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(パコ・イグナシオ・タイボUほか著『ゲバラ コンゴ戦記1965』 現代企画室、1999年1月1日刊行)のための解説 |
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太田昌国 |
一
本書がはじめて事実に即して明らかにしたように、ゲバラは一九六五年四月から同年十
一月までコンゴに「滞在」していたが、ゲバラの妻、アレイダ・マルチの語るところによ
れば、ゲバラはこのコンゴ「滞在」に関してふたつの記録を遺しているという。ひとつは
現地で日々記していた『コンゴ日記』で、これはいまアレイダの手元に門外不出で保管さ
れているようである。いまひとつは、本書の著者たちも閲覧できたという『革命戦争の道
程:コンゴ編』で、それは、本書の後半部が明らかにしているように、コンゴから撤退し
タンザニアのダルエスサラームに数ヵ月間滞在していた間に、日記に拠りながらゲバラが
書き上げた総括文書である(註1)。
同一の経験に関してゲバラが二種類の文書を遺しているということは、彼の常のあり方
をふりかえると、不思議なことではない。先に刊行された『チェ・ゲバラ モーターサイ
クル南米旅行日記』(現代企画室、一九九七年)は、医学生時代のゲバラが行なった無銭
旅行の記録だが、その筆致からわかるように、彼が実際の旅行中につけていた日記に、若
干ではあろうが後年に手を入れたものが、その底本である。キューバ革命闘争の記録とし
ての『革命戦争の道程』は、日本でもかつて二種類の訳書が刊行されたほどに広く知られ
ているが、これも、後年にまとめられた「回想記」であることは筆使いから明らかであっ
た。ごく近年になって、チェ・ゲバラ/ラウル・カストロ共著『希望の獲得ーーキューバ
・ゲリラの未発表日記:一九五六年十二月〜一九五七年二月』(註2)がキューバで刊行
されたがそれによって、シエラ・マエストラを根拠地にした革命闘争の過程にあってもゲ
バラは日記をつけていたことが明らかになった。
さて主題に戻ると、ゲバラの特性とも言うべきこの「慣習」がコンゴでも行なわれてお
り、八ヵ月間の日々につけていた日記と、それを基に、公表されることを前提にして書き
直された『革命戦争の道程:コンゴ編』のふたつの文書が存在するということになるのだ
ろう。アレイダ・マルチは、先に触れたインタビューの中で、ふたりとその子どもたちが
暮らした家を「チェの個人的な記録文書庫」と名づけて生かしたいとキューバ政府に要請
しているという。そこにゲバラによって書かれた/ゲバラに関わる内外のあらゆる資料を
保管したうえで、行く行くは彼が遺したすべての文書を刊行したいが、「紙不足というキ
ューバの事情を考慮しながら」差し当たって刊行したい文書を三つ挙げている。それは、
1. コンゴ革命戦争の道程、
2. コンゴを去り、ボリビアに入国するまでの一九六五年末から六六年後半までの月日
を彼は最大限に活用して経済関係の論文をいくつも書いたが、その論文の集成、
3. 『道程』を書く基盤となった日記
であるという。
すでに触れたように、本書の著者たちは上記1.の、ゲバラ自らが公表を前提にして書き直
した『革命戦争の道程:コンゴ編』を、ある人の好意で活用できてはじめてこの書が成り立
ったというのである。ゲバラ死後三十年に当たる一九九七年に、私たちが知るだけでも世界
じゅうで四冊の大部のゲバラ伝が刊行されているが、そのうち三人の著者が、誰か彼かの
「好意」をうけてこの記録を利用している。キューバ政府はこれまで、ゲバラ自身の書き込
みと注釈が付されているという一六〇頁(うち付録七頁)のこのタイプ文書を五通のコピー
をとるだけで厳重保管してきたというが、外部の複数の作家・歴史家たちの解釈に委ねる形
でまずは部分的な情報公開に踏み切ったのであろう。
外部の著者ばかりではない。キューバ革命軍の将軍であり歴史家でもあるウィリアム・ガ
ルベス・ロドリゲスは、本書でも触れられているカミロ・シエンフエゴスに関する大部の著
書をはじめとしてキューバ革命史に関する執筆作業を続けている人物だが、彼は一九九七年
に『チェのアフリカの夢:コンゴのゲリラに何が起こったのか?』という著書をキューバで
刊行している(註3)。この作品は、革命後のキューバが毎年 行なっている「カサ・デ・ラ
ス・アメリカス」文化賞コンクールの、一九九五年「証言」部門の受賞作だというから、ガ
ルベスは本書の三人の著者たちとほぼ同時期に、同じテーマに関わる仕事を続けていたので
あろう。ガルベスもゲバラ周辺の人びとの聞き書きをしたうえでこの書を著わしているが、
ゲバラの文書そのものからの引用をできるだけ多く利用して叙述を展開している。その意味
では、ゲバラ文書が全面公開されていない現段階では、ガルベスの書もタイボたちの書と並
んで独自の価値をもっていると言えるが、前者はその叙述内容と方法から見て、キューバ政
府指導部の「公認性」が濃厚であるように思われる(註4)。
私たちがタイボたちの著書を入手したのは、それがメキシコで発行されて間もない一九九
四年末のことだった。その年の一月一日に、メキシコ南東部のチアパス州では先住民族を主
体とするサパティスタ民族解放軍(EZLN)の反政府武装蜂起が起こったが、この闘争に
注目していた私たちはメキシコの新聞を当時丹念に読んでおり、ある日の文化欄に本書発行
の記事が載ったのだった。さっそく入手して読んだが、「一九六五年のゲバラの謎」につい
て詳しく知りたいと思っていた私は、その渇望がかなり癒されたので、関心をもつ読者にひ
ろく読まれる機会を提供すべきだと考えた。著者のひとりが、現代メキシコ社会の断面を鋭
く切り取る社会派ミステリーの巧者、パコ・イグナシオ・タイボUであることも、本書の信
用性を判断するうえでの基準になった。本書は、本来ならば、キューバ革命史/ゲバラの思
