■『インパクション』189号 2013年4月 評者:藤崎剛人
■『靖国・天皇制問題情報センター通信』No. 128(通巻480号) 2013年2月28日 評者:新堀真之(情報センター運営委員)
■『図書新聞』第3104号 2013年3月30日 評者:陣野俊史(フットボール好きの文芸評論家)
■『北海道新聞』 2013年3月17日 評者:湯浅健二(サッカージャーナリスト)
■『サンデー毎日』 2013年3月24日 評者:陣野俊史(批評家)
■『サッカー批評』 61号 2013年3月9日 評者:実川元子
■『週刊読書人』 2013年3月1日 評者:有元健(社会学)
■『欧州サッカー批評』 第7号
■日本経済新聞 2013年2月13日 評者:藤島大(スポーツライター)
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『インパクション』189号 2013年4月 評者:藤崎剛人
〈対抗文化としてのサッカーのラディカルな可能性〉
政治的に左派の立場をとる人たちの中で、サッカーは、そのスポーツに興味の無い者にとっては「大衆のためのアヘン」として忌避される傾向にあるようだ。とくに近年のサッカー文化はグローバリズムやナショナリズムによって指導されている印象が強く、そのような見方はますます強化されている。他方で、アントニオ・ネグリなど、サッカーへの愛を公言してやまない左派もいる。そしてこの本の著者、ガブリエル・クーンもその一人である。
クーンはサッカー文化の現状が、グローバリズムやナショナリズムによって侵食されていることを否定しない。チケットの高額化に伴うスタジアムからの貧困層の排除、テレビ放映のために振り回される試合のシーズン日程や開始時間、下部リーグにおける選手の劣悪な労働環境、「先進国」リーグによる貧困国からの選手の買いあさりの問題などを、クーンは赤裸々に叙述していく。また、ファシスト政権下で行われたイタリアW杯、軍事政権下で行われたアルゼンチンW杯などの歴史から、サッカーが全体主義や国家主義によって利用されうることも認める。
また、男子サッカーと女子サッカーにおいて選手の給与などに格差があることや、FIFAのあからさまなヨーロッパびいき、ファンの間やピッチ上においてしばしば問題となる人種的ヘイト・スピーチの問題など、世界にあるさまざまな差別の構造からサッカーもまた自由ではないことを、クーンはわれわれに知らせる。サッカーと労働者階級の関係については複雑な関係にあるとしながらも、サッカーは労働者階級のスポーツであるというしばしば語られてきたクリシェに対しては、「サッカーは一度たりとて完全に労働者たちのものだったことなどない」と、過度な神話化に警鐘をならす。
このように現代サッカーに対する多くのネガティヴな側面を指摘しながらも、クーンはサッカーがもつラディカルな可能性をあきらめることはない。サッカーがグローバリズムやナショナリズムに利用されたとしても、それはサッカー自体が悪いわけではない。そのような権力的・支配的な文化に対抗するオルタナティヴなサッカー文化をわれわれは見出していかなければいけない、と主張するのである。
本書において著者が紹介するオルタナティヴなサッカー文化の試みは多岐にわたる。反人種差別ワールドカップの取り組み。ラディカルなサッカーファンによるサポータークラブの活動、その中で実践される反差別、反ファシズム、反資本主義への取り組み。アナキストによるサッカークラブの設立、クラブの選手・ファン自身による運営、伝統的なサッカーのルールを取っ払うようなゲームの開催。サッカーを通してひとびとが繋がったり、被抑圧者がエンパワーされたりする可能性等々。クーンは世界中のさまざまな事例を取り上げながら、サッカーというカルチャーが持ちうる潜在的な可能性を読者の眼前に示していく。
日本の事例としては、二〇〇八年の洞爺湖サミットに対する抗議運動としておこなわれた反G8フットボールカップや東京都渋谷区にある宮下公園の「ナイキ化」に抗議するためのミニマッチを主催したRFC(RAGE & FOOTBALL COLLECTIVE)の取り組みなどが紹介されており、RFCへのインタビューも掲載されている。
