学校の外から

日本ユング派河合隼雄批判

2005年9月24日掲載

林 功 三

(1)河合隼雄とは何者か-かれの歴史認識

 
 2001年から日本に「心のノート」という国定教材があることは今では一般にもかなりよく知られている。「心のノート」とは何か。一口でいえば、それは心理学の手法をつかって子どもに「道徳」の刷り込みをおこない、愛国心を「涵養」しようとする教材である。文科省は、「強制」の批判を避けるため、「教科書ではない」「副読本でさえない」と弁解するが、これは実質的には一種の教科書である。しかも、検定さえおこなわれないまま、全国に突如一斉配布された、いわばスーパー国定教科書である。通常の教科書とはちがって、著者は明示されていない。ただ一人この教科書の中で名前が出てくるのが「しんりがくしゃ かわいはやお」である。河合隼雄は紛れもなくこの教科書の作成の中心にいた人物である。
 その河合隼雄とはいったい何者だろう。京都にある「日本文化研究所」の前所長、三浦朱門の後を継いだ現「文化庁長官」であることはだれでも知っていようが、かれが政治的にどのような働きをしてきたかは、今でもあまり知られていないようだ。

 河合は小渕内閣のとき首相の私的諮問委員会である「21世紀構想委員会」の座長を務め、愛国心教育の必要性を説いた人物である。この委員会の答申には「義務教育は国家の統治行為」であるとはっきり述べられていた。義務教育は国民の権利で国家はそれを保証する義務があるという戦後民主主義教育の理念がここでは逆転させられている(三宅晶子『心のノートを考える』他)。しかも河合は、自民党国家戦略本部で自民党の国家議員たちを前にして「21世紀日本の構想」という題の講演をおこない、「道徳と宗教が大事になるんじゃないかと思います。ただそのことを『21世紀構想委員会』の最終報告書には意図的に書きませんでした。なぜかといいますと-ジャーナリズムは全部反対するんです。-国民は全部それに同調します。だからそのことは抜いておこう。抜いておくけれども、ぼくらは絶対考えなければならない。だけどこれを極端に政府がとか、総理大臣がといういい方をすると、絶対反対されるされると思いますけど、上手に持っていけばできるのではないか。そういうことを考えるのが我々学者といいますか、そういうものの役割だと思います」といっていた。こういうことばにわかるように、かれは全くの御用学者である。

