2019年12月4日
『反天皇制運動 Alert』第42号(通巻424号、2019年12月3日発行)掲載
幼いころ、地方都市にあっても、お寺・神社・教会は程遠からぬ場所にあった。通夜や葬儀の時に意味も分からず出入りさせられたのはお寺で、それ以外には立ち入る機会も稀だったが、子ども心にもそれらは日常生活を離れた不思議な異空間で、興味を惹かれた。でも、そこからは過大な影響力を受けずに成長し、気づいたときには確信的な無神論者になっており、現在もそうである。
カトリック教が、けっこう真剣な追究の対象になったのは青年期だ。1964年、作家・堀田善衛のエッセイで、15~16世紀のカトリック僧、ラス・カサスの存在を知った。コロンブスの大航海とアメリカ大陸への到達を契機に始まったスペインの「新大陸征服事業」が、先住民族への虐待・強姦・虐殺・奴隷化に満ちていることを告発した、国王宛ての直訴文を書いた人物だ。当時、この著書の日本語訳はなく、原書を入手して読み、その内容に心底驚いた。同じ時代、キューバから届く新聞・雑誌には、見事なデザインのポスターが入っていて、銃を手にするカトリック僧がよく描かれていた。キリスト者が、本来なら根源的に希求しているはずの社会的正義の実現を等閑にして、民衆に抑圧的な体制に与するばかりのカトリック教会の現状を批判して、反体制ゲリラに身を投じる僧や尼僧が生まれていた。
キリスト教の初源的な意図を実現するためには、マルクス主義の立場に立つ人びととの対話・交流を積極的に求めるカトリックの左派潮流は、当時「解放の神学」派と呼ばれていた。ラス・カサスや彼らの著作を読むことで、イエス・キリスト、十字軍、魔女裁判、宗教改革などのキーワードを通して生半可な知識しか持たない10代半ばころの状況に低迷していた私のキリスト教理解は、我ながら少しは深まったと思えた。
今回来日したフランシスコ教皇の立ち居振る舞いと言動に対する私の関心は、この延長上にしかない。通常の国家の形とは違うとはいえ、世界最少のこの国家=バチカン市国は、世界じゅうに13億人もの信者を擁していることで、無視できない影響力を世界の政治・社会・思想に及ぼしている。現教皇は、とりわけ、核・環境・気候変動・貧困・移民・死刑制度などの問題に関心が深く、率直な発言を厭わないことで知られる。そこで、日本のリベラル派の中からは、フランシスコ教皇と安倍政権の立場を対立的なものと捉え、前者の率直な物言いが後者を揺るがすような効果を期待する声も、事前には聞かれた。だが、バチカン市国といえども「国家」、その最高責任者に外交「儀礼」や「内政不干渉」原則を超越した役割を期待することは、国際政治のリアリズムに反すると私は考えていた。理想・夢・希望を語りかける政治家が世界から消滅したからといって、ひとりの「精神的な権威」がなし得るかもしれない発言に過大な期待を寄せることは、私たちの弱さの反映だ。しかもこの場合、期待が寄せられている人物は、一宗派の宣教を最大の課題とする者に他ならない。
今回のフランシスコ教皇の発言の中で私が注目したのは次のくだりだ。「武器の製造、改良、維持、商いに財が費やされ、築かれ」ること自体が「途方もない継続的なテロ行為」だとする長崎での発言である。「核廃絶」に焦点を合わせるメディア報道では、これは重要視されなかった。今回の教皇来日については、メディア挙げての大報道がなされた割には「泰山鳴動して鼠一匹」の感が深い。
教皇来日の意味を考えようとして幾冊もの本を読んでいて、収穫もあった。ジョルジョ・アガンベンの『いと高き貧しさ――修道院規則と生の形式』(みすず書房、2014年)である。13世紀にアッシジの聖フランチェスコが創設したフランシスコ会の修道院規則と、そこを共同生活の場とする修道士たちの日々の関係を考察対象とした本である。所有権を拒否すること、「いかなる権利ももたない権利」を掲げることの意味、法権利の外部で生きるとはどいうことか、「国家」という形を取らない政治の可能性――など、「解放の神学」派の宗教者たちが取り組んだ課題が、そこでも切実な形で浮かび上がっていて、示唆的だ。
(12月1日記)
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2019年11月5日
『反天皇制運動 Alert』第41号(通巻第423号、2019年11月5日発行)掲載
去る10月24日に流れたスペインからのニュースに注目した。独裁者フランシスコ・フランコ(1892~1975)の棺は、死亡した年以来ずうっと首都マドリード郊外にある国立慰霊施設「戦没者の谷」に埋葬されてきた。だが、18年6月に登場した社会労働党のサンチェス首相は、同施設が元独裁者の崇拝施設と化していることを問題視した。長期にわたる独裁時代を経験した国々では、どこでも、その時代を懐かしむ遺族を含めた旧利権層が一定の割合で存在し続ける一方、住民を分断・支配した旧時代の弊害を克服しようとする動きも活性化する。後者は「歴史の記憶と和解」のための努力と言えよう。サンチェス首相は、サバテーロ元政権期に成立した法律に基づいて、半世紀近く前に死んだ独裁者の墓所の移転を閣議決定し、反発した遺族は裁判に訴えたが、今年9月最高裁は移転を認める判断を下していた。こうして、先日、遺族らが担いだフランコの棺は「戦没者の谷」から運び出され、ヘリコプターで30キロ離れた墓地に移送され、妻が眠る家族の墓に埋葬された。
10年ほども前だったか、私がスペインを訪れたときの書店には、スペイン内戦期(1936~39)やフランコ独裁期(1939~75)の回想録と研究書がそれこそ山のように積まれていた。前者が終わって70年有余、後者の終焉からも30年以上は経っていた。癒しがたい記憶に刻まれた時代を冷静に振り返るには、それほどの年月が必要なんだよ――スペインの友はそう言った。