さらに、サッカーを通して直接的な政治的メッセージを訴える試みについて、本書で紹介されている事例は示唆に富む。現代サッカーの主流文化は一般的に、反人種差別以外の政治的メッセージをサッカーの現場において掲げることに否定的である。にもかかわらず、サッカーは独裁政権やファシズムに対する政治的抗議の場であったことを本書は示す。たとえば一九七四年のW杯ドイツ対チリの試合ではチリの軍政に反対するスローガンがアクティビストたちによって掲げられたし、フランコ政権下のバスク地方では禁じられた歌がうたわれた。またインドネシアのサッカー協会は一九三〇年代には植民地支配に対する抵抗の場であった。そして、ザンクトパウリの元GKイピッヒのように、ラディカルな政治的メッセージを公然とかかげるアクティビストとしての活動をおこなうサッカー選手もいる。
二〇〇四年に中国でおこなわれたアジアカップで、日本のナショナルチームは現地で激しいバッシングやブーイングにあった。当時の中国では、小泉純一郎首相の靖国神社参拝をきっかけとして「反日」感情が高まっていたのである。日本のメディアや「世論」は、サッカーに政治を持ち込んだとして中国のファンを大きく批判した。だが、政治的なものをサッカー文化から杓子定規に排除してしまうことはできないし、政治的な者を忌避すること自体がある特定の政治的立場への関与となることもあるだろう。二〇一二年にポーランドとウクライナで開催されたヨーロッパ選手権で、ドイツのナショナルチームは開幕の前にアウシュヴィッツ収容所を訪れた。もし二〇〇四年、日本のナショナルチームが南京を訪れていたらどうなっていただろうか。この本を読みながら、そんなことを少し頭によぎらせた。 -----------------------------------------------------------------------------------------------------------------
『靖国・天皇制問題情報センター通信』No. 128(通巻480号) 2013年2月28日 評者:新堀真之(情報センター運営委員)
〈靖国・天皇制問題 わたしが勧めるこの一冊〉
ある日、アヤシイ封書が届いた。発送元は「靖国・天皇制問題情報センター事務局」、中には1冊の本が無造作に入っている。嫌な予感……慌ててパソコンを開くとこんなメールが届いていた。「新堀さん、おめでとう! 当選です。2000字でこの本の紹介をしてください」もちろん、応募した覚えは一切ない。あぁ……またこのノリか。でも嫌いじゃない。「アナキスト」どころか「サッカーファン」でもない僕ですが、しょうがない。しばしお付き合い下さい。
ここ2年ほど、テレビというメディアをほとんど見なくなったが、それでもあのイヤな感触は胸にこびり付いている。ワールドカップしかり、WBCしかり、「国籍」というひとつの原理で構成されるナショナル・チームへの、半ば強制的な雰囲気で求められる応援。選手・スタンドが一様に胸に手を当て、なぜか目を閉じてしっぽりと歌われるキミガヨ。舞う旭日旗。あの何とも言えない異様さが、近年際立つ右傾化の波と地続きであることは明らかだろう。いやそもそも、スポーツの高揚感・一体感、〈敵/味方の対決〉というゲームの構図が、偏狭なナショナリズムの枠に掠め取られていくという危険性は、ことサッカーにおいては常に付きまとう。
歴史を振り返りつつ、著者はまず、サッカーがナショナリズムや商業主義と容易に結びつくその「危うさ」を、具体例を挙げて細かに紹介する。サッカーによって民族間の敵意・緊張が呼び起こされていった例は枚挙にいとまがない。
しかしそれだけではない。反対にサッカーのゲームが「抗議の場/社会的公正を求める場」として用いられてきた例が、ここには実に詳細に報告されてもいるのである。
オモシロいのは、ドイツのBAFF(反ファシスト・フットボールファン連盟、すごい名前……)、反人種差別ワールドカップなるイベント、日本のRFC(レイジ・フットボール・コレクティブ)が行った反戦ドリブル・デモ(機動隊とのワンツー・パス)。加えて、「鋲付きの革ジャンにモヒカン刈りのサッカーファンがチェ・ゲバラの旗を振っている」!というハンブルグ・FCザンクトパウリに至っては、もう正直、何がなんだかわからない。(ちなみにチーム・スローガンは「ノーモア・ウォー、ノーモア・ファシズム、ノーモア降格!)
