サパティスタ密林の夜明け 第2回 | |||||
ギオマル・ロビラ=著 柴田修子=訳・解説 |
【訳者による解説】
今回は、『とうもろこしの女たち:チアパス先住民女性の声とサパティスタの反乱
』(ギオマル・ロビラ著)第三章の抄訳を紹介する。この章では、ラカンドン密林へ
移住した人びとの歴史が、グアダルーペ・テペヤックという村を開拓した女性たちへ
のインタビューを通して描き出されている。密林への移住と、その後の強制された移
住という二つの出来事が重ね合わされ、多少わかりにくいものになっているので、訳
を紹介する前に、密林への入植の一般的な経緯について簡単に触れておきたい。なお
この第三章は、前半で語られる苦難の体験をバネにして、サパティスタ軍へ参加する
ようになっていった女性たちの姿へと話が続くのだが、今回は誌面の都合上、後半部
分は割愛している。
サパティスタの運動が、その主体も支持基盤もチアパス州に暮らす先住民であるこ
とは、早くから注目されていたが、その中核をなしているのがラカンドン密林とよば
れるメキシコ南東部に広がる密林地帯に住む人びとであることは、案外知られていな
い。この地域は二〇世紀初頭までほとんど人の住まない地域であったが、一九三〇年
代以降農場での隷属的な生活から逃れるため、自主的にやってきた先住民たちが続々
とこの地に入植するようになっていった。また一九五〇年代以降の牧畜業の発展に伴
い、自らの農場を牧場に変換したために人手を必要としなくなった農場主が、農業労
働者たちの入植を奨励するケースもあった。
一般に彼らの入植した土地は「自主的」に開拓したものであるものの、国有地であ
ったことと、歴代の政府が入植に積極的もしくは少なくとも寛大であったため、煩雑
な手続きが必要であったにはせよ、その土地の権利を手に入れられる場合が多かった
ようである。入植の初期にはラカンドン密林の近隣からの入植者が大半を占めていた
が、慢性的な土地不足や宗教上の対立などの理由から、一九六〇年代以降、チアパス
高地などの遠隔地からも入植者がやって来るようになった。かくして密林には、さま
ざまな民族による村が次々に建設されていく。この章で出てくるように、異なる民族
同士の婚姻もしばしば行われた。
ここで語られるグアダルーペ・テペヤックも、そうした開拓民たちによって一九四
〇年代終わりから五〇年代の始め頃に建設された村である。ソライダの発言に出てく
るエル・ポルベニールとは、グアダルーペ・テペヤックから直線距離にして六〇キロ
余りのところにある農園である。川や山に阻まれ、実際にはさらに長く険しい道のり
であったことは、想像に難くない。
この章では、大変な苦難を乗り越えてこの地にたどり着き、村を切り開いていった過
程が女性の視点で詳細に語られている。だが、運命は彼女たちにここを安住の地とす
ることを許さず、さらなる苦難を与えた。それが、サパティスタ蜂起からおよそ一年
後、一九九五年二月一〇日のエクソド(脱出)だったのである。この日、政府軍はサ
パティスタとの停戦協定をやぶり、サパティスタ地区と呼ばれる地域に侵攻した。グ
アダルーペ・テペヤックは、一九九四年八月、全国から数千人の人びとの参加を得て
サパティスタの問題提起を支援する「民族民主会議」が開かれたうえ、八カ月間マル
コス副司令官たちが暮らした場所と目されており、政府にとっては「サパティスタの
村」として象徴的な存在だったため、まっさきに軍の侵攻を受けた。何年もかけて生
活を切り開いてきた村の人びとの苦労は、一日にして破壊され、軍の駐屯地にとって
代わられた。以後今日にいたるまで彼らは避難生活を余儀なくされている。
一九九九年四月、九名の民兵と一三七のサパティスタ支持家族がこの村で武装放棄
