2006年10月24日掲載
安倍式「教育改革」における〈2つの危うさ〉。
2006年10月20日、鈴村明(教育問題研究者)。
【はじめに】、伊吹文科相の「教育基本法の大幅改正」論。
1947年に制定された教育基本法が、文字どおり戦後最大の危機を迎えている。安倍新首相は、今国会における教育基本法改悪法案成立を「最重要課題」と位置づける、と繰り返し明言している。また、この間、教育基本法の改悪を目論む勢力は、伊吹文明文部科学大臣による、〈あと20時間から30時間の審議が行なわれれば十分〉との発言、中川秀直自民党幹事長による、「歩み寄れるものは歩み寄ったらいいが、時間が来れば採決するのは当然だ」との発言(NHK、10月1日)など、数の力で政府案を成立させようとする姿勢をあらわにしている。
伊吹文科相は、自民党伊吹派の会長であるが、この派閥(志師会)は、議員時代の中曽根康弘元首相が所属していた派閥であり、安倍首相の出身派閥である自民党森派(清和政策研究会)と同様に、教育基本法改悪に執念を燃やしている政治集団である。その派閥(志師会)の伊吹文明会長は、「今こそ改革する保守の秋(とき)、品格ある国家をめざせ」というタイトルの「論考」の中で、「日本国憲法の改正、教育基本法の大幅改正が必要」と強調している(『自由民主』誌05年12月号)。伊吹会長の教育基本法改悪への姿勢は、安倍首相が所信表明演説の中で「教育の目的は、志ある国民を育て、品格ある国家・社会をつくること」としながら、教育基本法改悪法案の早期成立について表明している姿勢と全く同じものである。伊吹文明氏(元労相、元国家公安委員長)がまとめた「論考」の特徴の第1は、小泉改革を全面的に支持し、「競争資本主義」「市場原理による競争社会」「弱肉強食、利益誘導、強者の論理」を容認し、日本の社会システムを「アメリカ型システムに変える改革は避けえなくなっている」としていることにある。伊吹氏の「論考」の第2の特徴は、伊吹文明氏が小泉構造改革に賛同しながらも、「競争資本主義になればなるほど当事者の自己抑制、人間力が大切になる」等と述べ、格差が拡大する競争社会における〈日本人らしい道義・道徳なるものの復権〉を強調していることである。そして、伊吹文明氏は、道徳的な「人間力の回復には、良き慣習や伝統の継承を基本に家族のあり方を見直し、地域社会を復権することが求められる」と論じ、「そのためには日本国憲法の改正、教育基本法の大幅改正が必要になる」と結論づけているのである。伊吹氏は、この論考の中で、かつて存在した「日本人の律儀な生き方」「日本社会に根づいていた良俗、社会の規範」「日本人の道義・道徳」について繰り返しふれている。そして、伊吹氏は「かつて日本人が持っていた社会の規範のようなものはどこへいってしまったのか。それらを保守主義の理念のもとで取り戻すことが、日本再生の鍵になる」と強調しているのである。このように、過酷な競争社会に耐えられるような〈日本人らしい日本人づくり〉と〈日本の再生〉を重視する考えの持ち主だからこそ、伊吹文科相は、「毎日新聞」のインタビューに答え、「現行(教育基本法)法自体は立派な法律だと思いますよ。しかし、日本には日本の文化、伝統があり、祖先が積み上げてきた社会規範があった」等と述べ、〈現行法には、日本独自の社会規範が薄い〉等と断罪し、〈政府案には、その日本の社会規範を入れている〉等と語っているのである。
そして、伊吹文科相は「前の国会で50時間審議しています。この程度のボリュームの法案だと、審議は70~80時間やれば十分なんだよね」と本音を語っているのである(「毎日新聞」10月7日付、東京朝刊)。つまり、伊吹文科相は「あと20時間から30時間の審議が行なわれれば良い」という本心を明らかにしているのである。これは、「教育基本法に関する特別委員会」を数日間(1日7時間の審議)だけ開催し、その後、「与党単独の採決も辞さない」という立場の表明である。しかし、自民党の加藤紘一氏(元幹事長)が、自らのホームページ上で語っているように「教育基本法という憲法に準ずるような重い法律を、乱闘と強行採決で作るべきものでもない」ことは明らかであろう。