著者の主張が述べられるのみでなく、資料として様々な文献・発言が紹介されており、ある種のガイドブック的役割を担っている点も、本書の魅力だろう。
さて、この奇抜な本を一読して、印象に残った2点を挙げさせていただく。
◆「娯楽」として侮るなかれ!
サッカー? ただの娯楽じゃないか。そんな意識が、僕の中にもある。けれども、以下・BAFFの人物の言葉は、その思いを覆してくれるだろう。
・「サッカーは人の感情を露わにする。……それがときに暴力的に表れることもある。サッカースタジアムでは、社会で起こっていることが目に見える形になって表れる。」(198頁)
・「サッカーは差別に対する闘いにおける重要な現場(フィールド)だ。何故ならば、サッカーは昔ながらの男らしさとか、ナショナリズム、様々な形態の抑圧や排除といったものを常に再生しているからだ。」(198頁)
・「サッカーは、ナショナリズムやヘテロノーマティビティ(異性愛規範)といった概念がどのように『現代化』しているのか、つまり、どのように一見無害な形態に変化しているのかを示している。」(200頁)
社会的関係の一例としてのサッカー。また日ごろ抑制されている欲求の「発露の場」としてのスタジアム。ならばそこにおいてこそ、人間の集合意識の反映を見ることもできるのだろう。「サッカーを通して世界を可視化する」というその手法は、非常に重要なものといえるだろう。
◆共同性/連帯へ
・「フットボールは、言語や宗教、民族、そして性別の垣根を超え、人々を繋ぐことができる、最良のコミュニケーションツールである!」(末頁)
・「サッカーとは、コミュニケーションと共有の必要性を体現したものとして、人間性を表す偉大な概念のひとつである。」(315頁)
・「楽しむことや踊ること、遊ぶこと、サッカーをすることはどれもコミュニティを強くするよ。それが回りまわって、左派の政治に役立つよ。」(305頁)
本書はそもそも、アナキストであり、また選手としてサッカーに育まれた著者が、自らの政治理念とサッカーとを結びつけ、そこに新たな可能性を見出そうとした試みでもある。サッカーと親和性があるのはナショナリズムだけではない。サッカーを通じて、「他者への敬意や尊重」、「人が集まることの楽しさ」を学ぶことができる。そのつながりが「自由な個人から成る平等主義のコミュニティ」(7頁)を生み出していくことに、著者は一縷の望みを託すのである。
「すべてはシンプルさにあるように思える。サッカーはその本質からシンプルなスポーツであり、アナキズムもまたその本質として、人間のシンプルな願いである。」(321頁)
そう、もともとは「シンプル」なもの。それが〈対立と憎しみの構図〉に利用されることに問題があるのだろう。閉じられたナショナリズムではなく、開かれた人間関係を志向する「オルタナティブなサッカーファン」が世界中に点在していることを知るだけでも、本書は一読の価値がある。
最近はサッカーだけでなく、アナキストのライターとしても活躍中だという著者。ならば『アナキスト・ラグビー・マニュアル』の発刊を待とう。それなら、〆切日に遅れずに原稿も書けるだろう。
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『欧州サッカー批評』 第7号
〈欧州サッカーを楽しむための邦書を紹介〉
サッカーがアナキズムな文化であるという背景を解き明かしている。政治的な手法としてサッカーを取り込む世界中の国々や権力者、企業などの関係者のインタビューや文献などをもとに“左派”のサッカーを描いた一冊。同性愛や人種など、広く多様なサッカーの奥深い世界を伝える。
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『図書新聞』第3104号 2013年3月30日 評者:陣野俊史(フットボール好きの文芸評論家)
オレたちにサッカーの世界を立体的に見せてくれる本