を宣言、その帰順式が行われたという。政府はグアダルーペ・テペヤックのそばに彼
らのための新しい村を建設すると宣言、そのための土地・肥料・金銭的援助を与える
と発表した。五〇年余り前、エルミニアたちが開墾した土地がこのような「捏造され
た和解の象徴」として使われることの意味の大きさが、彼女たちの体験談を通して伝
わってくるようである。
第三章 どのようにして密林に暮らすようになったか
四家族の開拓者たちがグアダルーペ・テペヤックにたどり着いた頃、すべては密林
だった。うっそうとした緑は、農業労働者として働くことに疲れて農場からやって来
たトホラバルの人々が直面する、荒涼とした生活環境を物語っていた。彼ら開拓民の
うち、残っているのはもう年老いた女性たちだけである。 一九九五年二月一〇日[
前記解説で触れた、政府軍の不意のサパティスタ村に対する攻撃の日]……密林の一
角に住み始めて半世紀余り……、山に逃れなければならなくなったとき、村を去るこ
とに誰よりも苦しんだのは彼女たちだった。メキシコ軍が土地に侵入し、何百人もの
兵士がヘリコプターから降りて来た。グアダルーペの人びとは、国際赤十字が使って
いる病院に避難することにしたが、兵士たちは武器を手にそこへもやって来た。
すべての家や小屋が詳細に捜索された。グアダルーペの人びとは、年寄りも含め全
員が村をあとにした。つまり軍がもたらした「社会的仕事」や「権利の回復」から逃
れるために、山へのエクソド(脱出)を開始したのである。
ドニャ・エルミニアは百歳くらい、パンなしに過ごした日のようにやせ、しわだら
けでかさかさの女性で、この旅を耐えぬいた。ほとんど青に近い彼女の瞳は、驚くほ
ど生き生きしている。目だけ見ると、まるで少女か若い娘のようだ。歯は抜け落ち、
脚は棒のようで骨しかない。トホラバル人の褐色の肌は、大地のように溝だらけであ
る。彼女のことは、担いで行かなければならなかった。三日三晩歩き続けることは、
彼女には無理だったのだ。息子たちが枝で即席の担架を作り、横にしてそこまで連れ
て来た。
私たちがエルミニアにインタビューをしたのは、偶然ではない。以前に私たちはグ
アダルーペの人びとが避難した場所に行ったことがあった。彼らが村をあとにして二
週間経った頃だった。ラカンドンの片隅にどうにか落ち着いていた。私たちは、子ど
もや女性たちに質問し、避難した時の証言を集めながら、人びとと話をしてまわって
いた。私の関心の的は、母親になったばかりの女性たちだった。ほんの幼くさえある
者たちも混じる彼女たちは、出発前あるいは一日歩いた後、二日後あるいはこの場所
に着いてから、出産したのだ……赤ちゃん、赤ん坊たちは無事だった。グアダルーペ
の人びとの生命力、闘いの粘り強さには驚くべきものがある。
ところで、私たちはもう立ち去るところだった。そのときひとりの男性が近づいて
きた。
「ドニャ・エルミニアとはもう話したのかい?」
「ドニャ・エルミニアって?」
「村でいちばん思慮深い人だよ」
そして彼は一つの小屋を指差した。私たちは入ってみた。薄暗い部屋の中、板のベ
ッドに休んでいる一人の女性が見えた。頭にバンダナを結び、花柄のワンピースを着
ている。上体を起こし、グアテマラのカラフルな毛布を脚にかけていた。エルミニア
はカップのコーヒーを少しすすった。女性であり、母であり、祖母、曾祖母でもある
、百年以上を経た体で、ものめずらしそうに私たちを見た。心のこもったあいさつを
私たちに向けて、骨張った手を伸ばして布と髪を整えてため息をついた。
そのため息と、私たちに向けられたあたたかい視線が、話さなければいけないこと
をすべて語っていた。彼女の具合は良かったものの、もともとの家からなんと離れて
いることか!
