学校の外から

「政府提出・教育基本法改悪案」批判
「心のノート」問題もふまえて

2006年5月21日掲載

06年4月30日 鈴村明(教育問題研究者)

(はじめに)。

自民党と公明党の検討委員で構成される「与党教育基本法改正に関する検討会」は、2006年4月12日、焦点になっていた愛国心表記に関する合意に達し、翌13日、検討会の上部機関である「与党教育基本法改正に関する協議会」は、検討会の合意をうけ、18条立ての「与党・教育基本法改正案」(教育基本法改悪案)を与党「最終報告」としてとりまとめ、政府・文部科学省に提出しました。そして与党協議会に参加する「両党の幹事長らと会談した安倍官房長官は『早速、法案の作成作業に入りたい』と述べ、最終報告に沿った形で改正案づくりを進めて、大型連休の前後に提出し、今の国会で成立をめざす方針を確認」していました(4月14日NHKニュース)。

 そして、4月28日、小泉内閣は、閣議で「教育基本法改正案」を決定し、国会に提出しています。この政府提出の教育基本法改悪案は、与党「最終報告」の基本法改悪案に極めて忠実なものです。両者の違いは、「第2条・教育の目標」と「第5条・義務教育」等に於ける字句が少し変わった点と「第12条・社会教育」の内容が少し変わった点にあるだけです。そして、政府提出の基本法改悪案は、「第1章・教育の目的及び理念」「第2章・教育の実施に関する基本」「第3章・教育行政」「第4章・法令の制定」という章立てをつけており、この点も変わりました。
以下、この「政府提出の基本法改悪案」についての批判と分析をおこなっていきます。また、本稿では、国定教材「心のノート」と基本法改悪案との関連にも少しふれることにします。

(第1章)「政府・教育基本法改悪案」の諸問題。

まず、「政府提出の教育基本法改悪案」の狙いに関わって、5つの点を指摘しておきます。
【1節】「憲法改悪後の人づくり」と「政府・基本法改悪案」。

第1に、憲法改定問題との関係です。現行法は「前文」の冒頭で「われらは、さきに、日本国憲法を確定し、民主的で文化的な国家を建設して、世界の平和と人類の福祉に貢献しようとする決意を示した。この理想の実現は、根本において教育の力にまつべきものである」と明記し、憲法と教育との本質的関係を明示しています。教育法令研究会編『教育基本法の解説』は(国立書院、1947年刊)、憲法の理想の実現に向け「国民の教養と徳性の向上」が必要で、そのためには「政治的、経済的な、いわば外的な条件を整えることも、もとより必要であるが、根本においては、直接人間の教養と徳性の向上をめざす教育の力によらなければならないのである」とし、現行法の前文に「根本において教育の力にまつべきもの」と書かれている理由について解き明かしています(『教育基本法の解説』は、文部省の公式解釈書ではないものの、教育基本法制定過程に深く関与した元文部省調査局参事が監修した書物であり、その点で教育基本法の立法者意思を明らかにしている唯一の文献といえるものです。以下、『解説』と略記)。しかし、政府提出の基本法改悪案は、憲法と教育との本質的関係を否定・分断し、「前文」案の書き出しを「我々日本国民は、たゆまぬ努力によって築いてきた民主的で文化的な国家をさらに発展させるとともに、世界の平和と人類の福祉の向上に貢献することを願う」に変え、「理想の実現」という言葉をのこしながらも、現行法に明記されている「憲法の理想の実現は、根本において教育の力にまつべきもの」という重要な文章を削除しています。
マスメディアは、与党「最終報告」がだされた際に、「憲法の理想」を削除している問題をとりあげることなく、〈与党「最終報告」は「憲法の精神に則り」といった文言を残した〉という部分だけを報道していましたが、この記述だけなら、憲法改悪後にも有効なのです。もともと、現行法の前文に明記された「憲法の精神に則り」は、「憲法の精神と同じ世界観に立って教育の理念を立てるとともに」「憲法の精神に則り、その規定の趣旨を拡充する」という意味の一句です(『解説』)。しかし、小泉内閣(政府与党)は「憲法の精神と同じ世界観に立って教育の理念」を立てているでしょうか。また、小泉内閣(政府与党)は「憲法の精神に則り、その規定の趣旨を拡充」しているでしょうか。こうした問題を考えれば明らかなように、政府提出の基本法改悪案の中に、「日本国憲法の精神に則り」とあるのは、国民やメディアを騙し、基本法改悪を実現するための方便に過ぎないのです。
(基本法改悪後の「政治教育」の問題点):現行教育基本法の前文のうちで最も重要なのは「われらは、さきに日本国憲法を確定し、民主的で文化的な国家を建設して、世界の平和と人類の福祉に貢献しようとする決意を示した。この理想の実現は、根本において教育の力にまつべきものである」と書かれている点にあり、この点にこそ現行法の核心があります(憲法との一体性、不可分性)。つまり、政府提案の基本法改悪案は、現行法の「憲法を確定し、民主的で文化的な国家を建設して、世界の平和と人類の福祉に貢献しようとする決意を示した」という一文から、「憲法を確定し」を削除し、「憲法の理想の実現は、根本において教育の力にまつべきものである」という箇所を削除しているのです。こうした「前文」改悪は、「政治教育」の問題に直結します。政府案の「第14条・政治教育」案の第1項は、「良識ある公民として必要な政治的教養は、教育において尊重されなければならない」となっており、この条項は、第2項も含め、現行法と全く同じ文面のままですが、政府・改悪案は「憲法の理想の実現は、根本において教育の力にまつべきもの」という教育理念を削除し、抹殺しています。ですから、現行法の「第8条・政治教育」が憲法教育を最も重視していたのと異なり、基本法の改悪後には「憲法は『良識ある公民として必要な政治的教養』の一つかもしれないが重視しない」、あるいは「今は、改憲時代なのだから、憲法は『良識ある公民として必要な政治的教養』とは言えない」ということになってしまい、その結果、「今後は憲法教育を重視しない」、「憲法教育はおこなわない」、あるいは「憲法など教えない」、「憲法を教えてはならない」という事態になってしまうのです。以上のように、政府提案の基本法改悪案は、改憲志向の小泉内閣(政府与党)が作成した教育基本法改悪案なのです。
また、政府提出・改悪案は、「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛する」という「愛国心」規定を入れ(第2条案)、国家主義的な「公共の精神」や国家公認の「道徳心」も重視しています。これらは憲法改悪を先取りする内容ですが、政府提出・改悪案に基づき、教育基本法が改悪されてしまうと、国家主義的な「公共の精神」や特定の「愛国心」などが、「良識ある公民として必要な政治的教養」として重要視されることになってしまうのです。そして、学校教育法にも「愛国心」や「公共の精神」規定などが入ることになり、社会科などの学習指導要領も改訂され、改悪後の基本法に忠実な教材、教科書、ワークブック等も登場することになり、憲法学習を重視する政治教育ではなく、「愛国心」学習や「公共心」学習を重視する政治教育が進められてしまうでしょう。このように、基本法改悪を許してしまえば、その時点から子ども達には、改憲後の日本社会を支える〈国民の教養と徳性の向上〉が求められていき、憲法改悪後の〈国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた〉人間づくりが、改憲前から開始され、それが本格化してしまうのです。その点で、政府提出の改悪案によって誕生する法律は、「憲法改悪後の人づくり開始法」というべき代物なのです。
(子ども・青年の「良心を覚醒する」教育の常態化):「憲法の理想の実現は、根本において教育の力にまつべきもの」と宣言した、現行の教育基本法の場合、「国民の政治的教養と政治道徳の向上」を重視しているものの(『解説』)、めざすべき人間像や道徳についての記述を、かなり抑制的なものにとどめており、現行法は教育理念を明示する法律になっています。しかし、政府提出の基本法改悪案の場合、20以上の言葉を「徳目」としてとりあげており、約14の「徳目」を明記した「教育勅語」と酷似した構造になっています。この点、「自民党教育基本法検討特命委員会」の初代事務局長を務めた河村建夫元文部科学大臣が、大臣に就任する前の時点で、「平成の教育勅語とでもいうようなものが必要」と語っていたことを思い出します(『自由民主』紙、1999年1月5・12日合併号、「森山真弓氏と河村建夫氏らによる鼎談記録」)。そして、政府提案の改悪案によって誕生する法律は、公の性質を持っている全ての学校を〈グローバル化時代の徳育学校〉に変えてしまう、そのための「徳育基本法」というべき不気味な代物なのです。既に、90年代以降のアメリカの多くの公立学校は、自国の子どもに、毎日の始業時あるいは毎時間の授業開始時に、自国の国旗に対する忠誠を誓わせており、〈グローバル化時代の徳育学校〉になっています(参考文献:加藤十八著『アメリカの事例に学ぶ学力低下からの脱却』学事出版)。仮に、政府提案の改悪案に基づき、教育基本法が改悪されてしまえば、やがて日本の学校もアメリカのような学校に近づいてしまい、子どもや若者に対して、「公共の精神」や「愛国心」、学習指導要領どおりの「道徳心」など、「憲法理念からはみだす徳目(=特定の道徳な価値観)」を継続的に押しつける場所になってしまうのです。本来、憲法理念をふまえた教育は、一人ひとりの子ども・青年が「良心の自由」の担い手に育っていく過程を見守り、その過程(内面や良心の育ち)を尊重する営みです。しかし、教育基本法が改悪され、それに基づき、上からの国策教育が徹底されてしまうと、学校・家庭・地域社会の中で、一人ひとりの子ども・青年の「良心」や「内心」を覚醒しつづけていく教育が常態化してしまうのです。
(「戦後日本の原点」を消去している政府改悪案):政府提出・改悪案の「前文」案は、現行法と類似した「世界の平和と人類の福祉の向上に貢献する」という一句を残しています。しかし、この一句も、憲法の平和主義を前提にしてこそ、生きる決意なのです。日本国憲法には、「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることのないようにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する」とあり(憲法前文)、憲法9条で戦争放棄と戦力不保持を確認しています。そして、現行の教育基本法は、戦後の平和憲法の確定を確認した上で「世界の平和と人類の福祉に貢献」する決意を表明しているのです。しかし、政府提出・改悪案には、戦後日本の原点に関する記述がなく、「世界の平和と人類の福祉の向上に貢献することを願う」という一般的な表現を残しているだけです。実は、こうした表現だけでは「戦争する国」の外交政策と矛盾しないのです。例えば、1933年、日本が国際連盟から脱退したときに、天皇がだした詔書には「世界の平和を保つ」という言葉や「あまねく、人類の福祉に貢献する」という言葉もあり、いわば「世界の平和と人類の福祉」という大義名分で、国際連盟脱退を正当化していたからです(1933年に刊行された草場弘『修身科講座』の第5章「人類の福祉」より)。つまり、平和憲法という法的な基礎をしっかり踏まえてこそ、「世界の平和と人類の福祉の向上」という一句も本来の意味を持ちえるということなのです。なお、「心のノート」の場合も、「憲法の理想の実現は教育の力にまつべきもの」という理念が全くなく、この教材には「日本国憲法」がまったく登場していません(憲法否定の書)。その一方で「心のノート」には、「世界の平和と人類の幸福を考える」と大きく書かれたページがあるのです(中学校版)。つまり、道徳教材「心のノート」は、文字どおり「教育基本法改悪の先取り教材」ということになるわけです。

