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状況20〜21は、現代企画室編集長・太田昌国の発言のページです。「20〜21」とは、世紀の変わり目を表わしています。
世界と日本の、社会・政治・文化・思想・文学の状況についてのそのときどきの発言を収録しています。

太田昌国の、ふたたび夢は夜ひらく[50]日朝合意をめぐって、相変わらず、語られないこと


『反天皇制運動カーニバル』15号(通巻358号、2014年6月10府発行)掲載

5月末、スウェーデンのストックホルムで開かれていた日朝両政府の外務省局長級協議が終わると、メディアは一斉に「焦点だった拉致問題の再調査については合意に至らず」との報道を行なった。加えて、日本側担当者は「相手方は拉致問題についての議論を拒否する姿勢ではなかった」と語り、朝鮮側は「朝鮮総連中央本部問題は必ず解決しなければならない」と強調したことも報道された。目に見える成果が得られなかったらしいことから、拉致被害者家族会メンバーの「落胆ぶり」も伝えられた(以上はいずれも、5月29日付各紙朝刊。テレビ・ニュースは見るに耐え難いので、第二次現政権が成立して以降、ほとんど見ない)。二国間協議である以上は「焦点が拉致問題」であるはずはなく、「国境正常化問題」だと捉えるべきであろうが、そのような姿勢を、政府・外務省、メディア、「世論」なるものに期待することは、今さら、できるものではない。

このような新聞報道がなされた同じ日の夜、帰国した外務省担当者から報告を受けた首相は、急遽、記者団に会い、「拉致再調査で日朝が合意し、その調査開始後に日本側が課してきた制裁を解除する」ことで一致をみた、と語った。首相のイメージ・アップにつなげようとするメディア戦略はありありと窺われるが、「合意」それ自体は好ましいことには違いない。そのうえで、どんな問題が残るかについて考えておきたい。

日朝協議合意事項全文や朝鮮中央通信による報道全文を読むと、今回の合意が、2002年の日朝平壌宣言を前提にしていることは明らかである。その指摘が、新聞報道の中にも、ないではない。たとえば、5月30日付朝日新聞で平岩俊司関西学院大教授が寄せているコメントのように。だが、日本での報道は、ほぼ「拉致一色」状態が、変わることなく続いている。この日、サンプル的に見たテレビ・ニュースのいくつかにも、その傾向が色濃く出ていた。それは、「報道側」が抱える問題点に終わるわけではない。29日の首相発言そのものに孕まれている問題である。「拉致問題の全面解決は最重要課題の一つだ」とする首相は、「全ての拉致被害者の家族が自身の手でお子さんを抱きしめる日がやってくるまで、私たちの使命は終わらない」という、得意の〈情緒的な〉言葉をちりばめながら「拉致」のことを語るのみである。官房長官会見の内容は「要旨」でしか読めなかったが、国交正常化にまで至る日本政府の「覚悟」を語る言葉も、それを質す問いかけも見られない。要するに、この社会には、政策・態度を改めるべきは相手側のみである、という牢固たる考えが貫いているのである。

これは、2002年9月17日、日朝首脳会談が行なわれ、平壌宣言が発せられて以降12年間にわたって日本社会を支配してきた「空気」である。歴史過程を顧みての論理にも倫理にも依拠することなく、いったん、この不気味な「空気」に支配され始めると、社会はテコでも動かなくなる。私は、2003年に刊行した『「拉致」異論』において、拉致問題に関わっての朝鮮国指導部の政治責任にも言及しながら、「相手側に要求することは、自らにも突きつけるべきだ」と主張した。拉致問題の真相究明と謝罪を相手側に求めるのはよいが、その前提には、植民地支配問題に関わる真相究明と謝罪・補償を日本側が積極的に行なわなければならないという課題が、厳として存在しているのだ。その構えが日本側にあれば、この12年間がこれほどまでに「無為」に過ぎることはなかっただろうというのは、私の確信である。ところが、家族会は「拉致問題解決優先」という、非歴史的な、いたずらな強硬路線を主張した。政府もメディアも「世論」も、家族会の方針に〈情緒的に〉反応するという「安易な」態度に終始した。したがって、相手側の「不誠意」や「不実」や「不履行」を言い立てるばかりで、自らを省みることのないままに、歳月は過ぎたのだ。この「空気」に助けられて、辛うじて成立している現政権が、今回の日朝合意から実りある成果を得るためには、自らが何を発言し、何を果たさなければならないかという「覚悟」が要ることは自明のことである。だが、それを指摘する者はごく少数派で、この社会は変わることなく「自己中心音頭」を歌い痴れ、踊り痴れるばかりである。

(6月7日記)

蜂起から20年、転換期を表明したサパティスタ民族解放軍


(一) はじめに

去る5月24日、メキシコは南東部、チアパス州のサパティスタ自治管区のひとつ、ラ・レアリダー村で、ひとつの声明文が発表された。「光と影の間で」と題されたそれは、サパティスタ民族解放軍の名で出されたものだが、末尾の署名は「叛乱副司令官マルコス」となっており、短くはない文中では、ときどき、マルコス自身を指す主語と述語の影がちらついている。基本は「この文書は、(私の)存在それ自体が消えてなくなる前に公に発せられる最後の言葉となるだろう」「サパティスタ民族解放軍の同志たちよ、私のことは心配しないでほしい。これがここでのわれわれの流儀であり、なお歩み、戦い続けるのだ」「この集団的な決定を知らしめる」などの言葉が見られる。反グローバリズムの旗を高く掲げた1994年1月1日の武装蜂起の直後から、その運動に注目し、その理念と行動の在りようから、世界的にいっても死に瀕している社会変革運動再生のための深い示唆を受けてきた私は、自らその分析を行ない、5冊におよぶサパティスタ文書を企画・編集・紹介し、1996年にはサパティスタが全世界に呼び掛けて現地チアパスで開催した「人類のために、新自由主義に反対する宇宙間会議」に出席し、その報告も書いてきた。(末尾の註に列記してある)。

サパティスタ蜂起から20年目の年の5月に発表された今回の文書は、どんな意味をもつのか。私なりの分析を、簡潔にだが、試みてみたい。

(二) 5月24日文書の概要

2014年5月24日文書は、何を語っているのか。それを順次、見ていこう。以下は、全訳ではない。原意から離れぬことを心がけての抄訳である。今後全訳する時間に恵まれるかどうかはわからない。大急ぎでの翻訳なので含意が取りにくいままに残した箇所もあり、試訳の段階とご理解いただきたい。

1、困難な決定――死と破壊を伴う、上からの戦争なら、それは敗者に押しつけられるものとして、われわれは幾世紀にもわたって耐え忍んできた。1994年に始まったのは、下の者が上の者に対して、その世界に対して挑んだ戦争のひとつであった。それは5大陸のどこにあっても、農村でも山岳部でも日々戦われている抵抗の戦争である。われわれは、たたかい始めることによって、近くからも遠方からも、われわれの声に耳を傾け、心を寄せてくれるという特権を授かった。問題は、次は何か、ということである。試行錯誤の果てにわれわれが選んだ道は、ゲリラ戦士、兵士、部隊を形成するのではなく、教育と医療の従事者を育てることであって、こうして、いま世界を驚嘆させている自治の基盤が形成されたのである。兵営を建設したり、武器を改良したり、防壁や塹壕を築いたりするのではなく、学校、病院、医療センターを建設し、われわれの生活条件の改善に取り組んだのだ。そして20年が経った。この間に、EZLN(サパティスタ民族解放軍)の内部で、共同体の内部で、何かが変わった。2012年12月21日、破局が予言されていたその日(註:マヤ暦に基づけば、世界が終末を迎える日かもしれないと騒ぐ「先進国」の人間たちが、メキシコはユカタン半島のマヤ遺跡に群がっていた)に、われわれは銃を一発も発することなく、武器を持たず、ただ沈黙によって、人種差別主義と侮蔑を育む揺り篭であり巣窟である都会の傲慢不遜さに挑んだのである。(註:この日、万余のサパティスタがチアパス州のサンクリストバル・デ・ラスカサス市などに登場して、沈黙の行進を行なった。その模様は、以下を参照→http://www.youtube.com/watch?v=qH8nxafgKdM)

軍隊は平和を担保できないという道を選んだわれわれは間違っている、と考えるひとは少なからずいるかもしれない。選択の理由はいくつかあるが、もっとも重要なことは、このままではわれわれは消え去ってしまうということである。死を崇めることなく、生を育む道を選んだわれわれは間違っているか? だが、われわれは外部の声に耳を傾けることなく、この道を決めた。死にゆく者が他者である限りは、死を賭して戦え、と要求したり主張したりする者たちの声は聴かずに。

われわれは反抗を選んだ、すなわち、生を、だ。

2、失敗?――サパティスタが得たものは何もない、と言う人びとがいる。確かに、司令官の子弟が外国へ旅行に行ったり私立学校に入学したりといった特権を享受してはいない。

副司令官が、どこの政治家たちもやっているような、血縁に基づいて子どもに仕事を継がせるといったこともない。外部からの援助資金の過半を指導部が占有し、基盤を形成している人びとには雀の涙ほどのものしか分け与えない、といったこともない。

そうなのだ、「われわれには何も要らない」というのは、スローガンや歌やポスターにこそふさわしい、格好の言葉に終わったのではなく、現実そのものなのだ。その意味でなら、われわれは勝利するより失敗することを選ぶのだ。

3、変化――20年間の間にはEZLNにあっても変化が起こった。ひとがよく言うのは、世代の交代だ。1994年の蜂起が始まったときには幼かったり、生まれてさえいなかった若者が、いま、たたかいのさなかにいたり、抵抗運動を指導したりしている。だが、それだけではない。

階級の変化――開明的な中産階級から、先住民の農民へ

人種の変化――メスティーソ(混血層)の指導部から、純粋に先住民の指導へ

いっそう重要なことは、思想の変化である。すなわち、革命的な前衛主義から「従いつつ統治する」へ、上からの権力の獲得から下からの権力の創造へ、職業としての政治から日常の政治へ、指導部から民衆へ、性的排除から女性の直接的な参加へ、他者への嘲笑から異なることへの賛美へ、といったように。歴史は民衆によってこそつくられると確信している思慮深い人が、どこにも「専門家」なる存在が見かけられない、民衆による統治が存在していることに直面するとひどく驚くのはなぜか、私には理解できない。統治するのは民衆であり、己の道を定めるのは民衆自身に他ならないという事実に怖れをもつのは、なぜなのか。「従いつつ統治する」と聞いて、あからさまに同意できないと首を横に振るのは、なぜか。個人崇拝は、そのもっとも狂信的な形として、前衛主義の崇拝となって現われる。まさにそれゆえにこそ、先住民が統治し、スポークスパースンかつ首長として先住民が存在しているという事実に、或る者は怖じ気づき、反発し、前衛を、ボスを、指導者を探し求めるのである。左翼の世界にも人種差別は根を下ろしているのだ、とりわけ、革命的であると自称する者の中にこそ。