韓国もまた、1960年代初頭から80年代半ばまで長く続いた軍事独裁政権時代の「清算」に取り組む国である。「嫌韓」意識が蔓延る日本社会では見ようとしない人が多いが、その作業は多面的に行なわれており、この間もっとも目立つのは検察改革をめぐる激しい攻防だろう。検察は軍事独裁下で捜査権と起訴権を独占し、警察も常に検察の指揮権下に組み込まれた。法務省の役職は検事出身者が占めるようになり、大統領府要職にも検察の高級官僚が就いた。軍事政権から代わった歴代文民政権は、不公正な検察機関の改革の必要性を訴えてきた。金大中、盧武鉉両政権は裁判所システムの改善には一定の力を発揮したが、検察改革では大きな壁にぶつかった。そこで、文在寅は、もっとも重要な公約として検察改革を掲げたのである。眼目は二つあって、高位公職者犯罪捜査処の新設と警察に一次的捜査終結権を付与する検察・警察捜査権の調整だという。いずれも、検察の政治権力化を防ぐのが目的だ。
文在寅の全幅の信頼を受けていた曺国前法相は、「命をかけて検察改革を成し遂げる」と語っていた(『週刊金曜日』10月25日号)。それは、最強の韓国検察が「どんな権力も屈服させることができる力を持ちながら、主権者である国民からは統制されず牽制もされない」からである。家族をめぐるスキャンダルをテコに取った検察の「人質」捜査に晒されながら、曺国は「検察改革案」を発表して、見取り図を示してから辞任した。この「攻防」の構造に目を向けず、法相一家の「醜聞」にのみ異常な関心を示した日本のテレビ・メディアの衰弱ぶりは、もはや言うも虚しいが、度し難い。
さて、東京都八王子市長房町にある皇室墓地(武蔵陵墓地)には「武蔵野陵」と呼ばれる上円下方墳があって、昭和天皇裕仁が埋葬されている。広く東アジアの近現代史を顧みる時、「歴史の記憶と和解」のためには、自民族中心主義者+排外主義者の拠り所となるこの墓所そのものを撤去すべきだとする思想と行動は、この社会にいつ現われるだろうか――私たちの世代では実現できていない「不甲斐なさ」を自覚しつつ問うてみる。裕仁がここに埋葬されてから、まだ30年しか経っていない。埋葬から44年後の独裁者・フランコの棺の移転は、ブルジョア政治の枠内でも実現された。私たちが直面している事態とは、いくつもの条件を異にしていても、スペインと韓国で進行中の「歴史の記憶」を留める作業から学ぶべきことは、多々ありそうだ。私たちが未だに「過去克服」をなし得ていないからこそ、現在の政治・社会・思想状況の泥沼の中に「停滞」しているからには……。
(11月2日記)
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2019年10月10日
『反天皇制運動 Alert』第40号(通巻422号、2019年10月8日発行)掲載
任意の社会にあって、政治・経済・軍事などの領域で権力支配の頂点に立つ者が、往々にして無責任かつ恥知らずであるということは、古今東西南北の歴史において、私たちのよく知るところだ。だが、世界全体を見て、否なによりもこの日本社会を見て、これほどまでに厚顔にして無恥、加えて無知なる者たちが跋扈する時代はあっただろうかとは、2019年の日々を生きていて、抑えがたく沸き起こってくる思いである。首相を筆頭とする政治屋たち・トップ官僚たち・経済界の「重鎮」たち・東電や関電の幹部たちなどの論理性と倫理性の完全なる欠如、ニュース報道におけるNHKの底知れぬ頽落、マスメディアに登場する「言論人」たちの破廉恥ぶり――それらは、もはや「言うも愚か」の域に達している。
最近の実例を知りたければ、10月4日の臨時国会初日に行なわれたばかりの安倍首相の所信表明演説を見よ。スピーチライターまでもが無恥の病に罹って、瀕死の重体である。「恥を知る」という「人間としての」基本が備わってさえいれば、身を捩りつつ自ら穴を掘り、その穴に身を隠してしまいたいような事態に追い込まれても、恬として恥じない彼らは、居直って居座り続けるだけの「胆力」に恵まれているのだ。南房総地域に手ひどい被害を遺した台風15号に関わる真剣な予報人の言葉を借りれば、「今までに経験したことのない」台風ならぬ人間が、あちらにも、こちらにも現われている。モグラたたきゲーム機なら、一つのモグラの頭を叩けば別な一頭が飛び出てくるだけだが、今や叩いても叩いても、懲りもせずに八頭全員が頭をもたげている体だ。
だが、果たして、これは私たちにとって初体験のことなのだろうか。
去る8月19日以降の新聞各紙は、敗戦後の初代宮内庁長官(1949~53)・田島道治が手帳やノート全18冊に記した天皇裕仁とのやり取りの一部を、「拝謁記」発見と題して大きく報道している。実は、これはNHKの「スクープ」で、8月16日以降大々的に報道していたというが、NHKのニュースを日ごろ見聞きしない私は、数日遅れの新聞報道で知ったのだった。今回公開されたのは、田島の遺族が同意した部分のみの抜粋であることに留意すべきだろう。また原武史のコメントに教えられて私も読んだが、これには、加藤恭子の『昭和天皇と田島道治と吉田茂――初代宮内庁長官の「日記」と「文書」から』という先行研究があること(人文書館、2006年)も心に留めて、NHKの「スクープ」宣伝に足を掬われないこと、そして繰り返すがまだ公開されていない部分があることに留意すべきだろう。