【2節】「小泉構造改革の教育版」と教育基本法改悪案。

第2に、政府提出の改悪案と「教育の構造改革」との関連です。政府提出の改悪案は、与党「最終報告」に忠実なものであり、その与党「最終報告」は、文科省作成の「教育基本法改正・仮要綱案(非公開)」を基礎にしながら、自民・公明の検討委員が密室で審議した結果です。そのため、政府案には、当然のことながら、文科省主導の「教育の構造改革」や「義務教育の構造改革」など、最新の国家的施策が色濃く反映しています。例えば、「義務教育の構造改革」についての中央教育審議会答申(05年10月)は、国が「教育の目標を明確にして結果を検証し質を保証する」という「戦略」を打ち出しています(文科省のホームページ)。この点、文科省関係者は「今回の義務教育改革は、『義務教育の構造改革』と位置づけ、目標設定から成果の検証までのサイクルを確立した点が新しい。検証の具体的アクションとして、40年ぶりの学力調査や学校評価を実施する」と説明しています(「日本経団連タイムス」06年1月26日付)。つまり、「義務教育」に関わる全ての地方、全ての学校、全ての教員が達成すべき「教育の目標」を、国家が決定し、その「達成目標」に見合った「成果」があったかどうかを、国家じしんが全国学力テストや学校評価などの実施で「検証」し、国策教育の「品質」を「保証」していく、という「戦略」です(イギリスを真似した、品質保証国家の教育戦略)。この「国家戦略」は、文字通り「企業の論理」を教育の世界に持ち込んだものです。この点、国策教育の「戦略」に沿って作られた政府・改悪案は、「教育の目標」という条文案をおき(第2条案)、「教育行政」に関する条文案の中で(第16条案)、全ての地方、全ての学校、全ての教員による教育活動は、改悪後の基本法「の定めるところにより行われるべきもの」とし、強い縛りをかけているのです。政府・改悪案の「第5条・義務教育」(案)には、「国および地方公共団体は、義務教育の機会を保障し、その水準を確保するため、適切な役割分担および相互の協力の下、その実施に責任を負う」とあり、「第16条・教育行政」(案)にも「教育行政は、国と地方公共団体との適切な役割分担及び相互の協力の下、公正かつ適正に行われなければならない」とありますが、国(政府文科省)と各教育委員会における「適切な役割分担および相互の協力」も、「義務教育の構造改革」で打ち出された視点です(義務教育への国庫負担を軽減しながら〔小さな政府〕、効率よく義務教育を支配し操っていく仕組みの導入)。そして、中教審答申は「地方・学校の主体性」の名の下に、国が保持していた裁量権の幾つかを都道府県に移譲し、同じように裁量権(人事や学級編成に関する権限など)を「都道府県から市町村へ、教育委員会から学校へ」移す「分権改革を推進」するとしています(パンフレット「義務教育の構造改革」より)。現在の文科省は、従来の官僚支配のスタイルをかえ、教育課程や学力、道徳教育施策や教員に関する権限は、最後まで離さず、一段と強化しているものの、それ以外については都道府県などの地方に移譲しつつあります。だからこそ、政府提案の改悪案の中に、国と地方との「適切な役割分担および相互の協力」をわざわざ明記しているのです。もちろん、「分権改革」といっても、政府文科省が持っている〈絶大な国家権力〉と〈最大の貨幣所有者としての金力〉にものを言わせて、政府文科省以外の「地方・学校」に国家じしんの目的(教育目標)を実現させようとしているだけなのであり、「分権改革」によって教育の自由がもたらされるのではなく、逆に「地方・学校」は、国家に忠実な教育「改革」を競い合って進めることになってしまうのです(東京都などをモデルにした、国家への忠誠心競争)。つまり、最大の財源保持者である国家が、国家から財源の提供を受けとり、教育を実行していく国家以外の「地方」の間、あるいは「学校」の間に「競争」を組織し、「競争」に負けた者(地方・学校)には罰を与える措置をとり、国の文教施策に忠実で優秀な者(地方・学校)には財源を流す措置をとることにより、地方・学校を国家の要求により効率的に従わせ、思いのままに操ろうとしているのです。そして、政府文科省じしんが、〈学校間競争〉をあおり、〈教育の多様化〉を推進し、子どもに〈学力格差〉や〈希望格差〉をはじめとする格差を押し付けているのです(新自由主義的な教育改革※)。つまり、文科省は、地方・学校に競争と格差を持ち込むことで、現代日本の教育を〈活性化〉させようとしているわけです。たいへん巧妙な仕掛けですが、政府・改悪案に基づき、教育基本法が改悪されてしまえば、子ども達に格差を押し付ける「教育の構造改革」が急速に進み、拍車がかかることになってしまうのです。この点、政府提出の改悪案によって誕生する法律は、「教育の構造改革」加速法というべき代物なのです(※用語解説:「新自由主義(しんじゆうしゅぎ、ネオリベラリズム)とは、政府の機能の縮小(小さな政府)、大幅な規制緩和、市場原理の重視を特徴とする市場原理経済思想。富の再分配を主張する自由主義(リベラリズム)や社会民主主義と対立する」(フリー百科事典『ウィキペディア』より)。

【3節】「教育振興基本計画」を根拠づける法律(案)―「国民に対する直接責任性」の完全否定と「国策教育振興計画」。

第3に、政府提出の改悪が第17条(案)で「教育振興基本計画」という項目をおいている問題です(「教育振興基本計画」根拠法)。政府改悪案の第17条案の第1項は、「政府は、教育の振興に関する施策の総合的かつ計画的な推進を図るため、教育の振興に関する施策についての基本的な方針及び講ずべき施策その他必要な事項について、基本的な計画を定め、これを国会に報告するとともに、公表しなければならない」となっていますが、これは、教育基本法改悪による教育理念・原則の改変にあわせて、基本法改悪に基づく文教政策を総合的・体系的、かつ重点的に徹底していくため、改悪後の教育基本法に根拠を置く「教育振興基本計画」を政府全体として策定する、という計画です(参考文献:遠山敦子『これからの学校、これからの大学』講談社)。そして、政府改悪案の第17条案の第2項には「地方公共団体は、前項の計画を参酌し、その地域の実情に応じ、当該地方公共団体における教育の振興のための施策に関する基本的な計画を定めるよう努めなければならない」とあります。ようするに、地方公共団体は、地方の教育計画を定める上で、政府作成の「教育振興基本計画」を必ず「参酌」しなければならない、という義務規定になっているのです。結局、地方自治体は、国家の事情や心情をくみとりながら(参酌)、――政府・改悪案(第2条)にあるように――「公共の精神に基づき、主体的に社会の形成に参画し、その発展に寄与」しなければならない、ということなのです。
03年の答申で中教審は、「『21世紀教育新生プラン』のように教育施策を体系化して国民に分かりやすく示す試みも行われている」と事例をあげながら、「教育振興基本計画」について説明し、「教育基本法の改正後、政府において直ちに教育振興基本計画の策定作業に入る」としています。結局、基本法改悪に基づく時々の文教施策を「政府全体として策定」し、「政府」認定の文教施策を、全ての地方、全ての学校、全ての教員、全ての国民に、強権的強圧的に押し付けようとしているのです。これは、明らかに、教育に対する「不当な支配」ですが、改悪後の教育基本法に根拠を置いているため、それは「不当な支配」ではない、ということになってしまうのです。この点について、少し解説しておきます。政府・改悪案の「第16条・教育行政」(案)をみると、「教育は、不当な支配に服することなく、この法律および他の法律の定めるところにより行われるべきもの」となっています。前半の「教育は、不当な支配に服することなく」は、現行法の第10条と同じ記述ですが、後半の「(教育は)、この法律および他の法律の定めるところにより行われるべきもの」という一行は、全く新しい記述です。そして、政府・改悪案は、この「新しい記述」(=時代に逆行する一行)を置くことで、現行法の「教育は・・国民全体に対し直接に責任を負って行われるべきものである」という重要な記述を消去し、抹殺しているのです(「教育の、国民に対する直接責任性」という民主的規定の完全否定)。結局、基本法が改悪されてしまうと、「各地方、各学校、各教員、各保護者による教育は、改悪後の教育基本法の定めるところにより行われるべき」、したがって、「改悪後の基本法で根拠づけられた『教育振興基本計画』によって行われるべき」ということになってしまうのです。仮に、「教育振興基本計画」の中に「学校で道徳を教えるのをためらってはならない」という方針や「全教員が『心のノート』を使用する」という達成目標が入ってしまえば、全ての地方、全ての学校、全ての教員は、その文教施策に従わなくてはならなくなってしまうのです。このように、政府提出の基本法改悪案の「教育行政」案は、教員や父母など、教育の担い手を「改悪後の基本法」と「他の法律の定め」でがんじがらめに縛るものなのであり、政府案が「教育は、不当な支配に服することなく」という一句を残しているのも、国民やメディアを騙すためなのです。非常に巧妙ですが、政府提出の「教育行政」条文案は、与党「中間報告」の「教育行政は、不当な支配に服することなく」と全く同じ機能を果たしてしまうのです。

【4節】現行法を抹殺し、戦後教育のあり方を根底から変えてしまう法案。

第4に、政府が、現行の教育基本法を抹殺し、あらゆる分野で国策教育を徹底するための、全く別の基本法を作ろうとしている問題です。政府提出の改悪案の18の条文案の中には、現行法と同じ文面のものもありますし、現行法の語句のみを便宜的に使ったり、寄木細工のように切り貼りして活用したりしている箇所も少なくありません。しかし、政府提出の改悪案は、「教育の自由」を尊重している現行法に替えて、「家庭教育」、「幼児期の教育」、「生涯学習」なども含め、あらゆる分野で〈上からの教育改革〉を押し付け、そして〈上からの国策教育〉を徹底しようとするものなのです(新自由主義的・新国家主義的な教育改革の押しつけ)。その点、政府提出の改悪案に基づいて制定されようとしている法律は、「21世紀日本の国策教育」基本法というべき代物なのです。そもそも、教育という営みは、〈自由な空気〉の下でこそ、生き生きとしたものとなり、自由に発展し、開花していくものであり、「学校教育」や「社会教育」だけでなく「家庭教育」、「幼児期の教育」、「生涯学習」も含め、教育という営みの自主的性格や教育を担う人々の自由を何よりも尊重しなければなりません。その点、現行法は、「教育の自主性」や「教育の自由」を最大限尊重しており、それらの尊重を基盤に打ち立てられた「教育の根本法」です。しかし、政府提出の改悪案は、教育の世界に、〈自由な空気〉と正反対の〈抑圧的な空気〉を蔓延させようとしているのです。つまり、政府提出の改悪案は、「教育の根本法」の性格を180度変質させ、戦後教育のあり方を根底から変えてしまうものなのです。

【5節】子どもの権利を敵視し、否定する法律(案)。

第5に、政府による基本法改悪案は、現代日本の子ども達を、今以上に息苦しい世界、生きづらい世界に導き、子ども達を追い詰めていくものである、という問題です。現代日本の子どもは、過度に競争主義的な教育システムの下で、その発達が歪められています(国連子どもの権利委員会による日本政府への勧告、98年と04年)。そして、多くの場合、子ども達は、そのシステムの中からドロップアウトしないように、人権無視の管理主義や懲罰制度で囲い込まれています。その中で、多くの子どもは、自らの声を奪われ、プライバシーを奪われ、そして恒常的に精神的、肉体的な脅威の世界に入れられています。子ども自身の、人間としての尊厳性が奪われ(児童虐待や体罰、精神的な暴力=モラル・ハラスメントなど)、また、安心でき、自由を感じられ、かつ安全な「遊び場や居場所(空間)」、「自由になる時間」や「自らの思い・本音をありのまま受け止めてもらえる人間関係」が奪われ、さらに、急かされることなくゆっくり成長発達し、少しずつ「生きる術(すべ)」を身に着けていく機会も奪われており、その意味で現代日本の子どもは、「幸福な子ども期」「充実した子ども期」をおくることができておらず、本来必要な「子ども期」が剥奪されています。ですから、今、必要なことは、「子ども期」を奪っている連鎖を断ち切り、現代日本の子どもが「豊かな子ども期」をおくれるようにしていくことです。そして、そのために「子ども期の権利」である「子どもの権利条約」を日本社会に根づかせていくことが大切になっています。しかし、政府提出の基本法改悪案は、全国の子ども達に、自己選択・自己責任原則で、早く「社会において自立的に生きる」ように急かし(「第5条・義務教育」案)、愛国心や公共心、道徳心や自律心を備えた「豊かな人間性」なるものをしっかり身につけるよう仕向け(「前文」案、「第2条・教育の目標」案)、早く「国家および社会の形成者」(=国家にとって有用な人材)になるように急かしています(「第5条・義務教育」案」)。また、基本法改悪によって教育への権利を奪われた子ども達は、「教育を受ける者」として、何時いかなるときも学校の「規律を重んずるとともに、自ら進んで学習に取り組む意欲」を持たなくてはならなくなってしまうのです(「第6条・学校教育」案)。つまり、政府提出の基本法改悪案は、子ども、青年という「若き国民の義務」(21世紀懇)を規定したものなのです。こうした点で、政府提出の基本法改悪案によって作られる法律は、「子どもの権利否定法」というべき代物であり、現代日本の子ども達から、さらに「子ども期」を奪っていく法律なのです。
以上、5点にわたって、基本法改悪案の諸問題を指摘してきましたが、政府提出の基本法改悪案で作られる基本法は、「憲法改悪先取り法」、「憲法改悪後の人づくり開始法」「愛国心」を涵養するための「徳育基本法」、「教育の構造改革」加速法、「教育振興基本計画」根拠法、「21世紀日本の国策教育」基本法、「子どもの権利」否定法などの性格をもった代物なのです。


(第2章)基本法の「前文」改悪と「国がめざす人間像」。
 
【1節】「国家」の構築・発展のために「われわれ日本国民」が存在する?。

 政府提出・改悪案の「前文」案の書き出しは、たいへん国家主義的な記述になっています。政府提出・改悪案は、「我々日本国民は、たゆまぬ努力によって築いてきた民主的で文化的な国家をさらに発展させるとともに、世界の平和と人類の福祉の向上に貢献することを願う」、そして「この理想を実現するため(云々)」という構成になっています。「前文」案の冒頭の言葉は、「われらは」や「私たちは」ではなく「我々日本国民は」ですので、完全に「在日の人々」を排除しています。これでは「在日の人々」との共生が益々できなくなり、対等平等な人間関係をつくれなくなってしまいます。

また、「前文」案には現行法と同じ「民主的で文化的な国家」という言葉もありますが、現行法の場合、「民主的で文化的な」という修飾語を飛ばして読むと意味不明の文章になってしまうのに対し、政府提出・改悪案の場合、現行法と異なり、「民主的で文化的な」という修飾語を飛ばして読むことも可能なのです。そして、「民主的で文化的な」という修飾語をとばして政府提出・改悪案を読むと、その「前文」案は「我々日本国民は、たゆまぬ努力によって国家を築いてきた。我々日本国民は、その国家をさらに発展させる(べき)」という内容になるのです。これは、「国家」の構築・発展のために「我々日本国民は存在する」という構造です。つまり、政府案の「前文」案は、国民主権の精神を踏まえた現行法と異なり、たいへん国家主義的な文章になっているのです。しかし、子ども、青年をはじめ、「我々日本国民」は「国家」のために存在しているのではないのです。
政府・改悪案の「前文」は、「我が国の未来を切り開く教育の基本を確立し、その振興を図るため、この法律を制定する」という一行で終わっています。現行法の場合は、「新しい日本の教育の基本を確立するため、この法律を制定する」となっていますが、政府案では「我が国」という表現に変わっているのです。政府案は、戦争への深い反省がこめられている「新しい日本」という現行法の表現を否定し、意図的に「我が国」という表現をつかっています。そして、政府案では、「我が国」という表現が「愛国心」記述のところで再度登場しているのです。「我が国」という表現は、「日本」という表現と異なり、「わたしの国、自分の国」という帰属意識や肯定的態度を前提にしているものであり、強い感情を伴った表記です。そして、多くの場合、「我が国」と言った瞬間、自国に対する批判や批判的精神が眠りこんでしまうのであり、「我が国」という表現は「排他的な自国賛美」につながりやすいものなのです。文科省の文教政策には、「我が国」という表現がうんざりするほど多くあります。例えば、文科省作成の「心のノート」も、「我が国を愛し、その発展を願う」になっており(中学校版)、同省は、「我が国」という言葉を使って「愛国心」教育を推進しています。そして政府案も「我が国」主義で貫かれているのです。なお、戦前戦中の『修身科講座』という書物(教師になるための受験参考書)には、「我が国」という章が特別に置かれており、「我が国体」「我が家」「我が国土」という3つの節で構成されています。つまり、「我が国」という言葉は、「我が国の国柄・国土」などを含んだ特別の言葉として、戦前戦中から使われてきた言葉なのです。

