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状況20〜21は、現代企画室編集長・太田昌国の発言のページです。「20〜21」とは、世紀の変わり目を表わしています。
世界と日本の、社会・政治・文化・思想・文学の状況についてのそのときどきの発言を収録しています。

歴史の中のシモン・ボリバル


静岡芸術劇場2011年7月公演パンフレット掲載

静岡芸術劇場に通う演劇フアンにはおなじみのオマール・ポラスが演出・出演する「シモン・ボリバル、夢の断片」は、元来は、ポラスの故国コロンビアの建国200周年を記念して、2010年に制作された作品だ。今回の静岡公演は、やむを得ない事情から、初回公演とは構成が変更されるが、シモン・ボリバル (1783~1830年) という歴史上の人物が物語の軸をなすことに変わりはない。ここでは、「建国200周年」という用語からわかる、2世紀前のコロンビアを初めとするラテンアメリカ諸国独立の過程、そこでシモン・ボリバルが果たした役割、そしてボリバルの「夢」が奇しくも実現しつつあるかにも思える形でラテンアメリカ地域に展開されている同時代の動きを簡潔にスケッチしてみよう。

1492年、コロンブスがアメリカ大陸に到達して、以後「征服」の時代が始まる。コロンブスの航海を経済的に支えたのはスペイン女王だったが、そのスペインは、ポルトガルが征服したブラジル以外の、現在ラテンアメリカと呼ばれる地域のほぼ全域を植民地化したのである。植民地時代は、ほぼ3世紀もの長きにわたって続いた。その間、ピラミッド型の人種別社会階層構造が強固に形成された。最上位からいうと、スペインから来た白人 (ペニンスラーレス)、アメリカ大陸生まれの白人 (クリオーリョ)、白人と先住民の混血 (メスティーソ)、先住民族 (インディオ)、そしてアフリカから奴隷として強制連行された黒人という序列構造である。

3世紀という時間幅は長い。植民地権力は腐朽する。イギリス、フランス、オランダなどの後発のヨーロッパ列強が台頭して、膨大な利益が得られる植民地貿易に参入したり、領土争奪戦に加わったりする。ピラミッド型社会構造の最下層で徹底した抑圧と差別の下に苦しんできた先住民族と黒人が反乱を起こす。それらが顕著な動きになったのが、18世紀末から19世紀初頭にかけてだ。1780年、現ペルーの一角で、先住民族による反植民地主義反乱「トゥパック・アマルの反乱」が起こった。1804年、フランス領になっていたカリブ海の島でも黒人反乱が起こり、鎮圧のために派遣されたナポレオンの軍隊を打ち破って、そこは世界初の黒人共和国=ハイチとして独立した。指導者の名をとって「トゥサン=ルーヴェルチュールの反乱」として知られるこの黒人蜂起は、1789年のフランス革命と無関係に起きたのではない。フランス革命の精神を伝える書物や、ルソー、ヴォルテールなどの啓蒙思想の著作も、厳しい検閲を逃れながら、スペイン領アメリカに入ってくる。

そんなさなかの1783年、シモン・ボリバルは、現ベネズエラのカラカスに生まれた。クリオーリョの富裕な、屈指の「名家」の出身である。軍人だった父親も、教育熱心だった母親も早くに亡くしたボリバルは、叔父のもとで育ったが、家庭教師として就いた自由主義者、シモン・ロドリゲスの影響は、後年のボリバルが形成されるうえで決定的だった。植民地政府への反抗心を持つロドリゲスから、自由、平等、共和国などについての基本的な概念を学び取る機会となったからである。16歳で本国スペインへの旅に出た。貴族の娘と出会い結婚してカラカスへ戻ったが、翌年妻は他界した。名家に生まれた経済的特権を享受しながら、早々に両親と妻を失うという個人的な不幸が、ボリバルのその後の運命を定めた。

