2019年12月4日
『反天皇制運動 Alert』第42号(通巻424号、2019年12月3日発行)掲載
幼いころ、地方都市にあっても、お寺・神社・教会は程遠からぬ場所にあった。通夜や葬儀の時に意味も分からず出入りさせられたのはお寺で、それ以外には立ち入る機会も稀だったが、子ども心にもそれらは日常生活を離れた不思議な異空間で、興味を惹かれた。でも、そこからは過大な影響力を受けずに成長し、気づいたときには確信的な無神論者になっており、現在もそうである。
カトリック教が、けっこう真剣な追究の対象になったのは青年期だ。1964年、作家・堀田善衛のエッセイで、15~16世紀のカトリック僧、ラス・カサスの存在を知った。コロンブスの大航海とアメリカ大陸への到達を契機に始まったスペインの「新大陸征服事業」が、先住民族への虐待・強姦・虐殺・奴隷化に満ちていることを告発した、国王宛ての直訴文を書いた人物だ。当時、この著書の日本語訳はなく、原書を入手して読み、その内容に心底驚いた。同じ時代、キューバから届く新聞・雑誌には、見事なデザインのポスターが入っていて、銃を手にするカトリック僧がよく描かれていた。キリスト者が、本来なら根源的に希求しているはずの社会的正義の実現を等閑にして、民衆に抑圧的な体制に与するばかりのカトリック教会の現状を批判して、反体制ゲリラに身を投じる僧や尼僧が生まれていた。
キリスト教の初源的な意図を実現するためには、マルクス主義の立場に立つ人びととの対話・交流を積極的に求めるカトリックの左派潮流は、当時「解放の神学」派と呼ばれていた。ラス・カサスや彼らの著作を読むことで、イエス・キリスト、十字軍、魔女裁判、宗教改革などのキーワードを通して生半可な知識しか持たない10代半ばころの状況に低迷していた私のキリスト教理解は、我ながら少しは深まったと思えた。
今回来日したフランシスコ教皇の立ち居振る舞いと言動に対する私の関心は、この延長上にしかない。通常の国家の形とは違うとはいえ、世界最少のこの国家=バチカン市国は、世界じゅうに13億人もの信者を擁していることで、無視できない影響力を世界の政治・社会・思想に及ぼしている。現教皇は、とりわけ、核・環境・気候変動・貧困・移民・死刑制度などの問題に関心が深く、率直な発言を厭わないことで知られる。そこで、日本のリベラル派の中からは、フランシスコ教皇と安倍政権の立場を対立的なものと捉え、前者の率直な物言いが後者を揺るがすような効果を期待する声も、事前には聞かれた。だが、バチカン市国といえども「国家」、その最高責任者に外交「儀礼」や「内政不干渉」原則を超越した役割を期待することは、国際政治のリアリズムに反すると私は考えていた。理想・夢・希望を語りかける政治家が世界から消滅したからといって、ひとりの「精神的な権威」がなし得るかもしれない発言に過大な期待を寄せることは、私たちの弱さの反映だ。しかもこの場合、期待が寄せられている人物は、一宗派の宣教を最大の課題とする者に他ならない。
今回のフランシスコ教皇の発言の中で私が注目したのは次のくだりだ。「武器の製造、改良、維持、商いに財が費やされ、築かれ」ること自体が「途方もない継続的なテロ行為」だとする長崎での発言である。「核廃絶」に焦点を合わせるメディア報道では、これは重要視されなかった。今回の教皇来日については、メディア挙げての大報道がなされた割には「泰山鳴動して鼠一匹」の感が深い。
教皇来日の意味を考えようとして幾冊もの本を読んでいて、収穫もあった。ジョルジョ・アガンベンの『いと高き貧しさ――修道院規則と生の形式』(みすず書房、2014年)である。13世紀にアッシジの聖フランチェスコが創設したフランシスコ会の修道院規則と、そこを共同生活の場とする修道士たちの日々の関係を考察対象とした本である。所有権を拒否すること、「いかなる権利ももたない権利」を掲げることの意味、法権利の外部で生きるとはどいうことか、「国家」という形を取らない政治の可能性――など、「解放の神学」派の宗教者たちが取り組んだ課題が、そこでも切実な形で浮かび上がっていて、示唆的だ。
(12月1日記)
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2019年11月5日
『反天皇制運動 Alert』第41号(通巻第423号、2019年11月5日発行)掲載
去る10月24日に流れたスペインからのニュースに注目した。独裁者フランシスコ・フランコ(1892~1975)の棺は、死亡した年以来ずうっと首都マドリード郊外にある国立慰霊施設「戦没者の谷」に埋葬されてきた。だが、18年6月に登場した社会労働党のサンチェス首相は、同施設が元独裁者の崇拝施設と化していることを問題視した。長期にわたる独裁時代を経験した国々では、どこでも、その時代を懐かしむ遺族を含めた旧利権層が一定の割合で存在し続ける一方、住民を分断・支配した旧時代の弊害を克服しようとする動きも活性化する。後者は「歴史の記憶と和解」のための努力と言えよう。サンチェス首相は、サバテーロ元政権期に成立した法律に基づいて、半世紀近く前に死んだ独裁者の墓所の移転を閣議決定し、反発した遺族は裁判に訴えたが、今年9月最高裁は移転を認める判断を下していた。こうして、先日、遺族らが担いだフランコの棺は「戦没者の谷」から運び出され、ヘリコプターで30キロ離れた墓地に移送され、妻が眠る家族の墓に埋葬された。
10年ほども前だったか、私がスペインを訪れたときの書店には、スペイン内戦期(1936~39)やフランコ独裁期(1939~75)の回想録と研究書がそれこそ山のように積まれていた。前者が終わって70年有余、後者の終焉からも30年以上は経っていた。癒しがたい記憶に刻まれた時代を冷静に振り返るには、それほどの年月が必要なんだよ――スペインの友はそう言った。
韓国もまた、1960年代初頭から80年代半ばまで長く続いた軍事独裁政権時代の「清算」に取り組む国である。「嫌韓」意識が蔓延る日本社会では見ようとしない人が多いが、その作業は多面的に行なわれており、この間もっとも目立つのは検察改革をめぐる激しい攻防だろう。検察は軍事独裁下で捜査権と起訴権を独占し、警察も常に検察の指揮権下に組み込まれた。法務省の役職は検事出身者が占めるようになり、大統領府要職にも検察の高級官僚が就いた。軍事政権から代わった歴代文民政権は、不公正な検察機関の改革の必要性を訴えてきた。金大中、盧武鉉両政権は裁判所システムの改善には一定の力を発揮したが、検察改革では大きな壁にぶつかった。そこで、文在寅は、もっとも重要な公約として検察改革を掲げたのである。眼目は二つあって、高位公職者犯罪捜査処の新設と警察に一次的捜査終結権を付与する検察・警察捜査権の調整だという。いずれも、検察の政治権力化を防ぐのが目的だ。