 河合と一緒に本を出している鶴見俊輔(『倫理と道徳』)、大江健三郎(『講演集』)、井上ひさし(『ミヒャエル・エンデとの対話』)、谷川俊太郎(『魂にメスはいらない』)のような有名な知識人たちも、河合がほんとうはどういう人物であるのかをあまりよく知っていないのではないだろうか。上記の知識人たち以上に問題なのは、こういう書物を刊行している岩波書店や朝日新聞のようなメディアである。これらのメディアはせっせと河合の、また上記の著者たちと共著の図書を出版し、講演会まで開催している。「良心的」といわれているこれらのメディアは、河合が早くから自民党の右翼議員たちと結びつき「教育基本法改正」の方向に舵をとってきたことを知らないのだろうか。知らないはずがない。昔も今も権力に無批判なのが日本のマスメディアである。
 河合は2001年に全国に先立って京都に、教育長の諮問機関「京都市道徳教育振興市民会議」を立ち上げ、市民から「道徳教育市民アンケート」をとろうとした。欧米は一神教の社会で日本は多神教の社会である。日本は八百万の神がいる。欧米はキリスト教の神がいて道徳のしばりがかかっているからいいが、日本はそれがない。だから社会が乱れる。かわりに規範をつくる必要がある。神のかわりに「アンケート」をとったらどうだ、と河合はいっていた(毎日新聞2002年8月20日)。心理学の手法を使って日本の道徳教育を興そうというわけである。傲慢な思考である。
 「臨床心理学者」である河合は日本の道徳教育の歴史をどのように考えているのだろうか。かれに日本の道徳教育の歴史研究を求めることは、木に登って魚を求めるようなものかもしれない。かれには歴史・社会への関心がはじめからまったくないからである。みずからも臨床心理学者である小澤牧子は、早くから、河合のそのような正体を見抜き、警告を発していた(「『心の専門家』はいらない」2002年他)。河合は、「荒廃した」学校教育への対策に困った文部省の方針にしたがってスクールカウンセラーを制度化し、その手配師総元締めとなって出世した男である。はじめから歴史的社会的思考などおよそ期待できない男である。
 しかし、わたしはかれに対していっておかなければならない。かれは私と同じ世代の人間である。戦時中国家主義の教育を強要されて育った世代の一人として、道徳教育を説くのであれば、かれは自らの経験から出発すべきだろう。それが戦時中抵抗することができなかったわたしたちの世代の、いわば最低限の人間的良心だろう。河合はなぜ自分の受けた道徳教育を問題にしないのか。その反省から始めないのか。わたしは1928年生まれで、敗戦の年16歳だった。戦時中の日本には、少なくともわたしの周りには、不服従という事実がなかった。抵抗という概念さえもなかった。わたしは恥ずかしい少年時代を過ごした。今でもその恥ずかしさ、悔しさをわたしはぬぐえない。その恥ずかしさをバネにしてわたしは今も生きている。
 河合を問題にするとき、わたしは小泉首相を思わずにはいられない。かれらに共通しているのは途方もない歴史認識の欠如である。なぜ靖国神社参拝をするのかと聞かれた小泉は、「心ならずも戦場へ赴き倒れた兵士の御霊に哀悼の誠を捧げ、不戦を誓う」ためだといい、「われわれの今日あるは靖国に祀られている兵士のおかげだ」という。A級戦犯が合祀されている神社を参拝することを中国に非難されると、日中問題は靖国だけではないのになぜ中国は靖国だけに「こだわる」のか、と居直る。そもそも靖国参拝が不戦の誓いになるというのは、論理的にも全く筋が通らない。靖国神社は軍によって維持された神社で、ポツダム宣言を否定し、戦犯たちを悲運の犠牲者だとして顕彰している神社である。「大東亜戦争」は侵略戦争でなかったといっているのが靖国神社である。その靖国神社に参拝して不戦の誓いをたてるというのは論理にならない。こんなでたらめな発言を、日本のジャーナリズムがまともに批判しないのはなぜだろう。兵士たちが「心ならずも戦場に赴いた」というのなら、かれら兵士を強制的に戦場へ送った支配者がいるはずだ。その支配者がだれかを日本のジャーナリズムは、なぜかれに質問しないのか。また、兵士たちははたしてほんとうに「心ならずも戦場に赴いた」のか。そうではあるまい。かれらは家庭ではよき夫であり、優しい父親だった。その兵士たちがすすんで「お国のために」他国へ赴き、暴虐のかぎりを尽くしたのだ。それが皇軍兵士のまさに本質なのだ。小泉は、日本の今日あるはかれらのおかげだといっている。他国を侵略した兵士のおかげだ、というのだ。日本は侵略によって今日の経済的繁栄をもつことができるようになったと小泉はいっている。あの侵略は日本国民にとっていいことだった、とかれはいっているのだ。小泉の歴史認識がまちがいであることは、中国の人びとに指摘されるまでもない。戦後日本の「繁栄」は、アジアや世界の人びとにたいして最低限の国家賠償さえもなされないまま戦後も継続された収奪によるものであり、そこには多くのゴマカシやウソがあった。そのウソがいま次第に明らかになってきている。小泉と与党は、そのウソのからくりを公然と隠蔽しようとしている。
 2001年の初めに、安倍晋三(当時内閣官房副長官、「日本の前途と歴史教育を考える若手議員の会」事務局長)、中川昭一(現経産相、当時「日本の前途と歴史教育を考える若手議員の会」代表)という新保守主義の議員たちによるNHKへの圧力によってNHKは「国際民衆法廷」の放送の番組を変更させたことが最近問題になっている。NHKははじめからすすんでかれらに追随していた。NHKには批判精神など初めからまったくなかった。批判精神を欠落させたジャーナリズムはジャーナリズムの名に値しない。戦時中の「日本放送協会」の放送をみるがいい。NHKには今もその反省も自覚もない。新保守主義の議員たちも自分たちが正しいと信じている。日本の政治的指導者にとっては、戦前の歴史と戦後はストレートにつながっている。それがかれらの歴史意識である。1945年はかれらにとってターニングポイントではなかった。かれらに歴史の断絶はなかった。原爆が投下されようと、戦争によって2000万人のアジアの人びとが殺害されようと、問題ではない。国体はりっぱに護持された。天皇は「国民統合の象徴」となった。天皇制こそがなによりも大事だとかれらは今も考えている。
 「心理学者」である河合の歴史認識も政治家たちのそれとあまり変わらない。わたしの知るかぎり、「愛国心」がかつて日本人をどのように導いていったかを、河合は論じたことがない。皇軍兵士の心理を河合は問題にしたことがない。侵略した軍隊の兵士たちは、「愛国心」に駆られて戦場へ赴いたのであり、かれらが出兵したのは、天皇制ファシズムにすすんで追随したからである。どこの国のファシズムでもそうだが、ファシズムは民衆を排外主義に駆り立ててやまない。日本も例外ではない。ファシズムの中で日本のマスメディアも戦争を煽り、国民は挙って戦争を支持した。侵略戦争によって日本の国民は多大の利益を得た。でなければ、日本はあの15年戦争を遂行できなかったであろう。しかし、河合は日本のファシズムを正面から問題にしたためしがない。
 河合は日本ファシズムについて無知であるばかりではない。ユング派心理学者を自負するのに、かれはユングとナチズムの関係についても無知である。そのことを指摘しようとするのがこの小論の主旨である。

