職業的な物書きではない若者がいて、どうしても表現したいものが溢れているとき、誰もが自然に行なうことは、自ら書いた文章を手づくりの作業で小さな同人誌かパンフレットにでもして、回りの人たちに売り歩く――という行為であろう。
製作費が回収できれば言うことなし、少しくらい赤字になっても、発表できたことへの満足感は残る。私も、若いころから、いろいろな同人誌的な新聞や雑誌に関わった。
この二〇年間は、小なりとはいえ商業出版社で仕事をしているが、原基にある心構えは、リーフレットのように気軽で、自律的な形で、出版物を捉えるということだ。それには、精神の自由さや、権威主義に対する根底的な批判が不可欠だ。
小さなパンフレットの場合には、かかる経費も驚くほどの額にはならない。だから、きょうも、私の回りにはたくさんの自主的な刊行物が溢れている。画一化へとはたらくマスメディアの機能に自覚的であればあるほど、自主的な、手づくりの刊行物の大切さがわかるというものだ。
それと同じことを、映画に関してやってきたのだな、と「自主上映歴25年」の自分たちをふりかえってみて、思う。南米ボリビアの映画製作集団「ウカマウ」の映画にはじめて出会ったのは、一九七五年のことだ。
当時わたしは中南米各国を放浪していた。その土地の歴史や文化に惹かれるものを感じ、単なる旅行者としてではなく一定期間の長期滞在者として、そこに暮らしてみようと考えていた。どこかの街に着くと、市場へ行き、ごくふつうの人びとが入っている食堂で食事をする。
新聞を読みラジオを聞いて、映画・演劇・講演会・集会などさまざまな催し物の情報を得て、関心のあるところへ行く。街のありとあらゆるたたずまいが、何かしらの情報源である。そんなふうにして出会った人、催し物、出来事は数え切れないほど多い。
エクアドルはキトの街を歩いていたとき、壁に掛かった一枚の映画のポスターが目に飛び込んできた。せっぱ詰まった目つきをした先住民の青年が銃を手に立っている。ボリビア映画「コンドルの血」、とある。ボリビアと同じアンデス圏に位置するエクアドルでは、すでに何十万人もの人びとが観た、とも書いてある。
この地域も、また、映画といえば、ハリウッド製の映画に独占されているような状況だったから、そのポスター自体がひとつの明快な「主張」であった。幸い、その日は上映日当日であった。
すぐ会場へ駆けつけ、「コンドルの血」を観た。台詞はスペイン語とケチュア語と英語。植民者の言語、この土地の先住民族の母語、一九世紀後半以降この地に君臨し続ける米国の言語――用いられている言語ひとつをとってみても、この地域の重層的な歴史が浮かび上がってくるようだ。
物語は、低開発国援助の名目でアンデスの寒村に入ってきた米国の医療チームが、実は「人口爆発」「食糧危機」に備えて、アンデスの女性たちに強制的な不妊手術を施していたことを知った先住民の村人たちが叛乱を起こすというものだ。
不妊手術の一件は、実話に基づいているという点が恐ろしい。内容も衝撃的だが、先住民族のあり方が実によく描かれている点に感心した。欧米的な尺度とは異なる、先住民族の人生観や自然哲学などがにじみ出ている。
製作者のことを詳しく知りたかった。ちょうどエクアドルに政治亡命していた監督とプロデューサーにはすぐ会えた。
それが、すべての始まりだった。別な土地で、異なる過程をたどって三〇年間を生きてきた者同士の間で、歴史観・世界観が一致していることは、話し始めて間もなくわかった。彼らの映画は、欧米ではすでに評価も得て上映もされているが、働きかけても日本からは何の応答もない、と彼らは言った。
その後もしばらくの間わたしは放浪の旅を続け、彼らも亡命地を転々としていた。何度も会い、それまでの彼らの作品をすべて見せてもらった。
別れるときに、日本での上映の可能性を探るために、「第一の敵」の一本の十六ミリフィルムを預かった。映画がそこそこ好きな観客ではあったが、上映側の事情は何もわからない。さまざまなツテをたどって、上映の可能性を検討した。第三世界の、名も知れぬ監督の作品。
しかも、政治的・社会的なメッセージが強烈に含まれている。誰に聞いても、商業的公開は無理だという。仕方がない、自主上映するしかないな、と自然に思った。手作りの雑誌をみんなで作っていたことの延長上で、ごく自然に出てきた思いであった。