EZLNはそうではない。誰もがサパティスタになれるものではないのだ。

4、変わりゆく、流行のホログラム

1994年の夜明け前までに、私は10年間を山で過ごした。

叛乱副司令官、同志モイセスの許可の下に、以下のことを言っておこう。良きにせよ悪しきにせよ、武装した軍事力、サパティスタ民族解放軍なくしては、われわれは何事もなし得なかった。それなくしては、悪しき政府に対して正当な暴力を行使して蜂起することもできなかった。上からの暴力に直面した時に、下からの暴力をもって。われわれは戦士であり、その役割を心得ていた。

1994年が明けた最初の月の最初の日、巨大な軍隊、すなわち先住民の叛乱軍が都会へと下りて、世界を揺るがせた。それから数日して、街頭に流されたわれわれの死者の血がまだ乾きもしないうちに、われわれは悟った――外部の人たちはわれわれを見ていないことを。先住民を上から眺めることに慣れきっていて、われわれを見つめてはいないことを。われわれを虐げられた者としてのみ見做して、尊厳ある叛乱の意味を理解できない心の持ち主であることを。その視線は、目出し帽を被ったたったひとりのメスティーソの上に注がれていたのだ。

わが指導者たちは言った。「彼らには、自分の器量に見合った小さなものしか見えない。その器量に合わせた小さな人物をつくりだし、それを通して彼らがわれわれを見つめることができるようにしよう」。そこで、気晴らしのような策を弄したのだ。現代というものの稜堡をなすメディアに挑戦するという先住民の智慧、そのいたずら心が生み出したもの、それが「マルコス」なる人物だったのだ。体制というものは、とりわけメディアは、有名人をつくり出すことが好きだが、それが自らの意図に添わなくなると放り出す。マルコスはスポークスパースンから、いつしか気晴らしの放蕩者に転じていった。

マルコスの目は青かったり、緑であったり、あるいは珈琲色、はちみつ色、黒のときもあった――すべては、インタビューを行ない、写真を撮るのが誰なのか次第だった。マルコスとは、躊躇うことなく言うが、いわば、道化師だったのだ。その間にもわれわれは、ここにいようといるまいと、われわれと共にあるあなたたちを探し続けていた。〈他者〉と出会うために、他の〈同志〉と出会うために、われわれが必要としている、同時にそれに値する〈見つめてくれる目〉と〈傾けてくれる耳〉と出会うために、われわれはさまざまな試みを行なった。それは失敗した。出会ったのは、われわれを指導しようとする人であり、われわれに指導されたいと願う人たちだった。利用主義的に近づいた人もいれば、人類学的な郷愁であれ戦闘的なノスタルジーであれ、過去を振り返るだけの人もいた。ひとによっては、われわれは共産主義者にされたり、トロツキストにされたり、アナキストにも毛沢東主義者にも千年王国主義者にもされたりした。自分の器量に合った「主義者」としてわれわれを名づけるとよい、と放っておいたが。「第6ラカンドン宣言」(註:2005年6月発表。メキシコ先住民運動連帯関西グループのHPで、その一部を読むことができる→

http://homepage2.nifty.com/Zapatista-Kansai/EZLN0506001.htm)まではそうだった。もっとも果敢で、サパティスモの真髄が詰まっているこの宣言によって、われわれは出会った。正面からわれわれを見て、挨拶を交わし、抱擁する人びとと。われわれが、導いてくれる牧者や約束の地に連れて行ってくれる存在を探し求めてなどいないこと、われわれは主人でもなければ奴隷でもないこと、地方ボスでもなければ頭(かしら)なき愚衆でもないこと――を理解するひとがついに現われたのだ。その間、内部にあって、民衆自身の前進には目を見張るものがあった。導きや指導を待望することなく、服従や付き従うなどといったふるまいとは無縁に、われわれと正面から向き合い、耳を傾け、話し合う世代が登場したのだ。

マルコスなる人物は、かくして、無用となった。サパティスタの闘争は、新たな段階を迎えたのだ。統治の変化は、病気や死によるものではない。内部抗争や粛清、追放によるものでもない。EZLNがこれまで蓄積し、同時に現在も経験しつつある内部での変化に応じた、論理に叶ったものなのだ。

私は病気でもなければ、死んでもいない。何度も殺されたり、亡き者にされたりしたが、私は、いまも、ここにいる。モイセス副司令官が「彼の健康状態が許せば」と言ったとしても、それは「人びとが望むなら」とか「アンケート調査の結果がよければ」とか「神のお赦しがあるならば」といった、昨今の政治世界ではよく使われる定番の文句に過ぎない。ひとつ、助言を差し上げよう。精神的な健康のためにも、身体的な健康のためにも、いくらかなりともユーモアのセンスを磨かれてはいかがか。ユーモアのセンスなくして、サパティスモを理解することなど到底できない。

以下のことは、われわれの確信であり、実践のあり方そのものである。叛乱したたかい続けるためには、指導者も地方ボスもメシアも救世主も要らない。たたかうために必要なものは、いささかの恥じらいと、多くの尊厳と組織である。上を見上げては誰かを待望し、指導者を探し求める者は、どうみても、観客に過ぎず、受動的な消費者であるしかないのだ。マルコス副司令官を愛した者も憎んだ者も、いまこそ知ろう、レーザーを使って記録された虚像としての立体画像を愛したり憎んだりしていただけだったことを。マルコスが生まれ育った場所を示す自宅博物館も金属プレートもあり得ない。誰がマルコスであったかを明かす者もいない。その名前と任務を継ぐ者もいない。旅費がすべて負担される講演旅行もあり得ない。豪華なクリニックに移送されることも、そこで治療を受けることもない。個人崇拝を促進し、集団的共有制を蔑ろにするために体制がでっちあげるもの、すなわち、葬儀も栄誉も銅像も博物館も授賞も、そんなものはあり得ないのだ。

この人物は確かにつくり出されたが、それをつくり出した者、すなわち、サパティスタ自身がこれを破壊するのだ。われらが同志たちが示したこの教訓を理解したひとがいるなら、そのひとはサパティスモの原則のひとつを理解したことになる。われわれは何度もこの機会をうかがってきた。ガレアノの死が、その時をもたらしたのだ。

5、痛みと苦しみ、つぶやきと叫び

(註:この章では、本文書が公表されるわずか3週間前の2014年5月2日、サパティスタ自治区ラ・レアリダーで、EZLNに敵対する者たちに殺された、サパティスタ学校の教師、ガレアノことホセ・ルイス・ソリス・ロペスに対する追悼の言葉にあふれている)。モイセス叛乱副司令官が言うには、「われわれはサパティスタ解放軍総司令部として、ガレアノを思い起こすために来たが」、ガレアノが生きるためには、われわれの誰かが死ななければならない。そこで、われわれは、今日を限りにマルコスが存在しなくなることを選んだのだ。彼は戦士の影を帯び、微かな光の中を行かねばならないが、道に迷わぬためには、カブトムシのドン・ドゥリートおよび老アントニオと手を携えていかなければならない。(註:ドン・ドゥリートと老アントニオが何者であるかは、末尾に記した参考文献を参照されたい)

サパティスタ民族解放軍が、私の声を通して語ることは、今後はないだろう。

これで十分だね。健康を、もはや二度と……否いつまでも。理解したひとには、わかるだろう、これは大して重要なことではないことを、いままでもそうだったことを。

サパティスタの「現実」から

叛乱副司令官マルコス

メヒコ、2014年5月24日

(陰の声で)

夜明けの挨拶です、同志たち。私の名はガレアノ、叛乱副司令官ガレアノです。

他にもガレアノはいるかい?(たくさんの声、叫びが上がる)

私が生まれ変わったら、集団的にやろうと言ったのは、そういうことかい。

そうだね。

よい前途を。気をつけて、気をつけよう。

メヒコ南東部の山岳部から

叛乱副司令官ガレアノ

メヒコ、2014年5月

(註:メキシコの「ウニベルサル」紙のサイトで、この時の動画を見ることができる→

http://www.eluniversal.com.mx/estados/2014/impreso/-8220muere-marcos-surge-galeano-8221-94879.html

(三) サパティスタ運動が問いかけるもの

私の記憶では、EZLNがマルコスの声を通じて、外部も含めた世界に語りかけるのは、5年ぶりのことと思われる。5・24文書を読むと、蜂起以後の20年間の経験に依拠して(蜂起以前の準備段階の期間を算入するとどれほどの年数になるのだろうか?)、自らが築き上げてきた自治的な統治のあり方に対する揺るぎない自信(確信)をうかがうことができると同時に、メキシコ政府および内外のマスメディアならびに一部社会運動体との関係が、もはや我慢ができないほどの段階に達していることも示しているようだ。政府やメディアとの関係がそのようなものになるのは、当然にも避けられないことと思われるが、内外の(と書かれてはいないが、サパティスタ運動が持ち得た世界的な影響力の大きさからすれば、明記されている反応は、メキシコ国内の運動体はもとより国外のそれからも寄せられていたと考えるのが妥当と思われる)一部の(であろうが)社会運動体がサパティスタ運動に要求してきたことがらが問わず語りに明らかにされていて、興味深い。その「要求」を要約的にまとめてみる。それは、サパティスタが

1) 軍事路線を放棄していることへの批判。

2) 指導部が持つべき指導性を放棄した「従いつつ統治する」路線への批判。

の2点に絞ることができよう。この種の批判が実際に行なわれてきたのだとすれば、私の観点からすれば、それは驚くべきことだと思える。1994年以降の20年間とは、各国で痩せても枯れても左翼の中軸に位置していた従来の正統派的な共産党が、1991年のソ連邦崩壊を前後に解党に追い込まれるか、大胆なモデル・チェインジを行なおうとしてもうまくいかずに立往生してしまった時期に重なっている。ヨリ左派の立場から既成の共産党やソ連体制を批判することで存在意義を保ってきた「新左翼」諸潮流も、ソ連崩壊のボディブロウが次第に効いてきた段階であって、従来なら何の躊躇いもなく主張してきたのかもしれない己の政治路線に関する見直しなり路線転換を否応なく迫られていた時期と言えるだろう。