(2)ユングとナチズム

 ユングがナチズムに歴史的にどうかかわったかについて、河合は驚くほど浅薄な認識しかもっていない。かれの『ユングの生涯』(1978年)という著書は、全体が200ページほどのペーパーバックであるが、その中でユングのナチスとのかかわりについては、わずか3ページ半ほどの記述があるだけである。しかもそれは内容的にもきわめてお粗末なものである。ユングはナチとかかわりがあったという批判を予想して、河合はこう書いている。「戦後1946年にチャーチルがチューリヒを公式訪問したが、そのレセプションにおいて、ユングはチャーチルの横に坐ることになった。これは、ユングに関する親ナチなどのデマに、チャーチルが全然惑わされなかったことを示している」。河合は、ユングが大政治家チャーチルの横に坐ることを許されたのは、ユングが親ナチ(もしくはナチ協力者)ではなかった証拠だという。いかにも河合らしい幼稚な論証である。ここには学者の自主性などまったくない。
 そんな河合を、京都市道徳教育振興会議のメンバーや京都市教育委員会関係の市の職員たちは歓迎している。かれらは口を開けばすぐに河合を「ユング心理学の世界的権威」と紹介する。ユングや心理分析関係の書物などおそらく全く読んだこともない連中がこんな評価をしている。だれもそれを咎めない。河合自身も自分が日本のユング研究者の第一人者であると思っている。日本のマスメディアの多くもどうやらそう認めているらしい。マスメディアも、河合と同じように、歴史認識を欠いているとわたしは思う。岩波書店や朝日新聞社のような比較的良心的とみられているメディアがすすんでかれの書物を刊行し、かれの講演会を主催しているのはそのためだろう。朝日新聞にいたっては2004年1月1日の紙面の2面全部を使って大々的に河合隼雄の宣伝を載せていた。また岩波書店からはかれの書物が今も次々に出版されている。これはむろん河合自身の問題であるが、同時に、またそれ以上に、マスメディアの歴史認識にかかわる問題である。ここには現代日本の知的社会の根本的な問題がある、とわたしはみる。
 わたしはドイツの文化・社会史をテーマにしている研究者である。ドイツではナチス以後、とりわけ60年代以降、文学・哲学・歴史学などのあらゆる学問分野で、また司法界、医学界のような保守的な分野・社会分野にいたるまで、あらゆる社会的分野で、ナチズムの過去への反省が徹底的におこなわれた。いわゆる「過去の克服」(Bewaltigung der Vergangenheit)である。今でも、毎日の新聞のどの面にも「過去の克服」に関係した記事がないためしががない、と加藤周一が驚嘆してどこかで書いていたが、そのとおりである。チェコのある歴史家は、ドイツの「過去の克服」は20世紀最大の偉業であるといった。わたしもこの意見に同意する。
 他方、それとはまったく対照的な日本の、歴史の忘却・隠蔽をみるとき、わたしは驚き呆れるほかはない。
 「〔1945年に〕ヒトラーは自殺したが天皇は在位した」とユルゲン・コッカ(ベルリン社会科学研究所所長、現代世界史、ヨーロッパ比較歴史学研究者)は書いていた(Hrsg. v. D. Petzina/R.Ruprecht "Wendepunkt 1945?)。コッカは1945年の日独両国の共通点とちがいを短いことばで言い表している。日本とドイツのちがいは1945年のターニングポイントだけではなかった。その後の半世紀にドイツと日本のちがいはますます大きくなった。
 ユング受容の現象にも、そのようなドイツと日本のちがいが示されているとわたしはみる。ドイツ(やヨーロッパ)では、ユングがナチスにかかわっていたことはよく知られており、人びとは当然ユングの心理学には批判的である。ユングはナチズムに思想的にも大きくかかわっていた。「集合無意識」「元型」「心理学的タイプ」などのような基本概念をもち、オカルト現象や神話・宗教に関心を寄せるユングの「分析心理学」はナチズムのイデオロギーと重なっていた。同時代の、フランクフルト学派の人びと、たとえばヴィルヘルム・ライヒはかなり早くからユングの思想を批判していた。またヴァルター・ベンヤミンも疑いの目をむけていた(『パッサージュ論』Ⅲ)。戦後も、ヨーロッパの思想家たち、たとえばフランスのフィリップ・ラクー=ラバルト/ジャン・リュック・ナンシーのような思想家たちは、ナチズムの思想を厳しく批判している。河合隼雄のように、国民的同一性を重要視しているユング派の学者はドイツやヨーロッパではきびしい批判を免れない。国民的同一性への固執から人種主義を生んだナチズムの歴史を問題にしないで、無批判に愛国心を説き、ユング派を名乗ることは、ドイツやヨーロッパではおよそ考えられないことである。河合は本来「臨床心理士」にすぎず、思想家ではないかもしれないが、「しんりがくしゃ」(『心のノート』)を自称する以上は、思想的にも、また歴史的にも、ユングがナチズムとかかわった歴史を問題にしないですますことはできないはずである。
 「アウシュヴィッツの後に詩を書くことは野蛮である」といったのはT.W.アドルノ(『社会と文化批評』1949年)である。戦後のドイツではアドルノのこの厳しい命題に応えることがなければ、文学創作も、どんな芸術活動も、どんな著述もできなかった。というよりは、むしろ人びとはこのアドルノの命題を共有した。ナチス以後のドイツでは、ユングは、ナチズムにかかわった学者として歴史的・批判的にとらえられないわけにはいかない。ドイツの大学でユンギアンの学者が教授になっている例はおそらく皆無であろう。ユング研究が全くおこなわれていないわけではない。しかしそれは無批判的なものではけっしてありえない。アメリカやスイスにあるような「ユング協会」も-ナチス時代には超国家的機関として存在し、政治的機能をもっていた組織だが-現在のドイツにはない。ミュンヘンなどに細々した研究団体としてあるだけである。ところがドイツ(やフランス)とちがって、ユングのナチズムとの関係が今でも認知されていない日本では、ユング学派が大手を振っている。ユングがナチズムとかかわりがあったという事実は、ある程度知られていても、その歴史的意味は認識されていない。というよりは、歴史事実さえもが隠蔽されている。
 たとえば、中村雄二郎がフランスへ招かれて講演し、ユングに言及したとき、デリダに激しく「かみつかれた」という。中村はなぜ批判されたのか理解できず、驚いたらしい。日本の心理学者の間では、デリダのこの批判は不当である、もしくは理解不可能であるとされている。ドイツやフランスにおける、ナチズム批判の厳しさが理解できないからであろう。日本のユンギアンの一人である鈴木昌は、フランスではユングが「論じられる前にあらかじめ否定されている」といっている(『ヴォータン』、『現代思想』86年8月号所収)。まるでフランスやドイツではユングがろくすっぽ正確に読まれていないとでもいうかのようだ。しかし、ドイツやフランスでは、ユングは、少なくとも日本とは比較にならないほど、読まれ、理解されている。そのうえでドイツ(やフランス)の知識人はユングのナチズムとの関係を批判しているのである。わたしは日本の学者たちに問いたい、あなた方はどうしてドイツやフランスの歴史を知ろうとしないのか。 

2)ユングとナチズム ( 承 前 )

