ラカンドン 滞在記 
柴田修子
1.はじめに

 サパティスタ蜂起から早五年半。サパティスタ自治区の生活は現在どうなっているのか。私はこの夏チアパスを訪れ、ラカンドン密林の村ラ・レアリダーに一週間ほど滞在した。

 前号で報告を行った太田マルク氏に大体の様子を聞いていたが、実はチアパスに行ってみるまでラカンドン密林に本当に入れるのかよくわからない状況だった。

 ラカンドン密林のサパティスタ自治区は、公に禁止地域とされているわけではないものの、交通手段がないうえ、「政治活動を行っている」と政府にみなされる危険性があるため、外国人が個人で入ることは難しい。またサパティスタの側も、保安上の理由から当然にもチェック体制を敷いており、身元がはっきりしない者がふらりと入れる状況にはない。公式のルートを通して入るには、ジャーナリストの申請を行うか研究者の申請を行い許可を得る以外にはないのだが、私のような所属のない個人が行った場合どのようなルートがあるのかは、現地に入るまではっきりわからなかったのである。

 足がかりとして、情報提供を行っているというNGOを紹介してもらい、まずはそこを訪ねることにした。そこで初めて、「平和市民キャンプ」という制度を知り、かなりの数の外国人がこの制度のもと密林の村を訪れていることを知った。残念なことに、日本ではほとんど知られていないため、訪れる日本人はほとんどいない。そこでこの文章では、平和市民キャンプの活動がどんな目的で、どのように行なわれているかについて報告したい。行ってみたいがやり方がわからないという方がいたら、第一歩を踏み出す一助となれば幸いである。

2 平和市民キャンプについて

 平和市民キャンプとは、外国人がチアパスの状況を直接知るための、もっとも手っ取り早い手段である。これは一言でいえば外国人が村で生活し、村人に対する人権侵害が行われていないかを監視する制度だ。

 参加する外国人は、オブザーバーと呼ばれる。一九九五年二月の政府軍の軍事侵攻の後、村を追われた人々の安全な帰村を助けるためにいくつかのNGOが中心となって監視団を村に派遣したことがきっかけで始められたが、現在のような形がとられるようになったのは、九五年十一月以降のことである。

 キャンプの目的として、政府軍および準軍事組織による村への攻撃を防ぐとともに、「対話法」(サパティスタと政府が交渉に入るため一九九五年三月九日に制定された法律)の違反を報告するという二つが掲げられている。

 具体的な活動としては、村を通過する軍の行進や軍用機の飛行を記録し、報告書を作成している。大切なことは、平和市民キャンプとは、あくまでも目の前で起きていることを監視するためのものであり、決して内政干渉しないという点である。

 メキシコ政府が公認したものではなく、人権団体の呼びかけに賛同した者が自主的に行っている以上、オブザーバーという立場から逸脱することは許されない。

 さらに重要な点は、人権団体の呼びかけは、村側の要請に基づいて行われたものであるということだ。ポロ自治区の代表者は次のように語っている。「新聞でセディージョ(大統領)とラバスティダ・オチョア(元内務大臣)が、外国人は先住民をあやつって組織しにやってきていると言っているのを読んだ。

 だがそれは違う。我々が国内外の市民社会を招いたのだ。それは組織してもらうためではなく、政府が我々に対しやっていることを監視して証言してもらうためだ。政府軍や準軍事組織がわれわれを取り囲んで、脅迫や殺人をおこなう様子をだ」。

 したがって、監視活動は、村の生活を尊重し、「見守る」ことでその安全を少しでも助けることに第一の意義がある。「見守る」ことになんの効力があるのかという考え方もあるだろうが、メキシコ政府が国際世論を尊重するという立場を崩さないうちは、外国人の目は有効な手段の一つといえるだろう。

 アメリカの人権団体「グローバル・エクスチェンジ」
(http://www.globalexchange.org)によれば、平和市民キャンプの存在の有無と住民に対する暴力は相関関係にあるという。

