|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
インタビュー『ゲバラ コンゴ戦記1965』 |
|
|
|
|
|
|
ゲバラは死んだか |
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
軍・国家そして第三世界革命とは |
|
|
|
|
|
|
太田昌国 ・聞き手 米田綱路(図書新聞編集部) |
|
このたび、現代企画室から『ゲバラ コンゴ戦記1965』が刊行されました。本書
の刊行によって、一九六五年、キューバからアフリカのコンゴに向かったゲバラと、
いままで謎に包まれていた彼のコンゴでの動向が、日本の読者にも明らかになってき
ました。そこで、本書の訳者である太田さんに、この本を手がかりにして、当時のゲ
バラと彼をとりまく世界状況について、さらには、二〇世紀が終わろうとするいま、
ゲバラたちの第三世界解放闘争とは何であったのかという問題をめぐって、お話をう
かがいたいと思います。 ゲバラの死後三〇年を経て、日本においても、ゲバラ関連
の書の刊行が続きました。現代企画室からも、一昨年は『チェ・ゲバラ モーターサ
イクル南米旅行日記』、そして昨年にはコルダ写真集『エルネスト・チェ・ゲバラと
その時代』が刊行されています。またこの間、そうした出版のみにとどまらない、若
い世代を中心とした一種の「ゲバラ・ブーム」といえるような状況さえ見受けられた
のですが、太田さんはこのことをどう見ておられますか。
太田 僕自身は一九六〇年代、同時代人としてゲバラに関心を持っていたので、死
後三〇年目にあたる一九九七年には、何かゲバラについてのまとまった仕事をしよう
と思っていました。もちろん論文集も企画のなかに入っていましたが、時代状況も考
えた企画の一つが、『チェ・ゲバラ モーターサイクル南米旅行日記』の刊行でした
。
これは、一九五一〜二年当時二三、四歳の医学生だったゲバラが南米一周貧乏旅行
の過程で書き留めていた日記を復元したものです。若書きの文章ですが、彼は文章家
だし青春文学の趣もある本だけに、活字離れしたといわれる今の日本の若い人たちに
も手に取りやすいということもあって、東京では青山や六本木、渋谷など、若者がよ
く行くような書店で少しずつ売れはじめました。ちょうど同時期に、人気デザイナー
の手になるゲバラの顔をデザインしたTシャツなどが出回ったり、米国のロックバン
ドの「レイジ・アゲインスト・ザ・マシーン」がゲバラをテーマに取り上げて歌った
りして、どこか魅力的な表情をたたえたゲバラへの関心が若者たちのなかに生まれて
いたというような事情も手伝ったと思います。また若者文化でいえば、雑誌『ポパイ
』や『ブルータス』などいろいろな媒体で、死後三〇年ということでゲバラの特集が
組まれたりした影響もあったと思いますね。このようなブーム・流行のあり方には「
軽薄」とのレッテルがすぐ貼られるのですが、ぼくの考えでは、多様化した入り口の
どこからでも入ることができるという意味で悪くはないと思います。この場合、流行
といっても、食べ物や単なる衣服に終わることのない、人間との出会いなのです。こ
の「情報化社会」「消費社会」の中で、過去の歴史的な人物を知る機会が多様化する
こと自体は、歓迎すべきことだと思います。入り口に立ったうえで、どこまで行き着
けるかという課題が、先に待っていることは当然なわけですが。
革命家をも「消費」の対象とするこのブームの見えざる仕掛人のひとりは、しかし
、フィデル・カストロではなかったでしょうか。死後三〇年に向けて、ボリビアの山
野に埋められたままだったゲバラの遺骨を掘り起こし、キューバへの帰還式を執り行
ったのは、明らかにキューバ政府の意志によるものです。埋葬の事実と場所について
は、その作業に関わったボリビア軍の一将軍が数年前、死期を前に「告白」してはじ
めてわかったことなのですが。かくして、三〇年前のアルゼンチン生まれの「英雄ゲ
リラ」のキューバ帰還は、困難な現在のキューバの経済状況にあって、民衆をいま一
度革命的な息吹のもとに統率するものとして位置づけられていました。カストロの思
惑は国内的なものに限定されていたかもしれないが、上に触れた他の要素とも絡み合
って、いわば「国境を越えて」ゲバラへの関心が掻き立てられたのだと思います。
いま言われた、死後三〇年を契機としたゲバラへのさまざまな興味や関心のなかで
、今回『ゲバラ コンゴ戦記1965』が刊行されたのですが、今から三十数年を遡る
