サパティスタ密林の夜明け 第4回 |
ギオマル・ロビラ=著
柴田修子=訳・解説 |
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今回は、第六章前半部の翻訳をお届けする。この章では、一九九四年一月一日戦争宣言が発表された際に一緒に読み上げられた女性革命法の成り立ちを話の中心に据え、伝統のなかに押し込められていると思われがちな先住民女性たちが、積極的にサパティスタ運動へ参加していくさまを描いている。非常に長い章なので、後半は次回に紹介したい。
この章を読むと、反乱軍に加わっていた女性兵士たちが、女性の仲間や支持基盤を形成するために村々を回って集会を開いていた時期があることがわかる。彼女たちは各村でしだいに支持者を獲得し、組織が形成されるようになっていく。 そうして女性たちだけの集まりがもたれるようになり、そのなかから「虐げられてきた女性」としての自覚が生まれ女性のための法律を作ろうという声が出されるようになった。とはいうものの「搾取の構造」についての説明など、反乱軍の女性たちが行なっていた説明は、思想的には社会主義の影響を色濃く持っていることが読み取れる。 サパティスタの運動は、先住民運動と分類されているものの、マルコスをはじめ指導者のなかには都市出身のインテリも混じっていることは間違いないと言われている。ヌエボ・レオン大学出身者たちが中心となって一九六九年メキシコ北部のモンテレイで結成したFLN(民族解放軍)がFZLNの前身というのが通説であるが、FZLNは何もコメントしてお らず定かではない(注1)。 この夏に行なったインタビューでマルコスは、「山に入ってもう十五年以上になる」と筆者にもらしておりこの地域の農村出身でないことを暗に認めている。それでもなお先住民運動を言われているのは、運動を担っている主体が先住民だからであり、その要求がうわべの言葉ではなく彼らの歴史のなかから湧き出たものとして説得力を持っており、そのことが彼らの主体性の証明になっているからである。 先住民と都市出身者との関係について、反乱州知事をつとめたアマド・アベンダニョは興味深い考察をしている。「マルコスたちと先住民との出会いは、相互に影響力を持つものであった。マルコスたちはゲリラ活動をすることの挫折を味わい、密林の先住民たちは自分たちの闘争の限界を感じていた。そんなときに彼らは出会い、影響し合って互いが変わることで融合したのだ」つまり戦略を持つが現実に根ざした中身に欠ける者と、現実に根ざした要求を持ちながら戦略上の問題を抱えていた者との出会いの結実がサパティスタ運動ということになるだろうか。 一部で言われているように先住民が運動に取り込まれたのではなく、両者の融合という考え方がその根底にある。一つの運動をみる場合、誰の利益になっているのか、誰が動かしているのかを常に考えていく必要があることは言うまでもないだろう。もちろんそれがもっとも難しいことなのだが。 そういった意味で、今回の章は運動主体の欲するものがどのようにその運動に盛り込まれていくかが、「女性法」を作るプロセスのなかで克明に描き出されているところが面白い。なおこの章で紹介されている女性革命法は、その後も改良が続けられ、一九九六年三月、三十一か条の拡充案にまとめ直されたとのことである。 注1 Oooenheimer, Andres 1996. "Mexico: en la frontera del caos" Mexico, Javier Vergara Editor s.a. p.58 Tello Diaz, Carlos 1995. "La rebelion de Las Canadas" Mexico, Cal y Arena P62.参照 |
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先住民女性が村の仕事、ひいてはサパティスタの政治問題に参加するようになるには長い意識化の過程を必要としたが、それは今も終わっていない。その意識を一般的なものとするには、さらにゆっくりと長い年月をかけなければならない。とはいえ習慣革命の種はまかれ、いくつかの村で人々の意識のなかに実を結んでいる。EZLN女性たちは、先住民女性を立ち上がらせるべく、蟻のように粘り強く綿密に活動し。 トホラバル人で二十五歳くらいのマリベル大尉は、いかにして彼女ら若い兵士たちが「ラジオ新聞」とよばれる巧妙なやり方で、村の女性たちの意識化を進めていったかを語っている。 「私たちは司令部から、もっと女性の仲間を増やす必要があると言われた」だが山中に潜むキャンプからどこの村に出るにも、若い女性兵士たちは何日も歩かなければならなかった。つまり二週間の行程で回れるのはせいぜい三、四の村くらいで、多くの女性を集めることは期待できなかった。 「それで私たちはラジオ新聞、つまり色々なテーマについての録音を始めたの。一つのラジオ新聞は例えば土地闘争に関する記事で、土地闘争に関するすべてのことが説明されている。先住民の村では女性たちみんながスペイン語をわかるわけではないので、私たちでそれを翻訳したわ。 