|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
チェ・ゲバラ没後30年その思想を風化させないために |
|
|
|
|
|
|
|
太田昌国 |
|
|
|
|
【ゲバラを知らない若い世代のための、ゲバラ略伝】
エルネスト・チェ・ゲバラ(一九二八年アルゼンチンに生まれ、一九六七年ボリビアに死
す)。裕福な中産階級の家庭に生まれる。幼い頃から喘息を患ったために、医学を修めアレ
ルギーの研究を志す。医師の資格を得た後ベネズエラのライ病院で働くために出国したが、
曲折あってメキシコへ行き着く。
そこでキューバから政治亡命中のカストロらと出会い、意気投合し、キューバへの帰還作
戦と反政府ゲリラ闘争に合流。五九年革命勝利後はキュ−バの市民権を与えられ国立銀行総
裁、工業相を歴任する一方、ゲリラ戦争論・社会主義経済建設論などについての論文を多数
執筆。キューバ代表として国際会議にも数多く出席し、新生キューバに敵対し世界全体の支
配をもくろむ米国を厳しく批判する一方、ソ連型社会主義のあり方を否定する立場から公然
たるソ連批判も行なった。六五年ベトナムに連帯する反帝国主義闘争に参加するために、新
たな闘いの場を求めて出国。
最初はアフリカのコンゴに赴き、その後ボリビアでゲリラ部隊を結成して闘ったが、六七
年一〇月米中央情報局(CIA)に支援された政府軍に捕えられ射殺された。享年三九歳で
あった。その生死と思想は、六〇年代の世界じゅうの社会運動、とりわけ青年層に大きな影
響を与えた。死後三〇年経った九七年、ボリビア現地で遺骨が発掘された。
第三世界主義の文脈で
チェ・ゲバラが活動した一九六〇年代をふりかえる時、まず「第三世界主義」が台頭した
こと、ゲバラ自身が初期キューバ革命の息吹を背景に、その動きの中で歴史的役割を果たし
たことを見逃すわけにはいかない。それは、ヨーロッパ中心主義の傲慢な歴史観・世界観に
対して、あらゆる分野での反撃を試み、新しい世界を創造する動きであった。
五九年のキューバ革命の勝利後、外国使節団団長に任ぜられることの多かったゲバラは実
に何度も外国訪問の旅に出ている。なかでも印象深いのは、六〇年代前半の連続的なアルジ
ェリア訪問である。アルジェリアは、キューバ革命に遅れること三年、一九六二年に、一八
三〇年から一三〇年間続いたフランスの植民地支配を、八年間に及んだ解放戦争の末に打ち
破ったばかりである。
ゲバラは六三年には独立一周年記念式典に、六四年にはベン・ベラ大統領の招きで、六五
年にはアジア・アフリカ経済会議に出席のために、アルジェリアを訪れている。ゲバラない
しキューバが、いかにアルジェリアとの緊密な連携が重要かを意識していたと言える。それ
は、もちろん、ゲバラが、アルジェリア革命の理論家で、六二年に白血病で死んだフランツ
・ファノンの論文を熱心に読んでいたらしいという興味深い推測にも繋がっていくものであ
る。
ゲバラがついに実際に訪れることはなかったが、アルジェリアに対してと同じような熱情
を込めて語り続けた対象はベトナムである。六五年二月、米国が北ベトナム爆撃を開始し、
同三月、抗米戦争のための義勇兵の派遣を各国に要請するかもしれぬとの声明を南ベトナム
民族解放戦線が発表してまもなく、ゲバラは政府・党・軍におけるすべての地位を捨てキュ
ーバ国籍も離脱するとの手紙をカストロ宛てに残して出国している。六七年四月、しばらく
行方をくらませていたゲバラのメッセージ「二つ、三つ……数多くのベトナムをつくれ、こ
れが合い言葉だ」とのメッセージが公表される。
これは、米国のベトナム侵略戦争に対しては反戦運動ではなく、むしろ数多くのベトナム
を世界各地につくりだし、敵の力を分散させるのが勝利への道だと主張して、世界じゅうの
青年に大きな衝撃を与えたものである。
こうして六〇年代前半から後半にかけてのゲバラの動きを介して、キューバーアルジェリ
アーベトナムの相互の動きを年表風にたどると、第三世界主義が世界を席巻していた時代の
