(「万人受けはあやしい 時代を戯画いた絵師、貝原浩」展の講演録 2017年11月22日)
人間のおもしろみや哀しみ、愚かさが滲み出る「三面記事美術館」
「万人受けはあやしい」という、いかにも貝原さんにふさわしいタイトルだと思いますが、それについて、お話ししたいと思います。
ぼく自身は生前の貝原浩さんとは知り合いで、仕事のつき合いはほとんどありませんでしたが、直接話をしたり、数は少なかったけれども一緒にお酒を飲んだりしたこともありました。個展にはよく行っていましたし、それなりに貝原ワールドは作品としては知っていたつもりですが、先日、この会場でゆっくりと時間をかけて展示作品を見、今回の図録もかなり丹念に見ました。
今回展示されている作品は、基本的には1980年代に入ってからのものですね。貝原さんの年齢としては30代後半から、亡くなった2005年ぎりぎりまでの作品、約25年間、四半世紀の作品が、主に並んでいます。
おもしろかったのは80年代の雑誌『ダカーポ』に貝原さんが連載していた「三面記事美術館」です。展示の数は少ないのですが、図録にはたくさん収録されています。
「三面記事」とは、みなさん、その言葉だけでイメージできると思いますが、新聞の社会面、三面に載っている、人間社会にある、ちょっとした出来事の記事です。出来事そのものとしては当人からすれば恥ずかしかったりすることで、どうしようもなさとか、いいかげんさとか救いのなさがあったりするし、それからユーモアもある。そうした記事が、社会面には載ることがあります。
ぼくも、絵を描くわけではないし小説を書くわけでもないけれども、なんとなく気になって切り抜いて、手帳に挟んでおいたり、スクラップ帖をつくるほどではないけれど、保存しておいたりした記事もあります。
貝原さんは1980年代、そうした三面記事を一枚の絵にして、『ダカーポ』に連載していました。これがおもしろい。もちろん、元の記事がおもしろいわけですが、図録ではその新聞記事自体は載っていませんが、ごくかんたんに出来事を説明しています。
例えば、有力企業のエリートサラリーマンが、酔っぱらって地下鉄に乗って目の前にいた女性、OLと書いてありますが、その女性に向けて放尿してしまったというような事件があって三面記事になったようです。それを絵にしちゃうんですね、貝原さんは(「満員電車内でOLに“用足し”」図録作品ナンバー12)。
事件そのものも、なんだろうと思いますけれども、これを絵にする人もなんなんだ、という感じがありますよね(笑)。
図録に掲載されている「三面記事美術館」をひとつひとつ見ていくと、ほんとに世の中にこんなことが起きていたのか、こんなバカバカしく愚かなことを人間がやってしまうのかと、ぼくもどこかでやっているのかもしれませんが、そう思います。
そして当事者、物語の中心人物が描けているのは当然なんだけれども、その周辺に野次馬としている、そこに居合わせた人間の描き方がまた、その表情などがおもしろい。そうやって、どうしようもない出来事の記事が、一枚の絵になると、なにかまた別の意味合いを持ってしまいます。
貝原さんがこれらを描いていた時期は、今日のテーマである風刺画的なものを書き始めていた時期と重なります。ある意味でシリアスな風刺画を描いている時期に、こういう、人間のおもしろみや哀しみや、愚かさが滲み出る絵を描く、そういう世界を貝原さんは持っていた。ぼくは、貝原さんの作品の中でも「三面記事美術館」についてはあまり記憶がなかったので、今回はほんとうにおもしろく見て、ときどき見返したいなと思っています。
さて、このような貝原浩の世界もあったわけですが、きょうお話ししたいことは、1980年代前半から21世紀に入ってはわずか5年間でしたが2005年まで、およそ四半世紀にわたって貝原さんが、時代に対する懐疑を、絵としてどのように描いていたのかということです。彼が亡くなって12年経つ今、我々はいったいどんな時代を生きているのか、というところまで話が及べばいいかなと思います。
80年代前半、新自由主義経済政策で進行したこと
風刺画を描くとは、時代と向き合って、相渉って、それを絵に描くということであり、それは当然のことながら、世界および日本で、同時代的に進行している政治的なあるいは社会的な、あるいは思想的な動向に目を凝らし、それについて絵師が、画家が、どんなふうに表現するのかが問われます。
1980年代前半というのは、世界政治でいえば、米国にレーガン、イギリスにサッチャー、日本に中曽根という、それぞれ大統領・首相が現れて、それぞれ長期政権になっています。この時代、この3人の大統領・首相が、今、世界を席巻しているいわゆる新自由主義、ネオリベラリズムの先駆け的な政策を、「先進国」において採用した時期なわけです。
