2005年9月18日掲載
2005年9月8日 鈴村明(教育問題研究者)
(0)『京都発・しなやかな道徳教育』
の刊行(創元社)
河合隼雄・小寺正一編著『京都発・しなやかな道徳教育』という本が刊行されました(創元社、05年8月20日、以下、『京都発・道徳』と略)。この本の帯には「2万人を超える市民アンケートをもとに、京都から発信する道徳教育についてのメッセージ」と書かれています。「2万人市民アンケート」と書かれていますが、これは「1万人アンケート」として開始された道徳意識調査のことです(京都市の人口は約147万人)。そして、この編著は、道徳意識調査をおこなった「京都市道徳教育振興市民会議」の初代座長の河合隼雄氏(現・名誉座長、文化庁長官)と、2代目座長の小寺正一氏(京都教育大学名誉教授)がまとめたものです。
「京都発」という形で、河合隼雄氏流の道徳教育が全国に対して発信されてしまった以上、今後、全国の教育界に与える影響を軽視することはできません。また、精神病理学者の野田正彰氏が「京都は心理主義的ナショナリズムの実験場になった」と指摘しているように、京都は、国定教材『心のノート』の実験場として位置づけられた地域でもあり、『心のノート』的な道徳教育に対する影響も無視できません。「京都市道徳教育振興市民会議」の小寺正一座長は、「日本道徳教育方法学会」の会長を務めている人物ですが、この学会の18名の理事のうち6名の理事は、『心のノート』の作成や編集に関与した道徳教育学者です(尾田幸雄氏、押谷由夫氏、柴原弘志氏、横山利弘氏、藤永芳純氏ら、02年時点)。つまり、小寺正一氏は、『心のノート』による道徳教育改革を推進している人物なのです。「京都市道徳教育振興市民会議」の初代座長(名誉座長)は、著名なユング心理学者であり、『心のノート』作成協力者会議座長です。そして2代目座長の小寺氏は、明治期ナショナリズムの研究者ですから、「心理主義的ナショナリズム」を推進する役者は揃っているわけです。そこで、いくつかの視点から、この本の問題を考えてみたいと思います。今回刊行された編著のカバーには、「京都市道徳教育振興市民会議は、2万人を超えるアンケートにこたえるために、3年間にわたる討論を重ね、『しなやかな道徳教育』をキーワードにしたメッセージを発信した」と書かれていますので、以下、「しなやかな道徳教育」というキーワードの問題と、「2万人アンケート」問題を中心に、考察することにします。
(1)「シナヤカな道徳教育」というキーワードについて
--子どもと大人の「内界のイメージ」への心理操作
まず、「しなやかな道徳教育」というキーワード問題です。河合隼雄氏は、よく「たくましく、しなやかな個人」と言っていますが、今回、「たくましい道徳教育」という表現ではなく、「しなやかな道徳教育」という表現の方を採用しています。京都市教育委員会は「柔らかいけれど芯はしっかりして決して折れない『しなやかな道徳教育』」と解説しています(『月刊きょうと教育通信』20号)。この表現は、ユング心理学者の河合隼雄氏が提案したもので、心理的誘導も考慮されているコトバです。そこで、河合隼雄氏流の心理的仕掛けに騙されないために、さらに、その仕掛けを見抜いていくために、カタカナを使って「シナヤカな道徳教育」あるいは、「シナヤカ道徳」という、少し読みにくい書き方・表現法を採用することにします(但し、引用の場合は除く)。
河合隼雄氏は、ユング派心理療法(無意識の動きを重視するユング心理学)の大家ですが、この心理療法は、患者や子どもの〈内面におけるイメージ=心の中のイメージ〉を少しずつ変えることを重視している心理療法です。例えば、自分の父親を、内面の奥底(心の深層)で鬼のようにイメージしている子どもを、ユング派心理療法で治療する場合、何気ない対話(カウンセリング)を通じて、「自分のために学費を出してくれる父親像」に気づかせながら、そうした父親像をこの子どもの〈内界のイメージ〉の中に少しずつ入れていき、最後には、この子どもの内面(心の中)に「自分を愛している父親像」が広がっていくように、時間をかけて治療していくわけです。このように、ユング派心理療法は、人の内面のうち、意識レベルだけではなく、意識と無意識との間にある〈内界のイメージ〉を活性化させ、そこに働きかけながら、その人の〈内界のイメージ〉を少しずつ変容させることを重視している心理療法なのです。そして、『心のノート』の場合も、同じようなユング派心理療法が援用されているわけです。『心のノート』は、道徳教育におけるユング派心理療法からのアプローチであり、この教材を日常的かつ長期間(9年間)使う子ども達の心を内面誘導しつづける道徳教材なのです。
