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社会思想史学会 第35回大会 セッションK
2010年10月24日(日曜)10:00〜12:00
@神奈川大学横浜キャンパス23号館203教室
沖縄の〈現在〉を思想史からとらえかえす
――歴史、現在、そして新たなる世界史へ――
世話人:森宣雄(聖トマス大学)
報告者:長元朝浩(沖縄タイムス)
討論者:崎山政毅(立命館大学)、冨山一郎(大阪大学)
セッション趣旨:
米軍普天間基地移設問題をめぐって、いくつもの問題があらわになった。国家の安全保障・防衛問題(官僚支配)、沖縄にたいする(構造的)差別、米日が補完しあう帝国支配問題など。
投票による政権交代でもダメなら暴力、独立、世界革命しかないのか、といった声が力を増すだろう。しかしそれは、80年前の青年将校や40年前の新左翼党派の運動と同じ道をたどるのではないか。
正しい運動論、正しい歴史認識、正しい告発と連帯とは何か、私たちは探している。だが唯一の正しい何かを選び出し、強要することでは解決しえないものがあることを、歴史は告げている。
怒りを放さず、生身であることも手放さず、希望を地上につないで軍事暴力をこえる力の在りかをさぐるため、本セッションでは、40年前の「沖縄闘争」、南米における長く厳しいアメリカ支配への抵抗、世界にひろがる多様な抵抗など、現在につらなるさまざまな視点から、沖縄―日本関係の過去と現在を思想史の課題として討議し、未来の展望にかんする論議への糸口としたい。
プログラム:
1 森(司会)「問題設定」(15分)
2 長元「報告」(30分)
3 崎山「討論発言1」(10分)
4 冨山「討議発言2」(10分)
―休憩・質問用紙回収―(10分)
5 全体討論(45分)
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問題設定「沖縄の日本国政参加40年と世界、未来」
森宣雄
アフガニスタン、イラクでアメリカの軍事活動がつづくさなか、2009〜10年にかけて米日の政権交代のなかで浮上した、在沖縄米軍の県外移設問題は、民主党(日本)政権による対米依存外交の再確認というかたちで、政権レベルでは決着づけられつつある。だが沖縄の世論は、日米両国政府の対沖縄政策のほころびを見すごすことはなく、県内移設反対の声は依然として大きい。そのなかで、沖縄ないし琉球の「自己決定権」の樹立、獲得をめざす論議も起こっている。
今年11月15日は、沖縄を米軍政下から日本統治下に統合する国政参加選挙が実施されて40年にあたる。この選挙は「日本国民たる沖縄住民の意思をわが国のあらゆる施策に反映させるため」、とくに日米両政府の沖縄返還協定の審議のために、特別立法措置によって実施されたものだった。だが衆参あわせて743人の国会議員のなかに7人の沖縄選出議員が入ったところで、「沖縄住民の意思」が反映されるべくもなく、実際、返還協定は、沖縄選出議員が総括質問に登壇するのを待つまでもなく、政府与党、自民党の強行採決で批准された。
あれから40年、政府与党は自民党政治を否定する民主党へと替わったが、日本の国政が多数決原理にもとづいて「日本国民たる沖縄住民の意思」を否定するものであることは変わらない。
本セッションでは、現在の米日沖関係の構造が定められてから40年、この間に、なにがどう変わり、またはつづいているのか、いくつかの視点から検討し、討議の場をひらいていく。
まず、歴史と現在を架橋するため、40年前の国政参加選挙にたいする批判と抵抗の運動のなかで書かれ、いまもなお、あるいはいまこそ、読まれるべき意味をもつテキストを、簡単ながら紹介したい。参考資料とした、離島社の討議資料、宮城島明『何故 沖縄人か』を参照いただきたい。若干読み取りにくい部分をもつが、この論文の主旨を一言、引用すれば、こうである。
「沖縄人プロレタリアートとは、今日まで蓄積されてきている日本人、「沖縄人」の相共存する構造を、思想的、政治的に破砕するものとして位置づけられるのである。/<ヤマトゥンチュに負けるな>云々と主張する言葉は全て「沖縄人」の言葉であり、沖縄の解放闘争の主体とは無縁な存在の人達である。このような言葉は、沖縄エゴイズムであり、本土エゴイズムに対置したところでの内容でしかない」。
