■産經新聞 2012年6月17日 評者:西村英一郎(国際武道大学教授)
■毎日新聞 2012年5月21日 新世界文学ナビ ナビゲーター:寺尾隆吉(フェリス女学院大准教授)
■図書新聞 2012年5月26日 評者:安藤哲行(ラテンアメリカ文学者)
■日本経済新聞 2012年4月22日 評者:野谷文昭(東京大学教授)
■週刊読書人 2012年4月20日 評者=柳原孝敦(東京外国語大学教授・スペイン語文学・思想文化論専攻)
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産經新聞 2012年6月17日 評者:西村英一郎(国際武道大学教授)
『澄みわたる大地』(1958年)は20世紀ラテンアメリカ文学の問題作として知られていたが、この春、待望の日本語訳が出た。フエンテス30歳のこの作品は、メキシコ革命が沈静化し、産業化に入り、その結果、都市化が進行する1950年前後のメキシコシティー(人口400万人)を舞台にした都市小説である。しかし、登場人物はバルザックの小説のような成熟したパリの市民社会の空気を呼吸し楽しむブルジョア的な人々ではない。メキシコ革命で新たに権力を得た人々と、地方をはじきだされてシティーに流入する中・下層民である。
マデロ派の父を政敵による処刑で失い、母と2人暮らしのポラ家のロドリゴ。ポルフィリオ・ディアスの時代に栄華を極めたが、革命で大農園を失ったオバンド家の人々。逆に、革命の混乱のなかで、貧農から資本家として成功する混血のフェデリコ・ロブレス。ロドリゴとロブレスの2人を中心に話は進むが、男を値踏みし、成功者ロブレスを選ぶ女ノルマをはじめ多数の副次的な人物が加わる。
作中の詩人サマコナの言葉によると、「メキシコ人は自分の本当の姿を知らず、ヨーロッパの言葉と形式を借用」する。50年も前、この考えの上にメキシコ人群像を描こうとしたことには驚かされる。個々の人物を通してメキシコシティーの全体が浮かび上がることが作品の面白さだ。
また、作品は既存の形式を打破している。2つの話が交互に語られたり、場面が頻繁に変わるという、ラ米文学で一般化した手法が随所に見られる。メキシコの心象風景で始まり、終幕では湖上のこの都で起こった数々の事件、過去や現在の無数の人々の姿をあたかもスナップ写真のように映す言葉が並ぶ。メキシコについての評論や議論。前半のカクテルパーティーのサロンと、後半の独立を祝う叫びの祭の喧騒(けんそう)との対比。作家はなんでも自由に書くことができるというメッセージをもち、メキシコの自己(アイデンティティー)を追求するその後の小説の端緒となったこの作品は、フエンテスの爽やかな自負が時間を超えて感じられる。
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毎日新聞 2012年5月21日 新世界文学ナビ ナビゲーター:寺尾隆吉(フェリス女学院大准教授)
スぺイン語圏[17]カルロス・フエンテス
〈一途な情熱、突然の死〉
あまりにあっけない最期だった。「出版されて50年、『澄みわたる大地』の日本語版(現代企画室、2012年)が日の目を見て大変嬉しく思います」という感謝の言葉を彼自身から頂いたわずか2週閲後、カルロス・フエンテス(1928年、パナマ生まれ)の追悼文を書くことになろうとは夢にも思っていなかった。数日前までパーティーに元気な姿を見せていたというし、蘇ったニーチェと対話するという新作を書き上げたばかり、しかも、10年から20年に至るメキシコを舞台にした次作の構想まですでに出来上がっていたというのに……。
カルロス・フエンテスといえば、50年代末から「ブーム」を牽引し、ラテンアメリカ文学を世界に売り込んだ立役者、ガルシア=マルケスやバルガス=リョサと並んでノーベル文学賞候補に名を連ねてきたメキシコ文学の最高峰である。だが、彼の作品は邦訳に恵まれなかった。代表作『アルテミオ・クルスの死』はかつて新潮社から出版されて現在ほぽ入手不可能、80年代までに訳されたのは『脱皮』(集英社)や『聖域』(図信刊行会)といった、今や評価の落ちた実験小説ばかり、評輸『メヒコの時間(新泉社、93年)は間題の多い翻釈となり、傑作『我らが大地』(75年)は出版の目途が立っていない。『アウラ』(岩波文庫、95年)や『老いぽれグリンゴ』(集英社文庫、94年)は面白い作品だが、この大作家を語るには物足りない。