1989年から91年にかけて起こった東欧・ソ連社会主義体制の連続的な崩壊現象の渦中にあって私が思ったのは、次のことだった――長きにわたって現実に存在してきた抑圧的な体制が無惨にも崩れ去っていくのは、資本主義を批判する理論的な武器としての、広い意味での社会主義の再生のためには決して悪いことではない。だが、人類社会の夢や理想が孕まれたこの思想の実践的な帰結が、粛清・収容所列島・言論の不自由・民主主義の欠如・経済的非効率性・党=政府=軍部が三位一体化した指導部の特権層としての形成などとなって現われたことで、人類社会にはしばらくの間、「高邁な」思想・哲学を弊履のごとく捨て去り、現行秩序を無限肯定する「現実主義」がはびこるだろう。この「現実主義」を批判しこれを克服するためには、今まで社会主義の理念に広い意味で荷担してきた者による過去の総括と、そのうえで新たな道を模索する態度が不可欠である。

そう心に決めての、私なりの模索を始めていた。実際に、社会主義の崩壊を前に、資本主義の擁護者たちは欣喜雀躍としていた。日本社会では、従来の歴史解釈の見直しや、歴史教科書から「自虐史観」を追放し「子どもたちが日本を誇らしく思えるような」教科書づくりを目指す動きが声高に始まった。極右雑誌『諸君!』(文藝春秋)や『正論』(サンケイ新聞社)の元気ぶりは、すでに1980年代から始まっていたが、それらがますます増長したのに加えて、豊富な資金源を持つらしい新興の右翼雑誌が次々と刊行され、書店の棚を占領するようになった。現在の書店の荒涼たる風景は、この時期に始まったというのが、私の実感である。それでも、たとえば、ソ連崩壊の翌年の1992年には、「1492→1992 コロンブス航海から500年」キャンペーンを行なって、ヨーロッパ植民地主義を登場させることに繋がった「コロンブス大航海」以降5世紀におよぶ世界近現代史が孕む諸問題を広く討議し、民族・植民地問題が人類史において決定的に重要な位置を占めることを明らかにするなど、新しい世界像と歴史像を生み出す作業に私たちは共同で取り組んだりしていた。

サパティスタ蜂起は、こんな雰囲気の中で起こった。上の問題意識に基づいて、私はこの運動に見られる注目すべき諸点を、当初から以下のようにまとめていた。

(1)先住民族が主体の社会変革運動であることから、メキシコのような人種差別が著しい社会にあって根本的な問題提起となり得るし、ひいては、すでに「1992年」以降世界的に開始されている、植民地問題を主軸に据えて近現代史の書き換えを推進する動きにもつなげていくことが必要だろう。

(2)蜂起が「ローカルな(地域的な)要求と「グローバルな(地球規模の)」要求を結びつけている点に注目しよう。仕事・住宅・医療・教育・水道・道路など日常生活に根差した要求を地方政府と中央政府に対して行なうとともに、蜂起の日=1994年1月1日に発効する北米自由貿易協定(スペイン語でTLC、英語でNAFTA)に抗議の意志を示していることで、世界を覆いつくしつつあるグローバリズムの推進者である「先進各国」・多国籍企業・国際金融機関などを厳しく批判している。とりわけ、この協定が「先住民族に対する死刑宣告にひとしい」と断言している部分に注目したい。

(3)止むに止まれず武装蜂起を行ないながら、1960年代までの左翼とは異なり、軍事至上主義路線ではないこと、したがって、蜂起後すぐにメキシコ政府を交渉の席に就かせた政治的な手腕に注目したい。「ほんとうは兵士であることを止めて」教師、農民、医師、看護婦などとして働きたいのだと語り、戦争亡き/軍隊なき未来を展望しているその姿勢を貴重なものとして捉えたい。その後、全国のもろもろの社会運動の団体に呼び掛けて「全国民衆会議」のようなものを開催するに当たっては、貧しい程度とはいえ武装しているサパティスタが、非武装の他の民衆に対して優越する位置に立つことを防ぐために、サパティスタの投票権をごく少数に限ったことも、彼らがいかにこの課題に自覚的であるかを明かしていると思う。

(4)前衛主義とはまったく無縁であることに注目したい。「我(党)こそは」という自党中心主義/自党絶対主義が、世界と日本の社会変革運動をいかに蝕んできたかということは、「運動圏」に身を置いたことのあるひとなら誰もが気づくことだろう。それこそが、すでに触れたように、党=政府=軍(よりによって、それは、革命軍とか、赤軍とか、人民解放軍と名づけられている!)の指導部が三位一体化して特権層を生み出し、官僚主義をはびこらせ、ひいては粛清の論理(日本的には、内ゲバの正当化)に繋がっていくのであるから、まこと、「党こそは諸悪の根源」(栗原幸夫)だと言える。

(5)前衛主義から解放されているということは、いわゆる「指導部」と、運動の基盤を形成している「大衆」の関係性のあり方に関しても、運動主体が深く考えていることに繋がる。「従いつつ統治する」という言葉自体が、上意下達的な組織運営を当然のことしてきた旧来的な左翼運動のあり方に対する批判となっている。

(6)健康で、頑強な、大人の「男」を軸に展開されてきた従来の社会運動のあり方に疑問をもち、これを改めようとする努力がなされている。そこでは、サパティスタ運動が、さまざまな人びとの日々の生活基盤をなしている村(共同体)に依拠した運動体であることのメリットが最大限まで生かされている。「革命国家」の樹立をめざす変革運動は、「若い」男の「職業的な」までの献身性に依拠して展開されることで、必然的に経験の度合や活動量のヒエラルキーを内面化してきた。サパティスタはこの「限界」を突破しようとしている。

(7)サパティスタが発表するコミュニケは、社会的・政治的なメッセージ性を帯びた文章にあり方に対する深い問題提起をなしている。硬直したイデオロギーに基づいて、無味乾燥な政治言語を駆使して書かれてきた、左翼の大論文に飽き飽きした経験をもつ人は多いだろう。それは、いまなお、守旧的な左翼によって書き続けられている。サパティスタ文書は、時に過剰な文学的な修辞にあふれている、と思われる場合もある。「お遊びか」と思われる表現も、ないではない。しかし、歴史と現状を的確に把握した上での表現であるという一貫性は貫かれている。広い意味での、マヤ先住民世界の民俗性(フォークロア)や神話的な世界の確固たる存在が背後にうかがわれることも、文書に深みと奥行きを与えている。

(8)マルコスが回想しているように、サパティスタ蜂起に先立つ10年ほど前、都市での革命運動に見切りをつけたマルコスら10人以下の都市インテリは、メキシコ最深部の貧しい先住民世界での「工作活動」をめざして、チアパスの山に入った。ヨーロッパ直輸入のマルクス主義で武装した彼らは「上からの」イデオロギー操作によって、貧しい農民を「覚醒させる」つもりだった。だが、チアパスの山の厳しい諸条件の下で生き抜くためには、そこで食することのできる動植物を含めて都会人こそが村人たちから学ぶべきことがらがたくさんあった。「学ぶ―教える」が一方通行的な形で完結することは、この段階でなくなった。そこで、都市のマルクス主義と、チアパス先住民の独自の哲学・歴史観が、相互主体的に出会う瞬間が生まれ、それが持続してきた。そのことが、上記(7)で触れたサパティスタ文書に見られる、独特の発想とことば遣いに表われている。

(四)おわりに

サパティスタの論理と実践から以上のような諸課題を受け取ってきた私からすれば、5・24文書で触れられている、サパティスタに対して外部からなされているという批判的な言辞には、あらためて書くが、驚く。20世紀型左翼運動の失敗は、仮にその時代の担い手から見ていかなる必然性に裏打ちされていたとしても、その組織論や軍事論に大きな誤謬が孕まれていたからこそ生まれたのだ、と私は思う。そのふたつの論点は、運動それ自体の性格を大きく規定する力をもつものであった。ソ連崩壊後の日々、そんなことをつらつら考えていた私は、それだけに、サパティスタが発することばのひとつひとつに、深い共感をおぼえていた。だから、私は、遠くメキシコ南東部の先住民村から発せられたメッセージに、同じ時代を生きていて、状況を近しい視点から捉えている人びとの存在を感じ取ったのである。

「左翼の世界にも人種差別は根を下ろしているのだ」というサパティスタの文言を読みながら、私は、いま私たちが各地で展開中の、ボリビア・ウカマウ集団/ホルヘ・サンヒネス監督全作品レトロスペクティブ【革命の映画/映画の革命の半世紀 1962~2014】のことを思い出してもいた。サンヒネスもまた、自らをも位置づけている左翼の中に、先住民に対する根深い差別のことばとふるまいを見出しており、この「劣性」の克服なくして左翼の再生はあり得ないと確信している映画人である。『地下の民』や『鳥の歌』に、そのような左翼的心情の持ち主をめぐるエピソードがさりげなく挿入されているのは、そのため、である。上に紹介したサパティスタのことばから、こうして、私たちはそれぞれの場所において、普遍性のある論点を取り出すことができる。

久しぶりに発せられたサパティスタのコミュニケを読みながら、変革のための社会運動再生に向けての試行錯誤=模索を始めていた20数年前の、原点の日々が蘇り、思いを新たにする。

(註)

私が企画・編集したサパティスタ文書には、以下のものがある。版元はすべて現代企画室。

太田昌国/小林致広=編訳『もう たくさんだ!――メキシコ・サパティスタ文書集1』

(1995年)

マルコス+イグナシオ・ラモネ『マルコス ここは世界の片隅なのか』(湯川順夫=訳、2002年)

マルコス『ラカンドン密林のドン・ドゥリート――カブト虫が語るサパティスタの寓話』

(小林致広=訳、2004年)

マルコス『老アントニオのお話――サパティスタと叛乱する先住民族の伝承』(小林致広=訳、2005年)

マルコス+イボン・ルボ『サパティスタの夢――たくさんの世界から成る世界を求めて』

(佐々木真一=訳、2005年)

私が書いたサパティスタ分析の文章は、時代順に、以下の書物に収録されている。

『〈異世界・同時代〉乱反射』(現代企画室、1996年)

『暴力批判論』(太田出版、2007年)

『【極私的】60年代追憶』(インパクト出版会、2014年)

(2014年6月3日記)