一九六五年、ゲバラをとりまく世界的状況というのはどのようなものだったんでしょ
うか。
太田 一九五九年の一月にキューバ革命が起こったわけですが、この革命の担い手
たちは、それまでアメリカ合衆国企業の手中にあった土地や産業構造の問題、そして
歓楽街・買売春や賭博場を軸に据えた観光政策の問題に至るまで、今までの社会悪や
経済的な不平等、政治的な無権利状態を根本的に変えようとしたわけです。
しかし、キューバは革命直後から、そこに大きな権益を持っていた米国による政治
的・経済的圧力との、非常に激しいせめぎ合いのもとに置かれたんですね。そして、
当時の国際情勢からして、必然的に米ソ冷戦の真っ直中に置かれてしまう状況にあっ
たんです。
しかし、少なくとも革命初期の在り方は、僕らが外から見ていて、米国の支配には
もちろん屈しないけれども、だからといってソ連に一方的に依存するようなかたちで
社会革命が意図されていたわけではない。情勢的には、社会主義国・ソ連に共感を感
じつつも、米ソ両国から自立しながら、そこからどのような新しい社会の建設ができ
るか、ということが主たる関心事であったと思います。
そのような状況のなかで、近隣のカリブ圏であるとかアメリカ大陸部において、小
さな国々が総体としてキューバと同じ方向を目指せば、いわば地域共同体としての共
存共栄ができるという国際主義、インターナショナリズム路線が採られ、キューバの
革命政府は同じような考えをもつ他の国(といっても、多くの場合はその国の反体制
組織ですが)との関係を非常に重視するわけです。
武装革命によって自分たちが勝利したということの教訓化なのですが、それを非常
に大きく意味づけて、キューバは各国の反政府武装闘争に対して有形無形のさまざま
な支援を行っています。それは、現在もさまざまな国に対して行われている医療チー
ムの派遣であるとか、何か災害が起こったときの救助チームの派遣などの援助活動と
は別に、革命後しばらくは、軍事的な闘争の場合にも可能な限り援助を惜しまないと
いう方針が続けられるわけです。
その当時は、反帝国主義の闘いを世界的な規模で展開することに関して非常に現実
感をもつことができる時代だったと思います。ゲバラも、閣僚として主要なポストに
就き、また対外使節団の責任者としてさまざまな国々を訪れ、第三世界諸国へ行けば
キューバと同質の問題を抱えていることを痛感し、また社会主義圏の在り方を見て矛
盾や問題を感じ始めるなかで、結局、自分はそうした国際主義の立場で、闘争中の、
あるいはまだ闘争を準備中のところへ行って一緒に闘う準備をする決心をしたのだと
思います。
ソ連にも使節団の一員として何度も出かけ、貿易関係者とも話をするなかで、ゲバ
ラはソ連社会の現状がかなりわかってくるわけですね。そして、いったいこれが社会
主義革命から四、五〇年後の姿なのかと疑念を深めるわけです。彼は、小さな国との
貿易に関するソ連の取引条件の(欧米帝国主義諸国のそれと変わることのない)実態
や、強固な特権的官僚制の存在などを知って、ソ連に対する批判を陰に陽に始めてい
く。とくに六二年一〇月のキューバ・ミサイル危機の「解決」方法は、キューバを圏
外においた米ソ両大国の取り引きであるという批判をもったゲバラにとっては、決定
的な転機であったと思います。それが、六五年二月のアルジェでの国際会議における
痛烈なソ連批判で頂点に達するわけです。
しかし、キューバの最高指導者カストロからすれば、協力関係、はっきり言えば次
第に依存関係にあるソ連に対して、キューバ国の代表としてのゲバラがここまで厳し
い批判をしたときの揺り戻しを気にせざるを得ない。そこで、アルジェから帰国後、
ゲバラとフィデル・カストロの間では、もっと厳密に言えばフィデルの弟でソ連寄り
のラウル・カストロとの間ではかなり激烈な論争があったと推測します。その後、結
局ゲバラは考えを変えないまま、キューバにとどまることなく、革命初期からの揺る
ぎない路線の一つであった国際主義の延長上でいったい何ができるのかを考え、実践
しようとし始めるのです。
そうして、ゲバラはアルジェから帰国して半月後の六五年四月に、キューバを出国
しコンゴに行くわけです。アフリカでは、一九六〇年は「独立の年」といわれるくら
いに独立が相次ぎ、その後も独立・解放闘争が盛んになってきていました。ゲバラに
は、常に自分の生まれ育ったアルゼンチンでの闘争というものが意識のなかにあった
と思うのですが、当時はまだ準備が整っていない状況でした。それでとにかく、共に