【2節】「国が期待する人間像」(その1)―「公共の精神」と「正義を希求する人間」。

政府提案の「前文」案は、様々な表現で〈国が求める理想の人間像〉を明記しており、この点も大きな問題です。現行法の前文は「われらは、個人の尊厳を重んじ、真理と平和を希求する人間の育成を期するとともに、普遍的にしてしかも個性ゆたかな文化の創造をめざす教育を普及徹底しなければならない」と明記していますが、政府提出の「前文」案では、「個人の尊厳を重んじ、真理と正義を希求し、公共の精神を尊び、豊かな人間性と創造性を備えた人間の育成を期するとともに、伝統を継承し、新しい文化の創造を目指す教育を推進する」という文章に変わっています。
(国家・社会を尊重する「公共の精神」):現行法は、「個人の尊厳」という精神を基盤にした教育を徹底し、「真理と平和を希求する人間の育成を期する」ことをうたい、同時に「普遍的にしてしかも個性ゆたかな文化の創造をめざす教育を普及徹底しなければならない」としています。しかし、政府提出の「前文」案は、「個人の尊厳を重んじ」だけでなく「公共の精神を尊び」という「公(おおやけ)」を重視しています。これは、教育基本法を「改正すべき」と答申した03年3月20日の中教審答申で「自由には規律と責任が伴うこと、個と公のバランスが重要であることの自覚」が力説されていたことの反映です。また、政府案が「公共の精神」を重視しているのは、中曽根元首相をはじめ基本法改悪論者が「現行法には公の精神がない」と力説したり、「21世紀日本の構想」懇談会が「個の確立」とセットで「新しい公の創造」を打ち出したりしていたこと等の反映です。そして、今回の政府案は、「公共の精神」を複数の条項で強調しており、「個人の尊厳」の理念を大幅に抑制し、事実上否定しているのです。この問題では、河村建夫元文科相が、副大臣時代に国会で「公共」の意味を質問された際、「国家・社会という言葉と同様に使われている」と回答しています(03年4月2日)。つまり、基本法改悪案の「公共の精神を尊び」とは、「国家・社会の精神を尊び」と同義なのです。
(「平和」を否定しながら「正義を希求する人間」):また、政府提出の「前文」案は、現行法の「真理と平和を希求する」を変え、「真理と正義を希求し、公共の精神を尊び」にしています。これは、現行法の第1条にある「真理と正義」を切り取り、現行法の「前文」にある「真理と平和を希求する人間の育成」の上に貼り付け、そのことで「平和」という大事な言葉を消した結果です。つまり、小泉内閣(政府与党)は、「正義」という2文字で「平和」という2文字を排除・抹殺したのであり、政府提出の改悪案の「正義を希求する人間」とは、「平和を希求する人間」を否定し、排除した人間のことなのです。政府提出の基本法改悪案が、「公共の精神」と関わって、「正義を希求する人間」を重視しているのは、03年の中教審答申で「社会正義を行うために必要な勇気、『公共』の精神、社会規範を尊重する意識や態度などを育成していく必要がある」としているからです。例えば、文科省は、「心のノート」を通じて、日本中の中学生一人ひとりの内面に対し、「あなたの学級には、正義があるか!」と極めて高圧的な姿勢で問い詰めています(中学校版)。これは、国家が中学生に対し、〈あなたの心の中に不正義を許す醜い心はないか。なぜ、あなたは、勇気をもって正義を守れないのか〉と厳しく問い詰めているのと同じことです。なぜ、文科省は「社会正義」をこれほど重視し、日本中の中学生に強く要求しているのでしょう。その理由は、『期待される人間像』の「社会規範を重んずること」という項目を読むとはっきりします。『期待される人間像』は「日本の社会の大きな欠陥は、社会的規範力の弱さにあり、社会秩序が無視されるところにある。それが混乱をもたらし、社会を醜いものとしている。日本人は社会的正義に対して比較的鈍感であるといわれる。それが日本の社会の進歩を阻害している。社会のさまざまな弊害をなくすため、われわれは勇気をもって社会的正義を守らなければならない」としています。このように日本の文部行政に携わる人々は、〈日本社会の弊害を除き、日本を美しい国家にしていくために、全ての日本人は、勇気をもって社会正義を守り、社会秩序と社会的規範を遵守すべき〉と考えているのです。そして、国家が子ども・青年に「社会正義を行うために必要な勇気」を持たせようとしているのは、子ども・青年を「立派な国際人」として世界の危険な地域に送り出す必要があるからなのです(この点については「心のノート」小学校高学年用の「わたしも立派な国際人」のページ参照)。結局、「平和を希求する人間の育成」を否定した小泉内閣(政府与党)は、非平和的な「正義を希求する人間の育成」を考えているということなのです。「平和を希求する人間」と「公共(=国家)の精神」は結びつきませんが、非平和的な「正義を希求する人間」ならば、「公共(=国家)の精神」と結びつく、ということなのです。

【3節】「国が期待する人間像」(その2)―「豊かな人間性と創造性」を備えた人材。

 政府提出の基本法改悪案の「前文」には、「豊かな人間性と創造性を備えた人間の育成を期する」という言葉があります。この言葉には、「教育基本法改正のための仮要綱案」を作成した文科省関係者の思いが込められています。
 文部科学省は、文教政策の中で「豊かな心」「豊かな人間性」など、文学的な語句をよく使っていますが、こうした曖昧な表現にはトリックがあります。「豊かな心」や「豊かな人間性」という表現だけなら、それに反対しづらくなります(国民うけする言葉)。しかし、「豊かな心の持ち主」「豊かな人間性を身につけた人間」とは、文部科学省(国)が期待する人間像のことなのです(国家が望む「豊かな心」の持ち主。国家が期待する「豊かな人間性」を身につけた人間)。1966年に中教審が『期待される人間像』を出した際に、マスコミや国民からの反発が強くあったため、その後、文部省や文科省は「期待する人間像」「望ましい人間像」という露骨な表現をやめ、「豊かな心の持ち主」「豊かな人間性を身につけた人間」というソフトな表現に言い換えているにすぎないのです。ようするに、政府提出の基本法改悪案の「前文」(案)にある「豊かな人間性と創造性を備えた人間の育成を期する」とは、「21世紀版・期待される人間像の育成を期する」という意味なのであり、その主な内容は、政府・改悪案の「第2条・教育の目標」で示されているのです。
文科省の言う「豊かな人間性を備えた人間」とは、「豊かな心の持ち主」とだいたい同じ人間のことです。そして文科省の言う「豊かな心の持ち主」が、現代版の「期待される人間像」の別名であることは、「豊かな心」の内容が学習指導要領道徳編で規定されている事実と、学習指導要領道徳編が「期待される人間像」を原型にして作られている事実からも明らかでしょう。実際、03年の中教審答申でも「豊かな心をはぐくむことを人格形成の基本として一層重視していく必要がある。社会生活を送る上で人間として持つべき最低限の規範意識を青少年期に確実に身に付けさせるとともに、自律心、誠実さ、勤勉さ、公正さ、責任感、倫理観、感謝や思いやりの心、他者の痛みを理解する優しさ、礼儀、自然を愛する心、美しいものに感動する心、生命を大切にする心、自然や崇高なものに対する畏敬の念などを学び身に付ける教育を実現する必要がある」としており、徳目を並べながら「豊かな心」について説明し、「中教審が期待する人間像」を提示しているのです。
 政府提出の「前文」案は、「豊かな人間性」という言葉を採用していますが、「豊かな人間性」という言葉は、1996年の中教審答申「21世紀を展望した我が国の教育の在り方について」に出てくる言葉であり、1998年の中教審答申「新しい時代を拓く心を育てるために」の中でも、「子どもたちが身に付けるべき『生きる力』の核となる豊かな人間性」という言い方で登場しているものです。最近のものでは(03年)、文科省のパンフレット「教育の構造改革」の中に「豊かな人間性の育成」についての解説があります(同省のホームページ)。このパンフによれば、「豊かな人間性の育成」は「豊かな心の育成」「健やかな体の育成」「勤労観、職業観の育成」「英語が使える日本人の育成」によって構成されており、「豊かな心の育成」のトップに「道徳教育の充実(『心のノート』の配布)」を位置づけているのです。「心のノート」4冊には、約80項目の徳目が分かりやすいイラスト付で登場しますが、文部科学省は、全ての小中学生が、この国定教材を9年間、毎日のように進んで使いつづけ、そして「豊かな人間性を備えた日本人」になることを期待しているのです。
 次に「豊かな創造性」の方ですが、これは、文科省が「画一と受身から自立と創造へ」と題する「教育の構造改革」をすすめていることと関係しています(遠山敦子前掲書)。文科省は、従来の公教育のあり方に対して「画一教育、受身教育」等と批判した上で、〈自立を促す教育〉と〈創造性を重視する教育〉をすすめる、としています。〈自立を促す教育〉とは、格差拡大社会(=市場原理主義社会)の中で「自己責任」(=自己選択・自己責任原則)で生きていける「自立した個人」の育成のことです(新自由主義的な構造改革が期待する人間像)。この点、96年の中教審答申も「自立した個人が自己責任の下に多様な選択を行うことができる、真に豊かな成熟した社会の創造」としており、政府・改悪案の中にも「社会において自立的に生きる基礎を培い」と書かれています(「第5条・義務教育」案)。また、「受身から創造へ」とは、従来の「追いつき型近代化」や「追いつき追い越せ型の経済成長」のための受身的教育では、変化の激しい大競争時代に勝てないので、大競争時代に日本が勝利するために、新しいフロンティアを開拓していく創造的な人材を育成しなければならない、という考えです。ようするに、グローバル化時代に日本を勝利に導くような「創造性を備えた人間」、つまりエリートを養成しなければならないということなのです。96年の中教審答申も、エリートの育成について「社会の変化に柔軟に対応できる、個性的な人材や創造的な人材を育成することは、我が国が活力ある社会として発展していく上で不可欠」と力説しています。同答申が「創造的な人材の育成」を重視しているのは、経団連の提言「創造的な人材の育成―求められている教育改革と企業の行動」(96年)を受けて作られた答申だからなのです。結局、「創造性を備えた人間」とは、創造的なエリートのことなのです。
 
【4節】「国が期待する人間像」(その3)―「伝統文化の継承」と「日本人としての自覚」。

政府提出の改悪案では、現行法の「普遍的にしてしかも個性ゆたかな文化の創造をめざす教育」という箇所が「伝統を継承し、新しい文化の創造を目指す教育」に変えられています。現行法の「個性ゆたかな文化の創造」の中には「伝統文化」も含まれていると理解されてきたわけですが、改悪案は「伝統の継承」「新しい文化の創造」という言い方で「伝統文化」を突出させています。これも、03年の中教審答申が「自らの国や地域の伝統・文化についての理解を深め、尊重する態度を身に付けることにより、人間としての教養の基盤を培い、日本人であることの自覚や、郷土や国を愛し、誇りに思う心をはぐくむことが重要」としていたことの反映です。そして、政府提出の「前文」案における「伝統を継承し、新しい文化の創造を目指す教育」という箇所は、学習指導要領(中学校版の道徳)における「日本人としての自覚をもって国を愛し、国家の発展に努めるとともに、優れた伝統の継承と新しい文化の創造に貢献する」から借用したものになっています。
この問題については、「『伝統の継承、新しい文化の創造』と書かれたからといって、そのことに機械的に反発するのは如何なものか」「伝統の継承だけなら問題ない」という受け止めもあると思います。しかし、政府・改悪案のようなかたちで、教育の根本法に「伝統文化」が書き込まれれば、「日本人であることの自覚」を促すために、今後、〈国家公認の伝統文化〉教育が大規模に推進されることになってしまうのです。〈国家公認の伝統文化〉とは、「我が国が育んできた伝統文化である」と国が判断したものであり、〈国家公認の伝統文化〉教育は、「民衆が築いてきた伝統文化」を軽視していくのです。
(日本の伝統文化の継承と「心のノート」問題):「伝統文化」について言えば、既に「和文化教育研究会」が結成されていますし、2000年に「自民党・日本伝統文化活性化議員連盟」が結成され、翌2001年に「伝統文化活性化国民協会」(平山郁夫会長)も結成されています。そして、「心のノート」の〈伝統文化のページ〉も、「伝統文化活性化国民協会」の意向が反映しています。また、「伝統文化活性化国民協会」の平山会長は、自著の中で「文化の継承と武士道」を力説していますが(『日本の心を語る』中央公論新社、05年刊)、道徳教材「心のノート」にも、「武士道」の著者が「立派な国際人」として紹介されているのです(小学5・6年生用)。「心のノート」には、「武士道」という言葉はないものの、この教材は「武士道」の著者を高く評価し、小学生がその人物について調べるように促しています。つまり、文科省は、「武士道精神」という「我が国が育んできた伝統文化」の教育を、巧妙な形ではじめているといえるのです。文部科学大臣時代に、教育改革国民会議を組織し、その結論をうけて、「心のノート」の作成・配布を決定し、それを指示した町村元外相は、自著『保守の論理』の中で(PHP研究所、05年刊)、「武士道」の著者を極めて高く評価し、さらに、ゴラン高原でPKO活動に携わる自衛隊員やイラクに派遣された自衛隊員について「武士道精神を身につけている」「実に立派な人間」と高く評価しています。つまり、「心のノート」は、〈武士道精神を優れた伝統文化〉とする町村元文科相の考えをとりいれた道徳教材なのです。町村元文科相は、靖国の精神も力説している政治家ですが、教育基本法が改悪されてしまえば、今までと状況がかわり、町村元文科相のような日本人論や伝統文化論が、よりあからさまな形で教育の世界に入りこんでしまうのです。なお、武士道精神は、「軍人勅諭」の大本になったものです(前掲『修身科講座』)。現在の日本には「軍人勅諭」がないために、武士道精神なるものが盛んに使われているのであり、例えば、イラク人道復興支援に派遣された自衛隊員を題材にした書物で、『武士道の国から来た自衛隊』というものも出版されているわけです(「産経新聞ニュースサービス」04年刊)。