マンデラと第三世界 


『現代思想』(青土社)2014年3月臨時増刊号「総特集 ネルソン・マンデラ」掲載

1、武装闘争

ネルソン・マンデラの死が報じられた日、この国では「特定秘密保護法」なる、驚くべき時代錯誤の法案が参議院で強行採決された。これを主導した首相A・Sは、マンデラ逝去への思いを記者団に問われ、「アパルトヘイト撤廃のため強い意志を持って闘い抜き、国民和解を中心に大きな成果をあげた偉大な指導者だった。心からご冥福をお祈りしたい」と述べた。この発言に限らないが、自らが発する言葉の〈白々しさ〉にこれほどまでに無自覚かつ無神経な人間も珍しい。米国大統領をはじめ欧米諸国の政治指導者からも、マンデラ賛歌の言葉が途切れることなく溢れ出た。それは、あたかも、ネルソン・マンデラを27年間ものあいだ、ロベン島の独房やケープタウン郊外のポルスモア刑務所に閉じこめたアパルトヘイト体制を支え続けていたのが、自らが属する日欧米の20世紀資本主義列強であったことなど知らぬ気の、何の痛痒も感じられない、あっけらかんとした言葉遣いでなされた。

マンデラの全体像のうち、自分に都合のよい一部分だけを切り取った過剰な賛辞が氾濫する中で、各国首脳の弔辞においてもメディア報道においても、徹底して無視されているいくつかの史実に注目すること自体が意味をもつだろう。

ひとつ目は、マンデラの初期の出発点を「非暴力主義」の殿堂に封印するのではなく、結果的には未完に終わりはしたが、同時代のフランツ・ファノン、パトリス・ルムンバ、ベン・ベラ、クワメ・エンクルマ、アミルカル・カブラル、そしてチェ・ゲバラなどが、個別にではあったが多様な形で構想していた「アフリカ革命」へと向かう、解放の思想と運動の大きなうねりの中に位置づけることである。同時に、彼が生涯もち続けた「非暴力主義」の信念にもかかわらず、次のような一時期をもったことを、その閲歴の中に刻印することである。

1961年12月16日、南アフリカはジョハネスバーグとポート・エリザベスの発電所、郵便局、官庁など10ヵ所で同時爆発事件が起こった。それと同時に、各地で武装抵抗組織「ウムコント・ウェ・シズエ(民族の槍)」の創設を宣言するビラが貼り出された。前年の1960年3月21日、ジョハネスバーグ南の工業都市フェレニギア郊外のシャープビルでは、アパルトヘイトを支えるパス法の廃止と最低賃金を要求する5000人ほどの人びとが集まっていた。そこへ、警備の警官隊が突然発砲した。発砲は複数回続き、最後は狙い撃ちで、69名が即死、186名が負傷した。平和裡に行なわれていた示威行動が、このような仕打ちを受けたことが、伝統的に非暴力主義を堅持してきたアフリカ民族会議(ANC)が武力闘争に転換した大きなきっかけとなった。武力闘争が行なわれた日の声明は述べている。「われわれは、流血と内戦なしに解放を達成しようと終始努力してきた」が「人民の忍耐には、かぎりがある。いかなる国民の生活にも、ただ二つの選択――屈服か戦いか――以外にない秋がくる」。

マンデラは、のちの法廷で陳述するように「ウムコント・ウェ・シズエの創設を手伝った一人であり、1962年8月に逮捕されるまでは、そこで指導的役割を果たしていた」。

しかも、マンデラは、ウムコントの活動開始から1ヵ月足らずの1962年1月、南アフリカを密出国し、エチオピアのアジス・アベバで開催された「中央・東・南方アフリカのパン・アフリカ解放運動(PAFMECA)」会議に地下のアフリカ民族会議を代表して出席している。1960年の西アフリカ地域での旧フランス領植民地17ヵ国の独立、アルジェリア解放闘争の進展などを具体的な背景として、確かにこの時期には、「アフリカ革命」が「後退不可能な状況」を創り出している(これは、フランツ・ファノンが『革命の社会学』で用いた表現である)という状況認識が、解放・革命のために活動する人びとの中でひろく共有されていたことが分かる。会議への出席以外にも、マンデラはいくつかの任務を果たしている。アフリカ諸国を回りゲリラ兵の訓練基地をつくること、闘争資金を獲得すること、解放後に行政任務を担う若者の留学を要請すること、などである。マンデラがこのような構想を共に担う、総体としてのアフリカ解放運動の枠内にいたこと、この事実を確認することが、1960年代初頭の時代認識として決定的に重要だと思われる。

ふたつ目は、マンデラがキューバやパレスチナに対して抱いていた思いを浮かび上がらせることである。マンデラは監獄から釈放されて間もない1991年、革命記念日の7月26日にキューバを訪れている。キューバは1975年から91年にかけて総計42万5000人に及ぶ兵士を、南アフリカ共和国の近隣国・アンゴラに派兵している。長い闘争の果てにポルトガル領植民地から独立を遂げた社会主義国・アンゴラに、まだアパルトヘイト体制下にあった南アフリカ共和国政府は兵を送り込み、体制の転覆を企てた。近隣国における革命的な高揚は、自国のアパルトヘイト体制をも揺るがす可能性を秘めていることを、彼らは敏感に察知したのである。内戦も激化し、アンゴラ政府は友好国・キューバに派兵を依頼し、これにキューバ政府が応えて支援部隊を派兵した。この派兵問題については多角的な観点から検討したい重要課題がいくつもあるが(そのための萌芽的な問題提起を、私は1998年に書いた「第三世界主義は死んだ、第三世界主義万歳!」で行なった。『チェ・ゲバラ プレイバック』所収、現代企画室、2009年)、それは別な機会に譲り、ここではマンデラの観点からのみ書くに留めたい。

マンデラは、キューバ革命が帝国主義による度重なる妨害を克服して、とりわけ医療、教育などの分野で重要な成果を上げていることを強調した後で、キューバが一貫して国際主義的な任務を果たしていることに注目している。とりわけチェ・ゲバラの革命的な遺訓に触れて、「他ならぬ我が大陸における活動も含めて、あまりにも力強いものだったので、検閲に勤しむ獄吏といえどもすべてをわれわれから覆い隠すことはできなかった」。

「にわかには信じられないような規模のキューバの国際主義者たちが、アンゴラ人民支援のために派遣されたと最初に聞いたとき、私は獄中にいた。アフリカにすむわれわれは、いつも、われらが領土を侵略したり主権を転覆しようとしたりする国々の犠牲にさらされてきた。われわれを擁護しようとする、他地域の人びとがいたなどとは、アフリカ史上初めてのことである」。アパルトヘイト体制がアンゴラに派遣した軍隊をキューバの部隊が打ち破ったキート・クアナバールの戦闘が、アンゴラの勝利とナミビアの独立にとっての決定的な要素であったことを強調した後で、同時にそれは「白人抑圧者の不敗の神話を打ち砕く」ものであり、「南アフリカの内部でたたかう人びとを鼓舞した。あそこで人種差別の軍隊が敗北したからこそ、われわれは、今日、こうしてここにいるのだ」。キューバ兵のアンゴラ派兵に関しては 先に述べたように、私には総合的に分析したい問題が残っている。しかし、マンデラからすれば、それは、南アフリカ民衆がアパルトヘイト体制から解放される道を、速度を速めて用意したのである。

パレスチナ解放闘争に寄せた支援も含めて、マンデラの思想と実践には、このように、日欧米諸国の首脳には本質的に受け入れがたい性格のものが確固として貫いている。それを明確に押し出し、彼らによる囲い込みからマンデラを救い出すこと。それが、ここでの第一義的な課題となる。

2、真実究明・赦し・和解

20世紀に現実に存在した社会主義体制(あるいは、社会主義を自称しないとしても、第三世界のいずれかの国がいわゆる民族解放なり独裁体制打倒を成し遂げた後の体制)下で生じて、私の関心を惹く問題のひとつは、それが旧体制の指導部をいかに処遇したかということである。とりわけ、民衆および反体制活動家に対する弾圧を指示・命令した大統領や首相、弾圧の先頭に立った軍隊と警察の治安部隊員に対して。

作家・埴谷雄高は、政治の本質を考察した文章で次のように述べている。

これまでの政治の意志もまた最も単純で簡明な悪しき箴言として示すことができるのであって、その内容は、これまでの数十年のあいだつねに同じであった。

やつは敵である。敵を殺せ。

いかなる指導者もそれ以上卓抜なことは言い得なかった。

「政治のなかの死」(『中央公論』1958年11月号)

私は、1969年に始まり70年代じゅう続いた、いわゆる新左翼党派間の陰惨きわまりない「内ゲバ」の実態をメディア報道で見たり、当該党派の機関紙でその「赫々たる戦果」が高揚した調子の文章(それは、革命軍の「軍報」と呼ばれていた)で書かれていたりするのを読んで、胸も潰れる思いを抱えていた。私は、それらの党派の発想や行動に共感を覚える立場にはなかったが、それにしても、「社会革命」の初心から始まったはずの活動がそんな地点へ行き着いていることへの絶望感は感じていた。

だが、同じころ、たとえば、ボリビアの小さな村の農民、オノラト・ロハスの死の報を知って、「それは当然だろう」という思いを私が抱いていたことを隠すつもりはない。1967年、オノラト・ロハスは、自分が住む村の周辺に見かける「怪しい人間たち」の存在を政府軍に通報した。それは、チェ・ゲバラ指揮下のゲリラ隊員であった。これをきっかけにボリビア政府軍はゲリラ隊への包囲網を狭め、次第に彼らを「敗北」へと追い込んでいった。のちに、残存していたゲリラ隊員たちがオノラト・ロハスに対する報復的な処刑作戦を実行した報に接して、当時の若い私は上記の感想を抱いたのである。

だが、考えてみれば、オノラト・ロハスは、ひとりの貧しい農民であった。遠く離れた国に住む私が、その生活の実態も知らずに、イデオロギー的な立場から「やられたら、やりかえせ」とばかりに断罪できるようなことがらではなかった。私がこのような陥穽から抜け出るきっかけとなった理由はいくつかあるが、わけても、1979年以降、革命のニカラグアから届いたひとつのニュースは印象的だった。政権に就いたサンディニスタが、旧独裁政権時代の弾圧や拷問の実行者たちを前に、死刑を廃止するという宣言を行なったというのだ。古参のゲリラ兵で、革命後は内相の座にあったトマス・ボルヘの言葉によって説明してみる。「戦いが終わって、私を拷問した者が捕えられたとき、私は彼らに言った。君らに対する私の最大の復讐は、君らに復讐しないこと、拷問も殺しもしないことだ。私たちは死刑を廃止した。革命的であるということは、真に人間的であるということだ。キリスト教は死刑を認めるが、革命は認めない」。ニカラグアではさらに、もっとも長い刑期は30年、受刑者によっては塀も鉄格子もない解放農園に「収容」される者もいるという行刑制度の改革が行なわれたのである。