キャンプにはツォツィル語がしゃべれる人もいれば、ツェルタル語、トホラバル語が話せたりと色々な仲間たちがいて、私たちで記事を訳してカセットに吹き込み、それを村に送ったの。そうやって村の仲間たちは私たちの政治メッセージを聞き始めた。時が経つにつれて私たちを招く村が出てきたわ。あなたたちのことがもっと知りたいから来てとね」 当時は力を貯える時期だったため、組織は完全に地下にもぐっており、あらゆる政治活動は慎重の上にも慎重を期さなければならなかった。 「もちろんすべての仕事は私たち反乱軍兵士の手で、私たちが何者で何をしているのか悟られないように万全を期してやらなければならなかった。さまざまな口実をさがさなければならなかったわ。学生だと言ったり、神の御言葉を伝える修道女だと言ったりした。というのは神の御言葉派は搾取、不正義を扱うという意味で私たちと関係があるもの。 それから私たちは女性の仲間たちに招かれるようになって、出かけていっては彼女たちと国の状況やなぜ私たちは闘っているのか、なぜ武器を取ったかなどを話した… それが私たちの仕事のやり方だったというわけ。読み書きができないでやってくる女性たちが大半だったから読み書きを教えたり、彼女たちに理解できるように方言で政治の説明をしなければならなかったから、最初は大変だった」 女性兵士たちは、チアパス高地でも村の政治意識を高める仕事を行った。アナ・マリアが説明する。 「私たちがしたことは、村で女性たちのグループを作って共同作業をさせることだったわ。私たちのように少し進んだ段階の者たちが、少しは読み書きができるように村の女性たちにアルファベットを教えた。これは私たちが数年前からやっている仕事よ」 ツォツィル人で密林に派遣されたラウラ大尉は、四人の兄弟を失い、十一人が生き残ったと思われるがそれも確かではない。彼女は幼い頃、父親が田舎で一時的な仕事をさがしている間、一年間母親と街で暮らした経験を持つ。 村に戻ったとき、サンクリストバルで覚えた読み書きを、仕事仲間の女性たちに教えることにした。父親が彼女を励ました。「私は十四歳だった。父は私に政治のことや国がどうなっているか、なぜ私たちは貧しいのか、女性たちはどのように苦しんでいるかなどを話すようになった… 「お前自身どう苦しんでいるか気づいてごらん」といつも私に言ったわ。 ある日どうやって知ったのか知らないけど、だれも知ることのできない武装闘争があるのだと言って「どう思うかい?」と私に聞いたわ。「そう、いいと思う。でもまずはここの仲間たちともっと働かせて」と私は言った」 ラウラはほかの女性たちと一緒に野菜を栽培していた。仕事を終えた午後に、集まっては、ラウラが父親に教わった政治についての話を彼女たちにした。しだいにこのお話し会は毎週開かれるようになった。そしてみんなで次のように考えた。 「女性たちは男性に対立するようになったわ。「男たちはほとんど私たちを手伝ってくれない。私たちは子供たちの世話をしなければならなくてあっちで子どもが泣いているというのに、男は食事をとりに来るだけなんだ」私たちはたくさん議論したわ。とても小さな村だけど二十人くらい集るようになったの」 ラウラは十五歳のときに、村の生活と軍事訓練の中間形態であるサパティスタの民兵になった。そうすることで、村を捨てることも女性たちのグループを離れることもなく武装闘争を始めることができた。「父は言ったわ、こうすれば女性たちを組織しながら彼女たちと仕事を続けることができるとね。私は、そうね、それがいいと言った」 それからラウラはこの活動を広げ、より多くの女性グループと知り合うためにほかの村に行かなければならなくなった。スペイン語を教え、「たくさんのこと」を学んだ。村のためのミシンの共同購入交渉を手伝ってもらったり、どうやって進めていったらいいかの助言を受けた。 「今では多くの女性たちが夫と語り、夫に私たちが話し合ったことを言うようになった… そして彼らは家で女性たちを手伝い始めたの。もし搾取をやめさせたいなら、子どもを連れてきたり薪や水を運んだり、そういうことを手伝ってちょうだいというわけ」 |
村の女性たちがサパティスタをどう見たか |
アナ・マリアは反乱軍兵士になってから何度も村の女性たちを訪問した。武装闘争を行う女性である彼女のやり方をすべて受け入れるのは、ツォツィル人の女性たちにとって明らかにカルチャーショックだったにちがいない。
アナ・マリアは男に混じって銃を持つためにスカートや織物、子どもを捨てたのだ。彼女たちの多くは、変な目で見たはずだった。しかしアナ・マリアはそれを否定する。 「いえ、逆に好意的だったわ。そして本当に多くの女性たちが闘いに参加したがったけれど、結婚して子どももおり、子供たちを置いていくことができないためにかなわなかったの。けれどここでの闘いは、武器を取ることだけではない。村の女性たちは自分たちのグループを作り、共同作業をしたり勉強会を開いて本を通して学んでいる。それにサパティスタ軍を助けている。彼女たちの息子や兄弟、義兄弟たちが形成している軍なのだから… そして山に食料を欠かさないよう気を配っている。トスターダやピノレを作ったりポソレをこしらえたり、野菜をキャンプに届けるのは女性たちの仕事よ。