さて、問題は、今回公開された限りの「拝謁記」から何を読み取るかに尽きる。裕仁がここで語っていることの基本線は以下である。戦前については、「軍も政府も国民もすべて下克上とか軍部の専横を見逃すとか皆反省すればわるいことがある」から皆反省すればよいが、それは「私の届かぬ事」であった(52年2月20日)とする。戦後は、「(戦争について)私ハどうしても反省といふ字を入れねばと思ふ」という52年1月12日に語った思いが、当時の吉田首相の反対にあって実現しなかったと悔しがる。メディアはこれを真に受けて、一貫した平和主義者としての裕仁像を描き出している。
だが、沖縄2紙と「赤旗」が記載した53年11月24日の発言を見よ。「(米軍基地については)誰かがどこかで不利を忍び犠牲を払はねばならぬ。その犠牲ニハ全体が親切に賠償するといふより仕方ないと私ハ思うがネー」。米軍による長期にわたる琉球諸島の軍事占領を望んだ1947年の「天皇の沖縄メッセージ」の路線は6年後も生き続けていたと言うべきだろう。最も真剣に戦争責任を背負わなければならなかった者がそれを逃れた挙句に保身に満ちた言葉を側近に記録させ、それが厳しい批判にさらされることがないことこそが、厚顔無恥な者が大手を振ってふるまう戦後史の「はしり」と言えよう。この原体験を問わずして、虚偽に虚偽に重ねて成った戦後74年史を再審に付す場所はないと知るべきだ。
(10月5日記)
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2019年9月24日
『米海軍横須賀基地兵士アンケートを読む――私たちの「ともだち作戦」』(非核市民宣言運動・ヨコスカ+ヨコスカ平和船団=発行、2019年9月)所収
私がときどき焼酎や日本酒を買う地元の酒屋さんのモットーは「★あせらず★あわてず★あきらめず★あくせくせずに★あてにせず」である。角打ちコーナーがあるので、毎日のようにメールで、「今日入荷した酒と用意するおつまみ」の案内がくる。メールの末尾にいつも付いてくるこの文言を読むたびに、私にはそれが「非核市民宣言運動・ヨコスカ」のモットーのように思えてくる。自らの立ち位置をしっかりと定めて右往左往せず、他人の力を当てにせずに、悠然と(?)わが道を行く……とでもいうような。
同運動が2016年から18年にかけて11日間かけて行なった「米海軍横須賀基地兵士アンケート」と題する『私たちの「ともだち作戦」』の暫定報告書を読んだ。「軍隊には反対でも、働いている兵士は同じ街に住む〈ともだち〉だ」という気持ちにあふれた「作戦」で、私が勝手に、この運動のモットーと推定した精神がここでも貫かれていると思える。
112人の兵士がアンケートに答えたという。兵士の年齢・性別・出身地・所属機関・入隊の動機・仕事の内容などの統計を見ても、私のような外部の者が言えることは少ない。「横須賀市民にひとこと」の項目で、兵士の心の襞に辛うじて触れたか、と思えるくらいだ。私に言えることは、これら現役の若い兵士の背後に浮かび上がってくる、幾人もの米国の元兵士たちについての思いだ。
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まず、Veterans for Peace (平和を求める元軍人の会)の人びとがいる。米国が行なってきて、自らも兵士としてどこかで参画させられてきた戦争の本質に気づいた元兵士たちの組織である。来日ツアーを企画しては、横須賀、広島、長崎などを回り、自らの戦争体験に基づく反戦・平和の活動を行なっている。辺野古では新基地建設に抗議する座り込み活動にも参加している。現在沖縄に住む友人、ダグラス・ラミスが、この元兵士の運動に参加しているのは、1936年生まれの彼が1960年には海兵隊員として沖縄に駐留したからだろう。翌61年には除隊したが、その後の彼の長年にわたる反戦・平和活動は、兵士としての経験に基づく貴重な証言によって裏打ちされている。本土が戦場になった経験を持たず、常に海外を戦場とした戦争を続けている米国に「戦争が帰ってくる」という彼の分析は核心を突いている。戦場での経験からPTSD(心的外傷後ストレス障害)に苦しむ元兵士が、帰国後に引き起こす家庭内暴力や銃の乱射事件などは、「帰ってきた戦争」そのものだからだ。
国際政治学者、チャルマーズ・ジョンソンは『アメリカ帝国への報復』(集英社、2000年)や『帝国解体:アメリカ最後の選択』(岩波書店、2012年)などの著作を通して、「軍事基地帝国」を維持することに憑りつかれている米国の政策に対する厳しい批判者であった。1931年生まれの彼(2010年逝去)は、1950年に始まる朝鮮戦争に従軍した。彼は戦車上陸用舟艇LST883に乗り、中国義勇軍捕虜を北朝鮮側に運ぶ作戦にも従事した。この舟艇に乗って横須賀に停泊したことから、日本への関心を深めた。除隊後、彼は中国・日本などのアジア研究者となるが、その原点にあるのも、すでに見たように、兵士としての朝鮮戦争体験なのだろう。
私が随時参照するアメリカ史は、ハワード・ジンの『民衆のアメリカ史』全3巻(TBSブリタニカ、1993年)と『学校では教えてくれない本当のアメリカの歴史』全2巻(あすなろ書房、2009年)である。ジンの名は、1960年代の公民権運動やベトナム反戦運動の重要な担い手として、早くから知っていた。その後彼の本を読むようになって、1922年生まれの彼は第二次世界大戦に従軍し、「優秀な」空軍爆撃手として働いたことを知った。革新的な歴史家の若いころの素顔に、私は心底驚いた。
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こうして私ひとりの体験に即して振り返ってみても、アメリカ帝国内部から聞こえてくる強力な反戦・平和の声を発しているのは、元兵士たちなのである。軍隊内でどれほど「アメリカ・ファースト」の価値観や米国が行なう戦争の「絶対的な正義」を叩き込まれようとも、現実の戦場で行なわれた自国軍の殺戮行為・無差別爆撃・焦土作戦などのむごさと傲慢さに、市井の一庶民に戻った元兵士たちの心が疼いたのだろう。
