現代企画室

現代企画室

お問い合わせ
  • twitter
  • facebook

状況20〜21は、現代企画室編集長・太田昌国の発言のページです。「20〜21」とは、世紀の変わり目を表わしています。
世界と日本の、社会・政治・文化・思想・文学の状況についてのそのときどきの発言を収録しています。

太田昌国のみたび夢は夜ひらく[76]もうひとつの「9・11」が問うこと


『反天皇制運動Alert』第3号(通巻385号、2016年9月6日発行)掲載

まもなく「9・11」がくる。多くの人が思い起こすのは、15年前、すなわち2001年のそれだろう。ハイジャック機が、唯一の超大国=米国の経済と軍事を象徴する建造物に自爆攻撃を仕掛けたあの事件を、である。もちろん、これは現代史の大きな出来事である。だが、ここでは、43年前、すなわち1973年の「9・11」を思い起こしたい。私の考えでは、これもまた、世界現代史を画する大事件のひとつである。

南米チリで軍事クーデタが起こり、その3年前に選挙を通して成立した、サルバドール・アジェンデを大統領とする社会主義政権が倒されたのだ。このクーデタは、内外からの画策が相まって実現した。チリに多大な経済的な利権を持つ米国支配層は、新政権の社会主義化政策によって、それまで恣に貪ってきた利益が奪われることに危機感をもった。CIAを軸に、アジェンデ政権を転覆させるための政治的・経済的・民心攪乱的な策動を直ちに始めた。チリ国内にも、それに呼応する勢力は根強く存在した。カトリック教会、軍部、地主、分厚い上流・中産階層などである。3年間、およそ千日にわたる彼らの合作が功を奏して、軍事クーデタは成った。

当時、私はメキシコにいた。そこでの生活を始めて、2ヵ月半が経っていた。軍事クーデタのニュースに衝撃を受け、日々新聞各紙を買い求めは熟読し、ラジオ・ニュースに耳を傾けていた。9月末頃からだったか、左翼・右翼を問わず亡命者を「寛容に」受け入れる歴史を積み重ねてきているメキシコには、軍政から逃れたチリ人亡命者が大勢詰めかけてきた。いずれ、その中の少なからぬ人びとと知り合いになるが、初期のころ新聞に載った一女性の言葉が印象的だった。「記憶」で書いてみる。愛する男(夫か恋人)が軍部によって虐殺されたか、強制収容所に入れられたりしたかのひとだったろう。「相手を奪われて、セックスもできない日々が続くなんて、耐え難い」。軍事クーデタへの怒りが、このように語られることに「新鮮さ」を感じた。

2010年、チリ軍事クーデタから37年を経た時期に、大阪大学で或る展覧会とシンポジウムが開かれた。軍政下のチリで、女性たち創っていた「抵抗の布(キルト)」(現地では、アルピジェラ arpillera と呼ばれている)の意味を問う催しだった。私もそこへ参加した。アジェンデ社会主義政権に荷担していた男たち(左翼政党員、労働組合員、地域活動家など)が根こそぎ弾圧されて、ひとり残された女たちが拠り所にしたのが、抵抗の表現としてのキルト創りだった。一般的に言えば素朴で拙い表現とも言えるが、下地には「いなくなった」人のズボンやシャツ、パジャマの生地が使われている。語るべき「言葉」を持っていた男たちが消されたとき、言葉を奪われてきた女たちは別な形で「表現」を獲得した。それが、軍政下の抵抗運動の、「核」とさえなった――岡目八目ながらも、私はそのことの意義を強調した。そして付け加えた。チリ革命の只中で実践された文化革命的な要素がそこには生きているのではないか。すなわち、表層的な政治・社会革命に終わるのではなく、人びとが置かれている文化環境(従来なら、北米のハリウッド映画、ディズニー漫画、コミック、女性誌など、一定の価値観を「それとなく」植えつける媒体が圧倒的な力を揮っていた)に対する地道な批判活動が展開されていたからこそ、軍政下で「抵抗の布」の活動が存在し得たのではないか、と。

アジェンデ社会主義政権下の試行錯誤の実態と、軍事クーデタ必至の緊迫した状況を伝える パトリシオ・グスマン監督のドキュメンタリー『チリの闘い』(1975~78年制作)がようやく公開される。社会主義政権の勝利を願う「党派性」をもつ人びとがカメラを担いでいる。だが、現実は仮借ない。激烈な言葉が宙に舞い、現実はまどろっこしくもひとつも動かない状況を写し撮ってしまう。デモや集会に目立つのは若い男たち。女たちは、日常品不足のなか生活用品獲得に精一杯だ。撮影スタッフは5人程度だったというから、まぎれもなく進行していた〈階級闘争〉の攻防は主として都市部で撮影され、先住民族の土地占拠闘争が進行していたチリ南部農村地帯の状況はスクリーンに登場しない。〈欠落〉を言えばキリがない。だが、進行中の〈階級闘争〉の現実をここまで描き出した記録映画は稀だ。この状況下で、どうする? ああすればよい、こうすればよい――戸惑いつつも、何ごとかを決断して、前へ進まなければならぬ。

40年前のこの映画には、今を生きる私たちの姿が、描き出されている。(9月4日記)

映画『チリの闘い』に関する情報は以下へ→

https://www.facebook.com/Chile.tatakai/

太田昌国の、ふたたび夢は夜ひらく[57]「戦争」と「テロ」を差別化する論理が覆い隠す本質


『反天皇制運動カーニバル』22号(通巻365号、2015年1月13日発行)掲載

宗教上の信仰が、ある種の「狂気」を帯びて表現されることがあることは、歴史上たびたび見られることである。スペイン王の資金援助で行われたコロンブスの大航海に始まる「征服」は、キリスト教を錦の御旗に立てて行なわれたが、それがどれほどの残忍な先住民の虐殺と奴隷化を伴っていたかは、よく知られている。いきなり現代に跳んで、オウム真理教に集う一部の人びとが確信をもって行なったいくつもの殺人行為も挙げることができる。最近でいえば、「イスラム国」なりイスラム教徒が絡んでいると伝えられる「テロリズム」行為が頻繁に起こっている。若いころをふりかえれば、それが宗教的な局面に限らずとも、我が身のことでもあったと思う人は少なからずいるだろうが、自らが信奉する理念に過剰な意味付与をして、自分の客観的な姿を見失い、その道をまっすぐに突き進む人びとは、絶えることはないのである。