レーガン、サッチャーには触れませんが、中曽根政権――この政権も5年の長期政権となりましたが――の下、何が行なわれたか。みなさん記憶していると思いますが国鉄の解体作業です。国鉄を国営鉄道の枠から外して分割民営化を行なった。それから約30年経って、現在、かつての日本国有鉄道は、JR北海道は、JR四国はどうなっているか。本州の線路であるJR東海、あるいはJR東日本は「優良経営」を行なっているけれども、JR北海道は瀕死の状態であることは、みなさんご存知のとおりです。
この国には今1億2600万の人々が住んでいますが、国の政策とは本来、総人口がどんな地域に住んでいようと生活に必要な足は確保するというものです。それをそれぞれの国家の政策として、19世紀後半、鉄道が広範囲に展開し始めて以降、それぞれの国は鉄道事業を国営として成り立たせてきました。
ところが新自由主義の時代に入って、不採算部門は、資本主義社会で儲けにならない部門は、国家は予算が限られているから、そこはもう国家経営から外してしまうと。そして資本主義の本領である民間の競争力に委ねて競争させると。要するに民営化させて競争の原理に委ねれば、うまく活性化するのではないかという考え方を採用するわけです。
ですから鉄道事業の民営化は日本だけではなく、世界各国で最初に試みられた新自由主義経済政策のひとつのあり方です。ほかにも、採算がとれない、金にならない、つまり資本主義経済にとって最も大事なことである利潤、お金を回転させて利潤を増やすということを考えたら、医療というものもなかなかたいへんであるとなる。福祉はもとより、教育もたいへんだとなっていって、福祉切り捨て、教育予算のカットという、今現在日本で進行しているような事態が当たり前のように進行するわけです。
公共事業で言えば水道事業もそうです。地方自治体が管轄してやってきた水道事業は、これもなかなか採算が難しい。そこで、人間という生命体にとって、地球の生命の循環にとってどうしても必要な水というものを、公共の責任において管理するということから外して、これも民間の競争力に委ねる。こうした考え方が日本でも世界でも出てきて、水道事業の民営化が世界各地で、どんどん進もうとしています。
新自由主義経済政策とは資本主義を純化させた考え方であって、不採算部門を国家および地方自治体が責任をもって運営するというところから外して、民間の競争力に委ねるということを意味します。それが1980年代の前半、日本では中曽根政権によって試みられた。これは連綿として続きますが、より加速されるのが2001年から2006年までの小泉政権下です。小泉政権の下での郵政民営化を見れば、おわかりになると思います。
ある意味で社会にひたひたと浸透している公務員労働に対する反感、「親方日の丸で、あいつらはろくに働きもしないのに給料は安定している」と、「定年まで過ごすことができる」という、民間の労働者がどこかでもっている反感を利用しながら、公共事業をどんどん切り捨てて民間に委ねていく。小泉などは、そういう政策を意識的にとったわけです。
それが、どれほどの社会的な心理面における荒廃、それから経済のでたらめさをもたらしたのか。2006年以降、断続的ではありましたが、同じ政策を継いでいる安倍政権の下、さらに進行する事態の中で、私たちは否応なく気づいていることです。
貝原さんのこの展示の中で、1980年代前半の作品には中曽根がよく出てきて、表現されています。その中曽根がとった政策が、いったいどの方向を向いているものであるかということを、貝原さんは、うまく感じ取って、いくつかの表現をなしていたと思います。
「反テロ戦争」の出発点、米国は、なぜ憎悪に満ちた攻撃を受けたのか
政治的な面にかんして、ひとつの大きな節目は、世界的にはやはり、2001年9月11日の、ニューヨークのワールドトレードセンター(世界貿易センター)やワシントンのペンタゴン(国防総省)が攻撃された、いわゆる同時多発の自爆攻撃があり、それ以降、報復として始まるブッシュの名づけた「反テロ戦争」があります。それがいったい、どういう事態を招いているのかを、この時代、貝原さんは描くことができたわけです。
2001年、あの攻撃の1か月後に、あの攻撃をやったとブッシュが断定したのが、アルカイーダです。当時、アルカイーダはアフガニスタンのタリバン政権によって、安住の地を与えられている、訓練の地を与えられているとブッシュは解釈し、その首領はオサマ・ビンラーディンであると断定したわけです。そしてこの許されざるテロ組織、アルカイーダを匿っているタリバン政権を攻撃するとして、アフガニスタン全土に対する一方的な攻撃を始めたのが2001年10月の事態でした。それから1年半後、2003年3月には大量破壊兵器を持ち、これを捨てようとしないということで、フセイン治世下のイラクに対する攻撃を始めた。これが「反テロ戦争」なるものの出発点の第一段階、第二段階でした。
