現代企画室

現代企画室

お問い合わせ
  • twitter
  • facebook

状況20〜21は、現代企画室編集長・太田昌国の発言のページです。「20〜21」とは、世紀の変わり目を表わしています。
世界と日本の、社会・政治・文化・思想・文学の状況についてのそのときどきの発言を収録しています。

太田昌国のみたび夢は夜ひらく[111]「2002年拉致問題→2019年徴用工問題」を貫く変わらぬ風景


『反天皇制運動 Alert』第39号(通巻421号、2019年9月3日発行)掲載

「慰安婦問題」に関わる朝日新聞の過去の報道をめぐって、不当極まりないキャンペーンが繰り広げられた直後の2015年、私は『「外圧に抗する快感」を生きる社会』という文章を書いた【それは『〈脱・国家〉状況論』(現代企画室、2015年)に収録してある。】

新たな視点を加えて、再論したい。ブルジョワ国家はもちろん自称「革命国家」も、国家の名において積み重ねた悪行と愚行ゆえに、人びとの心が「国家」から離れ始めた時期を一九六〇年代後半と措定してみる。その根拠を、ベトナム反戦運動、パリ五月革命、プラハの春、全共闘運動、カウンター・カルチャーなどが孕んでいた思想的可能性に求める。ジョン・レノンは世界に広く浸透したその心情を捉えて、「国なんてものがないと想像してみよう。それは難しいことではない。そのために殺したり死んだりするようなものがないということは」という言葉に形象化して「イマジン」を創った。1971年のことだった。

強権的な「国家」の限界を見極めた人びとの間から新たな動きが始まったのは、この時期と重なっている。城内秩序の確立のために「国民」に強制力を働かせがちな個別国家の枠組みの中では解決が不可能な問題に関して、国際条約や規約によって枷を嵌める動きが具体化し始めたのだ。「国際人権規約」の「政治的、社会的及び文化的権利に関する国際規約(A規約)」や「市民的及び政治的権利に関する規約(B規約)」などがそれである(1967年発効。日本も批准)。その後も、女性、子ども、障碍者、先住民族、拷問禁止・死刑廃止など従来の〈弱い〉存在の権利を確立するための国際条約が成立している。

1991年、ソ連邦が崩壊した。今度は「国家」の儚さが、人びとの胸に染み渡った。同時に、東西冷戦という戦後構造によって蓋をされてきた、つまり、地下に封印されてきた諸矛盾が吹き上がった。植民地支配・奴隷制度・人種差別主義・侵略戦争など、強大な国家が近代以降の長年にわたって国境を超えて犯してきた国家犯罪に対して、被害地域の個人が抗議の声を上げ始めたのである。遅すぎる、確かに。

だが、権力装置として圧倒的な優位に立つ「国家」を前にした個人の力は、これほどまでに微弱だと捉えるべきだろう。同時に、先に触れた「国際人権条約」は、国家による人権侵害を受けた人びとが「救済措置」を受ける権利を定めていること、および「戦争犯罪及び人道に対する罪に対する時効不適用に関する条約」(1970年発効。日本は未批准)が存在していることに注目したい。2001年には「人種主義、人種差別、排外主義、および関連する不寛容に反対する世界会議」が、長年続いたアパルトヘイト(人種隔離体制)を廃絶して間もない南アフリカのダーバン市で開かれた。旧加害者側と被害者側の合意が簡単に得られるはずもないが、歴史を捉え返す作業は、21世紀を迎えてここまで来ているのである。植民地支配の責任を全面的にとった国は、歴史的先行者の欧米諸国でも一つもない。だが、被害国と加害国とのあいだで、個別には「謝罪・補償」が成立している実例があることは本欄でもたびたび触れてきた。それには、加害の側が従来固執してきた〈遥か昔のことを蒸し返すな〉〈植民地主義は、かつて時代精神そのものであった〉〈現在の価値基準で過去を裁くな〉などの一方的な立場を、〈少しは〉改めたことを意味している。

徴用工問題を、20世紀末から21世紀初頭にかけてのこの世界的な分脈の中においてみる。このような価値観と歴史認識の変革が未だなされていなかった1965年に成立した二国間条約を盾に、加害の側が「すべて解決済み」「非可逆的な解決方法」と言い募るのは、理に適っていない。2002年、朝鮮国の拉致犯罪(それは確かに酷いものである)に関わってあの一方的で排外主義的な情報操作を許した私たちは、2019年のいま、徴用工問題をめぐる官民挙げての反韓国キャンペーンに直面しているのだという繋がりの中で事態を把握したい。政府も官僚もメディアも民間も、いわば社会挙げて「宗主国」意識を払拭できていないからこそ、現在の状況は生まれているのだ。

(9月1日記)

太田昌国のみたび夢は夜ひらく[103]精神的な葛藤や模索の過程を欠く「紋切型」の言葉


『反天皇制運動 Alert』第31号(通巻413号、2019年1月15日発行)掲載

1980代の半ば頃だったか、某紙のジャーナリストに「何かと言えば、第三世界、第三世界……という物言いに、私は最近ウンザリしてきているんです」と言われたことがある。私が「低開発国」ボリビアの映画集団ウカマウの、〈映像による帝国主義論〉というべき作品の何本目かを輸入し公開するので、試写会へ来てもらえないかと電話した時の答えが、それだった。私には心当たりがある。「日本の繁栄はアジアをはじめとする第三世界の貧困の上に築かれているということを忘れるわけにはいかない」――これは当時の〈第三世界主義者〉たちの「決まり文句」になり始めていた。「紋切型の言葉」は、いつも、発語する者の精神的な葛藤や模索の過程を欠いている。だから、虚しく響くことがある。私も何度か言っただろう。私自身がその物言いに違和感をおぼえ始めて、何とかしなければと考えていた頃だった。決め台詞を吐く以前に、もっと歴史的・論理的な展開をしなければならない、と。高度消費社会の只中で、ひとり覚めている感じの物言いもよくない。だから、私に限らず、この種の言論や集会をよく取材してくれていた彼女の、率直な言葉が胸に響いた。

同じ頃の次の挿話も覚えている。吉本隆明が、川久保玲のコム・デ・ギャルソンの〈高価な〉衣装をまとったモデルとして『アンアン』誌に登場した。それを埴谷雄高が次のように批判した。――「吾国の資本主義は、朝鮮戦争とヴェトナム戦争の血の上に『火事場泥棒』のボロ儲けを重ねに重ねたあげく、高度な技術と設備を整えて、つぎには、『ぶったくり商品』の『進出』によって『収奪』を積みあげに積みあげる高度成長なるもの」を遂げた。そして、「アメリカの世界核戦略のアジアにおける強力な支柱である吾国の『ぶったくり資本主義』のためにつくしているあなたのCM画像を眺めたタイの青年は、あなたを指して、『アメリカの仲間の日本の悪魔』と躊躇なくいうに違いありません」(『海燕』4巻4号、1985年、福武書店)。

埴谷が、「国内の現実に依拠」した論理によってではなく、突然のように第三世界=タイの青年を持ち出して行なった吉本批判の在り方に危うさを感じた。私にとって思想的に最前線にいたはずの埴谷が、古めかしい〈社会主義者〉に見えた。吉本は独自のファッション論を展開した。「衣装のファッションの反対物は、すべての制服、画一的な事務服や作業服だ。ファッションが許されなかったあの戦争時代には、男性には二種類くらいの国民服が制定され、女性はモンペ姿が唯一の晴れ着であり、作業衣服であり、ふだん着だった。女性たちはわずかに生地の模様を変化させるくらいがファッション感覚の解放にあたっていた。統制と管理と、それにたいする絶対の服従が必要な権力にとっては、制服は服従の快い象徴にみえるし、ファッションはいわば秩序を乱す象徴として、いちばん忌み嫌われるものだった」(『アンアン』446号、1984年、マガジンハウス)。

