。バルセロナでは1万5千人、スペイン全土で15万人が参加したという。

O 「15-M」にしても、突如始まったわけではなくそれに先行する象徴的な行動があったと聞いたことがある。

M 例のフラメンコ集団のことだね。前年の2010年末ころから、スペイン南部のアンダルシア州を中心に、大銀行の店内で突然フラメンコを踊り出す数十名の男女が出没するようになった。「バンケーロ(銀行家)! あんたは財布を握り、私はスッカラカン」と歌いながら、数分間銀行を占拠したのだという。この、傍から見ても愉快な行動には、二重の意味があると思う。アンダルシアは伝統的にスペインでも最も貧しい地域で、アラブ人、北アフリカのベルベル人、ロマ、スペイン系ユダヤ人、アフリカ黒人など多地域から住民が集まり、独特の芸術表現が花開いた地域だ。フラメンコは、かつてジプシーと呼ばれたロマの人びとがホェルガ(どんちゃんさわぎ)の場で育んだ舞踏音楽で、今では商業化した面もあるが、根強いロマ差別がある社会にあっては、他者にも一目おかせる有力な自己表現の一方法でもある。だから、根づいた文化表現を通しての抵抗運動であることが、意義の一つ目。私もなんどか観ているが、フラメンコは、なんたってカッコいい。現場に居合わせた人は、最初は度胆を抜かれ、いつしか喝采をおくるしかなかったと思う。次いで、2003年3月、米英首脳と並んでイラク攻撃の道を掃き清めたのは、当時のスペイン首相アスナールだったが、彼は1996年の首相就任以来、米英政治指導部の政治・経済政策に一体化していた。つまり、新自由主義政策の忠実な実行者であったのだが、その結果、実態経済を離れた地点でマネーが舞う金融操作主体の経済に堕している現実を、フラメンコ集団は大銀行を占拠したり、その門前で踊ったりするという象徴的行為で暴いた。スペインはその後、社会労働党のサパテロ政権に移行してはいたのだが、新自由主義政策からの大胆な転換を図るという意味では無為無策だった。その現実を白日の下に曝したこと、それがふたつ目の意義だ。

O 1973年のチリ軍事クーデタを契機に20世紀末までの数十年間、世界に先駆けて新自由主義経済政策に翻弄されて、世界銀行やIMFのような国際金融機関や先進国の金融資本に都合よく操られたラテンアメリカ諸国を二重写しに見るような経験だな。

M 現在EU圏で最も深刻な経済危機に見舞われているのは、ギリシャ、イタリア、スペイン、ポルトガルの諸国だ。いずれも地中海に面した、いわゆるラテン系の国々だ。ドイツ首相メルケルは苛立って、ラテン系の人びとはもっと働いたら、と語ったというが、ここに現れたのはまさにEU圏内の南北問題だね。君が言うように、ラテンアメリカ諸国が前世紀末から新世紀初頭にかけて経済危機に直面した時に、その原因をつくった先進国や国際金融機関が責任を前者に転嫁した視線そのものだ。大国であるドイツやフランスの大銀行が、EUの南の諸国、つまり相対的に貧しい諸国を借金漬けにして、見返りに新自由主義政策の実施を強要した。小さな政府、公営部門の廃止、福祉・医療・教育部門への競争原理の導入などだ。EUはいまその結果に直面しているのだ。いわゆる「メルコジ」連合が、地中海方面を迷惑気に眺めながら文句を言うようなことではない。

O 「同時代性」のひとつが見えてきた気がする。ソ連亡き後、つまり社会主義圏崩壊を見て勝利を謳歌した資本主義は「グローバリゼーション(全球化)」という形で世界を支配した。その原動力は、ラテンアメリカ地域で功を奏したかに見えた新自由主義路線だった。その恐るべき結果を見届けた人びとは20世紀末からそれへの抵抗運動を始めた。それは現在、政権レベルでも民衆運動レベルでもしっかりと根づき、新自由主義に抗し別な価値観を具体的に提示する、世界でも稀な地域となっている。ラテンアメリカ地域から一周遅れで新自由主義に席捲されてきたヨーロッパで、それと同じことが始まっているのだと言える。ヨーロッパ各地や米国でのオキュパイ運動をその延長上で捉えると、すべてがすっきりと繋がって見えてくるようだな。

M 「同時代性」という観点から言うなら、誰もが気づいていることだろうが、一点重要な事実がある。この大衆運動には、かつてのようには「党」や「大労組」の影も形もない。20世紀を通しての社会主義・共産主義運動は、強固な「党」の指導の下で展開された。その専制と独断が無惨な結果に行き着いたことで、党そのものが自滅した場合もある。人びとの意識がそれに見切りをつけたとも言える。昨今では、新自由主義政策によって旧来なら労働者が大労組に結集していた産業分野が分割させられ、必然的に労組の解体・再編に至たった場合も多い。人びとは、上からの「動員」によってではなく、自らの責任と主体性において判断し、行動を選び、自由に発言するようになった。党や組織の官僚統制が効かない時代の当然の傾向として、それは歓迎すべきことだと思える。党と労組の役割という点では、米国の場合は推して知るべしだが、スペインでも政権党であった社会労働党は先にも言ったように新自由主義政策を是正する意欲もなかったし、UGT(スペイン労働総同盟)も既成の秩序の枠内で既得権を守るのに精いっぱいだ。世界中どこを見ても、民衆運動に共通する性格はこれだ。

O それは「アラブの春」にも共通するものだろうか。いろいろな報告や分析を読んだが、何が驚いたって、第二次大戦後の時代幅で見ると、あの権威主義的な政治的指導者ばかりが輩出し、それが声高に叫ぶ民族主義的スローガンに世論が一体化する、「英雄待望論」そのものが実践されてきたような地域で、「英雄も指導者も不在」(田原牧、前掲書)の民衆運動が丸腰の状態で沸き起こり政権打倒にまで至ったことだ。「アラブの大義」という曖昧な包括的指針の下で、外部に米国とイスラエルという敵を設定し、国内の強権政治も非民主的な王政も許容してきたアラブ世界の構造そのものが崩壊し始めたのだ。指導部が不在のままに大衆運動が展開されているという点では、他の世界との共通点を持っているように見えるが、従来のアラブ社会の独特のあり方を思うと、そこでははるかに深く地殻そのものの変動を準備する動きがあるように思える。

M 君も引用した田原牧氏の『中東民衆革命の真実』はそのあたりの事情をよく伝えているな。ムバーラク打倒の理由を、米国とイスラエルに妥協的なその姿勢に対する怒りだと解釈した左派知識人がいたというが、虚飾にまみれたアラブ民族主義こそが青年たちに葬られたのだと田原氏は正しくも主張している。アラブ諸国の中でイスラエルに最も非妥協的な政権党を持つシリアにまで、チュニジア、エジプト、リビアの激動が波及している理由は、ここでこそ解き明かされるという分析も明快だ。グローバリゼーション時代を象徴するコンピューターが、ツイッターやフェイスブックというツールを駆使して人びとを広場に駆り立てた点も、情報封鎖社会にあっては特異なことだった。

自律的な民衆運動の展開という共通項はあっても、その背景としての社会をどこまで揺り動かすかという意味では、深度が違っているようだね。ここまで話してきてつくづく思うが、メキシコ・チアパスのサパティスタの1994年蜂起の影響力・波及力は、決して軽視できないな。持久戦段階の現在、この運動が大きな転機に立たされていることは事実だとしても。第一に、それはソ連崩壊直後のことで、いまさら「革命」だの「反体制」だの、ましてや「武装蜂起」など問題外のことだと思われているような時代のたたかいだった。単純なようだが、諦めるな、という叫びはいつだって貴重だね。第二に、多国間自由貿易協定反対というスローガンが、グローバリゼーションの時代的特徴を正確に捉えていた。先に触れたように、ラテンアメリカ地域は新自由主義に翻弄されてきていたから、身に染みてその本質を見抜いていた。第三に、自分たちは電気の通じていない山中にいながら、深い山から出たところにある町や、米国はテキサスに住む同胞(メキシコ系の人びと)のコンピュータ―・ネットワークを通じて次々とメッセージを発信できた。第四に、そのメッセージの文体と内容が、訴える力もある豊かなものであった。第五に、自らを前衛党と名乗らず、権力獲得をめざさないと明言した。同じ方向へ歩むさまざまな社会運動との間に共通の社会的空間を形成し、その協働性の中で社会変革をめざすと語った。第六に、止むを得ぬ手段として武装蜂起しながら軍事至上主義ではなかった。相手(政府)に対しても民衆に対しても武器を誇示することなく、戦争は避けたい/武器は捨てたい/平和を望むとのメッセージを発信し、それを実践した(註3)。これらはすべて、今まで見てきた世界中の新しい社会運動が、従来のそれとは異次元で帯びている性格だ。ボリシェヴィキ指導下の20世紀の社会運動が持っていた性格とは、根底的に異なるものをそこに見ることができる。

O サパティスタを重視するのはラテンアメリカや欧米が主だと思われてきたが、アジアでも、韓国、中国、インドなどでは大いなる関心を持つ社会運動家がいる。社会運動が見過ごしてきたり、関心をすら持ち得なかったりする問題に、真正面から取り組んだ提起を行なっているのだから、当然だと思う。日本でもそれを深めたいところだね、「同時代性」を見極めるためにも。

M こうして、世界の状況と民衆運動に「同時代性」を見るという話をする時、どうしても触れざるを得ないことがある。それは、この問題意識は日本を含めた東アジアにも適用できるのか。そのとき、現政権の抑圧性という点では突出している中国や朝鮮民主主義人民共和国(以下、北朝鮮)の位置はどこにあるのか、という問題だ。もちろん、日本では「3・11」以後の反原発運動の活性化のなかに、新しい社会運動の萌芽がいくつも見られる。大気と大地と海洋に対処のしようのない放射性物質が浸み込んでいくという事態は、いまだかつて想像すらし得なかった諸問題を私たちに提起している。論争なき社会にあって、それらをめぐって論議が起きていること自体が好ましい方向だと思う。私たち自身がこの過程を生きており、今後も生き続けるのだから、きょうの話で出てきた世界各地の民衆運動から学び得ることがらを生かす方法を探りたいと思う。