(第3章)「第1条・教育の目的」の改悪―国家が導く「人格の完成」論へ。

【1節】「個人の価値・尊厳性」と「自主的精神に充ちた人間性」を奪われた「人格の完成」、そして「公共の精神、道徳心、愛国心」を備えた「人格の完成」へ。

政府提出の基本法改悪案の「第1条・教育の目的」は、「教育は、人格の完成を目指し、平和で民主的な国家および社会の形成者として必要な資質を備えた、心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない」となっています。現行法の第1条は、「教育は、人格の完成をめざし、平和的な国家及び社会の形成者として、真理と正義を愛し、個人の価値をたつとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない」です。この両者を比較すると、現行法の「平和的な国家及び社会の形成者」という一句が、類似した表現で残っているものの、「真理と正義を愛し、個人の価値をたつとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に充ちた」という箇所が全て削除されていることに気づきます。ただ、政府・改悪案の「第1条・教育の目的」案における「平和で民主的な国家および社会の形成者としての必要な資質」という表現は、「第5条・義務教育」案の箇所で「国家および社会の形成者として必要な資質」という表現に後退しており、「平和で民主的な」という修飾語は消え、なくなっています。結局、政府・改悪案は、義務教育課程である小中学校の「教育の目的」を〈国家および社会の形成者として必要な資質を備えた国民の育成〉に変質させているのです。なお、「真理と正義を愛し」「個人の価値をたつとび」「勤労と責任を重んじ」は、現行法の第1条から消されている言葉ですが、政府・改悪案の別の条項に、「真理と正義を希求し」(前文案)、「個人の価値を尊重して」(第2条案)、「勤労を重んじる態度」(第2条案)という類似した表現がありますので、現行法の第1条の、幾つかの語句が切り取られ、他に移動し、悪用されているといえます。政府・改悪案では、現行法の第1条にある「自主的精神に充ちた」人間の育成という記述もなくなり、類似した言葉が「第2条・教育の目標」案に入れられています。しかし、「自主的精神に充ちた」という語句は、政府・改悪案の第2条案で「自主および自律の精神を養う」という表現に変わっており、内容的に大きく後退しています。
この中で特に問題なのは、政府提出の基本法改悪案において、「人格の完成をめざす」べき「教育の目的」(現行法)から、「個人の価値をたつとび」と「自主的精神に充ちた(人間の育成)」が削除されていることです。小泉内閣(政府与党)が、この2つの言葉を削除したのは、これらの表現を残してしまうと、「公共の精神」や国定の「道徳心」、あるいは「愛国心」を備えた「人格の完成」が後景に退いてしまう、と考えているからなのです。現行法の第1条における「自主的精神に充ちた」人間という記述は、とても大切な言葉であり、『教育基本法の解説』は「この精神が民主主義社会を発展させるものであると言いえよう」としています。つまり、小泉内閣(政府与党)は、民主主義社会を発展させる精神を第1条から削除し、抹殺しているのです。また、現行法の第1条における「個人の価値を尊び」という語句も、とても大切なものです。この点、『教育基本法の解説』は「人格の完成ということは、個人の尊厳と価値との認識に基づくものであることを強調しておきたい。なぜならば、国家あって個人なし、個人を単なる国家の手段と考えるところには、人格の完成などということはおよそ無意味なことだからである」としているのです。
以上のように、政府・基本法改悪案の「人格の完成」の場合、現行法の「人格の完成の理念」にあった「個人の価値・尊厳性」や民主主義社会に不可欠な「自主的精神に充ちた人間性」が、意図的に消去されており、それらを梃子にして、「公共の精神」や国定の「道徳心」、「愛国心」を備えた「人格の完成」が考えられているのです。そして、政府提出の基本法改悪案の場合、「人格の完成」の内容が、「第2条・教育の目標」案で細かく規定されているのです。政府・改悪案には、「個人の尊厳」という語句や「個人の価値」という語句も書かれていますが(前文案、第2条案)、これらの語句は、本来的に言って、「人格の完成の理念」と一緒に書き込まれるべきものであり、そうでなければ意味を持たないのです。この点、小泉内閣(政府与党)は、巧妙な用語操作をおこなっているといえます。

【2節】現行法の「人格の完成」とは、「人間の具えるあらゆる能力を、できる限り、しかも調和的に発展せしめる」こと。

「教育基本法制定の要旨」という文部省訓令第4号(1947年5月3日)は、現行法の「人格の完成とは、個人の価値と尊厳との認識に基づき、人間の具えるあらゆる能力を、できる限り、しかも調和的に発展せしめることである」と説明しており、現行法の「人格の完成」と「個人の価値と尊厳」とは深く結びついています。しかも、現行法の「人格の完成」とは、「人間の具えるあらゆる能力を、できる限り、しかも調和的に発展せしめる」ということであり、別の言い方をすれば、子ども・青年が可能なかぎり成長発達を遂げていくということなのです。この点、『教育基本法の解説』も、「第1条によれば、教育は、何よりも人格の完成をめざして行われなければならない。ここに『国家有用の人物を錬成』することを目的とした従来のかたよった国家主義的教育から解放され、発展してやまない人間の諸特性諸能力の統一調和の姿である人格の完成をめざして教育が行われなければならないことが明示されているのである」と解き明かしているのです。このように、現行法の第1条「教育の目的」は、子どもの権利条約第29条第1項に書かれている「子どもの人格、才能並びに精神的及び身体的な能力をその可能な最大限度まで発達させること」と比べても、権利条約と響きあう、先駆的な条項といえるのです。
しかし、政府・改悪案の「人格の完成」の場合は、「発展してやまない人間の諸特性諸能力の統一調和の姿である人格の完成」なのではなく、「公共の精神」や国定の「道徳心」、そして「愛国心」を備えた「人格の完成」に変えられています。実際、政府・改悪案は、別の条項(第3条案)の中で「国民一人一人が、自己の人格を磨き」という道徳的表現を使っているのです。つまり、小泉内閣(政府与党)は、「練磨すべき人格」「修養すべき人格」という意味合いで「人格」という言葉を使っているのです。これは、「人間の具えるあらゆる能力を、できる限り、しかも調和的に発展せしめる」ことではなく、1920年代から30年代(大正から昭和初期)の時期に、修身教育などで力説された〈国家有用の人格の鍛錬〉論、つまり、〈国家が求める品性・徳性の完成〉のことなのです(前掲『修身科講座』)。教育基本法の「人格の完成」の正式の英訳は、「the full development of personality」ですが、いわゆる「人格者」の英訳は「a man of character」ですので、「人格の完成」と「人格者」の「人格」は英訳すると異なる単語になります。つまり、現行の教育基本法は、子ども・青年を「人格者」に育て上げることを「教育の目的」にしているのではないのです。

【3節】道徳主義的な「人格の完成」論と「国家主義的な国民的人格像の上からの規制」。

政府・改悪案における「人格の完成を目指し」という語句は、現行法と同じ表現です。しかし、政府・改悪案の「人格の完成」の場合は、〈道徳主義的解釈ともいうべき人格のとらえ方〉を前面にだしています。つまり、国家が〈人格の完成像を一定の道徳律をもとにして設定し、それに近づくことをめざす『人格者』の形成を企図する考え方〉を採用しているのです。そして、道徳主義的な「人格の完成」論は、戦前の「教育勅語」や戦後の「期待される人間像」と同じように、〈国家主義的な国民的人格像の上からの規制〉につながりかねないのです(参考文献:『教育実践事典』第一巻、旬報社)。
この点、「心のノート」は、〈国家主義的な国民的人格像の上からの規制〉をすすめるための国定教科書であり、この道徳教材は、ユング心理学の技法を援用しながら、日本中の子ども達の心を国家公認の「鋳型」にはめ込むための道具になっています。そして、既に、「政府改悪案には20以上の徳目が書かれている」と指摘しておきましたが、政府・基本法改悪案に基づく改悪を許してしまえば、改悪後の教育基本法を根拠に〈国家主義的な国民的人格像の上からの規制〉が本格的に進められてしまうのです。
現行法の「人格の完成の理念」には、「道徳教育の原理」だけではなく、「科学教育の原理」や「芸術教育の原理」も含まれており、教育によって開発していく「人間の具えるあらゆる能力」の中には、「道徳的能力」だけではなく、「科学的能力」や「芸術的能力」も含まれており、現行法は、それらの諸能力の調和的な発展を求めています(『解説』)。そして、教育は、教員をはじめ教育を担う人々が、子ども・青年の中に内在する、それらの諸能力を引き出していく営みなのであり、教育は、子ども・青年を〈国家主義的国民像の鋳型〉にはめ込んでいく営みなのではないのです。
与党検討会の太田昭宏衆議院議員は、『公明新聞』紙上で「『個人の尊厳』『人格の完成』など、現行法の理念は堅持」と力説しています(06・4・9付)。確かに「個人の尊厳」「人格の完成」は現行法のキーワードです。しかし、「個人の尊厳」「人格の完成」という言葉も、現行法の教育理念としっかり結びついているからこそ、本来の意味を持ちえるのです。つまり、現行法の語句を他と切り離してしまえば、その本来の意味が剥奪され、その意味が変質してしまうのです。それほど、現行法の一条一条は、深い考察に基づいてつくられているのであり、現行法における幾つかの短い語句を、「寄木細工」的な手法で残したからといって、「現行法の理念の堅持」等と言うことはできないのです。そして、現行教育基本法の根本理念や原則を踏まえていえば、政府・改悪案は、「現行法の理念」を破壊した結果生まれた、〈たいへんグロテスクな改悪案〉といえるのです。 

(第4章)極めて重要な「教育理念」を全面削除――現行法第2条の抹殺。
  
【1節】「教育の自律性」を尊重する「現行法の第2条」と、「教育の自主性」を重んじている「現行法の第10条」との深い関係。

政府提出の基本法改悪案における重大な問題は、現行法の「第2条・教育の方針」を全面削除し、それに替えて、「第2条・教育の目標」という条文案にしていることです。現行法の「第2条・教育の方針」は、「教育の目的は、あらゆる機会に、あらゆる場所において実現されなければならない。この目的を達成するためには、学問の自由を尊重し、実際生活に即し、自発的精神を養い、自他の敬愛と協力によって、文化の創造と発展に貢献するように努めなければならない」というものです。実は、この「第2条・教育の方針」は、「第1条・教育の目的」とワンセットの条文なのであり、この2つの条文によって、戦後日本の「教育理念」が構成されているのです。この点、現行の教育基本法制定過程において「教育理念は、教育の目的、教育の方針として、とりいれる」と説明されています(『解説』)。このときの「第2条・教育の方針」案は、現行法のものと少し異なっており、「教育の自律性と学問の自由を尊重し、現実との因果を考慮しつつ、自発的精神を養い、自他の敬愛と協力によって、文化の創造と発展に貢献する」となっていました。つまり、制定過程における第2条案には「教育の自律性の尊重」という語句が明記されていたのです。これは、非常に重要な「教育理念」であり、明文としてはないものの、現行法の中に、その理念は生きています。実際、現行法が第10条で「教育は不当な支配に服することなく」と明記しているのも、「教育の自律性」という教育理念を踏まえてのことだったのです。そして現行法の第10条の場合、条文作成の参考案の中に「教育の自主性」という表現もあったのであり、教育基本法を制定した人々は、第10条で「教育の自主性を重んずる見地から、教育行政の任務とその限界を示した」のです(『解説』)。つまり、〈教育という営みは、教師や父母をはじめ、教育を担う人々による自律的で自主的な営みなのであるから、不当な支配に服してはならないのだ〉という考えが生まれていったのです。このように、「前文」と「第1条・教育の目的」をうけた「第2条・教育の方針」は、「第10条・教育行政」と深く結びついているのです。