 彼らは市民キャンプさえおかれていれば、一九九七年十二月に起こったアクテアルの虐殺は防げたかもしれないと語る。当初キャンプは、チアパス高地、パレンケ、アルタミラノを含むチアパス州全域に作られたが、人材不足のために閉鎖を余儀なくされたところも多い。

 現在は、サパティスタが「五つのアグアスカリエンテス」と呼称し、大規模な集会が行われるなど運動の中心地であるフランシスコ・ゴメス、モレリア、オベンティック、ラ・レアリダー、ロベルト・バリオスに加えて、サンホセ・デル・リオ、モイセス・ガンディ、ポロの八ヶ所にキャンプが常設されている。

 この常設キャンプを拠点として、要請があれば近隣の村に人材を送り込むこともあるという。キャンプの参加者はオブザーバーと呼ばれ、基本的には希望する場所に好きなだけ滞在することができる。

 平和市民キャンプへの橋渡しを一括して行なっているのは、エンラセ・シビル (http://www.enlacecivil.org.mx)という名のNGOである。これはチアパス先住民の人々の自立を助けることを目的として一九九六年に設立された人権団体であり、(1)病院建設、(2)各村の教育者育成、(3)有機栽培の促進、(4)避難キャンプの人権保護という四つのプロジェクトを推進しており、それと並行して平和市民キャンプに関する情報提供も行っている。

 参加希望者は、各国にあるサパティスタ支援組織もしくは連帯グループの推薦状を持ってまずこのオフィスを訪ねる必要がある。不穏な活動をする意志はないことを証明するためだ。それが受理されると、このオフィスで簡単な説明を受け、どこへ何日間行きたいかを相談する。あとは交通手段の確保さえできれば、キャンプに入ることができる。

 交通手段は場所や人数によって異なるが、ラ・レアリダーの場合、片道約千五百ペソ(二万円弱)でコンビとよばれる小型バスをチャーターすることができる。私は一八五ペソ支払って七名のイタリア人グループに同乗した。 

3 オブザーバーの生活

 サンクリストバル・デ・ラスカサスからラ・レアリダーまでは一八〇キロ程度なのだが、途中から舗装道路がなくなり、ぬかるみの密林を抜けていかなければならないため、七時間以上の道のりである。

 軍の検問を受けなければならないので、実際にはさらに時間がかかる。途中に入国管理局事務所があるのだが、オフィスが開いているのは日中のみである。

 入管とのよけいなトラブルを避けるため、ここを夜中に通過することが望ましいといわれている。私たちの場合、夜十一時半にサンクリストバル・デ・ラスカサスを出発した。午前二時半頃政府軍駐屯地に到着。

 入国管理局と違って、こちらは二十四時間待ち構えている。ここでは運転手が説明をしただけで通された。午前六時頃、軍基地に到着。

 こちらは、かつてグアダルーペ・テペヤックの村があった場所だが、一九九五年二月に侵攻して以来、政府軍はここを基地として居座り続けている。駐屯地に比べると、規模が大きい。全員がバスから降ろされ、荷物とパスポートのチェックを受ける。三十分ほどして全員のチェックが終わると、通行を許される。

 軍人の数は十二名。数人がカメラを構え、私たちに向けてシャッターを押しつづけていた。ものものしい雰囲気ではあったが、軍人が勝手に荷物をあけることはなく、所有者に開けさせるなど規律はしっかりしており、暴力的な印象はまったく受けなかった。

 午前七時半、ラ・レアリダーに到着。村の入り口で今度はサパティスタ軍のチェックを受ける。こちらは二名の男性によるパスポートチェックである。サパティスタの村ではサマータイムを採用していないため、ここで一時間時計を戻し、六時半に到着ということになる。一緒に来たイタリア人たちとはここでお別れだ。

 彼らはオブザーバーとしてではなく、村に自家発電機を作るプロジェクトのためやってきていたのだ。これはイタリアのあるNGOが行っているプロジェクトで、常時十五人前後がここで働いている。 