つまり、伊吹文科相は、「憲法に準ずるような重い法律」である教育基本法を、根底から覆す政府案について、「この程度のボリュームの法案」等と勝手に判断した上で、与党による単独採決を狙っているのである。臨時国会の「教育基本法に関する特別委員会」において、政府案を強行採決するようなことがあれば、それは、日本の教育の将来に大きな禍根を残すことになる。重大な問題は、教育法規に詳しい研究者や教育学者も指摘しているように、政府提出の教育基本法改悪案には、まだ審議されていない論点が限りなく残っており、伊吹文科相や中川秀直幹事長の発言は、それらの論点を封殺する姿勢に満ちていることである。
このように、教育基本法をめぐる国会情勢は、予断を許さない緊迫した状態が続いている。もちろん、政府案の成立に野党が一致して反対している点、参議院でまったく審議されていない問題などがあり、改悪法案をくいとめる条件もある。
本稿は、こうした緊迫した情勢をふまえつつ、安倍新政権が進める「教育改革」における、〈2つの危うさ〉について明らかにする。安倍新政権が進める「教育改革」の危険性が、多くの人々の中に広がれば、教育基本法改悪に危惧し、反対する世論や運動も進展していくと考えるからである。
【第1節】安倍政権が目論む「教育改革」の危うさ(その1)――「歪んだ歴史認識とナショナリズム」、そして「改憲への精神」。
第1に、安倍政権が目論む「教育改革」の危うさは、この安倍新政権が、きわめて危ない内閣である点に関連している。「アベ内閣(安倍内閣)は、アブ内閣(危ない内閣)」と揶揄されているように、安倍新政権は、極めて危険な内閣である。
安倍首相の「過去の経歴」をみれば明らかなように、安倍氏は非常に右翼的な政治家と言えるだろう。それを示すため、以下、教科書ネットの俵義文氏の論考「危険な『なかよし内閣』はこうしてできあがった」(『週刊金曜日』626号)を参考にして、安倍氏の主だった経歴(過去の役職)を紹介する。
○ 自民党「歴史・検討委員会」の委員(『大東亜戦争の総括』を刊行)。
○ 「日本の前途と歴史教育を考える若手議員の会」のメンバー(リーダー格)。
○「終戦50周年議員連盟」の事務局長代理。
○「明るい日本、国会議員連盟」の事務局長代理。
○「神道政治連盟国会議員懇談会」の事務局長。
○「日本会議国会議員懇談会」の副幹事長。
さらに、安倍内閣では、教育再生担当の首相補佐官に、ジェンダーフリー・バッシングを展開してきた山谷えり子議員(前・内閣府大臣政務官)が就任している。また、青少年育成行政を兼務する内閣府特命担当大臣には、自民党森派の高市早苗・元衆院文部科学委員長が就任し、同じく自民党森派の下村博文・元文部科学大臣政務官が内閣官房副長官に就任した。これらの政治家のうち、下村博文氏は、教育基本法改正促進委員会の委員長代理であり、高市早苗氏は、教育基本法改正促進委員会の副委員長であり、山谷えり子氏は、教育基本法改正促進委員会の理事である。このように、安倍内閣は、教育基本法を改悪し、「首相官邸主導の教育改革」をすすめるための布陣を再編・強化しているのである。
また、「アエラ」誌06年10月16日号のトップ記事「『安倍学校』の圧迫感」が、写真と図式で明らかにしているように、安倍首相をはじめ、「日本の前途と歴史教育を考える議員の会」に所属する政府関係者は、民間団体の「日本教育再生機構」(代表=八木秀次高崎経済大学教授、元・新しい歴史教科書をつくる会会長)と「協力関係」を結んでいるのである。
安倍氏じしん、現行の教育基本法に対する批判を繰り返しており、「日本の国柄」を盛り込んだ教育基本法に変えるべき、と主張している。例えば、安倍氏は、「基本法は、『無国籍』だとよく言われるように、日本の歴史や国柄は一言もふれられていない。いってみれば、日本の香りがしない」、「GHQの民間情報局の干渉によって」「日本人としての自覚やアイデンティティーを育てる視点が全く欠落してしまいました」等と述べている(中西輝政編『サッチャー改革に学ぶ教育正常化への道』PHP)。 その一方で、安倍氏は、自著の中で「日本では、天皇を縦糸として歴史という長いタペストリーが織られてきたのは事実」「日本の国柄をあらわす根幹が天皇制である」と力説しているのである(『美しい国へ』)。つまり、安倍氏は、天皇制を中心とする「伝統や文化や歴史を大切にする」教育、すなわち「日本の国柄」教育を考えているのである。結局、安倍氏は、現行の教育基本法を改悪し、〈新しい教育基本法〉の中に「日本の歴史や国柄」を書き込み、「日本人としての自覚やアイデンティティーを育てる視点」を挿入しようとしているのである。