去る1月7日パリで起きたばかりの新聞社襲撃事件も、むごい事件ではあった。事態の真相は今後の解明を待つしかないが、12人の中に風刺漫画家のシャルブことステファヌ・シャルボニエが含まれていることに、小さくはない衝撃を受けた。フランスのLCR(革命的共産主義者同盟)の創始者のひとりで、NPA(反資本主義新党)の創立にも参加したダニエル・ベンサイド(1946~2010年)に、ひたすら護教的であることの制約から解放された、いかにも現代的なマルクス入門書『マルクス〔取扱説明書〕』がある(つげ書房新社、2013年)。シャルブはこの書に、幾枚もの挿絵を寄せているが、その絵は、翻訳者もいうように「諧謔に満ちた痛烈な」もので、描き手が柔軟な精神の持ち主であることを思わせる。今回新聞社を襲撃した者たちは「預言者(ムハンマド)の復讐だ」と叫んだと伝えられているが、シャルブおよび週刊紙「シャルリー・エブド」がこれまでムハンマドを(というよりは、風刺画としては、ムハンマドを護教的に崇拝する者たちの在り方をこそ描いていたのではないか、と推測するのだが)どのように描いてきたのか、その「風刺性」がどんな水準で成立していたのか、大いなる関心を掻き立てられる。

今回の報道を見ながら、もうひとつ指摘しなければならないことがある。フランスのオランド大統領を含めて、口をきわめて「テロを非難」する各国の政治家たちの言動とメディアの報道の在り方に関して、である。「イスラム国」の現実やイスラムを標榜して行なわれている「テロリズム」が、仮にどんな非難に値するものであったとしても、それらが生まれてきた背景には、時間的に短く見ても、2001年の「9・11」事件以降、米国が主体となりNATO(北大西洋条約機構)加盟の各国などが加担してきたアフガニスタンおよびイラクにおける「反テロ戦争」があることに疑いはない。それが、どんな虚構に満ちた「戦争の論理」であるかということを、私たちは当初から批判してきた。この政策を推進した前ブッシュ政権で国防長官を務めたラムズフェルドも、国務副長官であったアーミテージも、今になって「歴史や文化が違う他国に、自分の国の統治システムを強いることができるとは思わない」とか「イラク侵攻は最悪の誤り」などと語っている(2014年12月30日付毎日新聞)。

彼らの常套手段は、国家が発動する「戦争」と個人か小集団が行なう「テロ」の間に万里の長城を築いて、差別化を図ることである。国家が行なう行為である以上、彼らの考えでは、「戦争」は非難を免れ得る。逆に「テロ」は国家という正統なるものを背後にもたないがゆえに、無条件に非難の対象となるのである。「戦争」とは「国家テロ」にほかならないのではないか、という疑念が彼らの頭の片隅をよぎることすらない。

昨今、オバマ大統領は、パキスタン、イエメン、アフガニスタン、イラク、イスラム国などで無人機爆撃を展開しているが、その結果地上にどんな惨劇が生じているかが、せめて今回のパリ事件のように大きく報道されるならば、「戦争」と「テロ」が相関関係にある現実が、人びとにくっきりと印象づけられるだろう。今回のパリの死者の場合、私が触れたシャルブのように12人のうち少なくとも5人の風刺漫画家は、写真とともに名前が明示された。アラブ世界のどこかできょうも、米国の無人機からの爆撃を受けて死んでゆく人びとの場合は、名前どころか死者の正確な数が報道されることすら稀だ。この「非対称性」こそが、問題の根源にあることを忘れるわけにはいかない。

(1月10日記)

「もうひとつの9・11」――チリの経験はどこへ?


DVD BOOK ナオミ・クライン=原作 マイケル・ウィンターボトム/マット・ハワイトクロス=監督作品

『ショック・ドクトリン』解説(旬報社、2013年12月)

2001年9月11日米国で、ハイジャック機による自爆攻撃が同時多発的に起こった。この事件を論じることがここでの目的ではない。少なからずの人びと(とりわけラテンアメリカの)が、この事件によって喚起された「もうひとつの9・11」について語りたい。それは、2001年から数えるなら28年前の1973年9月11日、南米チリで起こった軍事クーデタである。その3年前に選挙によって成立した世界史上初めての社会主義政権(サルバドール・アジェンデ大統領)が、米国による執拗な内政干渉を受けた挙句、米国が支援した軍部によって打倒された事件である。

2001年9月11日以降、米国大統領も、米国市民も、なぜ米国はこんな仕打ちを受けるのかと叫んで、「反テロ戦争」という名の報復軍事作戦を開始した。「もうひとつの9・11」は、実は、1973年のチリだけで起きたのではない。世界の近現代史を繙けば、日付は異なるにしても、米国が自国の利害を賭けて主導し、引き起こした事件で、数千人はおろか数万人、十数万人の死者を生んだ事態も、決して少なくはない。そのことを身をもって知る人びとは、2001年の「9・11」で世界に唯一の〈悲劇の主人公〉のようにふるまう米国に、底知れぬ偽善と傲慢さを感じていたのである。

同時に、ラテンアメリカの民衆は、1973年の「9・11」以降、世界に先駆けて、チリを皮切りにこの地域全体を席捲した新自由主義経済政策のことも思い出していた。アジェンデ政権時代には、従来の社会的・経済的な不平等にあふれた社会で〈公正さ〉を確立するための諸政策が模索されていた。外国資本の手にあった鉱山や電信電話事業の公共化が図られたのも、その一環だった。軍事クーデタは、これを逆転させた。すなわち、新自由主義政策が採用されたからだが、日本の私たちも、遠くは1980年代初頭の中曽根政権時代に始まり、近くは2000年代の小泉政権時代に推進されたこの政策に、遅ればせながら晒されていることで、その本質がどこにあるかを日々体験しているのだから、政策内容の説明はさして必要ないだろう。

1980年代初頭に制作されたボリビアのドキュメンタリー映画に、印象的なシーンがある。軍事政権時代に莫大に流入していた外国資本からの借款が、どこへいったのかと人びとが話し合う。高台にいる人びとは、下に見える瀟洒な中心街を指さし、「あそこだ!」と叫ぶ。そこには、シェラトン、証券会社、銀行などが入った高層ビルが立ち並んでいる。周辺道路もきれいに整備され、さながら最貧国には似つかわしくない光景が、そこだけには現われている。「あそこで使われた金が、いま、われわれの背に債務として圧し掛かっているのだ」と人びとは語り合うのである。これは、新自由主義経済政策下において導入された外資が、その「恩恵」には何ら浴すことのない後代の人びとに債務として引き継がれる構造を、端的に表現している。

だが、世界に先駆けて新自由主義経済政策の荒々しい洗礼を受けただけに、ラテンアメリカの人びとは、その本質を見抜き、それを克服するための社会的・政治的な動きをいち早く始めた、と言えるだろう。国によって時間差はあるが、20世紀も終わりに近づいた1980年代以降、次第に軍事政権を脱して民主化の道をたどり始めた彼の地の人びとは、新自由主義によってズタズタにされた生活の再建に取り組み始めた。旧来の左翼政党や大労働組合は、この経済政策の下で、また世界的な左翼退潮の風潮の中で解体あるいは崩壊し、この活動の中軸にはなり得なかった。民衆運動は、地域の、生活に根差した多様な課題に取り組む中で、地力をつけていた。新自由主義政策が踏み固めた路線に沿って、さらに介入を続ける外国資本を相手にしてさえ人びとは果敢に抵抗し、ボリビア・コチャバンバの住民のように、水道事業民営化を阻止するたたかいを展開した。