 オブザーバーの朝は、七時に始まる。七時半の政府軍の行進にそなえるためだ。ラ・レアリダーはさきほど述べたグアダルーペ・テペヤックとサンキンティンという二つの政府軍キャンプにはさまれたところにあり…というよりはむしろ、村をはさんでキャンプが作られたのだが「…村を二分して東西にぬける道を一日二回軍が行進するのが日課となっている。日曜日も休むことなく、毎日続けられている。これを監視し、車種や軍人の数、武器の種類を記録するのがオブザーバーの大切な仕事なのだ。

 たとえば八月五日の場合は、装甲車十五台、軍用トラック八台、ジープ二台、クレーン車一台、医療車一台。総軍人数一七〇名、うち将校十五名。散弾銃七丁、擲弾筒十三筒、ガス放射機三機。その他の携帯品としてアイスボックス、食料、背嚢、タイヤ、バケツ、ラジオ、無線機、金属ロープ、カメラ、ビデオといった具合である。

 日によって数はことなるものの、大体車輌二十五台前後が普通のようだ。カメラやビデオは、我々を撮るためのものだが、どこまでフィルムが入っているかは疑問である。

 オブザーバーを監視しているという意思表示として携帯しているようにも見えるし、入国管理局への報告に使われているという説もあるが、真相はわからない。全員で手分けして記録し、報告書を作ったあとに朝食。

 それを終えた頃に西から東へ行進した軍が東から西へと戻っていくのをチェックする時間となる。行きと帰りで行進の順番は異なることがあるが、車の数は毎回同じである。

 その報告書を作ったあとは、自由な時間となる。アルコール、武器、ドラッグを持ち込まない、決められた範囲から勝手に外に出ない、男性の写真を撮らない、それ以外の撮影は許可を得てから行う、村の生活を尊重するなどの基本規則を守れば、自由な生活を送ることができる。

 村人と話すのも自由だが、インタビューは村の代表者に書面で申し込んで許可を得なければならない。

 食事は自炊、オブザーバーたちが共同で準備する。食料は持ち込むことが原則なのだが、一ヶ月以上の長期滞在者も多く、すべて持ってくるわけにはいかない。

 そこでクッキーや米、豆類、調味料は村のなかにある小さな雑貨屋で調達する。トルティージャ、コーヒー、薪は村の人々が差し入れてくれる。野菜はほとんど手に入らないが、たまねぎやにんにくは店で手に入れることができる。購入資金は、オブザーバーが二十ペソずつ寄付したお金でまかない、足りなくなれば、そのつど二十ペソずつ足していく。新しいオブザーバーがやってきたときは、たいてい新しい食料を持ってきてくれるので、野菜ふんだんのごちそうが並ぶ。

 それが尽きるとまた単調な食事に戻るというわけだ。平均的な一日の食事は、朝がクッキーとコーヒー。昼は豆か米の煮込みとトルティージャ、コーヒー。夜にまたクッキーとコーヒーといった具合だ。水は井戸水に殺菌剤を入れたものを飲むことができるし、心配ならば店で個人的に買うこともできる。

 たいそう貧しい食生活に聞こえるかもしれないが、トルティージャは毎日食べきれないほどもらえるし、豆や米の料理も量はふんだんで、飢えを感じることはない。

 トイレは男性、女性用がそれぞれ一つずつ作られており、定期的に石灰を撒いて掃除をするので、不潔ではない。お風呂は村を流れる川ですませる。

 民家を抜けたところに、村の人々がオブザーバー用の入浴場と定めた場所があり、そこで布を巻くかTシャツを着て入ることになっている。木陰から小さな滝が流れ、泳げるくらいに深いその場所は、暑い密林での生活を快適に感じさせてくれる装置の一つだ。

 エンラセ・シビルのメルセデスによれば、キャンプは夏、冬には比較的人が多く、四、五、十、十一月にもっとも少なくなるという。

 とはいえゼロになることはなく、常設キャンプには常にだれかしら滞在しているとのことだ。私の滞在中は、入れ替わりはあったものの、常時十名程度のオブザーバーがいた。トルコ、イタリア、エルサルバドル、バスク、スイスと国籍もさまざまなら、教師、建設工、元政治囚、学生と職業もばらばらだ。