「非核宣言市民運動・ヨコスカ」の人びとが行なってきている月例デモ、米兵士アンケート、米基地ゲート前での英語によるスピーチなどが〈持ち得る〉意味合い=可能性は、ここでこそ明らかになる。
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もうひとつの視点からも、この問題を考えてみよう。私は韓国の作家、黄晳暎と同年生まれである。1960年代後半、当時の韓国の朴正煕軍事政権は、米国との同盟関係を強固なものにするためにその要請に応えて、ベトナムへ韓国軍を派兵した。徴兵制度の下で、若き黄晳暎もベトナムへ派遣された。その後作家となった黄晳暎は、例えば『駱駝の目玉』のような短編(中上健次編『韓国現代短編小説』、新潮社、1985年)や『武器の影』(岩波書店、1989年)のような長編で、自らのベトナム戦争体験を、こころに迫る形で描いた。私はかつて、黄晳暎論を書いたが、そのとき心に留めたのは、同じ東アジア地域に生きていながら、同世代の人間の中には、国によっては徴兵されて侵略兵としてベトナムへ派遣された者もいれば、他方、徴兵制はなく、ましてや軍隊不保持と戦争放棄を定めた憲法に守られて、海外へ派兵されるどころか、軍隊への入隊そのものを強いられることのなかった私たちもいるという、存在形態の〈差異〉を重視することだった。もちろん、後者の場合にあっては、憲法9条の本源的な精神に相反することに、日米安保条約の下で日本各地に米軍基地が存在し、そこからベトナムを爆撃する戦闘機が絶え間なく飛び立っていたことから、日本は明らかにベトナム侵略に加担していた事実を忘れることなく。
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「非核宣言市民運動・ヨコスカ」には「高い理想を掲げない」というモットーもあるようだ。足元の地道な実践を大事にしたいという戒めだろう。でも、「私には夢がある」と敢えて言いたい。「ひとを殺す兵士という仕事が地球上から消えてしまう日を夢見るという夢」が……。それは、軍隊のない世界、したがって戦争のない世界、ということである。人びとは誰でも、他人を活かし、自分を活かす仕事に就くということである。この夢は,結局のところ、幸いなことに兵士になることを強いられることなく育つ人びとと、一時にせよ兵士として生きざるを得なかった辛い経験を通して「戦争を拒否せよ!」の意志を固めた元軍人たちとの協働作業の果てに実現されるものなのだろう。いまだ見ることのできないその協働作業を、横須賀の人びとは米海軍横須賀基地の兵士たちに呼びかけているのだ。人類史のどこかの時点で、それが実現されるだろうという夢を、私は手放したくない。
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2019年9月17日
【まえがき――去る2019年9月14日(土)午後、東京「アルカディア市ケ谷 私学会館」で、先だって亡くなられたラテンアメリカ文学者・鼓直さんとの「お別れの会」が開かれました。現代企画室では、「ラテンアメリカ文学選集」(全15巻。1990~96年刊行)の企画でお世話になり、ご自分でも、バルガス=リョサ『誰がパロミノ・モレーロを殺したか』、ガルシア=マルケス『ジャーナリズム作品集』、ビオイ=カサレス『脱獄計画』(後2冊は共訳)の翻訳を担当されました。その後、私たちが女性作家の作品の紹介に力を入れていた時期には、読み終えられた女性作家の原書をダンボール箱に詰めて送ってくださったこともありました。お別れの会では、私が最後のスピーチを行ないました。事前に3分間の制限を受けていたので、長い講演の時には用意しない原稿を予め書きました。その通りに話したわけではありませんが、用意した原稿を紹介しておきます。】
私が数年間に及んだラテンアメリカ放浪の旅を終えて帰国し、現代企画室に関わったのは1980年代半ばでした。旅で蓄積したものを、次第に書物の形にして刊行し始めておりましたが、その過程で、『百年の孤独』のすぐれた翻訳者として、読者の立場から遠く仰ぎ見るばかりであった鼓直さんにお会いする機会がありました。5、6年にわたる私たちの仕事をご存じだったのでしょう、「ラテンアメリカ文学を少しまとめて出版しませんか」との言葉をかけてくださいました。1989年のことでした。
70年代後半から80年代半ばにかけて国書刊行会から「ラテンアメリカ文学叢書」全15巻が、また80年代前半には集英社から全18巻の「ラテンアメリカの文学」が刊行されていた段階です。新潮社もガルシア・マルケスの作品を次々と出版しておりましたし、果たして私たちの小さな出版社がさらに参入する余地があるだろうかという疑問が、正直なところ、私にはありました。でも、鼓さんは木村栄一さんを相談相手にしながら10冊以上の候補作品リストを作られ、それに私たちからの推薦作品も加えて、15冊のラインアップが完成したのです。マルケス、リョサ、フエンテス、パス、プイグ、コルタサル、ドノソらの常連も名を連ねたうえで、アルゲダスの『深い川』、アベル・ポッセの『楽園の犬』、ドルフマンの『マヌエル・センデロの最後の歌』を加えることができたこと、さらにそれまで紹介されることがなかった女性作家の作品を、まだわずか2作品でしたが紹介できたことは、私たちの小さな誇りでした。それは、ルイサ・バレンスエラの『武器の交換』、マルタ・トラーバの『陽かがよう迷宮』です。