そのほか、安倍氏が、どのように教育基本法を批判しているのか、その事例をいくつか紹介しておこう。
(1)「教育基本法改正をめざす中央国民大会」(04年11月)での挨拶から。
「ご紹介いただきました自由民主党幹事長代理の安倍晋三でございます。自由民主党を代表いたしまして一言ご挨拶申し上げたいと思います。来年わが国は敗戦から60年を迎えるわけでございます。占領軍がいるときに、この教育基本法は占領下においてできた。そして憲法が成立をし、戦後体制が整ったわけであります。占領をうけているときにできた体制がこのまま延々と続いている。これはまさに占領時代の残滓といえる、こう思うわけであります。60年というのは一つの周期であります。これを期に我々はそこから脱しなければいけない、と考えています。ですから、われわれ自由民主党は昨年の衆議院選挙においての党の公約においても、また参議院選挙の党の公約においても、教育基本法の改正と、そして憲法の改正を公約に謳っているところであります(以下略)」。
(2)雑誌『正論』(05年1月号)の座談会における発言から。
「基本法前文は、『われらは、さきに、日本国憲法を確定し、民主的で文化的な国家を建設して、世界の平和と人類の福祉に貢献しようとする決意を示した。この理想の実現は、根本において教育の力にまつべきものである・・・・ここに、日本国憲法の精神に則り、教育の目的を明示して、新しい日本の教育の基本を確立する』と書かれています。しかし、そこで実現を目指すという憲法の理想や精神は、『平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して・・』という前文にみられるように、国際情勢の認識に全く合致しない認識に基づく空理空論に過ぎないことを、今や多くの国民が理解しています」。
(3)『安倍晋三対論集―日本を語る』の中の記述から。
「憲法の理念を実現する人間を育成するためにつくられたという点で、教育基本法は憲法といわばワンセットの関係にあります。ですから、当然これも、いまの時代にふさわしいものに変えていく必要があります。教育基本法は1条から11条までと非常に短いものですが、どの条項もそれなりに立派なことが書いてあります。しかし、読んでいても、『これが日本の』教育基本法であるといった香りがまったく漂ってこないのです。例えば、国家とか地域、歴史、家族の大切さといったものが、まったく書かれていないからです。そして、(中略)『公のために奉仕する』という価値観についても、いっさい触れられていません。そうした点からも、新しい教育基本法をつくっていく必要があると思います」。
以上、安倍氏の発言を3つ紹介したが、安倍氏は、憲法や教育基本法を「占領時代の残りかす」と批判し、教育基本法の前文に明記された「憲法の理想や精神」を「空理空論」と批判し、そして、教育基本法に対して、「憲法の理念を実現する人間を育成するためにつくられた」ので、憲法とともに変えなければならない、と主張している。つまり、安倍首相は、自らの〈改憲への精神〉を〈教育改革の活力源〉にしているのである。そして、安倍首相は、伊吹文科相と同じように、現行法を廃止し、「日本の香り漂う教育基本法」に変えようとしているのである。安倍首相は、自らの内閣を「美しい国づくり内閣」と命名しているが、統合右翼組織の「日本会議」も、「私達『日本会議』は、美しい日本を守り伝えるため、『誇りある国づくりを』を合言葉に、提言し行動します」と強調している。この点、安倍内閣が掲げる「美しい国・日本」論は、「日本の国柄」や「日本民族固有の伝統・文化」等の〈美しさ〉なるものを重視する右翼団体の主張と酷似しているのである。