【2節】「あらゆる機会、あらゆる場所における教育」は、「教育の自律性原則」の下におかれた。

 また、現行法の第2条には「教育の目的は、あらゆる機会に、あらゆる場所において実現されなければならない」と明記しています。つまり、「あらゆる機会、あらゆる場所」の中には、小学校、中学校、高校だけでなく、大学も含まれていますし、専門学校などの学校や私立学校、あるいは家庭教育や地域における教育、社会教育や生涯学習、幼児期の教育や老齢期の社会教育、企業内の教育も入っているのです。そして、大学教育、家庭教育、地域における教育、幼児期の教育、生涯学習なども、全て「教育の自律性」の尊重という理念のもとに置かれたのです。政府・改悪案には、「生涯学習の理念」「大学」「私立学校」「家庭教育」「学校、家庭および地域住民等の相互の連携協力」「幼児期の教育」などの条文案もありますが、これらのほとんどは、現行法の「第2条・教育の方針」に含まれているものばかりなのです。小泉内閣(政府与党)が、これらの新規の条文を特別に計画し、条文案にしたのも、現行法の「第2条・教育の方針」の中に入っていては、それらの教育に国家が介入できない、という理由からだったのです。そこで、小泉内閣(政府与党)は、現行法の「第2条・教育の方針」を抹殺し、それを梃子にして、「生涯学習の理念」「大学」「私立学校」「家庭教育」「学校、家庭および地域住民等の相互の連携協力」「幼児期の教育」などの条文案を作りあげた、ということなのです。
 重大なことは、小泉内閣(政府与党)が、現行法の「教育の方針」に替え、「教育の目標」という正反対の条文を挿入していることです。なぜ、現行法の「第2条・教育の方針」と、政府・改悪案の「第2条・教育の目標」が正反対の条文なのかというと、前者が「教育の自律性」を尊重し、教育という営みの、国家からの自由を宣言しているのに対し、後者が「教育の自律性」を否定し、国家への従属を象徴している条文になっているからです。

(第5章)「第2条・教育の目標」案の問題点。

【1節】「道徳教育の目標」条項案。

 政府・改悪案の「第2条・教育の目標」は、問題だらけの条文案です。この条文案も、現行法における幾つかの語句を「寄木細工」として活用しています。小泉内閣(政府与党)は、現行法の「第2条・教育の方針」と「第5条・男女共学」を抹殺していますが、前者の条文から「学問の自由を尊重しつつ」と「自他の敬愛と協力」という語句を切り取り、「第2条・教育の目標」に貼り付けていますし、後者の条文をなくす替わりに「男女の平等」という言葉を第2条案に入れているのです。政府・改悪案の「第2条・教育の目標」案は、教育の目的を実現するための達成目標が、次のように5つ決められています。「教育は、その目的を実現するため、学問の自由を尊重しつつ、次に掲げる目標を達成するよう行われるものとする。 ①幅広い知識と教養を身に付け、真理を求める態度を養い、豊かな情操と道徳心を培うとともに、健やかな身体を養うこと。②個人の価値を尊重して、その能力を伸ばし、創造性を培い、自主及び自律の精神を養うとともに、職業及び生活との関連を重視し、勤労を重んずる態度を養うこと。③正義と責任、男女の平等、自他の敬愛と協力を重んずるとともに、公共の精神に基づき、主体的に社会の形成に参画し、その発展に寄与する態度を養うこと。④生命を尊び、自然を大切にし、環境の保全に寄与する態度を養うこと。⑤伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと」
(以上、第2条案の全文)この第2条案について、何点か指摘しておきます。
第1に、政府・改悪案の「第2条・教育の目標」が、全体として「道徳教育の目標」のような条文案になっており、「一人一人の国民の人格のあり方」や「国が求める人格の完成像」を細かく設定している問題です。現行法の場合、第1条の「人格の完成という理念のうちに、科学教育、道徳教育、芸術教育などの原理が含まれている」とされていますが(『解説』)、現行法には「道徳」という言葉はありません。また、子どもに関する児童憲章に「全ての児童は、自然を愛し、科学と芸術を尊ぶように導かれ、また道徳的心情が培われる」とあり、「道徳」という言葉が登場しているものの(1951年)、この憲章の場合も、教育基本法の理念と呼応した表現を採用しており、子どもの人権を尊重する見地で書かれています。しかし、政府・改悪案の場合、「豊かな情操と道徳心を培う」ことが達成目標になってしまっています。この文に「豊かな情操」とあるのは、与党検討会の議論の中で「宗教的情操の涵養」が合意に至らなかったために、単に「豊かな情操」となっているだけです。この点、「心のノート」を見れば明らかなように、国が育成しようとしている「豊かな情操」とは、「人間の力を超えたものへの畏敬の念」、つまり「宗教的情操」のことなのです。重大な問題は、子ども・青年の心の中に、国が求める「豊かな情操」や国が求める「道徳心」を涵養し、その達成度を観点別で評価すべき、と学校現場に押し付け、その営みを、小中学校だけでなく高校、大学、私学の教員も含めた全ての教員の、国家に対する責務や義務であるかのようにしていることです。

【2節】「エリート」と「ノン・エリート」とを選別するための記述。

第2に、政府・改悪案の第2条案の中に「能力を伸ばし、創造性を培い」という表現がある問題です。政府・改悪案の「第2条案」は、「ひとしく能力を伸ばし、創造性を培う」となっていません(平等性の否定)。つまり、それぞれの子どもは、分相応に「能力を伸ばし、創造性を培う」という文教政策にそった表現になっているのです。できない子はそれなりに、できる子は限りなく「能力を伸ばし、創造性を培う」ということなのです。ですから、この項目は、「創造性を備えた人材(エリート)の育成」論や「能力主義的人格政策(差別・選別の教育)」につながる要素をもっています。そして、同じ項目に「自主および自律の精神を養う」とありますが、これは、「自主的精神に充ちた」感覚を重視している現行法にかえて、自分で自分を律することができる「自律の精神」も重視する、ということなのです。「心のノート」を作成した元文部官僚は「戦前は、極端に自分で自分を律する社会であったが、戦後は、逆に自分勝手な人間ばかりをつくってしまった」等と嘆きながら、自律心の育成を力説していますが、それと全く同じ発想で条文案は作られているのです。また、「職業および生活との関連を重視し、勤労を重んずる態度を養う」と書かれているのは、文科省が推進しているキャリア教育(職業観、勤労観の育成)のことであり、ニート・フリーター対策のことです。

【3節】公共心=「何の疑問も持たず、自ら進んで国家に服従していく態度」。

第3に、「公共の精神に基づき、主体的に社会の形成に参画し、その発展に寄与する態度を養う」と書かれている問題です。この一行は、03年の中教審答申にある「新しい『公共』を創造し、21世紀の国家・社会の形成に主体的に参画する日本人の育成」にそった記述であり、「『公共』の精神、社会規範を尊重する意識や態度などを育成していく必要がある」(同・答申)という考えに基づいたものです。肝心な点は、「国家・社会の形成に主体的に参画する日本人の育成」のための「公共の精神」になっている点です。これは、「21世紀日本の構想」懇談会の最終報告が望んだ「日本人の姿」であり、〈国家があれこれ指示したり、国家がいちいち指図したりしなくても、一人一人の国民が、国家が期待する方向性を前もって察知し、進んで国家・社会をつくりだしていく〉という考えです。そして、21世紀懇の河合隼雄座長が作成した「心のノート」によって育った子ども達も、〈国家から、いちいち指図されなくても、国家が期待する方向性を前もって察知し、21世紀の国家・社会の形成に主体的に参画し、進んで国家の発展に寄与する日本人になっていく〉ということなのです。このように考えると、「公共の精神に基づき、主体的に社会の形成に参画する態度」とは、「何の疑問も持たず、自ら進んで国家に服従していく態度」と言い換えた方がわかりやすいと言えます。

【4節】「愛国心」と「伝統文化の尊重」の問題点。

第4に、第2条案の中に「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養う」という「愛国心」教育の規定が入ってしまった問題です。
〔ア〕政府・基本法改悪案の条文は、「伝統と文化を育んできた我が国」となっています。そして、この部分は「伝統と文化を育んできた国柄」と言い換えることも可能でしょう。つまり、「我が国の国柄を愛する態度」ということになってしまうのです。
 〔イ〕条文案は、「我が国を愛する心」ではなく「我が国を愛する態度を養う」という表現になっていますが、「愛する心」と「愛する態度」との間に隔たりはなく、法律に「国への愛」という心情を書き込んでいる点では全く同じです。例えば、学校教育法には「郷土及び国家の現状と伝統について、正しい理解に導き、進んで国際協調の精神を養うこと」とあり、「正しい理解」にとどめており、「国を愛する態度」を強制していません。しかし、基本法に「国を愛する態度」が入ってしまえば、「愛国心」教育という上からの国策教育が強められてしまうのです。
〔ウ〕政府・基本法改悪案が重視する「愛国心」教育の押し付けは、「統治機構」である国家が教育に直接的に介入する行為であり、「統治機構」にとって有利な人材育成をすすめるためのものです。そして、基本法改悪案の国会上程は、現行法を抹殺し、「我が国、我が国」と繰り返す「統治機構」(文科省)にとって、有利な教育法制度にするための策動です。既に、1998年改訂の中学校学習指導要領道徳編には「日本人としての自覚をもって国を愛し、国家の発展に努める」と書かれてしまっており、国定教材「心のノート」(中学校版)を進んで活用する中学生達は、〈心の中で「我が国を愛し、その発展を願う」と実感する人間〉になるように仕向けられています。これは、「国家を愛し、国家の発展に努める態度や心」の押しつけですが、この場合の「国家」は「近代の国民国家を指し、主権・領土・国民で構成され、統治機関を持つ」ものです(三省堂「大辞林」)。この間、自民党文教制度調査会長の河村建夫元文部科学大臣は「教育基本法に愛国心を盛り込むことには、学習指導要領で示している愛国心を法律で担保する意味がある」と語り、本音を吐露しています(「産経新聞」06・4・4)。つまり、学習指導要領レベルでなく、改悪後の教育基本法レベルに「愛国心」を盛り込めば、全く別次元で「愛国心」教育を学校現場に強制できる、ということになってしまうのです。
〔エ〕条文案は、「我が国と郷土を愛する」というように「郷土を愛する」を挿入し、「我が国を愛する」という表現を少しだけ変えています。しかし、「愛国心」教育は、常に「郷土愛」教育とセットで進められてきたのであり、その歴史を忘れてはならないのです。戦前の『修身科講座』には、「郷土愛、郷土的精神こそは根底的体験的なる国土愛、国家精神である。我々の日本を愛し、日本的精神をもつ体験はこの基底の上にのみ可能である。故に、郷土愛を体験し得ざる人は深く国家愛をもつ能はぬし、日本国民が古来この国家愛、国家的精神に深き所以の理(ことわり)はここに存する」と書かれていたのです。そして戦前の「愛国心」教育が「郷土愛」教育と深く結びついてしまっていたからこそ、戦後、郷土教育を推進する民間教育団体の教師たちは「郷土教育に国家主義はいらない」という原則を打ちたてたのです。しかし、改悪後の教育基本法に「愛国心」が入られてしまうと、純粋な気持ちで「郷土教育」を進めている教師たちも、「愛国心」教育に利用されてしまうのです。
〔オ〕与党検討会は、「我が国」の中に「統治機構は入らない」と説明し、その点を強調していますが、これは詭弁です。与党検討会の理屈は、「我が国」という言葉に「伝統と文化を育んできた」という修飾語がつき、それによって「我が国」(国家)の内容が限定されている、というものです。しかし、統治機構も含めた「我が国」(国家)が「伝統と文化」を育んできた事例もあるでしょう(例えば、靖国神社、皇室文化)。つまり、「伝統と文化を育んできた」という修飾語で「我が国」の内容を限定したからといって、それは単に主観的な思い込みなのであって、「我が国」(国家)から統治機構が除かれるわけではないのです。実際、法律の条文で「我が国(但し、統治機構は除く)」と明記しているわけではないのですから、「統治機構を含めた我が国への愛情を押し付ける愛国心教育」に対する歯止めにはならないのです。逆に、改悪された基本法に「伝統と文化を育んできた我が国を愛する態度」と書き込まれれば、それによって、統治機構も含めた「愛国家心」教育が大規模に推進されてしまうのです。与党検討会の人々は、「我が国」(国家)という言葉に「伝統と文化を育んできた」という修飾語をつけることで、「我が国」という言葉に対する見方の枠組み(フレーム)を変えているため(リ・フレーミング)、あたかも、「統治機構を除いた我が国」が出現したかのように錯覚しているだけなのであり、実は「我が国が国家である本質」は全く変わっていないのです(「リ・フレーミング」は、カウンセリングの技法)。また、「伝統と文化を育んできた」という修飾語の方が「我が国」という言葉(被修飾語)に影響をうけてしまうという問題もあるでしょう。「伝統と文化を育んできた我が国」という表現は、「我が国が『伝統と文化』を育んできた」あるいは「我が国が育んできた『伝統と文化』」の裏返しですから、今度は、「伝統と文化」の方が「我が国が育んできた」という修飾語によって限定されてしまうのです。「伝統と文化を育んできた我が国」「我が国が育んできた『伝統と文化』」という相乗効果により、非常に復古的な印象を作り出してしまうのです。つまり、「伝統と文化を育んできた我が国を愛する態度」は、「我が国が育んできた『伝統と文化』を愛する態度」でもあるわけです。そして、後者の場合、統治機構も含めた「我が国が育んできた『伝統と文化』を愛する態度」になってしまうのです。
〔カ〕戦後教育を振り返れば明かなように、――1951年、天野文相の国民実践要領における「愛国心」、1953年の池田・ロバートソン会談における「愛国心」教育の合意、1958年の特設道徳を指示する文部省通達における「愛国心」の明記、1966年の「期待される人間像」における「愛国心」、1998年版学習指導要領(社会科と道徳)における「愛国心」の明記、2002年以降の「心のノート」による「愛国心」教育の実施など、様々な形で「愛国心」教育の押し付けが展開されてきました。しかし、現行教育基本法を生かす運動などがあり、それらの策動を完全な形では許してこなかったのです。そうした戦後教育史を振り返ると、教育基本法が改悪され、そこに「愛国心」が書き込まれてしまう問題は、極めて重大な問題だといえるのです。