政治家にあっても、社会改良的な立場から自国の政治・経済・社会の状況に立ち向かおうとすると、既成秩序の改革が必要だと考える者が輩出し始めた。彼(女)らの関心は、差し当たっては、新自由主義が根底から破壊した社会的基盤を作り直すことであった。20世紀末以降、ラテンアメリカ地域には、世界の他の地域には見られない、「反グローバリズム」「反新自由主義」の顕著な動きが、政府レベルでも民衆運動レベルでも存在しているのは、このような背景があるからである。

「もうひとつの9・11」――チリの悲劇的な経験は、それを引き継ぎ、克服しようとする人びとの手に渡っているというべきだろう。

太田昌国の夢は夜ひらく[30]九月の出来事に、何を思うか


反天皇制運動『モンスター』第32号(2012年9月11日発行)掲載

生きてきた時代の中で、忘れられぬ出来事が詰まった月がある。個人的なことで言えば誰にせよあれこれあるだろうが、現代史の中で起きた社会性を帯びた出来事という観点から言えば、私の場合は、9月が随一だろうか。

まずは、40年近く遡る。1973年9月11日、南米チリで、社会主義政権を打倒した軍事クーデタが起こった。その3年前の1970年、チリの一般選挙で、社会主義者サルバドル・アジェンデが当選した。武力によってではなく、選挙を通じて成立した、世界史上初の社会主義政権であった。その3年前、隣国=ボリビアではチェ・ゲバラが殺されたが、その前後には、1959年以降「キューバに続け」とばかりにラテンアメリカ全土で闘われていた反政府武装ゲリラ闘争が相次いで敗北していた状況に照らすなら、それは、社会変革を実現するうえで新しい道を切り拓く経験であった。ひとによっては、それを「銃なき革命=チリの道」と呼んだ。

チリ革命は、政治・経済過程の変革はもとより、帝国主義文化の浸透に関わる批判的な分析で見るべき成果を挙げたが、それが3年間の試行錯誤の果てに軍事クーデタによって挫折したのだった。鉱山企業や通信事業の国有化によって、従来享受してきた特権的な利益を剥奪された米国の画策がこのクーデタの背後にあったことは、言うまでもない。平和革命の道が、相も変わらぬ、超大国が画策した軍事力によって潰えていくこと――その際立った対照性を、胸に深く刻み込んだ多くの人びとがいた。

それから28年を経た2001年9月11日、私たちの記憶になお生々しい事件がニューヨークとワシントン郊外などで起こった。高層の世界貿易センタービルや、五大陸の軍事的制覇の野望を表現しているのではないかと私が疑っている、五角形の奇怪な形をしたペンタゴン・ビルに、ハイジャック機が激突したのである。「9・11(September Eleventh)」の略称によって、世界中に知れ渡っている出来事である。私は、事件の死者たちを悼みつつも、同じ日付を持つチリ・クーデタの記憶が消えていない者の立場から、この「悲劇」を米国が独り占めすることなく、自らが世界各地で軍事力の行使によってつくり出してきた「数多くの9・11」を思い起こし、世界近現代史上におけるそのふるまいを内省する方向へ向かうこと――そのことをこそ望んだ。

その後の事実が明かしているように、実際には、そうはならなかった。むしろ、逆であった。米国の為政者は、世界史上かつってなかったような悲劇の主人公として自らを演じた。犠牲にさらされた者は、どんなことをしても許される――端的に言って、こんなことをしか語っていない大統領が行なった「報復戦争」の呼号が、米国社会を丸ごと捉えた。悲劇を口実に、新しい戦争が始められた。まずはアフガニスタンで、次いでイラクで。それからの11年間に、どれほどの悲劇が積み重ねられてきているのか。世界はまだ、正確な形では、そのことを知らない。

その翌年の9月の出来事は、東アジアの規模で起こった。2002年9月17日、日朝首脳会談がピョンヤンで行なわれた。戦後57年を経ていながら、いまだに国交回復すらできていない、したがって、植民地支配の清算もついていない朝鮮と日本、二国間の関係を正常化することが最大の眼目であった。その席上、朝鮮側首脳は、推測されてきた「朝鮮特務機関による日本人拉致」が事実であったと認めて謝罪した。植民地支配や侵略戦争を行なった過去を指して、その「加害者性」を指弾されてきた日本社会は、或る拉致被害者の家族が語ったように、「これでようやく被害者になれた」と誤解して、「負い目」を払拭した。政府も、メディアも、社会も、丸ごとそのような感情に支配されて10年――したがって、事態は膠着し、二国間の関係の正常化どころか、拉致問題の進展も見られない。こうして、戦後67年が経ってしまった。

それぞれの社会が、震撼させられる重大な事態に見舞われることで、自らをふり返り/改めるせっかくの機会を得ながら、逆にそれを自己正当化の口実にしてしまう。人間社会の愚かさを明かしているようで、9月の出来事は哀しく見える。(9月8日記)

「どう向き合う? 原発・震災・安保・沖縄」


「9条改憲阻止の会」合宿での講演(2011年8月27日、東京・本郷にて)

『情況』2011年10・11月合併号(2011年10月1日発行、情況社)に掲載

いただいたタイトルは「どう向き合う? 原発・震災・安保・沖縄」ということでした。3・11からまもなくまる6カ月が経つわけですけれども、その間に、心に残る様々な言葉とかあるいは忘れることのできない現実とか、そういうものをたくさん目にしたり耳にしたりしてきました。その中から、ごく最近の、二つのことがら、すなわち一つの言葉と一つの現実をきっかけにして今日の問題を考えたいと思います。一つ目は、8月10日付けの毎日新聞夕刊に出たアンゲロプロス監督の言葉です。彼は「旅芸人の記録」など非常にすぐれた映画を作ってきているギリシャの映画監督ですが、毎日新聞記者のインタビューを受けていました。短いものだったのですが、そこでは、三陸の震災と福島の原発事故の現実を目撃した後の気持を語っておりました。ご存知のように、現在ギリシャはEUの経済危機を引き起こしている一つの要因として、国際金融市場によって低い格付けをされています。それは、イタリアやスペインも抱えている問題ですから、ドイツのメルケルなどに言わせれば、地中海の人間はもう少ししっかり働けという、そういうふうに名指しされている国であるわけですけども、アンゲロプロスはそのギリシャの現実に関わって、こう言うのです。自分たちはあの60年代から70年代にかけての軍事政権のもとにあってさえ、なにか、いつかはもっとよい時代を迎えることができるということを確信することができた。ところが、今は、次の物語が全く見えない。未来が見えない分、最悪の時代だという、そういうことを語っていたわけですね。これは、あえて言えば、私自身がこの間感じていることと重なります。私の場合は、10年前の9・11以降の10年間の世界情勢、それに随伴した日本の情勢を見ながら感じてきたことで、そのような意味では非常に共鳴するものを感じました。ですから、あえて、まず触れておきたい言葉です。かつての武装闘争とは異なる形を取るだろうが、何かが爆発せずにはおかないだろう、という気持ちも私はアンゲロプロスと共有しています。