また、安倍氏は、『正論』誌上の座談会(05年1月号)の中で、「前回の中学校歴史教科書の採択でストライクゾーンど真ん中の記述ばかりであった扶桑社教科書の市販本は百万部近く売れて国民に支持されたにもかかわらず、教育現場での採択は惨憺たる結果になりました。現状の採択の仕組みでは、大多数の国民の良識が反映されないどころか、否定されてしまうわけです。この状況を変えていかなければならない」と述べている。つまり、安倍首相は、〈歴史を歪曲する教科書〉を美化し、「つくる会」教科書が採択されない「状況を変えていかなければならない」と語っているのである。さらに、安倍氏は「長い歴史を紡いできた日本という『美しい国』を守るためには、一命をも投げ出す確固たる決意が求められる」と語っている政治家なのである(安倍晋三「『闘う政治家』宣言―この国のために命を捨てる」、『文藝春秋』誌06年9月号)。
【第2節】安倍政権が目論む「教育改革」の危うさ(その2)首相がトップダウンで実現を目指す「教育改革」(教育の新自由主義的・新保守主義的改革)。
第2に、安倍政権が目論む「教育改革」の危うさは、この安倍新政権が、「首相官邸主導の教育改革」をトップダウン方式で強引に進めようとしている点にある。安倍首相は、内閣に「教育再生会議」を設置し(10月10日)、初会合を開催している(10月18日)。そして、安倍首相は、この「教育再生会議」を援用して「首相官邸主導の教育改革」を進めようとしている。既に、地方紙は、この事態に対して「審議するテーマも、学校間の競争を促す『教育バウチャー(利用券)』制度や、外部の学校評価制度導入、教員の管理強化につながりかねない教員免許の更新制など、教育現場の管理や競争を加速させるものばかりだ」「再生会議の限られたメンバーが教育改革の内容や方向を決定し、首相がトップダウンで実現を目指すという政治手法は、首相自身が提唱する『公教育の再生』につながるのだろうか」と、強い懸念を呈している(「北海道新聞」10・16)。安倍首相が進める「教育再生」策には、新自由主義的側面(競争主義と市場原理、「能力」主義)と新保守主義的側面(規範意識と公の精神、「道徳」主義)との両面がある。その点をふまえ、いくつかの問題について解き明かすことにする。
(1)学校選択制の全国化と教育バウチャー制度の導入問題――学校間競争の激化。
安倍内閣は、「教育の再生」策の中で、学校選択制を全国的に導入し、教育バウチャー(利用券)制度にしていく、としているようである。安倍氏は、自著の中で「バウチャーとは、英語でクーポン券のようなもののことを言う。アメリカでは、私立学校の学費を公費で補助する政策をスクール・バウチャーと呼ぶ。それによって保護者はお金のあるなしにかかわらず、わが子を私立にも公立にも行かせることができる」などと語っている(『美しい国へ』)。しかし、ここには、ゴマカシがある。「教育バウチャー制度とは、子どもの学校に必要な経費を補償するバウチャー(利用券)を当局から交付された親が、それを自分が選択する学校に提出し、学校は親から受け取ったバウチャー(利用券)を当局に提出して、それに見合う分の経費をもらい学校の維持・運営費に充てる、というもの」である(山住正己ほか編『現代教育学事典』を参考に記述)。問題は、バウチャー(利用券)を当局から交付された親は、経済力に応じて、バウチャー(利用券)に加算できる仕組みになっている点である。そこで、各学校の側は、自分の学校に親を引きつけるために、他校との激しい競争を強いられることになるのである。そして、このような仕組みの中で、学校を選択する側において、経済力のある家庭が圧倒的に優位にたち、経済力のない家庭は不利な立場に置かれることになり、教育における「社会的不平等」状況は拡大し、教育における格差が固定化してしまうのである。また、人気のある学校には、生徒もバウチャー(利用券)もあつまり、学校の運営費をまかなえるが、人気のない学校には、生徒もバウチャー(利用券)もあつまらず、学校の運営費をまかなえなくなり、最悪の場合、廃校の道を選ぶことになる仕組みである。「教育再生会議」の渡辺美樹ワタミ社長は、「教育現場にも競争原理を働かせるべきだ。だめな学校はつぶれてもいい」と述べ、「私は異論も多い教育バウチャー(利用券)制度の導入も訴えたい」と語っているが、「だめな学校はつぶれてもいい」という姿勢と「教育バウチャー制」とは、繋がっているのである(「日本経済新聞」10月13日付「ワタミ社長・渡辺美樹、教育再生を聞く『だめな学校つぶれていい』」)。