今回、「シナヤカな道徳教育」というキーワードが使われているのも、類似した心理的効果を考えているからです。「道徳教育」とか、「道徳」という言葉を聴くと、少なくない人は--程度の差はあれ--内面で抵抗感や拒否感を感じてしまうと思います。こうした抵抗感や拒否感が生まれるのは、「『道徳』という名のもとで行われてきた出来事のもつ負のイメージを忘れることができず、一歩間違えば現代でも同じ過ちを犯すのではないか、と恐れているから」です(永田萌氏の文より、『京都発・道徳』26頁)。つまり、「道徳教育」とか、「道徳」という言葉を聴くと、〈内界のイメージ〉の中に、「道徳アレルギー」や「道徳教育アレルギー」が浮上してしまうわけです。一方、「シナヤカ」という言葉にも、イメージや言葉の響きや肌ざわりのようなものが付随しており、この言葉を聞いた多くの方々の心の中(内面)には、たいへんソフトで好印象のイメージが残ると思います。ということは、「道徳教育」と「シナヤカ」という言葉を組み合わせ、カクテルのように混ぜ合わせ、セットにすれば、人の心の中=〈内界のイメージ〉に残っている「道徳アレルギー」や「道徳教育アレルギー」を緩和し、払拭することができ、「道徳の大切さ」のイメージも広げていけるはず--このように河合隼雄氏は、心理的な計算をしているわけです。
これは、道徳教育を「心の教育」という言い方に変え、道徳に対するアレルギーをかわす手法と似ているわけです。では、なぜ、「心の教育」という言い方にしないで、「シナヤカな道徳教育」というコトバにしたのでしょうか。河合氏は、鼎談「なぜ、いま道徳なのか」の中で次のように発言しています。
「自由を尊重する欧米諸国でも、共産主義諸国でも、道徳や倫理をとても大切にしています。絶対的な宗教をもたない日本は、どうしても自分たちで道徳的な規範意識を高めていく必要がある。一部の人の反発を恐れて道徳の問題を先送りにしていたら、不幸になるのは子どもです。あいまいな言葉で言い逃れるより、はっきり道徳と言い、みんなで腹を割って話し合いたい。そう思って この会議(京都市道徳教育振興市民会議)のテーマに『しなやかな道徳教育』という言葉を提案させてもらいました」(『京都発・道徳』31頁)
このように、河合氏は、「はっきり道徳」と言うことについて、「一部の人の反発を恐れて道徳の問題を先送りにしていたら、不幸になるのは子ども」だからだ、と力説しています。しかし、河合氏が「一部の人の反発」と批判している人々の道徳観や「道徳教育アレルギー」について、それらをよく理解すればはっきりすることがあるのではないでしょうか。
一つは、これらの「反発」や「道徳アレルギー」は、国民的な体験に基づくものである、という点です。修身教育を受けていない「戦後生まれの世代」も、戦前戦中に修身教育を受けた世代から、道徳的な価値観が画一化されてしまったことへの反発の感覚を、知らず知らずのうちに継承しているわけです。戦争の時代の記憶が歴史的に継承されているのです。この点にかかわって、2代目座長の小寺正一氏(道徳教育学者)は、「いま現場にいる教師たちは、年齢的に戦前の修身教育を受けていないはず。それなのに、道徳教育というと修身教育に結び付けてしまう。そこが不思議でした」と発言しています(『京都発・道徳』32頁)。しかし、これは不思議なことなのではなく、戦争の時代に展開された道徳教育の負のイメージが、国民的な規模で継承されている証拠なのです。
もう一つは、戦後の憲法感覚に基づいて、道徳的な価値観を一元化したり、一つの方向へ統合したりすることへの反発が生まれている、という点です。つまり、河合氏らが批判している感覚は、実は、たいへん健全な感覚なのであり、この感覚は、人々の生き方や価値観の多様性を前提にして、個人の尊厳や平和や民主主義という価値観を大切にする〈まともな感覚〉だと思います。
道徳教育学者の小寺正一氏は、「いま目指すべき道徳教育は、『お互いの生き方や価値観の違いを認め合い、そのよさを伸ばしつつ、共通して守るべきものはしっかり身に付けていく教育』ととらえて『しなやかな道徳教育』とした」と説明しています(『京都発・道徳』12頁)。一見、まともな事を言っているようにも感じられますが、小寺氏は、本当に「お互いの生き方や価値観の違いを認め合おう」としているのでしょうか。また、小寺氏が考える「共通して守るべき道徳」とは、どのようなことを指しているのでしょうか。大学の授業で「論語の精読」をテーマにしていた小寺氏の道徳観のことなのでしょうか。
本来、人々が「共通して守るべき道徳」は、憲法や教育基本法を土台にした「個人の尊厳」や「平和主義」や「民主主義」という価値観であり、「良心の自由」をはじめとした「精神的自由」のことなのではないでしょうか。それなのに、小寺氏は「一部に道徳教育の推進は管理強化だ、精神的自由の侵害だといった過激な反応もありました」等と発言しています(『京都発・道徳』32頁)。つまり、「京都市道徳教育振興市民会議」は、憲法理念に基づき、「精神的自由」を擁護しようとする人々の存在を、「過激な反応」等と決め付けながら、一方的に排除しようとしているのです。そして、河合隼雄講演会において、異議申し立てを行った参加者数名を市の職員が暴力的に排除する事態・事件までおこしているのです(04年6月13日)。これは、「お互いの生き方や価値観の違いを認め合う」モラルに完全に反した、たいへん「不道徳」な行為なのではないでしょうか。
