2010年1月16日掲載
父を靖国神社から早く取り戻したい
─合祀取消訴訟原告のひとりとして─
松岡 勲
忘却との闘い
私は一九四四年に生まれました。二年前の二〇〇七年から靖国神社合祀取消訴訟に参加しています。この間の裁判を通じて痛切に感じてきたことは、「忘却との闘い」です。私が生まれたときには、父は戦地におり、戦地で亡くなりましたので、一度も父とは会っておりません。そういった意味では、私には父の記憶はなく、普通の庶民には、自分の足跡を文章にあまり残していませんから、わずかな遺品と記憶の断片を、両親の生きた時代のなかに置き直し、父と母が感じたであろうこと、考えたであろうことを想像し、再構成しなければ、戦争に関わる記憶はどんどん退色し、忘却の彼方に消えていきます。裁判のなかで、父と母が生きてきた歴史を考えようとしてきましたが、そのなかで忘却との闘い、記憶との闘いがとても大切なものであると感じてきました。
父の戦死
父、徳一は二度目の召集の一九四五年一月に中国湖北省鄂城県梁子島で戦死しました。三五歳でした。父は百姓で大工でもありましたので、軍隊では工兵隊に所属し、戦死時には最前線におり、現認報告書によると「顱(ろ)頂部左顎部穿透性貫通銃創(脳損傷)」で即死しました。その惨状を想像すると心が痛みます。
父が戦死した時、私の母、春枝は二八歳でした。母は、悪性リンパ腫との闘病の末、〇七年三月、九〇歳で亡くなりましたが、彼女の話によると、私が生まれた日の未明、父は「天保山の桟橋(大阪港)から出航した」そうです。そのため私は、誕生から今日まで六五年間、「まだ見ぬ父」の姿を折にふれ、脳裏に描くことしかできませんでした。
生まれた子の顔を見ることもないまま出征した、戦地の父に宛てて、母は、私の生後八〇日目と生後七ヶ月目の写真を送りました。一枚目は父のもとに届き、喜びの気持を伝えてきた葉書が残っているものの、二枚目の写真は届かず、送り返されてきました。私について触れた父の文章は、このたった一枚しか残っていません。二葉の写真は私のアルバムに今もあります。
私は、母から父の話を聞かされる度に、一度も見たこともない父の姿を必至に瞼に描きました。想像するしか術がありませんでした。母は父の死後、再婚せず、一人っ子の私を育ててくれました。
「父の不在」
母は父の夢をよく見ました。ラジオ放送で「尋ね人」の放送があった頃で、ニュースが「戦死したはずの人が興安丸で舞鶴港に着いた」などと伝えると、かならず翌朝、「お父さんが帰って来た夢を見た」と私に語って聞かせました。我が家は母屋の右手に木戸があり、その木戸から路地になっていました。その奥が洗濯場で、そこで母は毎日洗濯をしていました。夢の中で国民服姿の父が木戸を開けて、「ただいま帰って来ました」と現れます。しかし、それはかなわない夢でした。
また、こんなこともありました。私の子どもの頃は家が貧しいので、大阪まで出かけることはめったになかったのですが、年に一度ぐらいは大阪や十三の繁華街に連れて行ってもらえました。その街角で、私の住んでいた茨木市ではめったに見ることがなかった米軍兵士を見かけると、すれ違いざま振り返って、母に手を引かれた私が、「お母ちゃん、あの兵隊さんがお父さんを殺したのか?」と聞いたと、後年母から聞かされました。
私が三〇歳代後半になった頃の話ですが、教員として修学旅行の取り組みで広島に訪れ、被爆者の方々と出会ったことがあります。お盆前のことでした。家の欄間に飾ってある父の写真をもっと真ん中に移したいと母が言い出しました。普段なら邪魔くさくなり、「また今度」となるところですが、「うん、いいよ」とすぐに引き受けました。被爆者との出会いを経験していたので、「死者」との距離が近くなっていたのだろうと思います。私が写真の額を拭いていたとき、母がこんなことを話し出しました。
