2017年5月8日
『反天皇制運動 Alert 』第11号(通巻393号、2017年5月9日発行)掲載
選挙は水物だ。下手に結果を予測しても、それが覆される可能性は常にある。しかし、現在の韓国大統領選挙の状況を複数のメディア報道を通してみる限り、「共に民主党」の文在寅の優位は動かないように思える。対立候補から「親北左派」とレッテル貼りされている文在寅が大統領になれば、現在の東アジアの政治状況は「劇的に」とまでは言わないが、ゆっくりとした変化を遂げていく可能性がある。朝鮮をめぐる日米中露首脳の言動が相次いで行なわれているいま、その文脈の中に「可能性としての文在寅大統領」の位置を定めてみる作業には、(慎重にも付言するなら、万一それが実現しなかった場合にも、東アジアの政治状況に関わる思考訓練として)何かしらの意味があるだろう。
文在寅は、廬武鉉大統領の側近として太陽政策を推進した経験をもつ。具体化したのは金剛山観光、開城工業団地、京義線と東海線の鉄道・道路連結、離散家族再会などの事業であった。それは、「無謀極まりない北」への融和策として、対立者からの厳しい批判にさらされてきた。あらためて大統領候補として名乗りを上げた文在寅は、ヨリ「現実的」になって、韓国軍の軍事力の強化を図ること、つまり、朝鮮国に対して軍事的に厳しく対峙する姿勢を堅持している。注目すべきは、それが、対米従属からの一定の離脱志向を伴っているということである。1950年代の朝鮮戦争以来、韓国軍の指揮は在韓米軍が掌握してきた。平時の指揮権こそ1994年に韓国政府に委譲されたものの、2012年に予定されていた有事の指揮権移譲は何度も延期されたまま、現在に至っている。
文在寅は、大統領に就任したならば早急に有事指揮権の韓国政府への委譲を実現すると表明した。それは対米交渉を伴うだろうが、「アメリカ・ファースト」を掲げるトランプには、世界のどこにあっても米国が軍事的・政治的・経済的に君臨し続けることへの執着がない。韓国の軍事力の強化を代償として、在韓米軍の撤収への道が開かれる可能性が生まれる。それは、朝鮮国指導部が要求していることと重なってくる。
朝鮮国・韓国の両国間では激烈な言葉が飛び交っている。とりわけ、朝鮮国からは、あの強固な独裁体制下での下部の人びとの「忠誠心競争」の表われであろう、ヨリ激しい言葉を競い合うような表現が繰り出されている。それでも、底流では、戦火勃発に至らせないための、「国家の面子」を賭けた駆け引きが行なわれていると見るべきだろう。
朝鮮半島をめぐって同時的に進行しているいくつかの事態も整理してみよう。4月27日に行なわれたプーチン+安倍晋三会談において、前者は「少しでも早く6者協議を再開させることだ」と強調した。後者は記者会見で「さらなる挑発行為を自制するよう(北に)働きかけていくことで一致した」ことに重点をおいて、語った。
4月29日、朝鮮は弾道ミサイルの発射実験を行なったが、失敗したと伝えられた。ロンドンにいた安倍首相は「対話のための対話は何の解決にもつながらない」、「挑発行動を繰り返し、非核化に向けた真摯な意思や具体的な行動を全く示していない現状に鑑みれば、(6者協議を)直ちに再開できる状況にない」と断言した。
4月30日、トランプは「若くして父親を亡くし権力を引き継いだ金正恩委員長は、かなりタフな相手とやり取りしながら、やってのけた。頭の切れる人物に違いない」と語った。翌5月1日にも「適切な条件の下でなら、金委員長に会う。名誉なことだ」とまで言った。
さて、5月3日付けの「夕刊フジ」ゴールデンウィーク特別号に載った首相インタビュー記事での発言は次のようなものだ。「トランプの北朝鮮への覚悟は本物か」と問われて「間違いない。すべての選択肢がテーブルの上にあることを言葉と行動で示すトランプ大統領の姿勢を高く評価する」。「軍事的対応もテーブルの上にあるか」との問いには「まさにすべての選択肢がテーブルの上にある。高度な警戒・監視行動を維持する」と答えている。その「成果」が、ミサイル発射時の東京メトロの一時運行停止や、内閣官房ポータルサイトに「核爆発時の対応の仕方」を注意事項として掲げることなのだろう。
これ以上わたしの言葉を詳しく重ねる必要はないだろう。当事国も超大国も、駆け引きはあっても、朝鮮半島の和平に向けて「暴発」や「偶発的衝突」を回避するための姿勢を一定は示している。その中にあって、平和に向けての姿勢をいっさい示さず、むしろ緊張を煽りたてているのは、2020年の改憲を公言した日本国首相ひとりである。 (5月5日記)
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2017年2月6日
『反天皇制運動 Alert 』第8号(通巻390号、2017年2月7日発行)掲載
就任式から2週間、米国新大統領トランプが繰り出す矢継ぎ早の新たな政策路線に、世界じゅうの関心が集中している。この超大国の、経済・軍事・外交政策がどう展開されるかによって、世界の各地域は確かに大きな影響を受けざるを得ない側面を持つのだから、関心と賛否の論議が集中するのは、必然的とも言える。個人的には、私は、(とりわけ)米日首脳がまき散らす言葉に一喜一憂することなく、自らがなすべきことを日々こなしていきたいと思う者だが、それでも一定の注意は払わざるを得ない。
トランプは、米国の外に工場が流出したことで「取り残された米国人労働者」や「貧困の中に閉じ込められた母子たち」とは対照的に、ひとり栄えるものの象徴として「首都=ワシントン」を挙げた。そこに巣食う小さなエリート集団のみが政府からの恩恵にあずかっているとし、それを「既得権層」と呼んだ。就任演説を貫くトーンから判断するなら、現代資本主義の権化たる「不動産王」=トランプは、まるで、労働者階級のために身を粉にして働くと言っているかのようである。叩き上げの「新興成金」が、伝統的な支配構造に一矢を報いているかに見えるからこそ、この状況が生まれているという側面を念頭におかなければならないと思える。