とぎどきあるけれど、「この本は〜です」的な、真面目くさった書物がまったく適さない書物がある。その本が不真面目だというのではなくて、記述スタイルが本の内容を具現しているのに、その本について書くと、他の本と同じように書いてしまう「書評」があって、それはやめたいな、といつも思う。本が百冊あれば書評も百通りあっていいし、ほんらいはあるべきなんだけれども、現実はそうなっていない……ってオレは何を書いているのかというと、本書『アナキストサッカーマニュアル』の書評を依頼されて、引き受けたのだが、この本が目指しているところ、つまりは近代サッカー(ああもう、そもそも「サッカー」という呼称にはひどく個人的な抵抗感があって、オレは自分の原稿は「フットボール」で通しているのだが、タイトルに含まれている以上、嫌々使わざるを得ないじゃないか……)の商業主義に抵抗するべく、様々な運動を紹介した本なのだが、ほら、いま書いたみたいに「この本は商業主義に反対し……」みたいなまとめがいちばんダメなんじゃないかって思うわけ。
サッカーを観に行くとき、スタジアムのワクワクする感じと切り離せない文章や、いろんなビラを配ってる。一枚きりの紙切れのこともあれば、結構ちゃんとした冊子になっているものもある。上手・下手はあっても、みなサッカーについて思うことを書いたものだ。サッカーってこんなにいろんな感情を人々の心に掻き立てるものなんだな、と改めて思うんだけど、本書は、あの紙切れに近いんじゃないか。収められている、一つひとつの文章は断片的で、最後まで総体であることを拒んでいるみたいな感じがする。ビラを集めて本の形にしてみました、という感じ。この感じは悪くない。いや、とってもいい。サッカーをひどくまとまった形で論じる本が多いわけで、それに対して強く抵抗している感覚があって、とてもいい具合に仕上がっていると、少なくともオレは思う。
さて、そろそろこの本について語らなければならない。でもその前に(「その前」が多いなぁ……)、ちょっと前提になることを書こう。オレは、某大学で通称「サッカーゼミ」なるものをやっていて、サッカー好きの大学生がワンサカやってくるんだけれども、彼らはだいたい二分できる。本気で高校までサッカーに打ち込んでいて、正月の選手権を目指していた者。Jリーグや欧州リーグやブラジルやアルゼンチンのサッカーが好きな者。つまり、知識と実技の二極に収斂させることができるのだ。彼らは有名選手が好きで、ビッグクラブのファンである自分に屈折した感情がない。それはいい。だがサッカーの世界はそれだけで出来ているわけではない。世界中の貧困地域がグッズ生産を支えている? イエス。欧州サッカーでは民族差別がリアル? イエス。金のあるスポンサーがバックアップするチームが結局強くなる(例としてチェルシー、パリ・サンジェルマン……)? イエス……。でも、こんな問題の立て方はいかにも平凡でわかり易い。経済や人種の問題は重要だが、それだけではない。もっと別の問題があるはずだ。
本書『アナキストサッカーマニュアル』の著者ガブリエル・クーンは、オレたちにサッカーの世界を立体的に見せてくれる。「立体的」って表現もややカッコつけた言い方だな。とにかく、ガブリエルの提示するサッカー観は多様だ。幾つか例を挙げる。同性愛とサッカーの関係。女性でサッカーをする人がいわれなき差別に晒されている。「サッカーは今も『女らしさ』は排除されていて、同性愛者の女性も同性愛者の男性も認められない」のだ。こうした偏見がオレたちの社会に入り込んでる。それと闘っている人々のインタビューが収録されてる。あるいは「ウルトラス」というサポーター集団について。ウルトラスは「暴力的なフーリガン」とみなされることが多いのだが、その中心メンバー、クリストフ・ヒュッテへのインタビューも。あからさまに「左派」とは言えない複雑な歴史を、当事者が語っている。ヒュッテの印象的な言葉を引用する。「サッカーの過去を懐かしがり過ぎるのはあまりに安易だし、サッカーの未来には暗い運命しか待っていないと悲観的にばかりなるのも同じく安易すぎる。僕は楽天家だ。サッカーには魔法のような、けれど宗教を成り立たせているものとは違う、非常に強力な要素があることは繰り返し証明されてきた。世界中の人々を、ほとんど強迫観念同然に惹きつけ、少なくとも試合の間は団結させる」……。ヒュッテは、サッカーがこれだけいろんな妨害に直面しつつも、生き延びているのはサッカーそれ自体の魅力なんだ、と言っているけど、その通りだと思う。楽天的すぎる? たしかにそう。だが、それだけでもない。サッカー自体の力を信じるところからしか、諸問題の解決の糸口さえ掴めないのではないか。その意味で、この本は貴重なヒントとなるであろう。 -----------------------------------------------------------------------------------------------------------------