結局、「京都市道徳教育振興市民会議」の初代座長の河合氏や小寺正一現座長には、子ども達を「良心の自由」の担い手=「精神的自由」の担い手に育てようとする意志や考えが全くない、と言わざるをえないのです。小寺氏をはじめ、憲法の「精神的自由」を敵視する人々による「シナヤカな道徳教育」なるものは、非民主的な道徳教育なのではないでしょうか。そして、「河合隼雄氏の考えに基づき、道徳や道徳教育をシナヤカに統合し、統一していったら、不幸になるのは子ども達」と考える方が、憲法の理念や教育基本法の精神に合致しているように思われるのです。
「シナヤカな道徳教育」を発信している河合隼雄氏は、周りの人々に「私のような不道徳な者が道徳を論じていいんでしょうか」と冗談を語っているようですが(『京都発・道徳』15頁)、河合隼雄氏は、たいへん「不道徳な」心理学者ではないでしょうか。自らの専門である「ユング心理学」を援用して、日本中の子ども達の心を息長く内面誘導することなど、心理学者として守るべき倫理規定から大きく逸脱した「不道徳」な行為だと思うからです。
(2)京都市の「道徳教育市民アンケート」の問題性
-- 公権力が、市民の道徳意識を調査し、対策を立てる異常さ
「京都市道徳教育振興市民会議」の河合隼雄氏(名誉座長)は、なぜ「道徳教育市民アンケート」を提案し、それを行ったのでしょうか。
河合氏は、「(道徳教育1万人市民アンケートについて)日本に神さんがいたらこんなことをしなくてもよい。しかし日本には、アンケートぐらいしか神がいない。『お上』から言えば反発が起きるし、それならアンケートしてみたらどうやというわけだ」
と述べています(毎日新聞大阪版 02年8月20日付)。この真意は、どこにあるのでしょうか。
河合隼雄氏は、01年11月12日に自民党国家戦略本部で「21世紀日本の構想」というテーマで講演をおこなっていますが、その際に、次のように述べています(自民党国家戦略本部のホームページ)。
「私はいまちょっとずるいことを考えてまして、京都でやってるんですが、京都のいろんな方に、ともかくおれはこれは絶対悪いと思うというのを、いまアンケートをとってるんです。何でもいいから、これは悪いと思うやつを悪いと書いてくれと。それをずっと整理しまして、今度、それをPTAでバーッと配って、集めて、何のかんの言わんでも、京都の人は98%、これは悪いと言ってるんや、頭ごなしに悪いと言えと」
「私は道徳教育というのはこういう言い方をしているんです。頭ごなしの道徳教育というのと、考える道徳教育と二つあると言うんです」「考える道徳教育と、それから頭ごなしの道徳教育があって、頭ごなしのやつは、神様はわからないけど、日本人は統計的には95%、これは悪いと言ってるというのは、もう頭ごなしに言ったらどうやというようなことも考えてるんです。これはどうせまた学者から怒られるかもしれません。そんな統計で言うアホがあるか、もっと根本的に考えよって、根本的に考えたってわからんからやってるんで、そういうのを、どういう反応が来るか、ちょっと発表してみようかと思ってるんです」
また、河合氏は、ある週刊誌でも次のように述べています(『週刊・東洋経済』誌、02年12月29日・1月5日合併号)。
「私は、かつて『考える道徳』という言い方をよくしていた。頭ごなしに教える道徳でなく、皆で話し合って考える道徳教育である。ただ、最近では、それだけでは駄目で、『文句なしの道徳教育』も必要な気がしてきた。ところが、日本ではこのとき唯一の神を頼りにできない。そこで今、私は京都市であるアンケート調査を行っている。それは、多くの人がよい・悪いと思っている価値規範を上からでなく、下から示そうという試みである」
河合氏が、この発言をおこなったのは、『心のノート』が登場した年の12月のことです。つまり、『心のノート』を作成した頃、河合氏の道徳教育観は、「考える道徳教育」論から「文句なしの道徳教育」論へと大きく変貌していたわけです。そして、「文句なしの道徳教育」の中身や内容を決めるのに、「『お上』から言えば反発が起きるので、アンケート」にし、「多くの人がよい・悪いと思っている価値規範を上からでなく、下から示そう」と試みた、というわけです。
河合氏は、「多くの人がよい・悪いと思っている価値規範」と言っていますが、これは「理屈ぬきで悪い価値規範」「理屈抜きで良い価値規範」のことであり、河合氏は、それらを「頭ごなしの道徳」「文句なしの道徳」といっているのです。
なお、「シナヤカな道徳教育」では、「道徳教育を2つの視点」で捉えていますが(『京都発・道徳』145頁)、これは河合氏が主張する「文句なしの道徳教育」と「考える道徳教育」のことを指してしています。「京都市道徳教育振興市民会議」が提唱する「守るべきものをきちんと教え、伝えていく道徳教育」とは、河合氏が重視する「文句なしの道徳教育」のことです。