分業体制ができている。若い娘たちは闘い、老いた女性たちは子どものめんどうをみるの」 ツェルタル人で二十七歳イルマ大尉にとって、村でただ一人武装闘争に加わる女性になることは、大変なことだった。 「私の友人たちはだめ、いかない方がいい、女がいくのはよくないと言った… 村では女性たちは意見を言うことも集会に参加することもできなかった、私たちは数に入っていないの。 もし私が家にいたら、私を殴ったりいじめたりする男のもとにいたでしょうね。でも今では、父親に売られたくなくて女性が男性同志と逃げることが村ではよくある」 チアパスの別の場所、密林ではトホラバル人のマリベル大尉が、当初は品行方正とはまったく逆にみられていたと説明する… 「あの女性たちはあっちの山で男と一緒だなんていううわさがたくさんあった。でも私たちは自分たち自身が体験していたから、そうではないことがよくわかっていたわ。EZLNの仲間たちの関係は、助け合い、仲間意識、尊敬なの。けれど本当に集団で住んでいるのかどうか知らない人がいるわけ。そとからそういうふうに思われていた。当時から村の多くの女性たちは、行きたければ一緒に行きましょうと私たちが誘うのを待っていた。決断したのは彼女たちよ」 マリベルは、ゲリラのような厳しい生活にどうやったら女性が耐えられるのかと結論を出す前の若い女性たちに聞かれたという。 「どうやっているのか説明してくれればいいと、彼女たちは言った。女性だからいろいろ苦労があるのは私たちにもわかる、例えば生理のときはどうするの、歩きも走りも飛び上がりもしないの? それに訓練は? 彼女たちはそうした困難を想像したの。私たちはこう言ったわ。村の苦しみ以上につらいことはない、意識的に考え決断して闘う者の困難とは比べものにならない。個人的にはそんなに難しいことはない。そういう生き方を学ぶのよとね。 私は本当にあなたたちみたいにならなければと思うと女性たちが言ったの。そうしてたくさんの女性たちが入隊したわ、EZLNの三分の一近くは女性なの。同じ必要性にせまられたから、私たちはEZLNに入隊するようになった。 搾取は男性だけでなく女性にもあるのだということを、政治そのものによって私たちは理解した。ということは女性が搾取されているなら、より公正なものを求めて闘う権利があるし義務がある。私たち女性はそうとらえた。私としてはこう理解したわ、ここで男たちとともに武器を取って、もしくは別の場でそれを支えて闘わなければならないと」 マリベルの話は、運動に対する女性たちの支持を得るために、サパティスタがどのように村に入っていったかに戻る 「私たちは女性同志たちを集めに行く必要があって、彼女たちにこう言ったの。私たちは飢死したり病気にやられる前に何かしなくてはならないから闘っているのだと。 それで私たちが政治の講義をしに行くときには、例えば衛生班の人たちが健康とは何か、村に十分な薬も医者もないときにどうやって病気がやってくるかなどを説明するわけ」 反乱軍女性兵士たちはの仕事の一つは、女性たちがグループを作るよう促すことだった。マリベルは語る。 「私たちは、女性同志たちに共同作業を学んでもらいたかった、それはとても役に立つことだから。そして少しずつ先住民女性たちの組織化が進み始めたの。初めてのことだからもちろん問題は山積みだったけど。私たちは理論的な説明を行い、彼女たちのなかに入ってやるべきことを教えた。その後彼女たちだけでどうにかやっていったわ。でも問題が起こったりどうしたらいいかわからないときには、私たちに手紙をよこしたりそれを伝言で伝えてきたりした」 モイセス少佐の右腕、マリベル大尉の指揮下にあるグアダルーペ・テペヤックでは、女性たちが大挙してやってきたジャーナリストのための共同レストランを開いた。最初は訪問者に主婦が食事を提供する家がいくつもあった。しかし外人用にあてがわれた場所に近い家だけが多くの利益を得る結果となり、この件について話し合いで取り決めがなされた。 村の女性全員が、ある者が富を得て別の者が得ないのは不公平だと判断したのだ。そして社会保険庁の病院の前の空地に特別の共同「小レストラン」を作ることを選んだ――名はソリダリダー、その後チェ・ゲバラに改称。 またたく間に調理小屋、食事客のためのテーブルと屋根ができ上がった。彼女たちは当番表を作り、全員が自分の番になればウェートレスとなって、収益を共有した。レストランの横に小さな倉庫が建てられ、共有物が保管された。そのそば、村の中心部に女性たちは土とセメントでできたかまどを持っており、一週間に一度パンが焼かれた。 小麦粉と砂糖はトラックで運ばれた。火曜日か木曜日までそれを倉庫に保管し、全員が集まって朝からパンをこねかまどに入れて、でき上がると村の全家庭に行き渡るように配った。 女性たちは満足して語った。「結束して一つになれるから、共同作業の方がいい。それに私たちの思いは行動に現われているから、だれも私たちを離すことはできない。つまり私たちの行動と思いは一致しているの」 グアダルーペ・テペヤックが軍の攻撃を前に避難行を開始し、すべての成果をあきらめたのは一九九五年二月九日以降のことだ。 