中国でも、乱開発・経済格差・言論の統制・辺境の非漢民族地域での弾圧・党と行政幹部の腐敗などをめぐって、めざましい大衆運動が起こっている。人間が、自らのスケールというか器量とでも言ったらいいのか、それでは御し得ないほどの人口を抱えた「帝国」における激動は、なまなかな想像を超える問題を提起することになるだろう。民族的な排外主義の傾向が深まる日本社会の只中にあって、これといかに向き合うかという問題は、私たちにとっての厳しい試練だと思う。そして最後が北朝鮮だ。金日成の独裁が確立して以降の長い間、ありとあらゆる民衆の自立的な動きが封じ込められ、恐るべき弾圧にさらされてきたこの社会でも、デジタル機器の浸透によって情報封鎖を打ち破る萌芽がいくつも出てきた(註4)。1989年の東欧革命においても、きょう話し合ってきたエジプトなどのアラブ世界の激動においても、権力によって封じ込められてきた情報が社会に広くあふれ出ることが、変革の決定的な契機となった。「同時代性」という問題意識のなかから、中国も北朝鮮も除外しないという意識的な努力が、私たちには求められると思う。

O 確固たる論理的な枠組みを示しながら輝かしい未来を約束した20世紀的な社会運動は敗北した。いまは、そのあとの混乱・混沌期だ。さしあたっては、現存秩序を「破壊しに」といって台頭してくる民衆運動のなかにみずからの身をさらして考え抜くしかないと思える。

(註1)「〈占拠せよ〉(occupy)という語に、なぜ、私はたじろぐか」、『反天皇制運動 モンスター』21号(2011年10月)および「領土問題を考えるための歴史的文脈」、『月刊 社会民主』680号(2012年1月)

(註2)スペイン語各紙も参照したが、日本語で読むことのできる、スペイン情勢に関する詳しく刺激的なブログに、スペイン在住の童子丸開氏が主宰する「幻想のパティオ(スペインの庭)」doujibar.ganriki.net/webspain/menuspainhtml.htmlがある。本稿で触れた運動的事実の記述は、童子丸氏のブログに負うところが大きい。記して、感謝する。

(註3)サパティスタの思想については、以下の重要な書物がある。サパティスタ民族解放軍『もうたくさんだ!』(太田・小林編訳、現代企画室、1996年)。マルコス+イボン・ルボ『サパティスタの夢』(佐々木真一訳、現代企画室、2005年)

(註4)『北朝鮮内部からの通信 リムジンガン』第6号(アジアプレス出版部、2012年2月)所収の「北朝鮮デジタル・IT事情最新報告」に詳しい。

太田昌国の夢は夜ひらく[24]3・11から一年、忘れ得ぬ言動――岡井隆と吉本隆明の場合


反天皇制運動機関誌『モンスター』26号(2012年3月6日発行)掲載

3・11の事態から一周年を迎えるいま、山のような言説の中からふり返っておきたいいくつかの発言がある。私が共感をもつことができた言葉や分析に、ここであらためて触れても意味はないだろう。疑念か、批判か、苛立たしい哀しみかを感じた発言を挙げておくのがよいだろう。「幻想」を持ち続ける、わが身の至らなさの証左にもなるだろうから。

ひとつ目は、歌人・岡井隆の発言である。岡井については、別件ではるか以前にも批判的に触れたことがある。岡井はかつて、私のように短歌の世界に格別に通じているわけでもない若者にとっても避けては通れぬ表現者であった。だから、学生時代からその歌集や評論を読んでいた。歌会始に選者として関わる歌人に対して、そんな文学以前の行事に関わるなら皇族の歌を一つ一つ自己の文学観に照らして価値づけよ、と迫るような人物で、1960年の岡井は、あった。心強い存在だった。その彼が1993年になると、歌会始の選者になって、その「転向」の上に居直る発言を繰り返した。思想は変わってもよい、変遷の過程を文学・思想の問題として説明せよ、というのが私の批判の核心だった。

その岡井が『WiLL』 11年8月号に「大震災後に一歌人の思ったこと」という短文を寄せている。岡井と共にこの雑誌の目次に居並ぶ者たちの名をここに書き写すことは憚られるほどに内容的には唾棄すべきものなのだが、そこに岡井の名を見ると「哀しみ」か「哀れみ」をおぼえる程度には私は岡井のかつての、および現在の一部の作品を依然として「愛している」あるいは「無視できぬ」ものと捉えているのである。岡井は、3・11前後の自詠の歌を挟み込みながら、書いている。「原子核エネルギーとのつき合いは、たしかに疲れる。しかしそれは人類の『運命』であり、それに耐えれば、この先に明るい光も生まれると信じたいのだ」。雑誌の発行日からすれば、この文章は昨年7月に書かれている。原発事故発生後4ヵ月めの段階である。事故の現況を知りつつ「耐えれば」という根拠なき仮定法を、岡井は自己の内面でいかに合理化できたのか。過去の歌論の確かさを知る者には、不可解の一語に尽きる。

亡ぶなら核のもとにてわれ死なむ人智はそこに暗くにごれば

岡井の思想は、83年のこの歌の世界を超えることは、もはや、ないのか。論理的に成立し得ない仮定の後に続く「この先に明るい光も生まれる」という言葉が、他ならぬ岡井のものであるだけに、よけいに虚しく響く。

ふたつ目は吉本隆明だが、彼が『インタビュー 「反原発」異論』で登場しているのは、『撃論』3号(11年10月、オークラ出版)誌上である。誌名もすごいが、目次に並ぶ人物にも驚く。我慢して書いてみる。町村信孝、田母神俊雄、高市早苗、稲田朋美、西村真悟……! 推して知るべしの編集方針を持つ雑誌であるが、吉本はそこに編集部の言によれば「エセ共産主義者との戦いに命がけで臨みながら生きてきた真正の共産主義者」として紹介されている。彼の主張は、原発は人類がエネルギー問題を解決するために発達させてきた技術的な成果であるから、これを止めてしまうことは、近代技術/進歩を大事にしてきた近代の考え方そのものの否定であり、前近代への逆行である、というに尽きる。国家は開かれ、究極的には消滅させられるべきだという吉本の信念に変わりはないようだから、末尾ではレーニンの『国家と革命』を援用しながら、政府無き後に「民衆管理の下に置かれた放射能物質」(!)という未来の展望が語られている。

だが、原発問題は安全性をどう確保するかに帰着するとの立場から、「放射能を完璧に塞ぐ」ために、放射能を通さない設備の中に原子炉をすっぽり入れてしまうとか、高さ10kmの煙突を作り放射性物質を人間の生活範囲内にこないようにするなどいう程度の「対案」を、非現実的ですがと断りながら語る吉本を見ることは、私にとってはなかなかに辛い。それはすべて、現段階でも眼前に透視できるはずの、大地・大気・海洋の汚染に苦しみ、生活圏を放棄せざるを得ない「原像」としての福島県の「大衆」の姿を見失った地点で語られる戯言にしか聞こえないからである。戦後文学論争の中で某氏が吐いた「年はとりたくないものです」という有名な言葉で揶揄して済ませるわけにはいかない点に、いずれも80歳を超えた(心の奥底では健在を祈りたい)岡井と吉本の言動の、真の悲喜劇性が現われている。  (3月3日記)

二〇一二年新春二話 


『支援連ニュース』343号(2012年1月27日発行)掲載

一、原発事故から見えてくるもの――男性原理の派生物

福島原発の事故直後から、多くの人びとの目に焼きついたであろう光景があった。東京電力の経営者・原発担当の幹部、政府の関係閣僚、原子力政策を推進してきた関係省庁の官僚、原子力の専門家――大勢の人びとが、連日のようにカメラの前でしゃべった。その光景である。多くの場合、その物言いが率直さも誠実さも欠くものであることは一目瞭然であった。事故の実態を軽いものとして見せかけようとして、何事かを隠して事実を言わない、言葉遣いによってごまかす――それは、観ている者をして疲れさせるほどに徹底していた。その画面を見ながら、異様なことに気づいた。男しかいないのである。カメラの前に立ってごまかし言葉を話し続ける者も、話す男を一人孤立させるのは忍びないから一緒にいてやるよといった感じでそばに居並ぶ者たちも、例外なく男なのである。

そして思い出したのは、次の挿話である――某テレビ局の女性ディレクターに尋ねられたことがある。「なぜ、男は黙るのか」という番組を企画したことがある。男に対して女がもつ疑問や怒りは、口論になったり、男の振る舞いの欠点を女が指摘したりするときに、男というものは、ほぼ一様に黙りこくったりごまかしの言葉をもてあそんで話の筋道をずらしてしまう点に向けられている。番組をつくってみると、傍から見るとこの人(男)は相当イケていて、普通の男とは違うだろうなと思い込んでいた人でも、その「癖(ヘキ)」は多少なりとも抜け切れていないことがわかった。あなたはどうですか? というのである。私は、あれこれの自分の個人史を思い出し、このような問題に自覚的なつもりでいる私も、まだまだ緩慢な「成長過程」でしかないな、思い当たる節があるなと思い、そのように答えざるを得なかった。

原発事故でマイクの前に立たされている男たちは、少なくとも「黙ってはいない」。語ってはいるが、その言葉遣いがごまかしに満ちている点で、一般の男なるものの類例の裡に入るのである。しかし、彼らは、単なる男ではない。その背後には、政治権力があり、電力の発電・送電の独占権力があり、専門知を誇示する知的権力がある。存在論的に言うなら、いずれも広い意味での支配階級に属しているといえよう。この連中を、「権力を背景に持った男の論理」の巣穴から引きずり出すのは容易なことではない、と私は思ったのだった。