2017年の現在、この「反テロ戦争」は終わりが見えないまま、もうすでに16年間続いているということになります。これには何十か国もの、いわゆる国際的な有志連合国が参加しているわけですが、もちろんその主力を担っているのは米軍です。
米国は戦争に次ぐ戦争で、どんな年表を作っても、常に海外において戦争を行なっています。それは18世紀後半の独立以来のアメリカ社会を貫くひとつの大きな戦略ですが、その米国をして、これだけ長く続いている戦争はないというくらいの16年間という長い歳月があって、いまだ収束の見込みがつきません。あの2001年の事態を見ていれば、このような戦争を始めてしまったら、もう泥沼だということは、わかる人にはわかることです。
ぼくはあの自爆攻撃にはきわめて批判的な人間です。けれども、しかしあのハイジャックした旅客機もろとも突っ込む、米国の経済的な繁栄の象徴としてのワールドトレードセンター、米国の世界における軍事的な象徴としてのペンタゴンに突っ込むということは、その突っ込んだ主体が、どれほどまでに米国の経済的な、および軍事的な行動に、ふるまい方に憎悪を抱いているかということの直接的な反映であって、それは手段が間違っているのではないかというのを超えたところで判断しなければならない、ひとつのあの事件の象徴的な性格だと思います。
すると、そのような攻撃を受けた側の為政者は、政治家は、大統領やその政権は、なぜ自分たちの国がこれほどまでの憎悪に満ちた攻撃を受けるのかということを、大国であればあるほど顧みて、出直しと言うか、顧みて次にとるべき方策を考えなければなりません。
しかもワールドトレードセンターの犠牲者は、当初は6000人くらいと言われましたが、最終的にはその半分の3000人くらいに減りはしました。とてつもない、たくさんの犠牲者が出たことの事実に変わりはありませんが。
ぼくがニューヨークやワシントンの出来事の報道を聞きながら思ったのは、米国の歴史であり責任です。
米国は、ほかの国の土地において、その社会が「不穏な状態」になったときに、米国公民の財産と生命の安全を確保するという理由ですぐに海兵隊を派遣して上陸させ、その土地で生まれてしまった不穏な社会情勢に対する一方的な介入を行なう、戦争という行為を行なうという歴史を繰り返してきたわけです。
それぞれの場所で、海兵隊の上陸によっても、そのひとつの作戦で数千人の人々を殺すことを当たり前のようにやってきた。戦争であれば、朝鮮戦争のようにベトナムのように、何十万人という人間を殺してきたのです。そうした責任をなんら問われたことがないのが米国です。圧倒的な政治的・経済的・軍事的な、および文化的な超大国であるがゆえに。文化的なというのは、ハリウッド映画やディズニーランドや、さまざまな文化浸透の力によって、世界に君臨していることです。それを含めた超大国であるがゆえに、あの国は、人を殺した責任を問われたことが一度としてありません。
広島・長崎での原爆投下の責任を問う姿勢が日本の歴代政権にはそもそもないけれども、そのことも、あの広島に行ったオバマの演説にわかるように、今に至るも、見事にその責任感のないところで彼らはものごとを考えています。
自分たちの国内では、さしあたっては先住民族のインディアンに対する殲滅戦争を皮切りに、その殲滅戦争が終わった後のインディアンをリザベーションに閉じ込めて以降、19世紀後半以降は、周辺のカリブ海に出ていって、その支配力を伸ばしていった。
そういったことを考えた場合に、自分たちの国が、国内で世界で行なってきた挑発的行動を顧みる、歴史を反省するよすがとして、あの9.11の攻撃をどうとらえるかと考え直せばよかったと思います。しかし、そうはしないで別な方向をとったわけです。
貝原さんは、この問題についても、きちんと取り上げ、「ベストセラー戯評」の中で、何回かにわたって描いていると思います。
民間人を殺傷する、国家テロ=「反テロ戦争」
もうひとつ、大きな問題としては、2002年9月17日、同時多発攻撃から、自爆攻撃から約1年後の「日朝首脳会談」があげられます。首相の小泉がピョンヤンを訪問して、日本と朝鮮の、日本では北朝鮮と呼んでいますが正式名称が長いので「朝鮮」と言いますが、日本と朝鮮の「首脳会談」が行なわれた。これによって国交正常化という本筋の目標を外したところで拉致問題だけが浮上し、日本社会はそこにだけ関心を集中させます。この問題についての関心も、貝原さんはうまく掬い取って、表現していると思います。