行くキューバ兵の訓練の意味も含めて、軍事顧問的な立場でコンゴでの解放闘争に関
わることにして秘密潜入をするわけです。
当時のキューバは、太田さんも『ゲバラ コンゴ戦記1965』の解説のなかで触れ
ておられるように、社会主義圏の経済ブロックに組み込まれ、ソ連から国内の経済機
関に多数の人員が送り込まれていて、官僚化が進んでいく時期でもありました。そし
てまた、ゲバラの国際主義に対してソ連からの批判が強まる時期でもありますね。
そうしたなかで、彼は当時どのような世界認識をもっていたのでしょうか。
太田 アルジェ会議の前の年、ゲバラは国連総会で演説をしているし、国際会議で
の演説も多かったので、世界情勢に触れる機会が多かったわけですが、当時の文章や
演説を読んでみると、彼は非常に国際的視野の広い人物であったと思います。その中
でも、特にベトナムとアフリカ全域については多く触れています。
当時は、ちょうど米国の介入によってベトナム戦争が拡大していく時代でした。ま
たコンゴは、やはり僕らの世代で言えば、「パトリス・ルムンバの悲劇」を思い起す
わけですが、一旦独立を遂げながら、古い植民地体制の経済的権益を守ろうとする旧
宗主国ベルギーの後押しをうけたグループとの間で悲劇的な内戦へと展開していた時
期でした。そこには、コンゴの戦略的な地理上の位置や豊富な鉱物資源をめぐる背景
があり、ベルギーに限らず欧米の非常に大きな資本が背後に立っていたのです。この
内戦で全面独立に加担しようとする側からすれば、内戦を革命的に展開して、所期の
目的を達成することができるという考えでした。同じ時代状況のなかで、ベルギー機
による爆撃という事態を目の当たりにしながら、ゲバラは非常に大きな怒りと、独立
運動側に対する共感をもってコンゴを見ていたんだろうと思います。
例えばキューバ革命の三年後に起きたアルジェリアの独立革命は、ゲバラにとって
は同時代の動きであるし、『ゲバラ コンゴ戦記1965』にも出て来る初代大統領ベ
ン・ベラとは非常に親しかった。彼とはアフリカの革命戦略をめぐって、かなり込み
入った討論をするほどの仲でした。その他にも、アルジェリア革命に身を投じたマル
チニック生まれの精神科医フランツ・ファノンの著作『地に呪われたる者』(日本語
版はみすず書房刊)には、ゲバラも非常に関心を寄せていたわけです。
さしあたっては、ベン・ベラやフランツ・ファノンなど、アルジェリア革命のスポ
ークス・パースンを通して、アフリカに関心を深めたのだと思います。特に、フラン
ツ・ファノンの論文に出てくる「アフリカ革命」という大陸規模の展望からすると、
アルジェリア革命に続くコンゴの事態というのは、ゲバラのなかで、アフリカ大陸革
命のイメージを切り開いていくものとして映ったのではないかと思います。国際主義
に大きな意義を見出だしていたゲバラからすれば、現実の動きを見ても、それを実感
させるものであったと思いますね。アフリカと言っても、アルジェリアなどのマグレ
ブ地域と、コンゴも含めたブラック・アフリカとの文化的・社会的違いを知るベン・
ベラやエジプトのナセルは、全大陸的な革命状況の分析としてはともかく、白人ゲバ
ラがいきなりコンゴに向かうことに関しては留保や反対の意見を伝えたようですが…
…。
『ゲバラ コンゴ戦記1965』には、キューバの兵士たちがコンゴに赴き、そこで
苦闘する姿が描き込まれています。先ほど言われたように、当時の世界状況を見れば
、米国によるベトナム侵略が始まり、また社会主義圏のなかでも、中ソ対立が激化し
ていくころですね。そうした、大きな力による世界的な制約状況のなかにゲバラはい
るわけですが、そのことについてお話しいただけませんか。
太田 たとえば、内政には相互不干渉でやっていくことが当然と思われているよう
な、国家間の在り方を規定している近代国民国家を前提とすると、「革命の輸出」や
内戦への干渉は、そういう暗黙の原則に対する公然たる挑戦を意味するわけですね。
この暗黙の原則は、現実には、大国の利害が関わる時には公然と踏み躙られたり、秘
密活動によって侵されたりしている例は近現代史にはいくつも見られるのですが、建
て前は別なところにあります。そんな状況で、小国を出自とするゲバラに、なぜあの
ような行為の選択が可能だったのだろうか、そこでためらうことはなかったのだろう
かという思いが、特に今の時代だとあると思うんです。
当時は、米国を中心とした帝国主義の、資本力、情報力、軍事力、そして政治力、
社会・文化的な影響力がめざましい形で見えてきた時代だったと思います。世界の国