ヨーロッパ列強の角逐が続くなか、1805年、スペイン・フランスの連合艦隊はイギリス海軍に大敗した。イギリスに取り入ろうとするスペインの動きを見て、1807年ナポレオンはスペインを侵略した。本国スペインの弱体化の機会を捉えて、ラテンアメリカ各地では独立運動が活発になった。1810年コロンビアの独立宣言、1811年ベネズエラの独立宣言は、その端緒をなした動きである。だが、スペインとの独立戦争はこの後でこそ激化する。ベネズエラ解放軍司令官となったボリバルの活躍は、ここから目覚ましい。一時的敗北やジャマイカへの亡命も経験しながら、1819年コロンビアを解放、同年ベネズエラ、コロンビア、エクアドルから成るグラン・コロンビア共和国形成、1821年コロンビア、エクアドルの全面解放、1824年ペルー解放などの戦いで主導的な役割を果たした。1825年に解放されたアルト・ペルー地域は、南米諸地域の独立戦争におけるボリバルの戦功に因んで、国名をボリビアとしたほどである。現在のメキシコ、およびアルゼンチン、ウルグアイ、チリなどの諸地域でも、同じ時期に独立戦争が戦われて、その目的が成就された。

ボリバルが抱いていた夢は、北はメキシコから、南はアルゼンチンやチリまで、独立したラテンアメリカ諸国が単一の共和国連合として統合されることであった。グラン・コロンビアはその萌芽として構想された。メキシコの北に存在する米国がモンロー宣言を発して (1823年)、ヨーロッパ列強をアメリカ大陸から排除した米国中心の勢力圏構想を打ち出していただけに、ヨーロッパから自立し、同時に米国とも対抗しうるボリバル構想の意義は小さくはなかった。だが、その内部ではやがて、理想からはかけ離れた権力欲に根差す対立が深まるばかりだった。構想は瓦解し、部下の裏切りもあって、ボリバルは失意のうちに47年間の生を終えた。

ベネズエラ独立運動の担い手が独立後も奴隷制の維持を目指すような人びとであることを知った黒人は反乱を起こしたが、そのときボリバルは「非人間的で凶暴な人間たちである……黒人の革命」と表現するような価値観の持ち主だった。ペルー解放直後にボリバルが、農地所有制度の再編や先住民族保護の名目で発した法令は、クリオーリョ支配層の既得権を奪うものではなく、したがって、先住民族は相変わらず過酷な搾取にさらされることとなった。その意味では、ボリバルが主導した独立革命はあくまでも白人=クリオーリョ主体であって、その恩恵に浴することのなかった膨大な社会層が取り残されたことは見ておく必要があるだろう。

それが、今からおよそ200年前のラテンアメリカ独立をめぐる状況であった。ボリバルの単一共和国構想が実現しなかったラテンアメリカ地域は、急速に大帝国となっていく米国のさまざまな影響下におかれることとなった。それは、20世紀現代史でも貫かれた。とりわけ、キューバ革命が勝利した1959年以降は、ソ連圏対米国圏という東西冷戦構造に巻き込まれることになった。しかし、キューバを敵対的に包囲していた軍事政権体制が全域で崩壊し、ここを席巻していた新自由主義経済秩序による負の遺産を克服しようとする政権と民衆運動が広範に登場している現在、状況は大きく変わった。米国の影響力を排除したうえで、各国間の相互扶助・連帯・協働による自主的な地域連合を形成し、貧困削減・天然資源擁護をめざそうとする動きが具体化している。そこでは、ときに、ボリバルの構想との繋がりが強調されている。200年前のボリバルの未完の企図を、現在に生かそうとする人びとが存在しているのである。

オマール・ポラスと同郷の優れた作家、ガブリエル・ガルシア=マルケスは『迷宮の将軍』(新潮社)においてボリバルを描いた。「解放者」(リベルタドール)として溌溂たる行動に従事している時期ではなく、失意の晩年を主軸に据えた作品だった。この人物の偉大さも、卑小さも浮かび上がる秀作だ。マルケスのこの作品を知らぬはずはないオマール・ポラスが、どんなボリバル像を打ち出すのか。その日の舞台を待ち望むばかりである。