これら、「80年代前半の英国、米国、日本における新自由主義政策によって社会が席巻される」、「2001年、同時多発攻撃が起きる」、「日朝首脳会談が行なわれ、日本社会が拉致問題だけに関心を集中する」、このようなことが起きる時代に、引いたところで、少し客観的なところでこれを批判するというのは、なかなか「万人受け」しないことです。
例えば昨日、2017年11月20日、米国は朝鮮に対して「テロ支援国家指定」を再度行ないました。世界的なメディア報道では、これによって朝鮮の指導部の譲歩を導き出すことができるかという問題としてしか、とらえられていません。
しかし、この「テロ支援国家指定」はちゃんちゃらおかしいと思います。
もちろん、朝鮮国の現在の指導部の行なっている、核を担保とした瀬戸際政策、あるいはこの間度重なって行なわれているミサイル発射、こうした軍事的な方針によって、今彼らが抱えている苦境を打破しようとするやり方は、まったく間違っている。これはぼくの前提としてあります。
後で触れる拉致問題も含めて、あの国の指導部は社会主義を自称、あるいは僭称しているわけですが、とんでもない政権だと思っていますし、ぼくは今、あの政権を防衛したり擁護したりする気持ちは微塵もありません。しかし同時に言わなければならないのは、世界で最大の「テロ国家」は米国だということです。
彼らは「反テロ戦争」と言いますが、「戦争」とは国家テロの発動であるというのが、ぼくの基本的な考え方です。
この16年間続いている「反テロ戦争」、国家が発動している、米国が先頭になって発動している「反テロ戦争」は聖域に置いて、これはある意味で「当たり前の戦争」であると彼らは規定します。しかしパキスタンで、アフガニスタンで、イラクで、イエメンで、ほかの国々でもたくさんの民間人の死者が生まれました。
オバマ政権のときにいちばん重用されたのが、ドローンと無人機による爆撃です。彼らは本土の航空基地から、コンピュータ制御で、いわゆる「敵」、彼らが攻撃しようとする他国の「目標」を見ています。そして、「決まった」と。これがあの有名なテロリストの誰それだと。あるいは、彼らが武器を集めようとしていると。そういう目標を定めると、本土の空軍基地から命令が出されて、アメリカ兵はまったく傷つかない形で、ドローンあるいは無人機から爆弾を落とすわけです。
「目標」は、つまりアフガニスタンではパキスタンでは、イエメンにおいては、人々の居住区でもあるのだから、当然のことながら民間人を殺傷してしまう。しかしそれは、戦争に伴う、残念ではあるが避けがたいことだ、そういうことも起こりうると、彼らは自分たちの戦争行為を正当化するわけです。
このような戦争の在り方を、ある意味で、国家が発現する当然の「戦争」だと判断する。そして、いわゆるテロリストと名づけられた小集団、あるいは個人が行なう攻撃、パリで行なう、ニースで行なう、ブリュッセルで行なう、あるいはジャカルタで行なう、マドリードやバンドンでもありました。そうした攻撃をのみ、凶悪な「テロリストの活動」であると判断する。こうしたこと自体に、「万人受け」はするかもしれないけれども、ひとつの論理的な詐術と言いますか、ごまかしがある。
このことに世界の人々が気づかない限り、「戦争」と「テロ活動」をめぐる終わりのない連鎖は、なかなか終止符を打つことができないだろうと思います。
繰り返しますが、国家が発動する戦争を、やむを得ぬ「是」として、いわゆるテロリストが行なう活動のみを「否」とする、ダメだとする。それでは、「戦争」も「テロ」もなくならないというのがぼくの基本的な考え方です。国家が発動する「戦争」も、いわゆる「テロ」も、両方に終止符を打つ考え方と行動のあり方が、人間社会のひとつの基本にならないと、現状はなかなか打破できないだろうと思うわけです。
例えば朝鮮をめぐる情勢で言えば、朝鮮が行なう行動はすべて「挑発」と表現されます。日米、米韓合同軍が行なう軍事演習は「挑発」とは表現されません。
今年8月には、陸上自衛隊と米海兵隊の朝鮮半島をにらんだ軍事演習が北海道で行なわれましたし、日米韓の演習もしょっちゅう行なわれています。もし、朝鮮のミサイルや核を「挑発」と言うのであれば、日米韓の動きもまた「挑発」と言わなければならない。そういうまっとうな考え方を世界はしない。メディアの偏向した報道によって、そして世界の約200ある国々の政治指導部のきわめて妥当性を欠く表現によって、まっとうな考え方がなされないわけです。
ですから今のような報道が、万人によって受け入れられる表現になっていく。このようなときに、いったいこの事態をどう表現することができるのかというのが、大きな問題です。