字幕入れの費用、カラー刷りのチラシ・ポスターの費用などがわかってくる。東京では、貸しホール代金や試写会場の高さも相当なものだ。上映期間にもよるが、すべてを合わせると数百万円単位の資金が必要とわかり、複数の友人たちから借り入れる。
字幕を入れる。上映する会場を予約する。チラシ、ポスター、チケットを作る。知り合いを総動員して、チケットを預かってもらう。
試写会を行なう。手探りでそれらの作業を一気に行なった。「第一の敵」の試写会の反応は良かった。各誌紙が次々と映画評を掲載してくれた。ボリビアという地名は、一三年前にチェ・ゲバラがゲリラ戦で死んだ土地として、まだ人びとの記憶に残っていた。
その地から、先住民貧農と都市からきた反帝国主義ゲリラとの出会いと共同闘争を描いた映画がやってくるということが、かなりの反響を呼ぶ要素になったようだ。二週連続の週末二日間を使い、計六回の上映を行なった。入場者数はほぼ二〇〇〇人だった。
私の密かな目論見は外れたが、自主上映の世界で考えれば出来過ぎの結果だと事情通からは言われた。メディアおよび口コミで映画の評判は伝わり、短期間のうちに全国各地での上映へと波及していった。一本しかないフィルムを担いで、できる限りの上映会場へ行った。
連帯・協働の証しとしての上映運動という方針を立て、上映収入で生活を支えることはしない、上映収入はできるだけ製作主体であるウカマウに還元するという原則をつくった。友人たちからの借金を優先的に返し、必要最小限のさまざまな経費を差し引いて、ウカマウ集団へ送るべき金額は残った。
その後の四半世紀の経験でいうと、フィルム購入・字幕入れ・宣伝チラシおよびポスター製作・試写会場・本番上映会場費など必要最低限の経費合計とウカマウ集団に送っている金額とは、ほぼ同じ金額で見合っている。つまり、上映収入はちょうど折半される形で分けられてきていると言える。
会場ではアンケートをとり、映画への批評、ウカマウ集団へのメッセージを書いてもらった。上映運動が始まった当初は、彼らは依然亡命中で、その後民主化の動きがあってボリビアへ帰国しても再度の軍事クーデタで地下へ潜ったために行方不明となり、連絡がとれなくなるなど、波乱にとんだ幕開けとなった。
数年後には情勢もある程度まで安定し、連絡も送金も順調にいくようになった。初期には特に綿密に上映報告を行ない、地図で上映地を明示し、会計報告を行ない、それぞれの上映会場でのアンケートをスペイン語に翻訳したものや会場スナップ写真などを添えた。
日本での反響も予想を越えて広がった。これなら、「第一の敵」以外の既成の作品をすべて公開する条件をつくることができるだろうと考えた。「ウカマウ」「コンドルの血」「人民の勇気」「ここから出ていけ!」などの長篇に加えて、初期短篇の「革命」「落盤」のすべての作品を輸入することにした。
一度にフィルム代を捻出することはできないので、数年計画を立てた。ボリビアには現像所がないので、ウカマウはどの作品も外国の現像所に発注し、そこからフィルムが送られてくる。連絡がうまくいっていないのか、上映日程が決まっているのに、フィルムがなかなか届かないこともある。
字幕入れに必要な時間を考えるともう待てないと思って、ある時はイタリアの現像所に、またある時はブラジルの現像所に催促の電話をかける。当方はスペイン語、もちろん先方はイタリア語やポルトガル語を話しているが、要領を得ない返事がかえってくるとその言語での怒鳴り合いになる。
そんな経過を踏みながら、上映は順調に進んだ。ウカマウへの報告も送金も確実に続けた。五年ほど経った頃だったろうか。次回作「地下の民」を共同製作で作らないかという誘いがウカマウからあった。
素人グループへの共同製作の誘い。それも大して気にとめずに、乗ってしまうところが、自主的な、手づくり作業のいい点なのだろう、と今にして思う。製作資金の一部調達、シナリオの共同検討、ロケへの参加など――協働できるいくつかの項目を考えた。すでにウカマウ・フアンというべき常連の方々にカンパの要請を行なった。もちろん、新作完成時には招待券を送ることを約束した。