具体的な政策をみてみよう。米国労働者第一主義(ファースト)の立場からすると、労働力コストなどが廉価であることからメキシコに製造業の生産拠点を奪われ、国内雇用を激減させる要因となった北米自由貿易協定(NAFTA、スペイン語略称TLC)も、トランプにとっては攻撃の的となる。協定相手国であるメキシコとカナダとの間での、離脱のための再交渉の日程も上がっている。思い起こしてもみよう。メキシコ南東部の先住民族解放組織=サパティスタ民族解放軍は、この協定は3国間の関税障壁をなくすことで、大規模集約農業で生産される米国産の農作物にメキシコ市場が席捲され、耕すべき土地も外資の意のままに切り売りされると主張して、その発効に抵抗・抗議する武装蜂起を、1994年1月1日に行なった。発効後15年目の2008年には3国間の関税が全面的に撤廃され、予想通りにメキシコ市場には米国産農産物が押し寄せ、メキシコ農業は荒廃し、農で生きる手立てを失った農民は、仕事があり得る首都メキシコ市へ、そこでもだめならリオ・グランデ河を超えて、米国へと「流れゆく」ほかはなくなった。
グローバリズムを批判し、これに反対するという意味では、トランプとサパティスタは、奇妙にも、一致点を持つかに見える。だが、子細に見るなら、他国の民衆をねじ伏せる経済力を持つ米国の利益第一主義を掲げるトランプと、一般的にいって多国籍企業の利益に基づいてこそ自由貿易協定の推進が企図され、それは経済的な弱小国に大きな不利益をもたらすという、事態の本質に注目したサパティスタとは、立脚点が根本的に異なっていると言わなければならない。
トランプの反グローバリズムの主張を色濃く彩る排外主義的本質は、メキシコとの国境線をすべて壁で塞ぐという方針にも如実に表れている。総距離3150キロ、うち1050キロにはすでにフェンスがつくられている。1000万人を超えるというメキシコからの「不法」移民に「米国人労働者の職が奪われて」おり、彼らは「犯罪者」や「麻薬密売人」だから国境を閉鎖して「不法」侵入を防ぐというトランプの方針は、米国白人が持つ排外主義的な感情を巧みにくすぐっている。今はご都合主義的にも反グローバリズムの立場に立つとはいえ、資本制社会の申し子というべきトランプは、米社会に麻薬の最大需要があるからこそ供給がなされているという「市場原理」を忘却して、メキシコにすべての罪をなすりつけようとしている。
歴史的経緯や論理を無視して「アメリカ・ファースト」という感情に基づく発想でよしとするトランプは、今後も「100日行動計画」を次々と打ち出してくるだろう。「予測が不能な」その路線如何では、世界は〈自滅〉の崖っぷちを歩むことになるのかもしれぬ。私は、米国の外交路線は「トランプ以前」とて決してよいものではなかったという立場から、新旧支配層の対立・矛盾が深まるであろう米国の「階級闘争」の行方を注視したい。
(2月5日記)
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2016年12月5日
『反天皇制運動 Alert』第6号(通巻388号 2016年12月6日発行)掲載
1972年、ポーランド生まれのジャーナリスト、K.S.カロルの大著『カストロの道:ゲリラから権力へ』が、原著の刊行から2年遅れて翻訳・刊行された(読売新聞社)。71年著者の来日時には加筆もなされたから、訳書には当時の最新情報が盛り込まれた。カロルは、ヒトラーとスターリンによるポーランド分割を経てソ連市民とされ、シベリアの収容所へ送られた。そこを出てからは赤軍と共に対独戦を戦った。〈解放後〉は祖国ポーランドに戻った。もちろん、クレムリンによる全面的な支配下にあった。
1950年、新聞特派員として滞在していたパリに定住し始めた。スターリン主義を徹底して批判しつつも、社会主義への信念は揺るがなかった。だからと言うべきか、「もう一つの社会主義の道」を歩むキューバや毛沢東の中国への深い関心をもった。今ならそのキューバ論と中国論に「時代的限界」を指摘することはできようが、あの時代の〈胎動〉の中にあって読むと、同時代の社会主義と第三世界主義が抱える諸課題を抉り出して深く、刺激的だった。カロルの結語は、今なお忘れがたい。「キューバは世界を引き裂いている危機や矛盾を、集中的に体現」したがゆえに「この島は一種の共鳴箱となり、現代世界において発生するいかに小さな動揺に対しても、またどれほど小さな悲劇に対してであろうとも、鋭敏に反応するようになった」。
本書の重要性は、カストロやゲバラなど当時の指導部の多くとの著者の対話が盛り込まれている点にある。カストロらはカロルを信頼し、本書でしか見られない発言を数多くしているのである。だが、原著の刊行後、カストロは「正気の沙汰とも思えぬほどの激しい怒り」をカロルに対して示した。カストロは「誉められることが好きな」人間なのだが、カロルは、カストロが「前衛の役割について貴族的な考え方」を持ち、「キューバに制度上の問題が存在することや、下部における民主主義が必要であることを、頑として認めない」などと断言したからだろうか。それもあるかもしれない。同時に、本書が、刺激に満ちた初期キューバ革命の「終わりの始まり」を象徴することになるかもしれない二つの出来事を鋭く指摘したせいもあるかもしれない。
ひとつは、1968年8月、「人間の顔をした社会主義」を求める新しい指導部がチェコスロヴァキアに登場して間もなく、ソ連軍およびワルシャワ条約軍がチェコに侵攻し、この新しい芽を摘んだ時に、カストロがこの侵攻を支持した事実である。侵攻は不幸で悲劇的な事態だが、この犯罪はヨリ大きな犯罪――すなわち、チェコが資本主義への道を歩んでいたこと――を阻むために必要なことだったとの「論理」をカストロは展開した。それは、1959年の革命以来の9年間、「超大国・米国の圧力の下にありながら、膝元でこれに徹底的に抵抗するキューバ」というイメージを壊した。
ふたつ目は、1971年、詩人エベルト・パディリャに対してなされた表現弾圧である。