想と行動/ゲバラとカストロの関係/コンゴを含めた当時のアフリカ情勢……など、いくつ
もの問題項目に関する知識なくしては、かなり読みづらいものになったであろう。ところが
、タイボと共著者であるキューバのふたりの作家は、ゲバラの記録と周辺者の証言とを、時
期を追って実に巧みに構成しており、内容的な「重さ」は別としても、心理描写豊かな小説
のような読みやすさをもつ現代史ドキュメントに仕上げて私たちに提供してくれたのだと思
う。
二
一九六五年四月キューバを出国したゲバラが、六六年十一月にボリビアに入国するまでの、
空白の二十ヵ月間のいずれかの時期にアフリカのコンゴにいたことは、夙に米国中央情報局
筋などを出所とする「噂」となって流れていたが、ほかならぬゲバラ自身がボリビアにおけ
る野戦日記の中で明らかにしていた。一九六七年七月三一日付けの日記は、キューバ兵リカ
ルド(本名ホセ・マリア・マルチネス・タマヨ)の戦死に触れて、言う。「リカルドはキュ
ーバ人グループの中で最も規律を欠き、日々の犠牲を前にこれを厭わぬという決意もいちば
ん少ない男だった。しかし、彼は傑出した戦士であり、セグンドの最初の失敗(註5)でも、
コンゴでも、そしていまここボリビアでも、冒険を共にしてきた古く からの同志であった。
その資質を思えば、惜しむべき死だ。われわれは二二名になり、うち負傷者はパチョとポン
ボのふたり。私は喘息の猛威のもとにある」(註6)
ゲバラはここでごくあっさりと、自分がコンゴにいたことに触れたのだった。しかし、ゲ
バラの死後には一貫して、彼の生前の動静について事細かい情報まで伝えてきたかに見える
キューバ政府も、コンゴ滞在の件に関しては完全に情報を管制してきた。フィデル・カスト
ロ自ら、ゲバラが一時期コンゴに滞在していたことをはじめて認めたのは、一九八八年イタ
リアのジャーナリスト、ジャンニ・ミナとのインタビューにおいてだった。その後次第に情
報管制の壁が壊れ始め、今日ようやく本書やガルベスの本が現われるまでに至ったのである。
キューバ政府が、カストロ宛てに「別れの手紙」(本書五六頁)を書いてからボリビア入
りするまでの二十ヵ月間にわたるゲバラの動静を秘密のままにしておきたかった理由は、当
然にも推測がつくものであった。ゲバラのキューバ出国は、当時のキューバ政治指導部の路
線問題をめぐる分岐に関わることであり、対外的な関係にも影響を及ぼすものであったので
、すべてを生のままに差し出すことは憚られたのだろうということは、関心のある人なら誰
にでもわかることであった。本書の主題は、そこから外れるからであろうか、ゲバラ出国の
経緯についてはごく客観的な背景が述べられているだけで分析がなされていないので、ここ
でごく簡単にではあるが私の捉え方を述べておこうと思う。
一九五六年メキシコで、ゲバラがキューバへの反攻を準備しているカストロと意気投合し、
(当初は)医者としてキューバ遠征軍に参加すると決めた時から、目的が達成された場合に
はゲバラはキューバを離れ、アルゼンチンに戻ってたたかうとの合意が両者の間にあったこ
とは、よく知られている。キューバ革命勝利後にゲバラはその功績に鑑みてキューバの市民
権を授与され、しばらくキューバに残ることになったが、当初からの思いどおりに彼は周囲
の信頼しうる人びとと語らい合って、キューバ革命の波及力をラテンアメリカ全体に押し広
げるために、とりわけ母国アルゼンチンにおける革命の可能性を探るために、具体的な準備
に入っていたことは、本書に付した訳註と年譜を通しても、ある程度まで知ることができる
。それが、ゲバラの単なる個人的な思い込みだけで行なわれたものではないことは、キュー
バ国内的にいえば「赤髭」ピニェイロの指揮下の秘密活動専門部局の参画があったことは本
書からもわかるし、国外的にいえば一九六二年フランスからの独立を成し遂げたアルジェリ
ア革命後の大統領ベン・ベラが、ゲバラ=キューバの計画に同意し、さまざまな形で一連の
動きに参与していたらしいことからもわかる。
アルジェリアだけではない、エジプトのナセル大統領も(彼の場合は、白人・ゲバラが黒
人国・コンゴの解放闘争に参加することについては、ほとんどターザンの所業にひとしいと
して、戦略・戦術面から反対したが、この反対意見も、ゲバラの計画に対する批判的な参与
の一形態ではある)、タンザニアのニエレレ大統領も、ガーナのンクルマ首相も、ギニアの
セク・トゥーレ大統領も、コンゴ(ブラザヴィル)のマサンバ=デバ大統領も……という具
合に、当時の第三世界解放闘争を象徴する地域・国々が、政治的指導者のレベルで陰に陽に
関わった全体的な計画(=反帝国主義の武装闘争)の様相を呈しつつあったのだと見做すこ
とができる。ゲバラが、実際に出会うことは叶わなかったが、アルジェリア革命の理論家フ
ランツ・ファノン(一九二五〜六一)が、六五年の時点で見ればつい数年前に、「アフリカ
の統一とは、戦争と葬列を伴うブルジョア的排他的国家段階を通過せずにアフリカ合衆国を
実現しようと決意するとき拠って立つひとつの原理である」と語ることで、来たるべきアフ
リカの統一的な未来像を描いていたことも、そこに付け加えてもよいだろう(註7)。
「武装闘争による国際連帯」に対するこの楽観的な展望は、三十数年後の現在の時点でふ
りかえると、一見信じがたいことのように思う世代の人びともいるかもしれない。だが、大
国の植民地支配ないし大国庇護下の自国独裁制とのたたかいにおいて、合法闘争の道を断た
れ武装闘争を選択して勝利を勝ち取った後においても、旧支配国ないしそれに援助されたグ
ループによる経済撹乱・貿易と国交の断絶による孤立化策動・指導者や生産者である農民の
暗殺・軍事侵攻……など、新しい社会形成の基盤も整備できないうちにさまざまな妨害活動
にさらされていた第三世界の多くの国々にあっては、この困難な状況を、ラテンアメリカの
