■図書新聞 2012年6月23日 評者:長谷川啓(城西短期大学教授)
-----------------------------------------------------------------------------------------------------------------
図書新聞 2012年6月23日 評者:長谷川啓(城西短期大学教授)
アジアの女たちの痛みと再生の記憶
3・11後の日本の再生、今後のフェミニズムにも示唆を与える、メッセージ満載の女性文学コレクション
アジアの女性文学が昨年の末、続けて刊行された。韓国・台湾・インドの女性作家の作品である。それぞれ、成人してなお、少女時代のトラウマの記憶から逃れられない女性たちの物語だ。性的被害等々、女性ゆえに体験する痛みが語られ、あらためてこの世の男性中心社会に憎悪の火を再燃させる。
とはいえ、哀しみにうちひしがれているばかりの少女・女たちではない。逆境で底辺に生きる女性のしたたかさや逞しさをもっとも鮮やかに活写したのが、韓国の姜英淑の『リナ』(原書2006年刊)である。貧しい炭鉱の町から脱北したリナ一家を含む一行は韓国への苦難の逃亡中に、経由した隣国で数人が逃げ遅れ連行されてしまう。家族と離ればなれになった少女のリナもその一人で、捕まった女性たちは化学薬品工場で働かされたあげく、管理者に強姦され、協力者の少年工も道連れに脱出をはかる。そこからリナの本格的な流離いの人生が始まるが、途中、家族に再会しても、女の子である自分を軽視して見捨てられたと思い込み、両親を無視して放浪する。歌手の真似事をしたり、韓国の宣教師によって売春村に売られたり、自らもまた人身売買や麻薬販売に加担したりなどして生き抜いていく。
隣国の中国全土を彷徨うことになる悲惨でスリリングな道中はブラックユーモアの冒険談さながらで、いっきに読破できる面白さだ。人身売買を幇助しながらも被害者の少女たちを助けて一緒に加害者を殺害する場面は痛快ですらある。やがて大人の男に変貌する少年工や、臨終近いベッドにすら駆けつける恋人をもつ元歌手のおばあさんとの風変わりなポスト・ファミリーの絆は、砂漠の中の一時のオアシスのようでもある。しかし、その唯一の家族の絆も、流れ着いた大規模なプラント工業団地で、工場の大爆発によって失ってしまう。もはやどこの国にも人にも幻想を抱いていない少女ではあるが、世界の終わりを経験した地から、国境に向かって走り始め、あらたな出発を予感させるところで物語は終わっている。
経済自由区域におけるこの多国籍コンビナートは、科学ガスによって団地全体を白い霧で覆い、人々を咳き込ませるなど公害をまき散らす。あげくの果てに工場の爆発事故によて街ごと墓石、空気も大地も汚染する。世界がいっきょに消滅してしまうような終末光景は、3・11の原発災害を連想させ、近代化科学文明の恐ろしさをまざまざと伝えている。
いっぽう、少女の時の傷跡から逃れられない女性の狂気を描き出したのが、台湾の陳雪著『橋の上の子ども』(原書2004年刊)である。書く行為が救済となっているかのような女作者の物語で、3作品中、もっとも痛みを結晶、表象化させている。三人の同性の恋人たちや、アメリカ在住の男性の恋人へ、「あなた」と語りかけるなかで、少女時代の故郷の記憶が回想され、現在と過去が交錯しながら、トラウマの基層が炙り出されていく。過去の記憶に襲われ、恋人を変えても居場所を変えても安住の地はなく、狂気は鎮まらない。居場所の変転は、転々とした少女時代の親の職業や住まいが修正となっているふしもあるが、蓋をしたはずの過去から逃れられず、どこにも精神の安定が見出せないからである。
貧困のなかで家を出ていった母の不在と、時折見せる母のもう一つの側面による不安。恐らく借金返済のためか売春をしているようなのだが、少女にとっては母が何者なのか謎の存在となる。しかも母の留守中に父から性的悪戯を受けて自殺未遂に陥った悪夢の日々。辛い体験は少女の内面に分裂意識や喪失感を抱かせ、決定的なトラウマとなっていく。
両親の移動露天商を手伝って橋の上を走り回り、屋台の呼び込みまでしなければならない少女の唯一の避難所は、空想の世界に浸ることだった。だが、少女によって嫌悪される下層社会における露天や夜市の光景こそが、作中もっとも生き生きと魅了されるところである。ついに、育った環境の似ている同性の恋人との出会いによって、自分を開き、過去と向き合い、「かつて放棄した世界と和解できそうな予感」がし始める。傷や痛みの氷解、逃避してきた家族との和解が開始され、あらたな人生の旅立ちが訪れるのだ。
インドのムリドゥラー・ガルグの『ウッドローズ』(原書2004年刊)は、4人の女性と男性1人の生が各章ごとに語られる。それだけに1人の主人公に焦点を絞った前の2作品に比べて、それぞれが相対化されつつ、女の痛みがハーモニーとなり、全女性の声として響き渡ってくる。なおかつ、世界の哀しみを背負ったような両性具有的な男性の視点によって伴走され、さらに相対化されて、近代科学の進歩や近代主義フェミニズムの行方さえ問うポリフォニー的世界を現出しているのである。
最初は命の象徴のようなウッドローズの硬い実を持ち歩くスミターの告白から始まる。彼女は姉の夫に強姦されてアメリカに渡り大学院まで進むが、今度は結婚した精神科医の夫の暴力によって流産してしまう。離婚を決意して、勤務先である女性の救護施設に助けを求め裁判を起こすが、アメリカの法廷もまた男性優位で敗訴する。トラウマは解消されずにどこまでも続くのだ。
女の語りは知人や友人に次々とバトンタッチされていく。スミターの同僚のマリアンは作家志望の夫の資料収集に献身するが、書き綴ってきたものを夫に奪われてしまい、彼の願望を内面かして妊娠中絶までする。女性の救護施設に駆けつけ裁判所に夫の盗作を訴えても、男性の判事の前では取り上げてももらえない。インドのスミターの姉の家で働くなるまだーは、義兄によって少女の時から幼年工や下働きに出されて搾取されつづけ、娘になると彼の第二婦人となることを強制される。だが、教育も受けられない下層階級のなまるだーこそ、4人の女たちの中でもっとも肝が据わった中年女性へと成熟していくのだ。彼女の恩人で裁縫店を開く女主人である娘のアシーマーは、自分たち母と子供を捨てて再婚した父を許せず、男を信用しない過激なフェミニストに成長する。そして、帰国した親友のスミターと協力して、インドの村の貧しい女性のために産業興こしの一環として植樹する。子供たちの学校教育にも全力を尽くし、村人を家族のような存在として結びつけるが、痛みを分かち合う女たちの連帯が実に素晴らしい。
先住民の女性たちの、我が子のように植樹を愛する心や、ウッドローズの実に託された自然の再発見にこそ、痛みからの再生があることを暗示している。3・11跡の日本の再生、今後のフェミニズムにも示唆を与える、メッセージ満載の女性文学コレクションだ。
|