文在寅の全幅の信頼を受けていた曺国前法相は、「命をかけて検察改革を成し遂げる」と語っていた(『週刊金曜日』10月25日号)。それは、最強の韓国検察が「どんな権力も屈服させることができる力を持ちながら、主権者である国民からは統制されず牽制もされない」からである。家族をめぐるスキャンダルをテコに取った検察の「人質」捜査に晒されながら、曺国は「検察改革案」を発表して、見取り図を示してから辞任した。この「攻防」の構造に目を向けず、法相一家の「醜聞」にのみ異常な関心を示した日本のテレビ・メディアの衰弱ぶりは、もはや言うも虚しいが、度し難い。
さて、東京都八王子市長房町にある皇室墓地(武蔵陵墓地)には「武蔵野陵」と呼ばれる上円下方墳があって、昭和天皇裕仁が埋葬されている。広く東アジアの近現代史を顧みる時、「歴史の記憶と和解」のためには、自民族中心主義者+排外主義者の拠り所となるこの墓所そのものを撤去すべきだとする思想と行動は、この社会にいつ現われるだろうか――私たちの世代では実現できていない「不甲斐なさ」を自覚しつつ問うてみる。裕仁がここに埋葬されてから、まだ30年しか経っていない。埋葬から44年後の独裁者・フランコの棺の移転は、ブルジョア政治の枠内でも実現された。私たちが直面している事態とは、いくつもの条件を異にしていても、スペインと韓国で進行中の「歴史の記憶」を留める作業から学ぶべきことは、多々ありそうだ。私たちが未だに「過去克服」をなし得ていないからこそ、現在の政治・社会・思想状況の泥沼の中に「停滞」しているからには……。
(11月2日記)
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2019年9月24日
『米海軍横須賀基地兵士アンケートを読む――私たちの「ともだち作戦」』(非核市民宣言運動・ヨコスカ+ヨコスカ平和船団=発行、2019年9月)所収
私がときどき焼酎や日本酒を買う地元の酒屋さんのモットーは「★あせらず★あわてず★あきらめず★あくせくせずに★あてにせず」である。角打ちコーナーがあるので、毎日のようにメールで、「今日入荷した酒と用意するおつまみ」の案内がくる。メールの末尾にいつも付いてくるこの文言を読むたびに、私にはそれが「非核市民宣言運動・ヨコスカ」のモットーのように思えてくる。自らの立ち位置をしっかりと定めて右往左往せず、他人の力を当てにせずに、悠然と(?)わが道を行く……とでもいうような。
同運動が2016年から18年にかけて11日間かけて行なった「米海軍横須賀基地兵士アンケート」と題する『私たちの「ともだち作戦」』の暫定報告書を読んだ。「軍隊には反対でも、働いている兵士は同じ街に住む〈ともだち〉だ」という気持ちにあふれた「作戦」で、私が勝手に、この運動のモットーと推定した精神がここでも貫かれていると思える。
112人の兵士がアンケートに答えたという。兵士の年齢・性別・出身地・所属機関・入隊の動機・仕事の内容などの統計を見ても、私のような外部の者が言えることは少ない。「横須賀市民にひとこと」の項目で、兵士の心の襞に辛うじて触れたか、と思えるくらいだ。私に言えることは、これら現役の若い兵士の背後に浮かび上がってくる、幾人もの米国の元兵士たちについての思いだ。
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まず、Veterans for Peace (平和を求める元軍人の会)の人びとがいる。米国が行なってきて、自らも兵士としてどこかで参画させられてきた戦争の本質に気づいた元兵士たちの組織である。来日ツアーを企画しては、横須賀、広島、長崎などを回り、自らの戦争体験に基づく反戦・平和の活動を行なっている。辺野古では新基地建設に抗議する座り込み活動にも参加している。現在沖縄に住む友人、ダグラス・ラミスが、この元兵士の運動に参加しているのは、1936年生まれの彼が1960年には海兵隊員として沖縄に駐留したからだろう。翌61年には除隊したが、その後の彼の長年にわたる反戦・平和活動は、兵士としての経験に基づく貴重な証言によって裏打ちされている。本土が戦場になった経験を持たず、常に海外を戦場とした戦争を続けている米国に「戦争が帰ってくる」という彼の分析は核心を突いている。戦場での経験からPTSD(心的外傷後ストレス障害)に苦しむ元兵士が、帰国後に引き起こす家庭内暴力や銃の乱射事件などは、「帰ってきた戦争」そのものだからだ。
国際政治学者、チャルマーズ・ジョンソンは『アメリカ帝国への報復』(集英社、2000年)や『帝国解体:アメリカ最後の選択』(岩波書店、2012年)などの著作を通して、「軍事基地帝国」を維持することに憑りつかれている米国の政策に対する厳しい批判者であった。1931年生まれの彼(2010年逝去)は、1950年に始まる朝鮮戦争に従軍した。彼は戦車上陸用舟艇LST883に乗り、中国義勇軍捕虜を北朝鮮側に運ぶ作戦にも従事した。この舟艇に乗って横須賀に停泊したことから、日本への関心を深めた。除隊後、彼は中国・日本などのアジア研究者となるが、その原点にあるのも、すでに見たように、兵士としての朝鮮戦争体験なのだろう。
私が随時参照するアメリカ史は、ハワード・ジンの『民衆のアメリカ史』全3巻(TBSブリタニカ、1993年)と『学校では教えてくれない本当のアメリカの歴史』全2巻(あすなろ書房、2009年)である。ジンの名は、1960年代の公民権運動やベトナム反戦運動の重要な担い手として、早くから知っていた。その後彼の本を読むようになって、1922年生まれの彼は第二次世界大戦に従軍し、「優秀な」空軍爆撃手として働いたことを知った。革新的な歴史家の若いころの素顔に、私は心底驚いた。
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こうして私ひとりの体験に即して振り返ってみても、アメリカ帝国内部から聞こえてくる強力な反戦・平和の声を発しているのは、元兵士たちなのである。軍隊内でどれほど「アメリカ・ファースト」の価値観や米国が行なう戦争の「絶対的な正義」を叩き込まれようとも、現実の戦場で行なわれた自国軍の殺戮行為・無差別爆撃・焦土作戦などのむごさと傲慢さに、市井の一庶民に戻った元兵士たちの心が疼いたのだろう。