また、「京都市道徳教育振興市民会議」が提唱する「共に考え、はぐくんでいく道徳教育」とは、河合氏が重視する「考える道徳教育」のことなのです。「京都市道徳教育振興市民会議」は、道徳教育についての「新たな理論を構築し統一していくことを目指すものではありません」としていますが(『京都発・道徳』144頁)、同会議が進めているのは、明らかに河合隼雄理論に基づく道徳教育であり、そうした方向に道徳教育を統一しようとしているのです。
ところで、河合隼雄氏は、宗教学者の山折哲雄氏(国際日本文化研究センター所長)と、「豊かな時代の道徳観を構築しよう」というテーマで対談をおこなっています。この2人が対談をおこなったのは、『松下幸之助研究』という雑誌においてであり(02年秋季号)、しかも、「精神大国への道を」という特集においてでした(「精神大国」という言葉は、松下幸之助が1971年に提言したもので、その内容は、河合隼雄氏の「豊かな時代の心」論と同じものです)。そして、この対談においても、河合氏は、京都市の道徳教育アンケートのことに言及した上で、「頭ごなしの道徳」にふれています。
「今、僕は、個人がいろいろいっていることをまとめ高めて、公の力になるようにしたらどうかと思っているのです。だから、今、一万人のアンケートをしています。それで調査をして99%の人が正しいというのがあれば、これは一つの強い支えになります。そうすればみんなでやろうという気持ちが出てくるんではないかと。それを今すごく念願しているんです」
このように、河合隼雄氏は、個々人の多様な価値観を「まとめ高めて、公の力に」するために、京都市の1万人アンケートを行った、と述べていたのです。つまり、アンケート調査を通じて、個々人の多様な価値観の中の、共通傾向を抽出しまとめ、それを公権力が使える形にしようとしていたわけです。そして、河合氏が期待していた数字が、「99%、98%、95%」など、「90%以上の支持」だったことも、これらの発言からはっきりします。もともと、このアンケートで質問事項に選ばれた項目じたい、特定の価値観への誘導を含むものになっており、「個々人の多様な価値観」を否定する傾向をもっていました。これは、河合氏本人も認めているように、たいへん「ずるい」やり方なのです。こうした狡猾(こうかつ)な方法も使いながら、河合隼雄氏は、アンケート上の多数決で道徳的規範を決め束ねて、それを「公の力」にし、〈精神大国への道を〉歩もうとしているわけです。
教育行政権力を含め、市の公的権力が推進していく「文句なしの道徳」を決定し、まとめ上げるために、道徳教育アンケート調査を行い、それを「強い支え」にしようとしていたわけです。そして、その結果、結論に基づき、学校、家庭、地域全体で、京都市の道徳教育振興キャンペーンを展開しようとしているのです。アンケートの調査結果は、「90%台」を基準にすることなく、「80%」の支持を基準に分析しており、「道徳教育振興市民会議副座長」の牛尾誠三氏は、「大人も子どもも意識肯定率が80%以上の項目」「大人の意識肯定率は80%以上であるが、子どもの意識肯定率が50%以上80%未満の項目」「大人も子どもも、意識肯定率が80%未満の項目」の3グループに分類し、対策を立てています(『京都発・道徳』24頁)。子どもと大人の道徳意識状況を、公権力が分析し、道徳教育振興の対策を立てているのは、たいへん異常なことではないでしょうか。
(3)「シナヤカな道徳教育」の内容と方法の問題点
①「欠落した道徳性の回復」と「グローバル化時代に求められる道徳的な修養」
「河合隼雄発・シナヤカな道徳教育」が前提にしているのは、中央教育審議会などと同じ子ども観や大人観です。「いじめ、不登校、社会モラルの低下、学力低下、学級崩壊、イライラする子ども、キレる子ども、大人の想像を超える少年犯罪」などなど(『京都発・道徳』51頁)、「京都市道徳教育振興市民会議」は、道徳性が欠落している子ども達の実態を一面的に強調しています。そして「道徳教育振興市民会議」座長の小寺正一氏は、「今の子ども達は生きている目的がぼんやりしすぎている」等と〈今の子ども駄目論〉を繰り返しています(京都市教育委員会地域教育専門主事室編『京都発・地域教育のすすめ』ミネルヴァ書房、05年8月25日刊、120頁)。
同時に小寺正一氏は、中教審「心の教育」答申の答申副題に書かれている、「次代を育てる心を失う危機」意識にもふれています(『京都発・道徳』8頁)。このように、子ども達の道徳性の欠如、そして子どもの心を育てるべき親や大人が、次代の子ども達を育てていく心を失いかねない事態なるものに危機感を強めているわけです(今の大人駄目論)。
そして「道徳教育振興市民会議」は、「シナヤカな道徳教育」推進のために、①「はっきり」教える、伝える。②「しっかり」見せる、示す。③「じっくり」語り合い、考える、④「たっぷり」体験させ、共に活動する等の「どうトク?」アクションなるものを提唱しています(『京都発・道徳』145~6頁)。河合隼雄氏を指南役として〈京都市の大人達は、子ども達に対する道徳指導を強化すべき〉と提言し、特定の道徳的風土をつくろうとしているわけです。
