■新英語教育 2014年4月月号 評者:暉峻僚三(特活・国際市民ネットワーク)
■クーヨン 2013年12月月号 Book Review
■ふぇみん 2013年11月25日書評欄
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新英語教育 2014年4月月号 評者:暉峻僚三(特活・国際市民ネットワーク)
本書の著者は「難民ナウ」というコミュニティラジオを、京都で設立・運営しており、実は私も以前勤務していたNGOで「難民ナウ」にはインタビューしていただいたことがある。それが難民ナウを知ったきっかけで「変わったコミュニティFMだな」と思ったくらいであった。本書によれば、難民ナウを始めたきっかけは、日本の社会ではどうしても、遠く感じがちな難民を、日常生活でも見える存在にできないかと考えたことで、それが毎日短い時間でも発信できる「難民問題の天気予報」ともいえる、難民ナウの開設につながったのだという。問題意識という想いを、何らかの行為という形にするには様々なアプローチがあるのだということを、改めて再認識させてくれる。
難民ナウを通じて話を聞いた日本に存在する難民や、支援活動に携わる人などの生の声が紹介されているだけでなく、難民問題そのものに対する包括的な解説もなされており、幅広い内容を含みつつコンパクトにまとまった一冊である。そして、本書の最大の特長は、なんといっても日本に住んでいる人の大半にとってどこか遠い響きである難民問題を、日本における福島原発事故により避難を余儀なくされた人々と結びつけていることではないだろうか。その上で、避難を余儀なくされていない人々が、当面の安定している様に見える日常からの変化を好まず「問題を見まいとする力」は、商業メディアも含めた関係主体の「見せまいとする力」と同様に、暴力といえるのではないかと警鐘を鳴らす。
私は仕事柄、中学や高校、大学に出かけて、平和教育もどきのワークショップや民族紛争について話をする事が少なくない。その際、一番苦労するのは、どの様にある社会問題と自分との関係を伝えることができるかである。
本書はその答えを「潜在的難民」というキーワードで提示する。福島の原発事故以降、日本に住む人々は、市民の命を国家が守る、という市民と国家の間での最低限の信頼関係が失われ、誰もが難民になり得るという可能性を実感する様になったのではないかと、読者に問いかける。支援する側、される側と分けて考えがちな難民問題に、境界線などは実のところなく、福島の事態が示す様に、難民(避難民)は全ての人が潜在的当事者なのだという著者の見解(私が正しく理解していたとすれば)には、まったく同感である。
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クーヨン 2013年12月月号 Book Review
〈福島から、難民問題を考える〉
「難民」ということばには、どこか近寄りがたい響きがあった。故郷に安心して住めなくなり、「自由」や「自立」を奪われることは、遠い異国のことではない、と多くのひとに気づかせたのは、先の震災。
「被災」や「避難」を超えて「難民」のような状況におかれた福島のひとたち。それは自分たちのこと、とラジオで伝えてきた「難民ナウ!」代表の宗田勝也さん。難民問題はわたしたちの日常につながっている、そう気づいたとき、未来が変わるのかもしれない。
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ふぇみん 2013年11月25日書評欄
2004年、京都市中京区のコミュニティFMで〈難民ナウ!〉の放送が始まった。コンセプトは「難民問題を天気予報のように身近なものに」。著者は立ち上げから関わり、代表を務める。取り組みは、カフェトーク、アート展など様々なイベントへと広がる。〈難民ナウ!〉は「支援する/される」の2分法になりがちな「難民問題」を、「難民(を取り巻く私たちの)問題」ととらえてきた。福島原発事故を経て、難民にいつでもなりうる存在としての私たち(潜在的難民)の問題となった。
日本では政府、電力会社、マスメディアが「見せまいとする力」の行使によって「秩序と安定」を維持してきた一方、私たちにも「見まいとする力」がある。この2つの力に抗うのは容易ではないが、求められているのは大きな運動に参加する覚悟でなく、日常生活のなかで「自分らしく」具体的にできることを考えることだと著者は言う。天気予報のように継続的に。
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