同時にまた、私は、4年有余前に亡くなったことが悔しくてたまらない、愛読する美術史家、故若桑みどりさんの言葉も思い起こしていた。「男たちが戦争を起こしてきたのだから、今度は女性たちが平和をつくらなければならない」(『戦争とジェンダー――戦争を起こす男性同盟と平和を創るジェンダー理論』、大月書店、2005年)。私は戦争廃絶・軍隊解体の論理はここから導くべきだとこの間考えてきているが、脱原発に向けた運動でも、ここに突破口があると思ったのだ。

ここでいう男と女が、生物学的なオスとメスに重なり合うものならば、オスである私には出番がない。もちろん、この「男」とは、家父長制的な男性原理による社会の支配の正当性を微塵も疑うことのない存在を指しているのだから、そこには、メスとしての女も、彼女が有する価値観次第では含まれることもあるということになる。言葉を換えると、「平和をつくりださなければならない女性たち」に、たとえば曾野綾子や塩野七生や工藤美代子や小池百合子や猪口邦子などは金輪際入れることはできないが、(おこがましくも自分を引き合いに出すなら)私を入れることはできるのである。

3・11以降の反原発・脱原発の運動は、基本的にこのような方向性で展開されてきており、私はそのことを好ましいと考えてきたが、最近次のような意見を目にした。反原発情報の発信に努めてきたたんぽぽ舎のメール・ニュースを読んだ読者からの反応である。最近の反原発運動では、「女」「母」「孕む」などの言葉が強調されていて、「母」にも「孕む」にも関係のない独身女性はこんなところでも見捨てられたのか、という気分になるというのである。この人は「放射能に男女差別はありません」とも書いている。これは、幼い子どもや妊娠する可能性をもつ若い女性に及ぼす放射能の危険性が当然のことだが医学的に強調されてきており、それが「母」や「孕む」に一面的につながっていくこと、今や反原発運動のシンボルと化した経産省前テントで座り込みを行なっている福島の女性たちが、その行動を妊娠期間に因んで「とつきとうか(10ヵ月と10日間)」と名づけていることにも関連してくるのだろう。このような言葉に覆い尽くされていく運動空間、という捉え方が事実に即しているならば、それに違和感や疎外感を抱く人びとがいるということも頷ける。いずれにせよ、傾向性を持つ何らかの言動を全否定するところに問題の本質はなく、脱原発を目指す人びとが普遍的に繋がり得る理論と実践が、どこにあるかを冷静に探ることだと思える。生物学的なオス・メスから派生する問題をすべて排除することはできないが、戦争や原発を許してきた構造上の問題を、人間が歴史的に、文化的に、社会的につくりあげてきた「男性性」「女性性」に起因するものとして把握することが常に重要なのだと強調しておきたい。

二、大量死を見てなお叫ばれる「死を待望する声」

『死刑映画週間――「死刑の映画」は「命の映画」だ』――を「死刑廃止国際条約の批准を求めるFORUM90」で企画した(2月4日~10日、東京渋谷・ユーロスペース ☞http://www.eurospace.co.jp/)。内外の映画10本を上映する。チラシをまいていると、いろいろな反応に出会う。心が弱っているときに、こんなにしんどい映画を立て続けに見せるの? 重いなあ、人生にはいろいろな辛いことがあり過ぎて、この歳になってもまだそれを続けなけりゃならないの? 見逃した映画がいっぱい、いいチャンスだから、出来るだけ行くよ。いろんな映画週間の企画があるけど、これほど、あまりに内容が暗くて観客が敬遠し、経済的にうまくいくはずのない企画も珍しい。講演者のメンバーをよくここまで集めたね……。

これらの感想には、部分的には同意する点もなくはない。私たちの企図は次のようなところにある。死刑の問題は、社会の表層で語られれば語られるほど、煽情的・煽動的なものになる。むごい犯罪があって死者が生まれ、それを実行した特定の人物がいる以上、その人間は自らが犯した犯罪の質に対応した「応報」の処罰を受けなければならない。死刑制度が存在しているからには、それを甘受するのだ――この「論理」が、ただひたすら尊重されて、現在のこの社会における犯罪報道・裁判報道はなされている。「世論」は哀しい。メディアのこの煽動に鼓舞されて、形成されてゆく。だが、ひとたび、文学・映画・演劇など人間が(創造者として、またその受けてとして)育て上げてきた芸術の分野に目を移すと、そこでは人間社会にあっては避けて通ることのできない問題として、犯罪・罪と罰・死刑・贖罪・転生・再生などの問題が扱われている場合がある。紙幅がないから、例は挙げない。誰もが、何点かの作品名を挙げるに違いない。それこそ、私たちが掘り進めるべき道だ。

読書なら、ひとりひとりの個人の努力と探究の範囲内で、或るテーマについてまとめ読みすることは可能だ。映画はそうはいかない。重たいテーマに関わる映画週間など、このカルーイ時代においては、他人任せでは実現不可能だ。やってみようということで、今回の実現に漕ぎつけた。深く、広く、問題の根源に立ち戻って考える契機をつくりたい。

震災と津波が生み出した大量死と、原発事故が招き寄せている計測不可能な数の近未来の死をこんなにも目撃せざるを得なかった悲劇的な年の終わりに、私たちがこの社会に見たのは、次の光景だった。15年前後前、間違った宗教的信念に基づいて大量殺人を犯した宗教集団メンバーに関わる死刑事犯の審理が終了し、すべて死刑確定者になったからには、その「教祖」から直ちに死刑を執行すべきだとする世論煽動である。

仮りに対象が凶悪犯罪者であれ、その「死を待望する」言論の台頭という雰囲気はいかがわしい。「いやな感じ」だ。別な考え方があり得るよ、と提示する基本的な作業だ。ぜひ、多くの方々に劇場まで足を運んでいただきたい。(1月26日記)

太田昌国の夢は夜ひらく[23]「敵」なくして存在できない右派雑誌とはいえ……


反天皇制運動『モンスター』25号(2012年2月7日発行)掲載

上丸洋一というジャーナリストが、『諸君!』や『正論』という雑誌は『「敵」を必要とする、自己の存在理由を「敵」に依拠する点、アメリカという国家に似ている』と述べたことがある。産経新聞社発行の『正論』は、今なお健在で、次々と臨時号も出しているから、街なかの書店を覗いて雑誌コーナーへ行くと、幾種類もの『正論』が面出しで並んでおり、そのそばには『歴史通』だの『SAPIO』だの『撃論』だのの〈粗雑〉誌があって、その表紙や目次を見ると、彼らからすれば「敵」に他ならない中国か北朝鮮との間で戦火が今にも火を吹くかのような雰囲気が煽られていて、すさまじい時代に生きているものだなあ、という感じがつくづくする。

居丈高なナショナリズムを煽る諸雑誌が居並ぶそのコーナーから『諸君!』が消えたのは、いまからおよそ3年前の2009年5月のことだった。消えた理由は覚えてもいないが、今になって、それが突如復活したのである。文藝春秋2月臨時増刊号『諸君! 緊急復活 北朝鮮を見よ!』である。かの国では、金正日総書記が死去し、その三男正恩氏が後継者に就任したが、かくしてついに三代にわたる世襲制が登場した機を掴んでの復活である。「敵」が蠢動すると自らも活気づく性質は、確かに上丸が言うように、文藝春秋社には変わらず宿っているものらしい。

私はかつて「右派言論を読む」作業を自分に課していた。ソ連崩壊前後からだから、もう20年ほど前になるか。私が見たところ、そのころ、体制への対抗言論はずるずると後退し始めた。同時に、勝利を謳歌する右派言論の台頭が目覚ましかった。読むに堪えない煽動と悪罵の言葉は多かったが、それが一定の人びとの心を捉えているからにはその根拠を探らなければならず、また我慢して読めばその言動には進歩派と左派の「弱点」を衝くものもないではないというのが、私の考えだった。(今日であれば、コネのある人しか採用しないと公言した岩波書店の偽善性を衝き、「進歩派・左翼の正体を見た!」という言動を嬉々として行なうだろう)。そこに私たちの現在を照らし出すものがあるならば、そこすら学びの場と思うほど、私たちはゼロの地点に立っていると考えていた。その思いだけで、激烈な言葉が満載の右派雑誌を買い求め読むという、経済的にも時間的にも虚しい行為を長いこと続けていた。お蔭で、進歩派と左派を客観化する姿勢が、私には身についた。

『諸君!』は、その間必読の雑誌であった。私にはそこまでの時間はなかったが、冒頭で触れた朝日新聞記者・上丸洋一は、右派雑誌の目次をデータベース化し、関心のある論文をすべてコピーして読み、『『諸君!』『正論』の研究――保守言論はどう変容してきたか』(岩波書店、2011年)という大著を著した。靖国神社を国家管理に移すことを企図した「靖国神社法案」が初めて国会に提出された1969年に『諸君!』は発刊されたが、それ以降40年間の保守言論の変遷を知るうえで、実に有益な書物である。

今回「緊急復活」を遂げた『諸君!』は、上丸がこの書で分析したように、相変わらず自らを問うことなく、外部の「敵」のあり方のみを言い募る点で、伝統を墨守する内容であった。植民地支配・侵略戦争・従軍慰安婦などの諸問題について、謝罪したことも謝罪する気持ちも、おそらく持たない人間が、「日本はいつまで謝り続けなければならないのか!」といきり立つ様が貫徹しているのである。自衛隊元特殊部隊隊長に「命令があれば拉致被害者は奪還できます」と語らせて「我国には任務の犠牲になることをいとわない覚悟の優れた特殊部隊がある」ことを誇示しているほどである。

それでも読みでがある記事と言えば、ソウルで収録された『脱北「知識人」大座談会』だろう。6人の共和国難民が脱北の経緯、金正日という人物、死後の状況などについて語り合っている。それは、5号を数えるに至った『北朝鮮内部からの通信 リムジンガン』(アジアプレス出版部)の内容とも響き合って、かの地の実情を垣間見せてくれる。虚偽で厚化粧した三代世襲体制が持続している限り、これを恰好の「敵」に見立てた言論が一定の力をもって日本社会に浸透していく。ここから私たちは逃れるわけにはいかないのだ。

(2月4日記)