、またアフリカの、全大陸的な反帝国主義闘争によって切り開いていこうとする志向性は、
ごく自然に生まれてきたのだと解釈することができる。そのとき採用されるべき闘争の方法
が武装闘争であると見做していた人びと・グループが多かったことも、大国ないし自国独裁
制との闘争における勝利を可能にした/抵抗を可能にしていた、キューバ、アルジェリア/
ベトナムなどの実例が同時代にあった以上は、不自然なことではなかった。ゲバラとその協
働者たちは、ことさらに流血の闘争を好む暴力至上主義の立場から、武装ゲリラ闘争を志し
たわけでは、ない。第三世界地域を主要な戦場にして、戦火の絶えることのなかった第二次
世界大戦後の歴史が孕む「時代状況」の中での選択の問題としてそれを捉えるのでなければ
、大きな錯誤をおかすことになると思う。
三
さて、ゲバラが、上に素描した情勢認識を持っていたとしても、一九六五年の段階におけ
るコンゴ行の選択は、いかにも唐突に見える。そこでこそ、先に触れたキューバ指導部内部
での路線的分岐の問題が出てくるのだと言える。一九六五年三月二四日、ゲバラがアルジェ
で行なった演説の内容とその反響については本書冒頭でも触れている。演説を終えて三ヵ月
ぶりに帰国したゲバラへの出迎え風景は、口絵写真(五頁・上)に見ることができるが、こ
の前後の経緯をキューバ指導部が言葉で明らかにしていない現在、この写真は事態に迫る有
力な資料価値をもつと思い、あえて本書に収録した。右端には微苦笑なのか若干の笑みをた
たえたゲバラが目を伏せるようにして立っている。取り囲むのは、フィデル・カストロ、ア
レイダ・マルチ、カルロス・ラファエル・ロドリゲス、オスワルド・ドルチコスである。妻
のアレイダは他の三人とは立場を異にしていようが、ゲバラを見つめる目付きはいずれも厳
しい。「諌めている」と理解してもいいくらいの表情が、包囲者たちの視線には感じられる。
とくに目をひくのはカルロス・ラファエル・ロドリゲスも出迎えていることである。この
時期の彼は、フィデルが担当することになったためにINRA(全国土地改革局)担当相を
解任された頃であろうが、彼は共産党の前身である人民社会党以来の活動家であり、革命後
の路線の中でも忠実なソ連派としてふるまってきた人物である。アルジェ演説で厳しいソ連
批判を行なったばかりのゲバラを彼が出迎えていること自体に、キューバ指導部内部で激し
い論争・ヘゲモニー争いが行なわれていたこと、論争の当事者は時と場所を選ぶことなく、
あらゆる機会を捉えて〈論敵〉とあいまみえる道を求めていたであろうことを暗示している
ように私には思える。
この半年後の一九六五年十月、旧左翼政党諸派を糾合してキューバ共産党が結成されるが
、カルロス・ラファエル・ロドリゲスはそこで共産党書記に任命されることになる。このこ
とは、路線をめぐる指導部内部の論争がどこに帰着したのかを物語っているのであろう[こ
の共産党結成大会でカストロはゲバラの「別れの手紙」を読み上げるのだが、その問題につ
いては後述する]。 ソ連共産党・政府と中国共産党・政府は当時厳しい対立関係に入って
いたが、新生社会主義キューバは、両社会主義大国にとって是非とも自陣営に取り込むべき
対象であった。小さな国の民衆が自らの自主・自律的な動機に基づいて闘争を開始しても、
米国対ソ連の東西(米ソ)対立と、中国対ソ連の社会主義国同士(中ソ)の対立という、世
界全体に対する規定力を有する超大国の利害構造の枠内に組み込まれ、そのどちらか一方に
加担することで自分たちの闘争の展開を目指さざるを得ない道に封じ込められたこと、そし
て次第に運動の自主・自立性を失いはじめることーーそれが、戦後史の中の第三世界解放闘
争を制約する苛酷な条件であった。
一九五九年革命勝利後のカストロやゲバラたちの試行錯誤はこのような条件の下で試みら
れてきたが、ソ連を公然と批判したにひとしいゲバラのアルジェ演説は、キューバ指導部内
に決定的な楔を打ち込んだ。帰国したゲバラと出迎えたカストロは、四十時間におよぶ会談
を行なった。その詳しい内容をゲバラは明らかにすることのないままにこの世を去り、カス
トロもおそらく決して口を開くことはないと思われる以上、切れ切れに聞こえてくる間接情
報を整理してみることで事態を探るしか、方法はない。フィデル・カストロの信頼する同志
というべきセリア・サンチェスが友人に明かしたところによれば、「帰国したゲバラはフィ
デル、ラウル、ドルチコス大統領らの出迎えをうけ、キューバとソ連の関係を危険に陥れた
として、その無規律と無責任性を厳しく批判された。フィデルはアルジェにおける彼の無責
任さにひどく立腹しており、そのことは私を含めた多くの人に語っていた。ゲバラはアルジ
ェでの発言はその通り行なったこと、キューバを代表してそれを行なう権限はなかったこと
、その意味での責任を受け入れることまでは認めたが、だが、あれが自分の考え方であって
それを変えるつもりはなく、公然たる自己批判なりソ連に対する個人的な謝罪などを期待し
ないでほしいと語った。そして、アルゼンチン風のユーモアをもって言った。『自己懲罰に
かけて、サトウキビ刈りに行く』と」(註8)。
ゲバラの「ボディガード」の役目を果たしていたベニグノことダリエル・アラルコン・ラ
ミレス[彼についても後述する]が、ゲバラ伝の著者、ホルヘ・カスタニェダに語ったとこ
ろによれば、彼は同じ「ボディガード」役であった仲間のアルグディンから大要次のような
話を聞いている。「(アルグディンは、ゲバラ、フィデル、ラウルの激しい論争の場にいた
が)、彼らは中国の路線やトロツキーについて話をしていた。ラウルがゲバラに対してトロ
ツキストだと言ったので、ゲバラは掴み掛からんばかりに怒り、『この、大ばか野郎!』と
三回繰り返し叫んだ。ゲバラはフィデルを見たが、フィデルはその問答に介入しようとはし
なかった。ゲバラはそのことにいらいらし、ドアを乱暴に閉めて出ていった。その後、彼は