== 「 抵抗は滑稽だ。
  それは、雪崩に抗議するにも等しい。(ユング)」==

 ユングの思想史的位置づけはひとまずおいて、以下に、ユングが政治的・社会的にナチスと大きくかかわっていた具体的な歴史的事実を簡単にみておきたい。
 わたしはユングのナチスとのかかわりをレギーネ・ロコット『想起と検討-ナチズムにおける精神分析と精神治療の歴史について』(Regine Lockot, "Erinnern und Durcharbeiten-Zur Geschichte der Psychoanalyse und Psychotherapie im Natinalsozialismus" Fischer Taschenbuchverlag 1985; Neuausg.:Psychosozial-Verlag, 2002) で知った。ロコットのこの書物は、第三帝国における精神分析と精神療法の歴史について初めてドイツ語で書かれた全面的叙述といわれている。この書物は、それまで利用されたことのない歴史資料や当時の心理分析家中心人物への個人的問い合わせ調査などをも駆使した、精緻な、画期的研究である。なによりもロコットはこの書物で、ドイツにおいてナチによっておこなわれた、またナチズム以後におこなわれた精神分析の受容の歴史を、精神分析の伝説的な「抹消」と「救済」の歴史を、徹底的に検証している。この書物にはユングの政治的言動についても詳細な叙述が載っている。残念ながらこの書物の詳しい紹介をここではするわけにいかない。この書物の「想起と検討」というタイトルはフロイトの『想起、反復と検討』("Erinnerun, Wiederholen und Durcharbeiten"1914)からとられたもので、「反復」Wiederholenは省略されている。省略されているのは、無用だからではなく、反対にWiederholenに特別のアクセントが置かれているからである。著者は、ナチス時代の精神分析・精神治療の歴史は「反復」というアスペクトにおいて解釈されるときはじめて完全なものになると考えている。歴史的状況の反復は無意識裡におこなわれるものでなく、危険を伴うものであるが、かの女はそれに挑戦している。85年に出版されたこの研究は「秘密と陰謀とタブーのヴェールを剥ぐ」暴露ばかりでなく、この研究自体が、ドイツにおける「過去の克服」の一つだった。そのことをまず断っておきたい。
 ドイツに精神分析学が広まったのは第一次世界大戦からである。大戦でドイツ陸軍の中に多数の戦争神経患者が生まれ、敗北の後も膨大な数の戦争後遺症患者がいた。ドイツ医学会も精神療法の重要性を認めるようになった。1926年、ギーセン大学の精神科医のローバート・ゾンマーは、精神科医ばかりでなく広く一般臨床医を集めて、精神医療をおこなうため「一般医学精神療法学会」(Allgemine Arztliche Gesellschaft fur Psychologie (AAGP)を創立した。
1930年、ゾンマーが健康上の理由から会長の地位を退くと、かれに替わったのがエルンスト・クレッチュマー(マルブルク大学)であった。その1年前の1929年に「一般医学精神療法学会」は、国外の-といってもむろんそれは限られた国ぐにでしかなかったが-会員をふくめた「国際一般医学精神療法学会」(IAAGP)になった。1931年にその副会長に就任したのが「アーリア人」(スイス人)のカール・グスターフ・ユングである。ユングがこのポストに就任するのには、当時ナチスドイツの心理学会の有力者であったマティアス・ハインリヒ・ゲーリング教授(ナチスの大物政治家で空軍相であったヘルマン・ゲーリングの従兄弟)の後ろ盾があった。「保守主義者」のユングは、ユダヤ人のフロイトとアードラーを批判する、「深層心理学」の改革者として、賛美された(1933年5月14日付Berliner Borsenzeitung )。
 33年6月26日、ユングは、あるラジオ・インタビューでドイツ人に、「フロイトの場合もアードラーの場合も、個々の個人的なものの見方(たとえば性的特質や権力への志向)が現象界に批判的に対立している」といい、「いま民族の魂の内部におこなわれている民族大移動」には「指導者精神と指導者貴族」こそが必要であると訴えた。こうしてフロイトやアドラーを批判し、ナチズムにすりよったのがユングである。さらにユングは、ナチスによるユダヤ人のフロイトとアドラー排除の後を受けて、自ら進んでドイツ人の魂の「指導者」として登場した。ユングがナチスと協力したことは否定できない歴史的事実である。人脈や制度の歴史的詳細はここでは触れない。
 ユングは、ナチス・ドイツでフロイトとアドラーが禁止された後、真空状態を埋める人物として、深層心理学の改革者として、ナチスに迎えられた。1933年3月に政権を掌握したナチスは5月10日、焚書事件を起こした。フロイトの著書は、マルクスの著書と同様、真っ先にこの焚書の対象になった。その直後の5月14日にユングは『ベアリナー・ベルゼンツァイツング』に『精神分析に反対して』という論説を発表している。「〔フロイトの〕性欲理論と〔アドラーの〕権力理論は審美的でなく、決定的に有害である」とユングは書いている。ユングはナチスによってフロイトやアドラーとは根本的に異なる(ドイツ・スイス系の保守的)資質をもった思考をする学者として高く評価された。フロイトの「悲歌的な知性とは対照的に」、ユングは、人間の個性と集団的力を結びつけ、若々しい生命を肯定する学者だから、ナチスにふさわしい学者とされた。1933年2月にユングはケルンとエッセンで講演し、指導者(総統)と大衆の関係を説き、真の指導者は「外部だけでなく内面的にも」指導者でなければならないといっていた。こうしてユングはナチスの指導者原理さえも受け入れた。だからこそナチスに支持されたのである。