「終戦の一年後やったかな、地域の合同慰霊祭があって、午前中親戚が集まり、『お父さんが帰って来る』と聞かされたお前は走りまわって、はしゃいでいた。けれども午後、お寺に行き、白木の箱がならんでいるだけと知って、お前は『お父さん、どこにもいいひん』と悲しそうやった」と母は言いました。私にはその記憶がないのですが、その時の私と母の姿を思い描き、幼い私を見ていた母の視線を感じとり、母をいとおしく思いました。
このようにして、もの心がついて以来、私の心のなかには「父の不在」が棲みつきました。それは母にとっても同様だったでしょう。
戦死についての認識の転換
私は中学生になっても、「イサオくんのお父さんはなぜ死んだの?」と先生や友だちから聞かれると、涙ぐむような子どもでした。一方で、中学三年生の現代社会の学習で、憲法第9条で戦争放棄、武力不保持、交戦権の放棄が決められているのに、「なぜ自衛隊があるのか?」、また、「国民主権であるはずなのに、象徴天皇制であっても、なぜ天皇がいるのか?」と疑問を持つようにもなっていました。
少しずつ私は、父を奪った戦争、父を連れ去った軍隊が嫌いになっていました。父を殺した軍隊についての認識も、外国にまで戦争を仕掛けた日本軍はアジアの人々にとって侵略者なのだというように変わっていました。
私は、一九五八年七月、中学三年生の時に、遺児代表として靖国神社参拝をしました。しかし、参拝で「お父さんに会えた」といった感動もありませんでした。靖国神社は、私にとって父の存在を感じさせてくれるものではなかったのです。
高校三年生の頃のある日、高校の屋上から茨木市街の町並みを眺めていると、不意に「この屋根の下には、生きていると父と同じ年頃の人たちがいるはず」という想念が浮かんできました。息せき切って帰宅するとその思いのうちを真っ直ぐに母にぶつけました。
「お母ちゃん!うちのお父ちゃん、戦争に行ってるんやから、向こうで人、殺しているはずや」と。母は裁縫していた手を止めて、私の言葉を撥ね返しました。母の顔は真っ青でした。「うちのお父ちゃんは、虫も殺さんええ人やったから、絶対そんなことあらへん!」。私は返す言葉がありませんでした。
当時、私の言葉をそのまま母が受け止めてくれると思っていたに違いありません。しかし、高校生になった息子から突然発せられたこの問いに、母は内心は大変な動揺を感じたでしょうが、肯定することもできなかったのだろう、と今は思います。
ゆっくりとした歩みでしたが、父が殺す側にいたという認識を持つようになっていました。しかし、その後、母から拒否された「父と戦争」についてのこの問いかけを母に向けることはできませんでした。八月一五日に毎年行われる全国戦没者追悼式のテレビ中継をじっと見つめる母の背中を後ろから見ているのは、つらいものでした。
母と私を引き裂いた靖国神社
私のなかでは、「父と戦争」との関係をどうとらえるかが、重要な問いとしてずっとあり続けてきました。それは、侵略軍の一員としてアジアや中国の民衆に対した(=殺す側にいた)父が、なぜ靖国神社で「神」として祀られているのか、靖国神社と天皇制との関係とは何かという疑問であり、父の「合祀」に同意できないという気持でありました。
しかし、この気持を母に話すことはできませんでした。わずかな期間の結婚生活しか過ごせず、その後、六〇年以上を独身で過ごした母。むざむざ殺された夫、あるいはひょっとしたら誰かを殺したかもしれない夫、想像を超える無惨な死に方をしたのであろう夫、他の家族のように子どもの成長を見守ることのできなかった夫、この怒り、悲しみ、やりきれなさをいったいどこにぶつければいいのかと彼女は自問自答したに違いありません。湖北省とはどんなところなのか、一月の寒さはどんなだったのか、現認報告書にいう「櫓ノ操作ヲ」する「船」とはどんなものだったのか、「熾烈ナル敵火ノ射撃」とはどのようなものなのか、まるで想像もつかないことを、何度も何度も思い描き、その恐ろしさ、苦しさに思いを馳せたでありましょう。そんな夫を不憫に思い、また、父の顔すら見ないままであった私を不憫に思い、そして、日毎に父と似てくる私に父の面影を探し、私に父を忘れないで欲しいと願ったに違いありません。
