■図書新聞 3367号 2018年9月15日 評者:江口佳子(常葉大学外国語学部講師・ブラジル現代文学)
■Latinaラティーナ 2018年7月号 評者:岸和田 仁
■出版ニュース 2018年7月中旬号
■読売新聞 2018年6月13日 評者:松本良一
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図書新聞 3367号 2018年9月15日 評者:江口佳子(常葉大学外国語学部講師・ブラジル現代文学)
イタリアのネオレアリズモ、ブラジルのシネマ・ノーヴォ、フランスのヌーヴェル・ヴァーグ。三つの映画運動はともに、“新しい映画”を作り出そうとする映画製作者の精神の結実であり、ドラマ性を帯びた商業映画を排し、現実社会に批判的に向き合い、ドキュメンタリー的な手法で映画を製作したという共通点がある。その中でも特に、シネマ・ノーヴォはブラジル国内の構造的問題に深く切り込もうとした点において、他二つの映画運動とは異なる色彩を放っていた。
ブラジル映画論の講義録である本書は、穏やかであるが、躍動感に溢れる語り口で綴られ、著者と一緒に映画を鑑賞しているかのような贅沢な時間を与えてくれる。著者は「あとがき」で、「「映画」というスタイルと表象のなかに集団的・因習的な意思を表明してゆくときの情熱とエネルギー」があり、「民衆の文化的表現を牽引」した作品を論じたと述べている。本書は顕学の著者によるブラジル映画論であるため、評者の拙い言葉で総論するよりも、本書を読んで気付かされるブラジル映画の持つエネルギーについて、映画作家の“ずらし(脱中心化や転倒)”の精神から論評してみたい。
ブラジルはポルトガルによる植民地支配が約300年間続き、1822年に政治的独立を果たすも、本物の西欧ではないという劣等感が支配者層にはあったため、模倣によって、できるだけ西欧に接近しようとした。しかし後には、「傍ら」から世界を捉えることで、新たな見方を創造せんとする反骨の精神も芽生えた。ブラジルでの価値観の転機は、文化的独立を志向した1920年代初めの文学や絵画の分野を中心とした文化運動モデルニズモであった。この文芸思潮については、本書の第九章に詳細な説明がある。その精神が映画の分野で萌芽したのは、ウンベルト・マウロ監督の『ブラジルの発見』(1937年)であったことを本書で指摘している。この時期は、ジェトゥリオ・ヴァルガス大統領がブラジルを欧米列強に匹敵する近代国家にしようと、ブラジリダージ(ブラジル的民族中心主義)を国民に定着させようとした時期である。マウロ監督は、1500年のブラジル発見の公的記録とされるペロ・ヴァス・デ・カミーニャの書簡を基に、ブラジル建国の歴史認識について問い直した。国家が近代化を標榜している時に、時間を過去にずらして、「ブラジルとは何か」と問題提起したのである。
シネマ・ノーヴォの時代は、ジュセリーノ・クビシェッキ大統領と軍事政権期の開発主義政策により、ブラジルが急速な経済成長を遂げる一方で、国民の大半が貧困層として取り残された。それらを背景に、シネマ・ノーヴォの監督は、様々な要素を“ずらし”ている。本書がとりあげた、ネルソン・ペレイラ・ドス・サントス、グラウベル・ローシャ、ジョアキン・ペドロ・ジ・アンドラージ、カルロス・ディエギスの作品では〈セルタン(北東部の半乾燥地帯)〉、〈アマゾン〉、〈キロンボ(黒人の逃亡奴隷たちの共同体)〉、〈ファヴェーラ(都市部の貧困地区)〉が映画の舞台となっている。これらはいずれも社会の周縁部であり、周縁部からとらえた視点で、貧困や搾取といった社会問題に切り込んだのである。さらに、『黒い神と白い悪魔』(1964年)でローシャ監督は<セルタン>における権力者と狂信的神父と匪賊の間で揺れ動く“正義の軸”をずらし、『マクナイーマ』(1969年)のペドロ・ジ・アンドラージ監督は人種・善悪・貧富の日常的な価値観のずらしを画策した。こうした手法により、シネマ・ノーヴォの作品は、軍事政権下の圧政や言論統制で一元化した思考回路に一石を投じたのである。
ブラジル映画作家による“ずらし”の技法は、時の政治・社会のイデオロギーや風潮に組み込まれたり、流されたりしないための抵抗の精神である。これら作家の信念に基づいた作品は、観る者にとって、時に難解であり、相応の忍耐とエネルギーを必要とするが、本書が心地よく伴走してくれるであろう。