 スペイン語を話さない場合には、英語や仲間の通訳を頼りに意志の疎通をはかる。サパティスタと連帯し、自国の民主化運動に役立てたいと考えてやってきた人もいれば、研究に役立てたいと考えてきた人、誰かのために働くことで自分の休暇を有益なものにしたいと考えてきた人など、関心や目的も人さまざまである。おかげで滞在中たいくつな思いをすることはまったくなかった。

4 村人たちの生活

  ラ・レアリダーは、マルコス副司令官をはじめとする反乱軍の指揮官たちが近隣に住んでいることが公然の秘密となっており、反乱軍拠点の村として知られている。

 村の歴史は密林の他の村々と同様に比較的新しく、「寒い地」からやってきたトホラバル系先住民たちによって、約六十年前に作られた。

 現在は人口約八百人である。産業は農業のみで、とうもろこし、フリホール豆、コーヒーなどの栽培が行われている。蜂起以前、収穫されたコーヒーはラス・マルガリータスまで運ばれ、そこでIMECAFE(メキシコ・コーヒー協会)という政府機関の仲買人に売られていた。これが村にとって唯一の収入源だったが、今ではその道が絶たれてしまったため、現金収入のすべがないという。

 村の朝は早い。女性たちは、毎朝三時に起きるそうだ。二時間かけてトルティージャを作り、朝五時に起きてくる夫の朝食とお弁当の準備をする。夫は朝食後畑に出かけ、午後まで畑で過ごす。女性たちは家に残って家事をする。

 家事には炊事、洗濯、水汲み、家畜の世話、裁縫、子供の世話が含まれる。畑仕事は、よほど忙しい時期以外は男性の仕事とのことだった。十二時頃からふたたびトルティージャ作りを始める。一回にバケツ五杯分のとうもろこしをトルティージャにするのだが、水につけておいたとうもろこしを挽いて粉にするのは、重労働だ。煙の立ち込める蒸し暑い小屋のなかで、女性たちは休むことなく仕事を続ける。

 そうこうするうちに、男性たちが畑から戻り、食事の時間となる。その後は雑用をして過ごし、九時頃に就寝する。食事はトルティージャにポソル(粉にしたとうもろこしを水で溶いた飲み物)、フリホール豆、コーヒーが一般的だ。現金収入の道がないため、生活が苦しいと女性たちは語っていた。

 一見すると、村の生活は平和そのものだ。日に二回の政府軍の行進にも人々は慣れてしまったようで、軍用車が近づいてきても動じることなく道を横切っていく光景をよく目にした。日が暮れると、懐中電灯を頼りに行ったり来たりする私たちの足元を無数のホタルが照らしてくれる。これ以上ないくらいおだやかな夜である。

 それをさえぎるのは毎晩決まった時間に降り出す豪雨だが、慣れてくるとそれさえもなじみ深いものに思えてくる。

 この美しいのどかな村が、戦争状態にあることを思い出させるのは、子供たちが描く絵だけだ。村の子供たちはたいてい人懐こくて、ちょくちょくオブザーバーの溜まり場である木陰にやってきては、一緒に遊んだり話をして帰っていく。

 彼らの一番の楽しみは、絵を描くことだ。ほとんどの子供たちは覆面姿の兵士や、ヘリコプターを好んで描いている。

 五年半。つまり子供たちは人生の半分以上を戦争状態のなかで過ごしているのだ。

 軍用ヘリも飛行機も、ときおり馬でやってくるサパティスタ兵士たちも、彼らには日常の一部にすぎないという事実が目の前に突きつけられる。この村も、一九九五年二月に軍事侵攻をうけ、村人たちは山への避難を余儀なくされた経験を持つ。幸いその後帰村することができたものの、それ以来軍の行進が休むことなく続いているのだ。その記憶は大人にとっても子供にとっても簡単に消せるものではない。表面上のどかなこの村も抵抗の日々のプレッシャーははかり知れない。

 そのことを反映してか、反乱軍拠点であるこの村にも、現在三十家族ほどPRI(政府与党。事実上一党独裁体制を敷いている。彼らの政治腐敗は、サパティスタ蜂起の一要因である)派の住民が暮らしている。