「非核宣言市民運動・ヨコスカ」の人びとが行なってきている月例デモ、米兵士アンケート、米基地ゲート前での英語によるスピーチなどが〈持ち得る〉意味合い=可能性は、ここでこそ明らかになる。
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もうひとつの視点からも、この問題を考えてみよう。私は韓国の作家、黄晳暎と同年生まれである。1960年代後半、当時の韓国の朴正煕軍事政権は、米国との同盟関係を強固なものにするためにその要請に応えて、ベトナムへ韓国軍を派兵した。徴兵制度の下で、若き黄晳暎もベトナムへ派遣された。その後作家となった黄晳暎は、例えば『駱駝の目玉』のような短編(中上健次編『韓国現代短編小説』、新潮社、1985年)や『武器の影』(岩波書店、1989年)のような長編で、自らのベトナム戦争体験を、こころに迫る形で描いた。私はかつて、黄晳暎論を書いたが、そのとき心に留めたのは、同じ東アジア地域に生きていながら、同世代の人間の中には、国によっては徴兵されて侵略兵としてベトナムへ派遣された者もいれば、他方、徴兵制はなく、ましてや軍隊不保持と戦争放棄を定めた憲法に守られて、海外へ派兵されるどころか、軍隊への入隊そのものを強いられることのなかった私たちもいるという、存在形態の〈差異〉を重視することだった。もちろん、後者の場合にあっては、憲法9条の本源的な精神に相反することに、日米安保条約の下で日本各地に米軍基地が存在し、そこからベトナムを爆撃する戦闘機が絶え間なく飛び立っていたことから、日本は明らかにベトナム侵略に加担していた事実を忘れることなく。
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「非核宣言市民運動・ヨコスカ」には「高い理想を掲げない」というモットーもあるようだ。足元の地道な実践を大事にしたいという戒めだろう。でも、「私には夢がある」と敢えて言いたい。「ひとを殺す兵士という仕事が地球上から消えてしまう日を夢見るという夢」が……。それは、軍隊のない世界、したがって戦争のない世界、ということである。人びとは誰でも、他人を活かし、自分を活かす仕事に就くということである。この夢は,結局のところ、幸いなことに兵士になることを強いられることなく育つ人びとと、一時にせよ兵士として生きざるを得なかった辛い経験を通して「戦争を拒否せよ!」の意志を固めた元軍人たちとの協働作業の果てに実現されるものなのだろう。いまだ見ることのできないその協働作業を、横須賀の人びとは米海軍横須賀基地の兵士たちに呼びかけているのだ。人類史のどこかの時点で、それが実現されるだろうという夢を、私は手放したくない。
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2019年9月2日
『反天皇制運動 Alert』第39号(通巻421号、2019年9月3日発行)掲載
「慰安婦問題」に関わる朝日新聞の過去の報道をめぐって、不当極まりないキャンペーンが繰り広げられた直後の2015年、私は『「外圧に抗する快感」を生きる社会』という文章を書いた【それは『〈脱・国家〉状況論』(現代企画室、2015年)に収録してある。】
新たな視点を加えて、再論したい。ブルジョワ国家はもちろん自称「革命国家」も、国家の名において積み重ねた悪行と愚行ゆえに、人びとの心が「国家」から離れ始めた時期を一九六〇年代後半と措定してみる。その根拠を、ベトナム反戦運動、パリ五月革命、プラハの春、全共闘運動、カウンター・カルチャーなどが孕んでいた思想的可能性に求める。ジョン・レノンは世界に広く浸透したその心情を捉えて、「国なんてものがないと想像してみよう。それは難しいことではない。そのために殺したり死んだりするようなものがないということは」という言葉に形象化して「イマジン」を創った。1971年のことだった。
強権的な「国家」の限界を見極めた人びとの間から新たな動きが始まったのは、この時期と重なっている。城内秩序の確立のために「国民」に強制力を働かせがちな個別国家の枠組みの中では解決が不可能な問題に関して、国際条約や規約によって枷を嵌める動きが具体化し始めたのだ。「国際人権規約」の「政治的、社会的及び文化的権利に関する国際規約(A規約)」や「市民的及び政治的権利に関する規約(B規約)」などがそれである(1967年発効。日本も批准)。その後も、女性、子ども、障碍者、先住民族、拷問禁止・死刑廃止など従来の〈弱い〉存在の権利を確立するための国際条約が成立している。
1991年、ソ連邦が崩壊した。今度は「国家」の儚さが、人びとの胸に染み渡った。同時に、東西冷戦という戦後構造によって蓋をされてきた、つまり、地下に封印されてきた諸矛盾が吹き上がった。植民地支配・奴隷制度・人種差別主義・侵略戦争など、強大な国家が近代以降の長年にわたって国境を超えて犯してきた国家犯罪に対して、被害地域の個人が抗議の声を上げ始めたのである。遅すぎる、確かに。
だが、権力装置として圧倒的な優位に立つ「国家」を前にした個人の力は、これほどまでに微弱だと捉えるべきだろう。同時に、先に触れた「国際人権条約」は、国家による人権侵害を受けた人びとが「救済措置」を受ける権利を定めていること、および「戦争犯罪及び人道に対する罪に対する時効不適用に関する条約」(1970年発効。日本は未批准)が存在していることに注目したい。2001年には「人種主義、人種差別、排外主義、および関連する不寛容に反対する世界会議」が、長年続いたアパルトヘイト(人種隔離体制)を廃絶して間もない南アフリカのダーバン市で開かれた。旧加害者側と被害者側の合意が簡単に得られるはずもないが、歴史を捉え返す作業は、21世紀を迎えてここまで来ているのである。植民地支配の責任を全面的にとった国は、歴史的先行者の欧米諸国でも一つもない。だが、被害国と加害国とのあいだで、個別には「謝罪・補償」が成立している実例があることは本欄でもたびたび触れてきた。それには、加害の側が従来固執してきた〈遥か昔のことを蒸し返すな〉〈植民地主義は、かつて時代精神そのものであった〉〈現在の価値基準で過去を裁くな〉などの一方的な立場を、〈少しは〉改めたことを意味している。