「ここで私らは悲しみにくれている。私のことはみんなで担いでくれた。脚が痛ん
で歩けないんだ。私らはひどく苦しんでいる、神様。小さな子もみんな、わずかばか
りのトルティージャしか食べるものがない」
エルミニアがいる小屋では、他に十家族余りが寝泊まりしており、男たちのための
場所はほとんどなかった。つまり彼らは外で夜を過ごすしかないのである。
八〇歳は越えていると思われる娘の一人は、母親よりもさらに悲しんでいるようだ
。村を後にすることが彼女にとって意味したことを語る間、涙をこらえることができ
なかった。ソライダは「かわいそうな私のお母さん、かわいそうな母さんをみんなで
担いで運んだ」ことを思い出しながら泣いていた。
ソライダは高齢にもかかわらず、安全な場所に着くまでの四日間をみんなと一緒に
歩いた。背がかなり高くやせ細ったこの女性は丈夫なようで、健康に恵まれている。
逃げるとき何も持てなかったので「洗って、また着るしかない」空色のワンピースを
着ている。甘くやわらかな声で、幼い子どもたちのことをひどく心配する。私たちが
この密林の避難所を初めて訪れたとき、ソライダは孫たちに替えてやる服がないのを
嘆いていた。自分の運を信じていなかった。「もう一人の友人」ドニャ・チョレとと
もに、なぜ苦しむことに疲れたかを語ってくれた。
●グアダルーペ・テペヤックで人生を切り開く●
かくして、彼女たちの半生記、グアダルーペ・テペヤックに住み着くに至った経緯
の素描が始まった。
チョレが口火を切った。「私は、ここにいるもう一人とともに、まぎれもなくグア
ダルーペの開拓者の一人だよ。最初にここにやってきたんだ。私はサンダ・イサベル
という小さな農場の出身でね。死んだ亭主が言った、そこでは食えないとね。子ども
たちが大きくなったら、どこで働くんだ、おれがどこか見つけて来てやる。私は答え
た、あんたがどこへ行こうとついて行く、なんで子どもたちと残らなければならない
のさ」
ソライダが語った。「私は最初の一団として家族と一緒に来た。ほかの兄弟たちは
あとから生まれた。よそから来たのも一人いて、死んだ父さんと一緒に担いで連れて
きた。残りの子たちはグアダルーペ・テペヤックで生まれた。家族は生きるための土
地を探したんだ。あっちには畑にして、食用のとうもろこしを植えられる山がないか
らね。父さんたちは、わずかばかりの土地を探しに行こうと考えたのさ。それで私た
ちは降りてきた。私たちは山を降りるのはいやだった、行きたくなかったんだ。とて
も暑くていられたもんじゃないと聞かされていたからね。すると死んだ父さんが言っ
た、行こうじゃないか、娘よ、ここで育っている子どもたちの働く場がないから、わ
しはあっちに行くんだ。それで私たちはこの聖なる場所に来た。いま私たちに起こっ
ていることは、あんたも知っている通りさ」
「その当時、人の住んでいる場所は一カ所しかなかった。エルアネクソ・デル・カ
ルメンだ。降りてきた者たちは掘っ立て小屋を作り、働き始めた。パトロンのいる農
場からやって来たのは、農業労働者たちだった。彼らは、使用人の仕事は農民の仕事
ではない、自分たちのために働いているのではないと考え始めたのさ。ただパトロン
のために働いているだけだとね。それで耕すためのわずかばかりの土地を探し始めた
んだ」
先住民たち、土地なし農民たち、農場にしばりつけられた者たちは、ラカンドン密
林の国有地に入植を始めた。彼らの多くは、入植する前から密林のどこかしらにエヒ
ードとしての権利書を手に入れていた。そうでない者たちは、その手続きをしながら
土地を耕していった。グアダルーペ・テペヤックに来た者たちは、なんの権利も持っ
ていなかった。ソライダとチョレの夫たちは、ほかの男たちと共に「闘争」を行わな