先に見た新自由主義の問題で言えば、医療や福祉、教育、あるいは生活の重要な足である鉄道や通信の重要な手段である郵便、そうしたものはどんなに国家財政が苦しくなっても、国の責任において公共事業として行なわれ、その地域に住まう住民に等しく権利として享受されなければならないというのが本来の在り方です。それが、国のどこに住んでいるかによって格差が生まれない、社会的な公正さを少しでも経済的に保とうとするひとつの考え方であるわけです。ところが新自由主義経済政策というのは、国の責任をすべてかなぐり捨てて、資本の原理に基づいて、民間の競争力に委ねればそれでよいという、資本主義万々歳の考え方なわけです。
そうやって、ひとつの国の経済、あるいは予算の使い方が実現された場合に、その社会がどういうふうに荒廃していくものであるか、もうそれは現在の日本の労働状況、労働環境をみれば、誰の目にも明らかな事態になっています。
労働する人の権利が散々侵されて、企業はきわめて不安定な雇用形態しかとらなくなった。それは、この資本主義経済機構の中で企業が生き残るために必要な、競争原理に基づいた措置であると解釈されている。そうしたきわめて一方的な、雇う側に有利な考え方を、政府が言い、経団連が言い、メディアがそれに十分抵抗できないまま、ひとつの価値観として押し付けられていく。そういうときに、新自由主義経済政策が万人に受け入れられているわけではないという表現をどのように行なっていくか、そのことが問われてくると思うのです。
怒りと憎しみで一色になった日朝首脳会談後の日本社会
先に少し触れましたが、2002年の日朝首脳会談の問題に戻って、考えていきたいと思います。
2002年9月17日の日朝首脳会談で、金正日が、それまで否定してきた日本人の「拉致」を事実であったと認めて謝罪し、二度と繰り返すことはしないと述べた、ただ日本政府が拉致被害者として認定している13人のうち、8人の人はすでに死亡しており、5人のみ生存していると発表したという報道があったのが、あの日の夕方です。
この日の夜、テレビには、この間もよく登場されている横田さんご夫妻や、当時「家族会」の事務局長であった蓮池透さんなど「家族会」の人たちが前面に出ていました。そこで語られたのは、もちろん、悲しみもつらさもあっての、ある意味で当たり前な言葉であったわけですが、ぼくは夜、9時か10時ころ帰宅してテレビを見ながら、とんでもないことになるなと思いました。「とんでもない」というのは、日本社会が、朝鮮に対する、怒りと憎しみで一色になるだろう、そのようにメディアは機能し、人の心はそのように組織されるだろうということです。そして、この問題がはらんでいる本質はいったいどこにあるのかを、考えて明らかにしていくのは、たいへんなことだなと、ぼくは思ったわけです。
翌日から、実際そうなりました。新聞も一色でした。1か月後に5人の生存者が帰ってきて、それから2年近くたって子どもさんたちが帰ってくる。その間、日本のメディアは、この問題一色に染まったわけですね。
こういうときに、どういう観点から発言するか。これもなかなか、万人の、誰もがやることではない。
あえて「安易」と言っていいと思いますが、いちばん安易なのは、この風潮に同調することです。「もちろん亡くなった方は気の毒だ」、そして、その8人の家族を亡くした「『家族会』の人たちは気の毒だ」、「こんなことをやった朝鮮は許せない」、「金正日はけしからん」、「金日成の時代までさかのぼることじゃないか」と。
そして、その感情から「日本は今まで植民地支配云々で、後ろ指を指されてきたけれど、これでようやく我々は犠牲者になった。もう植民地支配の加害者として謝罪を要求されたりすることはない。これでおあいこだ。犠牲者として、被害者として何を言ってもいいんだ」という空気が生まれ、この社会に充満しました。
この中で、じゃあいったい、何をどのように異論として言うのか。これも万人受けのしない作業です。この問題についても、先に触れましたが貝原さんが仕事をしていた時代の中にあって、ぼくの考えでは皇室問題を除いた中での最も大きな問題のひとつと言える。繰り返しますが、新自由主義経済政策の問題と、同時多発攻撃と「反テロ戦争」の問題、それからこの日朝首脳会談以降の日本社会の問題に、今につながる問題が象徴されると思うのです。
ここでも貝原さんは、正面から取り組んだ形で作品を残しているということに触れておきたいと思います。
天皇制批判をどう表現するか――貝原浩と深沢七郎の「きわどい」表現
もうひとつは天皇問題です。反天皇制運動連絡会という組織が1984年でしたか、結成されて、今に至る活動が続いています。この、略称「反天連」の機関誌や様々なパンフレットに皇室関係の風刺画を描くというのも、80年代後半以降の、貝原さんの重要な仕事のひとつでした。
ひとつひとつの作品を紹介はしませんが、実際に今回の展示作品、図録をご覧になっていただけば、けっこうきわどい表現があることがおわかりいただけます。
昭和天皇裕仁が死んだのは、1989年。ですから貝原さんが、反天連の様々なことにかかわり始めた、わりあい初期のころですね。