領土問題を考えるための世界史的文脈


『月刊 社会民主』680号(2012年1月号)掲載

一  occupy という言葉に心が騒ぐ

「格差NO」のスローガンを掲げて、ニューヨークで「ウォール街を占拠せよ!」という運動が始まったことが報道された時、私は、この運動の基本的な精神には共感をもちつつも、手放したくはない小さなこだわりをもった。「占拠」を意味するoccupy という語に対する違和感である。米国の歴史は、「建国」後たかだか二百数十年しか経っていないが、それは異民族の土地を次々と「占領」(occupy)することで成り立ってきた。この度重なる占領→征服→支配という一連の行為によって獲得されたのが、現在でこそ漸次低減しつつあるとはいえ、世界でも抜きん出た米国の政治・経済・軍事・文化上の影響力である。これが、世界の平和や国家および民族相互間に対等・平等な関係が樹立されることを破壊していると考えている私にとって、それが誰の口から発せられようとoccupyや occupation という語は、心穏やかに聞くことのできない言葉なのである。

同時に、1%の富裕層に対して「われわれは99%だ」と叫ぶ、訴求力の強い、簡潔明瞭なスローガンに対しても、その表現力に感心しつつも、留保したい問題を感じた。99%という数字は、米国のこのような侵略史を(現代でいえば、アフガニスタンやイラクの軍事占領を)積極的に肯定しそれに加担している人びとをも加算しないと、あり得ないからである。問題を経済格差に焦点化して提起する、新自由主義が席捲している時代のわかりやすくはあるこのスローガンは、99%に含まれる人びとの内部に存在する政治・社会上の矛盾と対立を覆い隠してしまう。

これは、国家主義的な、したがって排外主義的な歴史観が多くの人びとを呪縛している社会にあって、私たちがどんな歴史的な想像力をもちうるか、この歴史観を変革するためにどんな努力をなしうるか、という問題に繋がっていく。焦眉の問題として「1% 対99%」という問題提起の有効性を認めるとしても、99%の中身を分析する視点は持ち続けるという意思表示である。そんなことを思いながら、米国のみならず世界各地の「オッキュパイ運動」を注視していたところ、米国内部からの次のような発言に出会った。

「アメリカ合衆国はすでにして占領地である。ここは先住民族の土地なのだ。しかも、その占領は、もう長いこと続いている。もうひとつ言わなければならないことは、ニューヨーク市はイロコイ民族の土地であり、他の多くの最初からの民族の土地だということだ。どこかでそのことに言及されることを、私たちは待ち望んでいる」(ジェシカ・イェー「ウォール街を占拠せよ――植民地主義のゲームと左翼」、ウェブマガジン“rabble.ca”10月1日号)。

ウォール街で起ち上がっている人びとが「国家と大資本」を批判するのはいいし賛成だが、その視点だけでは、植民地支配に関わってのみずからの「共犯性と責任」をどこかに置き忘れているのではないか――ジェシカが問うているのは、そのことだろうか。

ところで、ジェシカ・イェーが言う「もう長いこと」とは、どんな時間幅だろうか? 米国の場合は、先に触れたように、1776年の「独立」以来の二百数十年となろう。あるいは、メキシコに仕掛けた戦争に勝利した米国が、メキシコから広大な領土を奪った段階(1848年)で、ほぼ現在の版図に近い米国領土が確定したことに注目するなら、「もう長いこと」とは、およそ1世紀半の時間幅となる。

問題を世界的な規模のものと考えるなら、「占領」という概念や「先住民族」という捉え方は、植民地主義支配に必然的に随伴することがらである。現代にまで決定的な影響を及ぼすことになった植民地支配の起源を、15世紀末、1492年のコロンブス大航海とアメリカ大陸への到達に求めることは、ほぼ定着した歴史観になっていると言えよう。したがって、世界的な規模では、500年以上の射程で捉えるべきことがらであることがわかる。

二 「無主の地」を先占する

自分たちの社会の構成体として国家を形成するという道を選ばなかった(選ばない)民族は、世界史上いくつもあった(ある)。国家を形成するに至った諸民族とて、21世紀初頭の現在の国家に繋がるものとしての近代国家を成立させたのは、19世紀後半である。日本近代史研究家・千本秀樹は、イタリアの留学生から、日本の学校には日本史という科目があることの不思議さを問われて虚を突かれた思いをいだいた経験を語っている(「歴史を共有するものが未来を共有する」、『現代の理論』25号、2010年秋号、明石書店)。若い国であるイタリアには、イタリア史という科目はないのだという。悲劇的な戦争や紛争の歴史を重ねることで、時代ごとに互いの版図・国境線に著しい変化を来した過去をふり返るなら、国家史ではなく地域史の観点こそが重要であることの示唆であろう。逆に言えば、周辺国家・民族との交流と抗争の歴史を思えば、現状の国境の枠内に限定した国家史・国民史を構想することの不可能性に行き着くということだろう。この事実を知れば、国家や国境が万古不易に存在してきた(している)と何故か思い込んでいる現代日本人の「常識」は根底から覆されよう。

だから、国家は歴史の問題を考えるうえでの唯一絶対の指標ではない。だが、その時代に形成された国家が、近現代の世界史上で揮ってきた他地域およびそこに住まう住民への支配力の強さからすれば、この存在を無視して問題を考えることはできない。すなわち、ここで言う近代国家こそが、植民地支配を世界各地において推進したからである。

初期植民地主義の最初の実践者となったヨーロッパ諸国は、現在のラテンアメリカ、アフリカ、アジアなど自国から遠く離れた地域にその対象を求めた。コロンブスの大航海を実現したスペインを先駆けとして、それら諸国は異民族の土地を次々と征服し、我が物としていく過程を暴力的に遂行した。歴史地図として多くの人びとの記憶にあるだろう19世紀の「アフリカ分割図」を思い起こせば、それが実感できよう。その過程で作り出されたのが、「先占の法理」である。

「先住民族」は、植民地主義が作り出した存在であることは、別な表現ですでに触れた。土地の私的所有観念を持たない先住民族の土地へ赴くことになったヨーロッパの人間たちは、その「無主の地」は我が物であるといち早く名乗りをあげて、そこを「実効支配」した国の独占的な占有地となるという「法理」を編み出したのである。これは、もちろんのことだが、ヨーロッパの植民地主義を「合理化」する論理にほかならなかった。

「無主の地」は多くの場合、ヨーロッパが欠く天然資源・香辛料・食べ物の産地であった。現地で開発を行なおうとすれば、「安価な」労働力は豊富にあった。アメリカ大陸の場合のように、そこの先住民族を大量に殺害してしまい、その後手がけることになる植民地経営のための労働力を必要とするときは、アフリカから多数の屈強な黒人を奴隷として連行すれば、それで足りた。こうして、ヨーロッパにおける資本主義の勃興と発展にとって、「無主の地」は決定的な役割を果たした(註)。

三 「固有の領土である」

ヨーロッパ列強諸国に遅れること数世紀を経てアジアで唯一の植民地帝国となった日本は、前者とは異なり、遠方の地に植民地を獲得することはなかった。台湾、サハリン南部、朝鮮というように、海洋は隔てているが、植民地化したのはすべて近隣地域においてであった。

日本による近隣地域の植民地化は、戦争を前提として成立したことを忘れるわけにはいかない。日清戦争(1894年)と日露戦争(1904年)である。いずれも、明治維新を経た近代日本国家が、富国強兵を旨としてヨーロッパ列強に伍そうとする路線の下で生じた戦争である。アジアの大国・清国と、ヨーロッパとアジアの双方に広がる広大な帝政ロシアに勝利したことで、日本は「アジアの盟主」を自負した尊大なふるまいを行なうようになった。近代日本は、植民地獲得後にさらにアジア・太平洋各地に対する侵略を進める一方、米国とも開戦して、破滅的な戦争に陥っていった。アジア太平洋諸地域の民衆による抵抗闘争と、1941年以来真っ向から対峙した米国軍の圧倒的な軍事力を前に、1945年、日本は戦争に敗北した。この路線を決定づけた明治維新から数えて、78年の歳月が経っていた。そして、現在、私たちは敗戦から数えて、66年目に当たる時代を生きている。双方を加算すると150年近く、およそ1世紀半の歳月である。

日本が、領土問題も含めて近隣アジア諸国との間に抱えている未決の案件があるとすれば、すべては、少なくともこの時代幅でふり返らなければならない。自民党政権時代ですら、首相レベルの談話では、日本がアジア諸地域に対してかけた多大な被害について詫びる言葉はあったのである。その反省は、戦後史の過程でどこまで社会に根づいているか、それを図る目印としてのしかるべき戦後補償は、どこまで実現しているか――を、まず問わなければならないのは日本社会である。

このことを前提として、本稿では、ここまでの叙述をうけて、領土問題について若干の考察を続けたい。敗戦から66年も経ていながら、日本は周辺諸国との間でいくつもの領土問題を係争案件として持っている。主なものを挙げると、ロシアとの北方四島問題、韓国との竹島(独島)問題、中国との尖閣諸島(釣魚島)問題――である。

特に2010年9月には、尖閣諸島をめぐって中国との間で大きな事件が起きた。尖閣諸島沖で中国漁船が日本の海上保安庁の巡視船に衝突し、同庁が船長を逮捕した事件である。この諸島の領有権をめぐる双方の主張を詳しく検討する紙幅はない。自らの問題である日本側の主張についてのみ検討する。事件の直後、前原国土交通相(当時)は「東シナ海に領土問題は存在しない」、「(船長の処遇に関しては)国内法に基づき粛々と対応する」と語った。首相の交代で外相に就任した前原氏は、さらに「(尖閣諸島は日本の固有の領土であることに関して)我々は一ミリたりとも譲る気持ちはありませんし、これを譲れば主権国家の体をなさない」とも語っている(10月15日外務省定例記者会見)。