反乱軍女性兵士たちが女性たちを訪問し始めたのは、村の責任者から地区、最後に地方へと広がる先住民地下革命委員会が形成されていった時期からだとマリベルは語る。この政治活動を担ったのは委員会であり、その頃には兵士たちは人々に必要とされない限り村に現われるのをやめていた。 「私はときどき出かけて行ったわ。村人たちからのご指名だと委員会のメンバーに言われてね。それならば行くけど、でもあくまで委員会の要請によってよ」 一九九五年二月メキシコ軍が進駐する直前にグアダルーペ・テペヤックで行われたインタビューで、マリベルは次のように語っている。 「リクルート活動は、家族ごとに行っていたから遅々としたものだった。村のある家族がEZLNに参加し、協力するようになる。村にすでにグループが存在している場合には、そこの責任者を選出したわ、でも男性の責任者だけでなく、女性同志の方からも選出してもらった。それで、私たちがみんなと話に来たとき、特に女性たちだけを集めて話すことができたの。そこから地域が広がって行って、地域の責任者たちを選出するようになり、その人たちが委員会を形成したわけ」 |
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EZLNの形成期に女性たちの参加をとりつけることがいかに難しかったかを語るアナ・マリア少佐の口調は率直だ。「私たちは村の仲間たちに、男たちだけでなく女性も組織化して代表となり、何かする必要があると説得したわ。というのは私たちが村に行くと、集会や私たちが行っていた勉強会にはいつも男たちしかいなかったから。女性が立ち上がり、何かする機会を作るために、私たちはずいぶん骨を折ったわ。女性たち自身に頼まれてのことよ
。「男たちが勉強したり学んだりするのに、なぜ私たちはだめなの? 私たちも自分を鍛えて、何かを学びたい。しかも反乱軍兵士をしている女性の仲間たちがいて、女性にもできるのだということを示してくれている。私たちにも機会をください」そうしてたくさんの女性が民兵となったの」 こうして徐々にEZLNの革命女性法が形成されていった。マリベル大尉がこの間の経緯と結果をあますところなく話してくれる。 「革命女性法に関する議論が始まったとき、女性たちはすでになぜ闘うのか、私たちの一般的な要求以外に必要なことは何なのかわかっていた。それが女性法の萌芽だった。仲間たちが言ったわ、私たちの村のなかにも不公平がある。金持ちの考え方が男たちに入り込んで、男たちは女を支配しようとしている。これは私たちには役に立たない考え方だとね。 それで女性同志たちが議論を始めて、村全体のための一般的な要求以外に、闘うべき多くのことがあるということになったの。 それからこう言いはじめたわ。私たちをもっと参加させるべきだ、もう学んだのだから、戦争になったらあるいはその間、終わってから何をしたらいいか、未来へ向けての私たちの要求は何かなど政治問題を集まって話し合うことができると。私たちをもっと政治に参加させてと彼女たちは言ったの。 そして村の中の女性たちだけでなく、仲間たちがいるさまざまな村が一緒になって文化行事をやるようになった。基本的にはこうした集まりは国際女性デーの三月八日に開催したわ。そこに男性同志たちも参加してくれたのは嬉しかった。 青年部も参加した。この頃、若者たちの組織化も始めていたから。十五歳から三十歳が若者だった。私たちはそれより上の人たちを年寄りと呼んだ。それで、女性たちの集まりをしたときに、もちろん自分たちの息子である若者たちが参加しているのを自分たちの目でみられるように、出し物を持った若者たちを連れてきたの。 私たちは反乱軍兵士として、地方の女性みんなと話して、こうした仕事を行った。集会では、仲間たちの各代表が闘いについての考えやなぜ闘うのかを語った。また地方、地域レベルでの共同作業の品評もした。 彼女たちは、保健を担当する仲間も必要だと言った。そして保健担当としてさらに講習を受けるようになった仲間たちが続々と現れた。民兵になったり反乱軍に参加した女性たちも多かった。ほかの女性たちは村で共同作業に従事して、いまもそこで働いているの」 マリベルは興味深い証言を続ける。 「話し合いに参加するにつれて、女性たちの政治参加の度合いが増していった。そしてとうとうこう言ったわ。今や何人子どもを持つかは私たちが言う、というか決める必要がある。私たちはもっと闘いに参加したい、指導する側になりたい、同じ給料をもらいたい… というのは今は女性労働者や教師、看護婦など必要とされている仕事をしても、女性たちは労働報酬をもらっていないのだから、それを要求しなくてはならないだろうというわけ。 というのは私たちは労働者や農民の仕事とは何か、そして工場には女性であるために給料が減らされている女性労働者もいると彼女たちに説明していたの。同じことは農場で女性たちがコーヒー摘みや混ぜ合わせに行くときにも言える。それで彼女たちは、それはおかしい、公平であるべきだと言ったの。革命女性法を作るときがきたのよ。 男性をふくまず反乱軍女性兵士だけで、この法を書いた。作ったのは先住民の村の女性たちなの。