(2)「義務教育の構造改革」について――〈事後チェック〉を踏まえた、国への〈法的権限〉の付与。
安倍首相は、自著『美しい国へ』の中で「義務教育の構造改革」にもふれているが、この「構造改革」は、国(政府、あるいは文科省)が「教育の目標」を法定し、その目標の達成にむけた教育を「学校、市町村」に実施させ、その結果、国が設定した教育水準に達しているかどうかを〈事後チェック〉し、点検する方式の導入のことである。そして、国が〈問題あり〉と認定した「学校、市町村」あるいは「教師」に対して、国が〈改善措置〉をとれるように、国に〈法的権限〉を与える、という考えである。こうした考え方に立っているからこそ、安倍氏は、自著の中で「全国的学力調査を実施、その結果を公表すべきではないか。学力調査の結果が悪い学校には支援措置を講じ、それでも改善が見られない場合は、教員の入れ替えなどを強制的に行えるようにすべきだろう」等と書いているのである(『美しい国へ』)。そして、安倍氏は『美しい国へ』の中で、「ぜひ実施したいと思っているのは、サッチャー改革がおこなったような学校評価制度の導入である。学力ばかりだけでなく、学校の管理運営、生徒指導の状況などを国の監督官が評価する仕組みだ。問題校には、文科相が教職員の入れかえや、民営への移管を命じることができるようにする」と主張するのである。
また、安倍首相は、自著『美しい国へ』の中で、かつてイギリスのサッチャー政権が、教育水準局を設置し、国が設定した「水準に達しないことがわかった学校は、容赦なく廃校にした」改革を高く評価し、「この改革は、現場教師から猛反対をくらうことになった。国会にはデモ隊が押し寄せ、教育大臣の人形が焼かれたり、教員のストが半年も続いたりした。しかし、サッチャーはいっさい妥協しなかった。そしてついに改革をやり遂げたのである」と絶賛している。このように、安倍首相は、現場教師から強い反発があることを覚悟の上で、「教育の再生」策を強引にすすめようとしているのである。
(3)教員に対する管理統制策―「ダメ教師にはやめていただく」論。
安倍首相は、「教員免許の更新制度の導入をはかる」とし、教師の適否を教員免許更新制によって点検しようとしている。安倍首相は、自著においても「教員の質の確保」問題で、「教員免許の更新制度を導入するのも一つの方法」とし、「ダメ教師には辞めていただく」と力説している(『美しい国へ』)。このように、安倍内閣は、現場教師に対する締め付け策などを、抜本的に強めようとしている。安倍氏の側近の一人、下村博文内閣官房副長官は、週刊誌の記者から「『ダメ教師をクビにする』は、どう実現しますか」と問われ、「現在の文科省では教員をやめさせる力がない。だから官邸主導でやる。ただ評判が悪いという理由で、やめさせるのもかわいそうだから、第3者機関をつくって先生の指導ぶりを査定する」と語っている(前掲「アエラ」誌)。
また、自民党政務調査会は、同党の文教関係の部会と合同で『国家戦略としての教育改革』という文書をとりまとめており(06年6月)、その中の「教員評価(努力するものには報い、資質に欠ける者は教壇から排除)」という項目の中で、「優れた教員は国として顕彰し、指導力不足教員への対応は一層厳格に行う」「優れた教員には昇給やボーナス増額、指導力不足教員には給与減額など、現場の教員評価を人事や給与などの処遇に反映させるよう促す」としている。このように、安倍内閣は、国が設定した教員評価の基準をもとにしながら、アメとムチによる施策を導入し、教員一人一人を、競争原理によって分断し、支配しようとしているのである。
(4)「高い学力と規範意識を身につける機会の保障」策――「過度に競争主義的な教育制度」の徹底、そして、児童生徒の「出席停止措置」も含む厳しい措置。