他方で、国が、靖国神社が、夫を「英霊」だとほめたたえ、毎年、慰霊祭が国家的行事として行われます。今の平和は、夫の無惨な死のおかげである、その死に感謝を捧げるのだと告げられます。そのたびに母は、吐き出したい思いを抑えこんだに違いありません。だからこそ、「父は誰かを殺したのではないか」との私の問いを、ひたすら否定することしかできなかったのであろうと思います。
靖国神社の合祀通知
母は老齢に入っても元気に過ごし、病気がちの私の妻に代わり孫の養育でも大変世話をかけましたが、八〇歳代後半に入ると足腰が弱くなり、心臓の調子も少しずつ悪くなりました。〇四年暮れ頃には(八七歳)、右顎の下が腫れだし、発病を知りました。悪性リンパ腫とわかったのは翌年で、死去するまで入退院を繰り返し、NTT西日本大阪病院で治療を受けました。悪性リンパ腫の治療完了後、乳癌手術で入院するという二重の病苦でもありました。その後、病状が悪化し、再入院しましたが、もう抗癌剤を使うことができないほどに身体が弱っていました。
〇七年三月に治療の甲斐なく、心不全と悪性リンパ腫が病因で死去しました。母の闘病期間は二年数ヶ月でした。母の最期は、悪性リンパ腫が高齢もあってあまり進行せず、苦しまずに亡くなったのが救いでした。やはり長年の無理が、一気に病気として出てきたと思います。ただ、最後の一年間は、私が定年退職後勤めていた嘱託を一年早く辞め、母の介護に当たれたことはよかったと思います。
子どもの頃から、父の死亡告知書(公報)・現認報告書や戦地の父からの葉書等を母から何度も見せられてきたのに、不思議なことに、父の靖国神社への合祀通知はこれまで見たことがありませんでした。母にも、何かわだかまりがあったのかもしれません。その訳を生前に聞いておかなかったことが悔やまれます。
母が亡くなり、葬儀等がすみ、一段落した〇七年六月、母が父の戦死関係の書類が入っていると言い残した押入を片付け、靖国神社の合祀通知があるかどうか探し、やっとそれを見つけることができました。こんな紙一枚が父を「神」にしたのかと思い、ほんとうに腹立たしく感じました。合祀通知の日付は、一九五七年一〇月でした。私の遺児代表としての靖国神社参拝がこの翌年になります。合祀通知には次のようにありました。
陸軍曹長松岡徳一命
右昭和二十年十一月十九日招魂 本殿
相殿ニ奉還 昭和三十二年十月十七日
本殿正床ニ鎮斉相成合祀ノ儀相済候條
此段及御通知候也
昭和三十二年十月
靖国神社宮司 筑波藤麿
遺族御中
別の棚の遺品の中から、「靖国神社 合祀記念 神盃」が出てきました。「神盃」とあるのには驚きました。やはり「神」にされたのです。同じ所に「大阪知事盃」もありました。大阪府も記念の盃を出していたのです。多分同時期のものと思われます。
また、合祀通知を見つけるより少し前に、母の遺品の写真を整理していると、母が遺族会で行った靖国神社参拝の写真が出てきました。写真の裏のメモによると、母の靖国神社参拝は、一九六〇年、一九七三年、一九七七年の三回でした。母がどんな感情で靖国神社参拝をしたかは、今となっては残念ながら分かりません。母から生前に聞き取れてなかったことを残念に思います。でもやはり、「父と戦争(靖国)」に関わる私と母との対話を不可能にした原因は、靖国神社の「合祀」にあると痛感しました。
靖国神社の不誠実な応答
靖国神社に父が合祀されていることについて、本格的に取り組みたいと私が思い出したのは、〇五年九月に小泉前首相の靖国神社参拝に対しての大阪高等裁判所判決が出され、判決内容についての講演を聞いたその年の暮れ頃でありました。そこで、「母も高齢だし、もうあまり時間が残っていない」と考え、「父と戦争(靖国)」についての対話を再開しようと決心し、出来うるならば合祀に関わる訴訟にも参加したいとも思いました。