今、巨匠の死に直面してみると、3月に『澄みわたる大地』の翻訳を出版しておいて本当によかったと思う。「ブーム」の姶まりを告げるこの長編第1作は、良くも悪くも彼の作家的特質すベてを反映した作品であり、そこには思春期かち続けてきた「メキシコ探求」のすベてが注ぎ込まれている。50年代初頭、人口400万の国際都市となったメキシコ・シテイの乱雑な生成過程を背景に、100人にのぽる登湯人物が複雑なドラマを織りなしていく。物語を読んでいると迸る(ほとばしる)情熱の言葉を小説の枠内に押しとどめるベく、様々な語りの技法を駆使して悪戦苦闘する若きフエンテスの姿が目に浮かぶようだ。58年の発表から改版と増刷を重ね、2008年にはスペインの有力出版社から50周年記念版が出されるなど、長きにわたってこの作品が読者の支持を得てきたのも、この一途な情熱の賜(たまもの)だろう。
大作家の宿命か、生前はとかく非難に晒(さら)されることの多かったフエンテスだが、今ごそ強く思う。悪口を言うのは結構、だがその前に『澄みわたる大地』を読んで欲しい、と。
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図書新聞 2012年5月26日 評者:安藤哲行(ラテンアメリカ文学者)
〈ラテンアメリカの新しい文学が進むべき方向を示す道標となつた
この数十年にスぺイン語から翻訳された作品の中でも最大の収穫のひとつ〉
すでに古典となつた作品の、待望久しい翻訳。ラテンアメリカの新しい文学はこの『澄みわたる大地』から始まった、と言えば、若干大げさかもしれないが、その後の文学が進むぺき方向を示す一つの道標になったのは確かである。
読みはじめたとたん、映画手法や意識の流れ等、当時の小説作法を駆使し、英語、フランス語、俗語、卑語、言葉遊ぴを大胆に取り入れた実験的な言葉遣いをすることで、小説の新たな書き方をしようとする意図がみてとれる。それが他の作家たちにとっては瞠目すベき点となったのだが、読者としてはまるで置いてきぼりにされたような思いを抱かせられる。だが分からないところは分からないまま、物語に没頭すればいい。
物語は、「神のようにどこにでも現れるが、決して正体は見せない」イスカ・シエンフエゴスという人物の独白で始まり、メキシコ・シティの本質を語るイスカの言葉で終わる。イスカに与えられたこの役割が物語の枠組みを決定している。「私の前で隠し立ては無用だ」と口にできるようなイスカを前に、誰もが素直に自らの過去を語る。そうして20世紀メキシコにおける最大の事件である革命の洗い直し、その革命から1950年代初頭にいたるメキシコのありようが暴かれていく。
売春婦や運転手、アメリカ帰りの若者といった底辺層から、革命で没落した貴族、逆に浮上した人々にいたるまで、実におびただしい人物の物語が映画のショットを重ねるように語られ、まとまりを欠くようにも思われるが、「半世紀に及ぶメキシコ史のあらゆる主要事件を生き抜いてきた」フエデリコ・ロブレス、彼と結婚することで上流社会入りするノルマ、そのノルマを、そして詩人であることを諦め、シナリオライターとして名をなすロドリゴ・ポラ、そのポラと結婚する没落貴族の娘ピンピネラ、そしてメキシコの現状を批判し、メキシコの本貿を探る詩人マヌエル・サマコナといった登場人物に注目すれば、最後にはらばらだったショットが、多彩な登場人物たちがイスカに結びついて一つの複雑な図柄が浮かび上がる。
問いかけられる問題の一つ。革命とは何であったのか、何でありえたのか。ロブレスは当然のことながら革命を、現状を「この国の歴史が始まって以来、初めて俺たちが安定した中産階級とその経済的・個人的利益を生み出し、平和な社会の礎を築いた」と自負するが、1世代年下のサマコナは「メキシコ革命の具体的成果が、新たな特権階級の形成とアメリカ主導型政治の確立、そして国内政治の停滞、この3つだけだったなんて、私は考えるのも嫌」と批判する。だが最大の批判は、底辺層の登場人物たちの織りなす現状描写だろう。革命が別の道をたどれば、彼らの生活も別のものになっていたのだから。
