民を描くということ | |||||
清水透 |
【編集部の註】
第二回目の学習会の講師は清水透さん(慶応大学経済学部/ラテンアメリカ社会史
)だった。表題のように「民を描くということ」と題して、メキシコ・チアパスがテ
ーマだ。清水さんは、すでに『コーラを聖なる水に変えた人々:メキシコ・インディ
オの証言』(リカルド・ポサスとの共著、現代企画室、一九八四年)および『エル・
チチョンの怒り:メキシコにおける近代とアイデンティティ』(東大出版会、一九八
八年)の二冊の著書を通して、チアパスの歴史と現状について深い洞察と分析を試み
てきた。だが(このことは、当日もご自分で触れられていたが)若い娘さんの白血病
の発病、闘病、骨髄移植、そして無念の死……と続いたこの間の事情に心身あげて関
わるなかで、サパティスタ蜂起後のチアパス状況に関してはいっさいの発言を控えて
こられた(のだと思う)。
ところで、私は数年前メキシコに行った際に『ツォツィルとツェルタルの村の夢と
知恵あることば』(Suenos y Palabras Sabias de las Comunidades TZOTZILES
yTZELTALES)というビデオを入手していた。サンクリストバルに住むビデオ作家、
カルロス・マルティネスの作品だ。
清水さんに話すと、カルロスとは旧知の仲だという。さっそくビデオを見てもらい
、講演をしていただけないかとお願いした。ビデオを見たうえで、清水さんは自らテ
ーマを「民を描くということ」にしたいと言われた。
私の関わり合いでいえば、一九九二年一〇月、コロンブスの航海から五〇〇年目の
年を迎え、私たちは「五〇〇年後のコロンブス裁判」という集まりを二日連続で開い
たが、その時のシンポジウムに清水さんに出席してもらった。以下に要約して紹介す
るのは、そのとき以来ほんとうに久しぶりに、今回の学習会で清水さんが人前でチア
パスについて話した中身の一部分である。ビデオ上映がほぼ一時間に及ぶものだった
ので、清水さん自身の話は短いものにならざるを得なかった。そこで、編集部の責任
で、以下に清水さんの講演の内容を簡潔にまとめることにした。文責は編集部にある
。なお、ビデオは私たちの手元にあり、もちろん、貸し出しは可能である。
【太田昌国】
清水 このビデオでは、前半部においては、儀礼を中心に地下水脈的な「マヤ的心性
」が描かれる。「マヤ」は、独自の文化を有するいくつもの「プエブロ」(民族集団
)に分かれているが、その全体が「マヤ」というまとまりであると描かれ、またその
「プエブロ」の核を成すものが「カルゴ(役職)・システム」と「夢を通じて得た智
恵」であると語られる。そして、後半ぶにおいて、「征服後、五〇〇年にわたり虐げ
られてきたわれわれマヤ」が、サパティスタというまとまりとして顕現したと描く。
映像に関して言えば、前半の儀礼の映像は、これだけで大変に貴重なものである。
この地域は非常に排他的で、儀礼によそものが入ることや、教会内部を撮影すること
などは、時として生命の危険すら伴う。そういうなかで、あれだけの儀礼を撮影でき
たこと、撮影させてもらえるまでの関係をつくっていったこと、その裏には、信頼さ
れうるに足る、撮影側のそれまでの「生き方」があるのだろう。そこに敬服させられ
る。また、その点で、まずこの映像に「やらせ」はないと考えられる(唯一「やらせ
」と思われるのは、ラストの方のサパティスタ運動家が村の人びとを前に行なうスペ
イン語での演説。本来ならば彼らの母語で語っているはずだと思う)。
しかし、ビデオの前半(マヤの伝統)から後半(サパティスタ)へと向かう流れの
中で触れられていない部分について、いくつかの疑問がわく。
まず、「カルゴ(役職)・システム」。本来の理想形としてのこのシステムは、村
の長老が、村のさまざまな仕事を村人に平等に割りふり、富や権力が一個人に集中す
ることを防ぐという、非常に民主的なシステムであり、ビデオでもそのように描かれ
ている。しかし現実は、メキシコ革命以来、政府肝いりの村ボスが恣意的に負担を強
制するという、「村ボスへの権力集中」、「貧困の普遍化」パターンが定着し、村制
度の空洞化が見られるのだ。こんな長年の現実があるなかで、長老や村役はサパティ
スタとの関連でどういう動きを見せたのか。そこが知りたい。
また、ビデオに撮られている「女性」の姿。この地域では、その世界観に基づき、
「女は椅子に座らない」「歩くとき・歌うとき、男が先で、女はあと」など、男性/
女性が厳然と分けられていた(前半の儀礼の映像ではまさにそう)。しかし、ビデオ
の後半、サパティスタの集まりにおいては、男女が一緒に踊り、歌っている。これは
衝撃的である。村内部、家族内部での軋轢はなかったのか。軋轢を超えて、どんな変
化があったのか。そこに大きな関心がある。
そして、ビデオでまったく触れられていない「離村インディオ」の存在。村役に反
発したり、プロテスタントに改宗したりして村を追放された多数の人びとが、サンク
リストバル周辺部で共同生活を送っている。「離村」という共通項があるため、変革
に向けての運動が起こしやすいはず。彼らとのリンクはないのだろうか。結局は、こ
のビデオでの描き方の問題だと思われる。「マヤ的な意識」は、むしろ、サパティス
タの運動を契機として作り上げられていったもののはずであるが(「征服の歴史」が
人びとに教えられるなど)、この台本では「われわれマヤ」がサパティスタのまとま
りに移行したと「《きれいに》描いて」いるために、落ちてしまった部分があるので
あろう。 他者を「描く」ということ。知らない世界を「描く」ということ。この困
難さ/危険さが、ここにはある。一九七九年以来チアパスをフィールドとしてきた自
分自身、身近な者の死を契機にして、自分が真にはインディオの悲しみをいうものを
分かっていなかった、より深いレベルで「描けて」いなかった、と自省している。
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