時代は変わった、ラパスでウカマウ上映会とは!
太田昌国
ラパスに住む日本の友人たちの手によって、ウカマウ映画の上映が企画されている。しかも、会場はウカマウのスタジオだという。時代の変化をつくづくと感じる。その変化の意味を書いておこう。
私たちが日本でウカマウ集団の映画の自主上を始めたのは、1980年のことだった。25年前のことである。1970年代半ば、私はパートナーの唐澤秀子と共にラテンアメリカ各地を放浪していたが、エクアドルにいた75年に、ウカマウの映画と、次いで監督のホルヘ・サンヒネスやプロデューサーの故ベアトリス・パラシオスと出会ったのだった。
ホルヘたちは軍事政権下のボリビアを離れて他国に亡命していた。ボリビアにいてウカマウ映画のフィルムを持っている人は、それを理由に逮捕されるような時代だった。歴代のボリビア支配層の圧政と、背後にいる米国の横暴とを、鋭く批判的に描いている作品が多かったからだ。今まで日本では観たことのない、何か大事なことが、独自の技法で描かれている映画だと思い、帰国後に日本公開の可能性を探ろうとホルヘたちと約束した。
配給会社の知人と相談すると、商業的公開の展望はゼロだった。知られざる小国、無名の監督、内容の政治・社会性――どれひとつとして「有利な」点はなかった。当時の日本に、第三世界の映画を公開できる可能性はほとんどなかったのである。止むを得ず、自主上映の形をとった。
予想以上に、反響は大きかった。大勢の人びとが上映会場に詰めかけ、新聞・雑誌などのメディアには、好意的な紹介記事が数多く載った。全国各地にある映画上映グループや学生、市民団体が次々と自主上映の名乗りを挙げてくれた。
観客がアンケートに書いた感想や製作者へのメッセージは翻訳してウカマウに伝えた。上映収入は、最低限の必要経費を除いて出来る限りウカマウに送った。作品の、単なる受け手に終わることのない、相互交通的な関係を作りたかったからだ。ウカマウの映画それ自体が、そのことを要求しているように思えた。
この間には、日本側の私たちが共同製作者として名前を連ねる作品も生まれた。5年前にはホルヘ・サンヒネスを日本に招き、各地で上映・討論会を開いた。ウカマウが優れていると認めた日本製の映像機材を何度も送った。
私たちはこの25年間で、ウカマウの全作品(短編2作品、長編9作品)を上映してきたが、観客数は延べ7万人を越えた。そして今回は、他ならぬラパスでの上映会である。ボリビアで仕事をしている人、旅行者――いろいろな人びとがそこに集い、ボリビアの人びと、その文化・歴史・風土との、またとない出会いの機会として生かして欲しい、とはるか遠くから希望している。 |