詩人の逮捕・勾留・尋問・公開の場での全面的な自己批判(そこには、「パリに亡命したポーランド人で、人生に失望した」カロルに、彼が望むような発言を自分がしてしまったことも含まれていた)の過程には、初期キューバ革命に見られた「表現」の多様性に対する〈おおらかさ〉がすっかり失せていた。どこを見ても、スターリン主義がひたひたと押し寄せていた。
フィデル・カストロは疑いもなく20世紀の「偉人」の一人だが、教条主義的に彼を信奉する意見もあれば、「残忍な独裁者」としてすべてを否定し去る者もいる。キューバに生きる(生きた)人が後者のように言うのであれば、私はそれを否定する場にはいない(いることができない)。その意見を尊重しつつ、同時に客観的な場にわが身を置けば、キューバ革命論やカストロ論を、第2次大戦後の世界史の具体的な展開過程からかけ離れた観念的な遊戯のようには展開できない。それを潰そうとした米国、それを利用し尽そうとしたソ連、その他もろもろの要素――の全体像の中で、その意義と限界を測定したい。(12月3日記)
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2016年11月8日
『映画芸術』2016年秋号/457号(2016年11月7日発行)掲載
2015~16年にかけて、われらが同時代の映画作家、チリのパトリシオ・グスマンの作品紹介が一気に進んだ。比較的最近の作品である『光のノスタルジア』(2010年)と『真珠のボタン』(2015年)を皮切りに、渇望久しくも40年ほど前の作品『チリの闘い』3部作(順に、1975年、76年、78年)がついに公開されるに至った。
前2作品を観ると、グスマンは、現代チリが体験せざるを得なかった軍事政権の時代を、癒しがたい記憶として抱え込んでいることがわかる。映画作家としての彼の出発点がどこにあったかを思えば、その思いの深さも知れよう。チリに社会主義者の大統領、サルバドル・アジェンデが登場した1970年、29歳のグスマンは映画学徒としてスペインに学んでいた。祖国で重大な出来事が進行中だと考えた彼は、71年に帰国する。人びとの顔つきとふるまいが以前とは違うことに彼は気づく。貧しい庶民は、以前なら、自分たちの居住区に籠り、都心には出ずに、隠れるように住んでいた。今はどうだ。老若男女、家族連れで街頭に出ている。顔は明るい。満足そうだ。そして、「平和的な方法で社会主義革命へと向かう」とするアジェンデの演説に耳を傾けて、熱狂している。貧富の差が甚だしいチリで、経済的な公正・公平さを実現するための福祉政策が実施されてきたからだろう。日々働き、社会を動かす主人公としての自分たちの役割に確信を持ち得たからだろう。
いま目撃しつつあるこの事態を映像記録として残さなければ、と彼は思う。『最初の年』(1971年)はこうして生まれた。翌72年10月、社会主義革命に反対し、これを潰そうとする富裕な保守層とその背後で画策する米国CIAは、チリ経済の生命線を握るトラック輸送業者にストライキを煽動する。食糧品をはじめ日常必需品の流通が麻痺する。労働者・住民たちはこれに対抗して、隠匿物資を摘発し、生産者と直接交渉して物資を入手し、自分が働く工場のトラックを使って配送し、公正な価格で平等に分配した。グスマンはこの動きを『一〇月の応答』(72年)として記録した。労働者による自主管理の方法を知らない人びとが参考にできるように。
73年3月、事態はさらに緊迫する。総選挙で形勢を逆転させようとしていた保守は、アジェンデ支持の厚い壁を打ち破ることができなかった。米国の意向も受けて、反アジェンデ派は、クーデタに向けて動き始める。軍部右派の動きも活発化する。今こそ映像記録が必要なのに、米国の経済封鎖による物不足はフィルムにまで及んでいた。グスマンは、『最初の年』を高く評価したフランスのシネアスト、クリス・マルケルにフィルムの提供を依頼する。マルケルはこれに応え、グスマンはようやく次の仕事に取り掛かることができた。これが、のちに『チリの闘い』となって結実するのである。
この映画でもっとも印象的なことのひとつは、人びとの顔である。チリ人のグスマンも驚いたように、街頭インタビューを受け、デモや集会、物資分配の場にいる民衆の表情は生き生きとしている。もちろん、73年3月以降、クーデタが必至と思われる情勢の渦中を生きる人びとの顔には悲痛な表情も走るが、革命直後には、人びとの意気が高揚し、文化表現活動も多様に花開くという現象は、世界中どこでも見られたことである。チリ革命においても、とりわけ71~72年はその時期に当たり、グスマンのカメラはそれを捉えることができたのだろう。カメラは、また、富裕層の女性たちの厚化粧や、いずれクーデタ支持派になるであろう高級軍人らのエリート然たる表情も、見逃すことはない。人びとの顔つき、服装、立ち居振舞いに如実に表れる「階級差」を映し出していることで、映画は十分に「時代の証言」足り得ていて、貴重である。この映画が、革命によって従来享受してきた特権を剥奪される者たちの焦りと、今までは保証されてこなかった権利を獲得する途上にある者たちとの間の階級闘争を描いていると私が考える根拠は、ここにある。
従来の特権を剥奪される者が、国の外にも存在していたことを指摘することは決定的に重要である。チリに豊富な銅資源や、金融・通信などの大企業を掌握していた米国資本のことである。アジェンデが選ばれることになる大統領選挙の時から反アジェンデの画策を行なってきた米国は、三年間続いた社会主義政権の期間中一貫して、これを打倒するさまざまな策謀の中心にいた。反革命の軍人を訓練し、社会を攪乱するサボタージュやストライキのためにドルをばら撒いた。先述した73年3月の総選挙の結果を見た米大統領補佐官キッシンジャーは、それまでアジェンデ政権に協力してきたキリスト教民主党の方針を転換させるべく動き、それに成功した。この党が、73年9月11日の軍事クーデタへと向かう過程でどんな役割を果たしたかは、この映画があますところなく明かしている。このキッシンジャーが、チリ軍事クーデタから数ヵ月後、ベトナム和平への「貢献」を認められて、ノーベル平和賞を受賞したのである。血のクーデタというべき73年「9・11」の本質を知る者には、耐え難い事実である。米国のこのような介入の実態も、映画はよく描いている。
