2007年9月21日掲載
私は靖国神社合祀取消訴訟に1年遅れて合流することになりました。(8月28日の第5回口頭弁論で私の分の合併が確認されましたので、10月16日の第6回弁論から原告として参加します。当日は私の陳述も認められました。陳述書は別途掲載します。)それに先立ち、8月22日に靖国神社に行ってきました。私のなかで訴訟開始にあたっていくつか確認したいことがあったからです。その報告をします。(松岡)
8月22日の午後、横浜での独立組合の全国学校労働者交流集会が終わった後、靖国神社に合祀取り消しの申し入れに行ってきました。
1時半に大鳥居前で友人と待ち合わせたときは、もう最高の暑さで、気分はなえていて、完全に靖国神社への「ひやかし気分」になっていました。
合祀取り消し訴訟の提訴情報がすでに靖国神社に入っている可能性があると弁護団事務局に聞いていましたので、靖国神社側がきちんと応答しないかもしれないと思っていました。しかし、提訴の情報が入っていなかったのか、全然そんな感じがありませんでした。30分程度の応接でした。
30代中頃の神官服を着た調査課の高橋氏が出てきたときには、「うちの息子と同年代かもしれないな」と思いました。彼が「今と時代がちがいますので」(個人情報の保護、宗教法人としての靖国神社のこと等)としきりと繰り返していましたが、「しかし、合祀は1957年(昭和32年)ですから、戦後ですよ」とこちらが言っても、マニュアル通りに「今とちがいますから」一辺倒だったのは、内心笑ってしまいました。あとで、友人が「今後、自衛隊の海外派兵で戦死者が出たとき、どうするのか突っ込みたかった」と言っていたが、やはり緊張していたのでしょう、そこまでは頭がまわりませんでした。高橋氏の「合祀取り消しはできない」という拒否の回答を聞き、事務所を辞しました。
総体的な靖国神社再訪の印象としては、中学3年生のときの靖国神社遺児参拝より48年たちましたが(私の靖国神社遺児参拝が1958年でした)、当時、靖国神社に対して「全く思い入れがなかった」ことを確認できてよかったと思いました。ひとつだけ記憶していた「大村益次郎」の像が「あんなに小さかったのか」とびっくりしただけでした。遊就館もただキッチュなだけで、なんの興味も感じませんでした(また、後日、じっくりその展示内容を吟味する必要はありますが)。ただ気味が悪かったのは、招魂式に霊璽簿を乗せる「御羽車」でした。「うちの父親(の名前)もこれに乗せられたのか」と背筋が寒くなりました。
最後に提訴したことによって何が新たに見えたかについてふれますと、「父との距離が近くなったこと」です。遊就館で「御羽車」を見たときに「背筋が寒くなった」ことと「それに乗せられた父がかわいそうになった」ことがその理由ですが、そのような思考にたどりつけたのは提訴の結果です。次回の弁論から原告になる訳ですが、こらからの長い裁判のなかで、これまでは「父の不在」が僕のメインテーマであったのですが、これを「父の存在(獲得)」へと転轉するものとして裁判を取り組んでいきたいと思います。