私は、旧体制の指導者と内部の反対派の粛清の物語に満ち溢れたソ連および中国型の社会主義に対する、深い疑問と批判を抱いてきた。それだけに、1974年、ソモサ独裁体制下での訪問以来深い関心を持ち続けてきたニカラグアにおける革命が、このような新しい次元を切り拓いていることに感銘を受けた。

それから20年後、アパルトヘイト体制を廃絶して新しい社会への歩みを開始した南アフリカからも、瞠目すべきニュースが届いた。民主化後、同国では「真実和解委員会」が結成された。目的は、アパルトヘイト時代の「重大な人権侵害」に関して、これを裁判で「裁く」ことではなかった。加害者・被害者双方の証言を基に事実を解明すること、それを公に承認して記録すること、犠牲者に補償を行なうこと――これを通して、長いあいだ続いた人種差別主義の歴史に終止符を打ち、もって全社会的な和解を実現すること。これである。注目すべきことには、免責規定もあった。加害者が出頭して、自らが犯した犯罪と、組織的な背景を告白するならば、刑事責任を免れることができるというのである。

真実和解委員会の構想が初めて生まれたのは、白人政府によって長いこと非合法化されてきたアフリカ民族会議(ANC)が合法化され、白人政府との間で新たな政治体制に向けての交渉を行なう準備過程においてだった。ANCは、公の組織として登場できるようになった段階において、自らが反アパルトヘイト闘争を展開するために国外に維持してきた軍事キャンプにおいて拷問や虐待が行なわれていたという告発にさらされた。マンデラを引き継いで、のちに大統領に就任するターボ・ムベキの証言によれば、ANC内部には、もちろん、「(アパルトヘイト体制の中枢にいた)極悪非道な奴らを一刻も早く捕まえて死刑にしろ」との声が渦巻いていた。だが「もしそのようなことを行なったなら、平和で民主的な社会へと生まれ変わろうとすることなど到底出来ないことにわれわれは気がついたのだ。もしアパルトヘイト体制の責任者たちをニュールンベルグ裁判の形で裁くようなことをしていたら、我々は平和的な国家へと移り変わる経験をすることは出来なかっただろう」。

この変化には、ANCが内部調査委員会を設立して、まずは自組織内部で起きた人権侵害事件の調査を被害者からの聞き取りを通して行なったことが大きな役割を果たしたと思われる。証言者たちが望んだのは復讐ではなかった。むしろ、真実を明かし、犠牲となった愛する者の思い出が傷つけられたり忘れ去られたりすることがないこと、悲惨な出来事が二度と起こらないこと――これであった。軍事独裁政権が長く続き、その下での深刻な人権侵害事件が多発したチリ、アルゼンチン、グアテマラ、エルサルバドルなどでは、すでに真実究明の努力が始まっていた。隠されていた真実には「社会を浄化する力」があることを、南アフリカの人びとは、これらの具体的な例から学んだ。

真実和解委員会における被害者の、とりわけ女性たちの証言には、内容的には深刻だが、ひろく人間社会全体に通じる、無視しがたいものが孕まれている。「女性が自らの状況を語るというよりは、夫、父、兄弟や息子などの家族や友人に起こった出来事を語ることが多く、社会全体がジェンダー規範により女性を第二次的存在としてとらえていたことを示している」「家父長制のもとで男性が公的領域の活動、つまり政治活動をし、女性は私的領域である家庭で責任を負い、男性を支え、自らを主張しないという〈沈黙の文化〉が内在化している」「反アパルトヘイト運動を担った男性指導者からも性暴力を受けていた実態が明らかになった」(楠瀬佳子)。これらは痛切な思いを引き起こす証言だが、ここまで踏み込んだ、内在的な証言が生まれたことによって、南アフリカにおける「真実和解」の道は地に足のついたものになり得たのだと言える。

ここには、人間の社会が無縁のままでいるわけにはいかない「罪と罰」という問題をめぐって、従来のように加害者を「裁く」のではなく、被害者の傷を「修復」することに重きを置いた、真剣な取り組みが見られる。試行錯誤には違いない。だが、これが果てしのない「復讐」と「報復」の連鎖を断ち切る、一つの方法であることは否定できない。

本稿の冒頭で、私は日欧米各国の政治指導者たちが口にしたマンデラ追悼の美辞麗句の〈白々しさ〉に触れたが、この文脈においてみると、事態ははっきりする。被害者が寛大にも「裁き」を求めず「免責」の手を差し伸べている一方、アパルトヘイト時代の加害者がそれをよいことに、自らの罪を「自白」せず、「赦し」も乞わず――すなわち、「修復」のための努力をいっさいすることもなく、マンデラの「聖人化」に励むばかりであったというのが、あの言葉の本質であったのだ。これは、真実和解委員会が調査の対象を、もっぱら南アフリカ国内で行なわれた人種差別的な犯罪行為に限定したことからも、きているように思われる。「アパルトヘイトが植民地主義の極端な形態であり、その歴史的起源がはるか以前にあるにもかかわらず、委員会は、広く植民地主義のもとでの暴力や不正義を扱うことはしなかった。今日の南アフリカ国家は、イギリスの植民地支配の歴史を根本から問うことにつながる調査を避けたのである」(永原陽子)。後者の課題を追求するためには「国際法廷」的なものが当然にも必要となり、おのずと、真実和解委員会とは性格を異にした組織を必要としただろう。それがなかったために、アパルトヘイトの犯罪に南アフリカの国境の外から加担した「先進諸国」の首脳たちは、自らを問うことなく、安心して「穏健主義者」マンデラへ賛辞を浴びせたのである。

国内での「和解」を優先課題に据えて始まった、新しい社会の建設過程においては、問題の本質からして、それは一国では担いきれない課題であったのだろう。この課題は、その後、国際的な場において取り上げられることになる。2001年8月~9月、他ならぬ南アフリカのダーバンで開かれた「人種主義、人種差別、排外主義、および関連する不寛容に反対する世界会議」において、である。私はここに、南アフリカの真実和解委員会の経験に学びながら、植民地支配・奴隷制度・人種差別主義などの諸問題を、避けることのできない人類普遍のそれとして設定しようとする、国境を超えた努力の成果を見る。私たちは、歴史の鼓動をここに確かに聞き取っているのである。この課題は、何よりも当事国(民族)間同士での「対話→真実追求→謝罪→赦し→和解」の過程をたどらなければならないが、それを側面から援助する国際的な普遍的原理の確立が求められるのだろう。

南アフリカに戻るなら、重要なことは、この問題の追究の過程において、ネルソン・マンデラがひとり屹立して主導しているわけではない、ということである。むしろ、ANC指導者としての彼は、デズモンド・ツツ大主教から、一般市民の死傷者が生じたANCによる南アフリカ空軍本部爆破事件の現場で公式に償いをするよう求められもしている。「真実和解」のこの過程は、多くの人びとと組織の協働によって担われた。そこに最も注目すべき性格があるように思える。

3、新自由主義への拝跪

本稿では、まず、1960年代初頭におけるネルソン・マンデラたちの闘争が、アフリカ大陸南端部に孤立したものではなく、「アフリカ革命」という、闘争の担い手たちによって当時は共有されていたリアリティに基づいて展開されていたことを見た。次に、アパルトヘイトを廃絶したのちに、多くの疑問や批判も受けながら試みられている「和解」のための努力の意義を、その「限界」も見据えながら確認した。紙数は尽きたが、残るのは、「解放」後の社会・政治・経済過程をいかに見るか、という問題である。私が今回参照できたのは、資料としてはわずかなものでしかないが、ここには当然にも、解放後・革命後の第三世界諸国のいずれにしてもが、決して免れることのできなかった問題が立ちはだかっている。南アフリカは、旧宗主国、多国籍企業、国際金融機関、「先進」諸国によって経済的に包囲されているという現実である。世界有数の投資家、ジョージ・ソロスは2001年のダボス経済フォーラムにおいて「南アフリカは国際資本の手中にある」と語った。人種アパルトヘイトは終わったが、いまや南アフリカは「経済アパルトヘイト」の下におかれていると皮肉って、一向に改善されない経済格差を指摘する声もある。もちろん、これらは、南アフリカ一国が背負うには過重な重荷である。世界の貿易秩序と国際的な経済秩序の対等性、多くは第三世界に存する天然資源の開発をめぐる公正な関係――その確立に向けた協働の努力が実ってこそ、の課題である。多国籍企業や国際金融機関や「先進」諸国の側から、従来の不平等性を「修復」する動きが起こってはじめて、この問題は解決の端緒につく。「修復」という問題は、ここでも重要なものとして浮上してくるのだ。

最後に、マンデラの、既存のありふれた政治家と変わらぬ姿も確認しておこう。1994年、首相就任間もないマンデラは、国連による対南ア武器禁輸が解除された直後に、南ア軍需産業は「もはや秘密の幕に隠れて行動する必要はなくなり、国内外の完全な合法性を得るだろう」と語った。国有兵器公社アームスコールが「平和と安全に貢献する武器輸出」を保証する自主技術を開発したことを称賛した(「赤旗」1995年1月7日付)。7万人の雇用を生み出す、同国最大の機械輸出産業である南アの軍需生産を簡単に縮小できるものでないことは、誰にでもわかる。だが、マンデラのこの「現実主義」的な側面が、日欧米諸国の首脳にとっては安心できる場所であるという「構造」は、同時に見据えておく必要があるだろう。その意味でも、マンデラを彼らの空虚な賛辞の網から解き放ち、現代世界が直面する困難な課題を共に考え、その解決を模索する場所へと招き入れる必要があるのだ。

【付記】本稿で引用しているマンデラの言葉は、野間寛二郎『差別と叛逆の原点――アパルトヘイトの国』(理論社、1969年)と、1991年キューバ訪問時の演説内容を伝える複数のインターネットサイトなどに拠っている。ニカラグアについては、現地を取材した野々山真輝帆「サンディニスタ――革命と殉教のはざまで」(『世界』1986年6月号)、「ニカラグア――二つの到達点から見た現実」(『朝日ジャーナル』1987年4月10日~同17日)に拠っている。他にも、峯陽一『南アフリカ――「虹の国」への歩み』(岩波新書、1996年)、楠瀬佳子「女たちの声をどのように記憶し、記録するか――真実和解委員会と女たちの証言」(宮本+松田編『現代アフリカの社会変動』、人文書院、2002年、所収)、アレックス・ボレイン『国家の仮面がはがされるとき――南アフリカ「真実和解委員会」の記録』(第三書館、2008年)、阿部利洋『真実委員会という選択――紛争後社会mの再生のために』(岩波書店、2008年)、永原陽子編『「植民地責任」論――脱植民地化の比較史』(青木書店、2009年)、アンキー・クロッホ『カントリー・オブ・マイ・スカル――南アフリカ真実和解委員会〈虹の国〉の苦悩』(現代企画室、2010年)などを参照し、一部を引用した。

