『ボリビアでウカマウを観た!』 |
ボリビアの今とウカマウ |
佐藤友紀 |
ボリビアに入国する数日前(2月12日、13日)、軍と警察が衝突する事件が起こり、200名近くの負傷者と、33名(一部報道では31名の死者が出た。普段は市民が普通に生活をしているラパスの中心街で起こったこの事件は、人々に大きな衝撃を与えている。大統領は「誰かが自分を殺そうとした!」と息を巻いて発言。
軍のクーデター未遂なのではといううわさもある(実際に銃弾が大統領府の椅子にまで届いたことを政府関係者は一生懸命ふれ回っている)。 政府は正式に米州機構に事件の調査を依頼。事件の全容解明のために、現在調査団や検察官らが調査、検証をしているところだ。 いずれにせよ、1980年代の民主化以降に起こった軍関係の事件の真相はほとんどきちんとした形で解明されていないため(最近の報道によると、なんと1982年の民政化以降190名が死亡。 そのうち1ケース以外が未解決のままということだ)、国民の間では、怒りとともに、今回もどうせ公平な調査と報告が可能なはずがないという諦めともいうべき感情が見られる。 日本ではボリビアにおける水の民営化について報道がなされていたが、これもそうした構造改革の一つの試みである。しかしこの時は周知のとおりボリビア国民の抵抗にあい、結局政府は民営化をあきらめた。 市内でもデモの光景は珍しくないし、抵抗の一手段として主要道路の閉鎖はよく行われている。大きな違いと言えば、今では「人民の勇気」の時ほど、簡単にかつ公に虐殺行為が実行されることはないということだけである。 しかし実際にはメキシコのチアパスにおける「低強度戦争」にも見られるように、権力者のやり方は実に巧妙になってきているだけである。未だに各地で軍が出動し、今回のように死傷者を出す事件が起こっていることがその事実を語っているといえる。 世界的な監視の目も増えてきて以前のように武器による大量殺戮ができないというのが、権力者側の本音ではないだろうか。 もちろん、人が殺されることに関して「大量」か「少量」か、ということは問題ではないのだが、支配者層の基本的な考え方は以前と一向に変わっているとは思えない。 ボリビア社会の中では依然社会階級が根強くはびこっているし、底辺にいる人たちはいまだに人間としての正当な扱いをされているとは、到底言い難い。 その中で彼は、前回の選挙で議席の1/3、つまり40議席が先住民から選出されたこと、以前には想像できないぐらい彼らが政治的力、決定権を持ち始めていることに言及している。 一方で、これまでの支配層がそうした変化を認めようとしないところに、まだまだ危険が潜んでいることを示唆している。 ボリビアには二つの価値観が存在する。一つは白人−メスティソの価値観。その価値観の中では、すべてが上からの命令で決定され、社会の階層化を助長する。もう一つは昔からの先住民の持つ価値観である。 それは、たびたび映画でも取り上げられているように、集団的な決定を重視する価値観であり、白人―メスティソの価値観とは対局にあるものである。 ボリビアにはこの二つの価値観が存在しているという現実を、支配者層の人たちは未だに見ようとしない、また先住民が自らのことを決定し、国を動かす力があることを理解できないでいる、と監督は語っている。 翻って、益々民主主義とは逆行していく危うい状況にある日本社会(多くの市民は危険性にも気づいていないのだが・・・)において、同様の危機感をもって時代を捉え、さらに私たちの内面に訴えようとしている映画製作者は果たしているのだろうか、とふっと考えてしまった。 ちなみに日本映画は内面を捉えると言うよりは、内向的な趣の映画が多いように思う。それは思考的にも閉鎖的なものであり、自分が外部と常につながっている存在であるということを示唆することはないように思われて仕方がない。 |