グスマンの述懐によれば、この映画はわずか五人のチームによって撮影されている。日々新聞を読み込み、人びとから情報を得て、そのときどきの状況をもっとも象徴している現場へ出かけて、カメラを回す。当然にも、すべての状況を描き尽くすことはできない。地主に独占されてきた「土地を、耕す者の手に」――このスローガンの下で土地占拠闘争を闘う、農村部の先住民族マプーチェの姿は、映画に登場しない。チリ労働者の中では特権的な高給取りである一部の鉱山労働者が、反革命の煽動に乗せられてストライキを行なう。世界中どこにあっても、鉱山労働者の背後には鉱山主婦会があって、ユニークな役割を果たす。彼女たちはどんな立場を採ったのか。描かれていれば、物語はヨリ厚みを増しただろう。全体的に見て、民衆運動の現場に女性の姿が少ない。これは、チリに限らず、20世紀型社会運動の「限界」だったのかもしれぬ。現在を生きる、新たな価値観に基づいて、「時代の証言」を批判的に読み取る姿勢も、観客には求められる。
自らを「遅れてやってきた左翼」と称するグスマンは、なるほど、いささかナイーブに過ぎるのかもしれない。当時のチリ情勢をよく知る者には深読みも可能だが、映画は、左翼内部の分岐状況を描き損なっている。アジェンデは人格的にはすぐれた人物であったに違いなく、引用される演説も心打つものが多い。彼を取り囲んだ民衆が、「アジェンデ! われわれはあなたを守る」と叫んだのも事実だろう。同時に、先述した自主管理へと向かう民衆運動には、国家権力とは別に、併行的地域権力の萌芽というべき可能性を見て取ることができる。いわば、ソビエト(評議会)に依拠した人民権力の創出過程を、である。アジェンデを超えて、アジェンデの先へ向かう運動が実在していたのである。
軍事クーデタの日、グスマンは逮捕された。にもかかわらず、この16ミリフィルムが生き永らえたことは奇跡に近い。それには、チリ内外の人びとの協力が可能にした、秘められた物語がある。ここでは、ともかく、フィルムよ、ありがとう、と言っておこう。
追記――文中で引用したグスマンの言葉は、El cine documental según Patricio Guzmán, Cecilia Ricciarelli, Impresol Ediciones, Bogotá, 2011.に拠っている。
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『反天皇制運動Alert』第5号(通巻87号、2016年11月8日発行)掲載
国際報道で気になることがあると、BSの「世界のニュース」を見たり、インターネットで検索したりする。今年9月から10月にかけての、南米コロンビア報道はなかなかに興味深かった。50年もの間続いた内戦に終止符を打ち、政府と武装ゲリラ組織との間に和平合意が成る直前の情勢が報道されていたからである。ゲリラ・キャンプが公開されて、各国の報道陣が入った。ゲリラ兵士の家族の訪問も許された。名もなきゲリラ兵士が「これからは銃を持たずに社会を変えたい」と語っていた。幅広い年齢層の女性の姿が、けっこう目立った。FARC(コロンビア革命軍)には女性メンバーが多いという報道が裏付けられた。「戦争が終わるのを前に、FARCがウッドストックを開催」というニュースでは、ゲリラ兵士が次々と野外ステージに立っては歌をうたい、さながらコンサート会場と化した。平和の到来を心から喜ぶ姿が、あちこちにあった。
キューバ革命の勝利に刺激を受けて1964年に結成されたFARCは、闘争が長引くにつれて初心を忘れ、麻薬の生産や密売で資金を稼いだりもしていた。彼らによる殺害、誘拐、強制移住の犠牲者は民間人にまで広がり、数も多かった。それでもなお、若いメンバーの加入が途絶えることがなかったのは、絶対的な貧困が社会を覆い、働く者の手に土地がなかったからである。9月26日に行われた和平合意文書への署名式で、ゲリラ指導者は「我々がもたらしたすべての痛みについてお詫びする」と語った。対するサントス大統領にしても、前政権の国防相として行った苛烈なゲリラ壊滅作戦では事態が解決できなかったからこそ、大統領就任後の2012年以降、キューバ政府の仲介を得ての和平交渉に臨んできたのだろう。
私が注目したのは、和平合意の内容である。FARCは政党として政治参加が認められ、2018年から8年間、上・下院で各5議席が配分される。犯罪行為を認めた革命軍兵士の罪は軽減される(8年の勤労奉仕)。FARCの側でも、土地、牧場、麻薬密輸や誘拐・恐喝で得た資金の洗浄に利用した建設会社などすべての資産を、内戦の犠牲者への賠償基金として提供する。合意成立後180日以内にすべての武器を国連監視団に引き渡す――などである。
中立的な立場からして、政府は大きくゲリラ側に譲歩したかに見える。ここに私は、政治家としてのサントス大統領の資質を見る。同国を長年苦しめてきた悲劇的な内戦を終結させるためには、この程度の「譲歩と妥協」が必要だと考えたのだろう。歴代政府とて、そしてそれを支える暴力装置としての国軍や警察とて、無実ではない――そう思えばこその妥協点がそこにあったのだろう。サントスはブルジョア政治家には違いないが、こういう態度こそが、あるべき「政治」の姿だと思える。
サントスは、政治家としての責任感から、人びとより「先」を見ていた。果たして、合意から1週間後に行われた国民投票で、和平合意は否決された。投票率は低く、僅差でもあったから、この結果が「民意」を正確に反映しているかどうかは微妙なところだ。だが、「ゲリラへの譲歩」に納得できないと考える被害者感情が国民投票では勝ったのだ。
教訓的である。アパルトヘイトを廃絶した南アフリカの1990年代半ば、従来のように報復によってではなく、真実の究明→加害者の謝罪→犠牲者の赦し→そして和解へと至るという、画期的な政治・社会過程をたどる試みがなされた。南アフリカにおいても、加害者にあまりに「寛大な」方法だとの批判は絶えずあった。それでも、その後、かつて独裁・暴力支配などの辛い体験をしたさまざまな国・地域で、同じような取り組みがなされて、現在に至っている。コロンビアの人びとが、この重大な局面での試練に堪えて、和平のためのヨリよき道を見出すことを、心から願う。