日本共産党が持ち出すのは、「無主の地」論である。中国の文献には、中国の住民が尖閣諸島に歴史的に居住していたことを示す記録はなく、明代や清代に中国が国家として領有していたことを明らかにできるような記録もない、と述べたうえで、言う。「近代にいたるまで尖閣諸島はいずれの国の支配も及んでいない、国際法にいう“無主の地”であった」。そこへ探検した某人が貸与願いを日本政府に申請したので、沖縄県などを通じてたびたび現地調査を行ない、「1895年閣議決定によって尖閣諸島を日本領に編入した。歴史的にはこの措置が尖閣諸島に対する最初の領有行為である。これは“無主の地”を領有する“先占”にあたる」(『しんぶん赤旗』2010年10月5日)。これは、外務省発行の「尖閣諸島に関するQ&A」にも共通する「論理」である。

外相が「固有の領土」論を展開するとしても、その「固有性」はたかだか1895年以降のものでしかない。「固有の」という用語には、古代から本来的に、という意味合いが付着している。だが、「日本」という国号が定まったのは、研究者の間で多少の意見の違いはあるが、七世紀末から八世紀初頭である。それ以前には「日本」も、「日本国」の国制の下ある「日本人」も存在していない(網野善彦『「日本」とは何か』、講談社、2000年)。したがって、「固有の」という言葉を、このような領有権問題に用いることは妥当性を欠く。中国側も領有権を主張している以上、一方の側の閣僚が「領土問題は存在しない」と語るべきではないというのは、二国間関係を考えるうえで双方が弁えるべき必須のことだろう。

メディア上で俗に言われる「前原人気の高さ」なるものは、彼が主張する近隣アジア諸国に対する外交政策が強硬路線であることに由来している。内政上いっこうに解決しないさまざまな問題が山積しているとき、住民が抱く欲求不満の吐き出し口を外部に求めることは、歴史的に見ても、世界中の愚かな政治家や軍人が採用してきた、もっとも安易で、結果的には最悪の事態を招く政策である。この路線を推進したい者にとっては、いつも、外部の何者かが「悪」であればあるほど(「悪」として描き出すことが可能であればあるほど)、役立つのである。

共産党が依拠する「“無主の地”先占」論の妥当性も、十分に疑わしい。本稿ですでに考察したように、「無主の地」論は欧米列強がこぞって競った植民地主義支配の拡大過程で生まれた自己合理化の議論である。共産党文書は「1895年閣議決定によって尖閣諸島を日本領に編入した。歴史的にはこの措置が尖閣諸島に対する最初の領有行為である」と述べている。1895年とは、日清講和条約調印の年である。前年、日本は朝鮮半島支配をめぐって清国との間で戦争を行なった。日本は勝利し、条約によって遼東半島・台湾・澎湖列島を中国に割譲させた。台湾に近い尖閣諸島の領有宣言は、日本帝国のこの対外拡張路線=欧米列強との植民地獲得競争への参加、という枠内で行なわれている。このような経過を思えば、共産党の文書は歴史的な考察を欠いたまま、国家主権論の枠内に収まっていると言うべきだろう。

この問題について論じるべき点はまだあるが、紙数が尽きた。国家や領土の存亡を賭けて、戦争での勝ち負けを競った時代は、確かに続いてきた。だが、本稿で簡潔に述べた国家の成り立ちや国境の変遷過程を思えば、これに呪縛される考え方の限界性はあまりにも明らかであろう。年端もいかない(成立して1世紀半しか経っていない)近代国家が争う領土問題の地は、歴史的に見て、周辺に住まう多国間の住民が平和裡に共有し、協働する空間であった。解決の糸口は、戦争を好まない、国境を超えた地域住民の知恵にこそ求めるべきだろう。

(註)「無主」という概念をめぐって最近起きている事実に触れておくことは、きわめて重要なことだろう。2011年8月、福島原発事故による放射能汚染の影響を受けた福島県二本松市のゴルフ場が東京電力に汚染の除去を求める仮処分の申し立てを行なった。東電は答弁書で、大要次のように述べた。「原発から飛び散った放射性物質は東電の所有物ではない。したがって東電は除染に責任をもたない。なぜなら放射性物質は、もともと無主物であったと考えるのが実態に即している。所有権を観念し得るとしても、既にその放射性物質はゴルフ場の土地に附合しているはずである。つまり、債務者が放射性物質を所有しているわけではない」。東京地裁はゴルフ場の訴えを退けた(朝日新聞11月24~25日)。

本文で述べたように、資本主義は「無主の地」の身勝手な解釈を通して勃興した。21世紀の現代は、その資本主義が「グローバリゼーション」の名の下でひとつの頂点を迎えている時代であると言える。福島原発事故にもかかわらず中止されることのない、米国・フランス・日本の「原子力産業ルネサンス」に向けた動きをみると、現代資本主義と核開発の相互依存関係がわかる。生き延びを図る資本主義がここで編み出しているのが、「無主物」の論理である。これだけ多大な犠牲者を生み出している放射性物質の製造物責任を、飛散してしまったものである以上は負わないというのである。勃興期と絶頂期の資本主義が、それぞれ「無主」の概念をきわめて身勝手に、融通無碍に解釈している現実にこそ、問題の本質をうかがうことができる。

太田昌国の夢は夜ひらく[20]「官許」――TPP問題と原発問題で立ち塞がるこの社会の壁


反天皇制運動『モンスター』22号(2011年11月8日発行)掲載

そのむかし、私が愛読した書物のなかに、在野の哲学者・三浦つとむの著書があった。彼の書物から受けた「恩義」はいまも忘れてはいない。辞書にもある用語だが、彼がよく用いたことばに「官許」というのがあった。辞書で言えば「政府からの許可」とか「政府が民間に与えた許可」となるが、左翼である三浦の場合は「官許マルクス主義」のように使うのである。生きた時代の必然性からいって(1911~89年)、スターリン主義のような俗流マルクス主義の言語論・芸術論・組織論とたたかった三浦は、自称前衛党もアカデミズムも自らを支える背景としては持たない場所に、ひとり立ち続けた。だから、「官」なるもの、すなわち、政府・国家・前衛党など支配権力を持つ立場やその御用学者から繰り出される議論や言説に孕まれる虚偽と歪曲をいち早く嗅ぎ当て、それを徹底して批判する立場に立ったのである。

このところ、しきりに三浦のことが思い出されるのは、虚偽と歪曲に満ちた「官」の横行があまりに目立つからであろうか。日本的な構造なので、この場合は、霞が関「官僚」による情報統制の下で、自らの意思を持たない「閣僚」が完全に支配されている事態を指している。現象的には、前者の「官僚」と後者の「閣僚」が一体化して、「政府」として立ち現れているのである。それを「科学的な知見」に基づいて支える立場から、専門家や研究者たちが登場していることは、言うまでもない。

いまや、小さなかけらのような記憶になってしまったが、民主党政権が成立した当初には、官僚支配の政治を打破するという明確な意思表示が、まだしも、なされた。在沖縄米軍基地のあり方を見直すという形で、既存の日米関係をほんの少し変えようとした鳩山政権は、「日米同盟は不変」との信念を持つ外務・防衛両省の官僚たちからの黙殺と妨害にあって、あえなく潰された。福島原発事故の重大性に鑑みて、少なくとも「脱原発」の方向性に向かおうとした菅前首相は、原発推進に固執する経済産業省の官僚たちと経団連によるエネルギー危機の扇動と、政策次元よりも菅直人という政治家が嫌いなだけの与野党・マスメディアからの集中攻撃にさらされて、〈個人的に〉失脚した。二代続いた民主党政権下にあっては、官僚支配が打破されるどころか、逆に、その支配力の強さを見せつけられたのである。

ご面相を見ただけで、自民党時代に逆戻りしたのか、とつくづく思わせられる現首相の登場は、「日本を根本のところで統治しているのは自分たちだ」と考えている霞が関官僚たちを、自民党政権時代以上に安心させたに違いない。自民党にもできなかったことをやる用意のある政権だ――就任以来の首相のさまざまな発言(むしろ、肝心な箇所での「発言の無さ」と言うべきかもしれない)から、官僚たちは、野田政権の性格をそう読んだと思われる。

そのことがいま集中して現われているのは、TPP(環太平洋経済連携協定)交渉への参加問題である。昨秋、菅首相が突然のように打ち出したこれへの参加方針は、マスメディア挙げての支持を受けた。いくらか社会的に開かれた形で議論が起ころうとしていた時期に、「3・11」が起こった。社会全体が、その後の7ヵ月間は、震災からの復興問題と原発事故への対処が主要な関心事であった。その間に、官僚たちは着々と参加の基盤づくりを行なっていたようだ。野田政権の成立を待つかのように、この1ヵ月間TPPに関する情報が小出しに漏れ始めた。「11月にハワイで開かれるアジア太平洋経済協力会議(APEC)の場で参加表明することが、米国が最も評価するタイミング」との政府文書の存在が明らかになったのは10月27日のことだ。この「政府」文書は「官僚」文書と読み替えるべきだろう。米通商代表部高官が「日本の参加を認めるためには議会との協議が必要で、参加承認には半年必要」と語ったことを明らかにした「政府内部文書」も11月1日に明らかになった。すべてを時間不足に追い込んで、ドサクサまぎれの首相決断に委ねること――TPP問題についても、原発問題についても、経済産業省に巣食う高位の官僚たちの恣意のままに操作されているのが、この社会の現状なのだ。(11月5日記)

この映画の完成は僥倖である――ワン・ビン監督『無言歌』評


『映画芸術』437号(2011年秋号)掲載

疲れ切った足取りの男たちが、風吹きすさび、砂塵が舞い上がる荒野を行く。緑の木々も緑野も拒絶しているかのような、荒涼たる風景だ。広大な中国の、西部に位置する甘粛省高台県明水分場。男たちがテントの前までたどり着くと、ひとりの男が命令口調で、誰それはどこそこへ行けと指示する。行き先は、近在に点在する壕だ。壕と言えば、まだしも聞こえはよいが、それはほとんど岩穴にひとしい。背をこごめて中へ入ると、もちろん電気とてなく、暗い。土床の上の、狭い通路以外の空間には木板が張りめぐらされている。男たちはひとりづつ、わずか2畳ほどの指定された空間で荷解きする。衣類などの乏しい身の回り品を置けば、そこが、貧弱きわまりない食事を摂り、重労働に疲れた身を休め、泥のように眠るだけの日々をおくる場所だ。