河合隼雄氏らが進めている「シナヤカな道徳教育」では、グローバル化時代に求められる道徳教育も強調しています。河合氏は、「世界の情勢が急激に変化していくなかで、それに対応しつつしっかりと生きていくためには、相当の道徳的な考えを身につけていかなければなりません」とし、「道徳教育ということはグローバリゼーションの波の高い今日において、非常に重要になってきます」と力説しています(『京都発・道徳』7頁)。つまり、グローバル化時代に日本が勝利するために〈精神大国への道を歩む必要がある〉ということなのでしょう。河合隼雄氏と「京都市道徳教育振興市民会議」が提唱している「シナヤカな道徳教育」の真意は、次のような考え(人材育成論)だと思います。
〈大競争時代においては、激しい変化に対して、日本人が柔軟性をもって対応しなければ、その時点で日本は国際競争に負けてしまうので、「固くてもろい」道徳は「役に立たない」。かといって、競争相手に、日本人が“人間的な弱さ”をみせてしまえば、その瞬間、日本は競争に負けることになってしまうので、「柔らかく弱い」道徳でも「駄目なので」ある。大競争時代に日本が勝利するために、変化に対して柔軟に対応でき、しかも、“たくましい人間”でありつづける「相当の道徳的な考え」を身につけていかなければならない。つまり、大競争時代に日本が勝利するために、柔軟であるが芯はしっかりして決して折れない「しなやかな道徳観」を身に付けたエリートと“日本人らしい日本人”を育成していくことが、どうしても必要なのである〉(下線部の言葉は、『京都発・道徳』7頁からの引用)。
「河合隼雄発・シナヤカな道徳」論のポイントは、〈グローバリゼーションの波の高い今日において、柔軟であるけれども、芯はしっかりして決して折れない、という両面作戦が必要である〉という点にあるのです。例えば河合氏は、ある対談集の「あとがき」で次のように書いています。
「グローバリゼーションの波の高い状況のなかで、日本文化が発展していくためには、何らかの両面作戦が必要であると思った。他人の心を察する力を十分に持ちながらも、自分の意見を言うべきときには、きっぱりと言う。あるいは、西欧の文化を取り入れながら、日本人が保持してきたよさを失わない。いろいろと表現できるだろうが、そのような両面性をうまく生きてゆくことが、これからの日本人には必要なのである」(『河合隼雄の万博茶屋-しなやかウーマンと21世紀を語る』「対談を終えて」、中日新聞社。05年9月刊)
同じように、〈大競争時代の中で勝利するためには、柔軟であるけれども、芯はしっかりして決して折れないという「シナヤカな道徳観」が、これからの日本人には必要なのである〉というわけです。
こうした発想は、河合氏が座長を務めた「21世紀日本の構想」懇談会(小渕首相の私的諮問機関。以下「21世紀懇」と略)の考えにつながっています。 例えば、「21世紀懇」の最終報告には、次のような表現がでてきます(下線部は引用者)。
○「たくましく、しなやかな個が自らの意志で公的な場に参画し、それを押し広げることで、躍動的な公を作り上げていく」。
○「たくましく、しなやかな個々人が根付かない社会はもろい」。
○「自分の責任でリスクを負って、自分の目指すものに先駆的に挑戦する『たくましく、しなやかな個』」。
「21世紀懇」の最終報告に度々登場する「たくましく、しなやかな個人」というキーワードを見れば明らかですが、京都発の「シナヤカな道徳教育」は、「21世紀懇」の考えに基づいた「人づくり」にほかならないのです。「21世紀懇」の最終報告には、「一人一人のやる気と決断と倫理観」という表現や「富国有徳社会」という表現が登場しているものの、「グローバル化時代に対応するために、相当の道徳的な考えを身につけなければならない」というような表現そのものはありません。これには、少し複雑な事情があります。河合氏は、この事情にかかわって、以下のように発言していますので、紹介しておきましょう。
「道徳、宗教の問題が日本の将来に大事だというのは、実は『21世紀日本の構想』懇談会でずいぶん話題になったんです。で、僕もこういうことを考えていますし、みんなも21世紀の非常に大きな問題だと考えている。しかし、それでも(道徳や宗教のことは最終報告に)書けないということになったんです。なぜかと言えば、政府の命令で言うと、みんな言うことを聞かない。総理大臣が『日本人にとって宗教は大切だ』とか、『こういう道徳律を守りましょう』と言ったら、新聞記者は全部、反対を書くと思う。だから、これは政府に対する答申であるから、宗教と倫理の問題は書かないでおこうということになったんです。僕は、すでに書いていたんですがやめたんです」(河合氏と山折氏との対談「豊かな時代の道徳観を構築しよう」)
この発言にあるように、河合氏は、「21世紀懇」の最終報告に書き込む予定になっていた「宗教と倫理の問題」について書いていたものの、上記のような理由で最終報告には書き込まなかったわけです。一方、「京都市道徳教育振興市民会議」の場合は、「政府に対する答申」ではありませんから、河合氏は、道徳教育のことを縦横に語ったり、書いたりすることができるわけです。