はげしい喘息の発作に見舞われ一週間近く静養のためにサナトリウムに入った」(註9)
現在の段階では、このようなエピソードをいくつか繋ぎ合わせて解釈しておくほかはない
が、この事態の背後には、一九五九年から六五年にかけての初期キューバ革命の切実な論争
課題が隠されていたと断言できよう。それは、過渡期社会主義社会をいかなる方法論で建設
すべきか、新しい価値観の社会にあってひとは精神的刺激で働くのか物質的刺激をうけて働
くのか、プロレタリア・インターナショナリズムはいかにして形成されうるのか、武装闘争
はそこでいかなる位置を占めるのか、米国と全面的に対峙している状況の中でソ連との関係
をどうすべきか……などをめぐるものであった。それまでにもゲバラは論争の当事者として
、親ソ連派のラウルやロドリゲスと渡り合ってきたが、もはやそこに踏み止まって論争を続
けることが不可能であると判断したのだろう。
かつてから思い描いていたように、ラテンアメリカの何処かへ、とりわけ母国アルゼンチ
ンへと向かうことができるのならーーとゲバラは思ったにはちがいないが、そこでは前年、
マセッティたちの根拠地づくりが失敗し、シエラ・マエストラ以来の同志マセッティ自身も
政府軍に追われ、深い森の中に行方不明となったままだった。期待をかけたペルーのエクト
ル・ベハールたち、ELN(民族解放軍)のたたかいも敗北状況にあった。ラテンアメリカ
全体におよぶ闘争の展開を目指して、アンデス中央部に位置するボリビアでの秘密裏の調査
活動は数年前から手掛けられていたが、そこで闘争を開始するには時期尚早だった。それら
のことを知っていたゲバラは、いま選択しうる唯一の地としてアフリカのコンゴを思い浮べ
たのだろう。
六四年十二月から六五年三月にかけてのアフリカ諸国歴訪で、ラテンアメリカと並んでア
フリカ大陸に革命的な高揚が見られることは、自分の目で確かめている。とりわけコンゴで
は、いったんはほぼ手中にした独立が、古くからの宗主国ベルギーやその背後にいる米国の
策動で新植民地主義体制に蹂躙されてはいるが、それに対する武装抵抗の運動が起こってい
る。コンゴに対する列強の干渉が国際的なものである以上、そこでの抵抗闘争もまた国際性
を帯びて、現代世界の矛盾を明確な形で示すことになるだろう。しかも、現地の解放勢力か
らは、キューバに対して支援の要請がきているーー当時のゲバラのいくつかの発言を思い起
すとき、ゲバラの胸にはおそらく、そのような思いが浮かんだのだと思える。
四
六五年三月十四日に三ヵ月ぶりに帰国したゲバラは、こうして、それから二十日間も経って
いない四月二日、容貌を変え、偽造パスポートを持って出国した。時間的に言えば、いかにも
切羽詰まった選択に見える。それが避け難かった事情も諒解は可能だ。ひとは、何かをなす時
に、つねに申し分のない十分な条件に守られて、始めることができるわけではない。ましてや
、強力な支配的権力とのたたかいを、乏しい条件の下で開始せざるを得ない活動の場合には。
だが、この場合の行為の当事者ではない私たちには、しかもあれから三十年以上が過ぎたいま
、ゲバラのこの選択に関する客観的で冷静な「評価」が可能であろう。あえてそのことに触れ
たうえで、論を進めてみる。
アフリカ歴訪を終えたゲバラが、帰国する飛行機の中でパイロットに洩らしたというアフリ
カについての感想の言葉がある。「アフリカは、ほんとうにとんでもない所だ。人間はとっつ
きづらい、まったく異なる。アフリカには国民性が見られない。それぞれの部族が独自の首長
と領土と〈くに〉を持っていて、それでいてひとつの国の中にみんな住んでいる。ほんとうに
むずかしいけど、彼らが革命を取り入れる可能性はある。キューバ人はその点が上手だから」
(註10)。政治情勢に関するもの以外にはアフリカについてのまとまった文章が残されていな
いので片言隻語を取り上げることになるのはゲバラには気の毒かもしれないが、ためにする批
判を目的とする論述ではない。
この言葉どおりにゲバラが語ったとすれば、ここには、ゲバラの近代主義的な文明観とそこ
から生まれる国家観が如実に出ている。ゲバラは、ラテンアメリカという、重層的な民族構造
を有する地域に生まれ育ちはしたが、そのことによって可能になっている複数の文化/複数の
社会のあり方に豊かさを認めるよりも、マルクス主義理論の全体性を武器に、総体を単一の色
に塗りこめる方向への傾斜が著しいように思える。「ほんとうにむずかしい」地点と、「彼ら
が革命を取り入れる可能性」がある地点との間には、現実には万里の隔たりがあるのだろうが
、ゲバラは、時代の勢いとしての後者の優越性をテコに、前者の問題をやり過ごそうとしてい
るかに見える。この問題は、のちに、みずからが白人で、白人国・アルゼンチンの出身である
ゲバラが、先住民族が人口の多数を占めるボリビアに赴いてたたかいを展開しようとする時に
、及びがたい障壁としてあらためて立ち現われることになるだろう。そして、それは致命的な
結果を招くことになるだろう。
チリ生まれの現代作家ルイス・セプルペダは、自らが関わった一九六〇年代政治闘争のあり
方をふりかえりながら、次のように述べている。「六、七〇年代の政治的な試みは……ラテン
アメリカ全体をほぼ均一な全体にすることだったのです。たとえばぼくが積極的に関わってい
たチリの政治団体は〈チリで革命を起こすために、ラテンアメリカに社会主義国連合を創るた
めに闘おう〉という方針を宣言していました。ところがぼくたちはその連合に加わりたいかど
うかをアイマラ人やケチュア人、あるいは、チアパスの先住民たちに尋ねはしませんでした。
ぼくたちは均一な全体を求めがちだったのであり、大陸で最も豊かなもの、つまり、相違を否
定していたのです。混血の住む一つの大陸として全体を見ていたのです。でもその大陸は先住
民のものでもあり、また、混血を望まなかった大勢の人たちの大陸でもあるのです。わたした