徴用工問題を、20世紀末から21世紀初頭にかけてのこの世界的な分脈の中においてみる。このような価値観と歴史認識の変革が未だなされていなかった1965年に成立した二国間条約を盾に、加害の側が「すべて解決済み」「非可逆的な解決方法」と言い募るのは、理に適っていない。2002年、朝鮮国の拉致犯罪(それは確かに酷いものである)に関わってあの一方的で排外主義的な情報操作を許した私たちは、2019年のいま、徴用工問題をめぐる官民挙げての反韓国キャンペーンに直面しているのだという繋がりの中で事態を把握したい。政府も官僚もメディアも民間も、いわば社会挙げて「宗主国」意識を払拭できていないからこそ、現在の状況は生まれているのだ。
(9月1日記)
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2019年8月9日
『反天皇制運動Alert』第38号(2019年8月6日発行、通巻第420号)掲載
参議院議員選挙の結果を見ながら、選挙の前にも存在していた、そして後にも続く「政治」のことを思った。選挙とは、今やあたかも、「一日だけの主権者」が「代議員」を選んでしまうだけの行事と化している。「選ばれる」者は、絶対得票率から言えば全主権者の16~20%程度を獲得できただけなのに「全権」を委託されたと居直り、「選ぶ」側は必要な時にはリコール権を行使しなければ選挙はその意義を半減させてしまうことにも無自覚に、すべてを議会任せにしてしまう。その繰り返しの果てに、「議会制民主主義」はひどく形骸化した。世界じゅうでそうだが、とりわけ現在の日本は、惨! の極致だ。
今回は、選挙だけに拘泥せずに、「政治」そのもののことを考えてみる。去る7月27日は、朝鮮戦争休戦協定締結(1953年)から66年目を迎えた記念日だった。休戦協定締結から66年も経ていながら、それを平和協定に進展させる「政治」を行ない得なかった者は誰か。共和国で言えば、金日成、金正日、金正恩の3人だ。韓国で言えば、李承晩以降の大統領は12人を数える。この戦争の当事国である米国も、休戦協定以後の交渉には必要欠くべからざる存在だが、66年間には12人の大統領が在任した。この「政治家」たちはいずれも、この66年間の「政治的無為無策」への責任を、軽重はあっても何らかの形で負っている。金正恩、文在寅、トランプは在任中だから、行く末を見なければならないとしても、朝鮮半島の住民は、こんな「政治」への怒りを心の底に秘めているに違いない。あるいはこんな「政治」を変えることができない主権者であるはずの自己の無力を託つか。
朝鮮国には「選挙」の自由もなければ「リコール」の権利もない。そこで行なわれてきた「政治」の責任は、第一義的に3代の独裁者に帰せられよう。韓国の場合は、軍政時代もあり、66年間を一様に論じるわけにもいかない。日本も、休戦協定問題の直接の当事国ではないが、朝鮮に対する植民地支配の加害国として、広く朝鮮半島の平和のためにどれほど積極的な政策を行なってきたかという観点から、66年間の「政治」のありようが厳しく問われざるを得ない。この一、二年の動きを見ても、和平へと向かう南北の歩みを歓迎せずに、むしろ妨害者としてふるまってきた過去が審問に付されよう。
さて、同じ年1953年の前日、7月26日は、キューバの革命運動開始記念日だった。フィデル・カストロらが、バチスタ独裁政府軍のモンカダ兵営を攻撃した日である。その後のキューバ革命運動の主体が「7・26運動」と名乗るのは、この日付を記念日としたからである。それから6年後の1959年、カストロたちは独裁政権を打倒して、革命は勝利した。したがって、今年は革命から60周年の年に当たる。
武装闘争で勝利した革命家たちはどんな「政治」を行なってきただろうか。革命初期、社会的公正さを確保する政策路線の下で、教育・医療・福祉などの分野で第三世界の国としては画期的な達成を遂げ、「先進国並み」との評価を得たことは事実だが、その後はどうか。下からの民主主義・言論と表現の自由・生活必需品の保障・軍隊(革命軍)の文民統制・選挙とリコール権などの観点で見た場合はどうか。旧ソ連に象徴された20世紀型社会主義の「限界」がそこでも露わになっていることは明らかだ。
私は権力者には何の共感も持たないが、朝鮮・韓国・米国・キューバの民衆の心の動きと動静は気になる。日本の私たちと同じように、「政治」のあまりのひどさに怒り、絶望しているだろうか。ヨリましな「政治」に、小さくはあれ幸福感を抱いているだろうか。いずれにせよ、「政治」の在り方は、所与の社会に生きる人びとの生死をこれほどまでに牛耳るものであるのに、為政者が冷酷なブルジョア代表であれ、初心は理想と夢に燃えていた革命家であれ、現状ではどの社会にあってもろくな「政治」もろくな「選挙」も行われていないことには疑いようもない。人類は、「政治」や「選挙」の賢いやり方をいまだに弁えてはいない時代を生きている。
(8月2日記)
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『反天皇制運動 Alert』第37号(2019年7月9日発行、通巻第419号)掲載
6月末から7月初めにかけてのわずか10日間強に行われたトランプ米国大統領の言動から浮かび上がる現在の状況をおさらいしておきたい。6月24日、トランプ氏は或る私的な会話で「不平等な日米安保条約は破棄」とか「米軍基地の移設は、米国からの土地の収奪」と語った(米ブルームバーグ通信)。同月26日、大阪でのG20会議への出発直前には、「もし日本が攻撃されたら、米国は第三次世界大戦を戦うが、米国が攻撃されても日本はソニーのテレビで見ているだけだ」と語った(米フォックスビジネステレビでのインタビュー)。同月29日、G20会議後の記者会見では「日米安保条約は不公平な合意だ。変えなければならないと(日本の首相に)伝えてきた」と述べた(各紙)。
何かといえば「強固な日米同盟」頼みの日本の政府・自民党にとっては、足元が強く揺らぐ思いだろう。事実、野上官房副長官は、29日のトランプ発言をうけて「日米間で日米安保条約の見直しといった話は一切ない」と否定した。政府と外務官僚は嘘に嘘を重ねていくから、特権的な立場にない一般民衆が、歴史の歩みから教訓を得る機会を奪い去ってしまう。トランプがいう「片務性」は、60年日米安保改定に取り組んだ岸信介にとっては、米国を納得させるうえでの難題となって立ちはだかった(原彬久編『岸信介証言録』、毎日新聞社、2003年)ことくらいは、正直に頭に入れて発言するほうがよい。また、プーチンとの何回もの会談を重ねて日露平和条約が近々にも実現し、「北方領土」が「戻ってくる」かのような「印象操作」を首相自らが行なってきた案件も、日米安保絡みの側面を持つとの自覚もないままの外交交渉だった。ロシアが、日米安保体制下にある日本に北方諸島を返還したらそこに米軍が駐留する可能性に対する危機感を持つことは当然だろう。「地球儀を俯瞰する外交」が、日米安保体制が日米両国に持っている多義的な意味合いを無視し、そして近隣諸国の人びとからはどう見えるかという複眼的な視点も欠いたままに、行なわれてきていることは致命的なことだ。
