コメント&メッセージ 

『最後の庭の息子たち』をめぐって
川瀬陽太さん
(俳優、『ヘヴンズストーリー』『サウダージ』『シュトルム ウント ドゥランクッ』など)

 『地下の民』の様な、ある種神秘的ですらあった凄みが薄れ、享楽の価値観がどんどんアメリカに近づき若者の心にまで侵食してしまったボリビア。

「革命」という言葉が風化し、空々しい響きを持ち始めた現状を生きる若者たちの姿は、格差に震災のダブルパンチを食らった我々と地続きなのだという事を教えてくれる・・・それだけだろうか?

社会変革についての映画を批評的に論じたり楽しむ事は難しい。そこにそれぞれの正義、道徳、思想が反映されねばならないという懸念があるから。

しかしウカマウ集団、ひいては監督のホルヘ・サンヒネスが選んだ今回のキャンバスは「青春」なのだ。『最後の庭の息子たち』はまず青春映画なのである。どんな国でも若い奴は考えが足りず青臭くて、でも走る筋力だけは持っている。

映画を撮るモチーフにならぬ訳がない。そんな彼らを縦横無尽に追う事でホルヘ自身にとっても原初的な「映画を撮る歓び」に立ち返った作品となったように思う。






『コンドルの血』をめぐって
相澤虎之助さん
(空族、映画監督・脚本家、脚本作品に『サウダージ』、監督作品に『バビロン2 THE OZAWA』など)

 1969年、「Born to be wild」のロックのサウンドと共に「イージーライダー」が公開され、ジミヘンドリックスがウッドストックで狂気の「星条旗よ永遠なれ」を演奏した同じ年に、この「コンドルの血」が公開された。

この映画の中で若きヤンキー(グリンゴ)たちは、期せずして「Born to be wild」のロックで踊りながらボリビアで平和部隊の名のもとに現地の山岳民族の女性に不妊手術を行なっていたのだ。

おもえば現代文明は、自らが失ったワイルド(野性)というものに生きたいと願いながら、実態はその野性を殺し続けていた歴史であったことを「コンドルの血」は教えてくれる。 そしてその歴史は今も続行中である。




『人民の勇気』をめぐって
山崎樹一郎さん(映画監督、『ひかりのおと』『新しき民』)

1971年すでに到達している。
遠く離れた見知らぬ土地の男女そして群衆が目前にしっかり居て、
そこからこぼれては溜まる根源的な複数の問い。
映画はここまで辿り着いていた。
それは今よりもずっと先のよう。




ウカマウ集団レトロスペクティブに寄せて
富田克也さん(映画監督、監督作品に『国道20号線』『サウダージ』)

アメリカの富裕層が独立するという。遂にここまできた。もはや自分たちの財産を一切合切独占せんがため富裕層だけの共同体を形成し、それ以外の貧困層を排除するという考えである。それはもはや共同体ではない。

 そこで、ここ最近感じていたことを報告する。我々は今、バンコクの下町に生きはじめたが、大都会にもかかわらず、ここには完全に共同体が残っている。

生活互助が機能しているのだ。

目に分かる形の例を挙げれば、バンコクの下町に山梨ではおなじみの"無尽"もある。

近隣との間で行う積立のようなもので、例えば急な入用で困った時にはその個人が、まとまった金を得ることができるといった自然発生し習慣化したようなものから、それよりもっと人々の中に自然の形でそれがあるような気がするのは、はっきりいってかなり貧しいこの地域だが、例えば家は外に開け放たれ、そこを近隣の名もなき猫が行き交い人懐こく、飼っているとかそういうことではないけれど面倒をみているといったことにはじまり、それは当然人間同士にも当てはまることで、優しさとかそういうことではなく、助けなければ死んでしまうからという当然の行為のようだ。

 そしてやはりそれは、人を助けることがエニシとなって我に返る、逆もまたしかりという仏教の教えに導かれているように感じるのだ。上記の猫も近隣に生まれたエニシによって生かされている。

つまり人助けこそ我を救う道ということであり、このアメリカの富裕層の考えと真っ向から対立するものである。

我々は東南アジアに長く滞在する過程で、アジアに古くからあるこの考え方に非常に感銘を受けた。そのアジアの一員である日本も、今後この方向に舵を戻していくことが最善と提案するものである。

 南米ボリビアのウカマウ集団からは、第一の敵はアメリカである、との報告を受けている。

彼らの現地報告の数々によれば、南米も古くから上記したアジアの考えと非常に近しい習慣の中で人々が生きてきたようだが、それらをすべて破壊したのがアメリカ拝金主義であるとのことだった。

 今こそ、ウカマウ集団の現地報告上映会に参集すべし!