ビートたけしがこの論争に介入し、ふたりを独特の方法で茶化した(筑紫哲也編集長時代の『朝日ジャーナル』誌上だったと思うが、いま手元にない。冴えていて、面白かった記憶だけが残っている)。埴谷-吉本論争は、ソ連体制が崩壊する6年前の1985年に展開された。これ以上の詳説や評価を行なう紙幅はないが、時代状況的にいってもいかにも示唆的なものを孕んでいた、と今にして思う。

韓国大法院が「徴用工」問題で日本企業に賠償を命じる判決を下して以降、植民地支配と侵略戦争をめぐる論議が日韓両国で改めて起こっている。このコラムでも繰り返し述べてきたが、20世紀末以降、植民地支配を「合法」としてきた従来の国際法解釈は、ヨーロッパ中心主義的偏向であるとして再審に付されている。植民地と被植民地の関係が非対称的であったことが問われているのである。日本政府、メディア、それに誘導された日本世論は、国際法の位置づけをめぐる捉え方の変化を認めず、「何を今さら」という反韓・感情論に流れるばかりである。しかも、安倍政権の持続が象徴するように、それを支える社会的な根っこは太く、根深い。私たちの議論が「決まり文句」や「紋切型」に終始せずに説得的なものであるためには、私たちもまた、その歴史観と論理性が問われていることを自覚したい。

(1月12日記)

私の裡での、大杉栄像の変貌――1963年から2014年まで


『大杉栄全集』第5巻「月報」掲載(2014年12月、ぱる出版刊)

私が学生時代をおくっていた1960年代に、現代思潮社版『大杉栄全集』は刊行された。1963年から65年にかけて、全14巻であった。高校を卒業するまでは、さして文献を深く読み込むこともないままに、漠然たる憧れの感情をソ連社会主義に対して抱いていたものであった。その頃までには『幻視の中の政治』に収められた埴谷雄高の政治論は読んでいたから、スターリン主義批判の問題意識は持ってはいたのだが。

創業まもない1960年代初頭の現代思潮社からは、レオン・トロツキー、ローザ・ルクセンブルグらの選集も刊行されていて、私の世代は、先行する世代とは異なって、マルクス、レーニンなどの文献と共に、トロツキーやローザの論文をも合わせ読むめぐり合わせとなったのだった。そこへ、大杉栄である。クロンシュタットの水兵叛乱やマフノ運動やアナキストに対する弾圧を断固として擁護するボリシェヴィキの公認文献や、いささか弱気に弁護する進歩派の論文と同時に、これを厳しく批判する大杉栄の論文を読む機会にも恵まれたのである。これは得難い機会であった。私がスターリン主義の呪縛から比較的に早くから解放されたとすれば、それは、ソ連邦で進行する事態を、何事もまだ〈理想〉と〈夢〉で彩って解釈するのが趨勢であった同時代にあって、冷静に批判的な分析を行ない得た大杉栄の存在に与ったところが大きいと思う。

大杉栄はその後も、政治的な文脈で、あるいは思想史的な領域でたびたび参照する対象であったが、昨年(2013年)は「大杉栄・伊藤野枝 没後90周年集会」で(東京)、今年(2014年)は「大杉栄メモリアル2014」で(新発田)、それぞれ公開の場で大杉をめぐって話す機会があり、久しぶりにじっくりと「大杉栄とその時代」をふり返る契機となった。時代は、極右政権が一定の民衆の支持を受けて成立し、近隣の諸民族に対するむき出しの憎悪と嫌悪の言葉が街頭で公然と吐き出される状況下にある。思いは、当然にも、大杉栄自身が「その時代」の犠牲者のひとりであった、1923年9月の関東大震災直後の朝鮮人虐殺の史実へと向かった。そこで、久しぶりに、姜徳相著『関東大震災・虐殺の記憶』(青丘文化社、2003年)を取り出した。これは、1975年刊の中公新書版『関東大審査』の新版である。

姜徳相氏はそこで、震災当夜の9月1日から始まる朝鮮人虐殺、川合義虎ら10人の日本人社会主義者たちが惨殺された9月3日~4日にかけての亀戸事件、そして大杉栄・伊藤野枝・橘宗一の3人が虐殺された9月16日の大杉事件――この3つを「並列して」論じる常識的な傾向に対して、厳しい疑義を唱える。時期、様態、そこへ至る経緯、規模、問題の「発覚」、権力と民意の反応、報道、加害者の処罰の有無などすべての面において、前一件と後二件との間には「共通性」が見られないことを指摘するのである。しかも、当時の労働組合運動の担い手や社会主義者たちは、亀戸事件と大杉事件の虐殺は非難したが、それに先んじてあれほどの規模で行なわれた朝鮮人虐殺の事実に対しては沈黙と無関心の立場に終始したことにも触れる。このような事実に即して事態を見るならば、日本人犠牲者と朝鮮人犠牲者とを、大震災後に起きたひと続きの「悲劇」によってもたらされたと捉えることは難しい。すなわち、民族・植民地問題という契機を導入して、あの時代に起きた「悲劇」を振り返るよう、読者を誘うのである。

大杉栄の『自叙伝』を再読していてこの文脈で再認識したこともある。大杉の父親は軍人であったことはよく知られているが、彼は日清戦争に従軍して、その戦功によって金鵄勲章も受けている。この史実を、次のような事態の中での参照事項と捉えることが重要だと思える。すなわち、関東大震災直後には戒厳軍が出て朝鮮人虐殺の先頭に立った。戒厳軍がそこで発揮した暴力の「質」を、「富国強兵」をめざした明治維新以降の軍事的体験の蓄積過程に据えることである。台湾出兵、日清戦争、韓国義兵闘争への弾圧、日露戦争、(韓国併合を挟んで)第一次世界大戦、そしてシベリア出兵――日本軍はわずか数十年の裡に、植民地で、あるいはその獲得をめざした土地で、これだけの戦争を絶えず繰り広げていた。

2014年、訪れた新発田の町には陸上自衛隊新発田駐屯地があって、その広報史料館には、旧日本軍が上記の戦争で収めた「赫々たる戦果」を誇る展示がなされていた。大杉栄を新たな視点で捉える作業が必要だという私の考えは、いっそう強まった。労働運動に関する発言は多かった大杉だが、植民地問題についてはどう捉えていたのか。「自由」と「叛逆」の精神や、悲劇的な死にのみ収斂させない大杉栄象が、いま、私たちには必要だ。

(2014年10月20日記)

1979→2014年 或る雑誌に併走した精神的スケッチ


『インパクション』第197号(休刊号、2014年11月25日発行)掲載

『インパクト』誌(後の名『インパクション』誌)が刊行されてきた1979年から2014年までの35年間に及ぶ事柄を、ある程度この雑誌の内容に即して併走しながら思い起こすことで浮かび上がってくる、この時代の普遍的な精神史があるように思う。いささかならず私的な記述が混じってしまうが、それがどこかで普遍性に繋がっていることを願いつつ、その思いを書き綴ってみたい。