ければならなかった。ソライダが、一部始終を語ってくれた。
「私はエル・ポルベニールという、ペテマの近くの農場で生まれた。私の両親はパ
トロンと暮らしていた。週日はずっとパトロンのために働いて、日曜日だけが使用人
のための日だったね。両親はエヒード[共有地」を作ろうと考えて、四、五人と共に
住み始めたんだ。だけど家族が増えて、グアダルーペが大きくなった。それからもっ
と人がやって来たけど、土地所有を合法的なものとするのに政府ともめることになっ
た。私の叔父さんが土地を要求したときには、鉄砲玉をくらったよ。四二年前のこと
だ。みんなは書類を準備し始めた。以前に山を少しばかり切り開いたことがあった。
家を建てるために地ならししたのさ。それが罪になるということだった。叔父は銃で
撃たれたけど、死にはしなかった。二人の人間が刑務所に入れられた。兵士たちが来
たからひどいもんだった」
ドニャ・チョレは気丈な女性で、こんなこともまるで人事のような話ぶりだ。
「エヒードを作るのは大変だった。やって来た連邦軍が、私の夫に発砲した。どう
することもできなかった、なぜ私たちが絶望的な状態で家畜みたいにほっぽられてい
るのかわからなかった。彼らはことわりもなしに入り込んで発砲したんだ。私は息子
たちに言った、そこを動いてはいけないよ、ベッドでじっとしているんだよ、と。私
たちには何もできなかった。私はやつらを恐いとは思わなかったから言ってやったさ
、どんな令状を持って来たんだ、とね。なぜ私たちインディオをそんな風にみるのさ
、私たちに何しようってんだい。大統領邸に行けばわかるだろうよってね。でも私に
構いはしなかった。発砲したんだ。弾が亭主に当たって、それを言いにラス・マルガ
リータスに行った。それで解決がついたんだよ」
「ある仲間は、土地を開墾しようとして、刑務所に入れられた。ホセ・ビジャトロ
というパトロンがいて、その人たちが全部解決してくれた。それで、私たちは土地を
持てるようになったんだ」
女性の方が開拓には慎重で、消極的だったようである。彼女たちにとって家をあと
にすることは、なじんでいたすべてのものから離れ、両親を見捨て、怯え慄きながら
見知らぬものばかりに立ち向かわなければならないことを意味していた。
チョレとソライダもほかの女性たち同様、男についていくしかなかった。密林のと
ある場所で、気丈に悲しみをこらえながら、「聖なる地」と呼んでいたグアダルーペ
の思い出を語ってくれた。
「男たちが密林を伐採し始めた。そのわずかばかりの土地を開墾し耕すため、私た
ちは食うや食わずの生活だった。フリホーレス[豆]もコーヒーも塩さえも、何もな
しで暮らしてたんだ。あんたに言うけど、それだから、あまりにも我慢してきたから
、私はもう苦しむのはいやなんだ。苦しみは変わらないけど、もっと大きくなっている」
「夫たちが倒れ、熱にやられて死んでしまった。みんな未亡人になった。力のある
者もまだいたけど、病気が移って治す手だてはなかった」
「女と幼い子どもたちだけになってしまったが、子どもたちには親の手伝いはまだ
無理だった。それから人びとが入って来て、仲間たちが来たんだ。なかには行き場の
ない家族もいた。私たちはたしかに貧乏で、ただ何も持たずにそこにいるだけだった
。でも少なくとも土地は持っていたんだ」
「未亡人になったとき、そばに小さな農場があったから、コーヒー摘みに行ったも
んさ。そこで稼いでは子どもたちの洋服を買っていた。一荷につき二レアル支払われ
た。あの土地に住み始めたとき、たしかに私たちは苦しんだ、でも別のことが起こっ
てみて、今も苦しんでいるんだ」
ソライダは再び泣き出す。EZLN(サパティスタ民族解放軍)のコミュニケが言