(第6章)「生涯学習の理念」と「教育の機会均等」。

【1節】「第3条・生涯学習の理念」(案)の問題点。

(国民一人一人が生涯学習する社会):小泉内閣(政府与党)は、「第1章・教育の目的及び理念」の中に「第1条・教育の目的」「第2条・教育の目標」だけでなく、「第3条・生涯学習の理念」と「第4条・教育の機会均等」も入れています。「第3条・生涯学習の理念」という項目は、現行法にない新設の条文であり、「国民一人一人が、自己の人格を磨き、豊かな人生を送ることができるよう、その生涯にわたって、あらゆる機会に、あらゆる場所において学習することができ、その成果を適切に生かすことのできる社会の実現が図られなければならない」としています。これは、03年の中教審答申で「生涯学習の理念」が力説され、「今日、社会が複雑化し、また社会構造も大きく変化し続けている中で、年齢や性別を問わず、一人一人が社会の様々な分野で生き生きと活躍していくために、家庭教育、学校教育、社会教育を通じて職業生活に必要な新たな知識・技能を身に付けたり、あるいは社会参加に必要な学習を行うなど、生涯にわたって学習に取り組むことが不可欠となっている」としていたことの反映です。
 「第3条・生涯学習の理念」の条文案は、「自己の人格を磨く」という表現を取り入れるなど、道徳主義的な生涯学習論になっています。そのため、第3条案は、「第2条・教育の目標」案と関連させながら考えることも可能です。例えば〈国民一人一人は、豊かな情操と道徳心を培いながら「自己の人格を磨き」、そして、主体的に社会の形成に参画し、その発展に寄与する態度を養いながら「豊かな人生」を送り、自国の伝統文化を尊重し、それらを育んできた我が国と郷土を愛し、生涯にわたって道徳学習に取り組むことが不可欠である〉というようにも解釈できるのです。既に、文科省は、全国の小中学生に「心のノート」という「一生涯の宝もの」になる国定教材を配布し、その道徳教材を9年間、進んで使い、さらに、中学卒業後の人生でも、このノートを振り返るよう、小中学生に語りかけています。「心のノート」作成者は、〈一人ひとりの人生航路=自分探しの旅を導くのは、指導要領に基づく道徳的価値〉と説明していますが、この説明に従えば、「国民一人一人」は、国家から一方的にプレゼントされた「道徳ノート」を、全生涯の指針や導きにして「自己の人格を磨き、豊かな人生を送るべき」ということになってしまうのです。
(生涯学習をめぐる諸問題):生涯学習については「ユネスコの生涯学習論の展開」や「権利としての生涯学習」論など、歴史の進歩を反映した議論もあります。しかし、日本における生涯学習社会論では、1980年代の中曽根内閣が臨時教育審議会で「生涯学習社会への移行」を強く打ちした経緯があり、この流れがその後の「生涯学習」政策に影響しています。この中には、グローバル化時代に適応する労働力・雇用政策を前提にした生涯学習社会論という問題、市場政策としての生涯学習社会への転換という問題、思想善導的な生涯教育活動の実態などの問題があります(参考文献:山住正己ほか編『現代教育学事典』の「生涯教育」。なお、「思想善導」とは、国民一人一人の思想をよい方向に導くこと。1933年、日本政府は「思想善導方策具体案」を閣議決定し、国民精神総動員体制に向いました)。
働くものの立場からいえば、終身雇用制が崩れるので、リストラされたあとに再就職するためいったん専門学校等に戻り(リカレント)、資格習得のために生涯、学習し続けなければならないという問題があります(リカレント時代の生涯学習)。また、生涯学習社会への移行によって、コンピューターや情報機器などの市場が開かれ、教育の場を、企業の利潤追求の場にできるという問題もあります。そして、一生涯、「実直な精神」を持ち続けるための道徳学習という問題や「思想善導的な生涯学習」という問題もあるのです。

【2節】「第4条・教育の機会均等」(案)と「障害のある子ども」の教育。

 政府・改悪案は、「教育の機会均等」条項案で、現行法にはない「国および地方公共団体は、障害のある者が、その障害の状態に応じ、十分な教育が受けられるよう、教育上必要な支援を講じなければならない」という一文を追加しています。「この一行だけなら問題ない」という受け止めもあるかもしれませんし、逆に「障害のある子どもを他の子どもから区別して規定するのは、差別につながるのではないか」「『障害を有する児童が可能な限り社会への統合に向うように資する』という子どもの権利条約の理念との関係はどうなるのか」という批判や疑問がでるかもしれません。そもそも、現行法は、「障害のある子ども」についての「教育の機会均等」を含んでいるのであり、基本法に「障害のある子どもにおける教育の機会均等」を明記しなければならない特別の理由はなく、例えば、1954年に制定された「盲学校、聾学校及び養護学校への就学奨励に関する法律」は、「教育の機会均等の趣旨に則り、(中略)これらの学校における教育の普及奨励を図る」としています。
 問題は、「政府改悪案」全体が「障害のある者・子ども」を差別的に扱っていることです。例えば、政府・改悪案の「前文」案には「豊かな人間性と創造性を備えた人間の育成を期する」とありますが、文科省は、「豊かな人間性を備えた人間を育成」するため、約80項目の国定道徳を「心のノート」という国定教材にし、全国の小中学生に配布しています。しかし、「障害のある子ども」には、この教材を配布していないのです。また、「創造性を備えた人間の育成」とは、大競争時代に日本が勝利するための人材=創造的なエリートを育成することです。つまり、「障害のある子ども・青年」は、「豊かな人間性と創造性を備えた人間の育成」から除外されているのです。政府・改悪案の基調は、国家に有用な人材の育成ですから、最初から「障害のある子ども・青年」を除外しているのです。こうした構造をそのままにして、「障害のある者が、その障害の状態に応じ、十分な教育が受けられるようにする」と書いたとしても、それは温情主義的な位置づけにすぎないのです。また、現在、政府は、障害のある子どもに関する教育のあり方を大きく改変し、この分野でも小泉「構造改革」を進めていますが、政府・改悪案の記述は、障害のある子どもに関する「教育の構造改革」を正当化し、合理化するための役割(枕詞としての役割)を発揮する条文なのです。


 (第7章)「学校教育」「義務教育」に関する条文の改悪と「教員」条項、「大学」条項の新設問題。

【1節】「権利としての教育」から、「統治行為としての教育」への大転換。

 子どもの権利条約第28条には、「教育についての子どもの権利を認め」、そして子どもの教育への「権利を漸進的にかつ機会の平等を基礎として達成する」と書かれています。教育という営みは、子どもに限った問題ではなく、青年期や中年期、老齢期における生涯教育も含めていわれるものですが、子どもの権利条約に示されているように、「権利としての教育」という考えがとても大切です。そして、現行法は、「権利としての教育」という考えを根づかせるために大変おおきな役割を発揮してきたし、今も、その値打ちは変わっていません。しかし、政府提出の基本法改悪案には、「権利としての教育」という発想が入り込む余地が全くありません。むしろ、政府・改悪案は「国家にとって教育とは一つの統治行為」という発想で組み立てられています。「教育とは一つの統治行為」という考えは、「21世紀日本の構想」懇談会の最終報告書にある言葉であり、「国家にとって教育とは一つの統治行為だということである。国民を統合し、その利害を調停し、社会の安寧を維持する義務のある国家は、まさにそのことのゆえに国民に対して一定限度の共通の知識、あるいは認識能力を持つことを要求する権利を持つ」というものです。「国家が国民に対して、要求する権利をもつ」という考えは、「権利としての教育」を180度逆転するものですが、政府案の改悪案は、「国家が国民に対して、要求する権利をもつ」という考えで貫かれています。

 例えば、政府・改悪案の「第6条・学校教育」案には、「教育を受ける者が、学校生活を営む上で必要な規律を重んずる」とあり、小中学生だけではなく高校生や大学生、私立学校生も含めた全ての子ども・青年に「規律」遵守を上から一方的に要求しています。ここには、子ども・青年の学習権という発想がありません。また、政府・改悪案の「第9条・教員」案には、「自己の崇高な使命を深く自覚し、絶えず研究と修養に励み」とあり、教員の「養成と研修の充実が図られなければならない」と書かれています。この条文案も、国家が教員(小中学校だけでなく、高校や大学、私学の教員もふくめた全ての教員)に対し、「崇高な使命」や「絶えず研究と修養に励むこと」を一方的に要求している構造なのです。一方、戦後の教育基本法の理念には、「教育の自律性」「教育の自主性」などの教育理念が溶け込んでおり、教員の自主的な営みを尊重しており、『教育基本法の解説』には、米国教育視察団報告書からの引用があり、「教師の最善の能力は、自由な空気の中においてのみ十分に現わされる。この空気をつくりだすことが行政官の仕事なのであって、その反対の空気をつくりだすことではない」としているのです。この点、政府・改悪案は、教員に対する「抑圧的な空気」を作りだそうとしており、これでは、戦前の教員政策への逆行になってしまうのです。

【2節】「第6条・学校教育」案の問題点。

 政府・改悪案の「第6条・学校教育」には、現行法にない一項があり、「前項の学校においては、教育の目標が達成するよう、教育を受ける者の心身の発達に応じて、体系的な教育が組織的に行われなければならない」と書かれています。この場合、達成すべき「教育の目標」は、第2条案の「教育の目標」ですので、「豊かな情操や道徳心」「公共の精神に基づき、主体的に社会の形成に参画し、その発展に寄与する態度」「我が国と郷土を愛する態度」等の育成も入っているのです。しかも、「愛国心」の育成をはじめとする学校教育における達成目標をうけ、小中学校だけではなく、高校や大学、私立学校など、公の性質をもつ全ての学校において、それらを「達成するよう、体系的な教育が組織的に行われなければならない」ということになるのです。既に指摘したように、義務教育においては、具体的な「教育の目標」を国家が決定し、その「達成目標」に見合った「成果」があったかどうかを、国家じしんが全国学力テストや学校評価などの実施で「検証」し、国策教育の「品質」を「保証」していく、という「戦略」が打ち出されています。しかし、政府・改悪案に基づいて基本法が改悪されてしまえば、「学力」だけではなく、「愛国心」の育成や国が求める「道徳心」の育成なども、「達成目標」に見合った「成果」があったかどうかを、国家じしんが「検証」し、国策教育の「品質」を「保証」していく、という流れがつくりだされてしまうのです。また、義務教育課程だけではなく、「高校」や「大学」、「私立学校」など、公の性質をもつ全ての学校においても、全く同じ「国家戦略」が貫徹されることになるわけです。
政府の基本法改悪案は、「前文」案をおき、それをうけ「教育の目的」案があり(第1条案)、「教育は、その目的を実現するため」として達成すべき「教育の目標」案をおき(第2条案)、そして「学校教育」の条文案の中で「教育の目標が達成するよう、体系的な教育が組織的に行われなければならない」としているのです(第6条案)。簡単にいえば、政府の基本法改悪案は、「前文」案→「教育の目的」案→「教育の目標」案→「学校教育」案という流れになっているのです(さらに、その後に「教員」案が続くのです)。
政府の基本法改悪案は、「大学」「私立学校」などの条文案もおき、大学教育や私学教育の基本点について書いています。そして国は、これらの条文を利用し、さらなる大学改革や私学改革を押し付けようとしています。例えば、与党改悪案の「大学」条文案は、学校教育法第52条の「大学は、学術の中心として、広く知識を授けるとともに、深く専門の学芸を教授研究し、知的、道徳的及び応用的能力を展開させることを目的とする」を少し直したものですが、条文案には「教育および研究の成果を広く社会に提供することにより、その発展に寄与する」と書かれています。一般に「教育および研究の成果を広く社会に提供する」ことは大切なことですが、文科省の大学政策や国家戦略に照らせば、政府・改悪案で「社会に提供し、社会の発展に寄与する」とある部分は、「国家及び社会に提供し、国家及び社会の発展に寄与する」と解釈できます。また、学問には、すぐに社会に提供できないような分野も多くあります(数学、文学、哲学などの基礎的学問)。そして、基本法改悪によって、国家・社会(国策)のために提供できる研究成果のみが最優先されることになり、基礎的な学問分野が軽視され、「学問の自由」が奪われてしまうのです。同時に、「学校教育」条項の改悪によって、「大学」や「私立学校」も含め、「公の性質」をもった全ての「学校」が、国家公認の「教育の目標」(国定の「道徳心」や「公共の精神」、「愛国心」の育成など)を実現するため、体系的な教育を組織的に行わなくてはいけない、という仕組みが作られようとしているのです。小泉内閣は、「大学人」や「私学関係者」を、「大学」条項案や「私立学校」条項案の方に注目させ、それを梃子にして、政府・基本法改悪案が、「大学」や「私学」を国策教育の支配下におこうとしている構造の方に気づかせないようにしているのです。

