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図書新聞 10月18日 評者:清原悠(社会学)
北海道新聞 2014年9月7日 評者:野中章弘(ジャーナリスト)
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図書新聞 10月18日 評者:清原悠(社会学)

〈人間の「消去」に立ち向かう〉

誰でも一度は聞いたことがあるかもしれない「名句」がある。「一人の人間の死は悲劇だが、百万人の死はもはや統計だ」。この言葉は、大量殺戮を生み出した全体主義の特徴を言い当てるものとして繰り返し参照されるものである。斯かる言葉は、大きな統計的数字として扱われる場合、たとえ一人の人間の死といえども、想像力を超えた単なる抽象となってしまう事態を暗示しているのである。

しかし、そのような大きな統計的「死」も、実際にはそこに手を下した人がいるのであり、犠牲となった一人一人がいる。一人の生を奪うことなしに、百万人の命を奪うことは決してできない。だからこそ、どのように人が人を殺していくことが可能になるのか、その細部を、その状況を、そのメカニズムを明らかにすることに私たちは拘らなければならない。それこそが人が殺されること、そして殺されたこと自体が歴史から抹消される「消去」に抗うことなのだ。

本書の第一の著者であるリティ・パニュは、1975年から1979年までのポル・ポト体制のカンボジア(クメール・ルージュ)における百七十万人の虐殺から奇跡的に生き延びた人であり、クメール・ルージュについての映画作家として世界的に著名な人物である。僅か三人しか生き延びる者がいなかった政治犯収容所を扱った映画『S21 クメール・ルージュの虐殺者たち』では、元拷問官たちと生存者をかつてS21だった場所で引き合わせ、当時の状況を徹底して再現させる。出来事をつくるのではなく、状況をつくり、再現させるのが彼の手法だ。必要なら10回でも20回でも同じ質問をする。そうすると細部が現れ、矛盾や新たな真実が見えてくる。彼らの沈黙、彼らの顔、彼らのしぐさを取ったこの映画は、ナチスのジェノサイドを扱った映画『ショア』(クロード・ランズマン監督)にも匹敵するものとして知られている。

また、今年7月に本邦で公開された最新作『消えた画―クメール・ルージュの真実』ではカンヌ映画祭「ある視点部門グランプリ」を受賞している。本書はその「消えた画」のもととなった著作であり、彼が少年期に体験したクメール・ルージュの記憶を初めて語った作品である。彼の少年期の体験から明らかにになるクメール・ルージュの真実とは、名前を取り上げられ、文字・文明が奪われた世界―眼鏡は破壊され、医者は殺され、学校も紙幣も恋愛も機械も廃止された世界の「創造」である。そこでは個性は「消去」され、オンカーと呼ばれた組織へ溶け込むことだけが称揚される。オンカーが決めた男女がつがいとなり、夫婦の営みを持っているかまでも監視される。「消えた画」の文字通り「色」のない世界であった。本書を映画化した『消えた画』は、被害者たちの血がしみ込んだ大地の土でできた人形を使い、言葉を奪われた被害者たちがクメール・ルージュ以前にもっていた豊かな世界を「箱庭療法」のように再生する試みである。悪に人々の美しい思い出までも支配させないために。

もう一つ本書で基軸となっているのは、拷問・処刑施設S21の元所長であったドッチとの対決である。ドッチに数百時間インタヴューをし、ドッチとの対話=対決を描く狭間に、パニュのクメール・ルージュについての記憶が差し込まれる形で本書は書かれている。このような構成のために、本書には目次がない。それは「一本の映画を観るように読んでほしいから、あえて章立てをしなかった」のだとパニュは語る。これは本書のなかでドッチとの対話=対決にも関わる重要な点である。殺された犠牲者は話せない。しかし「加害者は話す。休みなく話す。付け加え、消し、修正する」すなわち「加害者は話の中に立てこもる」のである。だからこそ、パニュはドッチに証拠を突きつけ、映像に対峙させるのである。ドッチは映画を知らなかった、それが彼の弱点である。パニュは、最も取るに足りない細部に入っていき、すべてを確かめ、編集でドッチの「語り」に含まれる嘘に対抗するのだ。パニュはこう述べている。「誰もドッチの代りにはなれない」「彼が殺人マシーンの歯車の一つに過ぎなかったなどと、誰が信じるだろうか」。悪の凡庸さは、個人の罪を免責しない。