同時に、1960年から70年にかけては、トランプが言うのとは別な意味で「安保破棄論」が民衆運動の中に根づいていたのに、発効後70年近くを経た現在では安保体制そのものを問う問題意識が希薄化していることに目を向けたい。憲法9条を守るという気持ちを持ちつつ日米安保体制を肯定するひとが存在することは、沖縄の人びとから夙に指摘されていたが、それは2015年の戦争法案反対運動の中でヨリ露わになった。そのことを忘れるわけにはいかない。
さて、トランプに戻る。大阪G20の会議が終わる6月29日の朝、直後に韓国を訪問するトランプはツイッターで、南北非武装地帯での金正恩との会談の可能性に言及した。その後の経緯は誰もが知っている。二人の独裁者の内外施策に対する厳しい批判を持つ私も、この臨機応変な機会の生かし方には、感心する(二人の心に透けて見える、計算づくの思惑を超えて)。そして帰国したトランプは、7月4日の米国「独立記念日」に、ワシントンのリンカーン記念堂の前で「米国への表敬」式典を開き、「米国に不可能なことはない」と演説した。上空にはF35戦闘機やB2戦略爆撃機が飛び、さながら「軍事パレード」の様相を呈した。為政者がこのような式典を行なう時、独立の「本質」を問う声はいつも少ない。
わずか10日間に凝縮して表現されたトランプの言動には、これが「一流の」帝国主義国の指導者だと思わせるものがある。身勝手で、強烈な自己中心主義を臆面もなく貫き、それでいて、相手を選んで時に「柔軟な」貌も見せる。五流の亜流指導者の、自信なげな言動との差異を思い、こんな大統領を有する国との関係の在り方をリセットすることに立ちはだかる困難さを改めて思った。
(7月6日記)
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2019年5月31日
『反天皇制運動 Alert』第36号(通巻418号、2019年6月4日発行)掲載
多面的な視点を失い一元化された情報で埋め尽くされた日の新聞を読むのは辛い。そんなことが、とみに多くなった。もちろん、テレビニュースは論外だ。そうなるときのテーマははっきりしている――天皇制、対米関係、近隣諸地域との間で継続している植民地支配をめぐる問題などだ。いずれも、深く考え、正面から向き合って論議し、解決のための歴史的かつ現実的な手立てを取ることを、社会全体として怠ってきた問題だ。その結果が、「2019年という現在」のあちらこちらにまぎれもなく表れている。ツケは大きいものだとつくづく思うが、時すでに遅し、の感がしないではない。
そんな日はできるだけ小さな記事を探す。大文字で埋め尽くされた新聞の一面や政治面はほぼ読むに堪えないからだ。最近では、5月中旬、ドイツが植民地支配への反省を強調し、ナミビアへ石柱を返還するという〔ベルリン=時事〕の小さな報道が胸に残った。石柱は高さ3・5メートル、重さ1トンで、ナミビアが持つ海岸線のどこかに建てられていたが、ドイツ統治下の1893年に持ち去られたという。そして、欧米諸国や日本のように植民地主義を実践した国ではそうであるように、この「略奪美術品」は旧宗主国の首都の歴史博物館に麗々しく飾られていたのである。独文化・メディア相は返還を発表した記者会見の場で、「植民地支配は、過去と向き合う中で盲点になってきた」と語ったという。
個人的にはナミビアを含めた南部アフリカに深い思いがある。1980年代後半から90年代初頭にかけて、南部アフリカ地域に続く人種差別体制の歴史と現実に迫るために「反アパルトヘイト国際美術展」に関わり、同時に「差別と叛逆の原点を知る」一連の書物を企画・刊行した。1994年にはアパルトヘイト体制が撤廃されるという現実の動きを伴ったこともあって、忘れ難い記憶だ。なかに『私たちのナミビア』(現代企画室、1990年)という書物があった。独立解放闘争をたたかうナミビアの人びとと、植民地支配の歴史を自己批判したドイツ人とが協働企画として実現した社会科テキストである。戦後史の中で「教科書問題」が常に争点になってきている日本の現実を思うとき、示唆に満ちた本である。
2018年8月には、独政府がナミビアを植民地支配していた1884から1915年にかけて、優生学上の資料として持ち帰った先住民19人分の頭蓋骨などをナミビア政府に返還したという報道もあった。だが、持ち去られた頭部は数千体に及ぶとする説もある。それは、1904~08年にかけてドイツ領南西アフリカ(ナミビアは当時こう称されていた)で植民地政府の暴政に対し蜂起したヘレロ人とナマ人が虐殺された出来事と深く関わっていよう。上記教科書によれば、ヘレロ人の80%、ナマ人の50%に当たる総計7万5千人が犠牲となった。その頭部が持ち去られたというのである。
その後のドイツの20世紀前半の歩みを私たちは知っている。第一次大戦で敗北したドイツは海外植民地の多くを失うが、ドイツ軍守備隊がアフリカ植民地で使用していた褐色の軍服をナチ党が買い入れて突撃隊(SA)の制服にしたこと、SAは1920年にバイエルン評議会共和国を押し潰した反革命軍事力の内部からこそ生まれたが、その指揮を執ったのは、ナミビアの植民地叛乱鎮圧の手腕を認められたフランツ・フォン・エップ将軍であったこと。そして、優生学研究が行き着いた地点も……。過去の植民地叛乱鎮圧と現代史との接点が、生々しくも見えてくるのである。
日本の遺骨返還問題をここで思い出さざるを得ない。1930年代、北大らの学者は、北海道各地・サハリン(樺太)・千島列島にあったアイヌ墓地から、人種特定のために遺骨を掘り出した。同じことは、同じ時期の琉球諸島でも行われた。返還訴訟を2012年に始めたアイヌの場合は、一定の「成果」をみている。琉球の場合は、遺骨を保存している京大が調査と返還を拒否したために係争中である。加害者側がしかるべき言動を行なわない限り、植民地支配問題に「終わり」(=真の解決)の時は来ないと知るべきだろう。(5月31日記)
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2019年3月5日
『反天皇制運動 Alert』第33号(通巻415号、2019年3月5日発行)掲載