うように、6万人もの政府軍部隊の駐留が、反乱の砦と見做されているグアダルーペ
に彼女が戻るのをはばんでいる。村の皆と同様ソライダも、サパティスタ運動の正し
さを一瞬たりとも疑うことはない。軍が出て行くことを求め、兵士たちが彼女や息子
たち、ひ孫たちをおびえさせているのだと断言する。
そして住み始めた頃のように、人生の試練にさらされる必要はないのだと何度とな
く繰り返すのだった。なんという苦難を経て来たことだろう。「今またとても危険な
時期で、苦しみが繰り返される。フリホーレスもコーヒーもとうもろこしもとれず、
洋服も賃金もなかった小さな土地にやってきたのは、苦しむためだったというわけさ
。植えた木がまだ小さかったから、私たちには何もなかった。服はつぎはぎだらけで
、洗っては服のほころびに同じ端切れをつけたもんさ」
この女性たちが密林の一角にやって来たときに出くわした生活環境を想像できない
者がいるだろうか? 自力で子を産み、野草ばかりでどうにか食事を作り、子どもを
背負い、肉体労働のきつさに打ちのめされている夫を助け、彼らが病気で死んでいく
のを、なすすべもなく自分たちの宇宙観とはかけ離れたところで見守らなければなら
なかったのだ。
男たちは未開の地を開拓した。彼女たちもまた、ひどい物不足をおぎなう道をさが
して、ゼロからスタートしなければならなかった。
「以前は石鹸すらなかった。アモリーオの葉と長めのさやインゲンをおけの中で粉
々にして、私たちや子どもたちの服を洗っていた、石鹸なんて全然なかったね。アモ
リーオだけだ。農場でのコーヒー摘みに行ってた頃、賃金が安かったから、五分の一
かけらさえ手に入らなかった。でもどうすることができるだろう。少しでも稼がなけ
ればならなかった、私にはまだ幼い娘と息子がいたんだ。他の人たちもそうだった。
私たちはこの聖なる地で同じように働いた。開拓しに降りてきた四人で一緒にだ。や
ってきたばかりの頃は何もなくて、本当に自分たちの運命を嘆いたもんだよ」
「私たちは台所道具も持っていなかった、あったのは土なべだけで、カップを砕い
てこなごなにし、土なべを作ったんだ……」
農場で学んだにちがいない流暢なスペイン語を話す老いた二人は、密林を開拓する
という重労働を一言で片づける。「私たちはグアダルーペ・テペヤックで人生を切り
開いたのさ」。この女性たちは、男たちと共に、産みの苦しみに耐えてそれをやりと
げた。未来にそなえた場所を切り開いたのだ。開拓という危険に挑んだのは、息子た
ちに将来を与え、もう若者になった彼らに、隷属することなく食べられるだけの土地
を残すためだった。
「テペヤックの生活を切り開いたが、そのために私らはもう充分苦しんだ。道具は
住んでいたところから持ってきたマチェーテ[山刀]があるだけだった。農場ではパ
トロンと住んでいたからね。亡くなった亭主たちは、パトロンとやっていくのをいや
がって、パトロンと離れて住める場所をさがした。それで私たちはこの聖なる地にき
たんだ。ずっとパトロンと働いて、儲けもなにもあったもんじゃなかった。亭主たち
はそうやって生きるのはつらい、住める場所を探した方がましだと考えた。私たちに
とってはもっとつらかったけどね。こうやって未亡人になってしまったんだから。亭
主たちは二人の息子を残して死んだ。私たちに子どもを残して、亭主は死んでしまっ
たんだ。それで私たちはひどく悲しんだよ。今その聖なる地に居座っているのは誰だ
い、そこで私たちはどんなに働いたことか」
チョレはいさぎいい性格で、余計な愚痴はこぼさない。ほかの四〇人の避難民とと
もに地べたで寝起きする、壁のない掘っ立て小屋で、彼女は話をこうしめくくった。