【3節】「第5条・義務教育」案の問題点―戦後の「普通教育」論を改悪。

 政府・改悪案の「第5条・義務教育」案の問題点についてふれておきます。この条項案の問題は、教育基本法が示した「普通教育」の理念を改変していることです。「普通教育」とは、職業教育、専門教育などと区別される「一般的基礎的教育」のことであり、すべての子どもが学ぶ学習内容が、普遍的な価値をもち、かつ共通に習得すべきものであることから、「普通教育」といわれています。『教育基本法の解説』は「普通教育とは、人たるものには誰にも共通に且つ先天的に備えており、又、これあるが故に人が人なることを得る精神的・肉体的機能を、十分に、かつ調和的に発達させる目的の教育をいうのである」と定義づけています。つまり、子ども・青年が、誰にもある精神的・かつ肉体的能力を発達させ、人間らしさを得ていくために、「普通教育」がすべての子どもに保障されなければならないのです。そして、戦後における「普通教育」は、全ての子どもに平等に保障される教育であり、その意味で「子どもの権利」なのです。ところが、政府・改悪案の「第5条・義務教育」案は、憲法や現行教育基本法における「普通教育」の意味を改変し、「義務教育として行われる普通教育は、各個人の有する能力を伸ばしつつ社会において自立的に生きる基礎を培い、また、国家及び社会の形成者として必要とされる基本的な資質を養うことを目的として行われるものとする」と定義づけています。
 小泉内閣(政府与党)は、戦後の「普通教育」が誰にもある精神的・かつ肉体的能力を発達させる営みであることを否定し、生まれながら異なっている「各個人の有する能力を伸ばす」という考えに変えてしまい(能力主義的教育政策)、しかも、その「各個人」が自己責任原則で、格差の広がる「社会において自立的に生きる基礎を培う」としているのです。これは、現行法における「普通教育」が、すべての子どもに対して平等に「一般的基礎的教育」を保障することを通じて、子どもの「人格の完成」を実現する営みであることを否定するものです。また、政府・基本法案が定義づけているように、戦後の「普通教育」は、「国家及び社会の形成者として必要とされる基本的な資質を養うことを目的として行われるもの」と同じではありません。つまり、現行法の「普通教育」は、政府・改悪案の定義のような〈国家有用の人材になるための基礎的資質を育成すること〉なのではなく、なによりも子ども・青年の人間的な成長発達を重視している基礎的教育なのです。この点、『教育基本法の解説』は、普通教育の目的である「人格の完成ということは、国家及び社会の形成者の育成ということの根本にあり、それより広い領域をもっている。この広い領域で育成された人間が、はじめて国家及び社会の良い形成者となることができるのである」と説明しています。つまり、現行法にある「普通教育」によって「育成された人間が、はじめて国家及び社会の良い形成者となることができる」ということなのであり、現行の教育基本法は、最初から子ども・青年を「国家及び社会の良い形成者」に育て上げようとしているのではないのです。言い換えれば、「普通教育」という人間教育を保障してこそ、その子ども・青年は「はじめて国家及び社会の良い形成者」になれるのだ、という関係なのです。小泉内閣(政府与党)の「普通教育」論は、国家が全ての子どもに対し、「国家及び社会の形成者として必要とされる基本的な資質」なるものを一方的に要求する議論なのであり、そこには子どもの権利や学習権という考えがありません。そして、小泉内閣(政府与党)の教育論は、子ども達を早く、国が期待する「国家および社会の形成者」に仕立てようとしているものなのです。かつて、「21世紀日本の構想」懇談会は、その最終報告の中で「義務教育はサービスではなく、納税と同じ若き国民の義務であるという観念を復活しない限り、教師の自信も回復されず、昨今さまざまに憂慮される教室の混乱が起こるのも当然」と打ち出していますが、小泉内閣(政府与党)の教育論も、全く同じ発想で組み立てられています。結局、小泉内閣(政府与党)は、基本法改悪案で、現行法における「権利としての普通教育」から、「国家の統治行為としての普通教育」に改変しているのです。

【4節】「第9条・教員」案の問題点―国策教育の担い手づくり。

政府・改悪案は、現行法の「第6条・学校教育」の「第2項」を切り離し、「第9条・教員」という条文案にし、「法律に定める学校の教員は、自己の崇高な使命を深く自覚し、絶えず研究と修養に励み、その職責の遂行に努めなければならない。このためには、教員の身分は尊重され、その待遇の適正が期せられるとともに、養成と研修の充実が図られなければならない」としています。  
一方、現行の基本法は、「第6条・学校教育」の「第2項」で「法律に定める学校の教員は、全体の奉仕者であって、自己の使命を自覚し、その職責の遂行に努めなければならない。このためには、教員の身分は、尊重され、その待遇の適正が、期せられなければならない」としています。類似した表現もありますが、①政府・改悪案は、現行法にある「(教員は)全体の奉仕者であって」という語句を削除、②「自己の使命を自覚」を「自己の崇高な使命を深く自覚」に格上げ、③現行法にはない、「(教員の)養成と研修の充実が図られなければならない」という語句を新たに加えています。
(「全体の奉仕者」規定と「国民に対する直接責任性」規定を削除した理由):教員が「全体の奉仕者」であるのは、現行法の第10条第1項に書かれているように、教育が「国民全体に対し直接に責任を負って行われるべきもの」だからです(国民に対する直接責任性)。公立学校の教員の場合、「すべて公務員は、全体の奉仕者であって、一部の奉仕者ではない」という憲法15条の規定もあるわけですが、現行法は、私学の教員も「全体の奉仕者」と規定しているのです。その点、『教育基本法の解説』は、「国公私立の教員全般についていえば、公務員的性格をもつ」と説明しています。
 しかし、小泉内閣(政府与党)は、現行法の「全体の奉仕者」という規定も、「国民に対する直接責任性」も、ともに削除し、消去しているのです。「教員は、全体の奉仕者であって、一部の奉仕者ではない」や「教育の、国民に対する直接責任性」についての規定があると、これからの教員が、国家の奉仕者になったり、学校設置者への奉仕者になったり、あるいは株式会社化した学校の経営者への奉仕者になったりすることができなくなってしまうということなのです。
(「自己の崇高な使命を深く自覚し絶えず研究と修養に励む」とした理由):現行法に「自己の使命を自覚」と書かれているのは、他の公務員と違って、教員が子ども・青年の成長発達に関与しているという「教育者としての特殊の使命」があるからです(『解説』)。では、なぜ、現行法の「自己の使命を自覚」を、改悪案で「自己の崇高な使命を深く自覚し、絶えず研究と修養に励む」に変えているのでしょう。その理由の一つは、03年の中教審が「教育基本法において、国・公・私立学校の別なく、教員が自らの使命を自覚し、その職責の遂行に努めるという現行法の規定に加えて、研究と修養に励んで資質向上を図ることの必要性について規定することが適当」と答申していたからです。また、この問題では日本経団連も「教育基本法に、教員の自己研鑽の必要性を明らかにすべきである。現行の教育基本法第6条2項には、学校の教員について『自己の使命を自覚し、その職責の遂行に努めなければならない』とだけしか規定されておらず、教員の自己研鑽の努力義務についても踏み込んで規定する必要がある」と提言していたのです(「これからの教育の方向性に関する提言」05・1)。
現行法の「自己の使命を自覚」を「自己の崇高な使命を深く自覚」に格上げすべき、と強く主張していたのは、「与党教育基本法改正に関する検討会」メンバーの鈴木恒夫衆議院議員です(同氏は、「自民党教育基本法検討特命委員会」の2代目事務局長)。鈴木恒夫議員は、国会審議で小泉首相に対して質問した際に、教育基本法の「教員」条項の改定問題にふれ、次のように述べています(04年6月2日)。「教師というものがどうあるべきか。現行の教育基本法の中に、では、教師というものはどう書かれているかといいますと、現行の教育基本法というのは、昭和22年にできたまま、50数年間、一字たりとも改正されたことはないわけでありますが、現行法ではこう書いてある。『教員は、全体の奉仕者であって、自己の使命を自覚し、その職責の遂行に努めなければならない』。自己の使命を自覚し程度の表現で教員が規定されている。我々は、この教育基本法をめぐる議論の中で、もう少し教師というものを、任務を自覚してもらわなきゃいけないということがありまして、私は、その場で、やはり教師はもっと自己の使命というものに崇高な使命を持っているということを深く自覚して研修と修養を積んで子どもの教育に当たらねばならないということを規定したいと考えております」。この鈴木質問の2週間後、「与党教育基本法改正に関する協議会」は、与党「中間報告」を発表していますので、文中の「教育基本法をめぐる議論の中で」とは、「与党検討会の議論の中で」ということだと思われます。そして、与党「中間報告」には、鈴木恒夫氏の主張が反映され、「自己の崇高な使命を深く自覚」が書き込まれたのです。なお、先の鈴木質問に対し、小泉首相は「教師のあり方ということでございますが、それは、お話のとおりだと思います。使命感、崇高な気持ちがなきゃ子どもに接する教育者としては問題があるという点も事実だと思います」と回答しています。小泉首相は、首相になる前の時点における教育提言の中で、論語的な徳育の重要性にふれた上で、「教育に携わる人間の人格を高め、子ども達に身をもって範を示すこと(が大切)」と書いています(自民党森派の『政策の森』第2号、2000年3月、清和政策研究会のホームページ)。つまり、国定の「道徳心」や「公共の精神」、「愛国心」を備えた人間を育成する「任務」遂行の上で、教師は、子ども達に「身をもって範を示さなければならない」のであり、その点、教師には、子ども・青年以上に、国定の「道徳心」や「公共の精神」、「愛国心」を備えた人間として「人格」を磨き、高め、自己修養しなければならない「任務」がある、ということなのです。自民党は、新綱領(05年11月)の「高い志をもった日本人を」という項目で、教育基本法改定をかかげ、「私たちは、国民一人ひとりが、人間としての普遍的規範を身につけ、社会の基本となる家族の絆を大切に、国を愛し地域を愛し、共に支え合うという強い自覚が共有できるよう努めます。そのために教育基本法を改正するとともに、教育に対して惜しみなく資源を配分し、日本人に生まれたことに誇りがもてる、国際感覚豊かな志高い日本人を育む教育をめざします」としています。そして同党は、子どもを「高い志をもった日本人」に育て上げていく教員は、「自己の崇高な使命を深く自覚」しなければならない、と考えているのです。
この問題では、戦前日本の痛恨の経験をふりかえっておきます。権力的な天皇制国家であった戦前日本の教員の場合、「教育勅語」が教員に対して「崇高な使命を深く自覚」することを強く求めていたといえます。例えば、戦前の日本では、「全国小学校教員精神作興大会」が開催され(1934年)、天皇から直接の「お言葉」があり、小学校教員精神作興大会に参加していた3万6千人の小学校教員の多くは、涙を流しながら「自分は、天皇の御命によって働いているのだ」と大感激し、天皇の臣民を立派な日本人(ニッポンジン)に育て上げるという「自己の崇高な使命を深く自覚」していったのです(参考文献:前掲『修身科講座』)。その結果、多くの教員は、教え子を無謀な戦争に駆り立てることになってしまったのです。
 戦後の教師の中には、子ども・青年の人格や才能の開花に関わる教育労働に誇りをもち、自主的に「自己の崇高な使命を深く自覚」している方もいると思います。しかし、政府・改悪案に「自己の崇高な使命を深く自覚」と書かれているのは、改悪後の基本法に「平成の教育勅語」のような役割をもたせるためなのであり、教師を国策教育の担い手にかえるためなのです。

(第8章)「家庭教育」「幼児期の教育」「学校、家庭及び地域住民等の相互の連携協力」条項の新設問題
  
【1節】「第10条・家庭教育」案の問題点-国家が家庭教育のあり方に介入。

政府改悪案の条文とみると、「自主性、自律性、その他の大学における教育および研究の特性は尊重されなければならない」(「第7条・大学」案)、「国および地方公共団体は、私立学校の自主性を尊重しつつ」(「第8条・私立学校」案)、「家庭教育の自主性を尊重しつつ」(「第10条・家庭教育」案)など、「自主性を尊重しつつ」という但し書きが目立ちます。そして、「大学」や「私立学校」における教育、あるいは「家庭教育」について、「自主性の尊重」という「但し書き」をつけ、「自主性は尊重する」と騙しながら、実は、教育主体の「自主性」を否定し、「上からの国策教育」を進め、「上からの教育改革」を押しつけようとしているのです。例えば、「家庭教育」についていえば、1996年の中教審答申が「子どもの教育や人格形成に対し最終的な責任を負うのは家庭であり、子どもの教育に対する責任を自覚し、家庭が本来、果たすべき役割を見つめ直していく必要があることを訴えたい」と書き、家庭教育の重要性について強調しています。ただ、この時点では「家庭における教育は、本来すべて家庭の責任にゆだねられており、それぞれの価値観やスタイルに基づいて行われるべきものである。従って行政の役割は、あくまで条件整備を通じて、家庭の教育力の充実を支援していくということである」としていたのです(同答申)。しかし、1998年の中教審答申「新しい時代を拓く心を育てるために-次世代を育てる心を失う危機」では、国が事細かに「家庭教育の在り方」に介入する姿勢を打ち出します。そして、この答申をうけ、文部省(町村文相)は、河合隼雄氏を「企画編集委員長」に就任させ、「家庭教育手帳」「家庭教育ノート」という国定教材を作成し、小中学生のいる各家庭に数百万の規模で、この教材を配布しています(1999年。現在は、子どもの年齢に応じた3種類の「新家庭教育手帳」が配布されています)。そうした経過をたどり、政府・改悪案の「第10条・家庭教育」では、「父母その他の保護者は、子の教育について第一義的責任を有するものであって、生活のために必要な習慣を身に付けさせるとともに、自立心を育成し、心身の調和のとれた発達を図るよう努めるものとする」とし、家庭の教育と躾に国家が介入できるようにしているのです。

