『ボリビアでウカマウを観た!』 |
怒りと勇気 |
佐藤友紀 |
ボリビアに来てから3週間あまりが過ぎようとしている。この間、ウカマウ集団が設立したアンデス映画学院という、いわば彼らのホームグラウンドでウカマウの旧作2作を観る機会に恵まれた。
その作品は「ウカマウ」および「人民の勇気」。私にとってそれらを観るのは初めてのことだ。 1ヶ月ほど前に静岡でウカマウ映画三作の上映会を開催したものの、私自身ウカマウの旧作をあまり観ておらず、ぜひ一通りの作品を観てより深くウカマウを理解したいと思っていたところだけに、この偶然の出来事(運命の出会い?)に、心から喜んでいる。以下、私が二作を通して正直に感じたことを書き記したいと思う。 そしてその虐殺の最高責任者たちが次々と告発される。映画の虐殺場面は誇張ではない、真実の出来事として深い衝撃とともに、私たちに迫ってくれる。この、人々が逃げまどう余裕すらなく殺されていく様、また一個人が自らのエゴを持って簡単に自分より「下層階級」のインディヘナの女性を殺してしまうシーンは、500余年にわたるスペイン征服の歴史と当時の厳しい現実を象徴していると言えるだろう。 また上映終了後に聞いた話では、今回の「人民の勇気」の観客の中には、当時の虐殺で生き残った人、殺された人たちの子供や孫たちが、自分たちの村で何が起こったのか(行われたのか)再確認するために来ていたという話だ。 日本の国内においては、過去の戦争において、被害者としても加害者としも何が行われてきたのか、なんらきちんとした形で説明もされていなければ、告発もされていないことを考えてみると(それとも私が知らないだけで、日本にもウカマウ集団に匹敵するような、国内外に影響力を持ち、徹底的に告発している人物、団体はいるのだろうか・・・)、ボリビアにおいて、ウカマウの映画が果たしている役割というものの重要性をここでも感じずにはいられなかった。 その「怒り」は、ごく普通の平穏な生活の中にいて、無意識のうちに他者を差別することは知っていても、めったに差別されることも、自己を否定され人間以下に扱われることも知らない日本人の私たちにはなかなか理解できない激しい憤り、怒りである。 「ウカマウ」ではその「怒り」は復讐という形に取って代わった。一方で「人民の勇気」では「怒り」はさらなる「抵抗」という形で続いていく。 しかし正直言って、「ウカマウ」の最終章の復讐からは私は未来への希望を感じることができなかった。一方で、虐殺シーンが繰り返される「人民の勇気」を観終わった時、その映像の衝撃にもかかわらず、映画の最後のシーンには、未来への希望を感じた。 もちろん、今も昔も、命の尊さが、社会的階層によって決定される社会においては、復讐という形でしか報われないことが多々あるということは敢えて承知したとしても、やはり私は「希望」を見出せる映画に心が傾いた。 それは今世界的規模で戦争反対のうねりが起こっていることと決して矛盾しない。復讐やそれに伴う暴力は、今や抵抗の手段にもなりえないし、抵抗を押しつぶす手段にもなりえない。「人民の勇気」の中では数えられないほどの犠牲者が映し出されるが、生き残った者は、自らの権利を求めて、決して抵抗をあきらめてはいない。 一通りの虐殺シーンが終わり、最後に映画に映し出されるのは、「怒り」をうちに込め、力強く拳をかかげ、アンデスの山間を行進する人々の勇敢な姿である。 その姿は暴力の前に、すべての希望をうち砕かれたかのように見えても、彼らの中には、その後も引き続き抵抗への勇気と未来への希望が続いていることを示してくれる。こうして彼らの抵抗は今に至っているのである。もちろん抵抗の手段は以前とは異なっているかもしれない。 しかし、それでも、今日行われている(しかも益々巧妙な手口によって)政府や軍、権力者たちによる抑圧、弾圧を考えたとき、映画「人民の勇気」は決して、歴史的意義付けだけで終わらない、新たな抵抗そしてそれに続く希望への果てしない勇気の必要性を私たちに示しているような気がしてならなかった。 映画を観終わった時、「抵抗」という言葉そのものにも時に疲れを感じてしまう自分の中に、なにか勇気が湧いてきたような気がした。 |