姿を目のあたりに見る思いがする。もちろんこの三ヵ国に限られるものではないが、当時、
第三世界の民衆は西欧植民地支配のくびきを脱し、手にした自律的な発展の可能性を確かな
ものにするために、このように具体的かつ精神的な結びつきを強化していたのだと言える。
人は言うかもしれない。第三世界主義のロマン化は手酷いしっぺ返しをうけているではな
いか。三〇年後のそれらの地域の現実を見よ。「世界の変革の中心だ」と錯覚して舞い上が
っていたキューバは、自由市場経済化の道を突き進んでいる。栄光の独立闘争で知られたア
ルジェリアは、誰が敵で誰が味方かわからぬテロと虐殺の血の海に沈んでいる。かつて偉大
な克己心と勇気で抗米戦争に勝利した統一ベトナムがいま抱える最大の難問は、政府・党官
僚たちの汚職事件の続発である……。
もし、間違いも見込み違いもありうる歴史創造の過程に自ら身を投じている人が、自分自
身も解決すべき課題としてこの種の問いかけをしているのなら、それは歓迎されるべきこと
だろう。だが、「こんな結果はたやすく予見できた」とか「とるべきではなかった」などと、
遡行的に「予言」して自らの正しさを証明したがる人びとは、結局は歴史創造の現場には居
合わせない人なのだと私は思う。
ボリビアにおけるゲバラの痛ましい死を招いた「過ち」を含めて六〇年代第三世界主義の
理論と実践の正負は、そのように理解してはじめて今なお私たちに有効な示唆を与えてくれ
るのだと思う。
「新しい人間」の模索
ゲバラは、ゲリラ戦争に関する著作を著わし、またすでに見た「ベトナムに関するメッセ
ージ」の内容やボリビアにおける戦死という事実から、なによりもゲリラ戦争論の理論家に
して実践家であると見做されている。思想的・経済学的な見地から、社会主義の新しいイメ
ージを創りだそうとしていた側面は、あまり知られていない。ここでは、その点での遺産に
触れたいと思う。
彼が革命直後から国立銀行総裁や工業相の任に就いたことは、略歴で触れた。革命初期の
六〇年代前半、キューバでは社会主義建設期の労働はいかなる原理によってなされるべきか
をめぐって激しい論争が展開された。ゲバラは、共産主義的なモラルを欠いた社会主義経済
には興味がない、自分たちの闘いは貧困との闘いに留まるものではなく疎外との闘いでもあ
るのだとする立場に立つ、この論争における片方の当事者だった。社会主義建設の労働は個
人的で物質的な動機によってではなく、集団的で精神的な動機によって組織されるべきだと
する考え方である。
競争原理に拠るのではない、真に友愛に満ちた態度を生み出すような変化は、集団的・精
神的動機によってこそ人間の中に呼び起こされる。「社会主義建設のこの時期に、新しい人
間が生まれてくるのをみることができる。その人間像は未だ最終的に完成されてはいないし、
決して完成することはないだろうーーその形成過程は新しい経済形態の発展と呼応して進む
のであるから」(「社会主義と人間」、一九六五年)。
この考え方についても、精神至上主義であるとかロマンティシズムに過ぎるという批評が
なされてきた。だが彼にとっては、共産主義とは単なる「分配の一方式」なのではない。「
意識の行為」を重視することで、資本主義とは異なる価値観を生み出すはずのシステムであ
った。
彼は六〇年、六二年、六四年と何度かにわたってソ連を訪問する。ソ連式社会主義の実態
をつぶさに見たり、権威主義的で官僚主義的でもある人間を相手に、貿易交渉もしたりする。
キューバにはソ連型の経済政策を推進させようとするソ連の経済学者が送り込まれ、百害
あって一利なきソ連版「経済学教科書」が学習教材として民衆に配布される。こうして「新
しい人間」像を求めるゲバラの前に立ちふさがるようにして、ソ連型社会主義は次第にキュ
ーバの経済・社会・文化のあり方の中でその存在感を増していく。彼がいっそう明確にソ連
批判を強めていくことは後で見るが、未発表のものがまだあると伝えられるこの時期のゲバ