2001年9月11日、米国でハイジャックされた民間航空機が、軍事・経済上の象徴的な建造物に突っ込むという衝撃的な出来事が起こった。他国への侵略や空爆、ミサイル攻撃は絶え間なくやってきているが、自国本土が戦場になったことのない米国は、この事件によって戦争の悲惨さを初めて味わったはずだ。だが、この痛ましくも貴重な体験を、自国の過去の所業を内省する道に生かすことなく、米国は1ヵ月後には「反テロ戦争」という愚かな戦争を、またもや他国を戦場にして開始した。それはアラブ世界のみならず、欧州各地、米国、アフリカ、アジアにまで広がったまま、18年目を迎えている。米国が主導するこの戦争の現実を見ながら、一貫してこみあげてくる感慨が私にはあった。「北の超大国」=米国にもっとも近く、かつて政治的・社会的に不安定な情勢が続いていたカリブ・ラテンアメリカ地域が、ずいぶんと静かに、安定しているな……と。
この地域は、1959年のキューバ革命以降、東西冷戦のもっとも熱い現場であった。キューバに続こうとする反政府武装闘争が各地で起こり、米国はこれに対抗して各国の軍部にテコ入れしてゲリラを潰し、次々と軍事政権を成立させた。その頂点が1973年9月11日に起きた南米チリの軍事クーデタであった。その3年前の1970年、世界史上初めて選挙を通じて成立した社会主義政権を、米国はチリ国内の富裕層、極右勢力、軍部内右派の力を利用して打倒したのだ。米国と国際金融機関は、第三世界諸国に新自由主義政策を押し付ける最初の実験場として、軍政下のチリを選んだ。以後、この地域全体が、世界に先駆けて新自由主義路線によって席捲された。私たちも、その後この政策路線がどんな社会を作り上げるものであるかを、身をもって経験することになる。
手酷い経験を積んだラテンアメリカ地域では、1990年代以降、新自由主義を批判する民衆運動が盛んになった。多くの国々で、有権者は、グローバリズムに懐疑的か批判的な政治家を政権の座に就けた。20世紀末から21世紀初頭にかけて、この地域は、政府レベルにおいても民衆レベルにおいても、「反新自由主義」「反グローバリズム」の一大潮流を形成していた。それまで、政治的・経済的・軍事的に圧倒的な影響力をこの地域全体に及ぼしていた米国は、当然にもその存在力を失った。そのぶん、この地域は安定したのだ。軍政時代の圧政に関して真実を明らかにする試みがなされた。いくつかの国々は、相互扶助・連帯・協働の精神に基づいて貿易圏をつくり、「南の銀行」をつくり、欧米メディアによる独占を打破する独自のテレビ局を国境を越えて創設するなどの試行錯誤にも着手した。身勝手なふるまいをする大国が影響力を失うと、その地域社会は相対的に安定する。この事実は、しっかりと胸に刻むに値する。
この「反グローバリズム」潮流は、この間、逆流にさらされている。現在、問題がもっとも顕在化しているのはベネズエラだ。先に触れた、この地域における米国の存在感が薄れた時期にあっても、米国が石油大国=ベネズエラへの利害上の関心を失うことはなかった。2002年、反グローバリズムの推進者、前大統領チャベスを打倒しようとしたクーデタの試みの背後には、ブッシュ政権下の米国がいたことも明らかだ。現在、民衆を極限的な危機に追いやっている食糧と医薬品の欠乏は、米国による経済制裁によるところが大きい。過酷な経済制裁を科しながら、時至れば「人道支援」の名の下に救援物資を輸送するやり口も、常套手段だ。米国の罪は大きい。同時に、現マドゥーロ政権の反民衆的な政策を見逃すわけにもいかない。チャベス時代にはあった革命過程への大衆参加を欠いた独裁傾向、したがって集団的意思決定メカニズムの欠如、飢えた民衆の抗議行動に対する血の弾圧、重大な人権侵害を繰り返す治安部隊の放置、それゆえの軍関係者の重用、政治家の汚職――これらの現実を見れば、米国の介入と国内寡頭勢力の陰謀にだけ原因を帰していては、現在の事態を十全に把握できないことがわかる。これは、「革命」政権あるいは「改革派の」政権が基層の大衆から浮き上がるにつれて、世界のどこでも常に繰り返されてきたことだ。社会変革の過程の一つひとつが、独裁とも権威主義とも相容れない。それを譲ることの出来ない論理的根拠とした状況論が必要なのだ。 (3月2日記)
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2018年12月3日
『反天皇制運動 Alert』第30号(通巻412号、2018年12月4日発行)掲載
今から40年以上も前、私は当時放浪していたラテンアメリカ地域で幾度も陸路の国境を越えた。多くの場合、或る国の出国手続きを税関で終えると、次の国の入国税関までは、牧歌的な野山の風景の中を何百メートルか歩くと、目的の建物へ着いた。大都市に直結する国際空港と違って、陸続きの国境はどの国にとっても「辺境」にあって、税関にも必要最小限の人員しか配置されておらず、出入国手続きを管理してさえいればいいのさ、という印象を受けた。税関職員も、その国が厳格な軍事政権下にない限りは人懐っこく、あれこれ冗談を言いながら、ゆったりと「職務」を果たすのだった。国境付近に住む人たちは、お互いに旅券なしで自由往来しながら、お互いの田畑で収穫した物の売り買いや物々交換をしていた。それは、「国境」なるものの人為性を思わせられる光景であって、したがって、大げさに言えば、国境なき/国家なき「類的共同体」の未来像を幻視できる現場でもあった。
だが、最初に越えた国境は違った。ロサンゼルスでしばらく過ごした後、本来の目的地であるメキシコへ陸路で向かった。サン・ディエゴでグレイハウンド・バスを降りて、何車線もの広い車道の脇を通って、米国の出国税関に入る。メキシコへ向かう米国人の車はぎっしりだが、旅人以外に歩いている者はいない。無機質というかビジネスライクというか、およそ人間味のない応対を受けて後、しばらく歩いてメキシコ側へ着く。饒舌な税関職員とのやり取りを終えて、税関の外に一足歩み出ると、そこはカオスだ。荷物を持ってあげる、ホテルに案内するよ、タクシ―に乗らないか、ピーナツは要らないか、マンゴーだよ――ありとあらゆる声が掛かってくる。幼い子どもたちも多い。大丈夫、自分でやるし、今は要らない――と遮りつつ、こころは、なぜか、浮き立つ。人間臭いその雰囲気は、数週間過ごしたロサンゼルスのそれとはまったく違うのだ。メキシコ側の国境沿いのその町は、ティファナといった。見える景色、建物の様子、ひとの顔立ちも振舞い方も一変した。米国との貧富の差は、もちろん、歴然だ。メキシコを舞台にしたサム・ペキンパーの映画のシーンがいくつも目に浮かぶようだ。