太田昌国の、ふたたび夢は夜ひらく[46]アメリカ大陸の一角から発せられた「平和地帯宣言」


『反天皇制運動カーニバル』第11号(通巻354号、2014年2月4日発行)掲載

1月29日、アメリカ大陸の一角から「平和地帯宣言」が発せられた。武力の不行使と紛争の平和的解決の原則を明記した諸国間文書が採択されたのである。

この発表は、キューバの首都ハバナで開催されていた「ラテンアメリカ・カリブ海諸国共同体(CELAC)」の第二回首脳会議においてなされた。CELACは、同地域のすべての独立国33ヵ国で構成される地域機構である。2010年2月に創設されたばかりで、域内総人口はおよそ六億人になる。この地域には、伝統的に、1951年に創設された米州機構(OAS)が存在している。米ソ冷戦下に成立しただけに、事実上は、米国の圧倒的な影響力が及ぶ「反共同盟」的な性格を有し、したがって1962年には、革命後3年目を迎えたキューバを除名した。キューバを域内で徹底的に孤立させ、経済的に締め上げる機構として、米国はこれを十二分に利用してきた。

しかし、多くは軍事独裁政権下にあって、大国主導の新自由主義経済政策という「悪夢」を世界に先駆けて経験せざるを得なかったこの地域の諸国は、20世紀末以降、次第に「民主化」の過程をたどり始めた。そこで成立した各国の政権は、かつてなら稀に存在した根本的な社会改革を志す政権ではない場合であっても、その社会的・政治的任務にまっとうに取り組もうとする限りは、新自由主義経済政策が残した傷口を癒し、ヨリ公正な経済的秩序を作り上げる努力をすることとなった。そのことは、もちろん、米国が変わることなく強要する新自由主義路線に反対し、それとは異なる原理に基づいた自主・自立的な政策を採用することを意味する。米国からの「離反」は次第に拡大し、ついには4年前に、米州機構とは逆に、同じ大陸に位置する米国とカナダを除外し、キューバが加盟するCELACが成立したのである。

国家間紛争の平和的な解決・対等な国際秩序の構築など、大まかに一致している共通目標はあるが、各国間で政体は異なる。端的に言えば、左派政権もあれば、右派もいる。そのような地域機構が、創設後四年目にして、政府・経済・社会体制の違いを越えて、他の諸国との間で友好と協力の関係を促進する立場を宣言したのである。「平和地帯宣言」はテーマ別文書のひとつだが、もちろん、全体的な最終文書「ハバナ宣言」も採択された。そこでは、途上国に一方的に不利な条件を課すことのない国際経済体制を作り上げること、この地域に多い天然資源を国有化したり、自国産業を保護する政策を採用したりすると、そこへの介入を企図する多国籍企業から訴訟を起こされる例が増えていることから、外国企業を一概に排斥するわけではないが、進出先の国の政策と法制を理解して責任ある態度を取ること、各国の主権を尊重して受け入れ先の国民の生活向上に資するよう心がけることなど、外部から関係してくる経済大国と企業の責任を問う条項もある。

域内協力の課題としては、持続可能な開発によって貧困と飢餓を一掃する経済政策の推進、CELAC加盟国間での「相互補完・連帯・協働」関係の強化などが謳われている。一時期、新自由主義経済政策に席捲された後遺症なのだろう、いまだ非正規雇用が目立つことから「正規雇用の恒常的な創出」の必要性が強調されていることも印象的だ。いったん発動され定着した不当な政策を矯正するのは、こんなにも時間がかかることなのだ。

仮に歴史を40年でも遡ると、この地域の33ヵ国間で、このような合意文書が採択されることはおろか、会議そのものが開かれることすら不可能だった。キューバの存在を軸に、対立と抗争に明け暮れていたからだ。事態の変化の鍵は、各国が超大国=米国への依存度を減らしたこと、代わって対等な域内協力関係を強化したこと、それによって米国の存在感が希薄になったことが挙げられよう。約めて言えば、米国の軍事的プレゼンスがなくなれば地域は平和になり、多国籍企業の活動が規制されれば(現状では、まだ不十分なのだが)経済は安定化へと向かう――という方向性を見出すことができよう。

この宣言が発表された同じ日、国連安保理では「戦争、その教訓と永続する平和の探求」と題した討論が行なわれていた。中国と韓国の代表が「戦争についての審判を覆し、戦犯を擁護する」日本政府のあり方を厳しく非難した。東アジア情勢の異様さと、その主要な責任はどの国が背負うべきかは、国際的に明らかになっていると言えよう。(2月Ⅰ日記)

太田昌国の、ふたたび夢は夜ひらく[45] 対立を煽る外交と、「インド太平洋友好協力条約」構想


『反天皇制運動カーニバル』10号(通巻353号、2014年1月14日発行)掲載

首相の靖国神社参拝に「失望した」との考えを表明した在日米国大使館に対して、「米国は何様のつもりだ」という抗議のメールが多数寄せられているというラジオ・ニュースを年明けになってから耳にした。いわゆる振り込め詐欺をテーマに『俺俺』という秀作を書いた作家の星野智幸は、2、30年ぶりに旧友たちと会うと、声、性格、たたずまいなどにおいてお互い「変わらないなあ」という過去との繋がりが見えてくるのに、話題が韓国や中国のことに及ぶと一変し、相手国へのあからさまな嫌悪と侮蔑の感情を示しては国防の重要性を説く人が少なからずいることに打ちのめされた、と書いた(2013年12月25日付朝日新聞)。昔は政治に何の関心も示さず、ナショナリスト的な傾向の片鱗すら持たなかった人に限って、と。

私は昨年の当欄で、日本の現状を指して『「外圧」に抗することの「快感」を生き始めている社会』と書いたが、上の二つのエピソードは、確かに、そんな「気分」がすっかり社会に浸透してしまったことを示しているようだ。この「気分」の頂点にいるのは、もちろん、現首相であり、政権党幹部たちである。靖国参拝を行なって内外からの厳しい批判にさらされている当人は、年明けのテレビ番組で「誰かが批判するから(参拝を)しないということ自体が間違っている」と語っている。かつてなら(第一次内閣の時には)、安倍自身が、「大東亜戦争の真実や戦没者の顕彰」を活動方針に掲げる「日本会議」(1997年設立)や、靖国神社内遊就館内に事務所を置き、天皇や三権(国会、内閣、裁判所)の長の靖国参拝を求めている「英霊にこたえる会」の主張するところにぴったりと寄り添ってふるまうことは避けていた。本音では同じ考えを持つ者同士だが、7年前の安倍には、首相としての立場を表向きだけにせよ弁えるふるまいが、ないではなかったのである。それが、極右派からすれば、安倍に対する不満の根拠であった。

政権党幹事長・石破茂の暴走も停まらない。昨年は、「自衛隊が国防軍になって出動命令に従わない隊員が出た場合には最高刑は死刑」とか「単なる絶叫戦術はテロ行為と変わらない」という本音を言ってしまった。年明けには「(集団的自衛権の行使容認に向けた)解釈改憲は絶対にやる」と公言している(私はテレビ・ニュースを見ないので、事実の抽出は、新聞各紙の記事に基づいて行なっている)。安倍と石破のこの間の言動は、この社会における「民意」の動向を踏まえたうえで行なわれていると思える。

経済的な不安定感、震災や原発事故に伴う喪失感、文明論的にも先行きの見えない不安感――国内で、私たちを取り囲む諸問題はこんなにも深刻だが、このとき「日本人」であることに安心立命の根拠を求めるナショナリズムが、こうしてひたひたと押し寄せている。

昨年12月、東京で開かれた日本・ASEAN(東南アジア諸国連合)特別首脳会議において、中国による防空識別圏の設定に的を絞って「中国包囲網」を形成しようとする日本政府の動きがあった。メディア報道もそれを主眼においてなされた。それは、社会の現状に添った偏狭なナショナリズムに制約された視点であって、重要な点は別にあった。

インドネシアのユドヨノ大統領は、国家間紛争に武力を行使ないことを約束する「インド太平洋友好協力条約」の締結を呼びかけた。どの国にせよ駆け引きと術策に長けた国家指導者の言動をそのまま信じる者ではないが、共同声明には日本が主張した「安全保障上の脅威」や「防空識別圏」の文言は入らず、日本は「孤立」したのである。海洋への中国の軍事的進出にASEAN諸国にも警戒心があるのは事実だが、それを利用して中国と後者の緊張を煽る日本政府の目論みは失敗した。領土・領海問題や地域的覇権をめぐって対立や抗争もあった(あり続けている)東南アジアから、現在の日本政府の方向性と対極的な、平和へのイニシアティブが取られつつあることに注目したい。そこには、世界で唯一冷戦構造が継続しているような東アジア世界への「苛立ち」、とりわけ加害国でありながら、その反省もないままに「ナショナリズム」に凝り固まって、排外主義的傾向を強める日本社会全体への不審感が込められていると捉えるべきであろう。(1月11日記)

「もうひとつの9・11」――チリの経験はどこへ?