「神様が私たちにお与えになった運命は確かなものさ。私たちは人としてこの世界で
辛抱しなければいけないのだから、私たちのことで、本当に苦しまれたのは神なのだ
から……」
●エル・アラン・キナルへ●
密林の地への先住民の入植は、一九四〇年代、六〇年代、七〇年代にピークを迎え
た。今や「紛争地域」「サパティスタ地区」などと呼ばれるこの地域には、現在一五
万人以上の人びとが暮らしていると推定される。
「なぜ私らがここに来たかって? もう少し満足に食べられる土地を探しにさ。本
当に貧乏にあえいでいたからね……。それもこれも土地がなかったせいさ。十分な土
地があったなら、苦しみばかりのこの地に何をしに来るっていうんだい?」
搾取、飢え、家族を養えるだけのとうもろこしを植える土地すらないことに疲れ、
男たちは決心したのだ。「しゅうとやしゅうとめは心底悲しんだ。自分たちの娘を連
れて、誰も知らない運命に向かっていってしまうと考えたんだ。私の運命は即決だっ
た……。その日のうちに飛行機に乗ってアラン・キナル、大地の果てと呼ばれる地に
行った」(ヘスス・モラーレス・ベルヌーデス著『セレモニアル』より引用)
初期の諸困難や環境上の敵意に立ち向かうためには、入植には非常に強い結束力を
必要とする新しい村を作ることがどうしても必要だった。このプロセスで最も重要な
ことは、それを行なう者たちの克己心であり、人生のための、すべてに対する闘争で
ある。それこそが、サパティスタ民族解放軍の培養基となってきたのだ。密林にはさ
まざまな民族が集まって混合した村を作り、ツォツィル人とツェルタル人、ツェルタ
ル人とトホラバル人、チョル人とツォツィル人などの間で婚姻が結ばれるに至った…
…。こうしたカップルの間では夫の言語で会話がなされたため、多くの女性たちがバ
イリンガル[二重言語使用者]となった。
つまり「社会的に」それを強制されたわけである。 また、収穫物を売ったり自ら
の権利を有効なものにしたり、農民闘争を行なうのに役立たせるためスペイン語を学
ぶことも多かった。女性たちは、モノリンガルであれバイリンガルであれ、スペイン
語を話すことはめったにない。できるにもかかわらずそれを隠すことがめずらしくな
いのだ。トホルバル人は、農場やコミタンの谷間でラディノと契約することにもっと
も慣れた人びとであり、スペイン語を話す女性の数が一番多い。同じようにラカンド
ンに逃げ込んだ貧しい農民であるたくさんのメスティソと共存している。
密林では、一致団結して「生活を切り開く」ための共同作業をしていかなければな
らなかった。自ずと指導者となっていった多くの男たちは、いくつもの言語を話す旅
人となった。女性たちにとっては多くの場合密林もまた、人生の確固たる規律をこわ
すものであった。望んでそうしたわけではないのだが。
チアパス大学の研究者たち……ガルサ、パス、ルイスおよびカルボ、一九九三年…
…が、ラス・マルガリータス行政区のヌエボ・ウイスタンとヌエボ・マツァムにおい
て、ラカンドン国立保護区内のこの二つの飛び地に住み着いたツォツィル人とツェル
タル人の女性たちの話を聞くことに成功した。彼女たちは農場から来たのではなく、
チアパス高地からやってきたのだった。そこでの貧困は頂点に達していて、夫たちは
アシエンダで季節労働者として「契約」するしかなかった。
ヌエボ・ウイスタンとヌエボ・マツァムの女性たちが自らの過去を語っている小冊
子はまさに宝石である。それは「スコップ・アンツェティク」、つまり、「密林の女
性たちの歴史」と題されている。
グアダルーペにやってきたトホルバルの人びとの場合と同様に、よい土地に移住し
ようと夫に告げられたとき、彼女たちは反対した。