日本社会も応用問題を抱えている。南北朝鮮との「和平合意」をいかに実現するかという形で。「慰安婦問題」や拉致問題の解決がいまだにできないのは、過去の捉え返しと、それに基づく対話がないからである。責任は相互的だが、「加害国」日本のそれがヨリ大きいことは自明のことだ。コロンビアの和平合意の過程と、その一時的挫折は、世界の他の抗争/紛争地域に深い示唆を与えてくれている。(11月5日記)
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2016年9月5日
『反天皇制運動Alert』第3号(通巻385号、2016年9月6日発行)掲載
まもなく「9・11」がくる。多くの人が思い起こすのは、15年前、すなわち2001年のそれだろう。ハイジャック機が、唯一の超大国=米国の経済と軍事を象徴する建造物に自爆攻撃を仕掛けたあの事件を、である。もちろん、これは現代史の大きな出来事である。だが、ここでは、43年前、すなわち1973年の「9・11」を思い起こしたい。私の考えでは、これもまた、世界現代史を画する大事件のひとつである。
南米チリで軍事クーデタが起こり、その3年前に選挙を通して成立した、サルバドール・アジェンデを大統領とする社会主義政権が倒されたのだ。このクーデタは、内外からの画策が相まって実現した。チリに多大な経済的な利権を持つ米国支配層は、新政権の社会主義化政策によって、それまで恣に貪ってきた利益が奪われることに危機感をもった。CIAを軸に、アジェンデ政権を転覆させるための政治的・経済的・民心攪乱的な策動を直ちに始めた。チリ国内にも、それに呼応する勢力は根強く存在した。カトリック教会、軍部、地主、分厚い上流・中産階層などである。3年間、およそ千日にわたる彼らの合作が功を奏して、軍事クーデタは成った。
当時、私はメキシコにいた。そこでの生活を始めて、2ヵ月半が経っていた。軍事クーデタのニュースに衝撃を受け、日々新聞各紙を買い求めは熟読し、ラジオ・ニュースに耳を傾けていた。9月末頃からだったか、左翼・右翼を問わず亡命者を「寛容に」受け入れる歴史を積み重ねてきているメキシコには、軍政から逃れたチリ人亡命者が大勢詰めかけてきた。いずれ、その中の少なからぬ人びとと知り合いになるが、初期のころ新聞に載った一女性の言葉が印象的だった。「記憶」で書いてみる。愛する男(夫か恋人)が軍部によって虐殺されたか、強制収容所に入れられたりしたかのひとだったろう。「相手を奪われて、セックスもできない日々が続くなんて、耐え難い」。軍事クーデタへの怒りが、このように語られることに「新鮮さ」を感じた。
2010年、チリ軍事クーデタから37年を経た時期に、大阪大学で或る展覧会とシンポジウムが開かれた。軍政下のチリで、女性たち創っていた「抵抗の布(キルト)」(現地では、アルピジェラ arpillera と呼ばれている)の意味を問う催しだった。私もそこへ参加した。アジェンデ社会主義政権に荷担していた男たち(左翼政党員、労働組合員、地域活動家など)が根こそぎ弾圧されて、ひとり残された女たちが拠り所にしたのが、抵抗の表現としてのキルト創りだった。一般的に言えば素朴で拙い表現とも言えるが、下地には「いなくなった」人のズボンやシャツ、パジャマの生地が使われている。語るべき「言葉」を持っていた男たちが消されたとき、言葉を奪われてきた女たちは別な形で「表現」を獲得した。それが、軍政下の抵抗運動の、「核」とさえなった――岡目八目ながらも、私はそのことの意義を強調した。そして付け加えた。チリ革命の只中で実践された文化革命的な要素がそこには生きているのではないか。すなわち、表層的な政治・社会革命に終わるのではなく、人びとが置かれている文化環境(従来なら、北米のハリウッド映画、ディズニー漫画、コミック、女性誌など、一定の価値観を「それとなく」植えつける媒体が圧倒的な力を揮っていた)に対する地道な批判活動が展開されていたからこそ、軍政下で「抵抗の布」の活動が存在し得たのではないか、と。
アジェンデ社会主義政権下の試行錯誤の実態と、軍事クーデタ必至の緊迫した状況を伝える パトリシオ・グスマン監督のドキュメンタリー『チリの闘い』(1975~78年制作)がようやく公開される。社会主義政権の勝利を願う「党派性」をもつ人びとがカメラを担いでいる。だが、現実は仮借ない。激烈な言葉が宙に舞い、現実はまどろっこしくもひとつも動かない状況を写し撮ってしまう。デモや集会に目立つのは若い男たち。女たちは、日常品不足のなか生活用品獲得に精一杯だ。撮影スタッフは5人程度だったというから、まぎれもなく進行していた〈階級闘争〉の攻防は主として都市部で撮影され、先住民族の土地占拠闘争が進行していたチリ南部農村地帯の状況はスクリーンに登場しない。〈欠落〉を言えばキリがない。だが、進行中の〈階級闘争〉の現実をここまで描き出した記録映画は稀だ。この状況下で、どうする? ああすればよい、こうすればよい――戸惑いつつも、何ごとかを決断して、前へ進まなければならぬ。
40年前のこの映画には、今を生きる私たちの姿が、描き出されている。(9月4日記)
映画『チリの闘い』に関する情報は以下へ→
https://www.facebook.com/Chile.tatakai/
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2016年8月9日
『反天皇制運動 Alert』1号(通巻383号、2016年7月12日発行)掲載