々の間には、国境が厳として存在しているんだけれども、その国境を容易に超えて世
界的な支配力を持ち得る存在がある。帝国主義の支配の在り方が、そのようなものと
して見えてきた。そして、その支配力は最悪の場合には、軍事力の発動となって行わ
れる。当時の状況でいえば、ドミニカで社会革命が起ころうとした時に米国の海兵隊
が侵入した六五年の問題、さらには米軍の北べトナムに対する爆爆が始まった六五年
のベトナムの問題など、いくつもの同時代的な動きとして例を挙げることができるの
です。
これを、対極的な視点から見ると、こういうことです。つまり、帝国主義の側がそ
れだけの暴行を働いているときに、小さな国が一つひとつ孤立したままでは、それに
対する抵抗はそう簡単には功を奏さない。そこで、世界的な体系としての帝国主義に
対する抵抗のための国際的な連携・連帯の仕方がどうあるべきかというところで出て
きた一つの考え方が、ゲバラの国際主義路線だったのです。
ソ連社会主義の在り方を見ていると、それは三〇年代のスペイン内戦にまで遡って
もいいしコミンテルンの在り方を見てもいいのですが、国際主義といいながら、結局
は「世界労働者の祖国・ソ連邦」の擁護に全てを集約させてしまう。いわば、反帝国
主義の名の下にソ連邦というロシア大民族主義の国家体制を最後の砦として擁護する
ことで、周辺の諸民族の権利や在り方をどんどん踏みつぶしていったわけです。当時
はすでに、そのようなソ連の歴史過程についての知識もあったし、そのことへの非常
に大きな反発があったから、利己主義的なものとしてではではなく、本当にその名に
値するものとしての国際主義を活路として実際に行動するというゲバラたちの在り方
は、やはり思想的にも実践的にもきわめて大きな刺激であったのです。
国家ごとに一つ一つ分断されて、支配されている側が国際的な関係を断ち切られて
国民国家のなかに封じ込められているという当時の世界情勢のなかで、ゲバラたちの
ように実践的に、国境を越える路線の下で解放闘争を展開しようとしている人たちが
出てきているということは、国家意識が解体されていく一つの大きなきっかけであり
、価値の転換でした。それは、復活した日本帝国主義の下での、「国家」の抑圧性や
息苦しを感じていた同時代人としての僕たちの実感であったのです。
いま言われたように、ソ連やコミンテルンのインターナショナリズムは、二〇世紀
の歴史を振り返ったときに、体制によって抑圧されている人たちを逆に塞いでいくか
のような一元的、中央集権的なインターナショナリズムというものへと転化してしま
ったと思うのですが、ゲバラたちの国際主義的な思想と理念を、今から見たときにど
う救い出していくのか、その点についてお話しいただけませんか。
太田 ソ連社会主義の批判という観点からいえば、コミンテルンの問題は当然振り
返らなくてはならないことで、僕らはグループで一九六七〜八年ごろにコミンテルン
文書を読んでいました。コミンテルンが民族・植民地問題についていったいどういう
方針を採っていたか、コミンテルンがあった当時日本は朝鮮を植民地化していました
し、日本や朝鮮から代表としてコミンテルンに行っている人々が植民地問題に関して
どういう発言をしてるかが非常に大きな関心であったわけです。
その時、今日まで山内昌之氏が研究を続けてきているスルタン・ガリエフというタ
タール民族の共産主義者の発言に僕ら自身も出会ったのですが、ヨーロッパ革命の方
だけに期待を寄せるボルシェヴィキ指導部を批判して、被植民地民衆のインターナシ
ョナルの形成の必要性、つまり被植民地民衆の国際主義的な組織の形成を主張してい
た人物がいたという事実を知りました。それは、人間の歴史のなかで、そうした立場
から民族・植民地問題を見ようしていた人たちの連なり・系譜というものが脈々とし
て続いているのだという歴史的かつ論理的な確信を私たちに持たせるものだったのです。
ですから、ゲバラの一連のメッセージやキューバ革命も、ただ新しい価値観をつく
りつつある社会主義革命の問題としてだけではなくて、ヨーロッパ・マルクス主義が
いろいろなかたちで失敗を重ねてきた民族・植民地問題に関して、別な主体の側から
新たな問題提起をしているのだという側面が見えてきました。そのこと自体の重要性
は、現在の時点にあっても揺るぐことはないと思います。
そうした国際主義にもとづく革命の目標として、ゲバラの言う「新しい人間」とは
、解放闘争のなかにあってどういうものとして目指されたのでしょうか
太田 それは、キューバ社会もまだ全面的に社会的な変革を成し遂げていない段階