安倍首相は、「公教育の再生」として、「高い学力と規範意識を身につける機会の保障」を力説している。第1に「学力」問題だが、安倍首相は、自著の中で「全国的学力調査を実施、その結果を公表すべきではないか。(中略)学力テストには私学も参加させる。そうすれば、保護者に学校選択の指標を提供できる」等としている(『美しい国へ』)。このように、安倍首相は、全国学力テストの実施によって、日本中の子どもと学校を、今以上に「過度に競争主義的な教育制度」のもとにおき、そして「学校選択制」を推進しようとしているのである。安倍首相の側近の一人・下村博文氏(現・内閣官房副長官)は、「公立学校には、競争原理は働いていません。『児童生徒が集まらなければ淘汰されるかもしれない』という緊張感がない」とし、教育バウチャー制に基づく学校選択制の導入を強調している(下村「公立小中学校の独立行政法人化という究極の改革に向けて」『法律文化』誌06年3月号、東京リーガルマインド社発行)。このように、「学校選択制」とは、学校間の競争を激化させる制度なのであり、安倍首相は、その制度のために「全国学力テストの結果を公表すべき」と論じているのである。
第2に、安倍首相が、公教育の世界を「高い規範意識を身につける」ための場所に変えようとしている問題である。安倍氏は、イギリスを例にあげながら「問題を起こす児童・生徒に対する教員のしつけの権限を法制化」する措置に言及し、「善悪のけじめをきちんとつけること、犯罪の芽を初期の段階で摘むことに重きをおく」施策に言及している(『美しい国へ』)。実は、安倍氏が提案しているような「規範意識の醸成」策については、すでに関係閣僚会議の一つである「青少年育成推進本部」によって進められているのである(なお、いずれ、安倍首相は「青少年育成推進本部」の本部長に就任することになっている)。例えば、国立教育政策研究所生徒指導研究センターは、生徒指導体制についての報告書をとりまとめ、問題のある児童生徒に対する「出席停止措置」の徹底を強調しはじめている(06年5月22日)。そして、この流れをふまえ、政府は、教育基本法改悪案にも「学校生活を営む上で必要な規律を重んずる」という規定を入れているのである(「第6条」案)。
(5)徳育・道徳教育の重視、奉仕・ボランティア活動の義務化策。
安倍内閣は、道徳教育や奉仕ボランティア活動を強化する方向性も打ち出している。実際、安倍氏は自著の中で、「モラルの回復」の一環として、「たとえば、大学入学の条件として、一定のボランティア活動を義務づける方法が考えられる。大学入学の時期を原則9月にあらため、高校卒業後、大学の合格決定があってから、約3ヶ月間をその活動にあてるのである」としているのである(『美しい国へ』)。また、安倍首相の側近の一人である下村氏も、「新しい教育基本法は、愛国心ばかり注目されるが、『公の精神』が入っている。まずは、教育基本法を改正し、『徳育』に取り組む必要がある。徳育の一環として、公に尽くす奉仕活動を必修化したらいい。大学入学予定者は、9月までの半年間、小中学生は1週間以上の奉仕の時間をあてる」と語っている(前掲「アエラ」誌)。
安倍首相は「規律ある人間」づくりや「高い規範意識の醸成」策を重視するとともに、〈奉仕ボランティア活動の義務化〉を具体化しようとしているのである。
(6)〈国策教育プラン〉の新段階―教育新生プランから教育再生プランへ。
安倍内閣は、自らの内閣に「教育再生会議」を設置し、その再生会議の最終報告をもとに、「教育再生プラン」を策定しようとしている。仮に、教育基本法が政府案どおりに改悪されてしまえば、内閣に「教育振興基本計画」の策定権限が付与されてしまうことになる(「第17条」案)。「教育改革国民会議」の場合も、その最終報告に基づいて「21世紀教育新生プラン」が策定された。そして、2003年3月20日の中教審答申は、「21世紀教育新生プラン・・は、文部科学省の施策の枠内で取りまとめられたものであり、政府全体として教育の重要性に明確な位置付けを与え、総合的に取り組む計画とはなっていない」としているものの、この「教育新生プラン」を「教育振興基本計画」策定の参考例にしていたのである。