「ここの方がいいかどうかわからなかった。そんなこと知らなかったし、冷たい土
地[ティエラ・フリア]に慣れていたから、自分たちの家を離れたくなかった」
「母さんを置いていきたくない」。何人かはそう言った。
「いやよ、あっちにあるという水がこわい」
「私は行かない」。私たちはそう答えた。
でも男たちが国立保護区に行くと言い出したからには、私たちはどうしたらいいだ
ろう。
「来たくなければ、ここに残るがいいさ。夫たちはみんなそう言った。ひどい扱い
を受けながら無理矢理連れてこられた女たちもいた。実際、喜んできた女はほんの一
握りだった」
女性たちには、夫をとめることはできなかった。隷属状態におかれていた彼女たち
は、入植という冒険に参加するしかなかったのだ。
「色々なものを担いでいったもんさ、家族の多い者たちは、息子を片腕に一人、首
からもう一人担いで、少し大きくなって自分で歩ける子たちの手を引いて行ったんだ」
「私たちはサン・クリストバルまで行って、そこから車でコミタンまで行った。そ
ういう名前だそうだ。通った村の名前は偶然知っていたんだよ」
「そこでまた乗車券を買って、道がなくなるところまで旅を続けた。私たちの目的
地まではバスが通っていなかったんだ。山の中で過したけど、なんという山だったか
は知らなかった、ただ長旅だったのを覚えているよ。三、四、五日も歩き続けた(…
…)。歩きながら、女たちは遅れがちで、ほとんど迷いそうだった。ひざまでの泥で
早く歩けず、泣きながら進んだ。子どもたちは足が埋まってしまって、一歩ごとに助
けてやらなければならなかった。暑さに乾いて、死んでしまいそうな小さな心でやっ
てきたのさ。木影をさがしても役に立たなかった。世界が焼けるようだったさ(……)」
「一番つらかったのは、川に着いたときだ。こわくて泣き出したものさ。大きいし
緑色に見えたし、知らないものだったから、死んでしまうのではないか、魚に脚を食
われるのではないかと思ったんだ」
「私たちのほとんどは帰りたがったけど、それはできなかった。それで肩掛けで顔
を隠し、夫にしがみついたり、つばを飲み込んだりした。そうやって勇気を得て助か
ったのさ」
高地から密林にやってきた先住民の多くは、それまで自分たちの村を出たことがな
かった。彼らの世界は自分たちの住んでいる場所であり、せいぜいサンクリストバル
・デ・ラスカサスまでであった。そこでは気候はおだやかか少し寒いくらいだ。密林
では、奥に入るにつれて暑くなり、草木はうっそうとし、空気が変わってくる。熱い
土地[ティエラ・カリエンテ]の農場へ行くのに慣れていた男たちよりも、女性たち
の方がもっと知らないことにぶつかった。彼女たちにとって密林への旅は苦難に満ち
たものであり、心に傷をおうことも多かった。彼女たちの多くが悲しみや恐怖から病
気になった。知らないもの、想像したこともないような動物、わけのわからない物音
に満ちた敵だらけの環境に向け合わなければいけなかったというだけでなく……「チ
ャキステ[メキシコの蚊の一種]や蚊だらけだったし、ヘビやそのほか山の生き物が
恐かった」。それだけではない。社会的な問題もあった。
開拓者の妻たちは、突然親戚や隣人たちから遠く離れ、自分たちの習慣、なじんだ
風景から切り離されたのだ。自分たちの出身地から聖人を担いで密林にやってきてい
た集団もいたが、新しい村には、聖像も教会も聖なる場所もない場合がほとんどだっ
た。しかもこの風土では、彼女たちの伝統的衣装である厚手のウールスカートは息が
詰まる代物だった。だが羊も織物用の羊毛もなければ、彼女たちが薬として使える薬
草もなかったのだ。
約束の地に来てみると、彼女たちには場違いに感じられた。 「実際、もといたと