もう一つは、福島県南相馬市小高区にある、埴谷雄高と島尾敏雄の名前をとった記念文学資料館のことです。埴谷さんが生まれたのは台湾ですし、島尾さんは横浜ですから、生地という意味では違うわけですが、二人とも本籍地をここに持っています。二人は、生前仲がよかったから、一緒に相馬を訪ねたりしているわけですね。ですから、その後、現在に至るまで、二人の名前をとった記念文学資料館が作られていて、埴谷さんの書き込みがある蔵書などもそこに収められているわけです。しかし、そこは、南相馬市小高区ですから、原発事故のために立ち入り禁止区域になっています。震災の影響もありますし、中にある様々な展示物を持ち出すことが出来ない状態になっているわけですね。私は埴谷さんにはいろいろな意味で、直接知りあうというかたちではなくて、本を通して文学的にして思想的な影響を受けた人間だと自覚しています。ついにボルシェヴィズムの道に足を踏み入れず、思想的にアナキズムに親しい感情を持ち続けてきたのは、埴谷さんの影響だと思っています。島尾さんも戦後文学の中では不可欠な人物ですし、歴史・文化論的には「ヤポネシア」論の提起が忘れ難い仕事でした。ですから、震災と原発事故の一つの結果として、彼らの記念館がこういう状況になっているということに関わっては、いろいろと思いが深いものがあるわけですね。今月末まで池袋のジュンク堂書店では、この文学館を原発事故から救うために小さな展示即売会が行なわれています。その企画をした書店員の企図を代弁するなら、福島県の一部地域は行政によって立ち入り禁止区域とされ、今後さらに拡大されるだろう状況にあるわけですけれども。思想や文学の問題領域には「立ち入り禁止区域」というのはないだろう、あるべきではないだろうという立場から、どこまで物を言い続けることができるのか。そういう課題を考えている次第です。

以上を前置きにして中身に入っていきます。世界が大きく変わった、自分たちが生きている現代世界が大きく変わったという指標は、時期的にいくつか取り出すことが出来ると思いますが、時間的に間近な過去を振り返れば、あと2週間たらずで10周年を迎える9・11、ニューヨークのワールド・トレード・センターとワシントン郊外のペンタゴンに対して、ハイジャック機が突入していった、あの事件以降の10年間ということで、いろいろな問題を考えることが出来るだろうと思います。3・11とあえて対比的に9・11が私たちに持った意味を考えてみましょう。

そのちょうど10年前に、つまり1991年の12月、ソ連邦は解体しました。そして、当時は、父親ブッシュが米国大統領であった時代ですが、これで、ソ連、すなわち悪魔のようなソ連共産主義が敗北した。いよいよ資本主義というシステムが唯一、人間の理性にも本能にもかなった社会システムであることが実証された――この言葉をきっかけにして、グローバリゼーションという言葉が世界的に深く浸透していきました。市場原理が唯一絶対の真理である。その中で競争し合って敗北するものは仕方がない。勝利するものの繁栄によって世界全体の生活水準が上がっていけばそれでよい――そういう考え方が全面的に非常に大きな浸透力をもって、世界に及び始めた。そのような時代が約10年間続いた後、2001年9月11日にあの事件が起ったわけです。私は、あの作戦それ自体について共感をもつとか賛成するとかいう気持ちは、当時も今もありません。様々な疑問と批判を持つわけですけれども、しかし、一方で考えることは、資本主義、現代資本主義がグローバリゼーションというかたちで勝利を謳歌する中で、いったいこの世界の中にどんなマイナスの現実をもたらしているかということに関して、その担い手たちはまったく無頓着であった。なんら顧みることはなかった。そういうことに対する一つの絶望的な抵抗の表現であったとは思うわけです。ですから、もし、当時の米国社会が、あるいは米国の為政者が、あの9・11に至る悲劇を一人占めにするのではなくて、ほかならぬ米国自身が20世紀の1世紀を通じて世界各地で行って来た政治的・経済的・軍事的な振る舞いが、様々な9・11を世界各地に生みだしてきたこと、つまり、3千人規模の死者を生みだすような軍事作戦は、米国社会の近現代史を振り返ると枚挙にいとまがないぐらいあるわけです。そういう意味では、あの悲劇を、かれらが独占するわけにはいかない。歴史を冷静に振り返る視線があれば、このようなことは出来ないというふうに考えました。あの時代に戻れば、ソ連の崩壊によってグローバリゼーションの勝利を謳歌してきた過去10年間を振り返ると、別な道を探すことはできた。しかし、ブッシュはそうしなかったわけですね。それを支える米国世論も別な道を選ばなかった。そして、アフガニスタン・イラクに対する攻撃が始まり、10年後の現在、今のような惨憺たる状況があるわけです。米国の立場から見た戦争のあり方としても散々なものであるし、もちろんアフガニスタンやイラクの民衆の側からすれば、それはあまりにもひどい殺戮であるという現実があるわけです。

私は、この10年間の事態を見ながら、先程の問題意識に戻れば、それでもなおかつ、このような悲劇的な現実を見た上でもなおかつ、それは人間がなしていることである。現実的な自分の意思で選んでいる道であるから、それを阻止する、あるいは、正す、変革する、そういう方法はある。そういう意味では、この現実は、社会運動あるいは政治運動の中で、我々の場所から言えば、我々が展開しうる社会運動・政治運動の中で、このような悲劇的なあり方を変革することは十分出来るだろうという確信は捨てていない、あるいは捨てたくないなと思ってきました。

それとの対比で言えば、今年3月11日に三陸沖で発生した震災とその大津波、それにともなって起き、今なお終息の見通しがまったく誰にもついていない福島原発事故を見ながら、これはまた、ちょっと違うな。9・11で起きた社会的・政治的レベルで変革が可能である対象、そのような事件とは違った性格を帯びていると思うわけです。これは、私たちが、あるいは個人としての私がもってきた自然観に関わっての自己反省とか自己批判をも迫られるような事態であるわけです。地震や津波という、そういう現象を含めて、自然の現象であるという、そのことを前提とした自然との付き合い方を再考しなければならない。そういう契機に今回の悲劇的事態はなっていかなければと思います。そして原発について言えば、事故が起きた場合それがもたらす結果について人の力ではなすすべがないことが明らかになった。それは、武器としての核兵器に関しても、あるいは原子力の平和利用というふうに謳われてきた原子力発電所に関しても、そのような恐るべき結果をもたらすものであるということが明らかになった。そのことの警鐘を鳴らす人と運動は以前からありましたが、不幸にして、それが現実となったということです。もちろん、地震や津波は自然そのものによるものであり、兵器としての核や原子力発電所というのは人工物ですから、生まれてくるレベルは違いますけれども、いずれも、とにかく、人が、人為によって、自分たちの力によって制御しうる範囲をこえたものであるということが歴然としている。