鼓さんと長い時間を共に過ごしたのは、つまりお酒を飲んだのは、ほんの数回です。どの場面もお店のたたずまいも含めて思い起こすことが出来ますが、一番強烈だったのは、初回でした。鼓さん行きつけのバー「ペーパームーン」、確か新宿の大ガードを外側へ超えたあたりにあったのですが、ビリヤード付きの広いバーで、飲み疲れると玉突きをやって遊び、また飲む、鼓さんは時々バーのカウンターの内側に入り込んでバーテンダーの真似事をする――そうこうしているうちに、夜は明け、お互い始発電車で帰る破目になりました。いつも、楽しいお酒でしたね。
私の若い友人に、時々新宿のゴールデン街で飲んでいる人がいます。ここ数年来でしょうか、同じ店で鼓さんにお会いして話しをした、とよく言っていました。複数回聞きましたから、お気に入りのお店があったのですね。友人は、いつか鼓さんと私の公開対談を企画したかったようなのですが、鼓さんの急逝でそれは実現できなくなって残念だ、と先日会ったときに言っておりました。
スペイン語文化圏に関わる私たちの仕事も、文学に限定しなければ今では150冊以上を数えるに至っています。それぞれに深い思い出がありながら、やはり、ラテンアメリカ文学紹介のパイオニアとしての鼓直さんのお仕事は際立っています。個人的にはこの間、若かった時とも異なる観点でロルカを読んでいるのですが、鼓さんは今はなき福武文庫でロルカの『ニューヨークの詩人』を翻訳されておられます。1929年大恐慌時のニューヨーク、ウォール街の繁栄と荒廃を見届けたロルカがこの詩集で見せる貌つきは、彼の他の詩集におけるそれとはずいぶん違います。他の方の訳業もありますが、われらが鼓さんがこの仕事も遺してくださって本当によかった。しみじみ、そう思います。
すぐれた先達を失った私たちの「孤独」は、このあと「百年」続くのでしょうか。
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2019年9月2日
『反天皇制運動 Alert』第39号(通巻421号、2019年9月3日発行)掲載
「慰安婦問題」に関わる朝日新聞の過去の報道をめぐって、不当極まりないキャンペーンが繰り広げられた直後の2015年、私は『「外圧に抗する快感」を生きる社会』という文章を書いた【それは『〈脱・国家〉状況論』(現代企画室、2015年)に収録してある。】
新たな視点を加えて、再論したい。ブルジョワ国家はもちろん自称「革命国家」も、国家の名において積み重ねた悪行と愚行ゆえに、人びとの心が「国家」から離れ始めた時期を一九六〇年代後半と措定してみる。その根拠を、ベトナム反戦運動、パリ五月革命、プラハの春、全共闘運動、カウンター・カルチャーなどが孕んでいた思想的可能性に求める。ジョン・レノンは世界に広く浸透したその心情を捉えて、「国なんてものがないと想像してみよう。それは難しいことではない。そのために殺したり死んだりするようなものがないということは」という言葉に形象化して「イマジン」を創った。1971年のことだった。
強権的な「国家」の限界を見極めた人びとの間から新たな動きが始まったのは、この時期と重なっている。城内秩序の確立のために「国民」に強制力を働かせがちな個別国家の枠組みの中では解決が不可能な問題に関して、国際条約や規約によって枷を嵌める動きが具体化し始めたのだ。「国際人権規約」の「政治的、社会的及び文化的権利に関する国際規約(A規約)」や「市民的及び政治的権利に関する規約(B規約)」などがそれである(1967年発効。日本も批准)。その後も、女性、子ども、障碍者、先住民族、拷問禁止・死刑廃止など従来の〈弱い〉存在の権利を確立するための国際条約が成立している。
1991年、ソ連邦が崩壊した。今度は「国家」の儚さが、人びとの胸に染み渡った。同時に、東西冷戦という戦後構造によって蓋をされてきた、つまり、地下に封印されてきた諸矛盾が吹き上がった。植民地支配・奴隷制度・人種差別主義・侵略戦争など、強大な国家が近代以降の長年にわたって国境を超えて犯してきた国家犯罪に対して、被害地域の個人が抗議の声を上げ始めたのである。遅すぎる、確かに。
だが、権力装置として圧倒的な優位に立つ「国家」を前にした個人の力は、これほどまでに微弱だと捉えるべきだろう。同時に、先に触れた「国際人権条約」は、国家による人権侵害を受けた人びとが「救済措置」を受ける権利を定めていること、および「戦争犯罪及び人道に対する罪に対する時効不適用に関する条約」(1970年発効。日本は未批准)が存在していることに注目したい。2001年には「人種主義、人種差別、排外主義、および関連する不寛容に反対する世界会議」が、長年続いたアパルトヘイト(人種隔離体制)を廃絶して間もない南アフリカのダーバン市で開かれた。旧加害者側と被害者側の合意が簡単に得られるはずもないが、歴史を捉え返す作業は、21世紀を迎えてここまで来ているのである。植民地支配の責任を全面的にとった国は、歴史的先行者の欧米諸国でも一つもない。だが、被害国と加害国とのあいだで、個別には「謝罪・補償」が成立している実例があることは本欄でもたびたび触れてきた。それには、加害の側が従来固執してきた〈遥か昔のことを蒸し返すな〉〈植民地主義は、かつて時代精神そのものであった〉〈現在の価値基準で過去を裁くな〉などの一方的な立場を、〈少しは〉改めたことを意味している。