1 イランとニカラグア

『インパクション』誌の前身である『インパクト』誌が創刊された1979年の記憶は、当時の世界情勢との関連で、いまも鮮明だ。この年には、2月に、イランで長く続いたパーレビ国王(当時は、こう表記されていた。いまでは、バフラヴィーと書くのがふつうになった)体制を打倒する革命が成就した。ここに至る社会運動の主力になったのがイスラム教徒であったことから、イスラム革命と呼ばれた。私は彼の地の歴史や情勢にさして詳しいわけではなかったが、無知ゆえに掻き立てられる関心なり興味というものもあり、注視していた。同年11月に起こったテヘランの米国大使館占拠・人質事件には、それまでの米国の介入の事実を知っていれば、学生たちの怒りの発露として当然だろうとの思いしか起きなかった。

7月19日には中米ニカラグアで、1930年代から続いていた、一族支配のソモサ独裁体制を倒す革命が勝利した。私は、ニカラグアに、そのつい数年前の74年末と76年半ばの2回、それぞれ1ヵ月間ほど滞在していた。独裁体制からの解放闘争をたたかうサンディニスタ民族解放戦線(FSLN)の共鳴者であろう幾人もの作家や詩人たちと国内で会い、講演や詩の朗読も聴いていた。コスタリカやメキシコなどの亡命先で、この解放闘争をさまざまな形で支援するニカラグア人とも会っていた。1回目の滞在時は、サンディニスタ民族解放戦線が元農相の豪邸で行なわれていたクリスマス・パーティの場を襲い、大勢の要人(米国石油企業代表や、前年の軍事クーデタを起こしたチリの大使など)を人質に取った軍事作戦の時に重なった。要求は以下の4点だった。(1)獄中の同志14人を解放しキューバへの出国を認めること。(2)最低賃金を引き上げること。(3)1万2000字から成るコミュニケを新聞・テレビ・ラジオを通じて報道させること。(4)600万ドルの資金を提供すること――人質の「重要度」から行って、ソモサ政権はこれを飲まざるを得なかった。私は、ちょうど乗っていた長距離バスの中で、ラジオを通じてコミュニケが放送されるのを聴いた。満員の乗客が息を潜めてそれに聞き入っている姿が印象的だった。ソモサにとってはかつて味わったこともない屈辱であり、客観的には鉄壁を誇った抑圧体制が崩れゆく予兆でもあった。翌日、バスで隣国コスタリカへ向かう出国手続の場でニカラグアの税関吏たちは荒れた。独裁体制下では、軍・警察と共に税関には独裁者にもっとも忠実な官吏が配置されている。ソモサが前日強いられた恥辱を晴らすかのように、荷物を乱暴に扱い、新聞・雑誌を隈なく点検した。コスタリカへ移ってからでもニカラグアの新聞は入手できた。私は掲載されていたサンディニスタのコミュニケを大急ぎで翻訳し、友人を通じて『情況』誌に送ってもらった。それは同誌75年6月号に掲載された。

このような経緯もあって、ニカラグアは、中米・カリブ海における超大国の支配を断ち切る革命の可能性を感じて、現地でも、帰国後にも、大いに注目していた土地だった。歴史過程もそれなりに研究していた。解放戦線の指導部の中のひとりのメンバーは、『ニカラグアの反植民地主義闘争における先住民の根』と題した書物を著していて、先住民族の存在を軸に、この大陸の歴史過程を捉える方法を模索していた私には、深く示唆的だった。だから、サンディニスタ革命勝利の報に接すると、具体的に思い浮かべることのできる、その渦中にいるであろう人びとの貌がいくつもあって、こころが躍った。

この年の7月に創刊された『インパクト』誌には(9月刊の第2号にも)、このイランとニカラグアの最新情勢に触れた文章が載っていた。研究者の厚みも、まだ、なく、一般的な関心もさほど高くはないと思われた地域に関して、深みのある分析を行ない得る書き手を素早く見つけて関連論文を掲載していることに、少し驚いた。台頭する第三世界の政治・社会・文化の鼓動を聴き取るだけの素地が、この社会にも出来つつあるのかと感じた。

2 政治犯への死刑判決

未知であった『インパクト』編集人から連絡をもらったのは、それからしばらく経った頃だった。私は当時から、東アジア反日武装戦線被告の救援活動に携わっていたが、1979年末には第一審の判決が迫っており、戦後史で初めて政治犯に対する死刑判決が下されることは、公判過程を見ていれば必至だった。これに対する反撃の特集を組みたいので協力を、という要請だった。仲間と手分けして、いくつかの観点から、東アジア反日武装戦線の思想と実践が提起した諸問題と、これに対する死刑判決が意味するものを分析する文章を書いた(同年11月刊の第3号で「死刑制度を問う」特集が組まれた)。『インパクト』誌および『インパクション』誌が、ひいてはインパクト出版会が、死刑制度廃絶という明確な目標の下に〈死刑〉をテーマにした企画と単行本をかくまで積み重ねてきている出発点は、ここにあったのか、といまにして思う。

当時、大衆運動の場で〈反日〉の名は、ほとんど、禁句にひとしかった。つい4、5年前のことでしかない、実践された「テロリズム」の記憶は、人びとの中でなお鮮明だった。それが生み出した甚大なる死傷者の存在が、遺族ではないとしても、癒しがたいものとなって人びとの脳裡には残っていた。学生時代に、サヴィンコフの『テロリスト群像』や、またの名、ロープシンの『蒼ざめた馬』を読み、また啄木の「ココアのひと匙」の影響もあったりして、私などはそれまで「テロリスト」という語の響きにどこかロマンティシズムを感じないではなかったのだが、実際に発動された「テロ行為」の結果は、あまりに無惨だった。

この行動形態には反対だが、その基底にあった植民地支配と侵略戦争への批判の志は受け止めたいと考える人が、よしんばいたとしても、それを口にしただけで、まわりの世界は凍りついたほどだった。公安警察の動きも執拗だった。救援のメンバーが駅前に置いた自転車が「何者か」によってパンクさせられたり、どこかへ持ち去られたりすることは、日常茶飯のことだった。自宅周辺に公安警察のアジトがあって、四六時中監視下に置かれていたメンバーもいた。周辺のシンパにも嫌がらせの手は伸び、あなたの恋人は爆弾魔=〈反日〉のメンバーと親しく付き合っているよ、と垂れこみがなされる場合もあった。

それでも、〈テロリズム〉への批判から〈反日〉救援者を排除していた人びととの間にも、やがて、対話の契機は生まれる場合もあった。救援者が、〈テロリズム〉の問題に正面から向き合い、それへの批判を明らかにしつつも〈救援〉の論理は確固として立てた場合には。

逆に、それを曖昧なままに放置すると、そのぶん、公安警察が布いた「分断線」は効き目を発揮した。そのとき公安警察の嫌がらせと脅しによる、見えない恐怖と怯えがもたらす波及効果は大きかった。そんな時期の只中になされた『インパクト』誌第3号特集「死刑制度を問う」は、左派や進歩派の間では敬して遠ざけられるきらいのあった死刑というテーマが、避けては通れぬ課題として次第にせり上がってくる上で、ひとつの重要な役割を果たしたものであったと言える。