1991年12月、ソ連体制が崩壊した時、理念としての社会主義とその現実形態の一つとしてのソ連に対する思いとは別に、たいへんな激動の時代を生きているものだ、と思った。そして、この政治・社会の激動と併行して進行していた技術革新の重大な意味に突き動かされて、この分野には決して明るくはない私でさえもが身を投じたのが、それから数年後に急速に普及したインターネットの世界だった。メキシコ南東部の叛乱者たち=サパティスタが、自分たちがいるチアパスの山深い密林ではインターネットが使えないのに、媒介者さえいるなら、彼ら/彼女らが発したメッセージがその日のうちにでも世界中で受信されてしまうという事実に、心底、驚いた。この驚きが、大げさのようだが、私を変えた。1997年以降の私の発言の多くは(おそらく90パーセント近くは)、いつでもインターネット空間で読むことが可能だ。同時に、この言論がそこに、いつまで「浮遊」し続けるのか? と思うと、実のところ、こころ穏やかではない。
この新しい時代を意味づけている決定的な要素は、新自由主義的グローバリゼーションである。それが始まった契機に関しては、ソ連崩壊に2年先立つ、1989年11月のベルリンの壁の崩壊も付け加えたほうがよいだろう。私は、人類史の中で「地理上の発見」や「植民地化」の史実に、異なる地域に住まう人間同士の関係性を歪める画期的な意味を読みこんできたが、いま私たちを取り巻いている「グローバリゼーション」という状況も、それに匹敵する意味を持たざるを得ないだろうと考えてきた。いずれの現象もが、もっとも重要な要素としてもっているのは、異世界の「征服」という動機である。かつてなら、それを主導したのは国家であった。領土の拡大という、明快な目標もあった。今回のそれを主導するのは国家ではなく、米国・ヨーロッパ・日本の三極に根拠をもつ多国籍企業、複合企業、金融グループである(もちろん、そのなかでも米国が圧倒的なシェアを誇っている)。征服する側が国家ではないと同じく、征服される側も国家単位ではない。いわば、地球そのものである。技術革新が、生命操作のための遺伝子工学の分野でも驚くべき展開を遂げていることを見ても、「征服」の対象は、生命体としての人間そのものであり、それを取り巻く自然環境にまで及んでいることがわかる。
日本国の現首相は、「企業がもっとも活動しやすい国にする」と世界に向けて常々アピールしている。彼の本音には常に、内向きの偏狭な国家主義があるが、その一方、国民国家・主権・国境・独立・民主主義など、「国家」が成り立つにあたって根源をなしているはずの諸「価値」を、大企業や大金融資本の利益の前になら惜し気もなく差し出すことを公言し、それを実行しているのである。グローバリゼーションの時代とは、こんな風に引き裂かれた人間を悲喜劇的にも生み出してしまうのだが、「引き裂かれた」とはいっても、国家主義的なポーズは国内基盤を固めるのに役立ち、後者の開国主義は、グローバリゼーションを推進する勢力によって歓迎されているのだから、本人は自己矛盾も感じることなく、心は安らいでいるのかもしれぬ。
英国のEU(欧州連合)離脱をめぐる国民投票の結果を見つめながら、グローバリゼーションの暴力的な力に翻弄されて〈ゆらぐ〉人びとの心に触れた思いがした。ここでいう「人びと」とは、もちろん、ロンドン金融街の「シティ」で活躍している人びとを指してはいない。労働党が明確に「残留」方針を示したにもかかわらず、その支持層の相当部分が離脱に投票したという報道に接して、たとえばケン・ローチが好んで描く普通の、あるいは下層の労働者が現実にはどんな選択をしたのか、と気にかかったのである。2015年度の英国の移民純増数は33万人、その半数以上が、英国で労働ビザを取得することなく就業できるEU加盟国出身者だ。とりわけ、ポーランド、ルーマニア、ブルガリアなどからの新規移民に対して、英国人の雇用を奪うとか公共サービスを圧迫するなどという警戒心が広がっている現在、この生活保守主義的な傾向が、あの階級社会に生きるふつうの労働者や家族の間でどう機能したのか。一定の「理」がないではない生活保守への傾斜を、極右・排外主義と結合させない担保をどこに求めるのか。問題は、鋭角的に提起されている。
ドーバー海峡のむこうの「島国」でのみ燃え盛っている対岸の火事ではない。フランスでも、ドイツでも、米国でも、そしてこの日本でも――グローバリゼーションの時代を生きる地球上のすべての者が逃れることのできない問いに対して、英国人が最初の回答を出したのだ、と捉える視点が必要だ。(7月9日記)
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2016年4月4日
『反天皇制運動カーニバル』37号(通巻390号、2016年4月5日発行)掲載
私が鶴見俊輔の仕事に初めて触れたのは、高校生のころに翻訳書を通してだった。米国の社会学者、ライト・ミルズの『キューバの声』の翻訳者が鶴見だった(みすず書房、1961年)。表紙カバーには、原題 “Listen , Yankee” (『聴け、ヤンキー』)の文字が浮かび上がっていた。1960年夏まで(ということは、キューバ革命が勝利した1959年1月からおよそ1年半の間は)ミルズはキューバについて考えたこともなかった、という。だが60年8月、キューバの声は「空腹民族ブロックを代表する」(原語はどうだったのか、「空腹民族」とは言い得て妙な、「面白い」表現だ)ひとつの声だと悟ったミルズは、急遽キューバを訪れ、フィデル・カストロやチェ・ゲバラはもとより市井の多くの人びとと会って話を聞き、それを「代弁」するような書物を直ちにまとめた。米国は「空腹世界のどのひとつの声にも耳をかたむけることをしないということが許されないほどに強大で」あることに気づいたからである。原書は60年末までに刊行されたのであろうが、61年3月には日本語版が発行されている。改訂日米安保条約強行採決に抗議して東工大教官を辞したばかりの翻訳者・鶴見をも巻き込んでいた「時代」の熱気を感じる。