太田昌国の夢は夜ひらく[5]植民地・男性原理・王家の跡継ぎ問題を浮かび上がらせた舞台


『反天皇制運動モンスター』6号(2010年7月6日発行)掲載

静岡市には、県立の静岡芸術劇場がある。東静岡駅前に劇場があり、そこからバスで一五分ほどかけて山のなかへ入ると、野外劇場や屋内ホール、稽古場棟などがある。

以前は鈴木忠志が芸術総監督を務めていた。いまは宮城聰である。

四、五年前だったか、グローバリゼーションをめぐる諸問題についての講演を依頼されて訪れて以来、毎年行なわれる芸術祭公演の案内が送られてくるので、ときどき観劇に出かける。

県立劇場を持つのは、全国で二県だけだという。中学・高校生は招待されたり、優待されたりしている。

だから、劇場にはいつも、若い人びとの姿が目立つ。この年齢までは、高校演劇くらいしか観ることができなかった私のような人間からすると、新鮮な驚きであり、いいなあと思う。

海外の演出家と劇団の招請にも積極的だ。いまの時代、当たり前とはいえ、欧米中心ではなく、第三世界出身の人も多い。

演劇界では、国境を超えた演出家と俳優の交流がごくふつうに行なわれているから、どこそこの出身と固定して言うだけでは意味をなさない場合も増えてきた。

去る六月にも出かけた。宮城聰の台本と演出による、一九九九年に行なわれたク・ナウカの初演以来、伝説的な舞台となっている『王女メディア』の公演を観るために、である。

原作は、もちろん、生年が前四八〇年前後と推定されているギリシアのエウリピデスである。メディアは、黒海海岸のくに(現在のグルジア)の王女である。金の羊毛を奪いにきたギリシアの王子イアソンと恋に落ち、親族を裏切ってまで一緒に逃亡した。男の子も生まれた。

ところが、逗留先の地で、跡継ぎのいない王家の娘との結婚を唆されたイアソンは、それに同意した。王たちはメディアをくにざかいの外へと追放し、ふたりの結婚を成就させようとする。

静かな怒りを秘めたメディアは、その王家の王と娘を毒殺し、挙句の果てに、「裏切った夫への復讐のために」自らの息子をも殺してしまう……と展開するのがもともとの物語である。

王と心変わりしたイアソンの口からは、文明の地=ギリシアと、メディアが生まれた東方の「蛮族の地」を対比する言葉があふれ出る。

宮城は、驚くような仕掛けをこの戯曲に試みた。舞台は明治期の「文明」日本、法曹家の服装をした日本人の男たちが茶屋遊びにやってくる。

娼妓たちは「未開の」朝鮮から連れてこられたようだ。宴席に座した男たちは、余興に文楽の太夫に扮して「王女メディア」の台詞を大声で物語る。

言葉は男が操り、女はメディアを含めて、男が発する言葉のままに、衣装と所作と表情で演じるだけだ。

この演出は、観る者に、当初は相当な違和感を強いる。男(=言葉)と女(=身体)の分裂が、あまりにも明らかだからだ。

その違和感も、舞台が進行するにつれて次第に消え去り、月明かりも照らす野外劇場での公演に引き込まれていくうちに、最後に、メディアをはじめとする女たちの、無言の裡の大逆襲が始る……。

緊張感に満ちた、見事な舞台であった。自明のこととして設けられていた前提が、ことごとく覆されていく瞬時の展開に、息をのんだ。

初演のときには、朝鮮と日本という設定はなされておらず、公演を繰り返すなかでいつしかこうなった、と聞いた。

もちろん、日本による「韓国併合」から百年目の年に、この公演が実現した意義をいうことはできる。

演出した宮城の意図は、彼自身の言葉によれば、「男から男へと家督が相続されていく」男性原理に基づいたシステムそのものへの復讐劇として描くところにあったように思える。

子殺しが夫への復讐となるとメディアが考えたのは、子が男子だったからだ、男性原理による統治に慣れた人類は、「地球という母」の息の根を止めかねない地点にまできたが、これを食い止めるには、母殺し寸前の息子、すなわち男性原理を滅ぼす必要があったのだ、というように。

そしてまた、跡継ぎなき王家において、当事者たちが苦悶の果てに引き起こした血まみれの抗争に、奇妙なまでのリアリティを感じるところもあって……。

二五〇〇年前につくられた戯曲の翻案公演は、こうして、現在の東アジアのくにぐにの「奇怪な」現実をいくつもの視点から浮かび上がらせるものとなった。