3 ニカラグア、そしてイラン、ふたたび

その後の事態の展開の中で、ニカラグアと死刑制度の問題とは、私にあっては互いに出会うことになった。ニカラグア革命は、基本的には社会主義的方向をめざすものではあったが、その意味では先達というべきロシア、中国、キューバなどの諸革命とは違う方向性をいくつか示した。その最たるものは、複数政党制を維持したこと、および死刑制度を廃止したことである。先行した社会主義革命はいずれも、ここで躓いた。唯一絶対の権威を誇りたがる前衛党指導部は、どこにあっても、政治・社会・文化・経済・軍事などあらゆる分野の全権を握ることが、〈反革命〉勢力の跳梁を許さないためには不可侵の正義であるとの「論理」に基づいて、社会を統制した。サンディニスタ指導部はその道を選ばなかった。事実、11年後の大統領選挙では、サンディニスタは破れて下野した。米国は革命政権を打倒するために、コントラ(旧独裁体制時代の軍人や多国籍の傭兵を組織した反革命軍)を支援してニカラグアを内戦状態に陥れたために、79年の革命成就後長く続く内戦に疲れた民衆は、90年の選挙でサンディニスタを見限ったのだ。レーガン政権時の米国政府はこのコントラに対する支援資金を、イランに対する武器輸出の代金から工面していたことが後日(86年)わかって、このスキャンダルは「イラン・コントラ事件」と呼ばれた。スキャンダルというのは、イラン革命後に学生たちによってテヘランの米国大使館が444日間にも渡って占拠され、それに対してなす術もなかった屈辱を味わった相手国=イランに対して、その後80年に始まったイラク・イラン戦争に際しては支持せざるを得ず、したがって武器輸出も行なう立場に追い込まれたうえ、それによって得た収入をニカラグアの内政に干渉するコントラ戦争に振り向けていたことを指している。東西冷戦構造(米ソ対立)を最大の矛盾として成立していた戦後世界にあっては、このような複雑怪奇な現実が、たびたび生み出されたのだった。

ニカラグア革命が、従来の革命との差を著しく示したもう一つの特徴は、革命直後から死刑制度を廃止したことである。社会主義を名乗る革命においては、それまで、旧体制を支えた政治家、軍人、弾圧機構の主要人物たちに対する報復処刑が行なわれるのが常であった。それは、まっとうな裁判の過程をくぐることもないままに、新たな革命権力の恣意性の下に強行された。それを認めること/許すことは、一事が万事を意味した。「摘発」の矛先は、次第に、自らの新体制内部の「政敵」や「反革命の煽動者」にも向けられるようになり、「粛清の論理」が社会主義革命を貫く特徴であるかのような現象にまで至った。「新左翼」を名乗る日本の多くの党派のなかにも、この論理は浸透した。党派間で、政治路線なりイデオロギー的な基盤なりに食い違いが起こると、それを直ちに「敵対矛盾」と解釈して、凄惨な殺し合いに全力を挙げる者たちが登場した。社会主義が本来的に内包していたはずの「崇高な」理念は、このような愚かにも醜悪な現実によって、世界的にも国内的にも裏切られてゆくばかりであった。

この現実の中でニカラグア革命において死刑制度が廃止されたことは、未来へ向けての確かな指標であると私は感じた。サンディニスタの古参兵士であり、独裁政権時代には何度も投獄され拷問も受けたトマス・ボルヘは、革命後に内相として語っている。「戦いが終わって、私を拷問した者が捕えられたとき、私は彼らに言った。私の君らに対する最大の復讐は、君らに復讐しないこと、拷問も殺しもしないことだと。私たちは死刑を廃止した。革命的であるということは、真に人間的であるということ。キリスト教は死刑を認めるが、革命は認めない」。旧弾圧機構=国家警備隊隊員は5700人もが革命後に逮捕されたが、刑務所は復讐の場ではなく、赦しと再教育の場であるから、次の五段階に分けて設けられた。閉鎖施設・労働施設・半解放施設・開放施設・監視付き家庭復帰。最長期刑は30年が限度とされた。「力の論理に、善意の論理は対抗しうるか」と問われたボルヘは答える。「革命家とは夢想家だ。夢がなければ、われわれが建設するものは死の海にすぎぬ」(野々山真輝帆『ニカラグア 昨日・今日・明日』、筑摩書房、1988年)。

解放/革命闘争の途上ならば、〈敵〉の負傷兵や捕虜兵への処遇において、運動主体が人道主義的な態度を貫いた事例に事欠くことはない。だが、いったん〈勝利〉した革命権力は違うのだ――無念にも、そんな実態を見せつけられてきた私の眼に、ニカラグアの実例は新鮮に映った。私は当時、ニカラグア革命の意義に関していくつかの文章を書いたが、死刑制度の廃絶に関しては「死刑を認めぬ革命――ニカラグアの〈可能性〉」と題した文章を書いた(日本死刑囚会議麦の会編『死刑囚からあなたへ』所収、インパクト出版会、1987年)。埴谷雄高は、数千年を通じて変わらぬ人類の政治の意思は「奴は敵である。敵を殺せ」に尽きると喝破したが(「政治のなかの死」、『中央公論』1958年11月号、のち『幻視のなかの政治』所収、中央公論社、1960年)、それを超える実践例が現われたのであった。

それに続く20世紀末には、アジアやラテンアメリカなどで長く続いた軍事独裁政権が倒れ、民主化の過程をたどる国々が数多くあった。アフリカでも、ナミビアの独立や南アフリカの人種隔離体制(アパルトヘイト)の崩壊と新体制の成立があった。そのすべてにおいてではなかったが、刑罰のあり方や死刑制度の問題をめぐって、この時代、世界の趨勢は明らかに変化を遂げた。新体制下で、血を血で洗う、復讐の虐殺劇が繰り広げられるという、目を覆う光景は少なくなった。厳しい人権弾圧が行なわれた独裁時代の「真実究明」はあくまでもなされなければならないが、それが数々の困難を乗り越えて実現した後には「赦し」と「和解」の過程が待っている、という時代がきた。もっとも示唆的な経験は、アパルトヘイト体制を廃絶した南アフリカの「真実和解委員会」の活動によって試みられた。

遅きに失したという思いがないではないが、それでもこれが、人権の確立に向けた人類史のたゆみない歩みの一成果であった。このような世界風景を背後に置いてみると、2014年の日本社会の異常さが際立って見える。ここでは、植民地支配にせよ侵略戦争にせよ、その「真実を究明」して和解に向かうどころか、真実を覆い隠そうとする考え方の者たちが政権の座に就いている。それを支えるかのように、書店には「偽造する歴史修正主義者」たちの雑誌や本が山積みになっている。もっとも深刻なことには、それを支持する民衆が少なからず存在している。

革命後のニカラグア社会やアパルトヘイト廃絶後の南アフリカ社会の試行錯誤の過程は、私の裡にあっては、このような時間的・空間的な射程の中でこそ活きてくるもののように思える。

4 近代と先住民族

『インパクト』誌創刊の翌年の1980年、私たちは、ボリビア・ウカマウ集団製作の映画の自主上映運動を始めた。初めて上映する映画は『第一の敵』といい、19690年代のアンデス地域で、大地主に対する抵抗の闘いの渦中にある先住民族と、都市部から来た反帝国主義闘争をめざすゲリラ部隊の出会いの物語であった。現地でウカマウの映画作品を幾本か観て、私はこれが、当時すでに必然的な課題になっていたヨーロッパ中心主義の歴史像と世界像を克服し、新たなものを作り上げるうえで大きな役割を果たすと感じていた。先住民族を主体に据えて、近代総体を問い直す視点に共感した。進化した映像・音響機器の普及によって、若者たちはすでに、何ごとにせよ活字媒体に依存して学んでいた私たちの世代とは違って、常時五感すべてを使って世界を感じ取る時代になっていた。だから、ヨーロッパ起源の芸術表現の方法を駆使しつつ、稀有な観点から歴史の読み替えを企図する、ウカマウの映像が持ちうる意味を信じたいと私は思った。あるいは、監督のホルヘ・サンヒネスが語った言葉で言えば、「映像による帝国主義論」の構築をめざす彼らの作業に協働しようと考えた。