【2節】「第11条・幼児期の教育」案について。

政府・改悪案の中に「第11条・幼児期の教育」という条文案もあります。この条文案は、「保育所保育指針」(厚労省)と「幼稚園学習指導要領」(文科省)の両者にある共通語句「生涯にわたる人間形成の基礎を培う」を利用し、それを「生涯にわたる人格形成の基礎を培う」に変えてつくられている条文案です。「生涯にわたる人間形成」を「生涯にわたる人格形成」という表現に変えたのは、幼児段階からの道徳教育を重視しているためです。文科省は、「キレる子ども」など、「問題行動を起こす子ども達の背景や原因を探る」ために「情動の科学的解明と教育等への応用に関する検討会」も設置し(05年、「座長」は有馬朗人元文相)、幼児期からの心や脳の形成問題を研究していますが、同省は、とくに5歳ぐらいまでの幼児の心や脳の形成に着目し、調査しているのです。
また、03年度に「経済財政運営と構造改革に関する基本方針」(骨太方針第3弾)の中で「新しい児童育成のための体制の整備」が決められ、05年、中教審も答申「子どもを取り巻く環境の変化を踏まえた今後の幼児教育の在り方について」において、「幼稚園と保育所の連携の推進及び総合施設の在り方」を打ち出しており、それらをうけ、現在、国会に「認定こども園」設置法案が上程されています。これは従来の「幼児期の教育と保育」の両者を再編していく大きな動きであり、いわゆる小泉「構造改革」の一環ですが、基本法改悪案の「幼児期の教育」条項は、国が進める「幼稚園・保育所の大きな再編・構造改革」を正当化し、合理化するための条文になると考えられるのです。

【3節】「第13条・学校、家庭および地域住民等の相互の連携協力」案。

 政府提出の改悪案は「第13条・学校、家庭および地域住民等の相互の連携協力」という条文案を置き、「学校、家庭および地域住民その他の関係者は、教育におけるそれぞれの役割と責任を自覚するとともに、相互の連携および協力に努めるものとする」としています。「学校・家庭・地域社会の三者の連携・協力」については、03年の中教審答申で「今後の教育を進めていく上で、学校・家庭・地域社会の三者の連携・協力をより一層強化することが求められており、そのためには、この三者の適切な役割分担が明確にされることが必要である」としていましたが、それが条文案になっているのです。三者の連携・協力は、96年の中教審答申で強く打ち出されたもので「社会に対して『開かれた学校』となり、家庭や地域社会に対して積極的に働きかけを行い、家庭や地域社会とともに子どもたちを育てていくという視点に立った学校運営を心がける」「日常の生活におけるしつけ、学校外での巡回補導指導など、本来家庭や地域社会で担うべきであり、むしろ家庭や地域社会で担った方がよりよい効果が得られる」「従来、学校教育中心の行政になりがちであった教育委員会についても、学校のみならず、家庭や地域社会における教育に関する条件の整備・充実や、これら相互の連携を推進することが大きな役割がある」「子ども達は社会全体で育てていくものであり、社会を構成するマスメディアや企業が子どもの育成に積極的に協力していくことを期待したい」等の内容を含んでいます。
今回の条文案をみると、「学校、家庭および地域住民その他の関係者」と書かれていますが、その中で「その他の関係者」とは、具体的に誰を指しているのか、という点が不透明です。この問題では従来から、地元の警察なども含めた「青少年健全育成」事業の中で、青少年を管理の対象として囲い込んでいるという問題があります(学警連携)。条文案との関係で言えば、「その他の関係者」の中に「青少年健全育成事業の関係者」(警察、自衛隊)も入るのではないか、という問題です。また、石原都政下における「心の東京革命」等、各地の「青少年健全育成事業」が、「家庭・学校・地域社会の連携」で進められていますが、「道徳教育強化政策の一環として、家庭・学校・地域の連携が叫ばれ、地域ぐるみで子どもに半強制的なあいさつ運動、清掃・美化運動などを行わせる動き」もあります(前掲『現代教育学事典』の「青少年健全育成」)。さらに、中教審は、答申「青少年の奉仕活動・体験活動の推進方策等について」(02年)の中で「学校及び地域を通じて、初等中等教育段階の児童生徒に対して、奉仕活動・体験活動を推進するためには、学校・地域・家庭が連携してこれらの活動を支援することができるような仕組み作りをすることが必要」としていますので、基本法が改悪され、「学校、家庭および地域住民等の相互の連携協力」という条項が入れば、子ども・青年を地域ぐるみで囲い込み、子ども・青年に「奉仕活動」を押しつけるような「青少年健全育成事業」が今以上に強化されかねないのです。

(第9章)「社会教育」条項と「宗教教育」条項の改定・改悪問題

最後に、これまで取り上げてことなかった「社会教育」と「宗教教育」の条項の改定・改悪問題について少し考察しておきます。

【1節】「社会教育」条項の改悪。

現行法は、「前文」と「教育の目的・方針」(第1条、第2条)をうけ、「学校教育」(第6条)と「社会教育」(第7条)を置いており、「社会教育」を重視しています。そして現行法は「家庭教育及び勤労の場所その他社会において行われる教育は、国及び地方公共団体によって奨励されなければならない」としています。『教育基本法の解説』は、「民主的で、文化的な国家を建設すべき国民ひとりひとりの教養と徳性の向上のためには、教育は単に学校においてのみならず、広くあらゆる機会に、あらゆる場所において行わなければならない・・のみならず、国民が自らの人格の完成をめざし、真理を探究するためには、単に学校のみならず、社会のあらゆる施設がそのために利用されうるようにされなければならない。このような趣旨からして、社会教育の振興は、学校教育の刷新充実と相まって今後大いに努めなければならない」とし、「社会教育についての一条」を設けた理由について説明しています。
一方、与党「最終報告」は、現行法の「社会教育」規定を改変し、「個人や社会の多様な学習に対する要望にこたえ、社会において青少年および成人等に対して行われる教育」としています。そして小泉内閣が提案した改悪案の「第12条・社会教育」は、「個人の要望や社会の要請にこたえ、社会において行われる教育」という文面に変えています。政府提出の条文案では、単に「社会の要請」となっていますが、これは非常に漠然とした言い方であり、「社会」という言葉の中には、産業社会、企業社会、福祉社会、学歴社会、高度情報社会、コンピューター社会、監視社会など、「○○社会」というものが全て入ってしまいます。そして「社会の要請」の中には「国家及び社会の要請」が含まれているといえます。つまり、政府・改悪案の「社会教育」は、一人ひとりの市民や国民が教養と徳性を自ら向上させながら主体形成していく過程を尊重する営みなのではなく、〈「国家及び社会」の要請にこたえ、「国家及び社会」の指示や要請で行われる教育〉を含んでしまっているのです。これでは、社会教育が「国家及び社会」の要請に従う営みになってしまいます。政府・改悪案は、与党「最終報告」で削除した「図書館、博物館、公民館その他の社会教育施設の設置」を復活させているものの、社会教育を「国家及び社会」に従属する営みに、大きく変質させているのです。結局、政府・改悪案の「社会教育」条項(案)は、「権利としての社会教育」を否定し、今後、「国家の統治行為としての社会教育」を重視していくための条文なのです。

【2節】「宗教教育」条項の改定と「教養教育」について。

次に「宗教教育」条項の改定ですが、この問題で政府・改悪案は、現行法の「第9条」の第1項「宗教に関する寛容の態度及び宗教の社会生活における地位は、教育上これを尊重しなければならない」をかえ、「第15条・宗教教育」案で「宗教に関する寛容の態度および宗教に関する一般的な教養並びに宗教の社会生活における地位は、教育において尊重されなければならない」にしています。つまり、基本法改悪案では「宗教に関する一般的な教養」が追加されているのです。以前、「21世紀日本の構想」懇談会の河合隼雄座長は、宗教に関する教養を教えることを目的にした、高校用教科書を計画していましたが(河合隼雄『縦糸横糸』新潮社)、政府与党による「宗教教育」改定案は、「宗教は21世紀のキーワード」と力説する河合隼雄氏の意向と一致しています(天外著『心の時代を読み解く』飛鳥新社における河合氏の序文)。文科省の顧問に就任した河合隼雄氏は、以前、自民党国家戦略本部の講演で「宗教というものを高等学校で教えるんだったら、どんな教科書で教えられるかというのをいっぺん試しにつくってみようかなんていうことをいま考えている」と発言し(01年11月)、その後、『宗教を知る、人間を知る』と題する「宗教入門書」を共同で刊行しています(講談社、02年)。この「宗教入門書」は、高校用教科書にはなりませんでしたが、政府・改悪案にそって基本法が改定されれば、「宗教に関する教科書や副教材」が作られることになってしまうのです。このように、基本法改悪案は、現行法の「前文」から「憲法の理想」を外すことで、「良識ある公民たるに必要な政治的教養」である日本国憲法を、著しく軽視、あるいは無視する一方で、「宗教に関する一般的な教養」を重視しているのです。基本法改悪案の中には「幅広い知識と教養」(第2条案)、「高い教養と専門的能力」(第7条案)という記述もありますが、中教審は「新しい時代における教養教育の在り方について」答申しています(02年)。この答申は、グローバル化時代における科学や情報など、大競争時代に日本が勝つために必要な「教養」と、伝統文化や国語力等、「日本人としてのアイデンティティの確立」に関する「教養」の2つを重視しており、憲法理解に関する「教養」を無視しています。また、答申は「教養を形成する上で、礼儀・作法をはじめとして型から入ることによって、身体感覚として身に付けられる『修養的教養』は重要」とし、道徳的な「教養」も重視しています。この点、道徳教材「心のノート」は、「憲法理解に関する教養」を無視し、その一方で「宗教的情操」や「修養的教養」など、〈日本人として必要な教養〉を重視している教材です。そして、政府案にそって基本法が改悪されれば、「心のノート」的な教養教育が学校現場に押し付けられてしまうのです。

(おわりに)。

各種のメディア報道によれば、与党検討会(協議会)は、70回以上の議論を密室でおこなって与党「最終報告」にいたった、とされています。最後に、この問題について考えておきます。与党検討会(協議会)は、格調高い現行法の文章から、短い語句を寄木細工のように切り貼りしたり、多少、直したり、あるいは都合の悪い語句を消去したり、中教審答申や学習指導要領などの言葉をそのまま挿入したりした産物なのであり、その結果です。そして、与党検討会(協議会)の人たちは、「最終報告」をまとめる上で、格調高い現行法の「権威」を部分的に使っているものの、現行法の核心的内容を抹殺したり、歪曲したり、あるいは大きく改変したりしているのです。その手法は、たいへん巧妙であり、欺瞞に満ちています。ただ、複雑で巧妙な政府・改悪案や与党「最終報告」も、『教育基本法の解説』等の文献を通じて、現行法の原点に立ちかえれば、どこに問題があるのか、かなりはっきりします。
与党検討会(協議会)によって進められてきた、70回以上の密室審議は、「教育基本法改正の仮要綱案」を作成した文科省も含めて、小細工や寄木細工などに、そのエネルギーの多くが使われていたのであり、現実の子どもや教育の諸問題などを真剣に議論した形跡はありません。結局、与党検討会(協議会)の人々には、子どもを大切にする視点がなく、教育という営みを大事にしようとする視点が全くないのです。そして、与党検討会(協議会)の人々が、「現実の子どもや教育」の方ではなく、「上からの国策教育」の方のみを重視している姿勢こそ、この人々の「最大の弱点」といえるのです。
重大なことは、一部の政党人や文科省の関係者が、基本法改悪案づくりを「密室」で審議していた点であり、この事態こそ、教育に対する「戦後最大の不当な支配」なのであり、本来あってはならない「党派的な、不当な干渉」だったといえるのです。『教育基本法の解説』は、「教育は党派的なものであってはならない。教育は、教育者だけのものではなく、国民全体のものである。しかし、教育には自主性が尊重されねばならず、党派的な不当な干渉が侵入してはならない。そこで『教育は不当な支配に服することなく、国民全体に対して直接に責任を負って行われる』としたのである」と解説していますが、この戦後教育の根本理念・根本原則に基づけば、政権与党の数名だけで教育基本法改正案の審議なるものを「密室」で行うことなど、絶対にあってはならないことなのです。そして、「国民全体のものである」はずの「教育」問題について、「国民全体」を無視し、拙速に審議をすすめることなど、あってはならないのです。
与党協議会(検討会)の人々は、「我が国の未来を切り開く教育の基本を確立し、その振興を図る」等と言いながら(「前文」案)、現代日本の子ども達を潰し、教育という営みを押しつぶす道に、21世紀の日本を導こうとしています。この道は、21世紀の日本の未来を危うくしていく亡国の道です。しかし、与党協議会(検討会)の人々、そして小泉内閣(政府与党)のメンバー、基本法改悪を推進している人々は、日本の未来を危うい方向に導こうとしていることに全く気づいていないのです。ここに、与党協議会(検討会)の人々、そして基本法改悪を推進している政府関係者における「愚かさ」と「最大の誤り」があります。
今、必要なことは、子どもや若者達の笑顔をとりもどし、「未来を拓く教育」という営みを大切にしていくことなのであり、現行の教育基本法を活かし、生き生きした教育活動を再生し、そして発展させていくことです。そうした方向こそが、今日求められている道なのです。