それまで、卒業式・入学式で「君が代」が導入された際、子どもの「思想・良心の自由」の保障の問題には熱心に取り組むことはあっても、靖国問題はどうしても越えられない壁が、母と私の間にあり、避けてきたように思われます。
しかし、こう決心したものの、その後、母の悪性リンパ腫が再発し、病の進行の方が早く、話す機会を逸したことは誠に残念でした。母の死によって、永遠に母との対話は閉ざされてしまいました。そして、母の死後、「合祀通知」を見つけて、靖国神社との「合祀取り消し」を求めるやりとりを始めました。
靖国神社に対して、最初に〇七年六月一二日付で質問と合祀取り消しの要求文書を送り、その後、何度かのやりとりをしました。その封書を投函する日、私の子どもの頃から玄関の上に貼られていた「遺族の家」と印刷された真鍮のプレートを外しました。そのプレートには「遺族の家 財団法人大阪府遺族会」(それには遺族会のマークが入っている)と書かれてあり、成人してからもはずさないままでした。私は子どもの頃から、母に「お父さんは靖国神社に祀られている」と言い聞かされてきましたが、このプレートを外し、長年世間から与えられてきた「お父さんが戦死したかわいそうな子ども」、「遺族の家」(英霊の家)という心のラベリングを外したのだと思います。その時の気持は、何かが吹っ切れた感じで、すっきりとさわやかでした。
しかし、合祀取り消しについての靖国神社の回答は、政教分離の原則に反し、戦死者の遺族の敬愛追慕の情・追悼の自由を侵す、憲法に違反する内容でした。また、再回答では、「靖国神社の根幹にかかわる合祀・祭祀に批判的な意見表明」には、「議論することを差し控えさせて戴きたい」とあり、また、「今後も同様の御質問には回答をしかねます」とありました。私が生まれて以来六十数年間の父の不在、私が半世紀をかけて悩みぬいてきた「靖国神社の合祀」、そして母の無念の思いを感じ取り、やっとのことで合祀拒否という結論にたどりついたのに、たった二度の回答で(その回答も質問にまともに答えたものではなかった)、靖国神社が文書による応接を断ったことに大変な怒りを感じました。靖国神社の対応は、遺族の感情や意志を受け止めようとしないものでした。
合祀取消訴訟への参加
私は、すでに一年前から始まっていた靖国神社合祀取消訴訟に、〇七年八月から合流し、その年の一〇月から訴訟の弁論に加わりました。そして、同年八月二二日の午後、靖国神社に直接合祀取り消しの申し入れを行いました。靖国神社では、三〇歳代中頃の神官服を着た調査課の職員が応接しました。
この時、「合祀の了解を母にどうして訊かなかったのですか」と聞きましたが、調査課職員は、「今と時代がちがいますので」(個人情報の保護、宗教法人としての靖国神社のこと等)との応答でした。そして、合祀取り消しを求めましたが、それは応じられない、と拒否されました。「しかし、合祀は一九五七年ですから、戦後の制度では、遺族の意向を聞くのが当然ではないですか」とさらに問うと、「今とちがいますから」と繰り返すばかりでした。また、「それは、やはり現在の感覚ですね。戦死者をお祀りするというのが第一義ですから。それが日本に古くから伝わる神道の形に則って、お祀りするというのが国家の基本として決まっていたのです」とも言いました。彼の「合祀取り消しはできない」という拒否の回答を聞き、事務所を辞しましたが、遺族の了解を得ずに「合祀」したこと、それも戦後になってからの「合祀」であることには納得できませんでした。この靖国神社訪問の主要な理由は、父の合祀取り消しの申し入れにありましたが、もうひとつの理由は中学三年生時の靖国神社遺児参拝の際になにか特別な思い入れがなかったかどうかを確認したかったことにありました。靖国神社を再訪して、遺児参拝から四八年たっていましたが、当時、靖国神社に対して「全く思い入れがなかった」ことを確認できてよかったと思いました。