先に触れたニカラグア革命の最終蜂起の過程を見ながら、私はその闘争の中で先住民族が果たしている大きな役割に注目していた。それに『第一の敵』で描かれている先住民族像と重ね合せて論じる形で、映画の紹介文を書いた。この場合、現実とフィクションが、偶然のことではあったが、重なり合って見えることが重要だった。手作りの自主上映運動は、一定の成果を生み出しながら34年後の現在まで続いている。関連する図書もずいぶんと出版してきた。『インパクト』誌の別冊としてウカマウ映画のシナリオ集を出版できたことも、意味は大きかった。『第一の敵』(1981年)と『ただひとつの拳のごとく』(1985年)の2冊である。

先住民族と名づけられる人びとの存在を軸に据えるということは、歴史上、植民地主義が担った役割を考えることを意味した。1492年の「コロンブスの航海」以降数世紀をかけて、ヨーロッパは世界じゅうに隈なく植民地をつくり上げ、それによって自らの近代を可能にしたが、その近代に孕まれる、非ヨーロッパ地域という〈裏面〉に注目することを意味した。20世紀末、そのような歴史検証・思想再構築の作業は世界規模で深化した。それには、いくつかの契機が考えられる。ソ連・東欧の社会主義圏で体制崩壊が起こり、資本主義は勝利を謳歌しグローバリゼーションの時代の到来を讃えたが、翻って、ここへ至る歴史過程を検証するなかで、資本主義的な近代を可能にした植民地の存在が浮かび上がったこと。コロンブスの航海とアメリカ大陸への到達から500年目を迎えた1992年に、世界で一斉に、ヨーロッパ近代と植民地主義の関係を捉え返す作業が始まったこと。国連のような国際機関で、先住民族の権利を回復するための宣言が出されたり、諸活動が取り組まれたりしたこと。その結果、2001年には、国連主催で「人種主義、人種差別、排外主義、および関連する不寛容に反対する世界会議」(通称「ダーバン会議」)が開かれ、奴隷制や植民地主義に内在する諸問題が、初めて世界的なレベルで討議されたこと――確かに、従来の歴史観では捉えきることのできない、地殻の変動が起こっていた。日本社会でも、北のアイヌと南の琉球人とが、国連が認めた、先住民族が手にすべき諸権利に基づく主張を行なって、歴代の中央政府が積み重ねてきた先住権否認政策に抗議する動きが目立つようになった。『インパクション』誌においても、編集委員であった故・越田清和などの手によって、先住民族をめぐるテーマがたびたび取り上げられたことは、周知の通りである。

5 戦争と死刑と国家

先にも引用した埴谷雄高は、同じ論文でこう書いている。1958年のことである。政治は「死刑と戦争のあいだを往復する振子であって、ついにそれ以外たり得ない」――と。当時の埴谷は、政治(それは、「国家」あるいはその「時どきの政府」と同義であると捉えられていよう)の意思を「奴は敵である。敵を殺せ」というスローガンに見ていたのだから、いかなる個人からも集団からも超越している国家が、その存在の「至高性」を見せつけつつ他者に死を強制し得る手段として「戦争」と「死刑」の発動権を独占していることに注目したのであろう。事実、あの時代であれば(21世紀の現在になっても廃絶のための微かな望みすら見えない戦争は論外として)死刑制度を存置している国は圧倒的に多かった。一般刑事犯であれ政治犯であれ、国内秩序を最悪の形で乱す者に対しては、刑の執行それ自体は非公開で行われる場合でも、究極の刑を科すことで人心の引き締めが可能だと統治者たちは考えていたのである。

だが、死刑制度の存否をめぐって、世界は動き始めた。19世紀を含めたごく早い時期から死刑を廃止していた国々は別格として、先にニカラグアで見た例がこの時代の特徴を表わしている。以下に、この前後から死刑を廃止した国を挙げてみる。【( )内は廃止した年度、「一部」は通常の犯罪に関してのみ廃止、言及なしはすべての犯罪に関して廃止した場合である。】

ポルトガル(1976)、デンマーク(1978)、ルクセンブルグ、ニカラグア、ノルウェー、ブラジル、ペルー、フィジー(1979、後三国は一部)、フランス、カポベルデ(1981)、オランダ(1982)、キプロス、エルサルバドル(1983、両国とも一部)、アルゼンチン(1984、一部)、オーストラリア(1985)、ハイチ、リヒテンシュタイン、ドイツ民主主義共和国(1987)、カンボジア、ニュージーランド、ルーマニア、スロベニア(1989)、アンドラ、クロアチア、チェコスロバキア連邦共和国、ハンガリー、アイルランド、モザンビーク、ナミビア、サントメプリンシペ(1990)、アンゴラ、パラグアイ、スイス(1992)、ギニアビサウ、香港、セーシェル、ギリシャ(1993、末尾国は一部)、イタリア(1994)、ジプチオ、モーリシャス、モルドバ、スペイン(1995)、ベルギー(1996)、グルジア、ネパール、ポーランド、南アフリカ、ボリビア、ボスニア・ヘルツェゴビナ(1997、後二国は一部)、アゼルバイジャン、ブルガリア、カナダ、エストニア、リトアニア、イギリス(1998)、東チモール、トルクメニスタン、ウクライナ、ラトビア(1999、末尾国は一部)、コートジボアール、マルタ、アルバニア(2000、末尾国は一部)、ボスニア・ヘルツェゴビナ、チリ(2001、後者は一部)、キプロス、ユーゴスラビア(2002)、アルメニア(2003)、ブータン、ギリシャ、サモア、セネガル、トルコ(2004)、リベリア、メキシコ(2005)、フィリピン(2006)、アルバニア、クック諸島、ルワンダ、キルギスタン、カザフスタン(2007、後二国は一部)、ウズベキスタン、2008)、ブルンジ、トーゴ(2009)、ガボン、ジプチ(2010)、ラトビア、モンゴル、シエラレオネ、南スーダン(2011)――

煩を厭わず最近の死刑廃止国を列挙したのは、これが紛れもなく現代史の動きだからである。このリストに目を走らせた私たちの多くにとっては、同時代史として進行していた事態であることを確認するために、である。ニカラグアと南アフリカの実例にことさら注目した私の記述がどこか誇張に思えるほどに、「ふつうの国」が次々と死刑を廃止している。現在、死刑廃止国と実質的な廃止国(国際人権団体アムネスティ・インターナショナルの基準では、制度が残っていても過去10年間にわたって死刑執行が行なわれていない国は「実質的な廃止国」に分類されている)とは合わせて140ヵ国に上るが、実にその半数は、この40年間近くの現代史の歩みの中で死刑廃止に至ったことを、右のリストは物語っている。戦争は廃絶し得ないまでも、差し当たって死刑は廃止できた国が、これほどまでに増えたのである。政治が「死刑と戦争のあいだを往復する振子であって、ついにそれ以外たり得ない」という埴谷雄高の60年有余前のテーゼには、いくぶんかの修正を施さなければならないだろうか。