ラの経済関係の論文の情報公開が進めば、「新しい人間」像をめぐる論議はさらに豊かにな
るものと私は期待している。
総じて言うならば、六〇年代半ばまでのキューバは、一方で台頭する第三世界を象徴し、
他方でソ連型ではない新しい社会主義像の創出に、部分的にではあれ、はげむ場であった。
そのいずれの場にもチェ・ゲバラの存在があった。キューバのその後の停滞と混迷を見届
けたからといって、三〇数年前の貴重な試行錯誤の意味を洗い流してしまうほどの、歴史の
傍観者ではありたくない、と私は思う。
「先進」国批判
すでに見たように、歴史創造としての第三世界主義の思想と運動がいっそう展開されるに
つれ、ゲバラは第三世界の経済的基盤を規定していて揺るがない「先進」国との経済・交易
関係のあり方への批判を強めていく。
それは、アルジェリアへの最後の公式訪問である六五年二月に行なわれた「アルジェ演説」
にもっとも明確にみてとることができる。
南北の互恵貿易に関して、彼は言う。「価値法則と、この価値法則が導き出す不均衡な際
貿易関係によって、低開発諸国を犠牲にしてでっちあげた価格ベースのうえで互恵貿易を発
展させるなどということはもはや語られることすら許されないことだ」と。
この意味で言うなら、社会主義国も批判を免れるわけにはいかない。「この種の関係(不
等価交換)が二つの国家グループの間にあることを確認するならば、限られた意味において
であるが、社会主義国家が帝国主義的搾取関係の共犯者であることを確信せざるをえない…
…社会主義諸国は西側の搾取諸国との暗黙の共犯関係を清算する道徳的な義務を果たすべき
である」。
社会主義国キューバを代表するゲバラが、国際会議においてここまで具体的にソ連のあり
方を批判したことは、両国関係にただならぬ影響を与えた。帰国したゲバラは直ちにカスト
ロと長時間の会談を行ない、まもなくゲバラはキューバの市民権を放棄し「新しい戦場」に
向けて出国することになる。
ゲバラ個人の命運にはここではこれ以上こだわらないにしても、ここで提起された問題は、
この三〇年、いかなる意味においても解決されてはいない。
むしろ単一の自由市場経済体制が世界全体を支配する勢いの中で、この矛盾はさらに深ま
っているとさえ言うことができる。ゲバラの問いかけは、私たちの時代の切実な問題として
生き続けているのだ。
見えてきた諸問題
最後に、ゲバラに関わって三〇年前には私自身によく見えておらず、その後の経過の中で
自覚できたいくつかの問題を考えてみる。
ゲバラを「国境を超える革命者」と呼ぶことは今もおかしくはない。だがボリビアでの『
ゲバラ日記』を読む時、彼がボリビア東部の先住民族グアラニを前に途方に暮れている記述
を何度も目にする。「インディオは他人が入り込めない目付きをしている」。国境を自在に
超えたゲバラも、一国内の複雑な民族構成を前に戸惑っているかに見える。白人革命家・ゲ
バラは、その短い一生の中では、先住民族・インディオとの間に厳然と存在する「くにざか
い」までは容易に超えることはできなかった。ここ数年の同時代史をふりかえって民族的抗
争の悲劇を目撃している私たちは、重い課題を引き継いでいるというべきなのだろう。
ゲバラはまた、ゲリラ戦士と民衆、指導部と民衆の関係について、前者がつねに後者を指
導し、後者は前者に従属すべき存在として固定化している。両者の相互浸透の考え方が見ら
れない。彼自身が官僚の特権化に対する厳しい批判者であり、革命初期において早くもキュ
ーバの一部不良官僚の嫌悪の対象になっていたことはよく知られている。だが絶対化された
革命軍と前衛党が、革命後の社会でいかに全体主義的で権威主義的な存在に成り果てるかと
いう問題意識を強烈に持つことはなかったように見える。
このようにゲバラは、時代が変わったからといってすべてを葬り去ることも、他方ロマン
的賛美に終わることもできない、矛盾と魅力に溢れた存在として、今も私たちの眼前にい
る。風化させるわけにはいかない。
サロンインディアスに戻る
トップページに戻る