 前号の太田報告にあったように、政府からの農業補助金を受け取るようになったのだ。

 彼らは共有地の利用に関する話し合いには参加するものの、サパティスタとしての活動からは排除されているとのことである。また、村の小学校ではサパティスタ派の教師が教えているため、PRI派の子供たちは通ってこない。

 ちなみに、村の教員の育成プロジェクトを担っているのは、前述のエンラセ・シビルである。それではPRI派の住民は村八分状態なのかといえば、必ずしもそうではなく、親戚としてのつき合いは続いており、村の祭りにも顔を出すとのことである。

 この村は、今のところ完全にサパティスタによる自治が行われているものの、そのなかにPRI派が共存しているところが「抵抗」を持続することの難しさを端的に示している。

 だがマルコスによれば、さらに悲惨なのはサパティスタではない村の住民たちだという。

 彼によると政府は、サパティスタ支持基盤を切り崩すためのお金は惜しまない。皮肉なことに、多くの補助金を受け取るためには、元サパティスタでなければならないのだ。しかしサパティスタでなかった村には注意が払われることはなく、補助金を受け取ることもできない。かといって、彼らは政府軍の圧力をおそれてサパティスタになることもできず、しわ寄せを一身に背負う結果となってしまっているのである。

5 オブザーバーの法的立場

 オブザーバーとして参加する場合の問題点は三つである。一つ目は、村の生活に順応できるかどうか。単調な食生活や風呂がないことを不便に感じることがなければ、まったく問題はないだろう。

 二つ目は時間的な余裕が必要であること。滞在日数は本人が決めればよいのだが、交通手段が少ないため、そう都合よく帰れるとは限らない。村から戻るには、町へ出るトラックか、村へ人を運んできたバスが町へ帰る日を待たなくてはならないのである。

 従って、帰ると決めた日から大体二、三日はずれることになる。予定がぎりぎりだと、飛行機に間に合わなくなる可能性があるので、日程に余裕のある人でないとお勧めできない。もっとも自費で車をチャーターする気があれば話は別だが。

 三つ目は、必ずしも安全が保障されているわけではない点である。今のところ、外国人に対する扱いには慎重になっているとおり、暴力事件はほとんどない。

 私が知り得た最悪のケースは、ラ・レアリダーからの帰途、メキシコ人一名と外国人二名がPRI派の暴徒に囲まれた事件である。事件のあらましは前号を参照されたい。

 そのうちの一人は私の友人で、明け方になって暴徒から解放された後彼らは私の泊まっていた部屋に飛び込んできたのだが、ひっぱられたため髪が抜け憔悴しきった表情だった。

 彼らによれば暴徒たちは殴る、蹴るといった暴行を加えることはなかったという。

 荷物の取り合いになってひきずられたのが唯一の暴力行為だったようだ。だから許されるということではないし、事件そのものには恐怖と憤りを感じるが、少なくとも外国人に対しては一定のコードが働いているようにみえる。

 外国人の場合、基本的には、起こりうる最悪の事態は「国外退去」である。平和市民キャンプが始まってから一九九八年十二月三十一日までに、三百六十五人の外国人がチアパスで国外退去を命じられている。

 オブザーバーは通常観光ビザでメキシコに滞在するため、観光以外の行動は禁止されている。「見つめること」を観光の一部としてとらえるか政治活動ととらえるかが、入国管理局と参加者との立場のちがいなのだが、その疑いをかけられた場合、立場が強いのは当然入国管理局の方であり、最悪の場合「国外退去」を命じられることになる。

 これには三つのレベルがある。一つめは憲法第三十三条に基づき、国外への退去を命じられる場合である。二つめは住民法に基づいてそれが行われる場合である。どちらも数日の期限内に国外に出なければならず、概して数年から永久の入国禁止命令を伴うのが一般的である。また根拠は内政に関わったためとされる。

 両者の違いは、前者が憲法に基づくために申し開きができないのに対し、後者は異議申し立てをすることができる点である。従って裁判で争えば、後者の場合には覆すことができる可能性がある。