この6ヵ月間の事態の中で、私が何度も思い浮かべたのは、ブリューゲルの有名な絵です。怪魚というべき顔をもつ、口を開けた大きな魚の中に、小さな魚がどんどん呑みこまれていっているあの絵を思い出すわけですね。つまり、自然や原子力というものの関係で言えば、私たち人間の社会というのは、自然という大きな魚、原子力という大きな魚になすすべもなく呑みこまれている。そういう図といいますか、構造を思い浮かべるしかなかった。それは、場合によっては、ある種の無力感というものが、そのままでいけば忍び込みうる、そういう要素もあるわけですけれども、必ずしも私自身が無力感に打ちひしがれているという意味ではなくて、どうしてもそのような側面も含めて考えなければ今のこの事態に立ちうちすることが出来ないのではないか。ヒューマンスケールを超えてしまった、制御できなくなってしまった自然や人工物としての原子力エネルギーのすさまじさというものをそのようなかたちで感じるということです。この時、それでは、いったい今後どうすればいいのだろうかという、そういう問題につながっていくのだろうと思います。ですから、これは、9・11のように、なかなか、今までの論理的な枠組みの中で、社会的なあるいは政治的な運動領域の中で、なんとか変革対象である、この現実を変えることが出来るというふうに主張するには、少し違った局面の問題がある。この自然の猛威、原子力エネルギーの制御不可能な事態の中からは、自分たち人間との関係ではこのように見えてしまうところがあるということです。ですから、だから、諦めるという結論ではもちろんなくて、そのように人の心を追い込んでしまうものとの関係の中で、今後、その二つの問題、自然と原子力エネルギー・核という問題に関して、それでもなお対していく道がいかにあるのか、そういうこととして考えなければならないだろうという問題意識です。

次に設定されましたのは、「何が明らかになっているか」という問題でした。これは、国家の冷酷さ・非情さが露出してきたという、端的に言って、こういう問題だと思います。「国家」というのは必ずしもその時々の政府とイコールというふうにはなりませんが、この場合は一応現政府というふうに考えた上で、なお最終的には、どんな政府であろうと、国家という権力を成り立たせていること自体が抱えてしまう必然的な問題だというところまで、射程は最終的には伸ばしていかないといけないと思います。政府の冷酷さは、今回の様々な震災報道・原発報道の中でも、露呈しているわけが、それでもなお、圧倒的多数の人々は、なぜか国民国家なるものへのゆるぎない信頼を持って生きているというのが普通です。この日本社会をとってみても、何に価値を置いて生きていくかということに関わって、非和解的な対立がある人間同士が生きているわけですし、どうしようもないナショナリストもいるし、エセ左翼もいるし、いろいろな存在があるわけですね。それらをまとめて、国家社会の中でひとまとめにして、社会が大事である、国家が大事である、日本国家はすばらしいなどということが言えるはずがないというのが、常日頃の私の基本的な考え方です。国家を強調したり、日本社会をことさらにほめそやしたりする言動には警戒する。どんな国家であろうと常に違和感を持つし批判を持つわけですけども。今回もまた、世界の人々は、この大震災を前にした日本人の冷静・沈着なことに賞賛の言葉を送っているというようなことが、震災直後には、メディア上に溢れ出ました。われわれは、そのことを誇りにしていいというようなことをわざわざ言うようなニュースキャスターや評論家たちも大勢いました。しかし、よく言われるように、個別具体的にいくつかの地震でもハリケーンでもいいのですが、様々な震災に襲われている世界各地の人々がいて、その直後の状況を少しでも知っていれば、民衆的な知恵としては、そのような大多数を襲う不幸があった時に、相互扶助の精神が出てきたり、連帯・協働の精神で或る地域社会の復興が企てられるということは、世界のどこをとってもごく自然なあり方としてことであるわけであって、ことさら日本の国民なるものが、落ち着いたり、沈着であって、助け合いの精神に富んでいるわけではないですね。それは、世界のどこをとっても等価である。そういう基本的な考え方からすれば、そのような言論操作そのものが非常に不愉快であったわけです。それはそれとして、ともかく、この5ヵ月半目立つのは、政府というものが、いかに被災地に対して、また福島原発の事故に対する対応においていかにこれもまた無為無策であるか、ということです。そして、意図的な安全情報を垂れ流すことによって、人々の生命を脅かす危機を永続化させている。こういう現実が、この5ヵ月半の政府および企業としての東電、それから専門家たち、米倉を先頭とする経団連の連中たちの言葉、そういうのに全て現われているということだと思います。これほど冷たくて非情な言葉を、こいつらは今にいたっても吐き続けることが出来るのかというぐらいに、今回の事態を前になんら心も動かされていない様子に満ちた言葉が、居直りに満ちた言葉が、この連中からは聞かれました。私は日ごろから、この連中の言動はそれなりに冷静に見聞してきたつもりで、何の幻想も抱いてこなかったのですけれども、それでもここまでひどいか、ということを痛感しました。国家というものは、64年前までの日本国家がそうであったように、必要とあれば、他民族の地を侵略してでも戦争を行い、他国民衆・兵士の殺戮を自国兵士に命じ、帰ってきたら軍人恩給を与えて手厚く保護する、そのような意思を示すものであるということはわかっていましたが、このような日常的な空間の中で――被災と原発事故というのは極めて異常な事態ですけども――日本で起こっている一つの事態に対して、冷酷・非情な政策しか展開できないものなのか。国家という問題を考える上で、私は、今回改めて付け加えざるを得なくなった一つの認識であると思います。国家というものは、普通、例えば、私個人では、あるいはオウム真理教を含めた宗教集団には、あるいは様々な政治的な小集団にも、認められていない殺人の権利を独占しているところがあります。それは先程ふれた戦争という行為を発動することによって自国兵士に他国での兵士と民衆の殺戮を命ずることが出来る。「出来る」というのは括弧つきです。日本のように死刑制度が存在している国では、担当の検事や刑務官を通じて、死刑囚の絞首刑を命ずることが「出来る」。なぜ国家がこのようなかたちで殺人行為を犯しながら、個人や小集団のようには処罰されないのかというのが、国家というものが持つ秘密の鍵だというふうに思ってきており、国家なる存在への批判の鍵はその点だというふうにこの間考えてきました。しかし、先程から言っているように、日常的なこの時間・空間の中でも、国家は無為無策によって人を死に追いやることができる。それが今の震災対策や原発事故対策における無能性だというふうに思うわけです。そのことを痛感することによって、国家というもの、それを時々において代行する形で成立している政府なるものが持つ政治権力の問題、それについてもう少し深めたところで考えなければならないのだということを痛感しました。