裕仁については、彼が最期まで認めない、「文学上のアヤの問題は私は知らん」と言って、とうとう逃れてしまいましたが、戦争責任の問題が当然あります。しかし戦争責任については、それなりに描きやすいということはないかもしれないけれども、批判的な問題提起をしようというときには、問題の立て方としては、すっきりできると思います。
難しいのが、その後に天皇になり皇后になった、現在の、1989年以降のいわゆる、あえて元号を使えば、「平成」天皇と「平成」皇后のあり方をどのように表現するのかということだと思います。これはけっこう難しい問題です。
この間の日本の政治社会状況の中でも、例えば安倍晋三との対比において、天皇が繰り返し言う、平和への強いメッセージ、あるいは戦争犠牲者に対する海外を含めた慰霊訪問、そうしたことをひとつの象徴ととらえ、「これは安倍の戦争路線に対する内に秘めたる批判である」というような解釈をする人たちがいます。大衆運動の中にもいるし、いわゆる文化人的な人たちの中にもいないこともない。「ああ、戦争と平和の問題について、このような発言をする天皇や皇后をもって幸せだ」という、そのようなことさえ言う人たちがいる。
ぼくは、そのような考え方には反対の立場ですが、この問題はしかし難しい。
反天連の機関誌にはぼくも、この間、8年くらいでしょうか、もう90回くらいになる連載のコラムを持っています。それは貝原さんが、反天連に挿絵や風刺画を提供していた時代とは彼の死を挟んで、ずれてしまうので、機関誌の中で一緒にやったことはないんですけれども。
その機関誌の中でもよく問題にされることですが、現在の天皇皇后のあり方について、どのような言葉で、どのようなアプローチの仕方で、うまく批判できるか。昭和天皇のときと違って、ちょっと難しい。ここに、貝原さんがいない、亡くなって、今に至るこの12年間の空白ができてしまったのが、ぼくは非常に残念なことだと思っています。
貝原さんの表現は「きわどい」と言いましたけれども、しかし天皇制についての表現が、これほどまでにみんながびくびくしたり、ちょっとこれはやばいんじゃないかと思ったりするというのは、それほどずっと続いているわけではありません。
ぼくの記憶する中で、2つの例を挙げますが、これはいずれも、作家の深沢七郎の表現にかかわる問題です。
深沢七郎は『楢山節考』でデビューした、ぼくは優れた作家のひとり、忘れがたい作家のひとりだと思っています。彼が1960年12月の『中央公論』というあの、今や読売新聞社の傘下にある出版社、中央公論社の出している月刊誌ですが、そこに、『風流夢譚』という小説を書きます。
現在はインターネットの時代なので、いろいろな形で読むことができますが、「夢譚」という、つまり夢のお話です。掲載が11月発売の12月号で、いわば年末から正月にかけてのちょっとした夢物語として書かれたものです。しかし60年安保の年であり、現在の天皇と皇后が結婚した翌年ですから、そうしたことを反映しています。実際の当時の天皇皇后、現在の天皇皇后も実名で出てきますが、首都でサヨクの革命のようなことが起こったというので、見に行くと天皇の首が切られた胴体があったりする。「革命」といい、「サヨク」といっても、そのサヨクのヨクが慾望の慾の「左慾」ですからね。ウソ物語、夢物語です。しかし皇太子の首が斬られ、美智子の首が斬られて「首がスッテンコロコロカラカラカラと金属性の音がして転がっていった」というような表現を含めてある、そういう作品です。
作品の評価は別個行なうべきだとして、そんな作品が1960年に、『中央公論』という総合雑誌に載っていたわけです。その結果、これを怒った右翼の人間が版元の中央公論社の社長宅を襲って、お手伝いさんが亡くなるという事件が起こってしまいました。
日本の出版界が、天皇表現について委縮し始めたのがこれ以降です。ですから57年間、せいぜい半世紀ちょっとです。
この深沢七郎という人はもうひとつ、1959年の講談社の文芸雑誌『群像』に「これがおいらの祖国だナ日記」というエッセイを書いています。これは、天皇家に、民間の血が入ったことに対する残念な思いを書いたものです。
つまり、天皇家というのは「血族結婚」を続けていって、「ムカデの様な」、「皮をむいた蝦や蝦蛄(シャコ)の様で、くねくねと動いている」一家になって、その一家の写真を、「国民は『これがおいらの祖国だナ』と、国賓の様な、偶像の様な、神秘な、驚異や、尊厳の眼で見つめるのだ。(それが、すつかりダメになつちゃつたんだよ)」「僕は御成婚の日にテレビを見ながらガッカリして眺めていた」というのですから、これはちょっとすごい表現でしょう。