徴用工問題を、20世紀末から21世紀初頭にかけてのこの世界的な分脈の中においてみる。このような価値観と歴史認識の変革が未だなされていなかった1965年に成立した二国間条約を盾に、加害の側が「すべて解決済み」「非可逆的な解決方法」と言い募るのは、理に適っていない。2002年、朝鮮国の拉致犯罪(それは確かに酷いものである)に関わってあの一方的で排外主義的な情報操作を許した私たちは、2019年のいま、徴用工問題をめぐる官民挙げての反韓国キャンペーンに直面しているのだという繋がりの中で事態を把握したい。政府も官僚もメディアも民間も、いわば社会挙げて「宗主国」意識を払拭できていないからこそ、現在の状況は生まれているのだ。
(9月1日記)
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2019年8月9日
『反天皇制運動Alert』第38号(2019年8月6日発行、通巻第420号)掲載
参議院議員選挙の結果を見ながら、選挙の前にも存在していた、そして後にも続く「政治」のことを思った。選挙とは、今やあたかも、「一日だけの主権者」が「代議員」を選んでしまうだけの行事と化している。「選ばれる」者は、絶対得票率から言えば全主権者の16~20%程度を獲得できただけなのに「全権」を委託されたと居直り、「選ぶ」側は必要な時にはリコール権を行使しなければ選挙はその意義を半減させてしまうことにも無自覚に、すべてを議会任せにしてしまう。その繰り返しの果てに、「議会制民主主義」はひどく形骸化した。世界じゅうでそうだが、とりわけ現在の日本は、惨! の極致だ。
今回は、選挙だけに拘泥せずに、「政治」そのもののことを考えてみる。去る7月27日は、朝鮮戦争休戦協定締結(1953年)から66年目を迎えた記念日だった。休戦協定締結から66年も経ていながら、それを平和協定に進展させる「政治」を行ない得なかった者は誰か。共和国で言えば、金日成、金正日、金正恩の3人だ。韓国で言えば、李承晩以降の大統領は12人を数える。この戦争の当事国である米国も、休戦協定以後の交渉には必要欠くべからざる存在だが、66年間には12人の大統領が在任した。この「政治家」たちはいずれも、この66年間の「政治的無為無策」への責任を、軽重はあっても何らかの形で負っている。金正恩、文在寅、トランプは在任中だから、行く末を見なければならないとしても、朝鮮半島の住民は、こんな「政治」への怒りを心の底に秘めているに違いない。あるいはこんな「政治」を変えることができない主権者であるはずの自己の無力を託つか。
朝鮮国には「選挙」の自由もなければ「リコール」の権利もない。そこで行なわれてきた「政治」の責任は、第一義的に3代の独裁者に帰せられよう。韓国の場合は、軍政時代もあり、66年間を一様に論じるわけにもいかない。日本も、休戦協定問題の直接の当事国ではないが、朝鮮に対する植民地支配の加害国として、広く朝鮮半島の平和のためにどれほど積極的な政策を行なってきたかという観点から、66年間の「政治」のありようが厳しく問われざるを得ない。この一、二年の動きを見ても、和平へと向かう南北の歩みを歓迎せずに、むしろ妨害者としてふるまってきた過去が審問に付されよう。
さて、同じ年1953年の前日、7月26日は、キューバの革命運動開始記念日だった。フィデル・カストロらが、バチスタ独裁政府軍のモンカダ兵営を攻撃した日である。その後のキューバ革命運動の主体が「7・26運動」と名乗るのは、この日付を記念日としたからである。それから6年後の1959年、カストロたちは独裁政権を打倒して、革命は勝利した。したがって、今年は革命から60周年の年に当たる。
武装闘争で勝利した革命家たちはどんな「政治」を行なってきただろうか。革命初期、社会的公正さを確保する政策路線の下で、教育・医療・福祉などの分野で第三世界の国としては画期的な達成を遂げ、「先進国並み」との評価を得たことは事実だが、その後はどうか。下からの民主主義・言論と表現の自由・生活必需品の保障・軍隊(革命軍)の文民統制・選挙とリコール権などの観点で見た場合はどうか。旧ソ連に象徴された20世紀型社会主義の「限界」がそこでも露わになっていることは明らかだ。
私は権力者には何の共感も持たないが、朝鮮・韓国・米国・キューバの民衆の心の動きと動静は気になる。日本の私たちと同じように、「政治」のあまりのひどさに怒り、絶望しているだろうか。ヨリましな「政治」に、小さくはあれ幸福感を抱いているだろうか。いずれにせよ、「政治」の在り方は、所与の社会に生きる人びとの生死をこれほどまでに牛耳るものであるのに、為政者が冷酷なブルジョア代表であれ、初心は理想と夢に燃えていた革命家であれ、現状ではどの社会にあってもろくな「政治」もろくな「選挙」も行われていないことには疑いようもない。人類は、「政治」や「選挙」の賢いやり方をいまだに弁えてはいない時代を生きている。
(8月2日記)
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『反天皇制運動 Alert』第37号(2019年7月9日発行、通巻第419号)掲載
6月末から7月初めにかけてのわずか10日間強に行われたトランプ米国大統領の言動から浮かび上がる現在の状況をおさらいしておきたい。6月24日、トランプ氏は或る私的な会話で「不平等な日米安保条約は破棄」とか「米軍基地の移設は、米国からの土地の収奪」と語った(米ブルームバーグ通信)。同月26日、大阪でのG20会議への出発直前には、「もし日本が攻撃されたら、米国は第三次世界大戦を戦うが、米国が攻撃されても日本はソニーのテレビで見ているだけだ」と語った(米フォックスビジネステレビでのインタビュー)。同月29日、G20会議後の記者会見では「日米安保条約は不公平な合意だ。変えなければならないと(日本の首相に)伝えてきた」と述べた(各紙)。