独裁者を倒しても新たな支配者が生まれる。結局は何も変わらない。そんなメキシコに対して、イスカは、「起源には今でも、偽りのない本物のメキシコがある。メキシコの本質は永遠で、そこに変化などありえない。その動かぬ母石がすべてを支えている。あとはその母石の上に広がる泥の層にすぎない。母石は不変で、決して姿を変えることがない」と言う。その言葉通りに、フェデリーコもサマコナもそれぞれの運命をたどり、「傍観者」であるはずのイスカ自身も変貌を余儀なくされる。その信念も、古代世界を信奉するテオドゥラに向かって「(故郷で生まれた声は)もう響いていないんだ。俺だってずっとその声を聞こうとして、何度も目を閉じて耳を澄ましてみた。でも、新しい言葉の風がすべてを運び去ったようだ。今の太陽はもう我々の太陽じゃないんだ、テオドゥラ、違う太陽……」というほどに揺らぎ、最後には、作品冒頭の独白で先住民、スペイン人、その混血が形作ったメキシコ・シティを「臍三つの街」と呼んだイスカが、「俺のおふくろは石であり、蛇であり」とロドリゴにつぶやき、「俺は三つの臍の持ち主」としてメキシコ・シティと同化する。そうして、「過去も現在も謎のヴェールに包」まれていたイスカがあらゆるものを見つめる目であり、あらゆることを語る言葉、都市に住むあらゆる人であって、特定の誰かではないことが知らされる。それはまた、現代にまとわりつく古代の影、つまりアステカの首都テノチティトラン=メキシコ・シティという二重世界を浮かぴ上がらせ、本書に単に多数の人物を配してその生を語るだけの都市小説とは違う相貎を持たせることになる。
理解不能に思われるようなイメージやおびただしい名詞の列挙、そして、まるでエッセイのようなメキシコ(人)についての考察、小説の新たな書き方といった『澄みわたる大地』の特徴は以後の作品にも受け継がれ、登場人物たちもあちこちで再登場する。従ってその出発点となる本書をもとに他の長編を読めば、これまで分かりにくいとされていたフエンテスの作品世界に、新たな面白みが感じられるようになるだろう。本書は、この十数年の間にスペイン語から翻訳された作品の中でも最大の収穫の一つであり、難解だと言われる原著に取り組んだ訳者そして出版社に敬意を表したい。
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日本経済新聞 2012年4月22日 評者:野谷文昭(東京大学教授)
〈秩序を拒む厖大な言葉の集積〉
40年ほど前、初めて訪れたメキシコ市の書店で薦められたこの本は、著者の処女長編であり、文体に凝り、「内的独白」をはじめ実験的手法を駆使する〈新小説〉の走りだった。
冒頭にイスカ・シエンフエゴスと名乗る謎めいた人物が登場する。名前や容貌からすると混血(メスティーソ)らしく、どこにでも現れ、旧体制のエリートや新興ブルジョアから娼婦、悪漢(ピカロ)のような労働者にいたるまで、誰とでも口を利く。そしてインタビュアーのように、彼らに生い立ちや革命とのかかわり、今の生活を、対話や独白を通じ彼らの言葉で話させる。
正史には書かれていないそれらの事実は、革命の英雄や特権を得た勝者たちの裏の顔を暴くとともに、政財界のグロテスクな動きなど、一個人を語り手としたのでは把握しきれない社会の混沌とダイナミズムを描き出す。しかもイスカはあらゆる種類の卑語、猥語ばかりか先住民の神話世界にも通じているのだ。
壁画のように夥しい人々が登場する中では、農場の小作人の息子から成り上がった銀行家ロブレスの成功と失墜の物語が筋を追いやすい。そこで語られる労働者のストライキと軍による虐殺のエピソードが、後に書かれるガルシア=マルケスの『百年の孤独』に出てくる逸話と瓜二つのなのは単なる偶然だろうか。
メキシコを本当に救うことになる独自のモデルとは何かといった問題や、「誰かが情熱をかけて血を流すたびに、メキシコという国もメキシコ・シティも、どちらも過激な死を迎える」といった警句風の文句が至るところに見つかる。それらは登場する詩人や作家たちの言葉だが、もちろん自国の同一性を探究していた著者の自問自答でもあるだろう。