それでも、立派な名前がつけられている。「労働教育農場」。社会主義革命後の中国で、指導部から右派と名指しされた人びとが、その「農場」で日々過酷な「労働」に従事し、それが、己の反革命思想を改造する「教育」だというのだ。土壌改良を施さなければ役にも立たない痩せこけた「農場」。そこをただ掘り起こすだけの「労働」。本来の意味の「教育」とも無関係な、強制収容所といったほうが、現実を言い表していると言えそうだ。

映画は、そこに暮らすことを強制された男たちの日常を淡々と描く。穴倉の中の場面が多いから、カメラは、隙間から射す一条の光をたよりに、男たちの動きとことばを描き出す。あてがわれる食事はいつも、水のように薄い粥だけだ。飢えた男たちは、それぞれに、空腹を少しでもしのぐための努力をする。食べ物と交換できる衣類の乏しさを嘆く男がいる。荒れ果てた土地に生えるわずかな雑草から、タネの一粒でもないかと探す男がいる。ネズミを捕まえて、煮て食べる男もいる。何を食べて食あたりしたのか吐く者もいれば、その男が吐き出したものの中から固形物か何かを見つけ出しては自分の口に運ぶ男すらいる。飢えの極限的な形が、日々この農場では展開されている。過酷な労働、冬の寒さ、そして絶えることのない飢え――そのあとに来るのは「死」だけだ。遺体は、その男が使っていた布団でぐるぐる巻きされて、砂漠に埋められる。野晒しにされていた遺体からは、衣服がはぎとられ、尻やふくらはぎの肉が抉り取られていく。理由は説明するまでもないだろう。

これはフィクションではない。1957年から60年にかけて、中国で実際に起きたことに基づいて作られた映画だ。依拠した原作本もある。事の次第はこうである。

1956年、革命中国の友邦・ソ連では、スターリン批判が行なわれた。1917年ロシア革命の勝利後まもなく、最高指導者レーニンの死後に政敵トロツキーを国外に追放して全権を握ったスターリンは、1953年の死に至るまで、鉄の恐怖支配をソ連全土に布いた。批判者はことごとく抹殺されたから、彼に対する批判は死後ようやく可能になったのだ。社会主義とその中軸に位置する共産党および指導者の絶対的正しさが、ソ連でも中国でも強調されてきたが、その権威が激しく揺らいだ。毛沢東は「百花斉放・百家争鳴」路線を直ちに採用して、共産党に対する批判を一定限度許容した。知識人を中心に官僚主義批判や党の路線に対する批判が沸き起こった。すると、毛沢東は翌年には路線を一転させ、「反右派闘争」なるものを発動した。13ヵ月間続いた自由な日々に、厳しい指導部批判を行なった者たちを次々と捕え、「労働教育」のために強制収容所に送り込んだ。特定の場所に収容された人びとの証言に基づいて、原作本が書かれ、映画も作られたのである。

この事態から50年が過ぎている以上、この政策の責任者だった者たちは、ほぼ鬼籍に入っているであろう。だが、「無謬の党」神話の延命工作が続けられているからには、過去の誤謬といえども、それがあまりに無惨で、あからさまである限りは、自由な批判の対象とはなり得ない。制作までは許されることがあっても、公開はできない。それが中国の偽らざる実情である。

故国の人びとに今すぐには観てもらえない映画を作るということ。ワン・ビン(王兵)監督の悩みと苦しみは、ここにあると思われる。しかし、古今東西、自由を奪われた表現者は、もっとも伝えたい人たちからの反応を直ちには期待できない状況にあっても――つまり、圧政下の故国を離れ亡命の身であっても、あるいは故国に踏みとどまって時に奴隷の言葉を使わなければならなくなっても――自らが逃れられないと考える必然的なテーマに立ち向かってきた。身構えて、政治やイデオロギーをテーマとすると力んでは、それは容易く失敗する。或る過酷な時代を生き抜いた一人ひとりの人間の在り方をヒューマン・ドキュメントとして記録し、癒しがたい記憶の形で後世に伝えるのである。ひとりの個人の悲劇的な物語を作り上げて観客をその閉鎖的な空間に閉じ込めてしまったり、観る者が主人公に距離感なく一体化してしまったりするような作劇法ではなく、複数の人物あるいは集団的な主人公を軸に、作品を観た者がそこに自ら介入線を引くことができるような、自由な余地を残しておくのである。そのとき、文化表現・芸術表現は、国境内に自足することなく、世界に普遍的な意味を持つものとして、国境を超えて出ていく。国際的な評価の高さは、国内での弾圧を避け得る十分条件ではないが、作品がいつか国内に「帰ってくる」下準備にはなるだろう。『無言歌』は、その要素を十分に備えた作品として成立している。

ところで、映画が背景としている「反右派闘争」で弾圧された人びとは、文化大革命終結後の1978年、一部の人びとを除いて「名誉回復」措置が取られた。だが、50周年を迎えた2007年には、中国当局は、反右派闘争に関する報道を禁じる通達を全国のメディアに出している。私の友人であるホルヘ・サンヒネス監督(ボリビア)の場合、一本の映画は、完成したネガの露出時間が旧西ドイツの現像所で故意に延ばされたらしく陽の目をみなかった。もう一本は、アルゼンチンの現像所に送る際にボリビアの税関で「紛失」させられた。完成した二作品が「事故」を装って無きものにされた彼のケースを思うと、この時代の中国の状況下で、中国政府の許可も得ずにゴビ砂漠で長期ロケを敢行したり、161本ものラッシュテープをフランスへ送ったりなど、よくぞ妨害を受けずに完成にまでもっていけたものだと、制作過程にも感心し、またその僥倖を喜ぶ。

中国の民衆に先んじて、私たちはこの作品に接することができた。何につけても「反中国」の宣伝をしたい人たちは、身勝手な利用価値をこの映画に見出すだろう。日本軍の中国侵略の歴史を反省し、1949年中国革命の勝利に何らかの「希望」を見出した人を待ち受けるのは、もちろん、別な課題である。資本主義が生み出す格差・不平等・疎外を廃絶したいという民衆の夢・希望・理想が託された社会革命は、20世紀にあってはほぼ例外なく、いつしか強制収容所に行き着いた。社会革命が必然的にここに行き着くものなら「そんなものは要らない」と誰もが答えるだろう。

だが、いま・あるがままの現代社会が生み出している数々の国内的・国際的な矛盾に我慢がならない人は、やはり、よりよい社会へ向けての希望を抱かずにはいられない。そのような人に向かって、『無言歌』は何を語りかけるのか。私はさしあたって、党=指導部の絶対化、イデオロギーへの過剰な信仰、これまた過剰な社会的な使命感情などを克服すること――が出発点だと考えるが、観客の誰もが、それぞれの課題を取り出すことだろう。

文学では、旧ソ連のソルジェニツィンの『収容所群島』があるとすれば、映画では、ワン・ビンの『無言歌』があると言えるほどに、20世紀の悲劇を考えるうえで必見の作品である。

(10月3日記)

民族問題の発信支えた「フチ」たち――チャランケ:聞く・語る・考える


『北海道新聞』2011年10月11日夕刊道東(釧路・根室)版掲載

来年になると、釧路を離れて50年目だ。この50年間関東圏に暮らしながら、異なる民族同士がどんな関係で生きていくことができるかが大事な問題だと考えてきた。釧路時代に同じ小学校で学んだアイヌの友人と30年ぶりに再会したのは1980年代半ば、昨年亡くなったチカップ美恵子さんが起こした肖像権裁判を支援する集まりの場であった。その友人は、関東圏に住むアイヌ女性たちの「レラの会」に属しており、それ以来たびたび、文化伝承と親睦のために集まる彼女たちの場に同席させてもらった。

1992年は、植民地支配や先住民族という存在を作り出す世界的なきっかけとなったコロンブスの大航海から500年目を迎えた年だった。国連は翌年を国際先住民年と決め、日本でも先住者と植民者が従来の垣根を越えて出会う機会がさらに増えた。シャモ(和人)である私も、そのために自分なりに力を尽くした。その過程で、レラの会の人たちは、経済的自立のための、またいつでも自由に集うための場所を作りたいと思うようになった。協力を乞われた私も、他の和人の友人たちと共に拠点づくりに参加した。アイヌ料理店「レラ・チセ」(風の家)が東京・早稲田にできたのは1994年のことだった

外国のメディアは、日本よりも民族問題に敏感だ。いくつもの海外メディアがこの店の誕生を報じた。研修旅行で来日した米国の教師数十人(全員が黒人だった)が昼食を食べにきた。民族問題に関わっている人が来日すると、私はその人を必ずこの店に招いた。歌や踊り、楽器演奏の交歓が、客とお店のスタッフの間で頻繁に行なわれた。もちろん、関東圏のアイヌウタリ(同胞)が、足繁く通う店でもあった。

いくつかの事情が重なって、レラ・チセは営業16年間で閉店した。創業メンバーの一人であった宇佐タミエさん(文字通りの働き者であった彼女も今夏亡くなった)の娘、照代さんはこの閉店を悲しみ、今春、新大久保に自力でアイヌ料理の店「ハルコロ」を開店した(9月13日付本欄)。ハルコロの席に座って、キトピロ(ギョウジャニンニク)やイモシト(イモ団子)などを食べていると、春採湖、チャランケチャシ、月見坂など釧路のいくつもの風景が目に浮かぶ。これはすべて、小学校時代のアイヌの旧友(因みに、彼女は宇佐タミエさんの妹、田中きよみさんだ)と30年ぶりに再会したことから始まったのだと思うと、人と人の出会いの大切さが身に染みる。

私は編集者として、また物書きとして、民族や植民地支配に関わる書物をたくさん作り、自らも発言してきた。それを支える現実感はどこにあったのかと問われるなら、レラの会の年長や同輩のフチ(おばさん、おばあさん)たちとの会話にあった、としか言いようがない。アイヌの人たちが働き、発言する場が増えることによって、和人の認識が変わり、両者の関係のあり方も変わる。それが確信できた歳月だった。出会いの力は捨てたものではない。