かなり集まった。シナリオの検討については、慣れぬことゆえ大したことはできなかった。ロケへの参加も、現地の政治・社会状況が不安定なために、一気に撮影することができないという条件があり、三人のスタッフが準備していたにもかかわらず結局参加を諦めた。
その作品は四年の歳月をかけて、一九八九年に完成した。サンセバスティアン映画祭でグランプリを受賞したとの知らせが入った。
東京上映は、山本政志監督が自作「てなもんやコネクション」公開のために渋谷の空き地に作った特製テントを借りて一〇日間行なった。ウカマウの作風はこの作品を契機に大きく変化した。
背景としての政治的・社会的状況は厳として描かれているが、力点は、登場人物を矛盾点も含めてより深い地点で捉えるところにあり、作品全体の奥行きに深まりが生まれた。
私は、自分の身に照らしてみても、この変化が、自己批評のあり方として好ましく思い、世界およびアメリカ大陸の政治・社会・文化状況の変化を反映したものとして必然的だとも考えた。
次回作は、ジェラルディーン・チャップリンを迎えて「鳥の歌」という作品を作るという話が、やがて伝わってきた。これについても、できる限りの協働体制はつくろうとしたが、私自身は上映運動を開始して間もなく、別途関わり始めた出版社「現代企画室」関連の仕事がますます忙しくなっており、かつてのような時間を割くことはできなくなっていた。
もちろん、協働者はおり、全体としてできる限りのことはした。一応完成したといって送ってきたビデオを観て、音楽の使い方、シーンの繋がりなどについていくつかクレームを出した。完成した作品では、私たちが指摘したシーンの音楽が変えてあった。
はるかに良くなっていた。繋がりについては、日本版は独自なものとしていいと思う形でやってくれ、と言い、カットしてあった部分のフィルムを送ってよこした。
「鳥の歌」の上映は二〇〇〇年末に行なった。この年は、ウカマウ作品の自主上映を開始して二〇年目に当たり、監督のホルヘ・サンヒネスに来日してもらい、いままでの協働関係をふりかえり、今後の展望をつくる機会にしたいと思った。
東京、木曽福島、名古屋、大阪などで「上映・討論」の集いを開き、ウカマウの過去・現在・未来について熱心な意見の交換が行なわれた。
この間、ウカマウはラパスの「アンデス映画学院」を開校したが、そこに設置するビデオ映写機等に関して日本製品の注文があり、購入の媒介をすることなどもあった。昨年は、一九七〇年代から一貫してウカマウ集団のプロデューサーを務めてきた、そして日本の私たちとの連絡役でもあったベアトリス・パラシオスが急死するという不幸があった。
彼女が撮影の大半に関わることができた「最後の庭の息子たち」(仮題)も完成しており、また彼女が初の単独監督として関わる予定で、子役のテスト撮影も始まっていた「悪なき大地」をどうするかという問題も残っている。
サンヒネスの次回作「遥かなる鳥・コンドル」のイメージも、二〇〇〇年の来日時に聞いており、まだまだ私たちの間で相互になすべき協働の作業は山積している。
ふりかってみて思うことは、冒頭でも触れた、個人の自主性に基づく、手づくりの作業がもちうる可能性の大きさについて、である。
ウカマウ作品が商業的な配給会社の手に委ねられていたなら、この四半世紀の間に生まれたウカマウと私たち(観客も含めて)の間の濃密な関係は成立しなかった。
そこから派生した私たち自身のさまざまな動きも、いまあるような形ではあり得なかった。ハリウッドや、角川・徳間のように派手でも大規模でもないが、映像と出版の双方の世界で、自主的な手づくりの作業に徹した四半世紀の意味はけっこう大きそうだ、といま考えている。
【参考資料】
太田昌国編『アンデスで先住民の映画を撮る』(現代企画室、二〇〇〇年)
シネマテーク・インディアス編「ウカマウ映画の現在――ベアトリス・パラシオス追悼
*グローバリゼーションに抵抗するボリビア」
(シネマテーク・インディアス、二〇〇四年)
ビデオ「第一の敵」「地下の民」「鳥の歌」(シネマテーク・インディアス)
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