今だったら、まず『群像』が載せるはずがない。載せたら何が起こるかわからないというような表現です。しかし、半世紀ちょっと前には、その手の自由さはあったんです。
深沢七郎はほんとうにおもしろい人で、余談ですが、米国大統領のケネディが殺されたとき、赤飯を炊いて隣近所に分けたという。みんな怪訝な顔をするわけですが、「いやあ、戦争をする奴が亡くなったからめでたいでしょう」と言ったとか。彼は、そういうことを、正直にできる人だったんですね。
この社会にそういう人がいてよかったなと思うんですけども、そういう、ある意味まっとうな発想で、そのとおりのことを言っていた文学者だったと思います。
つまり、天皇制に対する批判的な言辞に臆病になってしまう、委縮してしまうというのは、ごくごく最近だということ。深沢氏の表現に対する右翼テロがあって、それに大きなメディアが怖気づいて、やがてこれほどに無抵抗な、批判的な言論が一切ないような時代が来てしまった。これがこの半世紀の問題ですし、少しでもこの天皇制という余計なものに対する批判の空間、言論空間を広げていかなければならないと思います。
しかし残念ながら、やはり違うベクトルから天皇一家を表現するものが、この社会では圧倒的に受ける、万人受けするわけです。それになんら疑問を抱かない。批判的な言論はものすごくマイナーな反天連の機関誌でしかなされていないということは、ほとんどの人の目には触れないわけです。批判のないのが当たり前になってしまう。そして天皇がらみのことでは反射的に、なにか、丁寧な言葉を使って崇め奉ってしまう。それが、どれほどこの社会を不自由にしているかということを指摘したいと思います。
犯罪への反応からみる、万人に受け入れられる考え方の恐ろしさ
もうひとつ、万人に受け入れられないものには、たとえば犯罪報道があります。
社会的な関心を呼び起こす凶悪な事件を含めた犯罪事件が起こったとき、その事件によって殺された犠牲者に成り代わる、あるいは犠牲者の遺族に成り代わって犯人をつるし上げる。これが、なぜかわからないけれども、社会にいちばん浸透している人々の心の在り方です。
貝原さんが生きた時代の中では、「ロス疑惑」と呼ばれた三浦和義さんの事件があって、それを扱った絵も展示されています。あの事件のころ、ぼくはテレビを買ったばかりだったということもあって、珍しくてニュースショーなどを見ていました。レポーターというんですか、みんなマイクを持ってワーッと三浦さんのところに押しかけていく。
最初は『週刊文春』がスクープして、「ロス疑惑」というのを暴き始めたわけですが、そしてテレビが犯人に仕立て上げてしまい、後追いで警察が介入する。もう三浦和義という人に対する、罵倒と憎悪、それが満載の社会になっていました。
現在はなおさらです。先だっても、おそろしい事件がありました。パーキングでの駐車の仕方を注意された若者が、その注意した人の車を高速で追いかけて、走行を妨害して、結果、後ろから来たトラックに追突されて注意した側のご夫婦が亡くなるという悲惨な事件があった。
この事件について、20代の若者の名前が出ました。どこに住んでいるか、地名も出ました。そうするとなぜかわざわざその名前を調べて、「この店のバカ息子がやったに違いない、こいつがオヤジだ」というように、だれかがインターネットに上げた。するとそのネット情報に基づいてどんどん嫌がらせ電話が、間違えられた人のところに入って、仕事にならないと。そういうことが報道されていました。
ここまでこの社会はひどくなっている。いわゆる「テロ」事件でも、「拉致」事件でも、凶悪事件でもそうですが、圧倒的多数の新聞、報道記者、テレビ視聴者は第三者です。その事件の犠牲者でもなければ犠牲者の遺族でもない、加害者の側にいるわけでもない。99.9パーセントの人たちはその事件の当事者ではありません。第三者だからこそ、冷静に、なぜこんな悲劇が起こるのかを考え、こうした悲劇が起こらない社会にするために必要なことは何か、どんな考え方が、どんな行動が必要なのかを冷静に考える、そういうことができる位置に本来はいるわけです。
ところが、この社会ではそうならない、いたずらに、ひとり興奮してしまって、その犠牲者に成り代わり、遺族に成り代わって加害者をバッシングする側になる、それをテレビメディアは先頭に立って、週刊誌メディアがそれを追い、場合によっては新聞メディアも加わって、それがいかにも、社会の万人に通用する考え方であるかのように検証してしまうわけです。
万人に受け入れられる考え方というのは、これほどまでに恐ろしい、そういう時代になっていると思います。
それはインターネットによって加速した。パソコンが普及し始め、インターネットが普及し始めた元年は1995年だと思いますが、貝原さんはネット社会がだんだんと人々の心の中に浸透していく、その初期の段階の10年間を、彼は並走したわけです。それから12年経って、このネット社会というものが、どれほどまでにひどい状態になっているのか、貝原さんが体験できたならば、いったいどういう風刺を描いていただろうか。これも彼の作品を、見ながら考えたことでした。