EU(欧州連合)は、加盟国が死刑制度を廃止していることを加盟のための必須条件に据えている。死刑の非人道性に目覚めてそれを廃止できた欧州の国のなかには、21世紀に入って以降のアフガニスタンやイラクでの「反テロ戦争」に参戦したり、現在でもアラブ世界での無人機爆撃に加担したりしている国もある。国家にとって、死刑廃止に至るハードルは、戦争のそれよりもはるかに低いことがわかる。

この点で異様なのは、東アジア各国の情勢である。日本、中国、朝鮮民主主義人民共和国の三国はいずれも、歴代の統治者の意思で強硬な死刑存置国であり続けている。政治的には複雑な構図の中で激しく対立している三国が、こと死刑の存続という課題では「隊伍を組んでいる」のは皮肉な話である。韓国には制度は残っているが、自身がいっとき死刑囚であった金大中が大統領に就任(1998~2003三年)して以降、大統領は幾代も変わったが今日に至るまでの16年間、死刑の執行はなされていない。したがって、現在では「実質的な廃止国」に挙げられている。軍事政権下では頻繁に死刑の執行が行なわれていただけに、あの時代との対比が鮮やかに見える。

こうしてみると、現在の日本はいかにも特殊な状況下にある。為政者と法務官僚には、死刑廃止に向けた意志は微塵も見られない。死刑という制度や死刑囚という存在についてほとんど情報を持たない民衆は、多くが暗黙の支持を死刑に対して与えているように見える。もっとも、廃止国の外交官に言わせると、死刑制度が存在している時代に世論調査を行なえば、どの国にあっても廃止に「否!」と答える者が多い、それが世論というものだ。制度の非人道性に気づいた政治家やメディアや言論人などがイニシアティブを発揮しなければならないのだ――という。政治レベルでの働きかけの重要性はいっこうに減じないが、私たち死刑廃止運動が考えたことは、情報が厳密に封鎖されている死刑という制度にさまざまな風穴を開けることである。制度を維持するために施されている粉飾を剥ぎ取ることである。その方法は多様にあり得ようが、まず取り組んだのは、死刑囚表現展と死刑映画週間の開催である。前者は2005年から10回、後者は2012年から3回を数えた。死刑囚表現展は大きな反響を呼んできた。死刑囚が描いた絵を見たり、俳句や短歌を読んだりすることで、一面的にしか捉えてこなかった死刑囚という存在、および死刑制度について考え直してみたい、との印象をもつ人が多い。絵を見て「人間の魅力に気づかされた」という声すらある。死刑囚にとっても、自らが犯した行為をふり返るうえで、あるいは囚われの身でも自由な空想の世界に浸るうえで、そして冤罪を訴えるうえで、自らなす「表現」の力を実感し始めていることがうかがわれる。それが10年間続いてきたことの成果であろう。当初10年間の時限で始めたこの試みは、死刑制度廃止の展望が立たないいま止めるわけにはいかず、また新たな基金の提供者も現われて(いわゆる島田事件でいったん死刑が確定しながら、再審で無罪を勝ち取った赤堀政夫さん)、さらに5年間継続することになった。死刑映画週間にも、死刑存置の立場の人も含めて毎年多くの人びとが詰めかけて、古今東西のすぐれた映画作品から何ごとかを汲み取る場として定着してきた。来春以降も、なお続くだろう。

*          *        *

約めて言えば、先住民族という存在を生み出した民族・植民地問題を追究するという課題において、また、国家が戦争と死刑を通じて他者の死を命令する独占的な権限を持つ事実に対する批判を深めるという課題に関しても――私たちはこの雑誌と併走することができた。この雑誌なき明日以降も、揺るぎない確信をもってこの道を進むことができるくらいの素地は、そこで育っていると信じたい。 (11月4日記)

短期間に終わった出会いの記憶に――片島紀男氏に


文化冊子『草茫々通信』6号「特集 片島紀男の仕事」

(2013年4月25日発行、書肆草茫々、佐賀市)掲載

片島紀男氏の存在を知ったのは、いつだったのか、覚束ない。著作も多いが、氏の主たる仕事が映像ディレクターであったことから、いま、氏が制作したテレビ作品一覧を眺めてみると、私が観たのはわずか2作品でしかない。1995年『埴谷雄高「死霊」の世界』と2001年『吉本隆明がいま語る 炎の人 三好十郎』である。自宅にテレビをおかない時期も長かったし、テレビを入れてからも帰宅が遅いこともあって、今なら見逃すはずのない戦争期に関わる記録番組も、井上光晴の番組も、トロツキー紀行もまったく知らずに生きてきた。埴谷・吉本のご両人は、テレビに出演すること自体が珍しい文学者なので、おそらく事前広報が行き届いたのだろう、私も放映以前に察知できた。加えて私が深い関心を持ち続けてきた二人の思想家なので、これを見逃すはずはない。観て、かつ(今は行方不明だが)珍しくも録画までしている。

二人の文学者が語りつくした内容も、もちろん、さることながら、こんな番組を制作するテレビのディレクターが存在することに驚きをおぼえた。『死霊』は、1960年代半ば私が学生であった頃は、冒頭の部分を収めただけの真善美社版が、わずかな古書店で入手できただけであったが、私は当時の生活感覚からすれば高価なそれを買い求めては読み耽り、手元不如意になると同じ書店に売り飛ばすという、わけのわからぬ行為を何度も繰り返していた。それほどまでして手元において、事あるごとに目を通したい書物の筆頭に『死霊』は位置していた。そしてその後長い時間をかけて書き進められていく経緯を同時代史として現認していたわけである。

『死霊』だけではない。埴谷が書く政治論も文学論も映画論も、さらにあらゆるジャンルの断簡零墨のすべてを収録した評論集の一冊一冊が、私の心を捉えた。若いころ愛読している作家や思想家が現存している場合、距離のとり方が難しい。会って一言でも話したいという願望と、読者としてはあくまでも文章を通してのみの、一方的なつき合いに留めておく方が賢明だという冷静な判断の間で揺れ動く。埴谷の場合、私は後者を選んだ。ある会合で近くに見かけたこともある。訪ねようと思えば、伝手はあった。それでも、敬して遠ざけた存在で、埴谷の場合は、あったほうがよい。それが私の選択だった。

敗戦50年後を迎えた1995年正月、実際の声は聴くまいと思い定めていたその人が、あろうことか、テレビに出演して喋りだした。『死霊』の世界を自ら語り出して留まるところを知らない風だ。構成、作品からの引用、ナレーション、質問の仕方――そのすべてに私は圧倒された。しかも、それは五夜にわたって続けられた。埴谷が拘泥した「存在の革命」の内実が解き明かされてゆくこんな番組を実現させたディレクターの手腕に、私は真底驚いた。それが、テレビ番組を通しての片島氏との最初の出会いだった。

番組の内容は、2年後の1997年には『埴谷雄高独白「死霊」の世界』(NHK出版)と題して書物にまとめられた。埴谷の死後5ヵ月目だった。その手際のよさにも感心したが、この本に添えられた第三者の文章を読むと、やはり埴谷にとってテレビに出演するなどとは、死後の放映でない限りあり得ないことだったようだ。その条件を呑むかのようにして、ともかく本人の口を開かせカメラを回してしまったディレクターの「迫力」を感じて、あらためて唸った。