おおた・まさくに 1943年釧路市生まれ。62年に釧路湖陵高校卒業後、東京外語大ロシア科に進学。編集者の傍ら、自らも民族問題・南北問題をはじめ内外の政治・社会・歴史・文化の諸問題についての執筆・発言を続けている。著書に「日本ナショナリズム解体新書」(現代企画室)「拉致異論」(河出文庫)「暴力批判論」(太田出版)などがある。

太田昌国の夢は夜ひらく[19]「占拠せよ」(occupy)という語に、なぜ、私はたじろぐか


反天皇制運動『モンスター』21号(2011年10月11日発行)掲載

「ウォール街を占拠せよ!」のスローガンの下、ニューヨークで「格差NO」の動きが始まったのは9月17日のことだった。それは10年目の「9・11」から間もないころだったので、私の関心はどうしても、次の点に集中した。すなわち、経済格差や高い失業率に異議を唱えてウォール街に集まっている人びとは、米国のこの現状と、自国が10年間にわたって続けてきているアフガニスタンとイラクに対する戦争とを、いかに結びつけているのだろうか。

10月6日になって、ワシントンのホワイトハウスの近くで開かれた反戦集会には、「反ウォール街」を掲げる人びとも参加して、「アフガニスタンではなくウォール街を占拠せよ!」とのスローガンを叫んだという。当然のことながら、「強欲なウォール街」の論理に基づく戦争に対して「反戦」の課題を立てる一群の人びとが存在しているのであろう。

では「占拠せよ!」はどうだろう? それは、もうひとつのスローガン「われわれは99%だ」と共に、わかりやすく、人目を惹きつける語句である。しかし、私のように生活する言語としてではなく、文学や歴史を解釈する言語として一定の範囲内で英語に触れてきた立場からすると、occupy やoccupationには、どこか心騒ぐものがある。繰り返し言うが、生活言語として英語を使っているわけではない私にとっては、この単語は、米国が近現代史のなかで、世界中で行なってきた「軍隊による占領」をしか意味しないからである。侵略戦争を仕掛けて勝利した後の数々の「占領」。日本との帝国主義間戦争に勝利した後の「占領」。21世紀の現在なおアフガニスタンとイラクで行なってきている「占領」。この単語にも孕まれているのであろう豊富な語感を感じとることができない私は、そのゆえにであろうか、小さなこだわりを感じてきた。

その違和感を共有している文章に出会った。カナダで “rabble.ca” と題したウェブマガジンが出ている(http://rabble.ca)。「無秩序な群衆、やじうま連、暴徒」と「撹拌棒」の二つの意味がある単語だが、前者の意味で使われているのだろうか。2001年4月、ケベック市で開かれる米州サミットに抗議して、「進歩的なジャーナリスト、作家、芸術家、アクティビスト」が集まって「他では容易に入手できない」情報の伝達のために創刊したという。読み応えがあって、ときどき目を通している。その10月1日号に、ジェシカ・イェーという人物が「ウォール街を占拠せよ――植民地主義のゲームと左翼」と題する文章を寄せている。彼女が冒頭で端的に言うのは以下のことである。「合州国はすでにして占領地である。ここは先住民族の土地なのだ。しかも、その占領はもう長いこと続いている。もうひとつ言わなければならないことは、ニューヨーク市はHaudenosaunee 民族の土地であり、他の多くの最初からの民族の土地だということだ。どこかでそのことが言及されることを、私たちは待ち望んでいるのだ。」

北米先住民族の末裔であるらしいジェシカと、蝦夷地に対するコロン(植民者)の末裔である私とでは、歴史的に位置している立場が異なる。だが、私はジェシカの問題意識を共有する。彼女は「アメリカを民衆のもとに取り戻せ」とデモ参加者が叫ぶとき、その「民衆」とは誰なのか、先住民族はあらかじめ排除されているのではないか、愛国的な帝国主義言語に絡め捕られて先住民族の存在を忘却しているのではないか、と問うている。歴代の進歩主義者や左翼が、先住民族の「同意」を得ることもないままに「解放の戦略」を提示し続けてきたことに対する、抜きがたい不信を抱いている。彼女も資本主義とグローバリゼーションに終止符を打つことには賛成だが、ウォール街で立ち上がっている人びとが「国家と大資本」を批判するばかりで、植民地主義に関する自らの「共犯性と責任」に無自覚であることに(しかも、それがあまりにも長いあいだ続いていることに)苛立っている。

これは、ウォール街での新たな胎動に冷水を浴びせる言動ではない。歴史的な過去の累積の上に現在がある以上、そこで不可避的に生まれた異なる民族同士の、支配・被支配の関係性に目を瞑るな、という呼びかけである。「継続する植民地主義」という問題意識がそこから生まれるのである。(10月8日記)

「コロンブス500年」史観への道 


ルネサンス研究所基幹研究会(2011年9月28日、東京・文京区)で行なった報告

Ⅰ 1960年前後の政治・社会・思想状況――極私的に

社会主義、その最初の「祖国」としてのソ連に対する牧歌的な憧れ。19世紀ロシア文学の圧倒的な存在感と20世紀社会革命の先駆性――この二つが実現している社会。

それに引き続く中国革命に対する、同じくロマンチックな思い入れ。

1953 スターリンの死の報道から、何となく感じ取ったソ連社会の「暗さ」

釧路に住んでいたので、根室沖でときどき起こる、ソ連監視船による日本の零細漁民の船舶の拿捕・抑留・銃撃事件の「重さ」

社会主義に感じる「暗さ」や疑問をかき消してくれた要素

1)在日アメリカ帝国軍の横暴なふるまい――沖縄。基地拡張。薬莢を拾う農婦を米兵が面白半分に射殺する事件など

2)言論――清水幾太郎、野々村一雄、岡倉古志郎、江口朴郎、井上清、蝋山芳郎、甲斐静馬、大内兵衛、上原専禄、坂本徳松、五味川純平、安部公房、野間宏、開高健、大江健三郎、エドガー・スノー、アンナ・ルイーズ・ストロング、アンリ・リケット、そのほか大勢の左翼あるいは進歩的文化人・知識人。

もっとも悲劇的かつ戯画的な形で現われた北朝鮮に関する礼賛的な報道ルポルタージュ→それが、ソ連・東欧論や中国論(後者の場合は、文革期の特異な受容のされ方も考慮しなければならないが)とも異なって特徴的なことは、無批判的な礼賛傾向が寺尾五郎(1959~61)の時代に限られるのではなく、安江良介(留保付き)+美濃部亮吉(1971)、松本昌次(1975)、小田実(1977~78)、よど号(70~現在)の時代まで続いていることである。

私は、すべてが見えてしまった後世に生きる者の特権的な立場から、これらの人びとの言動を一方的に批判する立場を取るつもりはないが、同時代的にどの程度の「情報」に接することができたかどうかの問題は残るにせよ、

ソ連でいえば、1956年の「スターリン批判」と「ハンガリー革命」「ポーランド反乱」、中国でいえば、1956年の「百花斉放・百家争鳴」から、翌年に一転して発動される「反右派闘争」

北朝鮮でいえば、在日朝鮮人・関貴星の訪朝記『楽園の夢破れて』(1961)で綴られている内容およびその後漏れ伝えられてきてはいた金日成独裁体制の確立の過程、在日朝鮮総聯の動向にまつわるさまざまな情報――――――――――――――――

などの事実を、自らの論理と倫理の中に組み入れることなく牧歌的な社会主義賛美論を展開していた論者の場合には、状況論的には、その言論責任が問われると考える。同時代にも、劇作家・三好十郎のように、I・F・ストーンの『秘史朝鮮戦争』(新評論社、1952)の帯に寄せた清水幾太郎の推薦文「朝鮮戦争の勃発について、最初に仕掛けたのが北朝鮮だと言われていることについて何かが隠されていると考えてきたが、この本で目が覚めた。やはり思った通りだった。仕掛けたのは、米国側、南朝鮮側である」(との趣旨)に対して疑問を発した人物は存在していた。三好は、戦争が起こった時に、調査・検討・論議する以前に悪いのは資本主義国だとする予断からは自由な人であった。ストーンは、この戦争は米国側が仕掛けたことを恣意的な資料操作によって論じているが、事実は逆かもしれない、少なくともこの本は米国有罪の立証として十分ではないと三好は考えたのである。井上清が1966年になっても、「アメリカが日本を基地として朝鮮戦争を開始した」(『日本の歴史』下、岩波新書)と書いていたのとは好対照である。因みに、三好はこの時、「日本を占領したのがソ連軍だったならば、ソ連が設ける軍事基地にも、要請する再軍備にも、発動する戦争にも、清水は反対しなかったのではないか」と問うていること、この問いに対して清水は沈黙を守ったが、小田切秀雄、大西巨人、武井昭夫、中野重治が代行して三好批判を展開したこと、北朝鮮による武力侵攻であったことを前提としてこれをマルクス主義の原義に基づいて批判したのは荒畑寒村であったこと、には触れておきたい。特に第1項については、スターリンの北海道占領計画では私の生地:釧路はソ連軍占領地域に入っており、実際にそうであったならば、という想定がきわめてリアルであったことにも【私が三好の論に接したのは同時代的にではなかった。80~90年代になってからであるが】。

そのほか、フルシチョフによるスターリン批判を深めた埴谷雄高、(左翼)文学者の戦争責任論を展開した吉本隆明、60年安保闘争の総括をめぐる吉本・谷川雁・黒田寛一・藤田省三などの言論に触れる過程で、ソ連社会及びこの社会について無批判的な礼賛を続けてきていた内外の人びとが指し示している先に「未来」を見る思考は、ほぼ消えていたと思える。それでも、60年代前半から紹介され始めたトロツキー文献、菊池昌典のスターリン時代研究、ダニエルズの『ロシア共産党党内闘争史』、レーニン文献などを読み漁る気力はあったが、それは、いわば私にとっては「ロシア革命敗北の過程」を追認するような作業であったような気がする。したがって、「反帝反スタ」は指針にはなり得ず、レーニンとトロツキーの援用によってスターリンを批判する方法にも、諸悪の根源は「党」の絶対化にあったのだから、違うのではないかという違和感を持ち続けた。党派性に縛られていないロシア革命論として、松田道雄『ロシアの革命』(河出書房、1970)に親しんだ。