2001年、文部科学省が策定した「教育新生プラン」の中に「『心のノート』の作成・配布」が明記されたことをうけ、2002年度より、この国定教材が配布されている。ただし、教育改革国民会議の最終報告は、〈道徳を教科にする〉という提案もおこなっていたが、それは「21世紀教育新生プラン」には明記されなかった。しかし、今回、安倍内閣が教育基本法の改悪案を成立させてしまえば、内閣に設置された「教育再生会議」がつくるだろう最終報告の内容を、すべて盛り込んだ「教育再生プラン」が作られてしまい、その実施状況が点検されることになってしまうだろう(首相官邸主導の国策教育プランの策定と実施)。そして、安倍首相の言う「美しい国・日本へ」と突き進むために、「学校」「教師」「子ども」間に〈競い合い〉が持ち込まれ、問題のある「学校」「教師」「子ども」に対して、容赦ない措置がとられる事態になってしまうかもしれないのである。そして、こうした事態は、「教育の再生」なのではなく、「教育の破壊」そのものなのである。
【おわりに】、教育基本法改悪と安倍流「教育再生」策にストップを!。
以上、安倍式「教育改革」における〈2つの危うさ〉についてみてきたが、最後に、サッチャー改革と安倍流「教育再生」策について少しふれておく。周知のように、安倍首相は、英国のサッチャーによる教育改革をモデルにして、教育基本法を改悪し、安倍流「教育の再生」策を進めようとしている。しかし、この問題で『東京新聞』は、「教育基本法改正―『サッチャーモデル』で大丈夫?」という見出しの記事を書いている(10月18日付朝刊「こちら特報部」)。同紙によれば、サッチャー式の教育改革は、小中学校に統一テストを持ち込み、その成績で子ども達を「輪切り」にし、「公立校に市場原理」を導入する手法である。『東京新聞』は、このように〈サッチャー流の教育改革〉を解説した上で、次のように続ける――「学校は文字どおり自由競争にさらされ、全体の実力が底上げされる“はず”だった。ところが実態は違った。むしろ、教育改革は失敗だったとの反省が深まり、導入をはじめた保守党内からも『(現行の)教育体制に終止符を打つ』といった声まであがっている」と。このように、安倍首相が「教育再生」のモデルとして絶賛している〈サッチャー式教育改革〉は、同国で〈失敗だったとの反省が深まっている改革〉なのである。実際、少なくない日本の教育学者も、〈サッチャー式教育改革の問題点〉を指摘しており、例えば、千葉大学の片岡洋子教授(教育学)は、「安倍首相が成功例として持ち上げるイギリス教育改革では、学校の成績が比べられ、それによって予算配分が決まるという学校間競争のなかで、学校にとって都合の悪い子どもは小学生さえ退学させられる」という事実を紹介しているのである。このように、教育学関係者の間では、〈サッチャー式教育改革は失敗だった〉という評価の方が、むしろ常識なのである。
結局、安倍流「教育再生」策は、現代日本の子どもと学校を、〈今以上の格差と競争の世界〉に引き入れる「教育改革(改悪)」なのであり、決して「高い学力」を保障するものなのではない。同時に、安倍流「教育再生」策は、現代日本の子どもと学校に、〈今以上の規律と管理の世界〉を持ち込むための「教育改革(改悪)」なのであり、小中学校と高校・大学に圧迫感をもたらすだけの「教育改革(改悪)」である。先の「アエラ」誌の記事「『安倍学校』の圧迫感」は、「教育再生」を進めようとする安倍首相の本音を代弁し、「ダメ教師も、ダメ子どもも、ダメ親も、みんなサヨウナラ。勉強も、モラルも、歴史観も、たたき直します。主義を同じくする側近たちと、国のための教育『再生』スタート」と書き、記事のリードに置いている。この表現は、かなりリアルなものであり、安倍首相の「教育再生」策がスタートしてしまえば、この数行が示す教育が現実のものになってしまうだろう。しかし、こうした事態は、なんとしても避けなければならないし、安倍流「教育の再生」策をスタートさせてはならない。そして、そのためにも、教育基本法の改悪をなんとしてもくい止めなければならないのである。