それから45年、今この町には、主として中米ホンジュラスを出て米国への入国を目指す人びとが続々と詰めかけている。米国のトランプ大統領は、移住希望者の〈長征〉が始まるや否や、国境に軍隊を配備して入国を阻止すると豪語したが、数千キロの道を歩き続ける人びとは一様に「故国ではギャングによる殺人事件が多く、とても生きてはいられない」と語っている。他方、9千人もの移住希望者が一気に押し寄せてきて、治安・衛生管理などの面で不安を抱えたティファナの住民が「移民反対」の集会を開いたとか、国境の強行突破を試みた一部の人びとに対して、配備されている米国軍が催涙ガスを発射して撃退したとかのニュースも流れた。とうとうここまで来たか、と私は思った。
ホンジュラスといえば、20世紀初頭から半世紀、米国のユナイテッド・フルーツ社が思うがままに支配した「バナナ共和国」の先駆けだ。対米輸出に圧倒的に頼らざるを得ないホンジュラスの歪な経済構造は、そこから生まれた。20世紀後半の現代になっても、ラテンアメリカ地域は、大国と国際金融機関が主導するネオリベラリズム(新自由主義)の政策路線によって世界に先駆けて席捲されてきた。それは、貧しい第三世界諸国が、資産・所得の公平な再分配や福祉に重点を置いた社会改革政策を行なわないまま、市場原理を軸にした経済の自由化や規制緩和を押しつけられる路線だ。ネオリベラリズム路線は、その後先進国にも逆流して、日本でもとりわけ小泉・安倍政権下で推進され続けられてきているから、私たちも、企業に有利な労働条件・雇用形態の改定、福祉切り捨て、公共部門の廃止と民間「活力」の採用などの政策を通して、その破壊的な「猛威」を知っていよう。
この路線の下では、第三世界諸国の場合は、融資と引き換えに、国際収支の改善と債務返済を優先させられる。バナナやコーヒーの輸出で外貨を稼いでも、それは国内民衆に還元される以前に債務返済に充てられるのが条件だから、先進国に還流してしまう。その繰り返しだ。ホンジュラスでも、1990~94年のラファエル・カジェーハス政権がこの路線を推進した。それ以外の時期でも、例えば、隣国のニカラグアやエルサルバドルが革命的な激動の時代を迎えていた70年代後半から80年代初頭においても、米国は自らに忠実なホンジュラス政権を都合よく利用した。ニカラグアに革命政権が成立した1979年以降は、ホンジュラスの米軍基地を強化し、北部国境から反革命部隊(「コントラ」と呼ばれた)を侵入させて、革命を潰そうとした(これは、ケン・ローチ監督が1996年に制作した映画『カルラの歌』に描かれているから、ご覧になった方もおられよう)。2006年、ホンジュラスには珍しくも、マヌエル・セラヤを大統領とする中道左派政権が成立すると、米国は右翼を支援して、2009年のクーデタでこれを倒してしまった。その後いかなる性格の政権が出来て現在に至っているかは、推して知るべし、だろう。総人口920万人のうち貧困ライン以下の生活者は600万人を超えているという。対人口比の殺人事件発生率も世界一高い。それが、「移民キャラバン」に加わる人びとがいう暴力の根源なのだろう。
ジャーナリスト・工藤律子に、『マラス―暴力に支配される少年たち』と題するすぐれたルポルタージュがある(集英社、2016年。現在、集英社文庫)。ホンジュラスの若者ギャング団「マラス」を取材した本書は、今回の事態を予見したかのような好著だ。工藤によれば、ホンジュラスでマラスの存在が表面化したのは1990年代初頭である。新自由主義路線に忠実な、前記ラファエル・カジェーハス政権期に重なり合う。当時、米国はカリフォルニア州知事が、犯罪歴のある中米出身の若者たちを本国へ送還する追放策を実施していた。ホンジュラスにも3千人の若者が戻ってきた。
ラテン系住民がもともと多いカリフォルニア州では、1929年の世界恐慌以来、極貧状態・家庭崩壊・失業・雇用機会の欠如・低い教育水準・差別などの社会問題を背景に生まれた若者ギャグ団が「脈々と」受け継がれている。米国の移民政策には、レタスの収穫期のような繁忙期になれば「不法」入国者であっても雇用し、閑散期になると国外追放するという一貫した路線がある。これでは、右に挙げた社会問題が一向に解決され得ないことは、容易に見てとれよう。故国に追放された3千人の若者の、ホンジュラス→米国→ホンジュラスという往還をめぐる物語は個別にあるには違いないが、背景には共通のものがあろう。追放された1990年以降の時期にそれら若者の年齢が20代から30代であったと推定するなら、時代的には以下の共通の背景が考えられる。(1)米国政府と多国籍企業によるホンジュラスの政治・経済・社会の全的支配、それは同国の「国家主権」を侵すほどの水準だろうが、国内には米国に癒着してこそ利益が得られる一部寡頭階級が伝統的に形成されていよう。(2)若者たちは、その体制の下では仕事がないからこそいったん米国へ出たのだが、故国に戻っても、政権が追従している、社会的格差を是正する政策を欠いた新自由主義路線の下にあっては、働き口は容易には見つからなかっただろう。(3)社会の最下層に押し込まれた人びとが掴まされている、底辺に澱のように、しかも重層的に積み重なった「マイナスのカード」をひっくり返すのは容易なことではない。(4)ニカラグア革命を潰す「コントラ」戦争への加担を強いられる中で、圧倒的な軍事力を誇る超大国の「価値観」を多かれ少なかれ刷り込まれただろう。米国が、自分の国(ホンジュラス)に設置した軍事基地を最大限に活用して、他民族(ニカラグア)の土地で発動する「低強度戦争」を見て育った彼らは、超大国が「敵」にふるう有無を言わせぬ暴力の「価値」を、哀しくも、身体化せざるを得なかったかもしれない。
他にも共通の背景を挙げることはできようが、これで十分だろう。政治の任に当たる国内政治家とそれを支える外部勢力が、そこに生きる人びとがまっとうに生きることのできる条件を整備するどころか真逆の政策を採用し、それによって一部の者たち(外部の超大国と国際金融機関、および国内の少数支配層とその取り巻き連中)の手に富を集中させ、その路線を実現するために必要とあらば躊躇うことなく暴力(戦争)をふるう――これこそが、幼かった/少年だった/青年になりかけていた彼らが見せつけられ、身に染みて体験した世の中の現実だった。彼らが仕事を求めて行き着いたロサンゼルスで、またホンジュラスは首都のテグシガルパに送還されて、個人や集団(マラス)のレベルで、かの国家に似せたふるまいをしたところで、いったい誰がそれを非難できよう?