ころの方がよかったと思ったよ、あっちでは心が満ち足りていて、恐れずにどこでも
歩くことができ、好きなところに座れる。あそこには家族がいるけど、ここでは私た
ちだけだ。道路も道もなくて、とても遠くにいるのが悲しかった。だから私たちは帰
りたかった」
「お前をもといた場所に帰しはしない。ずっとここにとどまるんだ」。夫たちはそ
う答えたものさ。「私らあわれな女たちは泣く泣く残った。病気にかかった者も多か
ったし、心労のあまり死にそうになった。そんなふうに過ぎていった。私たちはあら
ゆる苦しみを耐えなければならなかった。自分たちの母親や父親、祖父たち、子ども
たちがどんな病気になったかすらわからない女たちもいた。話すこともないまま、彼
らは死んでいったのだ。というのは、私たちはたいそう遠くにいたから、冷たい土地
に残った者たちのことは、もう死んでしまったと聞かされるまで確かめることができ
なかったのだ。私たちが彼らに会うことはなかった」
【編集部の註】
以上の報告に付された訳者の解説でも、また5月24日付け朝日新聞が報じた「メ
キシコのEZ解放軍8人が23日の脱走し、当局側に武器を引き渡した。武器の代わ
りに8人の出身地への援助が約束されているという」という新聞記事でも、サパティ
スタ軍ないし共同体の内部から離脱者、脱走者が出ており、政府側に帰順している者
もいるとの記述がなされている。
メキシコの新聞では、今年に入ってからこの種の記事が散見されるようになった。
この問題については、より詳しく追究できるようであれば、次号で取り上げたい。
サパティスタ側は最近のコミュニケで何度かにわたってこれに言及している。たと
えば、四月五日付けのコミュニケでは、セマナ・サンタ(聖週間)の連休直後を意識
してか「淑女紳士諸君、休暇はどうでしたか?」とマルコスらしい気軽な調子で文章
を書き始めたあとで、「さらに五千人の離脱者があった」との報道に触れて、次のよ
うに言う。
「計算はどうなったんだっけ? EZLNのメンバーが、一〇の町村から一万五千
人から二万人ほど逃げたって? あれ? われわれは、たったの三〇〇人か五〇〇人
しかいないのではなかったっけ? たかだか四町村くらいにしかいなかったのではな
かったっけ?」。続けてマルコスが言うには、去る三月二一日サパティスタが呼びか
けた「先住民族の権利を求めて世界規模の住民投票を!」(本誌第四号参照)に応え
て、チアパスでは四六万人以上の老若男女がこれを支持した。
この注目すべき成果の意義を曇らせるために、いうところのサパティスタの「投降
」を装おうためのさまざまな準備が行なわれた。三月二九日になされた「投降」の場
合は、こうだ。前夜現地に駐留する連邦政府軍との示し合わせのうえで、ひとりの男
がサパティスタが用いているのに酷似した制服や武器をもって、密林の奥深く潜入し
た。三トン・トラックも持ち込んだ。
現地の準軍事組織MIRAで活動していた一六人は、持ち込まれていたサパティス
タ風の制服をまとい、居合わせた村・トリニダーを離れ、トラックに乗ってオコシン
ゴに向かった。そこには連邦軍兵士が待ち受けており、そこで彼らは取り調べを受け
て、「投降」が確認された。
こうしてサパティスタは結論する。1.チアパスになされている投資は、先住民族の
生活向上のためにではなく、反乱の鎮圧を目的としている。2.与党PRIの腰巾着た
ちが、チアパス州政府に渡る多大な資金の一部にでもあやかろうとして自暴自棄にす
らなるように、先住民のなかにも、後に「降伏するため」にサパティスタを装おう者
もいる。
私たちなりの方法で、次号以降も「真相」を追究したい。
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