中にはスペイン語がわからなくて通訳が必要な女性も多いから、私たちが彼女たちの集会に参加することもあった。私たちがこうした集会をコーディネートして、彼女たちが書くのを手伝った。そうやって全員の要求が集められていったわ。でも一つの村や地方ではなくて、全地方の仲間たちのよ。 それからそれぞれの場所の草稿ができて、集めてはまた戻した。私たちが彼女たちに説明するときのことだった。見て、仲間たちの意見を集めて、ここに全部の法がある… そして委員会と一緒にそれぞれの段落の意味を説明した。彼女たちは言ったわ、いやここは私たちには合わないからけずるべきだ、とか、必要だから別のこれを入れるべきだとね。再び検討して、合意できないものはまた消して、新しく消したり戻したり、そうやってこの法が完成したの」 |
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1 すべての女性は、その人種、信仰、政治信条に関わらず、自らの意志と能力が決める範囲において革命闘争に参加する権利がある。 2 すべての女性は、仕事をし公正な給料を受ける権利がある。 3 すべての女性は、自らが産んで育てることのできる子どもの数を決める権利がある。 4 すべての女性は、村の問題に関わり、自由かつ民主的に選出されれば村の任務につく権利がある。 5 すべての女性とその子供たちは、健康と栄養について基本的な配慮を受ける権利がある 6 すべての女性は、教育を受ける権利がある 7 すべての女性は、自らのパートナーを選び、結婚を強制されない権利がある。 8 いかなる女性も、家族からであれ他人からであれ暴力や肉体的虐待を受けることがあってはならない。 9 すべての女性は、組織の指導部を担い、革命軍において軍の階級を持つことが可能である。 10すべての女性は、革命法および法規が定めるすべての権利と義務を持つ。 マリベル大尉がつけ加える。 「全国的にみれば、密林の仲間たちと同じ状況にいるわけではない仲間たちもいることはわかっている。だから私たちが考えているのは、ほかの場所の女性たちがこの革命法をより豊かにするべきだということなの、メキシコの女性たちのすべての要求を盛り込みたいと思っているから。ほかに必要なこともあるはずよ、たとえば看護婦、医師、教師、労働者は、それぞれ彼女たちが必要だと感じる別の要求があるにちがいないわ」 |
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マルコス副司令官によれば、「個人の利益にはつながらない共同作業の最も古い伝統は、女性からきている。その後、女性たちは共同農作業の場で、なぜ闘うのか、土地闘争とは何なのかを勉強し始めた。それで彼女たちは交替で子供のめんどうをみて、勉強ができるようにした。この共同経験が、なぜ我々が闘うのかをすぐに理解することを可能にした。それで戦闘地域のそばでそこに戦車があってさえ、「ええ、私たちはサパティスタよ」と応えられる農民女性の無頓着さが理解できるのである」
副司令官にとってEZLNの最初の蜂起は、女性たちが自らの革命法の承認をせまった一九九三年三月八日に起こった。 「まいったよ!ひどい騒ぎだった。ロマナとスサナ――二人の司令官――が各村を回った。ラモナには、開放的なツェルタルに比べて女性がより虐げられて閉鎖的なツォツィルの村々があたった。ツォツィルの女性は、男性と話さない。それでもラモナに話す役が与えられ、彼女が村を組織化して女性委員会の責任者を決めた。戦争について投票をしたとき、女性たちは言った、いいわ、戦争に行きましょう。でも私たちの法を作るのよ。そして彼女たちはそれぞれの村に帰っていった」話を続ける。 「一九九三年三月八日当日は、委員会の集まりで我々は高地にいたが、おそろしい光景だったよ、女性たち全員がいきり立っていて、男なら何かされると感じた。女性法が朗読されると、全体がざわめき出した。ツェルタルの者たちは、大騒ぎになるからここで話されていることは誰にも伝えないようにしようと、仲間たちに言っていた。 それぞれの言葉への通訳が終わると、女性たちに火がついた。彼女たちは全員、法にどう投票するか考えるテーブルの前にいて、それぞれの方言で歌を歌いだした。お祭り状態だったが、運良くだれも男たちは死んでしまえと叫び出すようなことはなかった。それから私がその法に賛成しないと言うと、私になんて叫んだことか! 彼女たちは獰猛だった!」 マルコスは、ジャーナリストのアルバロ・セペダ・ネリにあてた手紙の中で、以前のインタビューよりていねいに、この「最初の蜂起」の様子を語っている(一九九四年一月三十日付けラホルナーダ紙)。 「ツォツィル人のスサーナが怒っている。ちょっと前に先住民革命地下委員会のほかのメンバーが、一九九三年三月八日のEZLN最初の蜂起は彼女のせいだとからかったからだ。 「私は獰猛よ」と私に言う。私は岩に身を隠しながら、何が起こっているのか確かめる。「仲間たちは、私のせいで去年サパティスタが蜂起したと言う」私は慎重に近づき始める。 そして何の話をしているのかを理解した。一九九三年三月、のちに「革命法」となる事柄について仲間たちが話し合っていた。