で、ゲバラにとっても模索中の問題であったと思います。彼自身は、周辺者のさまざ
まな証言に見られるように、個としての人間的欲望なり、労働規律なり、政府・党幹
部としての特権に関わって、社会主義的人間としての確信をもって、抑制したり自己
規制できる人物でした。ゲバラにとってはごく当たり前のことであったその自己規律
の厳しさは、特権に与ろうとする幹部や、古い社会の旧弊をそう簡単に断ち切ること
のできない一般の民衆から煙たがれる面もあったようですね。ですから、ある種の未
来的なイメージとしてしか語ることのできないものだったと思いますが、それでも現
実の革命過程の躍動性を感じとりながら「新しい人間」像をスケッチしようとしたの
が、六五年の「キューバにおける社会主義と人間」という論文や、身近な人びとに宛
てた最後の手紙だと思います。具体的な言葉としては、娘に宛てた最後の手紙のなか
で、「自分が生きてきた社会というものは、人間が人間の敵である、そういう社会で
あった。今おまえは、そうではない社会に生きることのできる特権を持っているのだ
から、それにふさわしい人間にならなければならない」といった言葉に象徴されるも
のです。
人間が、経済的・社会的な在り方、あるいは価値観の問題としてさまざまに疎外さ
れていく、その要因が取り除かれたときに、いったいどれほどの可能性が開花しうる
ものであるかということを、過去の残滓との激しい葛藤の中で模索していたことが、
これらのノートからは窺われます。
ゲバラの闘いというのは、抑圧された者たちが主体的に闘っていくものであったに
もかかわらず、太田さんが『ゲバラ コンゴ戦記1965』の解説でお書きになってい
るように、さまざまなかたちで大国の論理やイデオロギーに規制され回収されてしま
うような過酷な状況があったわけです。ですが、ゲバラの闘いや、彼の目指した「新
しい人間」というものを、いま私たちはどのように救い上げていけばいいのか。その
点について、太田さんはどのようにお考えですか。
太田 誰かが死んだ後の時代を生きていて、その後のいろいろな事態の推移を僕ら
は見てしまっているから、それは当然後知恵であったり、いまになって分かったこと
であったりするわけで、それは僕らが持つ致し方ない条件ですね。よく歴史を振り返
って何かを言おうとするときに、後世の人間が何かを言うのはたやすい、当時を生き
ていた人間にとってはそれは過酷なことであり、条件的にも整備されていなかったの
だからーーというような言い方で、これを抑止する意見があります。明治維新以降の
日本がたどった近代史を顧みる時に、アジア侵略を必然的に伴った富国強兵路線の誤
りを指摘すると、よく聞こえてくる意見です。
これについては、時代状況の規定性と、価値観の相違の問題の二重性で捉える必要
があると思います。価値観の相違によって生じる問題はあまりにも明らかなので、そ
れについてはここでは無視します。前者の問題についていえば、たとえば僕が当時共
感を持っていて、いまでも学びたいものをもっている人間だとしても、時代の差によ
って生まれてくるもののなかには、もちろん自分自身の変化もあるし、時代状況の変
化もあって、それらが反映する。そのなかで、当時は気づかなかったことにも思い至
る。そのことを僕はやはり言っていかなければならないと思うのです。
つまり、ある時代を生きた人間の時代的制約を考えるというのは当たり前のことだ
けれども、僕らはいま、たとえば三〇年前の時代のための現実的な方針を出さなけれ
ばいけない位置にはいない。自分が生きている現代の諸条件の下で、たとえばゲバラ
が生きた三〇数年前とは違うかたちではあるが、同質の問題に突き当たっている人間
として、存在している。その場合、過去の人物がある問題に関してどういうことを言
い、あるいはどうまちがった行為をしてしまったのかを、いまの自分たちのために批
判的に分析するのです。それは、歴史解釈の問題としてふつうに行なわれてきている
ことです。そういう意味で、僕は過去の時代と人間について、むしろ批判的に言わな
ければならないと考えます。
ここでテキスト上の問題に触れておきますが、『ゲバラ コンゴ戦記1965』では、
ゲバラ自身がコンゴで記していた「日記」と、周辺者に対するインタビューあるいは
その書簡や発言が原資料として利用されています。この本の著者たちは、それらを時
間列で巧みに構成しています。著者たちの意図として虚偽が書かれているとは全く思
わないけれども、周辺者が語っていることに関してはいくつか留保や疑問が残り、今