現在、そして革命を含む様々な過去が回想される。秩序を拒む厖大な言葉の集積は、矛盾し、様々な読みを可能にする。本書が包含する世界の全貌はなかなかつかめない。善悪二元論によらないこの小説は、全体が論争のアリーナとして熱を帯びている。本書の最後でイスカの本性が明かされるが、彼は何よりもまず、都市という論争の場を提供し、そして自ら仕切る祭司なのだ。
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週刊読書人 2012年4月20日 評者=柳原孝敦(東京外国語大学教授・スペイン語文学・思想文化論専攻)
〈響き合う声 入り乱れる言葉
人間のドラマと舞台となる都市との関係〉
『澄みわたる大地』原書には、どの版にも、登場人物一覧と、メキシコの特に革命時(1911―1917)を中心とした年表が付されている。登場人物は数が多く、かつ複雑な関係を綾なす。背景となるメキシコ革命は、錯綜した出来事が繰り広げられる絵巻物だ。物語=歴史の迷宮にまよわないようにとの配慮だ。今回、原書刊行50余年にしてやっと翻訳された本書には、それに小説内で引用される厖大な歴史的人物たちの説明(通常なら訳注として本文に添えられても不思議ではないもの)を加えてまとめた「読解の手引き」という付録の小冊子がついている。これは読者にとっては大きな助けとなる。そして同時に、この冊子が意味することは、それだけ大家カルロス・フエンテスの初の長編小説は、史実や文学作品からの引用によって成り立つ、きめ細かな織物だということだ。事実、史料や文学作品ばかりか、流行歌の歌詞、そして小説が進むにつれ、後半では、小説内部からの引用すらもちりばめられていくのである。
そもそも、直訳すれば「最も透明な地域」とでも言える本書のタイトルにしてから、引用だ。決して大気汚染で悪名高いメキシコ市への皮肉ではない。フエンテスの敬愛する同郷の作家アルフォンソ・レイェス(本訳書ではレジェスと表記)が、エッセイ『アナワクの眺め』(1917)冒頭にエピグラフを模して記した有名な文章、「旅人よ、君は空気の最も透明な地域に着いたのだ」から取ったものだ。かつてコルテスの征服した湖上の都市テノチテティトランであったメキシコ市は、その征服の瞬間から植民地期を通じ、20世紀初頭までは美しさで人々を魅了した、文字どおり「澄みわたる大地」だったのだ。しかるに、「人口400万」(336ページ)の1950年前後の同市は、「なぜ空気の悪いこのひどい街で、病に苦しみながら暮らすんだい?」(182ページ)と登場人物のひとりロドリゴ・ボラに言わしめるような場所に成り下がっているらしい。
そんな大都市メキシコに蠢くのは、タクシー運転手、夜の女、夢破れた文学青年、パーティーに明け暮れるスノッブな金持ち、革命のどさくさに紛れて財をなした成り上がり者など、実に多種多彩だ。それらの人々の間を、不気味な悪意に満ちた謎の人物イスカ・シエンフエゴスが取り持ち、繋がりをつけていく。とりわけ中心的に描かれるのは、成り上がりのブルジョワ、フェデリコ・ロブレスとその妻ノルマ・ララゴイティで、彼らがイスカを前にここまでのし上がってきた過去を回想し、自身の思い出に溺れながら一瞬にして凋落の憂き目に遭うドラマは、それだけで面白い。
しかし、『澄みわたる大地』とのタイトルだけあって、本書はあくまで彼らのドラマとその舞台となる都市との関係が中心の小説だ。フェデリコはオフィスの窓から見える街並みに自らの過去を重ねて回想し、1951年9月16日の独立記念日の喧噪に揉まれながら悲劇的結末を迎える。偏在するコウモリのように人々の話を聞き続けてきたイスカは、やがてメキシコ市そのものと同化していくのだ。
街と同化?    そんなことがどのように可能なのか? 響き合う声によって、入り乱れる言葉によって、50年500ページに渡って展開されてきた物語の力によってだ。
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