本書で明らかにされていることの一つは、言葉を持っているのはオンカーだけであり、S21に入れられた人々は例外なくオンカーへの裏切りについての自白を強要されたということだ。極めて奇妙なのは、自白がなされるまで「囚人」は殺されないことである。そして、定められた拷問の形式が守れない拷問官もまた殺されたことである。「もし囚人が死んだら、資料を失ってしまう」「いずれにせよ死を免れないこうした場所では、拷問を政治化する必要がある」とドッチは述べる。拷問は政治化され、その手続きを基に作成された自白書(KGB/CIA/ベトナムの工作員という定型のストーリー)が求められた。自白書が完成されて初めて「囚人」は殺される。これは個人から固有の歴史=「文字」を取り上げて、人間をモノにする手続きなのであろう。ドッチの命令書には囚人を「粉砕せよ」(=殺せ)、「活用のために保存」(生かしておけ)と記されていた。

ところで、なぜ映画監督であるパニュが著作も著すのであろうか。映画を観るよりも省察のために詩を読むことが多いというパニュは、次のように語る。「正しい言葉を見つけることは、美しく、強い。それは文学の力だ。一方、話していた人が突然、わきあがる感情で黙り込む、その美しい沈黙は文章では表せない」。人間一人ひとりの固有性を追求することで他者とつながろうとするパニュの試みに、文字と文化を信じる読者諸氏にも触れてほしい。

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北海道新聞 2014年9月7日 評者:野中章弘(ジャーナリスト)

「クメール・ルージュ(ポル・ポト派)とは消去です。人間には何の権利もありません」。1970年代後半、カンボジアを支配したポト派の監獄S21の責任者ドッチ(本名カン・ケ・イウ)の言葉である。S21では少なくとも1万数千人の人々がいわれなき罪で拷問、処刑された。本書はドッチという人物の生き方、思想と正面から向き合い、170万人という犠牲者を生み出したカンボジアの悲劇の核心に迫ろうとしている。

リティ・パニュは、凄惨なポル・ポト時代を生き延びてフランスに渡り、映画作家となったカンボジア人である。彼はポト派裁判の被告となったドッチに300時間に及ぶインタビューを行い、この希代の死刑執行人の心理に深く分け入り、人間をゴミとして跡形もなく「消去」するシステムへの解明を試みている。

恐怖と暴力に晒され「消去」される側にいたリティと、生と死を采配する絶対的な権力の側にいたドッチは、正反対の立場から、人間の生と死について、それぞれの真実を物語る言葉を求めて対峙、対決する。リティはドッチの自己弁護のための巧妙な嘘と真実を注意深くより分けながら、死刑執行人の心の奥底を照らし出そうとする。言葉の端々から読み取れるのは、異常や狂気という言葉では片付けられない、人間精神の荒廃と破壊に至るプロセスである。

起訴されたポト派の最高幹部たちと同様、法廷に立ったドッチは人道に対する罪を犯した犯罪人ではなくて、職業的「革命家」として弁舌をふるう。エリートとして国を憂い、未完のカンボジア革命に生涯を捧げた愛国者であり、同時に有能な官吏として「オンカー(上部組織)」の命じるまま、無辜の民への拷問、殺戮を行った冷酷なドッチ。コインの裏表のように人間存在の真実はひとつではない。

私たちは三十数年たっても、カンボジアの悲劇から、十分に教訓を学んだとはいえない。かつてアウシュビッツの生存者の語った「人間よ、考えるのだ。もっと深く考えるのだ」という言葉を思い出す。



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