ウカマウ作品レトロスペクティブに寄せて
星野智幸さん(作家、『目覚めよと人魚は歌う』『ファンタジスタ』『俺俺』など)

ウカマウを見ていると、自分が生き物になったような気がしてくる。
ウカマウを見ていると、自分の心臓の鼓動が聞こえてくる。
ウカマウを見ていると、生きていることを取り戻したくなってくる。
ウカマウ、命のほとばしる地。




『ここから出ていけ!』をめぐって
深田晃司さん(映画監督、監督作品に『ほとりの朔子』『いなべ』)

 『ここから出ていけ』の美しいモノクロームの映像から溢れ出る怒りと団結への希望が、決して古びないのはなぜだろう。

それは、たった今も、世界の どこかで、今ここで、進行するあらゆる搾取や断絶と容易に結びつくからだろう。

共感を強要する見えざる手で選ばれた主人公はここにはいない。だ からこそ、スクリーンに写るひとりひとりの人間が等しく愛おしいのだ。




『ただひとつの拳ごとく』をめぐって
井土紀州さん(映画監督、監督作品に『百年の絶唱』『レフト・アローン』)

デモ、ストライキ、集会とアジテーション、議論や証言などによって構成された本作は、 民衆運動の盛り上がりが軍事政権を打倒していく過程を静かに浮かび上がらせる。
ウカマウ映画の原則がスペクタクルの否定≠セから、当然のことながら地味だ。しかし、この地味な時間の積み重ねこそが革命の本質であることを教えてくれる。




『ウカマウ』について
森下くるみさん(女優)

『ウカマウ』――「太陽の島」と呼ばれる大地で、民の血を搾って擦り込んだような、激しい映画が創られたこと、それをいま多くの人に知らせたい。ラストの、素手で掴んだ冷たい石を振り上げる壮絶な復讐劇は、あれはまさに祈りのひとつの形だと思う。




『鳥の歌』をめぐって
野口雄介さん(俳優、『堀川中立売』『サウダーヂ』など)

今回コメントを書くにあたって、約13年ぶりに『鳥の歌』を再観したのだが…。デカい、深すぎる。この内容だよ。彼等は自らの声に即して 「間違いなく」撮ってた。
しかも軽やかに落ち着いて撮影している印象。態度、準備、経験値、切り開いて行く実践、覚悟。ヤバい、ヤバすぎる。改めて。
何だよ!映画なんか越えちゃってる、少なくとも俺にとっては。
彼等の態度を「革命」というなら、それは信用できる。
単なる宣伝文句では無い。信用するよ。誰もやってない事。やり続けた結果がこの作品群だ。
俺の心にも、フィルムとしての物体としても残っている。・・・・・(抜粋 /全文はこちらで




『地下の民』をめぐって
柴田剛さん(映画監督)

自分のなかにこの感覚はすでに出来上がっていましたから驚きはありませんでしたが 大好きな映画のひとつになりました。
この映画と主人公と物語と音楽はシンプルでとても自由なので末長く応援できる存在感がありました。それはきっと作り方もシンプルで自由だからだと思えてなりません。
タイトルを見て、自分に当てはめられない人がこの映画を観にいきたいとは思わないでしょう。そしてこの映画の全体像を見渡してみたいとも思わないでしょう。
『地下の民』コメントを書くにあたって、そもそもこの映画に出会うことのない人に向けて 発信している謎な自分を発見したので書くのが大変でした。
よっぽど勧めたいのだなあと。想像が膨らむ作品なのでぜひ観てみて下さい。




『第一の敵』をめぐって
木村文洋さん
(映画監督、『へばの』『愛のゆくえ(仮)』『息衝く』など)

 『第一の敵』―…現在においてなお、黙示録めいた言葉だ。 すべては、たった一頭しかない牛を盗まれた、一人の農民の訴えに始まる。

彼の訴えを圧殺する地主、地主を包囲するペルーの民衆、今度は民衆を圧殺する行政、 行政を包囲していくゲリラ…そして軍により崖の上から投棄され死していくゲリラ… "アメリカこそが、第一の敵だ"というインカ帝国からの歴史を解く老人の言葉は、 これら途方もない、閉じることのない円環の外に投げられる。そうなのか。

 「個人的な主人公ではなく、集団的な主人公を」を、5原則のひとつに掲げる ウカマウ集団の厳格な"制約と誓約"は、スクリーンの目の前に映る光景が、 史実への考証や再現であることを信じがたいほどに、いままさにそこで起こっていることのような、 参加者の創造力と、住民の笑顔に溢れている。

 いわばこの映画をつくることを通して―闘争の生命力が世界に中心も端もなく、 再度生まれているように見えてならない。映画に映るものが単に歴史事項の再現のみであれば、 映画のつくり手は、闘争が死している現実と共に負ける。集団的な主人公を志す志向とは、まず一歩に、 この死に対しての抗いに他ならない。

そうでなければ、どうして『第一の敵』の閉じることのない、 円環そのままの投げ出され方があるだろうか。ホルヘ、そしてウカマウは、この無間に拮抗しえるべきなにかを、 答えを置くことではなく、撮ること、映画の創造によってまず見出さそうとしたのではないか。

 そしてこの映画の背景には、ボリビアで理解を得られず死したゲバラの姿がよぎりもする。 原爆を投下された唯一の国である日本においては、原発新設を唱える政府を震撼させるほどの デモ・選挙・政治の熱狂が、あり得べきなままなのかもしれない。

 圧殺者を包囲していくべく生まれいづる人民の円環が、―終わりなく閉ざされていく、 映画の外へ、老人は告げる。第一の敵は、アメリカだ。そうなのか。

 奪われる者の緩やかな失語にもう慣らされていく我々の前で、 映画『第一の敵』は、もしかしたらこう告げているかもしれない、といま思う。

 まずひとりだった。まず一頭の牛からだった。 それを忘れまいとすべき声が、第一の敵を照射すべきことにつながっていくのだ―、とも。

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