歴史的に見て、古今東西南北、「国家(=政府)」の側がこのような自らの所業について反省し、生き直すことはきわめて稀だ。ホンジュラスに対して一世紀以上にもわたって、右に見たような不正常な関係を一方的に押しつけてきた米国の現大統領の発言は、そのことを一点の曇りもなく証明している。だが、工藤の書『マラス』は、かつてこの集団に属して乱暴狼藉の限りを尽くしていた元若者が、その後送っている別な人生の在り方を、最終章「変革」で描いている。その前の章では「マラスの悲しみ」も描かれていて、「生まれつきのマラス」ではあり得ない人間の変革可能性が暗示されている。
ホンジュラスを出発した「移民キャラバン」の因果の関係をいくらか長く述べてきたのは、ほかでもない、「移民問題」に関わって日本の現状を対象化するために、である。排外主義的な本質を陰に陽に見せつけてきた安倍政権は、2018年6月、いわゆる「骨太の方針2018」を閣議決定し、新たな外国人労働者受入れ制度の創設を表明した。外国人労働者の導入は、安倍政権の支持基盤である排外主義的右翼層の離反を招きかねない「危険な」政策である。法務省が「出入国管理及び難民認定法及び法務省設置法の一部を改正する法律案の骨子について」を公表したのは10月12日のことだった。衆議院での審議入りは11月13日、それから2週間有余の現在(12月1日)、政府はろくな答弁もできないままに衆議院を強行通過させ、審議は参議院に回されている。審議が深まって、いろいろな現実があからさまになっては困るのだろう。外国人労働者を「雇用の調整弁」としか考えていない政府・企業・社会の現状では、移民受け入れの長い歴史の果てに現在がある米国とも違う深刻な問題を私たちは抱えることになるだろう。今ですら、食い物にされてきた実習生や性産業に働く女性たちの怨嗟の叫び声が、この社会の片隅には充満しているのだ。「偏見」が商売になり、政治家の嘘なぞには誰も関心を寄せなくなったこの社会には……。
(12月1日記)
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2018年11月5日
『反天皇制運動 Alert』第29号(通巻411号、2018年11月6日発行)掲載
『JSA』と題された韓国映画が日本で公開されたのは2001年だった(パク・チャヌク監督、イ・ビョンホン、ソン・ガンホ主演。製作は前年の2000年)。板門店の「共同警備区域」(Joint Security Area)で朝鮮人民軍の兵士が韓国軍兵士に射殺される事件を起点に、「許されざる」友情を育む南北の兵士たちの姿を描いた力作だった。見直さないと詳論はできないが、朝鮮国の兵士を独裁者の傀儡としてではなく「人格をもつ」人間として描いたことから、映画は退役軍人を主とする韓国保守層から厳しい批判を受ける一方、若年層が朝鮮への親近感を深めるきっかけとなったという挿話が印象的だった。
そのJSAの非武装化が、去る10月25日までに実現した。すべての武器と弾薬の撤収が完了したことを、南北の軍事当局と国連軍司令部が共同検証した。今後は、南北それぞれ35人ほどの人員が武器を持たずに警備に当たるという。これらはすべて、去る9月19日に当事者間で締結された「軍事分野合意書」に基づく措置だが、この全文は一読に値する。
→https://www.thekoreanpolitics.com/news/articleView.html?idxno=2683
4月27日の板門店宣言以降の5月間のうちに、軍事上の実務当事者同士が重ねた討議の質的な内容と速度とに驚くからである。それは、「無為に過ぎた」と敢えて言うべき以下の期間と対照させた時にはっきりする。JSAが設けられたのは、1953年7月27日の朝鮮戦争休戦協定によってだから、そこから数えると65年が経っている。朝鮮人民軍の兵士が米軍将校2人を殺害した1976年8月の事件以降、それまで非武装だった警備兵士たちが武装するようになった時から数えると、42年ぶりの非武装化ということになる。最後に、映画『JSA』の製作年度との関連で言うなら、四半世紀有余を経て進行している事態である。いずれにせよ、人類が刻む歴史では無念にも、これだけの時間を費やさなければ根源的な変化は起こらない。それを繰り返して現在があるのだが、いったん事態が動き始めた時の速度には目を見張るものがある。11月1日からは、陸・海・空の敵対行為も停止された。今後も困難を克服して、東アジア地域の平和安定化のための努力が実りをもたらすことを願う。
こう語る私の居心地の悪さは、どこから来るのか? 翻って私の住まう日本社会は、この平和安定化にいかに寄与しているかという問いに向き合わねばならず、現状では官民双方のレベルで、肯定的な答え方ができないからである。これまでも何度も指摘してきたが、2018年度になって和平に向かって急速に流動化している朝鮮半島情勢に関して、日本政府や(時に)マスメディアが、この動きに警戒心を示し、ひどい時にはこれを妨害するかのごとき言動を行なってきていることは、誰の目にも明らかであろう。軍事力整備の強大化、自衛隊および在日米軍の基地新設・強化を推進している日本政府の政策路線からすれば、東アジア世界で進行する平和安定化傾向は「不都合な真実」に他ならないからである。
そこへ、新たな難題が生まれた。韓国最高裁が、1939年国家総動員法に基づく国民徴用令によって日本の工場に動員され働かせられた韓国人の元徴用工4人が新日鉄住金を相手に損害賠償を求めた訴訟の上告審で、個人の請求権を認めた控訴審判決を支持し、同社に賠償命令を下したからである。西欧起源の「国際法」なるものは西洋が実践した植民地主義を肯定する性格を持つとの捉え返しが世界的に行われている現状を理解しているはずもない日本国首相が「判決は国際法に照らして、あり得ない」と言えば、メディアとそこに登場する「識者」の多くも「国と国との約束である請求権協定を覆すなら」国家間関係の前提が壊れると悲鳴を上げている。敗戦後の日本社会が、東アジアに対する加害の事実に正面から向き合い、まっとうな謝罪・賠償・補償を行なってきたならば、そうも言えよう。現実には、加害の事実を「低く」見積り、あわよくばそれを否定しようとする勢力が官民を牛耳ってきた。その象徴というべき人物が首相の座に6年間も就いたままなのである。植民地支配をめぐる歴史認識の変化を主体的に受け止めるための努力を止めるわけにはいかない。
(11月3日記)
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