 さらにユングは『心理学のための中央紙』(Zentralblatt fur Psychologie)という雑誌の1934年1/2月号に『精神分析の今日の状況』と題する論説を載せた。この論文でもユングはフロイトを批判している。「フロイトは魂の宗教的機能に唯物論的偏見をもっている」とユングはいい、精神分析は患者を犠牲にして「狂信的に性欲一辺倒に、頑迷になっている」とフロイトを批判した。「〔ユダヤ人である〕フロイトもアドラーもすべての人間の影の部分を克明に観察している。ユダヤ人はこの特性によって女性に似ている。肉体的弱者であるかれらは敵対者を背後から狙う。ユダヤ人は、過去数百年間学んできたこの技術によって、他の人びとが最も傷つきやすい場所にうまく隠れ住むことができるようになった」。ユダヤ人がかれら自身の寛大な非道徳性の近みに生きることをすでに久しく学んできたのに対し、アーリア人種はまだ若く、幻想をもつことがない。約3000年の文化をもつ種族であるユダヤ人は、無意識を否定的に評価することが危険だと思っていない。これに対して「アーリア人の無意識」は「まだこれから実現されるべき未来の創造的な萌芽の活力である」。「アーリア人の無意識はユダヤ人のそれよりも高い可能性をもっている。それは野蛮からまだ完全に別のものになっていない青春の、不利な点でもあるが利点でもある」。「だから〔・・・〕ユダヤ的カテゴリーがキリスト教のゲルマン人やスラヴ人に適用されるようなことがあってはならない。そうすることによって、ゲルマン人の貴重な秘密が、かれの創造的で予感に満ちた魂が、子供じみた陳腐な泥沼と説明されてしまうからだ」。フロイトは自分(ユング)を反ユダヤ主義者と非難したが、それは、かれが、また「ゲルマン人のフロイト崇拝者たちが」、「ゲルマンの魂」を知らないからだ、とユングはこの論文に書いている。
 わたしたちはこのようなユングの発言を、1933年5月10日のナチス焚書事件のような歴史的・社会的枠組みの中でみないわけにはいかない。フロイトの著書は、マルクスの著書とともに、真っ先に焼かれた。焼却の実行に当たった群衆のリーダーは「性生活の破壊的過大評価に反対し、ジギスムント・フロイトとかいう男の書物を炎に委ねよう!」と叫んでいたという。「ドイツ人の健康ならびに人種保護のための闘争機関誌」と称する『健康』の1933年11月号には「医学におけるユダヤ人の役割」に反対して、グロテスクなキャンペーンが繰り広げられた。この記事はほとんどユングのフロイト批判を手本にして書かれたものだった。
 ユングの『中央紙』の論説を最初に批判したのは、バリー(Gustav Bally)という精神科医である。1934年にナチスに対立し、ドイツを去らなければならなかったバリーは、『ノイエ・チューリヒア・ツァイツング』紙(34年2月27日付)にユングの政治的立場を問題にした。バリーはこう書いている。スイス人であるのに、ユングは、ナチスの強制的画一化に従っている。ユングはアーリア独我論の化粧を避けようとしたのかもしれないし、ユダヤ人ばかりでなく非ユダヤ人、ゲルマン人やローマン系民族との協力関係をつくろうとして、介入したのかもしれない。しかし、ゲルマン的なものをユダヤ的なものから分けるかれの方法は曖昧である。「強制的画一化された雑誌の編集者として名乗り出る以上、かれはじぶんの要求が背後から情熱的に組織されていることを知らないはずがない」と。バリーの批判は、ユングがマティアス・ハインリヒ・ゲーリング教授らの、ナチス心理学会へのユング担ぎ出し策動に乗って、ナチズムの強制的画一化政策に従っていることについてであった。フロイト排斥という点でかれらは一致していた。
 バリーに対し、ユングはつぎのように答えた(同紙34年3月13日)。自分が「国際心理分析協会」長に就任したのは、ドイツ語圏の精神文化を生き生きとしたものにしたいと考えたからであり、ドイツの中産階層とドイツの医師の貧しさならびに精神的困窮を救うこと、「わたしの名前の重みとわたしの独自的な立場によってわたしの友人たちを助ける」ことが、わたしの人間的義務だからだ。現状では精神分析を救うために、ドイツグループに画一強制を許さないわけにはいかない。今は国家がこの世界の主である。「ヨーロッパの半分以上がもう〔ナチスに〕呑み込まれてしまっているのが現状である」。豊かな7年の後には窮乏の7年がくる。われわれはいま適応することを学ばなければならない。「抵抗は滑稽だ。それは、雪崩に抗議するにも等しい」といって、ユングは、かれはバリーに指摘されたナチスとの関係を弁解し、自己を正当化した。「ゲーリングのマニフェスト」が『中央紙』に印刷され、それにじぶんの名前が載ったが、これはいわば手違いからである。じぶんがナチスへの忠誠を誓ったとバリーはみているが、すべては援助と友情のためにおこなわれたことである。ドイツにおいて生きようとするものは「ドイツ的」でなければならない。医療も例外ではない。いま医療は「前例のない変革の沸き立つカオス」の中にあり、これを救出しなければならない。「医療は政治とはなんら関係がない。〔・・・〕だからこそ医療は、全ての政府の下で、苦しむ人間の健康のためにおこなわれることができるのだ」。じぶんはペテルスブルクとモスクワの医師たちにも援助を惜しむことはしない。問題はボルシェヴィストではなく人間だからだ。戦争の中で敵方の負傷者を助ける医師は国家反逆罪に問われることがない、とユングはいい、じぶんがなぜことさらにユダヤ人問題を「ナチス一家のテーブルの上に」持ち出したかを、説明している。精神分析医である自分には、これはきわめてややこしい、誤解されやすい原則の問題だった。自分にとって、すべての心理学的理論は主観的信条として批判されなければならない。その主観的前提を調査することがじぶんの学問的義務である。このような特徴は、第一に個人的に、第二に家族的に、第三に国民、人種、風土、歴史によって規定されている。ユダヤ人をユダヤ人として認めることは、むしろ、かれを「内容のないゼロ」とみなすことを意味している。すべてのユダヤ人に特有の「平等を追求する心理分析」は、たとえばフロイトやアドラーがそうであるように、普遍的妥当性を要求するから、打破されなければならない。ユダヤ人とキリスト教徒の区別が強調されたからといって、それを不快と感じることは滑稽な感傷にすぎない。この区別は価値判断を伴わないものである。この区別は一般にはまだ明確ではないから、自分がこの問題に関する二三の見解を発表しようとしたのだ、とユングは告げた。「革命がこの問題を必要とするようになった」今になってやっと、すでに自分が1913年以来おこなってきた「主観的心理学的の前提に対する」批判を、心理学の必然的改革とみることは正しくない。自分の精神分析はドイツの国家形態とはなんの関係もない、とユングは書いている(『ノイエ・チューリヒアー・ツァイトゥング』34年12月23日付)。
  ユングが「価値判断」の中立を強調したことは、M.H.ゲーリングにとって好ましいことではなかったらしい。しかし、いずれにせよ、ユダヤ人のフロイトとアドラーを批判するユングは、その批判によってはっきりナチズムに加担したのだ。 