スサーナには何十もの村を回って女性のグループと話し、「女性法」になる意見を集約していた。先住民革命地下委員会が、法制定の投票のために招集され、正義、農業、戦時の義務と権利、女性に関する委員会が次々と開催された。スサーナは、何千人もの先住民女性の意見をまとめた提案を読む役だった… 読み進むにつれ、先住民革命地下委員会の集会はどんどん落ち着きをなくしていった。 ざわめきや意見を交わすが聞こえた。チョル、ツォツィル、ツェルタル、マム、ソケ、そして「スペイン語」による意見があちこちで交わされた。スサーナはひるまず、全員に対して向かっていった。 「我々は、好きではない相手との結婚を強制されないことを望む。我々は、自らが望み、育てることのできる子どもを持つことを望む。我々は村で役職につく権利を持つことを望む。我々は自らの言葉を語り、それが尊重されることを望む。我々は学び、運転手にさえなれる権利を望む」最後までその調子で進めた。 終わると重い沈黙がたちこめた。スサーナが読み終えた女性法は、先住民の村にとってはまさに革命を意味していた。男たちはいらいらと落ち着かな気に顔を見合わせた。突然ほとんど同時に通訳が終わると、責任者である女性同志たちは衝動にかられたかのように拍手喝采し、お互いに話し始めた。 とはいえ、女性法が満場一致で承認されたわけではない。ツェルタルの代表者の一人が発言した。「幸いなことに、妻はスペイン語をわからない。そうでなかったら…」歩兵隊長であるツォツィル人女性将校は「バカね。全部の言葉に訳すのに」と彼に向かって言った。同志は目を伏せた。女性代表者たちは歌いだし、男たちは頭をかきむしっていた。私は、慎重に休憩を宣言した。 スサーナが言うには、先住民たちが一月一日に蜂起を始めるという合意に達したわけがないのだから、EZLNは真正の先住民運動ではないと指摘する記事を先住民革命地下委員会の誰かが読んでいたときに、このことが起こったということだ。 誰かが冗談で、最初の蜂起は一月一日ではなく一九九三年三月だと言った。みんながスサーナをからかうと、彼女は強い調子で「あっちへ行きな、ばかやろう」とか、そのほか誰も訳せないような罵詈雑言をツォツィル語ではいた。それは本当のことだ。 EZLNの最初の蜂起は一九九三年三月のことであり、サパティスタ女性たちによって起こされたのである。一人の負傷者も出さずに勝利した。この地でのことだ」 ツォツィル人のアナ・マリア少佐は別の言い方をしている。 「女性たちの法がなかったから、私たちが抗議することでそれは生まれた。私たちがそれを作って、男も女も村の代表者全員が集まる集会で発表したの。同志がそれを読むと、誰も反対しなかった。みんな賛成して投票し、問題はなかったわ。 それを書き上げるために、村の同志たちと話をしたり彼女たちの意見、要望、法に書く必要があることを聞きに、女性兵士たちが村に出かけていったわ。それぞれの村の女性たちの意見を集めてから、読み書きできる者がそれを書いたの」 マルコス副司令官にとって、この法は本当の意味で習慣革命だった。 「程度の違いこそあれ、女性の疎外はどの民族にも見られる。しかし女性法で承認された内容は、許可を持たないカップルを刑務所に入れたり償いを受けるまでバスケットコートに縛りつけるようなことが行なわれる多くの場所では、まったく考えられないことだった。女性売買が現存し、娘が食べ物やアルコールと交換される。だが支払いができないために村から逃げ出す者もいる」 マルコスは、法が承認された後に起こったことを語る。 「あるカップルが出ていってから村でつかまって、刑務所に連れて行かれた。娘の方が抵抗して言った。「誰も私をつかまえることはできない、あなたたちはここで法に賛成したのよ、だから私は一緒に寝る男を選ぶ権利があるの」彼女は村の議会と対決し、適用しないなら何のための法かと主張したため、村は彼女を釈放せざるを得なかった。 戦争賠償は適用されないだろうと考えて承認された農業法も今問題になっている。彼女が釈放されたのは、先住民革命地下委員会のメンバーで法の存在を知っていたからだ、そうでなければ縛られていただろう」 |
深みのある変革 |
マリベルに語ってもらおう。
「EZLNが来る前は、女性の同志たちはなぐられたり好きでない誰かと結婚させられたりしたし、男たちが酔っ払うことが多いせいで、女たちは夫になたで切られないように気をつけながら、泣いて過さなければならなかった。 私たちが来てから、アルコールを禁じる法ができ始めたの、というのは一杯ひっかけてながら知っていることを広めに行くというわけにはいかないもの。 悪習は家族や村に問題を引き起こすから、そうするべきだと決められたの。私が村で見たのはそうした変化で、今では村はもっとおだやかになっているわ」 だが先住民の村の男たちや密林の農民たちにとって、女性たちの新しい役割、要求、参加を受け入れるのはたやすいことではなかった。マリベルがこう説明する。 「同志たちは、村の女性同志の政治的知識に関する変化を目の当たりにしていった。彼らには問題だったわ、というのは女性たちが自衛する術を知ってしまったから。私が行くといったら、集会に行くのよ。