国家なるものへの無前提な信頼、それは、異論を持つ者の意図的な排除という形で機能してきました。日本社会は、同調性、同調への強制力が強い社会です。しかし、今度こそそれとは異なる社会へ向かっての転機にしたい。震災被災者と原発事故被害者に対する迅速かつ的確な政策を放棄し、犠牲を拡大しつつあるという現実に、国家=政府の本質を見い出すという思考・態度が、今度こそ生まれるのではないか、と夢想するのです。

今まで述べてきたのは、主に国内における被災地と放射能汚染地域に対する政策の問題ですが、これと表裏一体の関係で、対外政策においてもまた、この日本国家の冷酷さ・非情さが現われる事態が、この5ヵ月半の間にも次々と起りました。一つは、日本政府も企業体としての東芝も計画を推進中ですが、米国との共同計画で核処分場をモンゴルに建設する計画があります。これは、去年の秋に始まったのですが、モンゴルに20年前まで駐屯していたソ連軍の駐屯跡地が核処分場として絶好の場所であるとするものです。この間にも、いったい何万年・何十万年ものあいだ密封保管しておけば安全なのかという論議が絶えることのない核処分場をモンゴルに作ろうとしている。東京には作れない原発を福島につくる、という構造とまったく同じです。これが一つです。もう一つは、民主党政権が「原子力ルネッサンス」の政策を当初から推進してきましたから、菅首相自らが乗り込んで、ベトナムとの原発建設交渉をまとめたり、ヨルダン、トルコ、その他いくつかの国々との原発協定を結んでいます。菅は、自分の国内においては脱原発だと語りつつ、国外に対する輸出に関しては一切態度を明らかにしなかった。その程度の脱原発方針であったということを見ておかなければならないだろうと思います。昨日の国会では、ヨルダンの原発協定推進が決議される寸前までいっていますが、社民党が招請した参考人の意見が、議員たちに強い印象を遺したといいます。つまり、ヨルダンがいかに原発建設に危険な場所であるかということを諄々と説くことによって今議会での議決は見送られました。そういう一定の揺り戻しもありますけれども、政府の方針としては見送っておらず、ここ数日中に成立するであろう民主党新総裁には、菅以上によい線が出るとはまったく思われない人間たちが立候補していますから、その問題はさらに今後とも続くと思います。

それから、今まで加盟していなかった原発事故賠償条約に参加することを政府は検討し始めました。これは、事故による外国からの「巨額」請求を防ぐためというのが魂胆ですから、今後もなお原発輸出を続行するという前提で、日本製品が国外の原発において事故を起こした場合に、その過大な、括弧つきの「過大な」請求をどのように防止するかという、そういう観点からの国際条約への加盟を考えているという、そういう体たらくですね。最後に、これは一番最初に生じた問題なのですが、東電は福島原発の集中廃棄物処理施設にたまった、かれらの言う「低レベル」汚染水を4月4日に海洋に投棄しました。その際、放射性物質の海洋投棄というのを禁止したロンドン条約という国際条約があるわけですが、これとの整合性を聞かれた時に、政府関係者は次のように答えたわけですね。ロンドン条約というものも、核実験を大っぴらに行い、あるいは原発をやめようとはしていない国々が集まって、国際的な妥協として出来ているものですから、それが出来のよい条約であるとは言えないわけですけれども、その妥協の産物としての条約は、もちろん、原発を肯定する立場からすれば、何らかの事故が起って陸上から海洋に汚染水を流すようなことはあり得ないものとして想定しているわけです。ですから、船から放射性物質を海に棄てる、飛行機から棄てる、そういうことを想定とした国際条約なものですから、陸上から汚染水を海洋に投棄すること自体は禁止していないというのが、その時の日本政府の詭弁でした。その程度の「非論理」によって、なにかやり過ごすことが出来るんだと思っているわけです。大気汚染にしても海洋汚染にしても、これは地球的な規模の問題ですから、それを、4月4日段階でどうしても迫られたとすれば、それは、近隣諸国と世界の人々に対する事態の詳細な説明なり謝罪なりを伴わなければならない、そのような大変な事態であったと、私は当時も考えました。ですから、このようなことを行なっておきながら、ロンドン条約に違反はしていない、陸上からの投棄は規制していないなどというふうに語るのは、まさに、法務省や外務省の官僚たちが考えそうな詭弁にほかならない。一体こういうもので通用すると信じてるんだろうかという不信感を持つわけです。

悲劇的な事故を前にして、生命体の安全確保という優先課題に取り組まない国家=政府が存在している。国内に対しても、国外に対しても、そうである。これが、私のいう、国家の冷酷さ・非情さの証しです。

主催者から最後の問いとして出されたのは、「今後何が問われるか」という問題でした。例えば、今回の事態と日米安保を重ね合わせて、沖縄の観点から考えた場合にどうなるのか。私は4月に仕事の関係から一週間ほど沖縄にいましたが、その時、例えば、「沖縄タイムス」なり「琉球新報」で読者からの投書欄とか、様々な新聞記事の中で目立ったのは、ヤマト、特に東京の人間たちが、いかに福島原発の事故の深刻さに右往左往しているか、という受け止め方でした。これは別に、冷ややかな目で見ている、冷たく見ているというのではなくて、自分たちの身近であのような事故が起ることによって、ようやく東京の人間たちは、このような事故の大変さを痛感し始めているようだ。そういう、ある意味で冷静な観察です。それは、福島を沖縄に置き換えた時に、はっきりします。ヤマトの人間、東京の人間、霞ヶ関、国会、あるいは私たちのような住民を含めて、東京の人間、ヤマトの人間たちは、沖縄にこれほどの米軍基地を押し付けておいて、そして、それでよしとしてきた。自分の場所から遠くにあるから、本当は存在しているのに見て見ぬふりをしていた。しかし、さすが、今回は、軍事基地の問題ではないけれども、福島原発はあまりにもかれらの身近で起こっているから、見て見ぬふりができなくて慌てふためいている、そういう意味での、ある種の冷静な観察です。このような観点があることを、私自身がそうですが、ここにおられるのが主に東京及び東京周辺にお住まいの方たちだということを前提として言いますけども、捉えておかなければならないのではないか。この問いの先にある問題を引き出し解決を図るのは、もっぱらヤマトの人間の課題です。

別な観点からも考えます。鳩山元首相は、かれらが言う普天間基地の「移転先」の問題をめぐって、辺野古という案が日米合意であったところへ、少なくても県外へ、できれば国外へというような案をもって登場しました。しかし、外務官僚とも防衛官僚とも、つまり「二プラス二」の日米会議に出ているような官僚たちと闘うことが出来ずに、昨年5月末に自滅していった。それに代わった菅は、野党時代の言い方、つまり地位協定を見直す、首相に就任したらすぐワシントンに詣でるようなことはしない、そのような言い方を一切やめて、日米合意を前提とした安保条約、安保同盟の強化を就任直後に語った。辺野古案も推し進めようとした。鳩山と菅のこの二つの態度を見ながら、それからそれに関わっての世論の動向を見ながら、ああ、戦後66年間の多数世論の動向はついに今回も変わらないまま来てしまったということを痛感しました。