そして、『京都発・道徳』の中で、河合氏は、「世界情勢の急激な変化」に対応するために、「相当の道徳的な考えを身につけていかなければならない」という考えを強調し、具体的に「こういう道徳律を守りましょう」と繰り返しているのです。
②「グローバル化時代の修身」という批判に、回答不能の河合隼雄氏。
河合隼雄氏は、鼎談「なぜ、いま道徳なのか」の中で、「世の中には確かに、昔の修身教育の復活を唱える人がいます。しかし、われわれは、そんなことを望んでいるわけではありません」と述べています(『京都発・道徳』31頁)。 河合氏は、「昔の修身教育の復活には反対」という見地をたびたび表明し、〈「昔の修身復活に反対」の河合隼雄〉というイメージを打ち出しています。しかし、そうした河合隼雄氏の道徳観にも、問題点があるように思われるのです。
1928年生まれの河合隼雄氏は、児童期や思春期に修身教育を受けている人間であり、河合隼雄氏自身の「心の深層」には、青少年の時期にうけた修身教育の影響や痕跡が深く刻まれているはずです。そして、河合氏は、深層心理学者ですから、自らの「心の深層」のこともよく知っているのです。つまり、深層心理学者の河合隼雄氏の眼には、道徳教材『心のノート』における、修身教育の反映や継承の側面、修身教育との類似性の側面も写っているはずなのです。しかし、そうした問題点には触れようとしていません。また、河合隼雄氏が作成した『心のノート』に対して、「グローバル化時代の修身」という批判(高橋哲哉氏)や「現代版の修身教科書」という批判もだされていますが、こうした批判に対して、河合隼雄氏は、直接的な回答を避けているのです。
河合氏は、先の鼎談の中で「道徳には様々な誤解や偏見がつきまとっています」とし、「価値を押し付けるなという人がいるかと思うと昔の修身教育を復活させようと唱える人もいる。『生きる力』は各自が身に付けるもので、教えられるものではないと主張する人もいる」等と述べ、これら3つの立場を批判しています(『京都発・道徳』32頁)。河合氏の立場は、「昔の修身教育を復活させようと唱える人」とは異なるものですが、〈グローバル化時代における修身〉をすすめる立場なのです。
すなわち、大競争時代に日本が勝つために、一人一人が「自分の心と行いをおさめ、ただすこと」(#)を重視する見地なのです。
(#;「修身」の本来の意味)。そして、河合氏の立場は、「価値を押し付けてもよい」という立場なのであり、子ども達一人一人の「生きる力」を、国家(文科省)や教育行政権力(教育委員会)が直接的に支援し、教え導いてもよいという立場なのです。
③「学校、家庭、地域社会の連携」と「シナヤカな道徳教育」
河合氏は、鼎談の中で次のようにも発言しています。
「(道徳のなかには)簡単に教えられない部分もあり、子どもが自分で学び取るのを待つしかない部分もあります。けれども、だからといって、道徳教育が不要だということにはならないし、教えなくても自然に身につくというのは、いまや幻想に過ぎません」(『京都発・道徳』33頁)
この発言を読んで、以前の河合氏の考えから、大きく変貌している、という印象をうけました。例えば、河合氏は、1995年に刊行した著作の中で「道徳の本質的な部分は教えられない」と書いています(『臨床教育学入門』岩波書店)。しかし、それを「道徳のなかには、簡単に教えられない部分もある」という言い方に後退させています。また、河合氏は、97年頃ですが、「心の教育ということで大人が何かやろうとする発想をやめなければならない」という趣旨の発言をしていました(河合・安野対談集『人が、ついとらわれる心の錯覚』講談社文庫)。つまり、「子どもの心」について、「教える」のでも「育てる」のでもなく、「心は育つ」という観点の重要性を強調していたのです。そうした「心は育つ」論を重視していた河合氏が、「教えなくても自然に身につくというのは、いまや幻想に過ぎない」と述べ、「心は育つ」論を完全否定していることです。これは、「子どもが、モラルを自然に身につけていくような環境をつくることは、もはや不可能である」という考えのようですが、「京都市道徳教育振興市民会議」のキャンペーンをみていると、子どもが学校で学ぶ学校道徳も、地域社会で学ぶ市民道徳も、さらに子どもが家庭で学ぶ家庭道徳も、すべて河合隼雄氏流の「シナヤカ道徳」であり、一部の市民による「市民ぐるみ」「地域ぐるみ」の取り組みを通じて、河合隼雄色の「シナヤカ道徳」で、学校・家庭・地域全体を染め上げようとしているように感じられるのです。実際、京都市の門川教育長は「市民会議や人づくり21世紀委員会、さらに開かれた学校づくりなど、この間の市民ぐるみの取り組みがあいまって、学校や地域に着実に浸透しつつある」と発言しています(『京都発・道徳』40頁)。
しかし、こうした取り組みによって、京都市の子ども達から子ども時代を奪ってしまうことにならないでしょうか。