『北海道新聞』 2013年3月17日 評者:湯浅健二(サッカージャーナリスト)
ドイツへ留学していた頃、毎日ボールを追いかけた。互いに面識のないサッカー好きが、三々五々集まって始まるミニゲーム。どんどん選手が入れ替わる。何人かがチームを入れ替わってしまうことだってある。そのとき、われわれは、純粋にサッカーというボールゲームを心から楽しんでいた。そこには、本書の著者が志向するところの、自由な個人から成る平等主義のコミュニティーが、サッカーを介して現出していたのかもしれない。
イレギュラーバウンドするボールを足で扱う不確実なサッカー。だから最後は、自由にプレーせざるを得ない。サッカーの本質的な魅力のなかに、この限りない自由も内包されている。それが、世界ナンバーワンスポーツとして誰からも愛される所以(ゆえん)なのだ。
だからこそ、政治的に、そして経済的にも利用される。そう、プロサッカー。それに対して、純粋にスポーツとして楽しむアマチュアサッカーもある。たぶん両者は、同じサッカーでも、社会的にはまったく異なる意味をもつ存在なのだろう。
著者は、セミプロでプレーした経験があり、社会活動家でもある。
サッカーの表も裏も知り尽くしている彼は、カネまみれで、政治利用の危険性もはらむプロサッカーだけれど、逆に、人類史上最高のパワーを秘めた「異文化接点」として社会のアイデンティティー(誇り)にもなり得るし、子供たちの夢と希望を育むポジティブな側面をもつことも十分に理解しているはずだ。
プロサッカーが権力の奴隷になることを良しとしない彼は、志を共有するサッカー溺愛者たちの生の声と、実際の行動の軌跡を世界各地から拾い集め、紹介している。
そこには、日頃、サッカーファンの感覚とはかけ離れたプロサッカーの体質にうんざりしている方々が、大いに溜飲(りゅういん)を下げるに違いない膨大なエネルギーが満ちあふれている。あらためて、サッカーの器の大きさを体感させられる。甘糟智子訳。
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『サンデー毎日』 2013年3月24日 評者:陣野俊史(批評家)
日本でサッカーを語ることは意外に難しい。ボールを蹴る技術ばかりに意識が集中するから、サッカーをめぐっては技術論や育成論に傾くことが多い。もう少しサポーターの側に見を寄せてみても、欧州サッカーが大好きな人は、有名な選手やクラブへの愛情を口にするぐらいで立ち止まる。その先は? 自分の愛情を口にするだけで充分なのか?
むろん充分ではある。リオネル・メッシが好きな人はFCバルセロナの歴史に詳しくなるだろうし、それはそれで正しい。
でも、サッカーは、有名な選手に属しているわけでもなければ、有名クラブのものでもない。そもそもどう考えても、いま行われているサッカーは商業主義の誹(そし)りを免れない。商業主義って何ですか? そもそもサッカーってお金が動くスポーツなんじゃないですか? とか、反論されそうだが……。
断じて、違う。とりあえず商業主義に強く抗議する人々がいて、その人たちにもむろんさまざまな立場の違いがある。サッカー選手の同性愛を擁護する立場、「ウルトラス」というサポーター集団、人種差別に強く継続的に抗議する人々……。その立場はさらに細かく分かれていて、その中で運動は続いている。
本書は著者が自分の主張を述べた部分がまずあって、その議論を補完するさまざまなレベルの資料が間に挟まっている。両方とも面白いが、貴重な資料にまず目がいく。ちゃんとした論理になっていないインタビューもある。雑誌の再録もある。でもさ、そんな記事こそ読みたい。サッカーに対する愛情が溢(あふ)れ、一方で作家ーを牛耳るマフィアへの憎悪もある。左派も右派も、いまのサッカーへ強烈な疑義を突きつけている。すべてのサッカーファン、必読!