ちはそこにあった多くのものに、また、イデオロギー的偏向のせいでそうしたものを見ていな
かったことにいま気づきはじめているのです」(註11)。セプルペダにしても、この言葉=考
え方が生まれるためには三十年の歳月を必要とした。私の想像では、彼は必ずや、自分たち、
チリのMIR(左翼革命運動)ばかりではない、ゲバラたちの「失敗」をも含意しながら総括
し、それをいまに生かそうとする過程で、この結論に行き着いたのだと思える。
主題に戻るが、コンゴに赴いたゲバラが、実際にはどんな現実に直面したのかは、本書がよ
く語っている。「アフリカの革命的な高揚」や「国際主義的連帯」というには、あまりにお粗
末な一部解放運動指導部の思想的なあり方と〈無〉活動の実態が、はばかることなく明らかに
されている。ゲバラが当初はその革命運動指導者としての熱意と力量を認め、やがて失望する
に至るローマン・カビラは、その後一九九七年、三十年間続いたモブツ独裁体制を打倒して大
統領に就任することになる。本書というただ一冊の本を通じてではあるが、複数の証言者が一
様に語るカビラのふるまいを知っている以上、私たちの胸には複雑な思いが残る。
ゲバラをはじめとするキューバ兵のコンゴへの関わりを検討するために、重要と思われる別
な資料にも当たってみる。コンゴに派兵され、その後キューバ革命指導部の路線に批判的にな
って亡命し、回想録を書いている人物が、私が知るだけでふたりいる。ひとりはフアン・ビベ
ス(註12)、もうひとりは、先に名前のみ触れたが、ゲバラの「ボディガード」的な役割を担
い、その後のボリビア行においてもゲバラに同行し、生き残ってキューバに帰還したベニグノ
ことダリエル・アラルコン・ラミレスである(註13)。彼らの回顧録は、ごく単純な事実の記
述に誤りが散見され、またその筆致から考えても、そこに書かれた数々のエピソードのすべて
を信じていいものかどうか、私には疑問が残る。にもかかわらず、キューバ革命の再検討のた
めには、ぜひとも参照されるべき内容を備えていると考えている。先に触れたキューバの軍人・
歴史家ガルベスの著書には、コンゴ遠征軍に参加したキューバ兵の本名・戦闘名一覧が載ってい
るが、一三二名の一覧表の中には、フアン・ビベスの名もベニグノの名も見えない。とくにベニ
グノはゲバラの「ボディガード」役だっただけに、「公認の」歴史家にとってよもや不明のまま
抜け落ちる程度の存在ではなかった、と考えられよう。ガルベスの仕事が、「裏切り者」は、歴
史そのものから抹殺してしまうという「偽造するスターリン学派」風の所業の名残りではないの
かどうか、私には気にかかる。
さて、ここで取り上げるのは、著書中でコンゴおよびアフリカへのキューバの関わりに触れた
部分だけだが、フアン・ビベスの本は、ゲバラの時代より下って一九七〇年代半ば以降のキュー
バ軍のアンゴラ派兵に関わる部分が多いので、ここではベニグノの本だけに触れてみる。
ベニグノは言う。一九六五年十月三日、カストロがゲバラの「別れの手紙」を読み上げた時、
ゲバラはコンゴでそれを傍受していて、驚きを隠さなかった。あの手紙は遺書のようなもので、
ゲバラの身の上に何らかの決定的な事態が起こった場合に公表するというのが、ふたりの間の約
束だったというのだ。ゲバラが語った言葉どおりに再現するといって、ベニグノは書き記す。「
事態は別な方向へ向かっている。友人間の合意が破棄され、消えていくようだ。影の間から個人
崇拝がちらつき始めた。スターリンは死んではいないのだ」。ベニグノは自らが「戦争と革命と
フィデル」に夢中であった当時をふりかえりながら、言う。「私には、ゲバラの言ったことが何
も理解できなかった。スターリンだって、誰のことか知ったか知らないかの頃のことだ……私の
頭は混乱した。個人崇拝っていったって、チェ・ゲバラ本人のことじゃないか。キューバの人間
がもっとも愛し、尊敬しているのは彼なんだから。アメリカや世界の多くの人びとが大きな信頼
を寄せているゲバラが、あの手紙で言うように、フィデルの長所を認めているのだから、この手
紙はとてつもない意味をもつぞ」と思った、と。フィデル信仰から解放されたいま、ベニグノは
逆に、フィデルを誉め称える言葉に満ちていたからこそ、フィデルは利用主義的にあの時点を選
んで、ゲバラの手紙を読み上げたのだと解釈し直している。
フィデル・カストロは、ゲバラの所在をめぐってあまりにも根拠なき論議や噂が飛びかい、カ
ストロがゲバラを消したとか幽閉しているという流言まで現われたので、止むを得ず公表したと
常々語っている。本書後半に見られるように、ゲバラはあの手紙を公表された以上は、もはやキ
ューバの同志も自分をよそ者とみなし始め、キューバの具体的な問題から手を切った存在だと捉
えているから、自分はキューバに戻るわけにはいかないとの思いにかられていた。結局はいった
んキューバに戻ったものの、子どもたちにも長年の同志・友人たちにも気づかれぬようにふるま
い、ひたすら急いでボリビアに向かうーーそれは、つい二十ヵ月前、アルジェからの帰国後フィ
デルやラウルに責められ、取るものもとりあえずコンゴに向かった時の状況とあまりにも相似し
ているーー理由に繋がっていくことだけに、真相をめぐってはなお議論のあるところであろう。
ベニグノは、別な視点からもキューバ兵のコンゴ滞在が孕む問題点を指摘している。それは、
コンゴからキューバに密かに戻ったゲバラが「精神的・心理的にたいへん参っており、コンゴの
指導者たちに騙されたと感じていて、いらいらしていた」とベニグノが感想を述べるところと関
連している。ベニグノ自身から見ても「われわれがどんな動機でコンゴへ行ったのか、事実上は
何も知らないということが重くのしかかっていた。われわれは命令されたことをやりぬく、正真
正銘の兵士だった。いま思えば、われわれはコンゴにいた時、意図としてではなく事実としては、