つまり、鳩山の迷走に関しては世論は非常に厳しかった。鳩山は沖縄に対する同情の素振りをみせながら、なぜ言ったことを実行しないのかというかたちで、鳩山は不人気になった。辞める時の支持率は20パーセントを切っていた。しかし、それに代わって菅が日米同盟強化を謳いながら新しい首相に就任した時に、彼の支持率は60パーセントに上がっていた。鳩山と菅の態度は論外です。深刻なのは、二人を批判したり支えたりしている日本=ヤマト世論の大多数にとっても、沖縄に存在する米軍基地によってもたらされている現実はどうでもよくて、ただただその時のムードで鳩山をけなしたり菅を支持したりしているに過ぎないのだ、ということです。つまり、戦争は嫌だけども、中国や北朝鮮のような軍事的脅威となる存在が周辺にある以上、われわれは止むを得ず日米安保の枠組みの中で生きて行くしかないのだという基本的な日本世論の戦後の動向は、ここに至っても、変わっていないのです。55年体制下でも、社会党はついに3分の1以上の議席を獲得することが出来なかった。自民党が、世界でもまれなことに、選挙を通じての一党独裁を続けているような不思議な日本社会が出来てきた。そのことを改めて考えざるを得なかったわけです。

新川明さんは10年程前のインタビューで、憲法9条が成立しうる根拠は沖縄に米軍基地があるからだ、それがあって日本国が守れるという担保の構造を日本国もよしとしてきた、というかたちでヤマトのあり方を批判して、政治のあり方とそれを支える世論の在り方を批判しています。この構造に改めて想いを及ぼさなければならないだろうと思います。先程から言っているように、原発事故にあわてる中枢部=東京を見つめる沖縄の視点ということを考えた場合に、それは、地方と中央ということになり、それはそのまま今回の原発事故に現われている福島と東京となり、あるいは三陸と東京となる。そういう視点を導入して、この問題の本質に迫らなければならないと思います。

最後に、まとめの言葉です。ここで出てくるのは、「継続する植民地主義」という問題意識であると思います。日本の近代の歴史を考える場合に、日清戦争による一つの「戦果」としての台湾領有、そこに近代日本最初の植民地支配の出発点を見るというのが左翼を含めた今までの公認の歴史観ですけども、私自身は、明治維新直後の1869年の蝦夷地の北海道としての糾合、その10年後の1879年のいわゆる「琉球処分」、この二つを近代日本の植民地支配の出発点として考えるべきであると考えてきました。その考え方は変わりませんが、例えば、戦後史の過程の中でも、あるいは近代化の過程の中での、「非」東京、今回は福島および三陸というかたちで、それが顕在化したわけですが、そのような本州内の地域との関係を、植民地構造分析そのものをそのままスライドさせるわけにはいきませんけれども、捉え返す必要があるだろう、と思います。そのような問題意識で分析することによって、中央=東京に権力が集中して、それが思うがままに社会構造全体が作られているという、日本社会の存立構造そのものに対する批判的な分析を行なわなければならないのではないか。この視点を、今回の悲劇的事態の中から得た感じがしています。終わります。

太田昌国の夢は夜ひらく[18]すべての根源には「米国問題」がある――9・11から10年を経て


反天皇制運動連絡会機関誌『モンスター』第20号(2011年9月6日発行)掲載

9・11から10年目を迎えるいま、私の頭に去来する思いは、世界中で人類が抱える最大の問題の根源を一口で言えば、それは、畢竟、「米国問題」に他ならないという単純な事実だ。黒人問題・アイヌ問題・在日朝鮮人問題など、そこで名指しされている人びとが、あたかも「問題」の原因であり所在であるかのような物言いは、今までも絶えることはなかった。それらは、それぞれ、白人問題・日本人問題と呼ばれるべき性格のものであることは、少数ではあっても一部の人びとの間では周知のことであった。これと同じ意味で、9・11はその原因において「米国問題」であることを、私は事件直後の「図書新聞」のインタビューで語った(同紙2001年10月6日号「批判精神なき頽廃状況を撃つ」)。結果においてもそれは「米国問題」でしかないことが紛れもなく明らかになるという形で、私たちは事件から10年目の秋(とき)を迎えている。

米国以外の国・地域に住む者であれば、9・11のような人為的な悲劇は、世界のあちらこちらで起きてきたことを身に染みて知っている。しかも、それを為してきたのが、ほかならぬ米国であることも。海兵隊の派遣・上陸と軍事作戦の展開、海上からのミサイル発射、今であれば無人機爆撃、その前段階としての政治的・経済的な浸透と、米国の必要に応じての社会的な攪乱工作――米国が世界帝国であり得ているのは、このような身勝手極まりない所業を躊躇うことなく続けてきており、超絶した大国が為すことゆえに、その多くが「成功」してきたことの結果である。戦争によって数千、数万、時に数十万の死者を生み出し、化学兵器を使う現代の戦争になってからは幾世代にも影響を及ぼす深刻な後遺症で人びとを苦しめ、インフラを含めた経済秩序を破壊し、社会的にも混乱の極みに捨て置いて、一連の作戦が完了する――それは、幾度となく私たちが目撃してきた、米国が主体となってつくられてきた世界各地の近現代史の姿である。

したがって、9・11の悲劇を米国は独占してはならず、むしろ、そこに自らが為してきたことの影を見て、内省の契機とすること。心ある帝国内少数派が主張したように、9・11で米国が問われたのは、このことに尽きた。しかし、この10年間の米国の動きは真逆であった。そこに、アフガニスタンの、イラクの、世界全体の、そして米国自身の悲劇が生まれた。それを否定できる者は名乗り出よ! と言いたいほどに、自明のことだ。

9・11から10年目を迎えているいま、もっと長い射程で歴史を振り返るよう私たちを誘ういくつかの報道があった。中米グアテマラで、米国公衆衛生当局の医師らは1946年から48年にかけて、性病の人体実験を行ない、1000人以上を故意に感染させたうえで、うち83人が「実験中に」死亡した。ある研究者がこの事実に気づいたのは昨年で、直ちに大統領直属の調査団がつくられ、その調査に基づいて報告書がいうのである。19世紀後半以降、米国企業が広大なバナナ農園を保持し、現地の人びとを見下して「緑の法王」としてふるまった国・グアテマラでは、いかにもありそうな出来事である。「最低限の人権尊重すら怠った」と報告書は指摘しているが、しかし、1946年という年号に注目するなら、それは米国が広島と長崎に原爆を投下した翌年である。間もなく現地に入った米国の医療チームが「治療」には関心を示さず、もっぱら「核」が人体に及ぼした影響如何を調査するばかりであったこともよく知られている。米国側が人種差別意識を隠しようもなく持っている異民族に対する態度としては、いずれも例外的なことがらではない、と言うべきだ。

