■中外日報 2017年4月7日
■THE JOURNAL OF SURVEY 測量 2017年12月
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THE JOURNAL OF SURVEY 測量 2017年12月 評者:三浦基弘
行基(668-749)は15歳で出家し、布教と共に貧しい人々を助けるため治水工事や橋を架けるなどの社会事業も行った。しかし、朝廷から民衆を惑わす私度僧(しどそう、国が認めていない僧侶)だと弾圧を受けた。この時代の僧侶は税の負担を免除。行基を僧侶として認めれば、引き連れている多くの弟子も僧侶として認めなければならず、国の収入が減ってしまうことを朝廷が恐れたためである。
そこで、聖武天皇が、「皆が幸せになるために毎日3回大仏を拝み感謝の気持ちを忘れないでほしい」という願いを込めて大仏造立を決意。しかし、人手が足りず、大仏造立が遅々として進まなかった。そこで人望のある行基に要請。この頃行基は、僧尼令によって自身の布教活動や慈善事業を弾圧されていたが、聖人の心を持っている行基はこの大仏造立の要請を受けた。その他全国にわたり開基した寺院道場は約700におよぶといわれている。一方民生社会事業としても実践主義に徹し、庶民を教化し人のために橋をかけ、堤を築き、池を掘り、日本最初の孤児院や日本地図を作った。
著者は河川行政を手掛けた技術官僚。河川に焦点を当て、技術者の視点で、奈良時代の土木事業を鳥瞰。日本最古のダム、狭山池の改修は、単なる堤の嵩上げでなく、水源を付け替え、貯水量を増やした工事ではなかったかと考察。淀川流域に開鑿した4本の堀川は洪水時の放水路と推察。1300年前の地域総合整備事業ではなかったかと力説。これを実現できたのは、長屋王の後ろ盾があったのではなかったかと洞察している。 -----------------------------------------------------------------------------------------------------------------
中外日報 2017年4月7日
〈元河川局長が土木・治水を考察〉
寺大工の家に生まれた元建設省河川局長が、土木と治水の観点から著した行基論。
『行基年譜』には、架橋、道路整備、池・溝・港の築造など、業績が詳細に記録されているが、多くが水に関わる工事だと指摘。河川の専門家として、川幅の大きさなどから各事業の意図がよく分かるという。ただ大阪湾に注ぐ淀川の治水計画など、とても民間団体でできる規模ではなく、政府との関係があったはずだと考察を進める。
そこで本来の所轄地域を超えた大事業を推進できる役人を検討したところ、百万町歩開墾計画などです殿開発を図った左大臣長屋王に行き着く。記録がないのは長屋王が自害した729年の政変で抹消されたためとみる。
しかし、様々な符合が残り、例えば朝廷は行基を念頭に僧尼令違反を数度糾弾するが、長屋王政権では追求があいまいになっていると指摘。また行基は20年以上、毎年1カ寺を起工していたが、政変前後2年間だけは中断しており、影響があったと考察する。
さらに長屋王邸一帯で発見された物と同式の瓦が行基創建とみられる追分廃寺(奈良市大和田町)で出土し、行基は長屋王と私的な関係があったとの先行研究を引用する。
狭山池や久米田池などの事業計画の復元考察や、行基の先見性の指摘も興味深い。
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