他の女性たちとそう決めたのだからというわけ。 腹を立てた男もいたわ、「なんでお前が。行って何をするというのだ。女というものは出かけないものだ」これが当時聞かれた文句だった。でもその後女性同志が集会の席上で、もし私たちにチャンスをくれないのなら何のための革命法かと仲間たちに言ったの。そして私たち女性は集会に参加して、村の問題を話し合う義務を持つようになったの。 そうやって、もともと少数だった彼らをほかの同志や女性たち自身が圧倒していったの。今や革命法というものが本当に遂行され始めている。男たちは不思議がっているけれどね。もう女たちを簡単になぐれなくなったし、女性が気に入らなければそれまでなのだから、父親が望む結婚を私たちに押しつけることができなくなったのだもの。 今や女性は夫を訴えることができる、起こっていることを見てくださいとか、私はそれを望んでいないとか、彼が私を殴るなどと当局に言ってね… 彼女たちはそれを声に出して言えるし、男たちを刑務所にぶち込めることもある。 女性を無理矢理引っ張ったり、乱暴しようとしたりひどく殴ったり、聞き分けがない場合には、罰として男たちが働きに行かされることもある。でもこうしたいさかいはもう家庭内ではなく、当局を介して適切に解決されるの。 以前は女性にはそんなことできなかった。女性が怒れば怒るほど、夫はいらだって彼女を殴った。今は違う、妻はこう言うわ、「あなたが改めてよ、さもなければ私は出て行く」そして彼女は出て行くの。男が彼女を好きなら、彼女を探すわ。でも反省しながらね。私はそうやって解決したケースをいくつか見たことがあるわ。 なぜなら村の夫婦関係は厳しいものなの。離婚したら女性は独りになるわけではなく、二、三人の子どもが一緒に残される。だから取り決めをしなくてはならない。もし私を置いていくのなら、あなたはこれこれのめんどうをみて、私はこの子たちの世話をする。しかも今ではそれを村中と当局が監視しているわ。 つまり問題を革命法に従って解決することを学んだの。それで女性同志たちは防衛する術を手に入れた。その術によって彼女たちは強くなったから、決してそんなことで卑しめられたりしないの。 変わってきたのはたしかだけれど、習慣は二、三日で変えられるものではないから、難しいと感じる同志もいて、数ヶ月や数年かかることもあるわ」 |
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おそらくサパティスタの闘争における女性の役割の重要性を誰もが認識しているためだろうが、毎年三月八日には密林で国際女性デーが祝われる。
目出し帽をかぶった先住民革命地下委員会のメンバーが発言した。夜はすでにふけており、サパティスタたちを偵察飛行機の目から守っている。四百人ほどの反乱軍兵士が広場に集まり、相対する二つの列を作っている。一つは男性で、もう一方は女性の列だ。周りには子どもや一般の村人たちがいた。全員が真剣に耳をかたむける。 「同志の皆さん、サパティスタ軍総司令部の名において、あいさつを読み上げます。本日三月八日、米国の工場で女性の権利を勝ち取るために組織した女性たちに敬意を表しましょう。女性もまた真の闘いのためならどんな代償を払うこともできるのだとして、我々の村のすべての女性たちはこの例を受け止めなければなりません。 今日という日に、反乱軍、民兵として名を連ねる女性同志たち、また我々の村のすべての女性たちに友愛と革命の意志をこめたあいさつを送ります(…) もう女性たちは家事にのみ、子育てにのみ、あるいはブルジョワたちが安い人手を確保するのに役立つのだと思い込むことがありませんように。一月一日の「もうたくさんだ!」は、我々の村のもっとも片隅にいる女性のもとにも届くのです」 これは一九九四年三月八日、チアパス密林のオコシンゴ渓谷で行われた式典でのある教師の言葉である。 歴史学者アンドレス・オーブリーが語るように、国際的な女性デーを利用しながらもサパティスタの女性革命はある種独特のものであり、自らの歴史過程やEZLNの思想的特徴に強く結びついている。ゆっくりとした歩みの、最も虐げられた者すなわち女性を含む解放闘争を内包する非常に特別なフェミニズムなのだ。 イルマ大尉は八日のフィエスタの席上、演説を読み上げた。 「親愛なる同志のみなさん。我々は三月八日、国際女性デーを祝うためにここに集まっています。さて皆さん、自らの権利を守るために命を捧げた女性たち、ひどい条件下であまつさえ賃金も支払われずに働いてきた工場労働の実態を知らしめた女性たちのように、闘いに立ち上がる決意をしました。(…)それゆえに今、我々の闘争に加わった農村や都市の女性同志の皆さんを招いているわけです。女性は最も搾取された存在だからです。 常に辱められるばかりだったがために、女性たちの多くは読むことも書くこともできません。全国の女性同志の皆さん、こんなことが続かないように我々は我々を理解してもらうべく、男性同志とともに武器を持って闘わなければならないのです。 女性たちも武器を手に闘うことができます。サパティスタとして我々が求めるすべてにおいて支援してくれるよう皆さんにお願いします。