こうした片島氏の存在を意識しながら、その後も毎年のように制作された氏のテレビ番組を観る機会が、なぜか私にはなかった。6年後に観たのが『吉本隆明がいま語る 炎の人 三好十郎』である。語る人も、語られる人も、私には魅力的だった。吉本の著作は埴谷のそれと同じような重量をもって、私の中に位置を占めていた。そして、学生時代にうまくは出会うことができなかった三好とは、20世紀末以降の政治・社会の激変のさなかで、私は必然的に再会していた。左翼思想と運動への加担、転向、戦時体制への翼賛、戦争責任論、戦後進歩派への懐疑――三好がその後半生を費やして拘った諸問題が、そのころ、新たな意味合いを帯びて私に迫ってきていた。三好の著作を読み、その戯曲の演劇公演があればできる限り観る日々を私が送っていたころに、時期的に重なり合って、前述の作品は放映された。

この番組もまた、その完成度において、深い印象を私に残した。番組には三好の伝記的な事実が巧みに織り込まれていた(それには、片島氏のNHK勤務の初任地が、三好の出身地の佐賀であったことにも与かっていたようだが、片島氏の初任地=佐賀勤務が14年間も続いた経緯などは後日になってから知った)。三好の人生の軌跡と作品の誕生およびその変貌の経緯が、京都・三月書房の宍戸恭一と吉本の的確な批評によって辿られていた。宍戸は、先駆的な三好論『現代史の視点』(深夜叢書社、1964年)と『三好十郎との対話』(同、1983年)の著者である。三好の生涯と作品を「悲しい火だるま」と呼んだという吉本が、テレビ・カメラを前に話す様子も初めて観た。講演は若いころから何度か聴いているが、変わることなく言い換えと繰り返しが多く、耳に入る言い回しは決して明快とは言えない。だが、吉本の発想と論理の骨格を知っていると、彼が言おうとしたこと自体は、私の中に明快な像を描いて、残った。それは、おそらく、番組の「構成」がすぐれていたことにも由来するものだろう。

こうして、私が接することができた片島氏の数少ない映像作品からは、作家の世界に深く分け入る独特の方法に学ぶところが多かった。「映像ディレクター=片島紀男」の名は、くっきりと私の中に刻み込まれた。放映から二年後、氏は『悲しい火だるま―評伝三好十郎』(NHK出版、2003年)を出版した。これは著作権抵触問題のために絶版回収されたが、氏は挫けることなく、改訂版『三好十郎傳―悲しい火だるま』(五月書房、2004年)を出版した。600頁近い大著だった。仕事ぶりはエネルギッシュで、徹底したものだった。いつか出会う機会があれば、と望まないではなかった。

意想外な理由から、その出会いは実現した。最初の出会いが、いつ、どこであったかの記憶はない。日記は、その年が終わると処分してしまう習慣を持つ私には、復元する術がない。片島氏が亡くなった年である2008年から逆算すると、2005年あたりの出会いであったろう。三鷹事件・帝銀事件など戦後史に関わる映像作品を制作し、著書も持つ氏は、やがて帝銀事件の死刑囚、故平沢貞通の無実を確信し、再審請求の活動に携わるようになった。私は私で死刑制度廃止運動に以前から関わっており、その場の共通性から、出会う機会に恵まれたのだった。初めて会ったときに交わした言葉も、埴谷と三好の映像作品に関する印象を私がそのとき伝えたか否かも、情けなく、そして無念だと思うが、覚えていない。二度目の出会いは、私の事務所がある渋谷で開かれた平沢貞通の個展会場においてであった。逮捕・幽閉される以前の平沢の作品の「発見」はなお続いている時期で、そこで初めて観る作品がいくつか、あった。作品をめぐってはもちろん、死刑廃止の実現のために今後も連絡を取り合って、いろいろな手を尽くそう、などという話を交わした。それから間もなく、片島氏は、私の渋谷の事務所へ訪ねて来られた。帝銀事件再審請求運動への協力を私にも要請し、その訴えをしかるべき人びとにも広めてほしいということだった。できる限りのことはします、と約束した。

その時だったか、それとも別な機会だったか、氏は私にもう一つの協力を乞うた。レオン・トロツキーを暗殺したラモン・メルカデルの弟が残している回想記を翻訳してもらえないか、という要請だった。1994年に『世界わが心の旅 メキシコ・トロツキー 夢の大地』という映像作品(未見のため、旅人は誰だったのかも、私は知らない)を持つ氏は晩年のトロツキーに関する書物を準備中で、暗殺者の近親者がスペイン語で書いたその回想記の重要性を感づかれたらしかった。私がスペイン語を解することも含めて、ある程度は私のことも理解されたうえでの申し出だったのだろう。

関心は大いにあるが翻訳するまでの時間はない私は、別な適任者に翻訳してもらい、半年後くらいだったか、できあがった訳稿に目を通したうえで片島氏に送った。それは『トロツキーの挽歌』(同時代社、2007年)に生かされた。読みながら、私は、60年安保闘争を軸とする学生運動へ関わって以降の課題のひとつに、片島氏はこれで「ケリ」をつけたかったのだろうと思った。

日常的に常に連絡を取り合っているという関係ではなかった。「死刑制度廃止」という課題の共通性はあり、そして何よりも、埴谷雄高や三好十郎、吉本隆明、ゾレゲ、トロツキーなど、共通の関心事項はあるのだから、いつかじっくりと語り合う機会はあるだろうと確信していた。その日は、放っておいても、いつか来る――いま思えば、何の根拠もなく、そう思い込んでいた。

だから、氏の逝去を報じる2008年12月24日の報道は衝撃だった。いまでも、悔しさはつのるばかりだ。私にとっての埴谷雄高がそうであったように、著作を通して知っていれば十分、という関係性は、もちろん、あり得る。そのひとと実際に知り合う機会を得ながら、それが不十分なままに突然断ち切られると、悔いと無念さが、いつまでも消えない。人間とは厄介な存在だ、とつくづく思う。

片島さん! 失礼ながら少しいかついが、人懐こいあなたの笑顔を思い浮かべならが、人間の「存在の革命」と、人間がその中で生きる「社会の革命」をめぐっての、あなたとの想像上の対話を続けたい。応えてください、私の問いかけに。(3月16日記)

太田昌国の夢は夜ひらく[24]3・11から一年、忘れ得ぬ言動――岡井隆と吉本隆明の場合


反天皇制運動機関誌『モンスター』26号(2012年3月6日発行)掲載

3・11の事態から一周年を迎えるいま、山のような言説の中からふり返っておきたいいくつかの発言がある。私が共感をもつことができた言葉や分析に、ここであらためて触れても意味はないだろう。疑念か、批判か、苛立たしい哀しみかを感じた発言を挙げておくのがよいだろう。「幻想」を持ち続ける、わが身の至らなさの証左にもなるだろうから。

ひとつ目は、歌人・岡井隆の発言である。岡井については、別件ではるか以前にも批判的に触れたことがある。岡井はかつて、私のように短歌の世界に格別に通じているわけでもない若者にとっても避けては通れぬ表現者であった。だから、学生時代からその歌集や評論を読んでいた。歌会始に選者として関わる歌人に対して、そんな文学以前の行事に関わるなら皇族の歌を一つ一つ自己の文学観に照らして価値づけよ、と迫るような人物で、1960年の岡井は、あった。心強い存在だった。その彼が1993年になると、歌会始の選者になって、その「転向」の上に居直る発言を繰り返した。思想は変わってもよい、変遷の過程を文学・思想の問題として説明せよ、というのが私の批判の核心だった。