ここでいわれる「沖縄人」(おきなわじん)とは、日本・日本国家権力によって名指された被差別的主体(他称)であり、そこから反転して、日本・日本国家権力を「裏返し」た主体として、「ヤマトゥンチュに負けるな」と集団意識を確立する主体である。この「沖縄人」は「醜い日本人」を糾弾するが、そうするなかで「沖縄の矛盾を日本の矛盾にのみ規定し」てしまう。そのため、「沖縄問題がアジアの矛盾」であり、沖縄は「<沖縄対アジア>の関係で云えば加害者」にもなり、日本人と「沖縄人」の関係が「二重、三重の矛盾として共存する歴史」、問題発生の全体構造を見失い、日本・沖縄の一国的で出口のないエゴイズムの対抗あるいは補完関係のなかに自己を埋没させていくことになると論じられる。
この「日本人、「沖縄人」の相共存する構造を、思想的、政治的に破砕する」過程的な主体意識として設定されているのが「沖縄人(ウチナァーンチュ)プロレタリアート」である。「ウチナァーンチュ」とは、同じ論者の別論稿から引用すれば、「第二次大戦下での日本軍との攻防のなかで芽ばえ、米軍という異民族支配の下で形成されてきた」共同意識であり、たとえばコザ暴動に参加した「右翼といわれるAサイン業者たち」もふくめ、「あの暴動に参加した誰しもが沖縄人(ウチナーンチュ)という言葉を口走った」ように、口頭でのみ表明される、いわば自称としての主体意識である(松島朝義「沖縄解放とウチナーンチュ」『情況』1971年12月号)。
この主体意識は、日本国家権力と(在日)「沖縄人」のあいだの一国的二項対立の論理で成立しているのでなく、沖縄が世界大戦と冷戦をくぐるなかで、またアジアにおける帝国主義・世界資本主義をめぐる「世界階級情勢の矛盾」のなかで形成されてきた、(擬似)民族的意識であるとされる。そしてその成立基盤にある矛盾のアジア性・世界性の文脈のひろがりゆえに、「必然的に普遍的なアジア性、世界性を獲得する」べく、沖縄人としての自己意識・民族性を、<世界民族><世界プロレタリアート>の「世界革命に向けて……垂直に飛翔」させるのだとされた。
さて、いわゆる沖縄問題の国政的解決の限界に直面したとき、以上のような議論が40年前に提起されていた。この議論は、ベトナム戦争の戦場と軍事的に隣接した街、コザで多様な反戦運動を展開した、沖縄中部地区反戦青年委員会(中部反戦)での活動経験・討論をもとに提起されていた。中部反戦は、ここではくわしい検討を省くが、国家と資本主義によって付与された国民や民族、階級、職種などの存在規定や、国家に対抗するために立てられる党派性のいずれも超越した地平で、戦争に抗する開かれた連帯を追求し、国政参加拒否運動、軍雇用員大量解雇撤回闘争、石油基地化反対運動、反戦米兵との連帯運動などを展開した。公務員、教員、大学生、高校生、バスガイドや保育士など劇団メンバー、牧師、日本本土の大学の科学者や学生運動グループ、アメリカ人反戦活動家、そしていわゆるルンペン・プロレタリアートと呼ばれるコザの街の定職をもたない者など、多様な人間が自由に出入りし、基地の街コザで国家の戦争に抗し生存を求めるという渇望のもとに、結集―遊撃していく運動体として、1970年前後のコザにあらわれた。
この党派的組織性をもたぬ自然発生的な運動体という性格は、中部反戦にのみ特徴的なものではなく、戦後沖縄における大衆的な抵抗運動の歴史に、1949年の人民戦線運動、56年の島ぐるみ闘争の背後にあった沖縄非合法共産党、67年の教公二法闘争、70年のコザ暴動などにも底流的に見いだされる特徴であった。そしてそれは、近年、1995年、2007、09、10年と、党派的組織性をこえたところで大規模につづけられてきた県民大会のなかにも、引き継がれているようにも見える。
ウチナーンチュとしての自己意識・民族性は、国家権力に対抗するために、国家の似姿としての党派的組織性や権力性によって自己をかたどるまでもなく、旗も歌も武器ももたず、歴史性と思想性を宿した身体性の自由な結集において、国家をもたずに世界につながる「世界革命に向けて自己を垂直に飛翔」させてきたといえるのだろうか(森宣雄『地のなかの革命』現代企画室、2010年、53頁)。いずれにせよ、戦後沖縄が日本の国政に参加してから40年、その歩みを振り返り、また、沖縄の戦後65年を、世界の資本主義―帝国主義の現代史において捉えなおし、そして未来を展望していく必要がある。
このため、本セッションでは、これから長元朝浩氏にこの40年間の沖縄の歩みを、ご自身のジャーナリスト・論説執筆者としての経験に照らしつつ報告いただき、これにたいして崎山政毅氏には世界の資本主義―帝国主義の文脈から、冨山一郎氏には現代沖縄の歴史経験と思想の文脈から、コメントをいただき、討議の場をひらいていくことにしたい。
【参考】宮城島明「何故 沖縄人か」(抜粋・PDF)
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