(3)ユングのナチスとのかかわりを隠蔽する日本のユング派

 こういうユングを、河合隼雄は、歴史事実も思想史も掘り起こすことなく、懸命に弁解している。「ユングは国際精神療法学会の〔・・・〕会長を引き受けた。この事実によって、特に悪くいう人は、ユングは自分の名誉のためにナチスに協力したかの如く主張するのだが、これは事実とまったく異なっている。当時のユングは既に欧米において高く評価され、年齢も六十歳に近く、今更、名誉欲によって会長になるような存在ではなかった。彼が会長を引き受けたのは、ナチスの暴威に対して〔・・・〕何とか、精神療法という若い学問領域を守ることと、ナチスに迫害されているユダヤ人の医師たちを救うことをなしとげたいと思ったからである」とかれは書いている(『ユングの生涯』)。この短い文章にも河合の歴史についての無知がはっきり示されている。知的貧困は読む者が恥ずかしいほどである。ユングのナチズムへの協力を批判する人びとはユングを「特に悪くいう」人だ、そんな人びとはユングのナチズムへの加担の理由をユングの「名誉欲のため」だと考えている、と河合はいう。<カニは自分の甲羅に似せて穴を掘る>ということわざがある。ユングのナチズムへの加担を名誉欲のためではなかったと言い出したのは世界中でも河合がはじめてだろう。それだけではない。河合はユングを精神治療学会のシンドラーにしている。ユングは「ユダヤ人医師たちを救うため」に国際精神療法学会の会長に就任した、とかれは書いている。そんなことがあり得ると考えるのは、そう主張する人間が歴史について、ナチズムについて、ホロコーストについてどれほど無知であるかを示している。
 いわゆる「アーリア人立法」が導入されたとき、ドイツには5万人の医師がいた。その中の6,488人(13%)はユダヤ人だった(住民の8人に1人はユダヤ人だった)。病院の指導的医師の50%はユダヤ人だった。私立病院においても、専門医としてもユダヤ人の医師は重要なポストに就いており、非ユダヤ人の住民の間でも高い名声を得ていた。ところが1933年には既にドイツ人医師による「非ナチ化」キャンペーンが始まっている。とりわけフロイトの精神分析はユダヤ人のものとされた。ナチスであるゲーリング教授はだれよりも個人心理学をナチス運動のために役立てようとした。このナチスの運動は成果をあげた。
 精神療法の医師だけでなく、一般にドイツの医師の45%はナチ党員だった。その上25%はSA(突撃隊)の 隊員でもあった。また7.3%はSS(親衛隊)の隊員だった。医師はすべての職業グループの中でも最もナチ化された階層で、かれらは反ユダヤの先鋒に立った。「1933年の3月と4月にナチスの医師たちは、突撃隊と協力して、公共の病院、大学病院、保健所を襲い、ユダヤ人の同僚を追放した。医師仲間の<非ユダヤ化>は経済的利益と密接に結びついており、かれらはこれによって速やかに出世することができた。罷免され、保健医協会の指導下に行政的な方法で診療から排除されたユダヤ人医師の数は、失業中の、もしくは失業の恐れがある医師の数とほぼ同じだった」とナチス医師同盟は33年3月23日付の『フェルキッシャー・ベオーバハター』紙に書いていた。ユダヤ人が医師の間で重要な地位に就いて活躍してきただけに医師の反ユダヤ主義は猛烈だった。かれらはこう宣伝した。「医師の職業ほどユダヤ人に乗っ取られている職業はない。ユダヤ人の医師は、医学部の教授ポストを支配しており、医療を魂のないものにし〔・・・〕医学固有の倫理と道徳を台無しにした。〔・・・〕われわれはドイツの医師にアピールを発する。われわれの組織を浄化せよ〔・・・〕われわれの職業を再びドイツ的なものせよ!」(ベルリン医師会刊行『人間の価値-1918年から1945年までのドイツの医学』1985年)。ほんの一例をあげよう。たとえば、長年ベルリンで町医者として働いたユダヤ人医師のゲオルク・レーヴェンシュタインという医者は、33年4月かれがどんな目に遭ったかについて書いている。「同業者の一人がSAの制服を着て、わたしの診療室へ踏み込んできた。命令によって今から私がお前に替わってこのポストに就く、とかれはいった。」かれは隊員たちによって路上へ連れ出された。かれらはレーヴェンシュタインの足をもち、手で路上を歩かせた。以前の患者たちがかれを罵倒し、嘲り笑い、歓声を上げている中を通り、広場へ着いた。SAは逆立ちしたままのレーヴェンシュタインに、失業者の給食のために煮た鍋の熱い食べ物を、それに唾を吐いてから、家畜と同じように、口だけで食べさせた。こういう迫害が毎日無数におこなわれていた。そしてユダヤ人医師たちはさらにアウシュヴィッツへ移送されていった。
 河合隼雄のいうシンドラー・ユングはこういうユダヤ人医師たちをどれだけ救ったというのか。たとえどれほどユングが後から「わたしはナチではない。つまるところわたしは全く非政治的なのだ」といいわけしたところで、ユングがユダヤ人精神分析家のフロイトを排除し、ナチスと協調した事実は否定できない。