そして子どもの心を学校・家庭・地域全体で、さらに追い詰めていく危険性にも、注意しておかなければならないのではないでしょうか。
「京都市道徳教育振興市民会議」の母体になった「京都市・人づくり21世紀委員会」は、京都市少年補導委員会や京都経済同友会、京都府モラロジー協議会をはじめ、93の団体で作られています。そして、この「人づくり21世紀委員会」の代表も河合隼雄氏が務めています。河合隼雄氏は、「京都市・人づくり21世紀委員会」が主催した「地域教育フォーラムイン京都」における講演の中で、「21世紀懇」の考えを紹介し、解説しています(前掲『京都発・地域教育のすすめ』)。河合氏によれば、「個の確立と公(おおやけ)の創出」という「21世紀懇」の考えは、「『個』を超えたつながりとして『公』を創っていくこと」を大切にする点にあり、この場合の「公」とは、お上やお役所のことではなく、「地域もそうした公の一つ」である、ということです。
わかりやすくいえば、「21世紀懇」の考えは、〈お上やお役所からの細かな指示や明確な指導がなくても、お上やお役所が期待する方向で、個々人あるいは諸団体が自主的・主体的に動き、「地域」や「国家」という「公」を創造していくことが大切である〉というものなのです。つまり、「京都市・人づくり21世紀委員会」や「京都市道徳教育振興市民会議」は、「21世紀懇」の考えを具体化した組織なのであり、取り組みなのです。ですから、この組織は、教職員組合や女性運動の団体、あるいは教育運動にかかわる団体を、はじめから排除しているのです。そして、お上やお役所が期待する方向で運動をすすめる〈特定の諸団体や個々人〉が、「市民主導・市民ぐるみ」と言いながら、「シナヤカな道徳教育」なるものを進め、〈河合隼雄色の道徳的風土〉をつくろうとしているのです。
こうした方式は、「心の東京革命」を進める石原都政や青少年健全育成事業として「ココロ根っこ運動」を展開している長崎県などと類似した動きといえるのです。
そして、「京都市・人づくり21世紀委員会」や「京都市道徳教育振興市民会議の活動は、「学校、家庭、地域の連携協力」という条項を、改定後の教育基本法に入れようとしている流れを先取りする動きなのです(与党教育基本法改正の「中間報告」)。
(4)「京都市の教育改革」
と「道徳教育振興キャンペーン」
--「競争教育」を激化させる教育改革と「道徳教育」の振興
京都市教育委員会は、「市民参加の教育改革」の一つに「市民ぐるみで道徳性豊かな子どもの育成」を位置づけ、以下のような2つの柱を示しています(市教委のホームページ)。
①身近な体験活動を中心に「心をたがやす教育」や京都市独自に作成した読み物教材「夢いっぱい」、『心のノート』などを活用し、道徳の授業の充実に取り組んでいます。
②「道徳教育振興市民会議」(平成13年発足)において、2万人を超える市民アンケートや市民の意見をもとに、活発な論議を経て提言がまとめられ、京都から「しなやかな道徳教育」を発信します。
今回の刊行物『京都発・道徳』は、上記の2つの柱のうち第二の視点に基づくものであり、『心のノート』の活用を強調する章を設けているわけではありません。しかし、市教委の道徳教育方針では、『心のノート』を大変重視しているのです。「道徳教育振興市民会議」の取り組みは、河合隼雄・京都市教育委員会名誉専門委員を指南役にした大人達(保護者や地域住民、教員)による道徳指導の徹底です。一方、主に学校の教師と子ども自身が活用していく『心のノート』は、河合隼雄氏と文科省が直接「道徳の先生」になった道徳学習の国定教材です。そして『心のノート』編集委員が指摘しているように、「『心のノート』がこれまでの教科書と異なる点の一つは、保護者や地域住民が子どもと共に使うことを前提としている」点にあり、『心のノート』は「学校教育の占有物であった教科書とはその点で決定的に異なる」教材です(千葉大学の上杉賢士教授の論文「家庭、地域社会と学校を結ぶ『心のノート』」、『子どもの道徳』誌78号、光文書院)。ですから、これら2つの取り組みは、合流していくことになっているのです。実際、京都市教育委員会が地域教育専門主事室までつくり、重視している「地域教育フォーラム」の中で、文科省教科調査官として『心のノート』を編集担当した柴原弘志氏と永田繁雄氏が指導助言者を務めており、同フォーラムの分科会の中で、両名とも、『心のノート』の活用を強調しているのです(前掲『京都発・地域教育のすすめ』)。
京都市教育委員会は、「京都市道徳教育振興市民会議」なるものまで立ち上げ、「シナヤカな道徳教育振興」のキャンペーンを進め、『心のノート』事業も推進しています。その一方で、京都市教育委員会は、特色ある学校づくりや小中一貫教育の実施、超エリートを育成する市立高校の創設などなど、「全国に誇る『教育の先進都市』」として競争教育を激化させる教育政策を急テンポで推進しています。京都市教育委員会が、この間すすめている競争教育の激化とは、以下のような諸政策にみられるものです。
○京大・東大への現役合格者が公立高校で全国トップの市立高校の出現。