劣化した社会の中でこそ、「万人」の表現になびかず、抵抗の表現を
もうひとつ重ねて終わりにします。
ぼくは先ほど触れた、2001年に小泉政権が成立した以降、小泉の時代に書いた文章の中で何回か、「言葉が死んだ」といいますか、そういう表現を使ったことがあります。
小泉純一郎というのは、人が発する言葉からその本質的な意味を奪い取ってしまう政治家の典型です。言葉で、論争をするとか論戦をするとか、そうしたことが不可能なところに、そういう劣化した状態に社会を追いやってしまったと思います。
どういうことかというと、例えば2003年、自衛隊の「イラク派兵」が問題になったときに、「非戦闘地域にしか自衛隊は派遣しない」と当時の小泉政権は言っていて、それなら、そのときのイラクの戦闘地域と非戦闘地域をどういうふうに分けて判断しているんだと野党が質問すると、小泉は何と答えたか。「どこが非戦闘地域でどこが戦闘地域かと、いま永田町にいるこの私に聞かれたって、わかるわけないじゃないですか」と答えた。質問に対するとてつもない居直りです。
野党の質問の仕方にも問題はありましたが、しかし戦闘地域と非戦闘地域がわけがわからない人間が、最高責任者として自衛隊を派遣しているという、そういうことになってしまうわけです。
そんな派遣の無責任性を批判していく展開が必要ですが、「わかるわけがないでしょう」と言って、情けないことに野党の追及はそこでストップしてしまうわけです。
あるいはまた、2004年、年金の問題のときに、小泉自身の厚生年金加入疑惑を質されると、島倉千代子の歌にかけて「人生いろいろ、会社もいろいろ、社員もいろいろだ」などと言って、まともに質問に答えない。言葉に向き合うのではなくて、ずらしたところで、答えたつもりにさせてしまう。ある意味、ものすごく巧みな人間でした。あらゆることから人間の発する言葉の意味を奪い、論争するという機会をずるずると奪ってしまいました。
小泉という、ほんとうに口の軽い、言葉の軽い、とんでもない人間が5年間、あれだけの人気を誇って首相の座にいた。あのときから、ぼくは、日本社会が、日本の政治が、それまでもとんでもない政治が行なわれていたけれども、もう一段階、国会論戦のあり方を含めて、とんでもない時代が来てしまったのだと思います。
その小泉の後継指名を受けたのが安倍晋三です。せっかく1年間で辞めてくださいましたが、残念ながら自民党内の勢力的な問題があって、2012年にまた復活し、とうとう5年間の長期政権が続いてしまいました。彼の下で言葉がさらに意味を失ったことはみなさん、日々、実感されていると思います。
とにかく話にならない、論争にならない。あれだけはぐらかし、まともに答えないで、しかし、野党の力不足で、あるいは質問時間がなくて、どんどん既成事実として進んでいく。これほどまでに風刺も効かない、言葉が本来の意味を持たず、風刺も効かなくなった時代に、貝原浩が生きていたらいったいどんな風刺画を描けたんだろうというのが、たいへん興味のある問題です。
ぼくはほんとうに、小泉政権以降のこの16年間、こういう時代に、社会や政治のあり方に対して批判的な文章を書くということの意味はいったい何なんだと、いったいどこに手ごたえを感じたらいいのだろうということを、つくづく思うようになりました。
しかも、社会は大きく転換して、いくら選挙制度に不備があろうと、社会全体はここまでこう、抵抗力を失って、劣化して現在に来てしまったわけです。
いろいろな問題点を指摘することはできるけれども、しかし小泉的なもの、安倍的なもの、米国であればトランプ的なもの、そうしたものを支える社会層が、それなりに厚みを帯びて、この社会を形成してしまっている。それが「万人」であることのように装って、この社会を仕切っている。そういう時代を迎えてしまったわけです。
こういうときに、この「万人」の表現になびかず、こんな表現が、こんな政治家が受けるのはあやしいというふうに踏みとどまって、考え、行動する。踏みとどまって文章として、絵として、演劇として、映画として、様々な表現を行なう、そういう人間が途絶えてはいけない。そのことを十分思いつつ、同時にその難しさも思うわけです。
繰り返しになりますが、こんな、なんと名づけていいのかわからないへんてこな時代に貝原浩が生きていたら、いったい彼は、これに抗う、どんな抵抗の表現をしていただろうかということを考えながら、なんとかこの時代を乗り切っていきたいなということを考えています。
(2018年2月13日発行 発行責任:貝原浩の仕事の会)