■出版ニュース 2012年5月中・下合併号 BookGuide欄
■朝日新聞 2012年5月16日(水) インタビュー=樋口大二
■北陸中日新聞 2012年4月6日(金) 文化欄 執筆=今宮久志
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出版ニュース 2012年5月中・下合併号 BookGuide欄
徳川期260年続いてきたキリシタン禁制が解かれて以降、幕末〜明治期にはどんなキリスト者が登場し行動したのか。箱館居留地にやってきたニコライ、国内で最初に建立された横浜天主堂協会、維新の混乱期のなかでキリスト教に近づいた人たち、「歩く宣教師」テストヴィド神父の取り組みと山上卓樹との出会い、自由民権運動の拡がりとキリスト教との関係、内村鑑三の不敬事件、足尾銅山の鉱毒と闘い続けた田中正造など、人権・福祉・非戦の理念を実践したキリスト者群像の地下水脈が描かれる。なかでも、内村に対して「聖書を捨てよ」と言った田中正造の生き方に著者の思いが込められる。 -----------------------------------------------------------------------------------------------------------------
朝日新聞 2012年5月16臼 インタビュー=樋口大二
〈幕末・明治のキリス卜者、田中正造ら通じ描く〉
金沢の木越邦子さんが新著
傘沢市在住のキリシタン研究家、木鎗邦子さん(68)が、新箸『幕末・明治朔キリスト者群像』(現代企画蜜)を刊行した。詩人でもある木越さんの研究所は泉鏡花記念市民文学賞そ受賞した『キリシタンの記憶』(桂書房)以来、6年ぶり。
〈信仰と社会的活動の相克〉
東京・八王子で自由民権や被差別部落解放の運動に身を投じた山上卓樹、日露戦争反対を貫いた内村鑑三、内村との交友などを通じてキリスト教に接近した田中正造らを取り上げ、信仰と社会的活動の矛盾や相克も描き出す。
足尾銅山の鉱毒専門に取り組んでいた内村が実践を離れて聖書研究に没頭しはじめたとき、正造は「聖書を捨てよ」と忠告したという。正造はキリスト教に関心を寄せながら、同時に社会の改革を見据え、自治の問題を考え続けた、と木越さんは見る。
洗礼を受けずに亡くなった正造は、一般的にはキリスト者とはみなされていない。しかし正造が残したわずかな遺品の中には、小石やちり紙とともに、聖書、手製のマタイ伝と憲法の合本があった。
カトリックの聖職者が貧困や人権問題に積極的に取り組む「解放の神学」がラテンアメリカで広がったのは、1960年代のことだ。「これまで指摘されていませんが、正造はアジアにおける『解放の神学』の先覚者であったのではないでしょうか。日本でその流れが発展することがなかったのは残念です」
木越さんは20歳のときに洗礼を受けたカトリック信者だが、どこかで「ここが自分の居場所なのか」という違和感を抱えていたという。
転機になったのは、1988年のニカラグア旅行。詩や小説に興味を持ったことがきっかけだったが、現地の人々とふれあい、「解放の神学」を実践して左派政権に参加していた司祭たちとも交流した。
「内戦の中で迫害された人々が生き残るとはどういうことなのか。現場を見ることで、日本のキリシタン史のなかの弾圧が重ね合わさって実感されました。そこで私は、初めて本当にキリスト教徒になったような気がします」
序文はやはりカトリック信者で作家の加賀乙彦さんが寄稿している。 -----------------------------------------------------------------------------------------------------------------
北陸中日新聞 2012年4月6日(金) 文化欄 執筆=今宮久志
〈木越邦子さん、新著〉
カトリツク信者木越邦子さん(68)=金沢市=が新著「幕末・明治期キリスト者群像」を現代企画室から出版した。山上卓樹、内村鑑三や新井義遂(おうすい)、田中正造らの苦闘を描き、迫害されたキリスト教の視点からの臼本近代史にもなっている。「日本におけるキリスト教を多くの人に知ってもらいたい」と話す。序文は信者で作家の加賀乙彦さん。
〈日本の信者ら近代の苦闘〉
全体を、幕末・明治のキリスト教?山上卓樹らによって八王子に花開いたキリスト教社会?内村鑑三の不敬事件?足尾銅山の鉱毒で国や企業と闘い続けた回中正造―の四つに章立て。中でも、八王子における山上らの活動と、田中をめぐるキリスト教は読み応えがある。
一八七六年、東京・八王子出身の信者を通して、山上は東京でテストビド神父と会う。神父は受洗した山上を翌年には八王子に送り込み、積極的に布教にあたる。
さまざまな社会的な差別のひどかつた当時、神父は教育の必要性を山上に助言し、山上は天主堂学校の開設に尽力した。ハンセン病病院も創設。社会的平等も追求した布教は自由民権運動とも結びつき、地域の理解が加わって信者が増えた。
が暗転する。家々を歩き丁寧な布教をしていた神父が病に倒れて日本を離れると、後任者は学校への助成はできない、と伝えた。背景にあったのは教団の変質。日本のエリート社会に支持を増やしたいカトリック教団側の思惑と、不平等条約の改正に向けて西欧諸国に対し日本の印象を良くしたいという政府の方向とが一致した。
折しも八王子は大火に見舞われ、産業も衰退。見事に合っていた歯車は、バラバラになつていく。
ところで、田中とキリスト教との結びつきはあまり知られていない。木越さんの執筆の構想にも、田中は入っていなかった。しかし、小松裕さんの研究所「田中正造の近代」を読んで、あらためて取り組んだ。
生涯を通じて行動者であった田中は、まず内村、続いて新井というキリスト者との接点があった。銅山の鉱毒問題を追求する泥沼のような闘争の中、「万朝報(よろずちょうほう)」紙記者だった内村は、紙面と講演で田中を支持。しかし1902年には、思索と研究にこもってしまう。「個人の改良から社会の改良へ」の考えからだ。これに対し田中は内村に「聖書を捨てよ」と迫ったという。
一方の新井は隠遁(いんとん)的信者として田中に対した。田中もその温かい人柄に接し、家に泊まり込んで心身を静める時もあった。キリスト教への信頼が深まったのだろう。田中は日記の最後に「ここにおいてざんげ洗礼を要す」と記していたという。
「ただ、どんな理由で洗礼がなされなかったのか、それはいまだに分からない」と木越さん。行動者、思索者あるいは研究者として、それぞれのキリスト教をこの三者が信じていたということだろうか。
田中をめぐって、木下尚江、幸徳秋水らも、かかわりをもって現れる。別の章で木越さんは、内村の不敬事件、森有礼の暗殺事件について流説と真相にも触れている。
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