○「スーパーサイエンス」(文科省)の指定をうけた高度な理数系教育。
○「教育特区」制度に基づく小中一貫教育の推進、小学校での「英語科」。
○小中学生全員を対象にした「学力調査」テストの実施。
○民間企業のような「学校評価システム」の導入と徹底。
こうした競争教育の激化と成果主義の中で、「京都では子どもを品質管理する学校も」と報道されています。教員が、品質管理のような評価表で子ども達をチェックする学校も生まれているのです(『週刊金曜日』554号、木附千晶論文)。「京都市の教育改革」は、競争教育を激化させる改革であり、子ども達の心にストレスや不満が蓄積していくシステムへの改革になっています。
こうした中で京都市は、グローバル化時代を乗りきるエリート達に高い道徳心を身につけさせるとともに、落ちこぼれた子ども達が反抗したりしないように、ノンエリートの子ども達がストレスや不満を暴発させないように、道徳教育を強化しようしているのではないでしょうか。
「京都市道徳教育振興市民会議」の人々には、実際の子ども達の生きづらさや悲しみなどに心を寄せるような姿勢がありません。そして、今回の刊行物『京都発・道徳』では、「京都市の教育改革」の問題点を完全に隠蔽しています。「京都市の教育改革」の下で、辛い思いをしている子ども達の声が、今回の刊行物『京都発・道徳』には、全く登場していないのです。ですから、「京都発・シナヤカな道徳教育」を批判するために、「京都市の教育改革」の問題点も批判的にみておく必要があるのではないでしょうか。
『京都発・道徳』の「まえがき」で、河合隼雄氏は「子ども達の可能性を信じて、しなやかな道徳教育をすすめていきたい」等と書いています。しかし、河合隼雄氏が、京都市において「頭ごなしの道徳教育」「文句なしの道徳教育」を推進し、「たくましい日本人づくり」を目論んでいる事など、都合の悪い実態や側面を隠しながら「道徳教育」について語っている問題をうやむやにすることはできないのです。
(5)「21世紀懇」最終報告に基づく「望ましい日本人づくり」
河合隼雄氏が座長を務めた「21世紀懇」は、グローバル化した「21世紀における日本のあるべき姿」を検討し、2000年1月に最終報告をまとめた組織で、内閣の私的諮問機関です。この最終報告は、「一内閣を超えた大胆な中長期ビジョン」と位置づけられたものであり、現在も、そのビジョンの具体化が継続しています。例えば、外交や国際貢献についての展望にかかわって、「21世紀懇」は最終報告の中で、「日本が国際安全保障上の共同行動に参画することも原理的に肯定されねばならない」とし、「日本は国際安全保障のための軍事活動への参加について徐々に政策方針や原則を形成していかねばならない」としています。そして、「戦争放棄」(憲法9条)の継承・発展ではなく、「安全保障」や「集団的自衛権問題」での「国民的議論」重視の提言を、次のような文章で明記しています。
「もし我々が秩序と正義を愛する国際コミュニティの一員であるなら、安全保障の国際的共同対処からの無責任な一般的逃亡を、21世紀の日本人に要求してはならないのではなかろうか。この面でも、憲法の問題や集団的自衛権の問題を含め、安全保障についての国民的議論が必要である」
これは、今を生きる子ども達が若者に成長した際に、日本の若者達が「国際安全保障のための軍事活動」に積極的に参画していく道を閉ざしてはならない、という提言にほかなりません。「21世紀懇」の河合隼雄座長は、こうした「日本人の未来」についても考えている人物なのです。そして、河合隼雄氏が作成した『心のノート』小学校5、6年生用には、「わたしも立派な国際人」と自覚させるページがあり、子どもの人格を宇宙船とだぶらせながら、「宇宙船地球号、発進せよ!」と命令的なメッセージを発信しているページも置かれており、子ども達の心を「国際貢献」や「国際的共同対処行動」の方向に誘っているのです。
「21世紀懇」最終報告の「まえがき」には、「ここには21世紀に向かう日本が備えるべき新しい理念や組織、15年から20年後に到達することが望まれる日本人の姿、および、それに至る道筋が述べられている」と書かれています。「望まれる日本人の姿」を討議した「21世紀懇」の河合隼雄座長は、その後、「京都市道徳教育振興市民会議」と『心のノート』作成協力者会議の座長に就任し、「望ましい日本人づくり」を開始しているのです。
「京都市道徳教育振興市民会議」の取り組みに異議を申し立てる人々を暴力的に排除したのも、「京都市道徳教育振興市民会議」の取り組みが〈国家的な人づくり戦略〉とかかわっているからです。「京都市道徳教育振興市民会議」の動きや『心のノート』事業の問題は、子ども達一人一人の「生き方」や「良心」を、国家や教育行政権力が直接的に指導・支援し、水路づけようとする危うい動きであり、憲法改定や教育基本法改定と連動した大問題です。
京都の人々のたたかいにも学びつつ、「河合隼雄発・シナヤカな道徳教育」と『心のノート』への批判を強めていくことが重要になっています。