また、1953年日米両政府は、在日米兵の公務外犯罪に関して、重要事件以外は日本が裁判権を放棄するとの密約を交わしていたという。日本側の弱腰もあるが、当時の二国間関係からいえば、米国は明らかに「尊大な」要求を強制したと推察できよう。傲慢なふるまいを背景に、世界じゅうに抜き差しならない国家間・民族間矛盾を生み出す――米国に、このような政策の変更を強いる力を、米国以外の世界全体が持つまでは、私たちは深刻な「米国問題」を抱え続けるほかはないのだ。

(「9・11から10年」というテーマに関しては、『インパクション』181号、『反改憲運動通信』第7期第6号にも書いた。違う角度から書くよう工夫したので、併読いただけるとありがたい。)

(9月3日記)

「戦争が帰ってくる」――9・11から10年後の課題


『反改憲運動通信』第7期第6号(2011年9月10日発行)掲載

「戦争が帰ってくる」とは、戦争ばかりしている故国=米国について、ダグラス・ラミスが語った言葉だ。国外で戦争に次ぐ戦争に明け暮れていると、それを肯定する価値観と雰囲気が、自分の国の内にまで跳ね返ってきて、戦場と同じく銃を使った犯罪や暴力沙汰が日常的に起こる社会になってしまう。避けがたいその因果の関係を指した表現で、重大犯罪が多発する米国の状況を的確に捉えていて、私は以前から共感していた。

9・11以降10年間にわたって続けられてきている「反テロ戦争」がもたらしたものをふりかえると、この言葉が蘇ってくる。9・11の事態を受けて、米国大統領が「反テロ戦争」を呼号していた2001年9月20日、テキサス州ダラスに住むマーク・ストロマンは、「中東風」の外見の移民への報復を決意して、南アジア出身の男性二人を射殺し、バングラディッシュ出身のイスラム教徒に重傷を負わせた。自分こそ「真の米国人」であると信じ込んだ犯人は、見かけた相手に「どこの出身だ!」と叫びながら銃弾を浴びせた。各地の警察と入管当局も「アラブ風」の人間に対する手酷い仕打ちを制度化した。メディアも一般社会もこの雰囲気を煽り、かつ煽られた。無数の「ストロマン」たちは、「怪しげな者」に銃を向け、嫌がらせの言葉を吐き出し、権力を笠に着た差別と排外の行為を行なったのだ。

それから10年後の2011年7月22日、北欧ノルウェーのアンネシュ・ブレイビクは、重量6トンの車両爆弾をオスロの政府機関の建物近くで爆破させた。その後、「移民に寛容な」労働党政府を嫌悪する彼は、同党青年部のキャンプ地で銃を乱射した。二つの事件で総計77人が殺害された。ブレイビクは、欧州を多文化主義から解放するためには「残忍な行為が必要な状況は存在する」と確信する、イスラム教徒への強烈な偏見に満ちた人物であった。ところが、初期報道では、これがイスラム過激派による犯行であることを匂わせるものもあった。そうではなく、犯行が白人によってなされたことを速報で報じた日本の某TV番組では、それを聞いたキャスターが「では、テロではなかったんですね」と言ったという。爆弾と銃を使って多数の人びとを殺傷したブレイビクも、「イスラム教徒が行なうなら、テロ。そうでなければ、テロ以外のもの」と思い込んでいるメディアの人間も、この世で起こる不吉な出来事はすべてイスラム過激派の仕業であるという確信を、何らの具体的な根拠もなく、いつしか身につけてしまったのである。

そうでもあろう、米欧日のメディアは、一部少数の例外を除けば、この10年間、アフガニスタンとイラクにおける米軍+NATO軍を主力とした戦争行為が、テロリストに対する戦いであるがゆえに無条件に正義に叶ったものであるという宣伝を臆面もなく繰り広げてきた。10年前に、米国大統領は「我々の味方になるのか、それともテロリストの側につくのか」と世界中を脅した。10年後、英国首相は「多文化主義政策は過ちだった」と語った。いずれも、ストロマンとブレイビクを煽るには十分に効果的な発言だった。

それでも、ストロマンの場合には、救いのある後日談が待っていた。事件の被害者や遺族が「ストロマンの無知ゆえの犯行」に哀れみを感じ、世界に満ち溢れる憎悪を断ち切るために、死刑を宣告されていた彼の減刑を嘆願したのだ。ストロマンも、最後には自らの行為を顧みた。犯罪のよって来る原因にたどり着き、自分の犯罪の被害者たちが「人生最大の希望を与えてくれた」と語って、自らの行為を悔いた。ストロマンは、2011年7月、薬物で処刑された。

ブレイビクは、逮捕後、日本は移民に閉鎖的な政策を維持しており、多文化主義を拒む模範的な国だと称賛した。ブレイビクは、日本について大いなる誤解をしていたのだろうか? 否、そうではあるまい。移民政策や多文化主義をめぐって「あれか、これか」の単純極まりない二分法で世界を見ていた彼は、EU各国とは異なって自民族中心主義の道を先んじて歩む日本の現実を冷静に把握していたと言えるだろう。

その日本では、他方、「国際貢献」という掛け声だけがこの間より大きな声となった。それが、憲法9条の精神と対決するかのように、主として軍事面で言われるようになったことに注目すべきだろう。きっかけは、1990年前後の社会主義体制の自壊と湾岸戦争であった。ソ連に代わる独裁体制=イラクのフセインに対して、一丸となって軍事的に制裁を加えることが民主主義国に共通の価値だとの宣伝がなされた。この地域から膨大な量の石油を輸入しているのに軍事的制裁に参加できなかった日本は、世界から「汗も血も流さずに利益だけを得ている」と見られており、それは肩身の狭いことだとする捉え方が浸透し始めた。戦後史の大転換を画する民衆意識の変化であった。それから10年後に9・11を迎えた時、日本の首相はいち早く米国の「反テロ戦争」の呼号に賛意を表明した。インド洋に海上自衛隊の給油船が派遣され、アフガニスタンを攻撃する米軍への給油や兵士輸送作戦に従事した。米軍がイラクを攻撃し始めると、自衛隊の軍事的参画は一段と深まった。

国軍兵士を見送り、そして無事の帰国を歓迎して家族たちがうちふる日の丸の小旗は見慣れたものとなった。2011年、震災・津波・原発事故現場で救援活動に従事する自衛隊員は、その「献身性」によって人びとの心を深く掴んだようだ。こうして、自衛隊がありふれた国軍となる過程は、「反テロ戦争」のこの10年間で格段に進行した。「憲法9条が成立しうる根拠は沖縄に米軍基地があるからだ」(新川明)とする沖縄からの批判的な視線に目を逸らすことなく、「戦争が帰ってくる」ような政治・社会状況を出来(しゅったい)させないための、厳しくて重要な段階を私たちは迎えている。

【付記】この原稿に先んじて、「9・11から10年目の世界」と題する文章を書いた(『インパクション』181号)。この文章とは違う角度から、同じテーマを論じた。併読いただけると、ありがたい。

(9月2日記)