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『サッカー批評』 61号 2013年3月9日 評者:実川元子
著者はオーストリア2部リーグでプレーしていたセミプロのサッカー選手だ。1980年代後半より、さまざまな社会的プロジェクトで活動し、著述家/翻訳家として活躍している。本書はサッカーと活動をまとめた一冊である。
執筆した動機がおもしろい。「長年、自分の奥底に根づいているサッカーに対する情熱と、自分の政治的信念の間に折り合い」をつけようとしたため、という。世界はこんなに矛盾や不正に満ちているのに、それに目をつぶったまま、プロの選手として(特に腐敗している、と彼が考える)サッカー界で飯を食っていいのだろうか、という葛藤が生んだ本、と言ってもいい。
選手をやめてからは、政治や社会運動に関わった世界各地のサッカー関係者に、突っ込んだ(ときには危険な)取材を重ねた。アナキズムを重点的に、政治思想や歴史について熱心に勉強し、サッカーに結びつけて自分の言葉で語ろうとした。その熱心さは読みながら時々息苦しくなる。もしかすると著者は、恵まれた環境に生まれ育ち、サッカーがうまい、という理由でセミプロの選手になった自分を罰しているのではないか、と思えるほどだ。サッカー選手の大半は労働者階級出身者であり、家庭環境に恵まれない人も多い。サッカーの才能が金儲けに利用され、ときには搾取されて人生を踏み誤る姿を目の当たりにしたことも、本書の執筆動機となったのだろう。
本書には、インタビューや寄稿もコラムの形で盛りこまれている。著者と同じように「FIFA(またはサッカー協会、金満クラブ……etc.)のやり方は、サッカーに対する冒涜だ」「サッカーから人種、性別、同性愛などあらゆる差別を追放すべき」と考え、実際に活動している世界中のサッカー好きが熱く語っている。
大量の記事が詰め込まれているために、通読するにはエネルギーがいる。だから興味が引かれたところから読むのをお勧めしたい。私は「女性とサッカー」とサポーターを取り上げた箇所に興味を惹かれた。そのため、第三章の「プロサッカーへのラジカルな介入」は圧巻のおもしろさだった。ドイツのサッカークラブ、ザンクトパウリ(先日、ヨコハマフットボール映画祭で「狂熱のザンクトパウリ」が上映された)の箇所を読めば、サッカーの持つ、あなどれない力を感じるだろう。また巻末では、日本で活動するレイジ・フットボール・コレクティブの座談会も組み込まれていて、これもまた興味深い。
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『週刊読書人』 2013年3月1日 評者:有元健(社会学)
〈サッカーが紡ぎだす連帯の政治〉
昨年あるサッカー関連の会議に参加したときのこと、欧州の最新のスタジアムを視察してきたばかりのJリーグのお偉いさんがこんなことを言った。「これからは“スタジアム殺人事件”が重要です」。アガサ・クリスティのミステリーに倣い各クラブは観客動員を促すために毎試合スタジアムに何かしらの仕掛け・驚きを準備しなさいということらしい。そこで僕は皮肉を込めてこう質問した―「例えば“味の素殺人事件”ということですか?」。ところで「なでしこJAPAN」をW杯優勝に導いた“のりさん”は、“横から目線”で女性を束ねる理想の上司らしい。しかしその決勝戦の審判団も相手の監督も全員女性だったっけ…。
これらの事例はともに“私たち”のゲームが当たり前のように何ものかに奪われていることを表している。あなたがもう一度それを奪い返したいなら、是非ガブリエル・クーン著『アナキストサッカーマニュアル』を読むべきだ。なぜならそこには、過去から現在に至る世界中の、サッカーを我々の手に奪い返そうとした、そしてサッカーを通じてラディカルな政治学を紡ぎ出そうとした試み=テクニックがちりばめられているからである。