 ロコットによれば、M.H.ゲーリングの1937年5月27日付の手書きの報告書には、ベルンのスイス心理学者の会合にユダヤ人も亡命者もだれ一人出席していなかったと書かれているという。また1938年のオックスフォードの会議に、ユングは、非アーリア人の出席をゆるさないことを原則とし、報告者が少しでも政治的な発言をにおわせたら、自分がすぐに発言を禁止する」と書いていた(1938年3月26日付ユングのゲーリング宛て書簡)。
 ところが日本では、ユングがナチズムと協調したこのような歴史的事実がいまだに明確にされていない。河合隼雄だけではない。「日本ユング協会」の会長である林道義も「ユングがナチスに加担した行動は一つもない」「むしろナチスを批判し、闘った側だというべきなのである。いろいろ言われていることは歪曲したり、誤解しているので、今では全部論破されている」と書いている(『ユング心理学入門Ⅲ2001年』)。かれは何の歴史資料も証拠も挙げることなく、こんな虚偽発言をしている。これにたいし、わたしが引いたレギーネ・ロコット『回想と検証』は詳細な史料によって第三帝国における心理分析と心理治療の歴史全体を示している。このロコットの堅実な仕事と林道義のデマゴーギッシュな発言と、どちらが歴史の真実を明らかにしているだろうか。
 日本における河合隼雄や林道義のユング受容はいったい何を意味しているだろうか。ユング心理学の第一人者を自認する河合隼雄が自民党政府にもてはやされて文化庁の長官におさまっているのは、また林道義が極右団体である「日本会議」の有力メンバー(第三部会会長)であるのも、おそらく偶然ではあるまい。ドイツとは対照的に、「過去の克服」がおこなわれず、極右が政治的に支配している日本では、一般に、また知識人の間でも、ナチズムの歴史はろくに知られていない。そもそも自分たちのファシズムの歴史に決着をつけられない知識人-かれらはほんとうに知識人の名に値するだろうか-にとって、ナチズムはしょせん他人事にすぎない(西尾幹二『異なる悲劇-ドイツと日本』や木佐芳男『<戦争責任>とは何か-清算されなかったドイツの過去』ほか)。ナチズムについてだけでなく、ナチズム以後のドイツの「過去の克服」についても、日本人はあまりにも事実を知らなすぎる。日本におけるユング受容と河合重用はまさにその現れである。
 河合隼雄や林道義だけではない。心理学者たちの間にもナチズムと「過去の克服」についての無知を示す発言が目につく。「ユングは国際精神療法学会の会長に就任し、就任後、個人でも国際学会に入会できるように規則を変えたが、これはドイツ国内のユダヤ人分析家の資格を保護しようとしたためと言われている」( 鈴木昌『ヴォータン』)とか、「ユングがナチスの据え膳というものを敢えて引き受けるようにしたのは事実だが、それはナチス国内のユダヤ系医師を保護することを意図したためだと言われている」というようなことばが日本では専門の心理学者の間でまことしやかに語られ、インターネットではもっと露骨に、恥知らずに、無責任な発言が飛び交っている。かれらは、わたしとはちがって、心理学の専門家である。専門家であればなおさらのこと、「言われている」ことがほんとうなのかどうか調べてみたらどうか。
 もっとも、かれらの間でも 「(ユング研究が)ヨーロッパ大陸の大学ではほとんど黙殺されている」こと、「支持されているのはアメリカと日本ぐらいである」ことは知られている。しかしなぜそうなのか、その理由が示されることがない。ヴィルヘルム・ライヒがユングの神秘的感情こそが民族主義的イデオロギーの温床だと喝破していたこともかれらは必ずしも知らないわけではない。しかしかれらはそこから何ひとつ学ぼうとしない。こういう「学者」たちがけっきょく河合隼雄や林道義のような存在をバックアップしているのではないか。心理学者だけではない。朝日や岩波のようなマスメディアも同様である。日本のマスメディアは、ドイツで、またフランスで、ナチズムの過去がどれほ徹底的に反省されているかを知らない。おどろくべきことである。日本で西尾幹二のようなデマゴーグの意見が容易に受け入れられてしまうのもそのためである。ドイツにおける「過去の克服」をここで詳しく紹介することはできないが、ドイツではとりわけ60年代以降、想像を絶する深刻さと規模で、あらゆる社会・文化層で「過去の克服」がおこなわれた。そのことを、わたしは繰り返しいっておかなければならない。それに対し、戦後の日本では過去の忘却と隠蔽が支配した。そしてドイツと日本はまるで正反対の国になってしまった。日本は民主主義に遠い国になってしまった。「過去の克服」から直接、民主主義が生まれるわけではないが、民主主義のためには「過去の克服」は不可欠であろう。今日のドイツと日本のちがいはそのことに大きく関係している。 