何かといえば「強固な日米同盟」頼みの日本の政府・自民党にとっては、足元が強く揺らぐ思いだろう。事実、野上官房副長官は、29日のトランプ発言をうけて「日米間で日米安保条約の見直しといった話は一切ない」と否定した。政府と外務官僚は嘘に嘘を重ねていくから、特権的な立場にない一般民衆が、歴史の歩みから教訓を得る機会を奪い去ってしまう。トランプがいう「片務性」は、60年日米安保改定に取り組んだ岸信介にとっては、米国を納得させるうえでの難題となって立ちはだかった(原彬久編『岸信介証言録』、毎日新聞社、2003年)ことくらいは、正直に頭に入れて発言するほうがよい。また、プーチンとの何回もの会談を重ねて日露平和条約が近々にも実現し、「北方領土」が「戻ってくる」かのような「印象操作」を首相自らが行なってきた案件も、日米安保絡みの側面を持つとの自覚もないままの外交交渉だった。ロシアが、日米安保体制下にある日本に北方諸島を返還したらそこに米軍が駐留する可能性に対する危機感を持つことは当然だろう。「地球儀を俯瞰する外交」が、日米安保体制が日米両国に持っている多義的な意味合いを無視し、そして近隣諸国の人びとからはどう見えるかという複眼的な視点も欠いたままに、行なわれてきていることは致命的なことだ。
同時に、1960年から70年にかけては、トランプが言うのとは別な意味で「安保破棄論」が民衆運動の中に根づいていたのに、発効後70年近くを経た現在では安保体制そのものを問う問題意識が希薄化していることに目を向けたい。憲法9条を守るという気持ちを持ちつつ日米安保体制を肯定するひとが存在することは、沖縄の人びとから夙に指摘されていたが、それは2015年の戦争法案反対運動の中でヨリ露わになった。そのことを忘れるわけにはいかない。
さて、トランプに戻る。大阪G20の会議が終わる6月29日の朝、直後に韓国を訪問するトランプはツイッターで、南北非武装地帯での金正恩との会談の可能性に言及した。その後の経緯は誰もが知っている。二人の独裁者の内外施策に対する厳しい批判を持つ私も、この臨機応変な機会の生かし方には、感心する(二人の心に透けて見える、計算づくの思惑を超えて)。そして帰国したトランプは、7月4日の米国「独立記念日」に、ワシントンのリンカーン記念堂の前で「米国への表敬」式典を開き、「米国に不可能なことはない」と演説した。上空にはF35戦闘機やB2戦略爆撃機が飛び、さながら「軍事パレード」の様相を呈した。為政者がこのような式典を行なう時、独立の「本質」を問う声はいつも少ない。
わずか10日間に凝縮して表現されたトランプの言動には、これが「一流の」帝国主義国の指導者だと思わせるものがある。身勝手で、強烈な自己中心主義を臆面もなく貫き、それでいて、相手を選んで時に「柔軟な」貌も見せる。五流の亜流指導者の、自信なげな言動との差異を思い、こんな大統領を有する国との関係の在り方をリセットすることに立ちはだかる困難さを改めて思った。
(7月6日記)
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2019年5月31日
『反天皇制運動 Alert』第36号(通巻418号、2019年6月4日発行)掲載
多面的な視点を失い一元化された情報で埋め尽くされた日の新聞を読むのは辛い。そんなことが、とみに多くなった。もちろん、テレビニュースは論外だ。そうなるときのテーマははっきりしている――天皇制、対米関係、近隣諸地域との間で継続している植民地支配をめぐる問題などだ。いずれも、深く考え、正面から向き合って論議し、解決のための歴史的かつ現実的な手立てを取ることを、社会全体として怠ってきた問題だ。その結果が、「2019年という現在」のあちらこちらにまぎれもなく表れている。ツケは大きいものだとつくづく思うが、時すでに遅し、の感がしないではない。
そんな日はできるだけ小さな記事を探す。大文字で埋め尽くされた新聞の一面や政治面はほぼ読むに堪えないからだ。最近では、5月中旬、ドイツが植民地支配への反省を強調し、ナミビアへ石柱を返還するという〔ベルリン=時事〕の小さな報道が胸に残った。石柱は高さ3・5メートル、重さ1トンで、ナミビアが持つ海岸線のどこかに建てられていたが、ドイツ統治下の1893年に持ち去られたという。そして、欧米諸国や日本のように植民地主義を実践した国ではそうであるように、この「略奪美術品」は旧宗主国の首都の歴史博物館に麗々しく飾られていたのである。独文化・メディア相は返還を発表した記者会見の場で、「植民地支配は、過去と向き合う中で盲点になってきた」と語ったという。
個人的にはナミビアを含めた南部アフリカに深い思いがある。1980年代後半から90年代初頭にかけて、南部アフリカ地域に続く人種差別体制の歴史と現実に迫るために「反アパルトヘイト国際美術展」に関わり、同時に「差別と叛逆の原点を知る」一連の書物を企画・刊行した。1994年にはアパルトヘイト体制が撤廃されるという現実の動きを伴ったこともあって、忘れ難い記憶だ。なかに『私たちのナミビア』(現代企画室、1990年)という書物があった。独立解放闘争をたたかうナミビアの人びとと、植民地支配の歴史を自己批判したドイツ人とが協働企画として実現した社会科テキストである。戦後史の中で「教科書問題」が常に争点になってきている日本の現実を思うとき、示唆に満ちた本である。
2018年8月には、独政府がナミビアを植民地支配していた1884から1915年にかけて、優生学上の資料として持ち帰った先住民19人分の頭蓋骨などをナミビア政府に返還したという報道もあった。だが、持ち去られた頭部は数千体に及ぶとする説もある。それは、1904~08年にかけてドイツ領南西アフリカ(ナミビアは当時こう称されていた)で植民地政府の暴政に対し蜂起したヘレロ人とナマ人が虐殺された出来事と深く関わっていよう。上記教科書によれば、ヘレロ人の80%、ナマ人の50%に当たる総計7万5千人が犠牲となった。その頭部が持ち去られたというのである。