後の解明を待つ点もあるように思います。なによりもゲバラのコンゴ日記をキューバ
政府は全面的に公開していないわけですしね。当時の国際情勢と、三〇年後のいまの
国際情勢からして、まだまだ明らかにできないような要素があるのかもしれません。
その意味で、この本でずいぶんと明らかになった事実はあるが、しかし全貌が解明さ
れたわけではないということを前提として発言していく必要があるだろうと思います。
今度の『ゲバラ コンゴ戦記1965』によって、ゲバラに対する一元的な「神話」が
かなりはっきりと壊されていくだろうと思います。いままでゲバラは多くの場合、非
常に優秀なゲリラ戦士であるという強者の面で語られてきました。キューバ政府が、
特にゲバラの死後意図的に演出したこともありますけれども、悲劇的な死を遂げたゲ
バラに関して、国際主義に殉じた英雄ゲリラの死である、というふうにカストロは常
々語ってきましたし、当時の時代状況においては、そうしたカストロのメッセージが
世界中に広まっていく力を持ち得たわけです。
ところで著述家としてのゲバラを思い返せば、かなり未公表のものがあるとはいえ
、かつて日本で全四巻にのぼる『ゲバラ選集』(青木書店刊)が編まれたくらい、ゲ
バラは多くの論文や演説を残しています。彼は経済の問題についても重要な論点を提
出していたし、それから新しい価値観をもった社会のなかで、どのような「新しい人
間」が形成されるべきかという問題意識の深さと世界情勢の分析における同時代感覚
の鋭さについては、さきほど触れたとおりです。広く社会・文化の問題についても彼
は語っているのですが、そのような人間的に多様な側面よりは、ロマンティックなゲ
リラ戦士という面が強調されたまま、英雄ゲリラとしてのみ、死後は見られて来たと
思います。
ゲバラは、キューバ解放戦争を回想した『革命戦争の道程』(青木書店、筑摩書房
、集英社文庫から、タイトルを異にして刊行)という著述を残しているし、その経験
を戦略としてまとめた『ゲリラ戦争』(三一書房刊)と題する著作もあります。そし
て、最後の悲劇的な死の直前に関しては『ボリビア日記』(みすず書房刊)が残され
ていて、これらが、ゲバラという人物を知るときによく手にされるものであったわけ
です。だから、いわば武装闘争の実践者およびそのための教典の執筆者として、たぐ
いまれな人物であるという先行的なイメージが不可避的に作られてきました。
それに対して、『ゲバラ コンゴ戦記1965』とその解説で僕が出したイメージとい
うのは、そうした先行的イメージとは異なるものです。コンゴのような、黒人を中心
とした全く別な文化と言語をもった地域に赴き介入してゲリラ戦争を実践しようとす
ることが、ゲバラたちが初志としてもっていた闘争への支援・拡大にとってどういう
意味をもったのか。ゲバラ自身が最後に痛切な自己批判をして、その孤独感を吐露し
ているように、そう簡単には行かなかったという問題が出てきているわけです。先住
民人口が圧倒的に多いボリビアにおける経験についても、同じことが言えます。
ゲバラのような意味での実践家ではないぼくらが語るには、きわどいところがある
と自覚したうえで言います。ゲバラが『ゲリラ戦争』のなかで展開した理論を、コン
ゴやボリビアで巧みに実践化し得たわけではなかった、ということが明らかになって
いる。それは、三〇数年後の視点でゲバラを貶めようとか、ああするべきではなかっ
たと言いたいわけではありません。現実はどうであったかということを含めて、当時
のゲバラ像やキューバ革命のもった国際主義の問題性を、客観的かつ冷静に判断する
材料が提示されたのだと捉える必要があると思います。そしてゲバラの選択は、当時
のキューバの社会主義社会建設過程の諸問題、米ソ対立、キューバーソ連関係、広く
は世界状況全体との関わりの中でなされているのですから、「英雄的なゲリラ」像に
留まることのない、全体性の中で把握されるべきだと思います。
いまおっしゃったお話とも関わってくるんですが、太田さんが『ゲバラ コンゴ戦
記1965』の解説のなかで書いておられるように、これはゲバラ死後のキューバ兵部
隊のアンゴラ出兵の時期の問題ですが、キューバ兵士がアンゴラにおいて、現地の人
たちを文字が読めないと結果的に貶めることになったり、また現地の物品を持ち帰る
といった問題が起こっているようです。では、彼らは略奪者だったといえるのか。そ
こで闘われた目標とそうした現実を見つめながら、いま私たちはどう考えていけばい
いのか。