DVD BOOK ナオミ・クライン=原作 マイケル・ウィンターボトム/マット・ハワイトクロス=監督作品

『ショック・ドクトリン』解説(旬報社、2013年12月)

2001年9月11日米国で、ハイジャック機による自爆攻撃が同時多発的に起こった。この事件を論じることがここでの目的ではない。少なからずの人びと(とりわけラテンアメリカの)が、この事件によって喚起された「もうひとつの9・11」について語りたい。それは、2001年から数えるなら28年前の1973年9月11日、南米チリで起こった軍事クーデタである。その3年前に選挙によって成立した世界史上初めての社会主義政権(サルバドール・アジェンデ大統領)が、米国による執拗な内政干渉を受けた挙句、米国が支援した軍部によって打倒された事件である。

2001年9月11日以降、米国大統領も、米国市民も、なぜ米国はこんな仕打ちを受けるのかと叫んで、「反テロ戦争」という名の報復軍事作戦を開始した。「もうひとつの9・11」は、実は、1973年のチリだけで起きたのではない。世界の近現代史を繙けば、日付は異なるにしても、米国が自国の利害を賭けて主導し、引き起こした事件で、数千人はおろか数万人、十数万人の死者を生んだ事態も、決して少なくはない。そのことを身をもって知る人びとは、2001年の「9・11」で世界に唯一の〈悲劇の主人公〉のようにふるまう米国に、底知れぬ偽善と傲慢さを感じていたのである。

同時に、ラテンアメリカの民衆は、1973年の「9・11」以降、世界に先駆けて、チリを皮切りにこの地域全体を席捲した新自由主義経済政策のことも思い出していた。アジェンデ政権時代には、従来の社会的・経済的な不平等にあふれた社会で〈公正さ〉を確立するための諸政策が模索されていた。外国資本の手にあった鉱山や電信電話事業の公共化が図られたのも、その一環だった。軍事クーデタは、これを逆転させた。すなわち、新自由主義政策が採用されたからだが、日本の私たちも、遠くは1980年代初頭の中曽根政権時代に始まり、近くは2000年代の小泉政権時代に推進されたこの政策に、遅ればせながら晒されていることで、その本質がどこにあるかを日々体験しているのだから、政策内容の説明はさして必要ないだろう。

1980年代初頭に制作されたボリビアのドキュメンタリー映画に、印象的なシーンがある。軍事政権時代に莫大に流入していた外国資本からの借款が、どこへいったのかと人びとが話し合う。高台にいる人びとは、下に見える瀟洒な中心街を指さし、「あそこだ!」と叫ぶ。そこには、シェラトン、証券会社、銀行などが入った高層ビルが立ち並んでいる。周辺道路もきれいに整備され、さながら最貧国には似つかわしくない光景が、そこだけには現われている。「あそこで使われた金が、いま、われわれの背に債務として圧し掛かっているのだ」と人びとは語り合うのである。これは、新自由主義経済政策下において導入された外資が、その「恩恵」には何ら浴すことのない後代の人びとに債務として引き継がれる構造を、端的に表現している。

だが、世界に先駆けて新自由主義経済政策の荒々しい洗礼を受けただけに、ラテンアメリカの人びとは、その本質を見抜き、それを克服するための社会的・政治的な動きをいち早く始めた、と言えるだろう。国によって時間差はあるが、20世紀も終わりに近づいた1980年代以降、次第に軍事政権を脱して民主化の道をたどり始めた彼の地の人びとは、新自由主義によってズタズタにされた生活の再建に取り組み始めた。旧来の左翼政党や大労働組合は、この経済政策の下で、また世界的な左翼退潮の風潮の中で解体あるいは崩壊し、この活動の中軸にはなり得なかった。民衆運動は、地域の、生活に根差した多様な課題に取り組む中で、地力をつけていた。新自由主義政策が踏み固めた路線に沿って、さらに介入を続ける外国資本を相手にしてさえ人びとは果敢に抵抗し、ボリビア・コチャバンバの住民のように、水道事業民営化を阻止するたたかいを展開した。

政治家にあっても、社会改良的な立場から自国の政治・経済・社会の状況に立ち向かおうとすると、既成秩序の改革が必要だと考える者が輩出し始めた。彼(女)らの関心は、差し当たっては、新自由主義が根底から破壊した社会的基盤を作り直すことであった。20世紀末以降、ラテンアメリカ地域には、世界の他の地域には見られない、「反グローバリズム」「反新自由主義」の顕著な動きが、政府レベルでも民衆運動レベルでも存在しているのは、このような背景があるからである。

「もうひとつの9・11」――チリの悲劇的な経験は、それを引き継ぎ、克服しようとする人びとの手に渡っているというべきだろう。

太田昌国の、ふたたび夢は夜ひらく[43]韓国における、日本企業への個人請求権認定の背景


『反天皇制運動カーニバル』第8号(通巻351号、2013年11月12日発行)掲載

第二次大戦中に日本企業に徴用された韓国の人びとが、その企業を相手に行なう損害請求訴訟において、請求権を認定する韓国司法のあり方が定着し始めた。この問題をめぐっては、日本のメディアには「国家間の合意に反する」とする意見が溢れている。1965年の日韓請求権協定に基づくなら、請求権問題は解決済みだとするのである。自民党総務政務官・片山さつきは「国家間の条約や協定を無視した判決を出す国が、まともな法治国家と言えるのか。経済パートナーとしても信頼できない。敗訴した日本企業は絶対に賠償金を支払ってはいけない」と語っている(8月21日付「夕刊フジ」)。これは俗耳に入りやすい論理だけに、検証が必要だ。私たちは、複雑に絡み合った歴史を解きほぐす労を惜しむわけにはいかない。いささか長くなるが、この問題を考える前提として、日本の敗戦以降の歴史過程を胸に留め置くべきだろう。事態は、植民地支配に関わる自覚、反省、謝罪、補償を実現できないまま現在に至った、私たちの戦後史に深く繋がるものだからである。

1945年8月、日本は遅すぎた敗戦を迎えた。アジア太平洋の諸地域に全面的に展開した軍隊が「敗退」を始めた後でも、それは「転戦」だと言い繕う者たちが、政治・軍事権力の座にあった。東京をはじめとする諸都市への大空襲と沖縄地上戦を経てもなお「敗戦」を認めようとしなかった支配層は、広島・長崎の悲劇を味わって後にようやく、それまでの「敵」=連合国側が提示したポツダム宣言を受け入れた。しかもそれは、天皇の「聖断」によるものである、とされた。本土決戦は回避された。空襲で焼け野原になっていた東京にあっても、皇居と国会は炎上することはなかった。ヒトラーと同じ運命を天皇裕仁がたどることは避けられた。

天皇は「現人神」から「象徴」に変身して、生き延びた。戦争を推進した多くの官僚も、戦争を熱狂的に支持した一般の国民も、戦争責任を問われることなく、延命できた。「無責任」なあり方が社会に浸透した。植民地は「自動的に」独立した。1953年のディエンビエンフーのように、1962年のアルジェのように、1975年のサイゴンのように、被植民地民衆の抵抗闘争によって日本の植民地主義が敗北した、という実感を社会総体がもつことはなかった。こうして、戦前と断絶することのない、日本の戦後が始まった。

戦後の出発点に孕まれていた「虚偽」は、戦後も継続した。いったんは武装解除され、やがて米国のアジア戦略の変更によって再武装が認められた日本は、基本的には自ら戦火に巻き込まれることなく「平和」の裡に戦後復興に邁進することができた。翻って、近代日本の植民地支配と侵略戦争および軍政支配から解放されたアジア諸地域では、内戦あるいは大国の介入による戦火が長いあいだ途絶えることはなかった。アジア民衆は、日本が戦後復興を経て高度産業社会へと変貌する過程を目撃していながら、日本の植民地支配や侵略戦争に関わる補償を要求する「余裕」などは持たなかった。

1975年、米国が敗退してベトナム戦争は終わった。アジアにおける大きな戦火が、ようやく消えた。加えて、日本の敗戦から45年を経た1990年前後から、右に概観した世界秩序に変化が現われ始めた。他の矛盾をすべて覆い隠していた東西冷戦構造が、ソ連体制の崩壊によって消滅した。韓国では軍事独裁体制が倒れた。アジアの人びとは、ようやく、自らの口を開き、過去に遡って日本との関係を問い直す条件を得た。

旧日本軍の「慰安婦」や元「徴用」工、元「女子勤労挺身隊」の人びとが、日本国家と雇用主であった日本企業に個人として賠償請求訴訟を始めたのは、この段階において、である。サンフランシスコ講和条約や日韓条約は、そもそも、植民地支配の責任を問うこともなく締結された。過去に締結された条約や協定に基づいて自己の権限を主張するのは、どの時代・どの地域を見ても、常に強者の側である。弱者であった側は、別な原理・原則に基づいて自己主張を始めざるを得ない。奴隷制、植民地支配、侵略戦争の責任の所在を問う現代の声には、そのような世界的普遍性が貫いていると捉えるべきだろう。

(11月9日記)

太田昌国の夢は夜ひらく[39]諜報・スパイ騒動においても、裏面で作用する植民地主義的論理


『反天皇制運動カーニバル』第4号(通巻347号、2013年7月9日発行)掲載

7月2日早朝、いつものようにパソコンでteleSURを観ていた。ベネズエラのカラカスを本拠に発信されているテレビ放送のウェブ版である。ラテンアメリカの数ヵ国の共同出資で運営されている。情報大国の通信社・テレビ局・新聞社に占有されてきた国際問題に関わるニュースを地元から発信しようとする試みで、私にとってはそれだけでも貴重な情報源である。キューバの「反体制ブロガー」として有名なヨアニ・サンチェスが言うような、それゆえに起こり得るかもしれない情報の一面性や歪み(すなわち、政府広報的な性格)は、その受け手が別な局面で対処すべき問題だろう。

この地域では、いま、かつて圧倒的な影響力を及ぼしていた米国の存在感が薄れ、まさにそれゆえにこそ、「紛争」案件が目に見えて減っている。基本的には平和な状態下で、新自由主義経済政策を批判的に克服し、貧困問題の解決を軸とした社会・福祉政策に重点を置く諸政府が成立している。各国間の相互扶助・協働・友好関係の進展もめざましい。個別に見ていけば、コンフェデレイションズ・カップ開催を批判したブラジルの大規模デモに見られるように、それぞれ重大で深刻な問題と矛盾を抱えていることも事実だが、大局を見るなら、なかなかに刺激的な地域だ。つまり、それは、米国による政治・経済・軍事の干渉さえなければ、ある地域一帯の平和と安定がいかに保障されるか、ということを実証しているにひとしいからである。その意味で、20世紀末以降のラテンアメリカ地域は、世界秩序がどうあるべきかという問題意識に照らした場合に、ありうべきひとつの範例である。

さて、7月2日早朝のtele SURに戻る。天然ガス産出国会議が開かれていたモスクワを発ったボリビアのエボ・モラレス大統領の搭乗機がポルトガルとフランスでの給油のための着陸はおろか上空通過も許可されず、オーストリアのウィーン空港に強制着陸させられたとの急報が報じられていた。そのためにきわめて危険な飛行を強いられた、とも強調されていた。理由は、モスクワ空港の乗継地域に留め置かれていた米中央諜報局(CIA)元職員のエドワード・スノーデン氏が、ボリビアへ向かう大統領専用機に搭乗しているとの噂が流れたせいという。

オーストリア当局は13時間ものあいだ離陸を認めず、そのかん機内捜索を要求し続けているとの続報もあった。ボリビア側はこれを重大な主権侵害だとして抗議したが、最終的にはオーストリアの入国管理当局職員が、同機内にはスノーデン氏が不在であることを現認し、エボ大統領はようやく帰国できた。