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Latinaラティーナ 2018年7月号
この分厚くて(477頁!)、とてつもなく刺激的な映画史エッセイ集を読み終えた時、評者が図らずも思い出したのが、ブラジル日系文学史の記念碑的研究書、細川周平著『日系ブラジル移民文学 日本語の長い旅』(二巻合計で1650頁!)であった。何故か。それは、著者が、自分は、文学(ないし映画)研究を専門としない“素人”だが、といいつつ、凄まじい知的好奇心を発揮しながら、既成アカデミズムのハードルを軽々と超えて、対象(日系文学ないしブラジル映画)を深く読み込んで百科全書的な労作を書き上げた、という点でどちらも共通しているからだ。
本書を上梓するのは、「ひとえに読者とともに、《ブラジル映画》という楽しみと喜びの源泉へと旅してみたいという素朴な衝動によるものである。」と、あとがきに記した著者の基本姿勢は「映画を楽しむことを第一とするシネフィル(映画愛好家)の立場である」が、これほどまで深く鑑賞され愛好されれば「ブラジル映画」も幸せだろう、と思わせる映画史講話に仕上がっている。
まず取り上げられたのは、マルセル・カミュ監督の『黒いオルフェ』、いうまでもなく1959年のカンヌ映画祭でパルム・ドールを獲得した、知名度の高い作品だが、主演女優マルペッサ・ドーンがアフリカ系米国人で、ポルトガル語吹き替え声優の人選ミス(パウリスタ!)もあって、ブラジル国内では、「ヴィニシウスの原作とは全く別物の欧米植民地主義映画でしかない」との評価を下されたのだ。こうした問題点やグラウベル・ローシャの激烈な批判にも目配りしつつ、この映画が持つ長所や美点を冷静に見ていく著者は、始まりの「黒人映画」として再評価する。
さらに論じられているのは、『ブラジルの発見』、『限界』、『すべて真実』、『バナナこそわが職務』、『リオ40度』、『黒い神と白い悪魔』、『アントニオ・ダス・モルテス』、『マクナイーマ』、『私が食べたフランス人』、『イラセマ』、『バイバイ・ブラジル』、『キロンボ』であるが、本書のサブタイトルが「混血する大地の美学」となっているように、ブラジル映画のアイデンティティは「ブラジル的混血性」に存する、という基本視角で一貫している。ブラジル映画という素材ないし一次史料を“料理”すると、こんな“五目寿司に仕上がるのだ。
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出版ニュース 2018年7月中旬号
連続講座によるブラジル映画入門ガイド。入口は有名な『黒いオルフェ』(59年、監督はフランス人のマルセル・カミュ)。1960年代の生きる場からの社会変革を目指したシネマ・ヌーヴォ運動の頂点をなす作品グラウベル・ローシャ監督の『黒い神と白い悪魔』(64年)と、同監督の『アントニオ・ダス・モルテス』(69年)を経て、人種的境界を越えた抵抗精神の在処を描くカルロス・ディエギス監督の『キロンボ』(84年)まで〈ブラジルという風土と社会とそこに生きる人間たちに向けて突き付けられた強固な思想的内実と表現の主体性をともなった作品群〉の系譜が鮮やかに見えてくる。
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読売新聞 2018年6月13日 評者:松本良一
南米の大国に花開いた独自の映画文化、その多彩な魅力が鮮やかに切り取られている。1930〜80年代に作られた13本の映画から読み解く異色のブラジル論。
かの地を愛する文化人類学者で映画愛好家の著者は、リオのカーニバルを舞台に男女の悲恋を描いた59年の名作「黒いオルフェ」を様々な視点から読み解く。黒人を中心とした民衆文化、フランス人監督による外部の視点、ギリシャ悲劇を下敷きにした神話的イメージ。通俗的な異国趣味とは一線を画した、多文化が混交するブラジルのリアルな姿が浮かび上がる。
祝祭的なダイナミズムや洗練されたボサノバの調べに秘められた光と影。「社会・文化の表象の産物」としてブラジル映画を鑑賞する楽しみを教えてくれる。金子遊編集。(良)
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