傭兵でしかなかった。われわれの多くは文化的水準が低いけれども、われわれが何をしようとし
ているのか、何に直面しようとしているのか、政治的・イデオロギー的その他の状況について、
十分に知らされていなければならない」。それをまったく欠いていたとベニグノは言う。そして、
ゲバラの厳しく苛烈な性格を思えば言いたいことも言えず、他方ゲバラに畏敬の念をもっていた
ことも事実で、そうであれば反論もできず、ゲバラの過ちも糊塗しようとした、と自分たちのあ
り方をふりかえっている。ベニグノは繰り返し「われわれの多くは文化的水準が低い」と語るが、
彼が言外に込めようとしている意味は深い。彼はシエラ・マエストラ時代の解放闘争に「個人的
な動機」から加わった人物だが、旧時代のキューバに典型的な農民の出であり、当時読み書きは
できなかった。革命の勝利の後は、対外工作の要員として次々と外国に派遣されるが、それは、
行き先の言語もできず、そこの人びとのあり方も地理も歴史も文化も知らぬままの状態であった。
それは、ふりかえってみれば「無学な者の使い捨て」なのではなかったか、と言いたいように読
める。
ここには、「国際連帯」と「ゲリラや人民軍内部の民主主義」のあり方をめぐっての本質的な
問題が浮かび上がってきているようだ。そのことは、私たちが「一九六〇年代の高揚」を顧みる
ときに不可欠な視点を提示してくれるものだと言える。
五
本書は私たち読者を、いくつもの問題項に導いてくれる本だが、いまひとつ見逃すことができ
ないのは、「コンゴ」そのものが提示するものに目を向けることだろう。ゲバラたちがタンザニ
アのダルエスサラームからタンガニーカ湖岸のキゴマに向かう冒頭の記述を読むと、それは一八
七一年、アフリカ奥地で消息を絶っていたイギリス人探検家デイビッド・リヴィングストンを探
して、イギリス生まれのアメリカ人新聞記者ヘンリー・モートン・スタンリーがたどった道とほ
ぼ重なることに気づく。リヴィングストンがスタンリーに「発見」されたウジジは、キゴマのす
ぐ南に位置している。リヴィングストンはその後ナイル川の水源を発見するための探査を続け、
一方スタンリーは、タンガニーカ湖とヴィクトリア湖の周辺を周遊し、コンゴ河を河口まで下る
ことになるが、日本では教科書でも取り上げられることの多い彼らのアフリカ紀行が、私たちの
アフリカ認識を暗いイメージに固定化したことを忘れるわけにはいかない。
同時に思い出すのは、探険の時代を前史とし、宣教師の時代を経て本格的に始まったヨーロッ
パ列強によるアフリカ分割の歴史である。一八八四〜八五年ベルリンで開かれた植民地会議に参
加したのはイギリス、フランス、ドイツ、ベルギー、イタリア、ポルトガル、スペインなど、す
でに植民地争奪戦に参加していた欧州諸国ばかりではなかった。オーストリア、デンマーク、ア
メリカ合衆国、オランダ、スウェーデン、ロシア、オスマン帝国も参加して、ベルリン条約に国
際的な性格を与えようとした。欧州各国は、それぞれがすでに「獲得」した地域はもちろん、未
踏の地域についてもどの国が領有するかの話し合いを行ない境界線を引いた。アフリカ大陸全土
がヨーロッパ列強によって色分けされた一九世紀末の地図をはじめて見た時の衝撃は、多くの私
たちの脳裏にはっきりと残っているだろう。
この「アフリカ分割」それ自体がもちろん異様なのだが、なかでもコンゴ盆地をおそった運命
には触れておいたほうがいいだろう。隣国オランダのジャワにおける植民地経営に大きな関心を
抱いていたベルギー王レオポルド二世は、他の諸列強が進出していない空白地帯のコンゴに注目
した。先年来この地域を知り尽くしたスタンリーの協力を得てコンゴ国際協会を設立し、コンゴ
の領有権を主張した。ベルリン会議で同協会は列強のひとつとして認められ、一八八五年レオポ
ルド二世はそこをコンゴ自由国として「独立」させ、自ら元首となった。国王の私有領にひとし
い存在だった。ベルリン会議は、また、フランスの軍事探検隊が探査していた大西洋岸からコン
ゴ河西岸に至る地域をフランス領と認めた。河口部分の豊かな河の流れを国境線にして、ベルギ
ー国王領とポルトガル領アンゴラが区切られた。いにしえのコンゴ国はこうして、ヨーロッパ列
強によって三分割されたのである。
レオポルド二世はただちにベルギー人将校が指揮する「警察力」なる部隊を創設し、アフリカ
人を強制徴用して同胞を抑圧する任務に就かせた。土地を没収し、主要産品である象牙とゴムの
輸出を独占し、地元住民を強制労働に駆り立てた。コンゴの人びとにとって苛酷なこの時代の状
況は、文学作品としても、マーク・トウェインの『レオポルド王の独白』やジョセフ・コンラッ
ドの『闇の奥』に描かれており、「自由国」の内実をあますところなく明かしている。国王の圧
政を非難するヨーロッパ諸国の圧力を前に、ベルギーは一九〇八年、国王の私有領であったコン
ゴ自由国を併合し、ベルギー領コンゴとした。イギリスやアメリカ合衆国がレオポルド二世の圧
政を非難したといっても、主眼は、ベルギー企業に有利な経済施策を行なう国王を「通商の自由
を阻害している」と非難することにしかなかった。国王の私有領ではあまりに異常だが、国家が
正式に管理・支配するなら、良いーーそれが植民地主義者が考える「正常な」植民地のあり方だ
った。
この頃からおよそ五十年後、コンゴに独立の気運が高まる過程については、しかるべき別書に
譲るが、ここでは、本書を読む際に最小限の参考になると思われるコンゴ地域の歴史に触れた。
六
ガルベスの本には、コンゴでの写真が数多く掲載されている。本書第六部「撤退」の場面の写
真もそこにはあって、画質は鮮明とは言えないが、粗末な小舟にあふれるばかりの人びとが乗っ
て、タンガニーカ湖をコンゴ側からタンザニア側に向かって渡っている様子がわかる。舳先に乗
った髭だらけのゲバラの横顔には、寂寥感が漂う。やがて、上陸が近づいたのであろうか、ゲバ
ラが髭を剃り落とした写真もある。その顔は、驚くほど若く、医学生時代にモーターサイクルで