そして、軍隊と戦争の問題として考えたときに、やはり根本にあるのは殺し合いと
いうことです。しかし、圧倒的に弱者としておかれる人間が、強大な暴力に対してど
う立ち向かうかという、第三世界の解放闘争を考える上での非常に重要な問題を、太
田さんは指摘しておられます。
それは、抑圧・被抑圧という構図が全くなくなったにも関わらず、そこことに対す
る問題意識が希薄化してしまっているいまの状況のなかで、いまを生きる私たちが、
良い・悪いといった価値判断をするためにではなく、そうした問題意識を問い直す手
がかりを、この『ゲバラ コンゴ戦記1965』は示しているのではないかと思うんで
す。
最後に、ゲバラと軍隊、そして暴力の問題についてお話しいただけませんか。
太田 いま言われたように、当時の世界情勢とキューバの状況を考えた場合、当時
採った路線が正しかったか間違っていたかという問題を僕らが立ててみても、有効で
はないだろう。近未来においても、抵抗闘争が必然的に「武装」を必要とするかもし
れない現実的背景が、世界全体から隈無く消え去ったとは思えない。三〇数年前なら
、なおさらそうであった。僕はいまでも、客観的な当時の世界情勢からいえば、キュ
ーバの、否ゲバラの選択は、そうせざるを得なかったのだろうと了解するし、そのよ
うな路線展開によって、いくつもの悲劇を孕みながらも、僕らだけではなく、世界的
にも大きなインパクトをもったということ自体を、なお重要視すべきだと思っています。
ただ、先ほども言ったように、生き残っている私たちがその後見てしまっている問
題、あるいは、今度の『ゲバラ コンゴ戦記1965』を通して見えてしまった問題を繰
り入れて、新しい考え方を編み出していけなければならない。それが、後世の時代に
生きる者の「特権」であり「義務」だとも思うから、その作業としてどう考えるかが
問題となっている。そういう種類の問いだと思うのです。
一九六〇年代に自己形成している僕らのような世代においては、キューバ、アルジ
ェリア、ベトナム、パレスチナなどのゲリラや民衆が発動した「暴力」(=武装闘争
)によって、世界が変革されていくという現実を目の当たりにしていた。どんな非暴
力主義者であっても、客観的にはいまなお、当時のそのリアリティを疑うことはでき
ないと思います。 だが、それから数十年の歳月を経た段階に、私たちはいる。社会
革命を成就するまでは不可欠な推進力であるかに見えたゲリラや人民軍・解放軍が、
制度化した革命のなかで、どんな位置にいるかが見えている。中国についても、僕ら
はまだしも、エドガー・スノーや毛澤東などの著作によって、抗日戦争をたたかって
いた時代の八路軍や新四軍の在り方を知っており、それだけに「解放後」の人民軍が
チベットやシンチャンウイグルで行なったこととの落差に、胸がつぶれる思いもした
時期を経てきた。しかし、いまの若い世代にとっては、中国の人民解放軍とは、八九
年六月の天安門弾圧の先兵でしかない。香港返還に際して(今年のマカオ返還の場合
もそうなるようですが)軍が真っ先に乗り込むことで国家的威信を誇示する現実を見
るにつけても、「解放」後の社会で特権的な位置を保障されている軍という存在の問
題性が際立ってくるのです。キューバやベトナムにしても、その例外ではありえない
。武装しているということで、同じ社会に生きる人びとに対して優位に立っている軍
は、武器の力を誇示しつつ次第に特権に溺れる。上層部はとくに、政府=党の幹部と
も一体化していく。末端の兵士も武装しており、また人民軍やゲリラの伝統を継ぐも
のであるということで特権化されていくということを、僕らはすでに見てしまってい
るのです。
したがって、今日のテーマであるキューバとゲバラに即して言えば、反革命の攻撃
があるから(それは、実際に何度も繰り返されたし、キューバにはなお一九〇二年と
いう革命前の両国政府間協定に束縛されて米軍の基地さえ現存しているのだから、ほ
んとうに深刻な問題なのですが)自衛と国防の軍隊をもたなければいけないという、
ある意味で当然のキューバ側の主張を、対米緊張の側面を捨象して(ほんとうは、「
対米緊張があるからこそ」と主張できるまでに現実性をもたせられるといいのですが
)、キューバ社会の内在的な問題として考え直してみたのが、フォーラム90s研究
委員会編『20世紀の政治思想と社会運動』(社会評論社刊)に収めた私の論文「第
三世界は死んだ、第三世界主義万歳!」です。
日本でも最近は、安易に「国家である以上は軍隊を持つのは当たり前だ」というと
ころから論議が始まるので、軍隊を持たないという選択肢は、考え方としても最初か