オバマ米大統領のキューバ訪問についての報道を見聞きしながら思い出したことのひとつは、ミルズのような米国人も存在していたのだということである。当時のケネディ大統領も含めた米国の歴代為政者が、もしミルズのような見識(他民族・他国の独自の歩み方を尊重し、米国がこの国に揮ってきた政治・経済の強大な支配力を反省する)の持ち主であったならば、半世紀以上にもわたって両国間の関係が断絶することはなかったであろう。軍事侵攻によってキューバ革命の圧殺を図った過去を持つ米国の大統領としてキューバを訪れたオバマは、人権問題をめぐってキューバに懸念を示す前に、言うべき謝罪の言葉があったであろう。キューバが深刻な人権侵害問題を抱えているというのは、私の観点からしても、事実だと思う。だが、自国の過誤には言及せず、サウジアラビアやイスラエルによる人権侵害状況にも目を瞑り、むしろこれを強力に支えている米国が、選択的に他国の人権問題を批判することは、二重基準である。米韓合同軍事演習は、通常の何気ない言葉で表現し、朝鮮が行なう核実験やミサイル発射のみを「挑発」というのと同じように――大国とメディアが好んで行なうこの言語操作が、いつまでも(本当に、いつまでも!)人びとの心を幻惑しているという事実に嘆息する。
1903年以来米国がキューバに持つグアンタナモ海軍基地を返還するとオバマが語ってはじめて、キューバと米国は対等の立場に立つ。グアンタナモとは、裁判もなく米軍に囚われて虐待されているアルカイーダやタリバーンなどの捕虜の収容所だけなのではない。1世紀以上の長きにわたって、米軍に占領されているキューバの土地なのだ。他国にこんな不平等な関係を強いて恥じない大国の傲慢さを徹底して疑い、批判するまでに、世界の倫理基準は高まらなければならない。
オバマはキューバからアルゼンチンへ向かった。後者には、十数年ぶりに右派政権が成立したからである。各国が軒並み軍事独裁政権であった時代に、米国主導の新自由主義経済政策によって社会に大混乱をもたらされたラテンアメリカ諸国には、20世紀末から次々と、米国の全的支配に抵抗する政権が生まれた。二十数年間続いてきたこの流れは、この間、一定の逆流に見舞われている。だが、全体を見渡すと、この地域に、いま戦乱はない。軍事的緊張もない。1962年のキューバ・ミサイル危機を思い起こせば、感慨は深い。東アジア、アラブ、ヨーロッパ、北部アフリカなどの地域と比較すると、それがよくわかる。かつてと違って、米国の軍事的・経済的・政治的なプレゼンス(存在)が影をひそめたことによって、社会の安定性が高まったからである。巨大麻薬市場=米国と、悲劇的にも国境を接するメキシコが、10万人にも上る死者を生み出した麻薬戦争の只中にある事実を除けば。
米国の「反テロ戦争」を発端とするアラブ世界の戦乱が北アフリカ地域にも飛び火している、悲しむべき状況を見よ。60年以上も続く、朝鮮との休戦協定を平和協定に変える意思を米国が示さぬために、米韓合同軍事演習と朝鮮の「先軍路線」の狭間で、「(金正恩の)斬首作戦」とか「ソウルを火の海にする」とか、熱戦寸前の言葉が飛びかう東アジア情勢を見よ。
米国の「存在」と「非在」が世界各地の状況をこれほどまでに左右すること自体が不条理なことだが、その影響力を減じさせると、当該の地域には「平和」が訪れるという事実に、私たちはもっと自覚的でありたい。(4月1日記)
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2016年3月7日
『反天皇制運動カーニバル』第36号(通巻379号、2016年3月8日発行)掲載
アラブ地域の現情勢を指して、「世界戦争」とか「第三次世界大戦の始まり」と呼ぶ人びとが目立つようになった。いわゆるイスラーム国には、欧米を含む世界各地から数多くの義勇兵が駆けつけている。シリアに対する空襲は、国連安保理常任理事国を構成する5ヵ国のうち中国を除く米英仏露の4ヵ国によってなされている。この構図を見るにつけても、「世界戦争」という呼称は、あながち、大げさとは思えなくなる。その社会的・政治的メッセージの鮮烈さにおいて群を抜く現ローマ教皇フランシスコは、2015年11月13日パリで起きた同時多発攻撃事件を指して「まとまりを欠く第三次世界大戦の一部である」と表現した。国家単位の戦闘集団ではないイスラーム国が、世界各地に自在に軍事作戦を拡大する一方、これに対して「反テロ戦争」の名目で諸大国が(あくまでも表面的には)「連携している」という意味で、第一次とも第二次とも決定的に異なる、現下の「世界戦争」の性格を巧みに言い当てているように思われる。
この「世界戦争」という構図の枠外に位置しているかのように見える、残りの安保理常任理事国=中国も自らの版図内に、北京政府から見れば「獅子身中の虫」たる新疆ウイグル自治区を抱えている。多数のイスラーム信徒が住まうこの自治区は、世界的な「反テロ戦争」のはるか以前から、中国内部に極限された「反テロ戦争」の中心地であった。北京政府の強権的な政策(ウイグル人の土地の強制収用、漢民族の大量移住計画、ウイグル人に対する漢民族への徹底した同化政策、信仰の自由に対する抑圧など)に反対する人びとによる爆弾闘争が散発的に繰り返され、これに対する弾圧も厳しかったからである。圧政を逃れて、トルコなどへ亡命しているウイグル人も多い。その人びとの心の奥底に、イスラーム国に馳せ参じる若者たちに共通の心情が流れていても、おかしくはない。事実、2013年10月には、ウイグル人家族がガソリンを積んだ車で天安門に突入し自爆する事件も起こっている。北京政府を標的にした軍事攻撃は、イスラーム国のそれにも似て、すでにして辺境=新疆ウイグルに留まることなく、首都中枢にまで拡散しているのだといえる。
私は、今年1月に行なわれた中国の習近平主席のサウジアラビア、エジプト、イラン訪問に(訪問先の選び方も含めて)注目したが、各紙報道にも見られたように、これは明らかに、ユーラシアをシルクロードで結ぶ「一帯一路」の経済圏構想を具体化するための布石であった。これを実現するためには、新疆ウイグル自治区の「安定」が不可欠である。だが、同時に、習近平は知っていよう――新疆ウイグル自治区は、イスラーム国の浸透が顕著なカザフスタン、キルギス、タジクなどのイスラーム圏共和国と天山山脈を境にして接する同一文化圏にあることを。中国政府は、現在、チベットや新疆ウイグル自治区に対する政策を人権侵害だとする欧米諸国からの批判は「二重基準(ダブル・スタンダード)」だとして反発している。だが、この地域での蠢動を続けるイスラーム国の軍事攻撃が、さらに国境を超えていくならば、現在は別個に行なわれている欧米諸国と中国の「反テロ戦争」が、共通の「敵」を見出して合体するときがくるかもしれない。そのとき、ローマ教皇がすでに始まっているとみなしている「第三次世界大戦」はいっそうの「世界性」を帯びざるを得ない。