無銭旅行をしていたときのような表情がはしっている。ダルエスサラームのキューバ大使館の一
部屋に隠り、総括文書を書いていた時に自動シャッターで写したセルフ・ポートレートも遺って
いるが、そのとき三七歳の、髭をさっぱりと落としたゲバラには、若者の輝きすらが見える。髭
を伸ばし、頭髪もぼうぼうとなった彼がボリビアで死の時を迎えるのは、それからわずか二年後
のことだが、それらのボリビアにおける最後の写真を見慣れた目には、あらためて、ああ、この
人は若くして死んだのだなと思わせて、切ない。
それにしても、コンゴを去るゲバラが持たざるを得なかった寂寥感について考える時、私たち
がこれまで考えてきた「一九六五年のゲバラ」を軸とした問題意識だけでは到達できない世界が
あることに気づく。コンゴの民衆にとって、ゲバラとその仲間たちはどういう存在であったのか
、という問題である。革命運動の原動力となるべきゲリラの指導者たちは、たたかいの現場に姿
を見せず逃げてばかりおり、兵士の多くもモラルを欠いていたという現実は、ゲバラにとっては
思いもかけぬものであったろう。そのようなゲリラ部隊が、その存続のための不可欠な要素であ
る「民衆の海」を持つことは、当然にも、できなかった。したがって、本書を読んでも、ゲバラ
たちがコンゴの民衆と交流する機会はきわめて限られていたことがわかる。カストロ宛ての「別
れの手紙」で、「世界の他の土地が、私のささやかな努力を求めている」と書いたばかりのゲバ
ラにとって、コンゴ民衆との具体的な繋がりを実感できない事態というのが、どれほどの打撃で
あったかは想像に難くない。
ゲバラはこの悲劇的な経験から何を教訓としたのだろうか?その後ボリビアへと向かう道筋を
ふりかえる時、それは必ずしも明らかではない。むしろ、ゲバラは、いわば理想的に展開できた
キューバのシエラ・マエストラを根拠地としたゲリラ戦に基づいて定式化した自らのゲリラ戦略
を普遍化し、他国の異なる条件を無視してその適用を図ったかに見える。キューバ革命に批判的
になっているいまも、ゲバラに対しては悪し様には言わず、どこか敬慕が残る筆致で書いている
ベニグノが、「(ゲバラはボリビアで)比較のために何度もコンゴに言及したが、そこで犯した
失敗については決して口にしなかった」と記しているのは、深い意味をもつことかもしれない。
七
コンゴにおけるチェ・ゲバラたちの活動を部分的にせよ明らかにしたキューバ政府は、革命の
勝利の直後から一九八〇年代末まで続けられた「革命の輸出」や「軍事顧問団の派遣」の歴史に
、一九九七年を期して終止符を打とうとしているように見える。一九九七年一月、キューバ国営
通信社の戦争特派員であったジャーナリスト、ルイス・バエスは『将軍たちの秘密』と題する著
書を刊行した(註14)。これは、「国際主義者」として世界各地に派遣された経験を持つ国軍や
内務省の現役・退役将軍四一人とのインタビュー集である。「英雄ゲリラ[これはもちろん、チ
ェ・ゲバラのことを意味している]とその同志たちの戦死から三〇周年に」と記されているこの
本で、「将軍たち」はかなり率直にその地下活動の実態を語ってはいるが、それはあくまでもエ
ピソードの羅列に終わっており、キューバにとって辛苦と犠牲をも伴った「国際主義の実践」の
総括になっているとは、必ずしも、言えない。本書を通して、コンゴにおけるゲバラたちの「実
践」の中身に触れた私たちは、キューバにおいてなされるであろう来るベき「国際主義の総括」
が、もっと深く掘り進められるであろうことを予感することができる。
「深く」と言えば、問題は「国際主義の総括」に留まることは、ない。キューバ革命の過程に
おいて、反乱軍の存在は不可欠であった。勝利の後、襲いくる反革命との攻防において、革命軍
の存在は不可欠であった。コンゴにおける、苦悩に満ちたゲバラたちの経験を読み終えたいまも
、あの時代情況の中での「国際主義の実践」に感じた私たちの心の鼓動のリアリティまでをも、
私は水に流してしまうわけにはいかない。だが、と今の私は思う。ゲリラ=反乱軍や革命軍や国
際主義者軍が、ある限定的な時代において必然的な役割を果たし得たとして、軍隊そのものをい
っときのものとして「消滅」させていく志向性が、そもそも革命の本質にあるのではなかったか
、あるべきではないか、と。
現実の革命が、「国家の廃絶」も、「軍隊=常備軍の廃絶」も口にしなくなって、久しい。資
本制社会の常識的な価値観に、それが「現実的であるがゆえに」骨の髄まで侵食された社会革命
の理念と実践は、夢も理想も語ることなく、ますます袋小路に追い詰められる。
「国際主義の総括」の後に待つ課題は何か? 本質的に非民主主義的な存在であり、「敵」を
意志的に殺すことを使命とする軍隊が、ゲバラが言う「新しい人間」の社会で強大であり続ける
ことは、大いなる矛盾であるという問題意識ではないか。米国という、身近にある侵略的な「敵
」の存在がキューバ革命軍の縮小→廃絶を不可能にしてきた従来の現実は十分にわきまえつつも
、今後の問題は別な形で設定してみたいという私の考えは、この「解説」を書く一ヵ月前に書い
た「第三世界は死んだ、第三世界主義万歳!」で展開してみた(註15)。関心のある方には併読
を願う。そこで批評・批判が生まれ、論議にまで発展するなら望ましいことだ。
*
それにしても、ゲバラの人生についてもそうだが、キューバ革命史全体に関しても、まだまだ十
分な情報が明らかにされていないために、推定・推測で判断せざるを得ない点が数多く残っている
。本書の本文にもこの解説にも、そのような箇所があるのは、ご覧のとおりである。だが、キュー
バ政府/党による情報公開はいっそう進まざるを得ないだろう。大部のゲバラ伝を書いたひとりで
あるホルヘ・カスタニェダに典型的なように、ソ連体制の崩壊によって、従来なら機密文書として