もちろん商業主義、ナショナリズム、人種差別、女性差別、同性愛嫌悪といったサッカーをめぐる諸問題は、決してメジャーではないがこれまでの社会学的研究でも紹介されてきた経緯はある。本書でも新自由主義によってサッカーが取り込まれる状況(=「ニューフットボールエコノミー」)が随所で主要な批判対象となっている。例えばベスト16進出で日本が歓喜した2010年南アW杯では、観客が集まるスタジアム周辺の敷地や道路はFIFA関連の企業用に完全に管理され、結局はアディダスやコカコーラ、マクドナルドといったグローバル企業の収益が優先されたという。また人種差別の例でいえば、2012年の欧州選手権で活躍したイタリア代表マリオ・バリオテッリが初めて代表に招集されたとき、イタリア各地のスタジアムで「黒いイタリア人などいない」と書かれた横断幕が掲げられたという事例が紹介されている。
だが本書の力は、こうした諸権力に対抗し、オルタナティブなサッカー空間を作り上げてきた草の根運動からプロ選手やクラブの実践を溢れんばかりに紹介しているところにある。港湾労働者の街・左派の街リヴォルノに生まれ育ち、左派サポーターのネットワークができた年の背番号99をつけて活躍したFWクリスティアーノ・ルカレッリ。「サッカーの核心は単なるスポーツだ。しかし抑圧が存在する限り、僕たちが好むと好まざるにかかわらず、サッカーは民衆が体制に異を唱える媒介である」と述べたカタルーニャ出身のDFウラゲー・プレサス。80年代のスクウォット運動の流れをくむ左派サポーターがチェ・ゲバラやジョリー・ロジャーの旗を振るFCザンクトパウリ。アメリカ資本によるマンチェスターU買収に異議を唱えて創設されたFCユナイテッド・オブ・マンチェスター。パンクスやアナキストによって創設されたがその後緩やかな政治的コミュニティとして国際的な連帯を築いてきたイングランドのイーストン・カウボーイズ&カウガールズ・スポーツクラブ。どのページでもよいから開いてほしい。一つのボールから始まる新たな政治的空間の入口がそこに垣間見えるだろうから。 -----------------------------------------------------------------------------------------------------------------
『欧州サッカー批評』 第7号
〈欧州サッカーを楽しむための邦書を紹介〉
サッカーがアナキズムな文化であるという背景を解き明かしている。政治的な手法としてサッカーを取り込む世界中の国々や権力者、企業などの関係者のインタビューや文献などをもとに“左派”のサッカーを描いた一冊。同性愛や人種など、広く多様なサッカーの奥深い世界を伝える。 -----------------------------------------------------------------------------------------------------------------
日本経済新聞 2013年2月13日 評者:藤島大(スポーツライター)
〈カネと政治の競技支配に風穴〉
サッカーは地球と同じだけ大きい。だから無政府主義者に極度の自由主義者、ユートピアを夢見る者だって丸いボールを蹴っ飛ばす。
オーストリア出身の元セミプロ選手にして社会活動家が集めた「ラジカルなフットボール」の言説と行動の記録。巨大マネーと官僚政治によるサッカー支配に細くとも鋭い針を突き刺した。
あるウルグアイ人選手は、スポンサーのロゴ入りユニフォームの着用を拒んだ。ドイツのサポーターは、愛するクラブが営業上の理由でライバルのスタジアムを使い始めたら、旧本拠地での下部組織アマチュア試合の応援に徹した。往時のリバプールを率いた名将ビル・シャンクリーは社会主義者。「全員が互いのために働き、全員がその報酬を分かち合う」ことをサッカー観としていた。
カナダの「アナキストサッカークラブ」の試合には、なんと「サッカーが好きでない参加者」がいる。競技ルールもスコアもなく、ただ「それとない秩序」によって運営されるので団体競技嫌いにも快適らしい。
権力に取り込まれぬサッカー者の存在を世に知らしめて、それが価値だ。加藤賢策の装丁も秀逸。甘糟智子訳。
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