他方、中国は、中央アジアを離れて、東アジア地域においても重要な位置をもっている。去る3月2日、国連安保理事会は、朝鮮民主主義人民共和国が行なった核実験と「衛星打ち上げ」に対して、同国に出入りするすべての貨物の検査を国連加盟国に義務づけ、同国への航空燃料の輸入禁止を含む大幅な制裁決議を採択した。制裁強化を躊躇っていた中国も、最終的にはこれに賛成した。中国の四大国有商業銀行は、従来は米ドルに限っていた朝鮮国への送金停止措置を、人民元にまで拡大している。
3月7日には、朝鮮が激しく反発している米韓合同軍事演習が始まる。朝鮮半島は、残念なことに、「第三次世界大戦」の一翼を担う潜在的な可能性をもち続けている。
ここでは、否定的な現実ばかりを述べたように見える。もちろん、たゆまぬ反戦・非戦の活動を続ける人びとが世界的に実在している(いた)からこそ、世界はこの程度でもち堪えている(きた)ことを、私たちは忘れたくない。(3月5日記)
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2016年3月2日
『反天皇制運動カーニバル』第35号(通巻378号、2016年2月9日発行)掲載
朝鮮民主主義人民共和国(以下、朝鮮)が予告した「衛星打ち上げ」についての報道状況を知るために、久しぶりにNHKのテレビニュースを点けた。たまに観るだけだが、ちょうど桜島噴火報道と重なったために、朝鮮報道と災害報道に懸けるNHKの「熱意」は半端なものではない、とあらためて思う機会ともなった。いずれも、視聴者の危機感を煽りたてるためには、この上ない材料なのであろう。神戸大震災と「3・11」を経験したいま、万一の場合に備えて、時々刻々の災害報道が必要なことは言を俟たない。そのことを認めたうえで、NHK的な危機煽りの報道によって「組織」される人びとの心の動きを注視することも、止めるわけにはいかない。
朝鮮の「衛星打ち上げ」についても、飛行経路に近い地域の自治体の対応ぶりが事細かに報道されている。ミサイルの2段目ロケットが上空を超えることになる沖縄県宮古市、同じ先島諸島の石垣市、地対空誘導弾パトリオット3(PAC3)が配備されている航空自衛隊基地のある那覇市などの動きに加えて、「部品が落下する恐れがある」航行危険区域を示す漁業安全情報が各漁協に徹底周知されたなどという文言に接すると、ひとは当然にも、「今、ここにある危機」を持つよう、精神的に駆り立てられる。ひとというものは、ときに哀しい存在だとつくづく思う。情緒に巻き込まれ、自らすすんで「危機」を択びとってしまうのだ。
しかも、この情景には既視感がある。日米防衛協力のために新ガイドライン(指針)を実施に移すための、周辺事態法などの関連法案が国会で審議されていた小渕政権下の1998-99年の時期である。ソ連体制はすでに崩壊し、旧ソ連の日本侵攻を想定して作られていた旧ガイドラインは実質的に失効した。今や朝鮮半島有事などの「周辺事態」に際しての物資の輸送や補給など米軍への後方支援や、米軍に民間の空港・港湾を使用させることなどおよそ40項目を盛り込んだ対米支援策が論議されていた。
そのさなかの1998年8月、金正日指導下の朝鮮はいわゆるテポドンを発射した。それは東北諸県を横切って、三陸沖に落下した。翌99年3月、朝鮮の高速艇が能登半島沖に現われた。これを「不審船」による領海侵犯と見た海上自衛隊と海上保安庁が追跡し、威嚇射撃も行なった。この段階で、「朝鮮有事」は実際にあり得ることだとの実感が、人びとの心に浸透した。ガイドライン法案は国会を通過した。
このころ、元陸上自衛隊人事部長・志方俊之はいみじくも述懐している――日本人には、太平洋戦争の経験に基づく本能的な恐怖がふたつある。空襲とシーレーン喪失の恐怖である。テポドン発射と不審船の横行は、まさにこの恐怖心の核心を衝くものだった。民心は大きく動き、自民党政権が何十年もかかってもできなかった新段階の防衛政策の採用へと大きく前進することができた、と(『諸君!』1998年12月号)。彼が言外に語っていることは、以下のように解釈できよう。表面的には激しく対立しているかに見える日米の軍産複合体支配層と朝鮮の独裁体制は、その軍事優先政策を国内的に納得させるためには、裏面で手を結び合っている、と。国家の枠組みの中での駆け引きとして行われる国際政治に貫かれているこのリアリズムを、私たちは頭に入れておかなくてはならないと私は思う。
朝鮮といえば、蓮池透著『拉致被害者たちを見殺しにした安倍晋三と冷血な面々』(講談社、2015年)と題する本を読んだ。同氏と私が『拉致対論』(太田出版)を刊行したのは2009年だった。民主党政権成立時に重なり、対朝鮮外交への提言的な要素も盛り込んだ。だが、それまで自民党政権を支えてきた外務官僚が急に発想の転換を行なうはずもなく、それを促す力量が政権に備わっているわけでもなかった。民主党政権の3年間は無為に過ぎた。そのあとには、何かといえば拉致問題解決のために「あらゆる手段を尽くす」と見栄を切る安倍晋三が再登場したが、対朝鮮外交における無為無策は一目瞭然である。しびれを切らした蓮池は、「拉致問題を利用して首相にまで上り詰めた」人物に過ぎない安倍の姿を描いている。この問題の裏面を知り尽くしているだけに、視界が開ける。同時に蓮池は、拉致被害者家族会事務局長を任じていた時期の自分が、政府を対朝鮮強硬路線に駆り立てた過去にも、自己批判をこめて触れる。
朝鮮と日本の関係性をめぐる問題は、さまざまな顔貌をして、私たちの眼前にある。情緒に溺れることなく、歴史的な視点を手放さずに、冷静に向き合い続けたい。(2月6日記)
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