(4)ユングのウソを見抜いていたケストナー

 ここでは、一つだけ、ユングに関係して、ドイツにおける「過去の克服」のエピソードを紹介しておきたい。それは戦争直後、ユングのとった言動に対して作家のエーリヒ・ケストナーがおこなった批判である。わたしはこの話もロコットの『想起と検証-ナチズムにおける心理分析と精神治療の歴史について』で知った。
ロコットはエーリヒ・ケストナーのユング批判を紹介している。ゲルマニストでありながら、わたしはうかつにもロコットの書いているケストナーのこの話を知らなかった。ケストナーは日本では『エーミールと探偵たち』や『点子ちゃんとアントン』、『飛ぶ教室』、『二人のロッテ』、『動物会議』などの児童文学の作家として知られている。かれは上述のナチス焚書で、マルクス、フロイト、トーマス・マン、E. M. レマルク、C. v.オシエツキ、クゥルト・トホルスキー、B. ブレヒトなどと一緒に著書を焼かれた作家の一人で、ナチスに批判的なリベラルな作家だった。しかしかれは亡命しなかった。ナチスをじぶんの目でみてやろうと思ったらしい。ブレヒトが批判したように、ケストナーには少し甘いところがあったようだ。ナチスの治下、ケストナーはむろん執筆を禁止されていた。かれは二度もゲシュタポに逮捕されている。生き延びるのも困難だったにちがいない。38年にスイから出た『ほら吹き男爵』は、ドイツに古くからある、ナチスも禁止できない話をケストナーが書き直したものである。執筆禁止を逆手にとったかれの抵抗であった。そのケストナーは、早くからユングが何者であるかを見抜いていたらしい。
 1945年5月、ナチスが倒れた後、ユングはじぶんのナチスへの加担をどう反省したろうか。ユングは反省などまったくしなかった。反対にかれは居直った。そしてすべてを「ドイツ人」のせいにした。ロコットによれば1946年2月8日付でケストナーは『木片と梁材』"Splitter und Balken"というタイトルの短い論説をある雑誌に載せている(この雑誌の名前はわからない)。ユングは、あるインタビューで、自分はいま二人の反ナチスのドイツ人患者を治療しているが、この二人のドイツ人の礼儀正しい態度の奥には「明らかにナチス心理があり、あらゆる暴力性と残忍性がみられる」と書いていた。ユングはいう。礼儀正しいドイツ人、礼儀正しくないドイツ人という区別をすることは、ナイーヴにすぎる。「全てのドイツ人は、意識的にもしくは無意識裡に、積極的にもしくは消極的に、残虐行為に関与していた〔・・・〕ドイツ人はナチズムの残虐行為の事実を何一つ知らなかったが、しかしかれらはそれを知っていた。いわばある秘密の生まれながらの契約contrat genialによって、それを知っていた」とユングは書いている。
 ケストナーはこのようなユングの開き直りに呆れるほかはなかった。ユングは「集団の罪」テーゼを巧みに先取りしていた。「集団の罪」というのは、ナチの強制収容所の残虐性を知って驚いたアメリカ占領軍が、ドイツ国民を政治的に再教育する必要があるとして、46年に導入した政策テーゼである。それによれば、罪があったのはナチスだけではない。一般の国民にも罪があった。すべてのドイツ国民はいまそれを反省すべきである、というのであった。たしかに敗戦直後のドイツ国民は歴史事実に向かい合うことを回避しようとした。ナチの強制収容所の凶行について「わたしたちは知らなかった」と多くのドイツ人がいった。それはウソだった。他方、しかしアメリカ占領軍のこの「集団の罪」というテーゼは問題だった。なぜなら、第一に、このテーゼは、ナチスの中枢にあった者、最も責任を負うべき支配層と、ナチスに強制され、追随した一般国民が等しく責任を負うべきであるとしたからである。第二に、何よりも、罪という問題は個人的なもののはずである。それを集団的なものにしてしまうことはできない。ところがこのテーゼは、罪を政治的なものにしてしまい、ドイツ国民の一人ひとりの良心に訴えることをしなかった。この点で、この政策はまちがっていた。ドイツ人のなかにはそのことを知っていた人びと(たとえばカール・ヤスパース『罪責論』)もいた。ヤスパースは「哲学的にみれば、いやしくも罪の問題を扱う場合に、第一に要求されることは、自己自身に対する内面的な行動である」といっている。ケストナーも罪の問題を考え「集団の罪」を批判した人である。他方、このテーゼを先取りし、時流に便乗したのがユングである。ついでながら、わたしたちは日本にも日本版の「集団の罪」テーゼがあったことを思い出しておこう。「一億総懺悔」である。東久邇内閣が唱道したもので、日本が戦争に負けたことを天皇に詫びよというものだった。当時マスメディアも挙って唱和したこの「一億総懺悔」は、贖罪とはまったく関係ないものだった。
 上記のユング・インタビューを、ケストナーよりも早く、最初に問題にしたのは『中央紙』の以前の編集者で、アメリカへ亡命したエリアスベルク(W.Eliasberg)であった。エリアスベルクは怒りをこめてこのユングのインタビュー発言を批判し、1934年の『中央紙』のユングのかつての発言を引き合いに出し、ユングの移り身の早さを批判した。
 ついで、ケストナーがもっと手厳しい批判を、ある雑誌に載せた。「偉大な心理学者であるユング教授」の1945年の「インタビューをじぶんはぜひ詩集アルバムに載せたい」とケストナーは痛烈な皮肉をこめて書いている。
「1)唯一の救いは罪を完全に認めることである。わたしの罪はわたしの最大の罪である・・・Meae culpa, meae maxima culpa...というのがほんとうの贖罪である」。
「2)わたしたちは犯罪者を憎めない。わたしたちの中にいる悪魔が小さな木材片の燃えるのをみて犯罪者の大きな梁材を忘れさせるからだ」。ケストナーは、ユングがかれの大きな梁のような材木を特別列車でドイツへ送ってくれないのは残念だ。かれがそれを送ってくれれば、この冬、多くのナチズム反対派とその家族は、それによって暖をとることができるだろうに、とケストナーは書いた。1945年から1946年にかけてのドイツの冬はことさら厳しい寒さだったことで知られている。寒さは餓えに苦しむドイツ人を凍えさせた。ベルリンのティーアガルテンの樹木は市民によって切り取られ、人びとはそれによって暖をとった。ケストナーは暖房に使える大きな木材をユング自身の罪にたとえた。スイス人のユングは大きな罪(=かれ自身の罪)を認めることによって反ナチのドイツ人に力を貸すことができたかもしれない、とケストナーはいうのである。
 しかしユングはふてぶてしく居直った。かれは恥じることを知らなかった。ケストナーはそんなユングを赦せなかった。ケストナーは贖罪というものが何であるかを明らかにしている。わたしはこのケストナーのユング批判にドイツにおける「過去の克服」の一例をみる。他方ユングの居直りにかれの醜悪な態度をみないわけにはいかない。
 とはいえ、わたしたちはユングのナチス関与をただ暴露し糾弾すればそれで十分だというわけにはいかない。今までの説明で、ユングはナチスと無関係だった(河合隼雄)とか、「むしろナチスと戦った側にあった」(林直道)といったデマを、わたしたちはデマとして確認することができたと思うが、それだけではまだ十分ではない。わたしたちにとってもっと重要なことは次のような問題であろう。ユングのナチスへのかかわりがドイツの精神療法に貢献し、かれの著作がナチズムの人種論を擁護するように見えたとしたら、それはいったいどういう意味をもっていたのか。ほんのわずかの例外を除けば、非ユダヤ人のすべてのドイツ人の心理分析家がユダヤ人の同僚に連帯してドイツを捨てることなく、ドイツの政治的条件に適応したが、それはどういう意味をもっていたのか。そのことをわたしたちは問題にすべきだろう。さらにわたしたちは、河合らのデマが日本で通用し、なぜ日本でユングが受容され続けるのか、その理由を追究しなければなるまい。