封印されてきた旧ソ連の外交文書も金銭さえ払えば閲覧できるようになったために、旧ソ連側文書
およびキューバやゲバラとの付き合いがあった旧ソ連の外交官を通して明らかになっていくキュー
バ事情も増え続けることだろう。本書が残さざるを得なかったいくらかの曖昧さは、今後の調査の
過程で補われ、是正されていくかもしれない。
「英雄ゲリラ」の「栄光」に包まれていたチェ・ゲバラは、本書の中で、弱さも絶望もいらだち
も見せる存在として登場する。私たちは、ゲバラを閉じこめていた、いくつもの窮屈な「神話」か
ら彼を解き放ち、そのことによって私たち自身も「解放」されて、ありのままの姿で向き合える時
が来たのだろう(註16)。時間はかかったが、わるいことではない。
ゲバラとその仲間たちの、はっとするような言動の輝きと、どろどろとした失敗を忘れないため
に、私たちは、読者に本書を届けたい。
[一九九八年十一月二七日記]
(註)
1 “La Jornada", 9 de octubre de 1997, Mexico
2 Che Guevara y Raul Castro,“ La Conquista de la Esperanza : Diarios ineditos de
la guerrilla cubana : diciembre de 1956 - febrero de 1957 ",(Casa
Editora Abril,
La Habana, 1996 ) この本は、前年の一九九五年にメキシコのホアキン・ホルティス社から出
版されている。本書の共著者のひとりであるパコ・イグナシオ・タイボ Uは、この本にも解説
を寄せている。
3 William Galvez, El Sueno Africano de Che : ? Que sucedio en la
guerrilla
congolesa ?, Casa de las Americas, La Habana, 1997
4 大部のゲバラ伝を書いたひとりであるフランス人作家、ピエール・カフロンによれば 、ガル
ベスの書ではゲバラの「コンゴ日記」の全体像が明らかにされるとの報道が、一九九七年八月の
キューバ通信社からなされたようである。ガルベスの書における引用のされ方から見て、果たし
てそれが「全体」なのかどうかについては疑問が残る。私が参照しているのは、カフロンの書の
スペイン語訳で、Pierre Kaflon, Che Ernesto Guevara:una leyenda de nuestro siglo,
Plaza & Janes Editores, S.A.,Barcelona, 1997である。
5 セグンドとは、本書口絵写真一頁目と本文五一頁に出てくるアルゼンチン人、ホルヘ ・リカ
ルド・マセッティが一九六三年にアルゼンチンに戻って、北部山岳地帯でゲリラ活動を始めた時
の戦闘名。マセッティの活動はゲバラとの協議の下で行なわれており、キューバから参加した兵
士もいて、リカルドはそのひとりだった。
6 Ernesto Che Guevara, El Diario del Che
en Bolivia (ilustrado), Editora Politica, La Habana, 1988
7 フランツ・ファノン「来たるべきアフリカ」(同著作集第四巻『アフリカ革命に向け て』所
収、みすず書房、一九六九年)
8 Carlos Franqui, Vida, Aventuras y desastres de un
hombre llamado Castro, Planeta, Mexico, 1988 中の記述を、Jorge G. Castaneda,
La Vida en Rojo : una biografia del Che Guevara, Alfaguera, Mexico, 1997 から重
引。
9 前出カスタニェダの著書から。
10 前出カスタニェダの著書から。
11 ルイス・セプルペダ著『パタゴニア・エクスプレス』(安藤哲行訳、国書刊行会、一九九七
年)の「訳者あとがき」に引用されている、一九九四年のインタビューの一部。
12 フアン・ビベス著『恐るべきキューバ』(山本一郎訳、日本工業新聞社、一九八二年)。
13 Benigno (Dariel Alarcon Ramirez, Memorias de un Soldado Cubano
: Vida y
muerte de la Revolucion, Tusquets Editores, Barcelona,1997 原著はフランス語で一九九
七年に出版されているが、私が利用したのはスペイン語版である。なお、ベニグノは、フランスの
シネテペ制作(一九九七年)のビデオ『チェ・ゲバラ:革命にかけた生涯』でもインタビューを受
けているが、ここでも同じエピソードに触れているほか、コンゴ解放運動の指導者ローマン・カビ
ラに関して「酒と女ばかりを追いかけていた男だった」という趣旨のことを語っている(日本では
、NHK衛星第二放送「BSドキュメンタリー 二十世紀人物列伝」で、一九九八年九月一九日/
二六日に放映された)。
14 Luis Baez, Secretos de Generales, Editorial SI-Mar S.A., La Habana,
1997.
15 フォーラム90s研究委員会・編著『20世紀の政治思想と社会運動』(社会評論社、一 九九八
年、所収)
16 藤原新也は、ゲバラを撮り続けたキューバの写真家コルダの写真展に寄せて言う
。「ヒロイズムというものはそれを名指しされた本人も、それを信奉する人にとっても時にそれぞ
れの者を窮屈な場に追いやることがある」[「アルベルト・コルダ写真展(一九九八年十一月六日
〜十五日、於東京国際フォーラムAギャラリー)のためのチラシに寄せた文章]
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