 ただし、膨大な時間がかかるので、実質的には両者は同じものと考えることができる。三つめは、正確に言えば国外退去ではないが、ツーリスト・ビザを取り上げられる場合である。この場合、ビザのかわりに申請した帰国予定日までの滞在許可書をもらうことになる。これは入国禁止を伴うわけではないので、滞在予定を変更できない不便はあるものの、前の二つに比べてダメージは少ない。

 外国人の法的権利に詳しい「グローバル・エクスチェンジ」によれば、この一年は、チアパスに関心のある外国人へプレッシャーをかけ、なおかつ国際統計上記録に残らないメリットがある三つめが多用される傾向にあるとのことである。

 従って、実質的な「国外退去」を命じられる可能性は、減少しているといえるだろう。どの場合も、国外退去を求める根拠は、「政治活動にかかわった」ためとされている。これにひっかからないための最大の防御策は、入国管理局が開いている時間に「疑わしい」場所を通らないことである。

 入国管理局事務所は、本来国境付近にしか設置できないのだが、臨時に簡易事務所を設けることが法律で認められている。この「臨時事務所」が各平和キャンプの村へ入る道に設けられている。事務所はときどき場所を変えるため、正確な位置を把握するのはむずかしいが、キャンプに参加する際に説明を聞けば、だいたいの傾向をつかむことができるだろう。

6 結び

 サパティスタはたしかに「武装グループ」ではあるものの、実際に武力を行使したのは蜂起時のみである。彼らがどの程度の武器を保有しているのかは一切明らかではないが、主な武器は武装蜂起の際に兵舎や警察から「取り戻した」ものだと言われていることから推察すると、強力な軍隊であるとは考えにくい。

 それにひきかえ政府軍はチアパス全域に六万人の兵士を導入し、年間約二百万ドルをチアパスのための軍事費として使っている。それでもなおサパティスタ軍を一掃することができないのは、人々の抵抗が根強いからであるのと同時に、あからさまな軍事行動を政府が取れずにいるためである。では、なぜあからさまな軍事行動をとれないのか。

 一つには国内世論を気にかけ、二〇〇〇年の大統領選にむけて党のイメージを汚れたものにしたくないことがまず挙げられる。イメージを悪化させずに、サパティスタ軍を切り崩すために行われているのが、低強度戦争といわれる一種の嫌がらせ戦略なのだ。

 一方で政府はサパティスタを一地方のささやかな反乱として位置付けようと努めている。八月に発表された大統領教書に、チアパス問題がまったく触れられていなかったことからも、このことは明らかだが、国内世論の目を別の方へ向けようとする姿勢の表れといえるだろう。

 もう一つには、国際社会の反発を恐れていることが挙げられる。インターネットを駆使した情報戦略でたえず国際社会の注目を集めているグループが相手である以上、政府も慎重にならざるを得ない。だが政府が国際社会の一員であることを認識し、その目を気にしている限りは希望はあると私は考える。

 サパティスタの運動がどういう形の展開をみせるにせよ、人権に国境はない。

 私たちは、内政に干渉するのではなく、何が行われているかを注視していく必要がある。

 これを読んで関心をもたれた方は、ぜひ『ラカンドン』編集部へ連絡いただきたい。スペイン語が話せるかどうかは、問題ではない。多少の英語が話せれば、誰かしら通訳できる人を見つけてコミュニケーションをとることができる。一人でも多くの方の目で、チアパスの現実を見ていただきたいと望む。

 最後に、平和市民キャンプについてどう思うかという私の質問に対するマルコス副司令官の答えを紹介して結びとしたい。「平和市民キャンプは、二つの意味で重要である。一つには、メキシコ政府が国際社会に与えようとしている民主的なイメージがいかに現実と異なっているかを、キャンプに参加することによって、外国人が直接目にすることができる。もう一つは、キャンプにはさまざまな文化、考え方が出会う機会を提供できるという意味がある。

 我々サパティスタは、一つの思想、文化だけの世界はありえないと考えている。大切なことは、さまざまな文化が共存し、互いに尊重しあう姿勢である。平和市民キャンプは、それを実践する格好の場といえるだろう。また、ラ・レアリダーの人々は、市民キャンプの存在によって、安心して生活することができるという意味で、キャンプに感謝している」



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