ら排除されています。しかし、パリ・コンミューンが「常備軍廃止」のスローガンを
掲げたことを知って、私たちは感動しなかっただろうか。ましてや、国軍を保持する
ことが国家に不可欠な属性なら、いっそのこと国家なき人類社会を想定してみよう、
などと言ったら、どういう反応が返ってくることか。かつてなら原理的な問題意識と
してあったことも、果てしなき現状追随主義のために、問われることすら少なくなっ
てきました。
「第三世界は死んだ、第三世界主義万歳!」のなかで、キューバが世界に先駆けて
軍備廃絶・常備軍廃止に向かう「未来」像を、過去に向かって「夢想」して、僕はメ
キシコの反政府武装組織・サバティスタの文体に似せて、その思いを書きました。も
しキューバ指導部がこんな考えを抱いた段階があったとしたら、一体どういうふうに
情勢は展開しただろうか。そうすれば、もっと早い段階で、このやりきれない国際情
勢の中で第三世界がイニシアチブをとって、軍備廃絶・各国の国軍解体の方向へ展開
できる契機になり得たのかも知れないとする、これは「架空の物語」なのです。
左翼の側にも、国内的にも国際的な意味においても、軍事優先主義・軍事至上主義
の伝統があります。さきほども言ったように、軍事力を全面に押し出して抑圧・支配
を行なう一国の国家権力や外部の大国が存在する限り、この対抗軍事力は有効な場合
が、今後もありうるかもしれない。問題は、次の段階です。現状のような世界情勢で
ある以上は段階的であるのは仕方ないですが、自らが軍備に関して自己解体の方向を
示せば、僕は泥沼のような軍備拡張と際限なき地域戦争という現状を変えていく根本
的な力が生じ得るのではないかと思っています。一気に、というわけにはいきません
。だからこそ、止むに止まれず武装蜂起しながら、「武装・武器」を最後の拠り所と
することなく、人殺しの役割を持つ兵士としてではない、みずからと他人を生かす労
働の場を得たいと「夢想」するサパティスタの「ロマンティシズム」が、私たちに深
い意味を問いかけているのだと思います。
しかしこれは、私たちが日本社会のなかで実現していく思想的方向性と現実性とを
示さないと、現在がそうであるように、何ら国際的な説得力のない「夢想」に終わり
ますね。僕が上のようなことを言うたびに、その点を突いて批判する声は当然聞こえ
てきます。先回りして言えば、その批判は、僕自身の内心の声としても了解の内にあ
ります。だからこそ、自衛隊の存在それ自体と、とりわけPKO(国連平和維持作戦
)への自衛隊の参画以降から、今日の「日米防衛協力のための新指針」に基づく国内
法整備としての周辺事態法案の国会提出に至る過程と法案の内容それ自体に対する基
本的な批判が生まれてくるのです。この批判を有効ならしめるためにも、ゲバラの時
代のそれも含めて「ゲリラ」や「革命軍」のあり方を問い直すことには必然性がある
と思います。
考え方の問題として、そのような方向性を立てたときに、1.いままでの世界の戦争
と平和をめぐる見方も、2.自国の国軍に対する見解も、3.自分が関心をもっている「
革命後」の社会の「革命軍・人民軍」をめぐっての考え方も、かなり顔かたちを変え
るという現実的な経験を僕はしてきました。三つ目の対象の場合には、革命前の「ゲ
リラ」や「解放戦線」の在り方にまで関心は遡及していきます。それは、今後の私た
ちの未来に向けた構想力やイメージを豊かにしていく方向に作用するという確信を僕
はもっているのです。なぜなら、軍の問題は、そのこと自体として終わることはあり
ません。軍とは、自衛隊を含めた通常の国家の国軍の場合はもちろんそうですが、た
とえ「ゲリラ」とか「革命軍」とか「解放軍」とか「人民軍」とかの形容がほどこさ
れて、避けることのできない必然的な抵抗闘争をたたかっていた時期を持つにしても
、上意下達の統率体系なくしては存在できない、本質的に非民主主義的な存在である
こと、特権的な官僚層の発生を伴う秘密主義を育てるものであることを、例外なく目
撃した時代を私たちは生きていると思います。その意味では、社会全体の民主主義的
な在り方に及ぶ質の問題がそこに孕まれています。私たちは、せめてもそれだけの「
知恵」か「認識」を備えて、ゲバラとその時代をふりかえるだけの条件を手にしてい
るのではないでしょうか。僕としては、そのための必要な条件を備えて、今回の仕事
をしたつもりです。それで十分ではないことは自覚していますから、理論的・実践的
な作業課題は、なお続くのですが。
サロン・インディアスINDEXに戻る