中学三年生時の靖国神社遺児参拝については、合祀取消訴訟の証人尋問(〇八年九月四日、大阪地裁)で、靖国神社側の弁護士が執拗に聞いてきました。弁護士は、「(母は)祀られて喜んでいたに違いない」と思っていたようですが、それは間違っています。本人調書で、その部分を再現すると次のようになっています。
弁護士 遺児代表としてあなたが神社に参拝に行かれるときは、お母さんはどういう態度だったのですか。
松岡 何も言っていませんね、不思議と。
弁護士 ええっ(のけぞるような、信じられないという言葉が出かかったような声を発した)。
松岡 ええっと言ったって、母親から、おまえはこんな、非常に誉れ高き家庭の息子やから、気張って靖国神社にお参りしといでやというふうに言われた記憶がないのです。それがうちの母親の実像なんですよ。
「父の獲得」へ
靖国神社再訪の際、遊就館を見学しました。遊就館の展示に私の身体全体が拒絶感を示していました。気味が悪かったのは、招魂式に霊璽簿を乗せる「御羽車」でした。御羽車は、招魂祭において霊璽簿を靖国神社本殿に奉還するために用いられたものですが、照明を落とした室内のうす暗がりのなかに置かれていました。御羽車を見て、招魂祭の日の深夜に、誰も見ていないなかをおごそかに戦死者の「みたま」を本殿に奉還する風景を想像し、「うちの父親(の名前)もこれに乗せられたのか。こんな形で『神』にさせられたらたまらないな」と背筋が寒くなりました。
また、裁判の原告になって何が新たに見えたかについてふれますと、それは、靖国神社に「合祀」されている父に対して、私の人生ではじめて真剣に向き合うことができたことです。それは、遊就館で「御羽車」を見たときに「背筋が寒くなった」ことと「それに乗せられ、『神』にさせられた父がとてもかわいそうになった」ことです。言い換えれば、「父との距離が近くなった」のです。ここでも父との距離が遠かったのは、「靖国神社による<合祀>」の介在でした。父は、ただ一人の息子が誕生した瞬間に戦地へ送られ、わずかに戦地よりわが子を気遣う葉書をしたためることしかできませんでした。顔も見ないままのわが子に対する慈しみの深さは想像に余りあります。のみならず、そこで死亡したために、自身が命名した息子である私と共に過ごすことも、その成長を見守ることもかなわないままとなったのであり、その無念さは想像するも哀しい。その上、被告靖国神社と国は、父の死を「天皇のために死んで御国のために奉仕した」者として、「神」として意味づけ、広く世間に流布し、利用し続けてきたのです。私は、父を戦死させられ、死後も父を「神」として祀ること(合祀)により、今も父を奪われたままです。それ故に父の「合祀」を取り消し、父を私の元に取り戻すことを切に望みます。
そのような思考にたどりつけたのは原告となったからです。これまでは「父の不在」が私のメインテーマでしたが、裁判のなかで、これを<靖国神社の合祀から父を取り戻す>(「父の獲得」)へと転轉するものとして臨んでいきたいと思います。
靖国神社合祀取消訴訟は、この二月二六日、大阪地方裁判所で判決がありました。判決は、靖国神社の合祀という行為を「抽象的・観念的行為」であり、「他者に対する強制や不利益の付与を想定することができない」とし、靖国神社を免責するものでした。また、国は合祀のために戦死者の情報を靖国神社に組織的に供与してきたのですが、判決は国の関与(共同不法行為)も否定しました。それを聞いたとき、六五年にわたって靖国神社の合祀によって苦しめられてきた両親と私の人生を「どうしてくれるのか」と怒りを強く覚えました。七月から大阪高等裁判所で控訴審が始まっています。
今私は、母が亡くなる直前まで寝ていた六畳の間で寝起きしています。欄間には父と母の写真がならんでいて、毎日、寝床から仰ぎ見ることになります。父は国民服姿。写真は、一九四四年、二度目の出征直前(翌年戦死)に写されました。年齢は三四歳。一方、母の写真は卒寿の祝いの写真、亡くなる直前の写真です。父の写真は老いず、母のそれは戦後六十数年の苦労を深く刻んでいます。
(「こぺる」09/11)