大変なことはわかっていますが、勝つか死ぬまで闘って成遂げなければなりません。他に方法はないのです、我々には他の道は閉ざされているのですから。我々は、我々が求めるすべてのもの、パン、民主主義、平和、独立、正義、平和、住居、健康が達成されるまで闘い続けます。これらすべてのものが我々貧しい者には欠けているからです 。それゆえ我々はいつもだまされて生きてきたのです。読むこともできず、ときには地主たちがだましていても何を言っているのかわからずにいることも多くあり、自分たちのことを良く言ってくれているのだろうと思うのです。それゆえ我々が読み書きできないというのは都合がいいわけです、こうやって簡単にだますことができるのですから。 我々はもううんざりです、いつもだれかにああしろこうしろと言われて家畜のように生きるのはたくさんです。いつの日か自由になるために、今日何をおいてもまず共に闘わなければなりません。遅かれ早かれ、我々は自由を勝ち取るでしょう、必ずや我々は勝つのです。我々が求めるものを手に入れるまで前進しましょう。以上が私の言葉です。ありがとう」 それから歌が始まった。満天の星に下弦の月、暗闇はただジャーナリストたちのわずらわしいビデオカメラの光りとカメラのフラッシュに照らされるだけだ。 調子外れの小さな声で、反乱軍女性兵士たちは恥ずかしそうに「ラテンアメリカ大地の女性賛歌」を歌った。「この地の女性たちよ進め、自由のために戦おう、帝国主義に対抗し、革命のために集まって」 三月八日、フィエスタの準備はすべて男が行なう。豚を四頭殺してさばき、調理したのは彼らだ。火をたいてトルティージャやコーヒー、米を用意するのも男性兵士たちの役目だった。マルコス副司令官は彼の詩的なたわ言のなかで、密林のうだるような暑さのせいですぐにしおれた草の束になってしまうにせよ、彼女たちのために野の花を集めてかわいい花束の武器を作るよう命じている。 マルコス副司令官は男性兵士たちを女性の前に並ばせた。そしておごそかに「国際女性デーにあたり男性同志より女性同志たちに反乱軍のあいさつをおこなう」と言った。そして「武器を前へ」「銃を肩へ」などとやったわけだ。 フィエスタは月のない真っ暗闇のなか続けられた。村の女性たちは子供たちを吊り抱いたり足元で遊ばせながら、若い女性戦士たちの話を満足げに熱心に聞いていた。 とはいえ両者の様子はまったく対照的だった。かたや民間人、カラフルな帯を巻いた伝統的な衣装を身につけ、裸足でやせ細り、母性と調理に閉じ込められてスペイン語がまったくわからない先住民女性たちだ。サパティスタ女性たちは、栄養状態もよく体の線がはっきりしており、軍靴にズボンの制服姿で武器を下げている。 しかも彼女たちは大胆かつ勇敢で、その若さにもかかわらず自分に自信を持っている。ただスペイン語を話せるだけでなく、自分で原稿を書いて、何の恥じらいも偏見もなく全員の前でそれを読み上げる。 |
人々の前で声を上げてだ。 |
密林の村でのほかのあらゆる式典同様、三月八日には踊りも欠かすわけにはいかない。電気がないので車のバッテリーにスピーカーがつながれ、使い古されたレコーダーから音楽が流れ出す。
クンビアの最初のメロディーが始まるだけで、村の独身娘たちがいっせいに踊りだしてフロアにあふれる。若者たちは彼女たちを待ち構えて一緒に踊る。体を寄せ合うどころか、決して目を合わせることもない。もう一つ深く浸透している習慣として、既婚もしくは婚約している女性は踊ることができない。 だが戦争以来、これらの村に都市からのたくさんの女性、民主主義、市民社会がやってきた。チアパスで積極的に活動した人々の大半は女性だ。一九九五年二月の軍による侵入以降の監視団やキャラバンの女の子たちは、たとえ婚約中でもペアを変えながら踊るし、そうすることを村のほかの女性たちにも勧める。 密林でも次世代には、新しいやり方の何もかもが定着するだろう。彼女たちは禁欲的な母親だけでなく、女性兵士や都会の若い娘たちを見て育つからだ。彼女たちの心には、生涯不変の伝統など入る余地はあまりないだろう。 ツェルタルの谷とラカンドン密林のトホラバル地区での踊りは似ている。反乱軍兵士の若者たちは、踊りに誘い出すべく娘たちに殺到し、既婚女性たちがそれを見ている一方で、接待役を自認する目出し帽姿の地下委員会の男たちはよそ者の女性や女同士で踊っている反乱軍兵士たちをやさしく誘い出す。 トホラバルよりも女性ゲリラの数が多いツェルタル地区では、彼女たちは笑ったり話したり、仲間に言い寄ったり追いかけたりして恋に落ちる。 イルマ大尉が、こちらもまんざらではなかったロランド少佐をものにした場面を思い出す。目だし帽姿でふざけ合って笑っていた二人。最後には見つめ合い、互いの武器をこすらせながら二人は踊っていた。 密林の踊りで、いくどとなく同じ光景が繰り返されてきた。サパティスタと村人のおなじみの光景。武器を持ったコーヒー色のシャツとカラフルな帯をつけた赤い服のペア 、コーヒー色のシャツと帽子にお下げ髪のコーヒーシャツのペア…そして武器、武器、武器。どんな組み合わせも可能なのだ。 |
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