Ⅱ ソ連が唯一絶対の道だとは思えなくなった同時代に、世界では何が起こっていたか

現実の政治過程が喚起したものとして

1959 キューバ革命

1960 フランス領を中心にアフリカ諸国17ヵ国の独立。韓国4月革命。トルコ激動

1961 コンゴでルムンバ虐殺→背後にいたベルギー国家権力。キューバに反革命軍侵攻

1962 キューバ・ミサイル危機。アルジェリア独立革命

1964 米州機構、キューバ制裁決議。トンキン湾事件。ブラジルで軍事クーデタ→「第2のキューバ」を許さないとする米帝国の意志の現われ

1965 米軍、北ベトナム爆撃(北爆)開始。マルコムX暗殺。南ベトナム民族解放戦線が全世界に「軍事援助・物質的援助・義勇軍派遣」を要請。インドネシア9・30。アルジェリア・クーデタでベン・ベラ失脚

1966 中国文化大革命始まる

思想・文学からの提起として

1960 ヒューバーマン+スウィージー『キューバ:一つの革命の解剖』(岩波新書)

1964 堀田善衛+鈴木道彦「アジア。アフリカにおける文化の問題」(岩波講座『現代』10所収)→フランツ・ファノン『飢えたる者』を初紹介

1964 サルトル「黒いオルフェ」(原テキスト1948、人文書院『シチュアシオンⅢ』所収)→レオポルド・サンゴール編『ニグロ・マダガスカル新詞華集』序文。マルチニックのエメ・セゼールにも触れて、ネグリチュード(黒人性)の問題に言及

1965 サルトル「飢えたる者」序文(人文書院『シチュアシオンⅤ』所収)→ファノン

論、「パトリス・ルムンバの政治思想」も収録

1966 堀田善衛『キューバ紀行』(岩波新書)

1967 チェ・ゲバラ4・16メッセージ「二つ、三つ、数多くのベトナムをつくれ、それが合言葉だ」

1967 エンツェンスベルガー「ラス・カサス、あるいは未来への回顧」(原書1967、晶文社『何よりだめなドイツ』所収)→ベトナムの現実に、5世紀弱前のスペインによるアメリカ大陸征服を弾劾したカトリック僧ラス・カサスの言動を重ねる

1968 堀田善衛「第三世界の栄光と悲惨について」(平凡社・現代人の思想17『民族の独立』解説)→ラス・カサス論

1968 エリック・ウィリアムズ『資本主義と奴隷制』刊行(原書1944、理論社)

1969~70 フランツ・ファノン『黒い皮膚、白い仮面』(原書1952)『地に呪われたる者』(原書1961)『アフリカ革命に向かって』(原書1964、いずれも、みすず書房)

1971 クワメ・エンクルマ『新植民地主義』(原書1964、理論社)

1976 ラス・カサス『インディアスの破壊についての簡潔な報告』刊行(原書1552、岩波文庫)

1978 エリック・ウィリアムズ『コロンブスからカストロまで――カリブ海域史1492~1969』ⅠⅡ刊行(原書1970、岩波書店)

1986 エドゥアルド・ガレアーノ『収奪された大地――ラテンアメリカ五百年』(原書1971、新評論、現在藤原書店)

そこから浮かび上がってきたこと

1)世界近現代史においてカリブ海域が強いられた歴史的特殊性

15世紀末、キューバ島の100万人をはじめ一定数の先住者が暮らしていたが、コロンブス以降に行なわれたヨーロッパ人による「征服事業」(=虐殺・強姦・強制労働・奴隷化・暴行・土地の簒奪など)のために、そこは一世紀後には「死の島」と化した。すなわち、先住民は、ほぼ死に絶えた←ラス・カサスの内部告発。それに対する4世紀半後のエンツェンスベルガーや堀田善衛の応答。

そこへ、アフリカ西海岸地域からの、黒人青年の強制連行が始まった←ラス・カサスの加担。奴隷貿易(「黒い積荷」)によるメトロポリスの繁栄←エリック・ウィリアムズ『資本主義と奴隷制』が被植民地(トリニダ・トバゴ)の留学生によって書かれ、それを英国史学会が長年無視した根拠。

三角貿易の成立→「奴隷貿易は本源的蓄積のリヴァプール的方法をなすものである。」「一般に、ヨーロッパでの賃金労働者の隠された奴隷制は、新世界での見え見えの奴隷制を脚台として必要とした。」(マルクス)

2)外部に強いられてきた歴史的役割を、自らのものに奪還していく過程としてのキューバ革命

19世紀前半、スペインとポルトガルから独立を遂げた後の米州地域。それは、米州に位置する特殊性をモンロー宣言で身勝手に活用し、もともと大西洋に面し、19世紀半ばの米・メキシコ戦争によってカリフォルニアを奪って太平洋への出口を獲得することで、地理的優位性を備えた、稀に見る世界帝国として成り上がっていく米国の支配権拡大に直面することになる。

19世紀前半に独立した他の米州地域に比較して、キューバの独立は遅れた。19世紀末に遅れてやってきた独立戦争はフィリピンと同時期に高揚したが、機に乗じた米国の参入により、キューバとフィリピン民衆の独立の戦いは米西戦争へと性格を変えた。1898→1902年の経緯。グアンタナモ米軍基地の存在。

それからおよそ半世紀後に起きたキューバ革命。

「党なき」革命=キューバの道

収奪された大地=「第三世界」復権の象徴

ソ連型ではない、新しい社会主義の模索(1961.4 社会主義宣言)→ソ連型の強制・導入を画する勢力と、それに抵抗するチェ・ゲバラらの論争。

結果的に、1960年代のキューバは、それが持つ本来の力量以上の課題を自ら担い、また、外部世界もそれを期待した。

3)ラテンアメリカとアフリカの歴史的・現代的交錯

ネグリチュードを介しての、文学的な交錯。

ファノンやエンクルマがもった「アフリカ革命」の展望。

チェ・ゲバラが企図したアフリカ解放闘争への加担。

4)民族・植民地問題に関する同時代的感覚

M・N・ロイ→コミンテルン第2回(1920)、第3回(21)、第4回(22)大会での演説

ホー・チミン→コミンテルン第5回(24)大会演説

(いいだもも編訳『民族・植民地問題と共産主義』(社会評論社、1980)

スルタン・ガリエフ→ヨーロッパへの革命の波及に期待をかけたボリシェヴィキ指導部に対し、東方での革命に希望をもち、植民地インターナショナルの結成を呼びかけた。

(山内昌之編訳『史料 スルタンガリエフの夢と現実』(東京大学出版会、1998)

ホセ・カルロス・マリアテギ→先住民の隷属状態に注目して、先駆的な中枢・周辺理論を展開。

(『ペルーの現実解釈のための七試論』、柘植書房、1988。『インディアスと西洋の狭間で』、現代企画室、1999)

Ⅲ 1992年=コロンブス500年を迎えて

1989~1991 ソ連・東欧圏社会主義体制の崩壊→「グローバリゼーションの時代へ」

と資本主義礼賛者たちは呼号。市場原理に基づいた地球の「一体化」「全球化」の時代→「アメリカの発見、アフリカの回航は、頭をもたげてきたブルジョア階級に新しい領域を作りだした。東インドとシナの市場、アメリカへの植民、諸植民地との貿易、交換手段やまた総じて商品の増大は、商業、航海、工業にこれまで知られなかったような飛躍をもたらし、」「大工業は、すでにアメリカの発見によって準備されていた世界市場を作りあげた。」(『共産主義者宣言』第一章)

1992 「コロンブスの五百年めが1962年だったなら、その記念は、コロンブスのアメリカ大陸「解放」を祝うものにみであったろう。1992年には、「解放」を祝う反応一色というわけにはいかなかった。」(ノーム・チョムスキー『アメリカが本当に望んでいること』、1994、現代企画室)

スペインによる祝賀ムードを警戒し、これに対抗するために、米州の民衆運動は「先住民、黒人の民衆的抵抗の五百年」運動を展開した。この動きは、期せずして、全世界に波及し、さまざまな地域で、コロンブスの大航海とアメリカ大陸到達の時代に始まった近代(それは、植民地主義の始まり、を意味した)を問い直す契機となった。(東京では2日間にわたって「500年後のコロンブス裁判」開催)

1994 メキシコ先住民族「サパティスタ民族解放軍」の蜂起→北米自由貿易協定の発効に抗議した蜂起であったことから、その後の反グローバリズム運動の世界的な高揚に多大な影響を与え続けている。また、都市から最貧地域への工作(山村工作隊)に赴いた都市インテリゲンツィアのマルクス主義と、農村部先住民族がもつ独自の歴史哲学・人間観・自然観が融合した地点に生まれた独特の言葉遣い、情宣のためのインターネットの駆使、武装蜂起であったにもかかわらず軍事至上主義に陥らず政府との交渉でみせた成熟した政治思想など、従来の政治・社会運動の内省を促す示唆に満ちている。(サパティスタ民族解放軍『もう、たくさんだ!』、現代企画室、1995。マルコス副指令『ここは世界の片隅なのか』、現代企画室、2002 など多数)

2001 「人種主義、人種差別、排外主義、および関連する不寛容に反対する世界会議」開催(南アフリカ・ダーバン、8月31日~9月8日)(永原陽子編『「植民地責任」論――脱植民地化の比較史』、青木書店、2009)

2001.9.11 絶頂のグローバリゼーションへの絶望的な抵抗

2001.10  米軍、アフガニスタンへ一方的な攻撃開始

米国政府・軍部で囁かれた「アフガニスタンのような、国家の体をなしていない国は、いっそのこと、植民地にしてしまった方がやりやすい」。

同時期の日本の政治・社会状況を見ても

「継続する植民地主義」という問題意識の重要性