2004年に発足したUNASUR(南米諸国連合)はボリビア第二の都市コチャバンバで緊急首脳会議を開き、帰国直後のエボ大統領も参加して、今回の事態について検討した。会議の最後に採択された共同声明は、フランス、ポルトガルに加えて同様な態度を示したスペイン、イタリアなど四ヵ国は「21世紀の今日にありながら、新植民地主義的なふるまいをラテンアメリカの一国に対して行なった」ことに関して、公式に謝罪すべきであると要求したが、スペインは直ちにこれを拒否した。スノーデン氏の搭乗に関して信頼に足る情報があったからというだけで、情報源は明らかにしていない。それが、米国政府筋であることを疑う者はいないだろう。7月5日、南米諸国連合の加盟国であるベネズエラのマドゥロ大統領は、人道主義的な立場からスノーデン氏の亡命を受け入れると表明した。同じ日、中米ニカラグアのオルテガ大統領も、「状況が許せば」同氏を受け入れると語った。

今回の諸事態からは、現代の世界地勢地図がうかがわれて、語弊があるかもしれないが「おもしろい」。諜報・スパイ問題は、もっぱら欧米的な文脈の中で語られている。オバマが居直ったように、どこの国だってお互いに同じ諜報作戦を展開しているのだから「おあいこ」だとする「論理」である(その言い分は、戦時下の「慰安婦」問題をめぐる大阪市長Hの言い分に似通ってくるところが、両者ともに、耐え難い)。その論理を貫徹していくにあたって、欧米では(意識的にか無意識的にか)「植民地主義」がはたらき、その身勝手な世界秩序から排除すべき「第三者」をつくり出していることを見抜くこと。ボリビア、ベネズエラ、ニカラグア――今回の事態の裏側を陰画のごとく浮かび上がらせる国名を観ながら、私の頭には、〈奴らの〉それとは異なる世界地図が描かれていく。(7月7日記)

アルジェリア事件の先に、何を視るのか


『スペース21』第74号(2013年3月発行)掲載

今から半世紀前の1960年代、アルジェリアから届くニュースは、「時代」の希望の証しのひとつだった。植民地解放闘争を弾圧するために現地に送り込まれたフランス軍の内部からは「祖国に反逆する」脱走兵が次々と生まれていた。解放戦線側は、戦闘で捕虜にしたフランス兵が負傷していると手厚く看護したうえで本国に送り返すという人道主義的な姿勢を明確にしていた。フランツ・ファノンの目の覚めるような帝国―植民地論も、アフリカ革命論も、他ならぬアルジェリアの闘争を源泉として発信されていた。ほぼ同じ時期に解放を成し遂げたアルジェリアとキューバの間では、あの時代の中では突出した国際主義的団結が実現しているように思えた。

いたずらに、過去を美化するのでも懐かしむのでもないが、半世紀後のアルジェリアから届くニュースは、寒々しい。今回の天然ガスプラントでの襲撃・人質事件を引き起こしたイスラーム聖戦主義集団にしても、これを暴力的に鎮圧した政府にしても、国の内外の人びとの心に響くようなメッセージのひとつでも発しているわけではない。1990年代、複数政党制に移行したとたんに15万人もの犠牲者を生み出すことになる、血を血で洗う凄惨な「暴力の時代」をこの国は経験した。今回は、プラントで働く多国籍の人びとが関わり合いを強制されたぶん、事態が国際化して見えているだけだ。もちろん、ここに、グローバリゼーション時代の、国境を超えた労働力移動という問題を見出すことはできる。武装集団が、フランス軍のマリ撤兵という要求を掲げていたことも、無言に近かった彼らのメッセージとしては唯一注目すべきことだ。

だが、BPという英国資本と日揮という日本資本が関わってきた天然ガス開発が孕むかもしれない問題点が、武装集団から、ましてやアルジェリア政府から指摘されているわけでもない。行為の主体が問題提起を怠れば、事態の本質は浮かび上がらない。言葉を伴わなければ、何らかの行動が本来的に孕むべきメッセージ性は、他者に伝わらないのだ――「9・11」がそうであったように。今回のアルジェリアの場合でいえば、開発された資源は、地元と多国籍企業の間で「対等に」分配されているかという問題が見えてはこない。帝国の内部にあっては、第三世界に対する自国企業の進出は「無償の贈与」のような思い込みがあるだけに、事態の奥行に手が届かないままに、事件の悲劇性はいっそう増すばかりである。

日本のメディアではあまり浮かび上がってこない問題に触れておこう。2010年暮チュニジアに始まる「アラブの春」以降の激動の中で、独裁体制が崩壊したのちに旧政府軍の武器庫から大量の武器が武装集団に渡ったことの指摘は多々ある。私は、アフガニスタンとイラクという、「9・11」以降「反テロ戦争」の標的とされてきた国々が、アフリカ北部と地形的に一続きであることに注目したい。これに「海賊退治」の標的=ソマリアや、この地域最大の暴力装置を有するイスラエルなどの国名を加えるならば、ここ十数年もの間、この地は大国主導の下で激しい戦地であり続けてきたことがわかる。暴力の「旨味」は感染する。超大国を中心として諸国家が実践してきた戦争による地域支配の現実を見て、これを真似する武装集団が次々と生まれたのだ。国家暴力を「テロ」の範疇から取り除き、非国家集団の行為だけを「テロ」と呼ぶご都合主義の破綻を、今回の事態は示している。

したがって、今回の事態から引き出すべき教訓は、「テロ」や紛争に武力で対抗することの危うさである。現政府は、自衛隊法を改訂し現状では認められていない「邦人保護のための陸上輸送」を可能にする方針を固めた(2月21日現在)。この先に展望しているのは武器使用基準の緩和だろう。非国家集団を相手に「対テロ戦争」なる非対称的な戦いを続けることの過ちを知ろうともしない者たちは、こうしていつも、火事場泥棒的なふるまいに終始する。先に待ち受けるのは、困難な問題を解決する手段として「軍事」に当たり前のように頼る、米国やフランスのようなありふれた国家の姿である。(2月22日記)

太田昌国の夢は夜ひらく[35]アルジェリアの実情を伝える急使は、どこから来るのか?


『反天皇制運動モンスター』第37号(2013年2月5日発行)掲載

ここ数年、「革命の通信」ともいうべき、北アフリカはマグレブの急使が途絶えることがない。広場に集まった群衆の中から、らくだに乗って突撃してきた部隊に蹴散らされた人びとの中から、逃亡した権力者の宮殿を占拠した人びとの中から――急ぎの使者がやってきては、何ごとかを伝えてゆく。

だが、私たちは、それを聞き取る術を持っているのか? 私たちはすでに、ここ十数年来のアフガニスタンとイラクについての報道を経験し、何事をも「イスラム」と括ることで、何か危険なもの、過激なもの、異質なもの――などと仄めかそうとする報道操作に全面包囲されてきた。それから、わが身を分け隔てる知恵を私たちは持っているか? あまりに歪められた「イスラム報道」に接するたびに、わが身は思わず身構える。

今回のアルジェリアの事態についても同じことだ。かつてなら、アルジェリアの急使は豊富だった。フランス植民地軍脱走兵の証言、植民地軍から拷問を受けた少女ジャミラの手記、解放戦線のスポークスパースンだったフランツ・ファノンの諸著作、そしてジロ・ポンテコルヴォの映画『アルジェの戦い』――植民地解放闘争の息吹を伝える急使が数多くあった。だが、1990年代の凄惨な内戦で15万人もの死者を出した記憶も消え去らぬ現在、抗争の当事者であった政府にせよイスラム武装勢力にせよ、適任の急使を外部世界に送ることができない。すでに19年も前にメキシコのサパティスタがインターネットを駆使して行なったような鮮烈な言葉によるメッセージを、今回の「覆面部隊」は発することができないままだ。だが、マリに侵攻したフランス軍の撤兵を要求する言葉だけは明快だった。ここから何がわかるのか? 事態はもはや北アフリカに局限され得ず、西アフリカへと拡大している、ということだ。マリと言えば、数年前に観たモーリタニア映画『バマコ』(アブデラマン・シサコ監督、2006年)は、世界銀行らの国際金融機関がマリに強制した構造調整政策の実態を巧みに告発する内容だった。20世紀末から21世紀初頭にかけて、ラテンアメリカ諸国に続いてアフリカの国々も、先進国と国際金融機関が主導する新自由主義経済政策の支配下にあったのである。この程度の知識でもあれば、天然ガス・プラント問題を通して、開発による利益を地元に還元するルールはどのようにつくられているのか、あるいはいないのかへと私たちの関心は伸びて、犠牲者の哀しい物語だけで終わらせずに、問題の本質的な膨らみへと行き着くことができるはずだ。

他方、新自由主義に翻弄された社会が、いかに構造的に壊れるものであるか。そのことを、小泉改革以降の日本社会の実情に照らして、私たちは学びつつある。経済生活を破壊された底辺層が、相互扶助の精神が相対的に高いイスラムの人びとの「影響下に入る」ことは見え易い道理である。メディアが好んでやるように「アルカイダが聖戦思想をもってアフリカを侵食している」などという側面だけで、事態を捉えるべきではないだろう。

マリの隣国ニジェールには、フランスの原発推進部門が採掘を手掛ける豊かなウラン鉱がある。現在のところ、東アフリカのジブチにしか軍の常駐基地を持たない米国は、去る1月28日、ニジェールへの米軍駐留に向けて同国政府との間に地位協定を結んだと発表した。「北アフリカで拡大するテロ組織に対応するために」米軍は偵察用無人航空機基地をニジェールにつくり、300人程度の要員を駐留させるのだという。またしても、軍事的な対応である。「反テロ戦争」の拡大図を見るために、地図を広げてみよう。アフガニスタン、イラクに始まる「戦線」が次第に西へと拡大し、ソマリアでの「海賊退治」を経て、ついに西アフリカへ至った事実に行き当たろう。それは米国主導の「反テロ戦略」の破綻を意味している。いつでもどこでも軍事に頼る大国のふるまいを「横暴」と捉える非国家組織が同じ手を使って対抗することで、現在の状況がつくられたのだ。

最近、国連事務次長は「ラテンアメリカの経済状況が比較的順調なのは、この地域で武力紛争がほとんどないこと」を理由として挙げた。私はこれを、同地域では米国の影響力が大幅に減退し、その軍事的プレゼンスもほぼ消えて、新自由主義路線を排除して、各国に自主・自立・相互扶助の動きがあるからだ、と読み替える。アルジェリアをはじめ北西アフリカの現実の打開方法を伝える急使は、意外な場所から来るのかもしれない。

(2月2日記)