その岡井が『WiLL』 11年8月号に「大震災後に一歌人の思ったこと」という短文を寄せている。岡井と共にこの雑誌の目次に居並ぶ者たちの名をここに書き写すことは憚られるほどに内容的には唾棄すべきものなのだが、そこに岡井の名を見ると「哀しみ」か「哀れみ」をおぼえる程度には私は岡井のかつての、および現在の一部の作品を依然として「愛している」あるいは「無視できぬ」ものと捉えているのである。岡井は、3・11前後の自詠の歌を挟み込みながら、書いている。「原子核エネルギーとのつき合いは、たしかに疲れる。しかしそれは人類の『運命』であり、それに耐えれば、この先に明るい光も生まれると信じたいのだ」。雑誌の発行日からすれば、この文章は昨年7月に書かれている。原発事故発生後4ヵ月めの段階である。事故の現況を知りつつ「耐えれば」という根拠なき仮定法を、岡井は自己の内面でいかに合理化できたのか。過去の歌論の確かさを知る者には、不可解の一語に尽きる。

亡ぶなら核のもとにてわれ死なむ人智はそこに暗くにごれば

岡井の思想は、83年のこの歌の世界を超えることは、もはや、ないのか。論理的に成立し得ない仮定の後に続く「この先に明るい光も生まれる」という言葉が、他ならぬ岡井のものであるだけに、よけいに虚しく響く。

ふたつ目は吉本隆明だが、彼が『インタビュー 「反原発」異論』で登場しているのは、『撃論』3号(11年10月、オークラ出版)誌上である。誌名もすごいが、目次に並ぶ人物にも驚く。我慢して書いてみる。町村信孝、田母神俊雄、高市早苗、稲田朋美、西村真悟……! 推して知るべしの編集方針を持つ雑誌であるが、吉本はそこに編集部の言によれば「エセ共産主義者との戦いに命がけで臨みながら生きてきた真正の共産主義者」として紹介されている。彼の主張は、原発は人類がエネルギー問題を解決するために発達させてきた技術的な成果であるから、これを止めてしまうことは、近代技術/進歩を大事にしてきた近代の考え方そのものの否定であり、前近代への逆行である、というに尽きる。国家は開かれ、究極的には消滅させられるべきだという吉本の信念に変わりはないようだから、末尾ではレーニンの『国家と革命』を援用しながら、政府無き後に「民衆管理の下に置かれた放射能物質」(!)という未来の展望が語られている。

だが、原発問題は安全性をどう確保するかに帰着するとの立場から、「放射能を完璧に塞ぐ」ために、放射能を通さない設備の中に原子炉をすっぽり入れてしまうとか、高さ10kmの煙突を作り放射性物質を人間の生活範囲内にこないようにするなどいう程度の「対案」を、非現実的ですがと断りながら語る吉本を見ることは、私にとってはなかなかに辛い。それはすべて、現段階でも眼前に透視できるはずの、大地・大気・海洋の汚染に苦しみ、生活圏を放棄せざるを得ない「原像」としての福島県の「大衆」の姿を見失った地点で語られる戯言にしか聞こえないからである。戦後文学論争の中で某氏が吐いた「年はとりたくないものです」という有名な言葉で揶揄して済ませるわけにはいかない点に、いずれも80歳を超えた(心の奥底では健在を祈りたい)岡井と吉本の言動の、真の悲喜劇性が現われている。  (3月3日記)

太田昌国の夢は夜ひらく[23]「敵」なくして存在できない右派雑誌とはいえ……


反天皇制運動『モンスター』25号(2012年2月7日発行)掲載

上丸洋一というジャーナリストが、『諸君!』や『正論』という雑誌は『「敵」を必要とする、自己の存在理由を「敵」に依拠する点、アメリカという国家に似ている』と述べたことがある。産経新聞社発行の『正論』は、今なお健在で、次々と臨時号も出しているから、街なかの書店を覗いて雑誌コーナーへ行くと、幾種類もの『正論』が面出しで並んでおり、そのそばには『歴史通』だの『SAPIO』だの『撃論』だのの〈粗雑〉誌があって、その表紙や目次を見ると、彼らからすれば「敵」に他ならない中国か北朝鮮との間で戦火が今にも火を吹くかのような雰囲気が煽られていて、すさまじい時代に生きているものだなあ、という感じがつくづくする。

居丈高なナショナリズムを煽る諸雑誌が居並ぶそのコーナーから『諸君!』が消えたのは、いまからおよそ3年前の2009年5月のことだった。消えた理由は覚えてもいないが、今になって、それが突如復活したのである。文藝春秋2月臨時増刊号『諸君! 緊急復活 北朝鮮を見よ!』である。かの国では、金正日総書記が死去し、その三男正恩氏が後継者に就任したが、かくしてついに三代にわたる世襲制が登場した機を掴んでの復活である。「敵」が蠢動すると自らも活気づく性質は、確かに上丸が言うように、文藝春秋社には変わらず宿っているものらしい。

私はかつて「右派言論を読む」作業を自分に課していた。ソ連崩壊前後からだから、もう20年ほど前になるか。私が見たところ、そのころ、体制への対抗言論はずるずると後退し始めた。同時に、勝利を謳歌する右派言論の台頭が目覚ましかった。読むに堪えない煽動と悪罵の言葉は多かったが、それが一定の人びとの心を捉えているからにはその根拠を探らなければならず、また我慢して読めばその言動には進歩派と左派の「弱点」を衝くものもないではないというのが、私の考えだった。(今日であれば、コネのある人しか採用しないと公言した岩波書店の偽善性を衝き、「進歩派・左翼の正体を見た!」という言動を嬉々として行なうだろう)。そこに私たちの現在を照らし出すものがあるならば、そこすら学びの場と思うほど、私たちはゼロの地点に立っていると考えていた。その思いだけで、激烈な言葉が満載の右派雑誌を買い求め読むという、経済的にも時間的にも虚しい行為を長いこと続けていた。お蔭で、進歩派と左派を客観化する姿勢が、私には身についた。

『諸君!』は、その間必読の雑誌であった。私にはそこまでの時間はなかったが、冒頭で触れた朝日新聞記者・上丸洋一は、右派雑誌の目次をデータベース化し、関心のある論文をすべてコピーして読み、『『諸君!』『正論』の研究――保守言論はどう変容してきたか』(岩波書店、2011年)という大著を著した。靖国神社を国家管理に移すことを企図した「靖国神社法案」が初めて国会に提出された1969年に『諸君!』は発刊されたが、それ以降40年間の保守言論の変遷を知るうえで、実に有益な書物である。

今回「緊急復活」を遂げた『諸君!』は、上丸がこの書で分析したように、相変わらず自らを問うことなく、外部の「敵」のあり方のみを言い募る点で、伝統を墨守する内容であった。植民地支配・侵略戦争・従軍慰安婦などの諸問題について、謝罪したことも謝罪する気持ちも、おそらく持たない人間が、「日本はいつまで謝り続けなければならないのか!」といきり立つ様が貫徹しているのである。自衛隊元特殊部隊隊長に「命令があれば拉致被害者は奪還できます」と語らせて「我国には任務の犠牲になることをいとわない覚悟の優れた特殊部隊がある」ことを誇示しているほどである。

それでも読みでがある記事と言えば、ソウルで収録された『脱北「知識人」大座談会』だろう。6人の共和国難民が脱北の経緯、金正日という人物、死後の状況などについて語り合っている。それは、5号を数えるに至った『北朝鮮内部からの通信 リムジンガン』(アジアプレス出版部)の内容とも響き合って、かの地の実情を垣間見せてくれる。虚偽で厚化粧した三代世襲体制が持続している限り、これを恰好の「敵」に見立てた言論が一定の力をもって日本社会に浸透していく。ここから私たちは逃れるわけにはいかないのだ。

(2月4日記)