その後のドイツの20世紀前半の歩みを私たちは知っている。第一次大戦で敗北したドイツは海外植民地の多くを失うが、ドイツ軍守備隊がアフリカ植民地で使用していた褐色の軍服をナチ党が買い入れて突撃隊(SA)の制服にしたこと、SAは1920年にバイエルン評議会共和国を押し潰した反革命軍事力の内部からこそ生まれたが、その指揮を執ったのは、ナミビアの植民地叛乱鎮圧の手腕を認められたフランツ・フォン・エップ将軍であったこと。そして、優生学研究が行き着いた地点も……。過去の植民地叛乱鎮圧と現代史との接点が、生々しくも見えてくるのである。
日本の遺骨返還問題をここで思い出さざるを得ない。1930年代、北大らの学者は、北海道各地・サハリン(樺太)・千島列島にあったアイヌ墓地から、人種特定のために遺骨を掘り出した。同じことは、同じ時期の琉球諸島でも行われた。返還訴訟を2012年に始めたアイヌの場合は、一定の「成果」をみている。琉球の場合は、遺骨を保存している京大が調査と返還を拒否したために係争中である。加害者側がしかるべき言動を行なわない限り、植民地支配問題に「終わり」(=真の解決)の時は来ないと知るべきだろう。(5月31日記)
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『反天皇制運動 Alert』第35号(通巻417号、2019年5月7日発行)掲載
去る4月28日、天皇明仁の伊勢神宮参拝時に登場した「三種の神器」にまつわる、忘れるわけにはいかないエピソードがある。
1945年8月9日、ポツダム宣言受諾か否かを迫られた「最高戦争指導会議」に臨んだ天皇裕仁は、敗戦を挟んだ半年後の46年3月、側近に対してその時の心境を次のように語った。「当時私の決心は第一に、このまゝでは日本民族は亡びて終ふ、私は赤子を保護する事が出来ない。第二には国体護持の事で、敵が伊勢湾付近に上陸すれば、伊勢熱田両神宮は直ちに敵の制圧下に入り、神器の移動の余裕はなく、その確保の見込が立たない、これでは国体護持は難しい、故にこの際、私の一身は犠牲にしても講和をせねばならぬと思った。」(寺崎英成『昭和天皇独白録』、初公表=1990年、現在=文春文庫)。
この発言を知らないはずはない明仁は、この言葉が吐かれてから40数年後の1989年、別な言い方をするなら今から30年前の即位後の「朝見の儀」に際して、次のように語った。「大行天皇(裕仁のこと)には、御在位六十有余年、ひたすら世界の平和と国民の幸福を祈念され、激動の時代にあって、常に国民とともに幾多の苦難を乗り越えられ、今日、我が国は国民生活の安定と繁栄を実現し、平和国家として国際社会に名誉ある地位を占めるに至りました」。裕仁自らが、ポツダム宣言を受諾したのは、「国体護持のために不可欠な三種の神器を確保する」道はそれ以外になかったからだとあけすけに語っているのに、明仁は「ひたすら国民の幸福を祈念する」虚像としての裕仁像を創り上げてしまった。歴史過程における裕仁の役割に関するこれ以降の明仁の言動は(一見したところ、安部晋三の路線と微妙に対立しているかに見えるものを含めて)この大枠を外れることはない。
そして冒頭に書いたように、去る4月天皇夫妻は退位の事前報告のために「皇室の祖先の天照大神がまつられる」(NHK・TVニュースの表現のママ)伊勢神宮の内宮に参拝したが、その際に、裕仁によってかくまで「大事に守られた」三種の神器のうち剣と勾玉を、持参した。それは「皇位を継承する証し」だから、徳仁に受け継がせるために、である。
ここ2ヵ月間ほどかけて私たちが見せつけられている「退位・即位」に関わるいくつもの行事では、歴史的な実在性が疑わしい人物が登場したり、神話性に彩られた振る舞いが堂々と罷り通ったりしている。それが最終的には、明確な神道儀式に他ならない、今秋11月に予定されている大嘗祭へと繋がっていくのである。すでにその座を去った天皇夫妻は、身についた現代的な発想とふるまい、「開明的な」その姿勢のゆえに、意外なまでに多くの人びとの心を捉えてきたことは認めなくてはならないだろう。その「開明的な現代性」は、「退位・改元・即位」行事に貼りついている拭い難い神話性・宗教性と好対照をなしつつも、ふたりの言動にあっては平和的に共存している。神話や宗教には、具体的な現実から自由に飛翔を遂げている点において、人びとの心に迫り、これを突き動かす初源的な力が秘められている。それが、社会の統治形態とは無縁なところで浮遊している限りは問題とするには当たらない。だが、日本の天皇制にまつわる神話性と宗教性は、明らかに、人びとにその力を及ぼす統治形態と密接な関わりを持っている。ひとが本来的に持ちうる論理と知恵に基づけば、眼前に展開されている代替わり行事に孕まれているごまかしと虚偽をいくつも指摘できようが、それを暴露したところで、私たちは、その虚構にいっそう深く拘束され、支配されてゆく人びとの群れを見るばかりである。
『文藝春秋』誌5月号には、天皇皇后と交流をもった123人の証言が載っている。私がその作品に少なからず親しんできた詩人の吉増剛造や高橋睦郎の二人も、天皇ではなく皇后との触れ合いに力点を置いて書いている。高橋は「私たち日本国民は何という優雅で深切な国母を持ち、皇室を持っていることか」とまで書く。人をして、批評精神を喪失させてしまう天皇制の「呪縛の構造」を克服する道を探り続けたい。
(5月4日記)
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